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 いつから始まったのだったか、正確には覚えていないけれど、とにかく父親に関する記憶は昼間から酒を飲んでは暴れているところしかない。母親が父親に暴力を振るわれているのを見ていた気がする。もしかしたら彼女は僕が見ていないところでそれ以上に酷い仕打ちを受けていたのかもしれない。父親は僕にも手を挙げた。


だから父親が突然死んだと聞いたとき、ほっとしたことを覚えている。これでもう母親も僕も虐げられることは無くなるのだと。


だけどそのときには既に母親の心はボロボロになっていた。彼女は父親がいなくなるとすぐに、生前の彼が乗り移ったかのようになった。


それまでそんな姿を見たこともなかったのに急に酒を飲むようになり、いつになっても仕事を始める気配もなかった。


当時僕は小学三年生で、母親の庇護が無ければ生きていくことさえままならない子どもだった。学校で必要な教材だったり道具だったりを用意してもらえないことが一番辛かった。強請れば鉄拳が飛んできたし、だけど身体は小さいなりに成長していくから、衣類や靴は同じものを使い続けるわけにもいかなかった。


洗濯もしてもらえず、新しい服を買ってもらうこともできなかった僕はいつも薄汚れていた。同級生たちからは好奇と嫌悪を持って見られたし、彼らの保護者達は自分の子どもたちが仄暗い事情を抱えた家庭の子と関わることを避けたがった。


そうして僕はすぐに子供たちの嗜虐の対象となった。


仲間はずれに始まり、こそこそと陰口を叩かれたり、教科書やノートに落書きをされたり、靴を隠されたりしていた。だけど当時のことははっきりとは覚えていない。


こんなことがあったという事実と辛かったという記憶はあるのだけれど、どこかぼやけていて出来事と感情がいまいちリンクしないのだ。


ただその頃、授業が終わっても暴力を振るう母親がいる家に帰りたくなくて、学校の図書館に通っていた。本よりも新聞を読んでいて、なかでも人が死んだというニュースにどうしようもなく惹かれて、事件や事故の記事ばかりを読み漁っていた。そうすると何故か安心したのだった。


 そして小学五年生の秋、いつものように夕暮れ時の図書室で新聞を捲っていると、近所の踏切で自動車と電車が衝突する事故があり、車の運転手が死亡したことを知った。学校から事故現場までは小学生の足でも歩いて行ける距離だった。


その新聞をラックに戻したのかどうかは覚えていなくて、気が付いたら踏切の前に立っていた。目の前でゆっくり遮断機が下りて、どこか遠くで警音が鳴っていた。視界の端で花束が置かれているのを捉えて、心臓が高鳴った。


十一歳の僕が、明確に自殺の意思を持っていたのかはわからない。


地面と水平になった遮断機の下を潜り抜けようとした。その先に救いがあるように思えたのかもしれない。後ほんの少しで痛みや恐怖から解放される。そう思うと今までずっと重たかった身体が急に軽くなるような気がした。羽のようになって舞い上がる直前、手首を掴まれた。地上に、生に、縫い付けられた。

すぐそばを電車が通り抜けていって轟音と突風が僕の身体を突き飛ばした。細くて軽い身体はふらふらと、腕を引いた男の人の胸のなかに収まった。


彼は怒鳴ることも殴ることもなく、ただただ渾身の力で僕のことを抱きしめた。自由よりももっと欲しかったものが、そこにはあるような気がした。


彼はそのまま近くのファミレスに連れて行ってくれて、好きなものを何でも食べさせてくれた。給食をクラスメイトに奪われていた僕は空腹に負けて、知らないおじさんを疑うことすら忘れてラーメンもハンバーグもパフェまでも食べた。


彼は自分が注文したパスタを食べることも忘れたかのように、ただただ僕のことを見つめていた。お腹が満たされたことでようやく冷静に自分の状況を見られるようになった僕は、途端に知らないおじさんと二人でいることに対して気まずさのようなものを感じた。


「……食べないの」


僕がそう声を掛けると、おじさんは我に返ったように疲れた微笑みを浮かべてフォークでくるくると麺を巻いて食べ始めた。だけどすぐに手が止まって、気が付くと僕のほうをじっと見ていた。


「これも食べるか?」


おじさんに聞かれて僕は首を横に振った。さすがに満腹を覚えていたからだ。


「そうか」


と呟いた彼はそれ以上パスタに手を付けなかった。


僕はファミレスの窓から幹線道路を行き交う車の流れを見ていた。もう夜といって過不足ないほど辺りは暗くて、家に帰らなければいけないという現実が次第に近づいていることに気が付かないふりをしていた。


空になっていたグラスにメロンソーダをなみなみと注いで、おじさんは僕の目の前に置いた。


「きみはどうして線路に入ろうとしてたんだ?」


落ち着いた声音で質問されて、僕はあー、とかえー、とかことばにならない声を漏らした。どうして遮断機を潜り抜けようと思ったのだろう。線路内に侵入して、何かがしたかったわけではない。ただ呼ばれたから、誘われたから付いていったのかもしれない。その感覚を上手く説明することができなくて、黙った。


「俺は怒っているわけじゃないよ。……ただ何か辛いことでもあるなら、話してみ」


こんなに真っ直ぐに瞳を覗き込まれるなんて、初めての経験だった。母親や教師たちには感じない何かを、はっきりと覚えた。


だけど結局おじさんが


「そろそろお家の人たちも心配するといかんから、帰ろうか」


と言って伝票を手に取るまで、何も言えなかった。


「送ってこうか? 家、こっから近いの?」


僕は黙って頷いた。家に着いたらまた母親が待っていること、明日になれば学校へ行かなくてはならないこと、それらを思うと頭が痛くなって息苦しさを感じた。


古いアパートの下に着くと、おじさんはメモと一枚の千円札を渡してきた。


「それ俺の電話番号だから、いつでも掛けてこい。公衆電話の使い方ぐらいはわかるよな? 今の子って……」


僕は頷いた。


「それじゃあな」


去っていくおじさんの後姿が見えなくなるまで見送ったあとで、手のひらのメモを開いてみると、きたじまふみのり、という名前と携帯の番号が書かれていた。それからどこへ行くにもそのメモをお守り代わりに持ち歩くようになった。


どうしても家に帰りたくないときや空腹に耐えきれなくなったときには、おじさんに電話をした。彼はいつでも必ず駆けつけてくれて、ファミレスでたらふく食べさせてくれた。


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