第4話 炊き出し
お話ごとの登場人物
・フローラ ヴィスコンティ子爵令嬢。
・フェルディナン アルセリア王国第二王子。王族聖職者。
その日は、グレイム教会の炊き出しの日だった。
開かれた食堂には、貧民たちが列をなしている。
列を整える修道士。配膳をする司祭や助祭。
労せず食事にありつける炊き出しは毎度賑わいを見せているが、今日はいつも以上だった。
――王族聖職者、フェルディナン殿下がいらしている。
訪れた人々の口伝てが、貧民地区に住まう人々を次々と教会へ呼び寄せていた。
食堂の奥にある厨房では、修道女たちが野菜を切り分け、豆と野菜のスープを作っている。
その中に、エプロンと三角巾を身につけたフローラの姿もあった。
フローラは修道女たちに混ざり、炊き出しで繰り返し使うお椀やスプーンを洗っていた。
人手が足りないため、今日は侍女にもパンを切ってもらっている。
子爵邸には、水属性の生活魔法を使ってすぐに皿洗いを済ませてくれる使用人がいる。
しかし、グレイム教会にはそのような人員はいない。
水を使った洗浄はできても、すべての作業を魔法で済ませられるほどの余裕はなかった。
何より、洗い物を続けていれば手が冷たくなる。
そのため、食事を担当する修道女とフローラが交代で洗い物をしていた。
ある程度、お椀とスプーンが山になれば回収される。
そしてすぐに、新たな使用済みのお椀とスプーンが運ばれてくる。
きりがなかった。
「殿下がいらっしゃると、やはり訪れる方が多いわ」
「天の遣いとは、あの方のことを指すのでしょうね」
野菜を切っていた修道女が、手を止めることなく口を開いた。
スープを煮込んでいた修道女も、それに続く。
「オーウェンさんなんて、殿下のお姿を施療院でご覧になったあと、あっという間に回復したそうよ」
「ドリス婆さんなんて、握手してもらった手を洗わないって言っていたわ」
口を動かしながらも、手は止まらない。
困窮に喘ぐ人々にとって、束の間の癒しの時間になるのであれば、この忙しさも苦ではなかった。
「フローラ様、洗い物代わりますね」
「ありがとうございます」
野菜を切っていた修道女と持ち場を交代する。
フローラはまな板に向かうと、配膳の際に喧嘩にならないよう、野菜を同じ大きさに切り分けていく。
その包丁さばきに迷いはない。
「フローラ様は、本当に手際がいいですね」
「そうですか?」
「初めていらしたときから、呑み込みが早かったもの」
「包帯も包丁の扱いも、他のご令嬢より器用です」
グレイム教会へ慈善活動に訪れる貴族は、ヴィスコンティ子爵家だけではない。
猫の手も借りたいほど人手不足の教会にとって、奉仕活動をしてくれる貴族はありがたい存在だった。
ただし、相手によって任せられる仕事はかなり限られる。
その点、フローラのような令嬢は稀だった。
「子どもたちも、刺繍を喜んでいますし」
「家でも、よくされるのでしょう?」
「いいえ、全く」
フローラとしては、じっと座ってちまちまと布の面を埋めていく刺繍は、あまり好みではなかった。
「でも、お上手でしょう?」
「ええ、まあ……」
「ご令嬢方は、刺繍のほうが楽しいのでは?」
以前訪れていた令嬢に寝具の補修を頼んだときには、「刺繍のほうが楽しい」とぼやいていた。
「できることと、好きなことは別ですから」
「たしかに、そうね」
「家に籠もって刺繍や音楽をするより、こちらのほうが性に合っているだけです」
茶会や夜会、淑女教育の予定がない日は、家にいても暇なだけ。
だから教会へ行く。
ここへ来れば、やるべきことがある。
手を動かせば、確実に成果が出る。
分かりやすいこと、この上なかった。
第二王子のような信心深さゆえでもない。
徳を積みたいという願いがあるわけでもない。
ただ、暇だから。
けれど、それを知るのはフローラだけだった。
昼下がり。
盛況だった炊き出しが終わり、フローラたちは余った食材で昼食を摂っていた。
邸や王宮で出される食事と比べれば質素なものだが、ひと仕事終えたあとの身体には、空腹も相まってちょうどよい。
あっさりとした豆と野菜のスープに、パン。
温かな食事が、疲れた身体にじんわりと染みていく。
「フローラ嬢も、野菜を切ってくれたのでしょう。美味しいですね」
「味付けは、あちらの方です。私ではありません」
フローラは、少し離れたところでパンを食べている修道女へ視線を向けた。
気づいた修道女が、ぺこりと頭を下げる。
「それでも、です」
フェルディナンはにこにこと笑いながら、スープの中の野菜を見つめていた。
「そうですか?」
「フローラが切った野菜が入っています」
「野菜は切った人によって味が変わるものではないと思いますが」
「そうでしょうか?」
「そうでしょう」
即答されても、フェルディナンの笑顔は変わらない。
「私は、とても美味しく感じますよ」
「空腹だからです」
フローラはそう答えると、再びスープを口に運んだ。
向かいに座っていた修道女が、何事もなかったかのようにパンをちぎる。
隣の修道女も、黙々とスープを飲んでいる。
誰も二人の会話には触れなかった。
ただ、食事の手だけは妙に忙しい。
「今日はフローラと一緒に働けたので、楽しかったです」
「私は厨房にいたので、一緒ではないと思いますが」
「でも、炊き出しに関わりました」
「そうですね」
「では、一緒に働いたことになりますよね」
フェルディナンは、満足そうに頷いた。
「……そういうことにしておきましょう」
「はい」
フローラの返事に、フェルディナンは嬉しそうに笑った。
「また炊き出しの日には来てもよろしいでしょうか?」
「教会の方にお尋ねください。私には決められません」
「では、次も来られるようお願いしておきます」
「そうしてください」
あまりにも平然と返され、フェルディナンはますます機嫌よくスープを口にした。
その様子を見ていた修道女が、そっと視線を落とす。
食事をしている間は、何も考えないことにしよう。
そんな空気が、食堂の一角にだけ漂っていた。
食事を終えると、片付けが始まった。
フローラは鍋の底に僅かに残った、小さな野菜や豆の欠片を丁寧にスプーンですくい、お椀によそう。
「あとはお願いします」
「ええ。よろしくね」
洗い物をしている修道女へ声をかけると、フローラはお椀を手にしたまま裏口から外へ出た。
食堂の裏手には薪が積み上げられ、先ほどまで野菜が入っていた木箱や樽がいくつか放置されている。
建物の外側へ回り込み、壁と木箱の隙間へ目を凝らす。
こちらを見つめ返す、一対の光。
猫の目だ。
フローラはお椀を木箱から少し離れた場所へ置き、自らもしゃがみ込んで、その光を見つめた。
僅かな光を反射する、二つの輝き。
しばらく見つめているが、猫は動かない。
そのとき、裏口が開く音が響いた。
誰かが水を汲みに来たのだろうか。
フローラは気にも留めず、猫を見つめ続ける。
やがて足音が背後で止まると、聞き慣れた声が響いた。
「何をされているのですか?」
「猫が居着いたので、餌をあげているのです」
猫の目を見つめたまま、フローラは答えた。
フェルディナンがフローラの隣にしゃがみ込む。
暗がりの中に、猫のような輪郭と瞳が浮かんでいた。
フェルディナンは猫をじっと見つめるフローラの横顔を見て、首を傾げる。
「猫が食べに来るまで、ここにいるつもりですか?」
「ええ。――私が見ている間に食べてくれることは、あまりありませんが」
「それは……そうでしょうね」
こんなにじっと見られては、猫も気まずいだろう。
フェルディナンが苦笑すると、フローラが眉をひそめた。
「猫が緊張していますよ。視線は合わせないようにして、まずは指先の匂いを嗅がせて覚えてもらいましょうね」
「なるほど」
フェルディナンはそっと指先を、猫が隠れている隙間の近くへ差し出した。
さらに、興味を引くように空いている手で、金糸の刺繍が施された法衣の裾を掴んで揺らす。
きらきらと金糸が光を反射する。
しばらくフェルディナンが金糸を揺らしていると、隙間から小さな黒猫が這い出してきた。
「こんにちは」
フェルディナンが穏やかに声をかけ、ゆっくりと目を閉じる。
黒猫は差し出された指へ、ふんふんと鼻先を向けた。
細目を開けて様子を窺うフェルディナンは、そろりと指先を顎の下へ滑らせる。
そのまま、かりかりと優しく撫でた。
黒猫は気持ちよさそうに目を細める。
「ふふ、甘えますか。いいですよ」
笑みを浮かべ、フェルディナンは両手で猫の顎の下や頭を掻いた。
フローラは、信じられないものを見るように目を瞬かせる。
「なぜ……」
思わず疑問が漏れた。
「目を合わせると、喧嘩だと思われますからね。目を閉じて、ゆっくり近づくといいですよ」
「なるほど……」
フローラは目を閉じ、黒猫へ右手を伸ばす。
フェルディナンに撫でられ、ごろごろと喉を鳴らしていた黒猫は、フローラの手に気づくと匂いを嗅ぎ始めた。
フローラが恐る恐る指先を顎の下へ移した、そのとき。
黒猫はフローラを拒むように、その指を引っ掻いた。
そして、あっという間に隙間へ戻っていった。
「…………」
「猫は気分屋さんですから……」
じっと右手を見つめるフローラへ、フェルディナンが慰めるように声をかける。
「指、痛みますか?」
見せてください、と言うように、フェルディナンが手のひらを差し出した。
フローラは首を振る。
「いえ。直前で手を引いたので、大したことはありません」
「そうですか。――ご飯は、この辺りに置いておきましょう。そのうち食べてくれますよ」
「……わかりました」
フェルディナンが指したのは、隙間のすぐ目の前だった。
フローラはそっとお椀を置くと、諦めたように立ち上がる。
「フローラ嬢にも、慣れれば撫でさせてくれますよ」
「殿下は、すぐでしたが?」
「相性とか? あるかもしれませんよ」
どこか言い訳めいた口調で、フェルディナンが答える。
フローラは肩をすくめた。
「そういうことにしておきましょう」
機会はいくらでもある。
そう考えながら、フローラはもう一度、右手を見つめた。
◇ ◇ ◇
日が沈み、月が目覚め、星々が導となる時間。
多くの人々が寝静まる中、暗闇に佇む男の瞳だけが、静かに輝いていた。
「事故がいいな」
「面倒」
「調査はついてるしさ。できるだろ?」
「……まあ」
歯切れの悪い返事だが、否定ではない。
男は、にこりと微笑んだ。




