九十話 二つの水筒
わたしは、あの病院で点滴を受けた日に彼が買って来てくれた、ピンク色のトレーナーを着ていた。
わたしは使いなれたキッチンに立ち…というか仁王立ちになっていた。
ケトルの注ぎ口から白い湯気が勢いよく噴き出すのを、しばらく見つめていた。
小さな流し台の上に使いなれた水筒のと同じ形をした色違いの真新しい水筒があった。
コンロの火を止める手に力が入ってしまう。
ホテルで倒れた日から、間もなく一年が経とうとしていた。
「足手まといにならないか…心配だけど…」
彼とは、恋人同士になれた…
でも、まだ体をゆるしあった仲ではなかった。
わたしの仕事に対する配慮からなのか…単に彼が意気地が無いのか…
体が萎れてしまう前に、肉体関係を築きたいとは思っていても、女のわたしから、積極的に話すのも、問題がありそうだった。
ただ、それ以外はそれなりに、順調でお互いのスケジュールが空いている前の晩は、どちらかの部屋に泊まりに来るようになっていた。
一週間ほど前、彼がわたしの部屋に泊まりに来たときは、わたしの方が彼の寝込みを襲いかけたほどだった。
彼は…賢者かそれとも、薔薇な人なのか?
彼は、『聡美さんを大切にしたいから…』と、事ある毎にいうようになっていた。
今さら、大事にされても、かなり色々と経験値豊富な体になってしまったわたしとしては、本当に、全く持って今さら、ではあるのだが、…まぁ、好きな人から大切に思われているのは、嬉しくはあるのだが…
肉体的に大切にされても、…それだけでは…わたしの心が満たされないという事に、彼は気づいていないようだった。
親友の早苗は、メールでたまに愚痴を寄越してくるが、時間があるときはママの喫茶店でデートみたいな事をしている。
早苗の大きくなったお腹を擦りながら、話しかけている姿を見るたびに、羨ましくなってしまう自分がいた。
「焦っては駄目なのはわかっているけど…」
一人呟きながら、計量スプーンでインスタントコーヒーの粉と砂糖を計り水筒の中にいれる。
今日はじめてわたしは彼の仕事に同行する事になっていた。
彼との間に何か新しい進展があることを期待しながら、わたしは水筒を二つバック入れようとして、手を止めた。




