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ある日教室へ入ると、いじめっ子たちが真っ白い体操着を抱えていた。それは数日前にたまたま機嫌の良かった母親が気まぐれで買ってくれた僕の新品の体操着だった。前日の体育の授業で使って、持ち帰るのをうっかり忘れていた。完全に自分のミスだった。
無我夢中でいじめっ子たちに向かっていった。汚したら替えが無い。何て言われるかわからない。それよりも母親が買い与えてくれた数少ない物の内の一つなのに。渾身の力で掴みかかっても多勢に無勢で、数人のクラスメイトに抑え込まれてうつ伏せの状態で体操着に油性ペンで落書きされるのを見ているしかなかった。涙と鼻水が垂れる。それを笑う声が頭の中で鳴り響く。手を伸ばすと蹴られる。手の甲を踏みつけられる。担任の教師が教室に入ってくるまで暴行は止まなくて、教師は
「席に着きなさい」
と一言注意するだけだった。
あちこちが痛んで自分の机まで歩くことさえ辛くて、倒れこむように椅子に座りこんだら尻に激しい痛みを感じた。声を上げることもできずに飛び上がって床に転がった僕を見て、いじめっ子たちが大笑いした。他のクラスメイトたちはこそこそと声を押し殺して笑っている。身体を起こして椅子を見ると、座面に無数を画鋲がテープで張り付けられていた。カンカンカンカン。踏切の警音が聞こえた。
「席に着きなさい」
教師の声がする。カンカンカンカン。クラスメイトたちが嘲笑する。カンカンカンカン。全ての音が警音に搔き消された。それと同時に痛む身体を引きずって、だけど出来うる限りのスピードで教室を飛び出していた。
やっとの思いであの踏切まで辿り着く。花束は無い。真ん中に立ち尽くして、目を閉じた。深く息を吸って吐いて、目を開ける。すぐそこの人の気配のないシャッターの下りた古い商店の前に公衆電話があった。文則の番号はもう暗記していたけれど、お金は全てランドセルの中に入ったまま、学校に置いてきてしまっていた。
だけど僕は誘われるように電話に近づいて行った。そしてあれは、もう奇跡だったとしか思えないけれど、つり銭口のところに十円玉が一枚残っているのを見つけたのだ。
震える指でボタンを一つ一つ押していく。発信音が鳴る。一回。二回。三回。四回。五回。受話器を置こうとした瞬間、
「アキ?」
と耳元で声がした。
「フミノリ、僕、もう学校に行きたくないし、家にも帰りたくないよ」
「どこにいる?」
カンカンカンカン。背後で警音が鳴ってフミノリの声が聞こえなくなる。電車が通り抜けるころには、無機質なプープーという音だけが残っていた。
それ以上もうどこへも行く気力も宛ても無くて、その場に蹲ってひたすら鈍い痛みに耐えていた。
「アキ!」
身体を強く揺さぶられて目を開けて、初めて自分が眠っていたことを知る。だけど頭の中に泥水が流れ込んだかのように思考が重たい。
「アキナリ!」
瞬きを繰り返していると次第にぼんやりとした視界がはっきりとしてくる。フミノリが激しい目をしてこっちを見ていた。
「フミノリ……」
「おい、大丈夫か」
遠のいていた痛みが、フミノリが近くにいるということを認識した瞬間に鋭さを伴って戻って来た。僕はフミノリのシャツをぎゅっと握って、涙も声も込み上げてくるものをそのまま体の外に出した。
フミノリは僕を力いっぱい抱きしめて、背中をずっと擦っていてくれた。
「腹、減ってるだろ」
僕の混乱が収まった頃合いを見計らったかのようなタイミングで優しい声が降ってきて、黙って頷いた。いつものファミレスへ向かう道を手を繋いで歩く。その手の暖かさと握る力の強さに他の何にも代えがたい安心を覚えていた。
フミノリはいつものように好きなものを好きなだけ頼ませてくれて、自分はハンバーグとライスのセットを頼んだ。
「今日は何があったんだ?」
うどんを食べ終えたところで尋ねられた。空腹が満たされ身体が温まったこともあり、僕はだいぶ平常心を取り戻していた。
「……体操服に落書きされた」
「体操服?」
「お母さんが……、買ってくれたばっかりのやつ」
「お母さんが?」
頷いて肯定すると、フミノリは小さな声で
「そうか」
と呟いた。
「サイズはいくつだ?」
「え?」
「体操服」
「140だけど」
「わかった。買っとく。明日学校が終わってからまた会えるか?」
「うん。でも……」
「俺には遠慮すんなよ」
歯が見えるくらいにニカッと笑って見せた。学校の先生たちの言うことを信じて従うのならば、知らない大人であるフミノリに付いて行ったり口を聞いたりするべきではないのだろうと思う。だけど赤の他人であるフミノリより僕たちを正しい方向へ導いてくれるはずの教師たちのほうがよっぽど信用ならなかった。
「……ありがとう」
「気にすんな。ほら、他にも何か食いたいもん無いか」
スタンドに挟んでいたメニューを取り出して僕に差し出してくる。追加でポテトの盛り合わせを頼んだ。
「前からこういうことされとったのか? 持ち物にいたずらされたりとか……」
「うん」
「学校でいじめられとるんだよな? 先生たちには言ったか?」
「……言ってないけど、知ってると思う」
「先生たちは何しとんの?」
「何もしんよ」
「何もしんて?」
「見てないふりしとるだけ」
フミノリの口から重くて長い息が吐き出された。
「見てないふりって……」
運ばれてきたポテトの代わりに空になったうどんの器が下げられる。塩が効いたフライドポテトにたっぷりとケチャップを付けて口の中へ放り込んだ。
「いいか。アキナリ。よく聞いとけ」
フミノリが真正面から目をじっと見てきて、僕は少し緊張を覚えた。
「いじめてくる奴らはな、アキのことを自分より弱い奴だって思ってるからいじめてくるんだ。だから奴らより強いってところを見せれば、そいつらは怯む」
唾を飲み込んで頷く。
「いじめはな、百パーセントいじめてくる奴らが悪い。わかってるな? アキナリに悪いところは一つも無い! だけど勇気を持って立ち向かえば、周りの反応を変えられるかもしれん」
「なにをすればいいの?」
「力を見せつけてやるんだ」
「……どうやって」
「方法はアキナリが考えなくちゃいかん。俺はいじめっ子たちのことも、アキナリが実際にどんな目に遭ってるかも知らんからな。だけどこれだけは忘れんでほしい」
ポテトの皿に伸ばしかけて中途半端な位置で止めていた右手を両手で包み込まれた。
「俺は何があっても絶対にアキナリの味方だからな」
自分よりも体温の高い手のひらから熱とそれ以上のものが伝わってくる。皮膚から血管へと染み込んで全身へ巡っていく。真っ暗で冷え切っていた心の底に蝋燭の火のような、か細く揺らぐけれど確かに辺りを明るく照らすような光が灯った。




