七十六話 鍵
「……」
そっと体を彼に預けてみる。
「……」
少し彼の歩くスピードが速くなる。
そんなに私と寝たいのだろうか?
ちょっと…悪戯な言葉を言ってみる。
「そんなに急がなくたって部屋は逃げないわよ」
すると彼の足がピタリと止まった。
「ちょっと…いいですか?」
彼は静かに私に声をかけた。
さっきの一言は余計だったかしら?
何かあったとしても、すでにここはホテルの中だし一応の覚悟は出来ているけど…部屋にたどり着く前だと、その意味も違ってくる。
期待と期待と期待と…微かな不安が私の心のなかを駆け抜けた。
「は い…?」
「は」と「い」を喉の奥から無理やり引っ張り出すように発音した。
「緊張してます…」
「そんな風に…」
「やっぱり…見えますよね…」
「えっ?あっ?あの」
「正直ドキドキしてて…」
「あっ、あの」
「喉…渇きません?」
そう言って、彼は私の顔の更に奥の方を見ている。
私もつられて、後ろを振り返り眼をやった。
廊下の角に自動販売機が二台並んでいた。
「あの…」
「何か買いませんか?」
彼はそう言って自販機のほうに歩き始めた。
千円札を黒革の長財布から取りだす、カタカタと小さな音をたてて紙幣が吸い込まれ、パッとボタンが赤色に光る。
彼は炭酸水を買う。
「何にします?」
そう声をかけられ、ミネラルウォーターを奢ってもらう。
「鍵…」
彼がそう言いかけて、無言になる。
私は先程預かった部屋の鍵を彼に見せた。
「やっぱり、それは僕が…いや、アーサさんそのまま持ってて…」
「どっちが持っていても同じじゃない?」
何の気なしにそんな事を言ってみたのだけど、どうも様子がおかしかった。




