第1話 いつもの日常
お話ごとの登場人物
・フローラ ヴィスコンティ子爵令嬢。
・フェルディナン アルセリア王国第二王子。王族聖職者。
・グレイム教会の孤児 ドビー、ミロ、アンナ、
グレイム教会。
王国の貧困地区に佇む建造群は、歴史ある石造りの外壁や屋根の装飾、ステンドグラスまで保存魔法によって保たれ、今なお由緒ある外観を残している。
教会の威信を示す壮麗な正門と教会堂。
けれど、その裏手へ一歩進めば、様子は一変する。
小さな施療院や食堂。教会関係者の居住区が、必要最低限の補修だけを施された状態で並んでいる。
孤児院もまた同じだった。
建物そのものは古びている。
けれど、その内部には子どもたちの明るく騒がしい声が満ちていた。
「猫がいい! 猫!!」
「ぼく、狼!!」
「おまえなんて鼠でいいだろ!?」
「なんだとー!?」
「順番に縫いますから、待っていてください」
子どもたちの声が飛び交う中、年季の入った机の上には、寄付と呼ぶにはあまりに心ない、擦り切れて穴の開いた古着が山のように積まれていた。
その傍らで、僅かに脚の長さが異なる椅子に腰掛けているフローラは、周囲に集まる子どもたちを静かに諭していた。
背まで伸びた濃い栗色の髪は、顔にかからないよう両側から一部をすくい取り、リボンで結んでいる。
身に纏う青緑色のドレスは、山積みになった古着よりもはるかに上等な生地で仕立てられていた。
灰青色の瞳が手元から離れることはない。
細い指が針を動かすたび、古着に開いた穴が正確に縫い合わされていく。
そして、その周囲に手際よく猫の輪郭が描かれていった。
髭や鼻といった特徴を捉えるだけの簡単な刺繍。
教会のものを不必要に使うわけにはいかないため、面を埋めるような刺繍はしない。
必要最低限のものだったが、子どもたちが喜ぶには十分だった。
「アンナ、できましたよ」
「フローラ様、ありがとう!!」
「次はミロですね」
フローラはそう言うと、小さめの古着を探し当てた。
何枚かをミロの身体に当て、大きさの合いそうな一着を選ぶ。
穴やほつれを手際よく縫い合わせると、今度は狼の輪郭を刺繍し、その顔に吊り上がった瞳を加えた。
「どうぞ」
「お姉ちゃん、ありがとう」
「ちぇっ、狼かよ」
ミロの服を覗き込んだトビーが、口を尖らせる。
「そんなに鼠がいいなら、トビーが鼠の刺繍にしてもらえばいいじゃない」
「オレはフローラの子ども騙しなんて、必要ない!!」
「呼び捨てにしたら、怒られるのよ!!」
「フローラは怒らない~!」
アンナとトビーが揃ってフローラを見上げた。
どちらが正しいのか、自分のほうが正しいのだと主張し合っている。
その騒がしさの中でも、フローラは変わらず針を動かしていた。
やがて、二人の視線を受けて針を止める。
「私はどう呼ばれてもかまいませんが、礼節をわきまえないと、最後に困るのは自分ですよ」
どちらが正しいとも言わない。
フローラにとっては、児戯に等しいやり取りだった。
けれど、その言葉を聞いたトビーは不満そうに顔をしかめると、そのまま部屋を出ていった。
しばらくすると、針仕事を眺めることに飽きた子どもたちも、一人、また一人と部屋から出ていく。
最後まで残っていた子どもの姿が消えると、ようやく部屋に静けさが戻った。
フローラは何も言わず、再び針を動かす。
静かな部屋に、糸を引く小さな音だけが続いた。
無造作に積まれていた古着の山が、大きさごとに分けられ、すべて綺麗に畳まれる頃。
まるでそれを見計らったかのように、扉を叩く音が響いた。
ゆっくりと扉が開く。
同時に、男性にしては高く、それでいて女性にしては低い、穏やかな声が響いた。
「そろそろ終わりましたか?」
「ええ。あとは片付けるだけです」
聞き慣れた声の主を振り返ることもなく、フローラは道具箱へ針や糸、ハサミなどを手際よく収めていく。
蓋を閉じると、子どもたちの手が届かない上段の棚へ道具箱をしまった。
そこでようやく振り返る。
視線の先では、一人の男が補修を終えた古着を保管箱へ収めていた。
「いつもありがとうございます、殿下」
「このくらい、当然のことです」
男が振り向く。
青金石を思わせる瞳が、柔らかく細められた。
第二王子、フェルディナン・レグナード。
中性的で色白な顔立ちを覆うのは、きちんと切り揃えられた前髪と、腰までまっすぐ伸びた白金色の髪。
両耳では、瞳と同じ青色の細長い楕円形のイヤリングが揺れている。
一見すれば可憐とも思える容姿。
けれど、ひょろりとした長身に纏うのは、白襟の深い紺色の法衣だった。王族であることを示す装飾が、金糸でさりげなく施されている。
その容姿と、強力な光属性の魔法を操る力。
フェルディナンは、王国と教会の権威を繋ぐ王族聖職者だった。
教会からも国民からも圧倒的な支持を集める王子は、そこにいるだけで周囲まで明るくなるような笑顔を浮かべ、フローラへ微笑みかける。
「片付けも終わりましたし、食堂でお茶にしましょう」
「お任せします」
「では、行きましょうか」
フェルディナンが部屋を出ていく。
フローラも、その少し後ろをついていった。
廊下を歩いていると、フェルディナンが振り返る。
「今日は蜂蜜のフィナンシェを持ってきました」
「そうですか」
「この前、美味しそうに食べていたでしょう」
「……そうでしょうか」
「そうですよ」
あまりにも迷いなく返され、フローラは小さく首を傾げた。
そんなに分かりやすい表情をしていたのだろうか。
考え込むフローラを見て、フェルディナンは目を細める。
その表情は、まるで嬉しそうだった。
長テーブルと丸椅子が並ぶ食堂。
その片隅に、フローラとフェルディナンは向かい合うように腰を下ろした。
フローラの侍女が、ティーカップやフィナンシェを盛った皿を二人の間に並べていく。
フェルディナンの前には、黄色や白、クリーム色の蝶が描かれたカップ。
フローラの前には、青いネモフィラが描かれたカップ。
フィナンシェを乗せる皿には蔦模様が施されている。
どれも教会に寄付された品で、同じカップや皿が揃うことは滅多にない。
侍女が沸かした湯を取りに奥へ消えると、フローラはぼんやりと窓の外へ視線を向けた。
その横顔を、フェルディナンはにこやかに眺めている。
やがて侍女が戻り、紅茶を淹れ終えると、フェルディナンが口を開いた。
「お好きなだけどうぞ」
「いただきます」
フローラは躊躇うことなくフィナンシェを一つ手に取った。
一口食べる。
バターと蜂蜜の風味が、口いっぱいに広がった。
ほんの僅かに緩んだ頬を、フェルディナンは見逃さない。
フローラは何事もなかったかのようにフィナンシェを食べ終えると、さっぱりとした紅茶を一口飲んだ。
カップが置かれるのを見計らって、フェルディナンが尋ねる。
「今日は、ずっと古着の補修をしていたのですか?」
「いえ。大人用と子ども用が混ざっていたので、その前に仕分けをしていました」
「たくさんいただいたのですね」
「そうですね」
短い返事。
僅かな沈黙が落ちる。
「時間が掛かったのではありませんか?」
「そこそこですね」
仕分けをしている間、子どもたちが大人用の古着を着て遊んでいた。
そのせいで、思っていたより時間がかかってしまったのだが、フローラはわざわざ説明しない。
フェルディナンが口を閉ざす。
するとフローラは、再びフィナンシェへ手を伸ばした。
二つ目を食べ終えたところで、ふと首を傾げる。
「そういえば、殿下はいつこちらへ?」
「つい先ほどです。近くで用がありましたので、ついでに寄りました」
「そうでしたか」
小さく頷く。
そして、またフィナンシェへ手を伸ばした。
しばらくの間、二人は菓子を食べ、紅茶を飲んだ。
会話は多くない。
けれど、フェルディナンにとっては、それで十分だった。
やがてカップも皿も空になる。
それを確認すると、フェルディナンは何食わぬ顔で問いかけた。
「フローラ嬢は、まだ私をフェルと呼んでくださらないのですか?」
「殿下は殿下ですから」
「親しい者はフェルと呼びます」
「畏れ多いので、遠慮いたします」
言葉とは裏腹に、フローラの口調は淡々としている。
このやり取りは、時折繰り返されている。
「呼びたくなったら、いつでもフェルと呼んでくださいね」
「検討させていただきます」
今日も変わらない返事だった。
それでもフェルディナンは満足そうに目を細める。
硝子玉のような灰青色の瞳に見つめられていることさえ、嬉しそうだった。
「次はいついらっしゃる予定ですか?」
予定を思い出しているのだろう。
フローラは少し間を空けてから答えた。
「……おそらく三日後です」
「その次は?」
間髪入れずに尋ねられ、フローラは再び予定を思い返す。
「……四日後でしょうか」
フローラが侍女へ視線を向ける。
侍女は問題ないと頷いた。
「では、お会いできれば、また一緒にお茶しましょうね」
「ご随意にどうぞ」
誘いを断る理由はない。
フローラはこくりと頷いた。
それを見て、フェルディナンは満足そうに微笑んだ。




