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第11話 お忍び

お話ごとの登場人物


・フローラ ヴィスコンティ子爵令嬢。

・フェルディナン アルセリア王国第二王子。王族聖職者。

 王都の中心部には、貴族邸の区画と並ぶようにして、商業区画が広がっている。


 目抜き通りの周辺には、貴族や官僚を主な客とする高級店が立ち並び、王都の顔とも呼べる華やかな景観が広がっていた。


 そこから少し足を伸ばした中間区には、裕福な商人が利用する店や、生活に余裕のある職人、庶民たちが利用する店が並んでいる。肩肘を張らず、それでいて質の良い商品を買える店が多く、日々の買い物をするにはちょうどよい場所だった。


 さらに外縁部へ向かえば、住居を兼ねた小さな商店や、庶民の住宅街へと繋がっていく。


 もっとも、買い物のためにここまで足を運ぶ貴族は少ない。


 その外縁部に近い中間区で、フローラは屋台の菓子を買っていた。


 薄く焼いた小麦粉の生地で、ベリーのジャムを包んだ菓子だ。


 細長い筒状に巻かれ、手が汚れないよう下半分は古紙で包まれている。


 フローラは三つまとめて受け取ると、歩行者の邪魔にならないよう店の壁際へ移動した。


 そして何のためらいもなく、一つを侍女へ、一つを護衛へ押しつける。


「いつもありがとうございます」


「一緒に食べるだけです」


 侍女と護衛は、顔を見合わせてから菓子を受け取った。


 最初の頃は、貴族令嬢としてあるまじきフローラの行動に戸惑っていた。


 けれど、今ではすっかり慣れている。


 むしろ、見ているこちらが心配になるほど大人しいのだから、少しくらい羽根を伸ばしてもいいのではないかと思うようになった。


 それに、口止め料なのかもしれないが、こうして自分たちの分まで買ってくれる。


 最近、このような外出が増えていることは気になっていた。


 けれど、婚約者の相手次第では、こんなふうに気軽に外へ出ることもできなくなるかもしれない。


 今だけなのだと思えば、止める気にもなれなかった。


 侍女と護衛を伴って、菓子の立ち食いをする少女。


 地味な紺色のドレスを着ていることもあり、周囲の人々が彼女を貴族令嬢だと思うことはない。


 そんなことを気にする様子もなく、フローラは無言で菓子を頬張っていた。


 そのとき、不意に声をかけられた。


「フローラ嬢?」


 こんな場所で聞くはずのない声だった。


 フローラは菓子を持ったまま、声のした方へ視線を向ける。


 そこにいたのは、背の高い裕福そうな女性だった。


 薄い赤茶色の髪は腰まで伸び、前髪は綺麗に整えられている。青い瞳は、驚いたように大きく見開かれていた。


 白いレースや刺繍をあしらった水色のパフスリーブのドレス。その上には同じ色味のショールを羽織り、腰には大きな青いリボンが結ばれている。


 商家の娘にしては品があり、整った顔立ちをしていた。


 向こうはこちらを知っているらしい。


 けれど、フローラの記憶にはない。


 覚えるほどの相手ではなかったのだろうか。


 声には聞き覚えがある。


 顔も、どこか見覚えがあるような気がする。


 けれど、それが誰なのかまでは結びつかない。


 フローラは真顔のまま、わずかに首を傾げた。


 その視線が、女性の耳元で止まる。


 細長い楕円形の青いイヤリング。


 つい最近、すぐ隣で見たばかりのものだった。


「……殿下?」


 ありえない。


 そう思う。


 けれど、声も顔も、そうだと思って見れば、そうとしか見えなかった。


 半信半疑のまま呟いたフローラの言葉に、女性――女装したフェルディナンの表情が綻んだ。


「何をされているんですか?」


「お忍びです」


 にこにこと笑みを浮かべるフェルディナン。


「でしょうね」


 聞きたいのは、そこではない。


 フローラはゆっくりと、思考停止していた頭を動かし始めた。


「そのお姿は、何ですか?」


「長髪の男性は目立ちますし、この姿も似合うでしょう?」


「……そうですね」


 素直に同意すると、フェルディナンの瞳が輝いた。


 改めて、フローラは目の前の王子を観察する。


 水色のパフスリーブとショールは、肩幅を目立たなくするためだろう。さらに腰には大きなリボンを結び、細身の体つきを誤魔化している。


 ショールまで用意しているあたり、かなり念入りだ。


 いつもと見上げる感覚が変わらないことから、靴はヒールではなく平たいものを選んでいるらしい。


 髪も、おそらく魔法だ。


 もともと中性的な顔立ちで、背は高いものの細身。長髪の優男として歩くより、女性の姿にしてしまったほうが、かえって周囲に溶け込みやすいのかもしれない。


 何より、王子が女装しているなど、誰が思うだろう。


 貴族の多い中心部ではなく、中間区まで足を伸ばしているのも、顔を知られている相手と遭遇する可能性を減らすためだろう。


「よくできていますね」


「ありがとうございます」


 フェルディナンの頬が、嬉しそうに緩んだ。


「ですが、私に声をかけたら、お忍びにならないのではないでしょうか」


「フローラ嬢だから良いのです」


 何も良くはない。


 フローラはそう思ったが、口には出さなかった。


 フェルディナンの後ろへ視線を向けると、教会で見たことのある護衛がいた。


 鎧ではなく、町人らしい服装に身を包んでいる。


「フローラ嬢は、ここで何を?」


「ただの野暮用です」


「そうでしたか」


 フェルディナンが頷く。


 ふと、その視線がフローラたちの手元へ落ちた。


 細長い筒状に巻かれた菓子。


「……食べます?」


「よろしいのですか……?」


 フェルディナンが、ぱちりと目を瞬かせる。


 そして、おそるおそるフローラが手にしている菓子へ手を伸ばした。


 しかし、その手をフローラが避ける。


「殿下は、ここでお待ちください」


「あ……そうですよね。失礼しました……」


 恥ずかしそうに俯くフェルディナン。


 けれど、すぐに思い出したように顔を上げた。


「私のことですが、今日はフィーと呼んでくださいね」


 あまりにも突飛な発言に、フローラは一瞬、言葉を失った。


「フェルでもいいですが、お忍びですから、殿下は駄目ですよ」


 青金石のような瞳が、悪戯っぽく輝いた。


「…………」


 理屈は分かる。


 せっかくの外出の機会を、自分の呼び方で台無しにするわけにはいかない。


 けれど、これは少しずるくないだろうか。


 フェルディナンが自分の名前を呼んでほしがっていることは、フローラも知っている。


 贈り物を待つ子どものように、きらきらと輝く視線が向けられていた。


 従っていいものなのだろうか。


 迷ったフローラは、フェルディナンの護衛へ視線を向ける。


 護衛は何も言わず、そっと目を伏せた。


 不問、ということらしい。


「フローラ嬢」


 催促するような声がかかる。


 フローラは、面倒だと言わんばかりに眉をひそめた。


「今日だけですよ……フィー」


「はいっ」


 満面の笑みで、フェルディナンが頷いた。




 往来の多い中央市場や、そこへ続く大路を避け、人通りの穏やかな通りをフェルディナンとフローラは歩いていた。


 気の向くままに歩くフェルディナンの半歩後ろを、フローラがついていく。


「こうして歩くと、姉妹みたいですね」


 機嫌よく紡がれる言葉に、フローラはため息をついた。


「お嬢様と侍女の間違いでしょう」


「そんなことありません」


「あります」


 水色と白の可憐なドレスを身に纏うフェルディナンと違い、フローラは紺色の地味なドレスだ。


「フローラ嬢の髪型も可愛いですよ」


「侍女の気まぐれです」


 今日のフローラは、後頭部の低い位置から緩い三つ編みにしていた。


「背の高い姉の後ろに隠れる、妹という感じですね」


「どうしてそうなるんですか」


 意味が分からないと、フローラは眉を寄せる。


 けれど、いつもより機嫌の良さそうなフェルディナンを見ていると、反論する気持ちも次第に薄れていった。


「手を繋いでもよろしいでしょうか?」


「駄目に決まっているでしょう」


「失礼しました」


 悪びれる様子もなく、フェルディナンは歩き続ける。


 どうにも調子が狂う。


 いつもならもう少し落ち着いているはずなのに、今日は随分と楽しそうだ。


 笑みを浮かべるフェルディナンの後ろを、フローラがついていく。


 フェルディナンは気の向くままに店先を眺めていた。


 小物や食べ物が目に入るたびに瞳を輝かせ、手に取ることもなく次の店へ向かう。


 そんな姿をしばらく眺めていたフローラは、ふと足を止めた。


「フィー」


「はい」


 嬉しそうにフェルディナンが振り返る。


「食べないのですか?」


「え?」


「先ほどから、眺めているだけでしょう」


 食べたいものがあれば食べる。


 気になるものがあれば、手に取って確かめる。


 今は、そういう時間ではないのだろうか。


 フローラの問いに、フェルディナンは少しばつが悪そうな顔をした。


「一応、立場というものもありますから……」


 女装までして、何を気にしているのだろう。


 フローラは、呆れたようにフェルディナンを見つめた。


「先ほどの菓子は、食べていたではありませんか」


「あれは……フローラ嬢が誘ってくれたから良いのです」


「……そうですか」


 どういう論理だ。


 けれど、本人がそう言うのであれば、そういうことにしておこう。


 二人は再び歩き始めた。


 フェルディナンは、店先を眺めているだけでも楽しそうだった。


 あちらの店では足を止め、こちらの店では目を輝かせる。気になるものを見つけるたび、少し身を乗り出して眺めている。


 けれど、手に取ることはない。


 欲しそうに見つめているくせに、最後には名残惜しそうに次の店へ向かう。


 そんな姿を眺めながら、フローラもその隣を歩き続けた。


 ふと、フェルディナンが一軒の屋台の前で立ち止まった。


 籠いっぱいに盛られているのは、白い花のように弾けた菓子。


 蓋をした鍋の中から、ぽん、ぽん、と軽快な音が聞こえてくる。


「前から気になっていたのですが、これはどういったものなのでしょうか?」


「乾燥させたトウモロコシの実を焼いて、弾けさせたものです。好みの調味料で味付けできますよ」


「トウモロコシだったのですね……」


 ぽん、ぽん、と弾ける音。


 香ばしい匂い。


 フェルディナンはしばらく、興味深そうに屋台を眺めていた。


 やがて次の店へ向かおうとしたところで、フローラが一つ購入した。


 紙袋には、白い菓子がぎっしりと詰まっている。


 フローラはフェルディナンの隣へ戻ると、何事もなかったかのように一つ摘まんで食べ始めた。


「食べながら移動できますので、フィーは気にせず店を見ていていいですよ」


「はい……」


 頷いたものの、フェルディナンの視線はフローラの手元から離れない。


 ひとつ。


 またひとつ。


 フローラが口へ運ぶたび、視線が追いかけている。


「あまり、行儀が良いとは言えないのではないでしょうか?」


「そういう食べ物です」


「そうですか……」


 納得したような、していないような顔で、フェルディナンが歩き始める。


 けれど、ちらちらと紙袋を見ている。


 フローラはそんな彼を横目に見ながら、もう一つ摘まんだ。


 すると、フェルディナンの視線もまた、そちらへ動いた。


 さすがに分かりやすい。


 フローラは小さく息を吐き、紙袋を差し出した。


「食べます?」


「……よろしいのでしょうか?」


「フィーが食べないなら、私が食べるだけです」


「では、少しだけ……」


 嬉しそうに目を細めながら、フェルディナンが紙袋を受け取る。


 そっと一つ摘まんで口へ運ぶ。


 ぱり、と軽い音がした。


 穀物の香ばしい香りと、歯切れのいい食感。


 程よい塩気が口に広がる。


「美味しいですね!」


 先ほどまでの遠慮が嘘のように、顔がぱっと明るくなる。


 もう一つ食べようとして、ふとフローラを見る。


「……もう一つ、いただいても?」


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 今度は遠慮なく一つ摘まむ。


 嬉しそうに食べるフェルディナンを見て、フローラは小さく頷いた。


 その後も二人は、並んで街中を散策した。


「これは何でしょう?」


「果物を飴で包んだものです。棒に刺してあるので、手が汚れないのがいいですね」


「へえ……」


 フェルディナンは目を輝かせながら、しばらく店先を眺める。


 けれど、やはり自分から買おうとはしない。


 フローラが店主へ声をかけると、途端に嬉しそうな顔をする。


「フィーも食べますか?」


「……はい!」


 受け取った菓子を、今度はすぐに口へ運ぶ。


「美味しいです」


 幸せそうに笑う。


 次の店では、丸く小さなパンを揚げ、砂糖をまぶしたもの。


 その次では、肉とチーズを薄い生地で包んだ料理に釘付けになる。


 本人は「見ているだけです」と言うくせに、食べ物を見つけるたび、目が分かりやすく輝いていた。


 フローラも、そんな彼を見ているうちに、何となく購入するようになった。


「これも食べますか?」


「よろしいのですか?」


「私も食べますから」


「では……いただきます」


 そう言いながら、嬉しそうに受け取る。


 本人は遠慮しているつもりらしい。


 けれど、フローラが買ったものは素直に受け取り、食べるたびに嬉しそうな顔をする。


 そんなやり取りが何度か続いたところで、フェルディナンがふと思い出したように口を開いた。


「フローラ嬢も、ご用事があったのではありませんか?」


「大した用事ではありません」


 淡々とフローラが答える。


「私ばかりが楽しんでしまいましたから、お付き合いさせてください」


「面白くも何ともありませんよ?」


「それでも、です」


 フェルディナンは笑顔で、鷹揚に頷いた。


 わずかに迷ってから、フローラも頷く。


「では、こちらへ」


 そう言って、来た道を戻っていく。


 少し歩いた先は、店舗が連続する区画の端だった。


 空箱や樽が積み重ねられた壁際に、一人の女の子が花籠を抱えて佇んでいる。


「お嬢様、お花はいかがですか?」


 今にも消え入りそうな声だった。


 小さな手に、そっと握られている一輪の花。


 細い手足を覆うのは、つぎはぎだらけの、くたびれたワンピースとエプロン。


 先ほど通ったときには、気づかなかった。


 どこか諦めたような瞳と目が合ってしまい、フェルディナンは言葉を失う。


 どうすればいいのか分からない。


 そんな顔でフローラを見る。


 けれど、フローラはいつもと変わらない様子で女の子へ声をかけた。


「全て買います。花籠も、代えがあるならいただきたいですね」


「よろしいのですか?」


 目を丸くする女の子の代わりに、フェルディナンが尋ねる。


 フローラは女の子を見つめたまま、静かに答えた。


「二度目があるとは思わないことです」


「……はい。ありがとうございます」


 女の子は小さく頭を下げた。


 花籠いっぱいの花を、言い値のまま購入する。


 それからフローラは、花籠を抱えてその場を後にした。


「優しいのですね」


 隣を歩きながら、フェルディナンが声をかける。


 けれど、フローラは首を振った。


「ただの自己満足です」


「でも、喜んでましたよ」


「今日だけです」


 フェルディナンの言葉にも、フローラの表情は変わらない。


 今日だけ。


 今日、花が全部売れたことで、あの子は少しだけ安心できる。


 けれど、それが明日も続くとは限らない。


 今日の売れ方を当たり前だと思ってしまえば、明日からの落差は、きっと大きい。


 だから、二度目はない。


 フローラ自身も、それを分かっているのだろう。


 フェルディナンは、何も言わずに彼女の横顔を見つめた。


 自分には、何が正しいのか分からない。


 ただ、あの女の子が笑ってくれたことだけは、嬉しかった。


 そんなことを考えている間にも、フローラは慣れた足取りでどんどん先へ進んでいく。


「お花、綺麗ですね」


「ええ」


 花も綺麗だ。


 けれど、紺色のドレスを着たフローラが花籠を抱えていると、途端にその姿が華やいで見える。


「お好きですか?」


「嫌いではありません」


 あっさりとした答えに、フェルディナンは口を閉ざした。


 では、なぜ買ったのか。


 そう尋ねても、きっとフローラは、「必要だからです」としか答えてくれない気がした。




 歩き続けてやってきたのは、中間区と外縁部を隔てる川沿いの遊歩道だった。


 川の両岸には石積みの護岸が施され、遊歩道との境には、転落を防ぐための石積みの柵が続いている。


 フローラは腰より少し高い柵の上に花籠を置いた。


 そして、籠の中から適当に一輪を選ぶ。


 ぽとり。


 花が川面へ落ちる。


 水面に浮かんだ花は、そのままゆっくりと流されていった。


 視界から花が消えると、フローラはまた一輪を取り出す。


 ぽとり。


 さらに一輪。


 ぽとり。


 隣でその様子を見ていたフェルディナンは、寂しそうに首を傾げた。


「せっかく買ったのに、流してしまうんですか?」


「そのために買いましたから」


「そうでしたか……」


 会話をしている間も、フローラの手は止まらない。


 ぽとり。


 ぽとり。


 色とりどりの花が、静かに川を流れていく。


「理由を聞いても?」


「私がそうしたいからです」


 フローラの横顔からは、感情を読み取ることができない。


 フェルディナンは、それ以上踏み込むことを躊躇った。


 けれど、しばらく花が流れていく様子を眺めているうちに、素直な疑問が口からこぼれる。


「これをするために、いらしたんですか?」


「ええ。フィーには、面白くも何ともないでしょう。他の店を見るなり、帰るなり、お好きにしてください」


 同じ動作を何度も繰り返す。


 花を一輪取り出し、川へ落とす。


 そして、流れていく花を見送る。


 ただそれだけ。


 それでもフローラは、満足そうにも、つまらなそうにも見えない。


 ただ静かに、その時間を過ごしていた。


 ならば、とフェルディナンは口を開いた。


「ご一緒させていただいても、よろしいでしょうか?」


「どうぞ」


 フローラはあっさりと答えると、花籠を二人の間へ移動させた。


 フェルディナンも一輪手に取る。


 そして、そっと川へ落とした。


 花はゆっくりと舞い降り、水面へ着く。


 川の流れに身を任せ、ときおりくるくると回転しながら、少しずつ遠ざかっていく。


「……綺麗ですね」


「そうですね」


 一つ。


 また一つ。


 二人並んで花を川へ落としていく。


 ぽとり。


 ぽとり。


 赤。


 黄。


 白。


 青。


 桃。


 色とりどりの花が、川面に浮かび、流れていく。


 その様子を眺めていると、フェルディナンの心はいつにもまして穏やかになっていくようだった。


 何かをしなければならないわけでもない。


 話をしなければならないわけでもない。


 ただ隣にフローラがいて、花を一輪ずつ川へ流している。


 それだけの時間だった。


 長いようで、短い。


 そんな束の間のひとときだった。


 やがて、花籠の中から最後の一輪がなくなる。


 最後の花を流し終えたあとも、フローラはしばらく川を眺めていた。


 流れていく花を目で追い、その姿が見えなくなるまで見送る。


 やがて満足したのか、フローラは静かに柵から離れた。


「よろしいのですか?」


「ええ」


 フローラが頷く。


 それから、じっとフェルディナンを見つめた。


「私はこのままグレイム教会へ行きますが……フィーはどうされます?」


 誘っているつもりなどないのだろう。


 それでも、フェルディナンの胸は思わず高鳴った。


 けれど、残念そうに首を振る。


「この姿で子どもたちに会うわけにはいきませんし、この後は予定があるので、今日はここまでです」


「わかりました。では、これで失礼させていただきます」


 フローラが一礼する。


 あまりにも淡白な別れだった。


 フェルディナンは、思わず声をかける。


「フローラ嬢」


「はい」


 フローラが振り返り、フェルディナンへ視線を向ける。


「次は、いつ教会へ?」


「四日後でしょうか」


 その日は終日予定が入っている。


 会えない。


 そう思った瞬間、胸の奥に小さな寂しさが生まれた。


 もっと彼女のことを知りたい。


 今日のように、ただ一緒に歩いて、他愛のない話をして。


 そう思うのは、いけないことなのだろうか。


 フェルディナンは、少しだけ迷った。


 これまでなら、フローラが教会へ来られる日に自分が予定を合わせていた。


 けれど――。


「三日後は、お忙しいですか?」


「……夕方になりますよ?」


 フローラは僅かに首を傾げた。


 フェルディナンから予定を合わせてほしいと言われるのは、初めてだった。


 何かあったのだろうか。


 そんな疑問が浮かぶ。


 けれど、フェルディナン自身も、何故こんなにも彼女と会いたいのか、上手く説明できない。


「少しだけでも……」


 言いかけて、フェルディナンは考え込む。


 会いたい。


 けれど、それを口にして良い立場ではない。


「ほら、子どもたちに今日のお話をしませんか?」


「街のことなら、子どもたちの方が詳しいですよ」


「そうかもしれませんが……」


 他に何かないだろうか。


「一緒に遊ぶ、とか?」


 眉をひそめ、視線を彷徨わせながら、必死に理由を探す。


 何も、そんなに必死に考えなくてもいいのに。


 フローラはそう思いながら、目の前のフェルディナンを見つめた。


 けれど、――相手がフェルディナンなら、構わないか。


「子どもたちは喜ぶでしょうが……」


 フローラは少し考えてから、頷いた。


「夕食に間に合うように帰りますからね」


「はいっ」


 ぱっと顔を輝かせるフェルディナン。


 その満面の笑みに、フローラは小さく息を吐いた。


 まったく。


 何をそんなに嬉しそうにしているのだろう。


 けれど、それ以上は何も言わなかった。


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