五話 ワゴンを押す手
「先輩、用意できました」
「ありがとう」
木製のワゴンの上に出来立ての料理が並んでいる。
私は頭の中で静かにウエイトレスの文字を想像する。
その言葉を今度はゆっくりとへその上の辺りで描くようにイメージをして、それを体の隅々に送る。
ゆっくりと眼を閉じて、暗闇の世界を見る。
自分の立つ位置を確かめるように足の爪先から踵に重心を移動する。
眼を開きしっかりと前を見る。
誰から教えられたわけではない。
自分が此処に居るんだと、自分自身で確認するように、いつの間にか始めたことだった。
演じる時は自分に言い聞かせながら、一人の時は、励ましながら…
「先輩…?」
「なに?何か顔に着いてる?」
「何だか…雰囲気が違う」
「そうかしら?じゃ、借りるわね」
そう言って、ワゴンを押し出した私の肩に早苗の手が触れる。
「先輩…それ違います」
唐突にかけられた彼女の言葉に私は立ち止まり、振り返った。
「違う?まぁ、そうよね無理言ってゴメン…」
「違うんです…先輩…今は何時もの先輩の方が素敵です」
「へっ?」
気の抜けた言葉と共に魔法の解けて素の自分に戻っていた。
「そう…そんな感じが素敵です」
「このままって事?」
「はい」
「何でよ…折角大空あさみで…」
「それが良くないと、思うんです」
「そう?」
「そうです」
早苗にはそう言われたけれど、大空あさみでない自分なんて、普通の女でしかない。
ワゴンを持つ手が微かに震える。
「早苗…私の事、遊んでる?それとも罠にでも嵌める気?」
「さぁ?どうでしょう」
「この!」
と言いかけて、早苗の手が私の手を優しく包んでいる事に気づいた。
「早苗?」
不思議と手の震えが止まっていた。
「料理が冷めてしまいますよ、先輩、普通にしてたら、きっと、大丈夫ですから」
そう言って彼女はもう片方の手で私の背中を軽く押した。
私はゆっくりと彼の居る席に向かって歩き出した。




