第9話 舞踏会 後半
お話ごとの登場人物
・フローラ ヴィスコンティ子爵令嬢。
・フェルディナン アルセリア王国第二王子。王族聖職者。
大広間を抜け出し、隣接する庭園へやってきたフェルディナンは、きょろきょろと辺りを見回した。
探しているのは、深い薔薇色のドレスを着た令嬢。
ヴィスコンティ侯爵たちとともに、婚約者候補と思しき令息やその家族と会っているところを、壇上の王族席から見ていた。
その後、一人になった彼女が向かったのは軽食の並ぶ一角だった。
肉料理や甘味ばかりを選んで食べていたのも、フェルディナンは見ている。
そして、そのあと。
彼女と話していた男。
あの男は、彼女にとって何者なのだろう。
少し不機嫌そうな顔をしてテラスへ消えてから、フローラの姿はしばらく見えない。
ということは、庭園だろうか。
大広間に近い庭園では、何人かの貴族たちが噴水の側や花壇の近くに置かれた長椅子で休んだり、談笑したりしている。
さらに奥へ進むと、生垣や並木によって視界が少しずつ遮られていく。
小さな東屋もあった。
二人きりの時間を楽しむ男女が、数組いるだけだ。
フェルディナンはその周囲を見渡した。
けれど、探している姿はない。
さらに奥へと歩を進める。
等間隔に敷かれた石畳。
一定の距離で設置された外灯から、光魔法の柔らかな明かりが降り注いでいる。
そこから一歩外れれば芝生が広がり、大きな樹木や高い生垣が迫ってくる。
整えられた庭園ではあるが、社交のためにここまで足を運ぶ者はほとんどいない。
人の気配も、次第に遠くなっていった。
(どこかで入れ違ってしまったのでしょうか……)
ふと、先ほど目にした男女の姿が脳裏に浮かぶ。
フローラがあの男に向けていた、あの表情。
普段とは明らかに違っていた。
もっと早くに彼女と出会っていたなら、自分は王族聖職者になるという選択をしなかったのだろうか。
そんな考えが、一瞬だけ浮かぶ。
けれど、すぐに首を横に振った。
そもそも王族聖職者にならなければ、グレイム教会で彼女に会うこともなかったのだ。
ふと、初めて会った日のことを思い出す。
さ
孤児院を訪問した日のこと。
挨拶をするヴィスコンティ子爵夫妻の後ろで、フローラは自分には目もくれず、熱を出した子どもを抱きかかえていた。
誰もが自分に好意的だった。
好意的ではなかったとしても、少なくとも笑顔は向けてくる。
けれど、彼女にはそれが何一つなかった。
拒絶でも、嫌悪でもない。
ただ、フェルディナンに関心がない。
それが不思議だった。
理由が知りたくて、少し話をしてみたいと思った。
それだけだったはずなのに。
いつの間にか、彼女がどんな顔をするのか気になるようになっていた。
甘い菓子を前にして、ほんの少しだけ緩む頬。
わずかに揺れ動く瞳。
淡々と言葉を紡ぐ唇。
ほんの小さな変化を、もう少し側で見ていたいと思う。
そうして気がつけば、教会へ来る彼女を探すようになっていた。
今日はどこにいるのだろう。
何をしているのだろう。
また一緒にお茶を飲めるだろうか。
そんなことを考えるのが、いつの間にか当たり前になっていた。
(戻りましょうか……)
フェルディナンが小さく肩を落とした、そのときだった。
庭園の奥。
大樹の根元に、植物ではない何かが立てかけられている。
フェルディナンは首を傾げながら近づいた。
それは、赤い女性ものの靴だった。
木の根元に揃えるように置かれている。
フェルディナンは顔を上げた。
そして――
三又に枝分かれした幹の隙間。
自分の身長よりもさらに高い場所に、フローラが腰掛けていた。
「フローラ嬢?」
思わず声をかける。
幹の上から、灰青色の瞳がきょとんとフェルディナンを見下ろしていた。
「殿下……」
互いに困惑したように見つめ合う。
しばしの沈黙のあと、先に口を開いたのはフェルディナンだった。
「どうやってそこまで?」
「登りました」
「……魔力翼もなく?」
「はい」
あまりにも当然のように答えると、フローラはドレスの裾が枝に引っかからないよう、たくし上げた。
その拍子に見えた裸足や足首から、フェルディナンは慌てて視線を逸らす。
しかし、そんなことを気にしている場合ではない。
あれをどうやって降りるのだろう。
視線を戻すと、フローラはフェルディナンのことなど気にも留めず、ドレスが小枝に引っかからないよう細心の注意を払いながら、するすると幹を下りてきた。
危なげがない。
むしろ、見事なものだった。
やがて地面に降り立つと、フローラは木の根元に立てかけてあった靴を履いた。
「このように登りました」
「……」
恥じらう様子も、悪びれる様子もない。
いつもと変わらない、淡々とした口調だった。
あまりのことに呆気にとられながらも、フェルディナンは尋ねる。
「危ないのでは?」
「平気です」
「怪我をしたら、どうするのです?」
「落ちたことがありませんので」
心配をものともしない返答だった。
フェルディナンは小さく息を吐く。
(まだまだ、知らないことがいっぱいですね)
そう思いながら、改めてフローラを見る。
「フローラ嬢は……どうしてこんなところに?」
「気分転換です」
「そうですか……」
直前まで話していた男と、何か関係があるのだろうか。
それとも、婚約者候補の子息や、その家族との間に何かあったのだろうか。
けれど、自分はどこまで彼女の事情に踏み込むことを許されているのだろう。
考え込むフェルディナンを、フローラが不思議そうに見つめた。
「殿下はどうしてこちらに? 抜け出してよいのですか?」
「私は昼の式典が主ですし、夜会には教会関係者もいらっしゃいませんから。案外、暇なんですよ」
「そうでしたか」
王族聖職者である第二王子が夜会に姿を見せるのは、王宮主催の舞踏会くらいのものだ。
夜会の輪に加わることもなく、壇上から大広間を見渡している。
そして、ふと誰かが気づいたときには、いつの間にか姿を消している。
直接政治に関わる立場でもないため、それでよいとされていた。
もっとも、今日はフローラを探して庭へ出てきたなどとは言えない。
フェルディナンは、もっともらしい理由を並べた。
フローラはそれで納得したように、小さく頷いた。
微かに聞こえるのは、大広間から漏れる楽団の音楽と、木々のざわめきだけだった。
周囲に人影はない。
静かな庭の中で、灰青色の瞳がじっとフェルディナンを見つめていた。
「よければ、少しあちらでお話しませんか」
フェルディナンが少し先の東屋を指すと、フローラは素直に頷いた。
「承知しました」
先に歩き始めたフローラの背中を、フェルディナンは見つめる。
いつもの教会で見る姿とは、まるで違っていた。
髪は後頭部の低い位置でゆるく編み込み、ねじれを加えてまとめられている。顔周りには細い後れ毛を残し、耳の前にもわずかに髪が垂れていた。毛先は軽く巻かれ、小さな薔薇の髪飾りが添えられている。
耳元では、赤い石のイヤリングが揺れていた。
細い金と赤のネックレスが、ほっそりとした首元を飾っている。
普段なら隠れている首筋や肩も、今夜はドレスのデザインによって覗いていた。
胸元へ垂れる髪の隙間から覗く白い肌。
つるりとした肩からこぼれ落ちるように重ねられた、薔薇色のレース。
そこから続く細い腕と、抱き寄せれば折れてしまいそうなほど細い腰。
裾へ向かって広がるスカートには、細かな金の装飾と刺繍が施されている。
いつもの飾り気のない姿を知っているからこそ、その違いに目を奪われた。
――綺麗だ。
そう思った瞬間、フェルディナンは自分の胸が妙に騒いでいることに気づいた。
教会で彼女を見ることには、もう慣れている。
淡々と作業をしている姿も、甘いものを食べて少しだけ頬を緩める姿も知っている。
けれど、今夜のフローラは違う。
同じ人なのに、知らない女性を見ているような気がした。
見てはいけないと思うほど、目が離せなくなる。
そんな自分に気づいて、フェルディナンは慌てて視線を逸らした。
「……寒くはありませんか?」
「いいえ」
「上着、貸しましょうか?」
「結構です」
いつも通りの、簡潔な返事。
フェルディナンは小さく苦笑した。
どうやら、気にしているのは自分だけらしい。
やがて東屋へ着くと、二人は木製の長椅子に並んで腰掛けた。
フローラは宮殿の明かりを静かに見つめている。
フェルディナンも隣に座りながら、改めて彼女の横顔を盗み見る。
やはり、綺麗だ。
そう思うたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
「今日は、いつにもまして素敵ですね」
「ありがとうございます」
褒められているというのに、フローラはにこりともしない。
けれど、それもいつものことだった。
「色味が違いますね」
「お祖父様の趣味です」
「そうでしたか」
ヴィスコンティ侯爵が婚約者を探すために選んだのだろう。
そう思うと、少しだけ複雑な気持ちになる。
けれど、それを口にすることはしなかった。
「私は似合うと思います」
「そうですか」
フローラは少しだけ視線を下げ、自分の薔薇色のドレスを見つめた。
そして、隣に座るフェルディナンへ視線を移す。
純白の王子装束。
胸元には教会の紋章をモチーフにした青と銀の装飾が施され、袖口や腰には銀糸で紋章を簡略化した刺繍が入っている。
いつも下ろしている長い髪も、今夜は銀色の髪飾りで一つにまとめられていた。
細長い楕円形の青いイヤリングだけが、いつもと同じだった。
しばらく眺めたあと、フローラがぽつりと呟く。
「……殿下は王子だったんですね」
「今さらですか?」
何の気なしに告げられた感想に、フェルディナンは苦笑した。
法衣ばかりを着ているとはいえ、これでも王子である。
けれど、彼女の中では聖職者としての自分のほうが、ずっと馴染み深いらしい。
「フローラ嬢は、いつもの法衣と今日の衣装なら、どちらが似合うと思いますか?」
本当は、もっと別のことを聞いてみたい。
けれど、そこまで踏み込むことはできなかった。
フローラは王子装束を改めて眺め、少し考える。
「今日の方がお似合いです」
「王子装束だからですか?」
「いえ。殿下には、辛気臭い色より明るい方がお似合いかと」
予想もしなかった言葉に、フェルディナンの口元が思わず綻んだ。
「……そんな風に見ていたのですか?」
「神父様の暗い色の法衣なんて、そういうものでしょう」
「黒い法衣には、謙遜と清貧の意味があるのですよ。葬儀の意味ではありませんからね」
「そうなのですね」
フローラは素直に頷いた。
その反応が可笑しくて、フェルディナンは目を細める。
「ちなみに、私の法衣は黒ではなく、暗めの紺色です」
「なるほど」
フローラはもう一度、小さく頷いた。
そして少し考えたあと、結論を出す。
「……ですが、殿下といえば法衣ですね」
「そうですか」
どうやら、教会での姿にすっかり見慣れているらしい。
フェルディナンは微笑みながら、ほんの少しだけ視線を落とした。
――次は、いつ教会で会えるのだろう。
そして。
――いつまで、会うことができるのだろう。
侯爵たちと挨拶を交わすフローラの姿が、脳裏に浮かぶ。
婚約者が決まれば、今のように気軽に教会へ来ることもなくなるかもしれない。
そう考えると、胸の奥がわずかに痛んだ。
けれど、それを彼女に伝えることはできない。
彼女の人生を、自分の都合で縛る権利などないのだから。
フェルディナンは隣に座るフローラを、もう一度だけ見た。
薔薇色のドレスに包まれた横顔は、いつもと変わらず穏やかだった。
「侯爵閣下と一緒に、たくさんご挨拶されておりましたね。お疲れではありませんか?」
「平気です。慣れてますから」
「そうですか……」
慣れている。
何気なく返されたその言葉が、フェルディナンの胸に刺さった。
こうした夜会も、侯爵と並んで婚約者候補の家々を回ることも、フローラにとっては特別なことではないのだ。
「……良い方は、いらっしゃいましたか?」
「どうでしょう。決めるのはお祖父様ですから」
淡々とした返事だった。
フェルディナンは、口元をわずかに歪める。
ヴィスコンティ侯爵がどのような人物なのか。
フローラが令嬢として、周囲からどのように見られているのか。
宮廷事情に詳しくない自分でも、それなりには知っているつもりだった。
けれど、実際に目の当たりにしてみれば、思っていた以上に受け入れ難いものだった。
侯爵の隣に立ち、何人もの貴族から品定めするような視線を向けられるフローラ。
それを、彼女自身はどう思っているのだろう。
「自分事だって、分かっています?」
「義務ですから」
「……」
あまりにも迷いのない答えに、フェルディナンは小さく息を吐いた。
「普通は……色々と、相手に望むものではないのでしょうか?」
「そうかもしれません」
いつもと変わらない口調だった。
相手の身分も、性格も、容姿も。
何を望むかと問われれば、いくらでも挙げられるはずなのに。
フローラには、それすらないのだろうか。
もし、たった一つだけ望むことが許されるのなら。
彼女は、何を求めるのだろう。
「フローラ嬢は……」
そこまで口にして、フェルディナンは言葉を止めた。
何を尋ねようとしているのだろう。
答えを聞いたところで、何かが変わるわけでもない。
それでも、目の前にいる彼女の気持ちを知りたかった。
首を傾げるフローラの灰青色の瞳を見つめる。
その瞳に、自分ではない誰かが映ることを想像する。
――そして、先ほどの男を思い出した。
「壁際で、男性と話されていましたね。お知り合いですか?」
「……ええ。殿下に紹介するような者ではありません」
「そうですか。失礼しました」
フローラの顔に、あからさまな嫌悪が浮かんだ。
先ほどまでの淡々とした表情とは明らかに違う。
よほど、あの男を嫌っているらしい。
それを知って、フェルディナンはほんの少しだけ安堵してしまった。
そんな自分に気づき、すぐに視線を落とす。
――何を安心しているのだろう。
いつかはきっと、彼女も誰かと婚約する。
それが貴族として当然のことなら、自分に止める権利などない。
今こうして隣に座っていられる時間も、教会で一緒に働き、お茶を飲める時間も。
いつか終わる。
泡沫のような、ひとときに過ぎない。
そう分かっている。
分かっているのに。
胸の奥に生まれた感情だけは、どうしても捨てられなかった。
「そろそろ戻りましょうか」
フローラが立ち上がる。
フェルディナンも追いかけるように立ち上がった。
このまま戻ればいい。
そうすれば、何も変わらない。
いつものように教会で会える日を待てばいい。
それでも――。
「フローラ嬢」
「はい」
呼び止めた声が、思っていたよりも緊張していた。
フローラが振り返る。
その灰青色の瞳に、誰も映らなくてもいい。
せめて今だけは。
自分だけを映していてほしい。
「私と……踊っていただけないでしょうか」
胸元に手を当て、深く一礼する。
ゆっくりと顔を上げると、フローラと目が合った。
心臓が、大きく跳ねた。
分不相応な願いなのは分かっている。
彼女の未来を決めることも、自分のものにすることもできない。
だからこそ、今だけは。
揺れる青金石の瞳を見つめ、フローラは少しだけ考えた。
断る理由がなかった。
ドレスの裾を持ち上げる。
片足を斜め後ろへ軽く引き、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、深く腰を落とした。
薔薇色のスカートが、ふわりと花開く。
一度伏せた顔を上げると、フローラはフェルディナンへ視線を向けた。
「よろしくお願いします」
承諾。
断られても仕方がないと思っていた。
だからこそ、胸の奥に広がった喜びを、フェルディナンは隠しきれなかった。
優雅な返礼に見惚れながら、差し出された右手を見る。
フローラは、いつもと変わらない。
特別な意味など、きっと何もない。
それでも今だけは、この手を取ることが許されている。
喜びと緊張に胸を高鳴らせながら、フェルディナンは宝物に触れるように、そっとその手を重ねた。
奥まった庭園で、二人の男女が踊っていた。
信仰を背負った白い王子装束の青年と、値踏みされるために薔薇色のドレスをまとった少女。
柔らかな魔力灯の下で、白と薔薇色が重なり合う。
傍から見れば、優雅な一幕に見えただろう。
――その実、二人の足は何度も重なり合っていた。
否。
正確には、フェルディナンがフローラの足を踏んでいた。
「すみません……」
「おかまいなく。次は右足を前に」
「はい」
「ターンしづらいので、腕はもう少し上げてください」
「こうですか?」
「もう少しです」
「はい」
フェルディナンは真剣な顔で腕を上げる。
第二王子は王宮の舞踏会にしか参加せず、普段からダンスを踊る機会もほとんどない。
日頃の経験不足に加え、緊張も相まって、フェルディナンとのダンスはお世辞にも上手いとは言えなかった。
それでも、フェルディナンは手を離さない。
フローラが指摘すれば、必死になって動きを合わせようとする。
稚拙さを理由に、ここで終わらせることもできる。
けれど、それは誘われた側として失礼だろう。
結果として、王子が誘った令嬢とのダンスは、いつの間にかフローラによるフェルディナンへのダンス指南へと変貌していた。
「フローラ嬢はお上手ですね」
「よく言われます」
「ダンスの先生になれますよ」
「そのような高尚な人間ではありません」
さらりと答えてから、フローラはフェルディナンの足元へ視線を落とした。
「……次は、左足を軸にしたまま一回転です」
「はい」
フェルディナンは一度息を整え、言われた通りに足を動かす。
ゆっくりと身体が回る。
先ほどよりは、ずっとましだった。
「そのままです」
「はい」
「急がなくて大丈夫です」
「わかりました」
フローラの手を取ったまま、フェルディナンが慎重に足を運ぶ。
フローラも相手の動きを見ながら歩幅を調整する。
すると、先ほどまで乱れていた足取りが、少しずつ噛み合っていった。
フェルディナンの手に力が入る。
その表情には、わずかな安堵が浮かんでいた。
「できました……!」
「ええ」
フローラは小さく頷いた。
褒めるというより、確認するような声音だった。
それでもフェルディナンは嬉しそうに笑う。
「フローラ嬢に教えてもらうと、踊れそうな気がします」
「殿下が覚えてくださっているからでしょう」
「そうでしょうか?」
「はい。最初よりはずっと良くなっています」
その言葉だけで、フェルディナンの顔がぱっと明るくなる。
再び音楽に合わせて踊り出す。
まだ足取りはぎこちない。
それでも先ほどのように何度も足を踏むことはなくなっていた。
フローラが身体を返せば、フェルディナンもそれに合わせる。
少し遅れれば、フローラが待つ。
動きが大きくなれば、フローラが歩幅を狭める。
フェルディナンが次の動きを迷えば、フローラが先に身体を動かして示す。
まるで、教会で仕事をしているときと変わらない。
フェルディナンが困れば、フローラが補う。
フローラにとっては、それだけのことだった。
「次は、こちらです」
「はい」
フェルディナンが足を運ぶ。
今度は間違えなかった。
フローラがドレスの裾を軽くつまみ、身体を回す。
薔薇色のスカートが、ふわりと広がった。
その姿に、フェルディナンの動きが止まりかける。
ほんの一瞬、見とれてしまった。
ステップが遅れる。
けれど、フローラはすぐにそれに気づいた。
歩みを緩め、フェルディナンの動きに合わせる。
遅れたことに気づいたフェルディナンが、申し訳なさそうに眉を下げた。
「……すみません」
「お気になさらず」
フローラの表情は変わらない。
むしろ、想定外の動きをしたフェルディナンに合わせようと、その足元を真剣に見ていた。
「では、次は少し簡単な動きにしましょう」
「はい」
フェルディナンは素直に頷いた。
音楽はまだ続いている。
誰もいない庭園の奥で、二人はまたゆっくりと踊り始めた。
優雅とは言い難い。
けれど、先ほどよりは少しだけ息が合っている。
少なくとも、フェルディナンがフローラの足を踏む回数は減っていた。
◇ ◇ ◇
建国記念の舞踏会から、数日後。
グレイム教会の孤児院の裏手では、子どもたちがフローラとフェルディナンを取り囲んでいた。
「舞踏会のお話、聞かせて!!」
「お菓子が出るの?」
「お城でやったんでしょ!?」
「フェル様、くるくる踊ったの?」
「フローラお姉ちゃんは、何着たの?」
次から次へと、矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
二人が一つ一つに丁寧に答えていると、ミロが少しだけ声を抑えて言った。
「ぼくも、踊ってみたい」
「あたしも!」
「エマもやる!」
その声に釣られるように、子どもたちの瞳が次々と輝いていく。
「オレは踊らねーからな!」
「トビーはどうせ下手くそよ」
「なんだとー!? おまえより上手く踊ってやるよ!」
「やってみなさいよ!」
言い合うトビーとアンナの前で、フェルディナンが二人と目線を合わせるようにしゃがんだ。
途端に、二人が静かになる。
「フローラ嬢は、踊るのも教えるのも、とっても上手なんですよ」
「フェル様より?」
アンナの純粋な問いに、フェルディナンは苦笑した。
「……はい」
少しだけ恥ずかしかった。
けれど、あの日のことは、何にも代え難い大切な記憶になっている。
握った手から伝わった温もり。
華奢に見えてもしっかりとした腰。
真剣に自分の動きを見つめていた、灰青色の瞳。
思い出すだけで、自然と笑みがこぼれた。
「また私が教えるのですか?」
「フローラ嬢は上手いから、大丈夫ですよ」
フェルディナンが屈託なく笑う。
フローラは小さく息を吐いた。
「わかりました」
その様子を見たトビーが、鼻を鳴らす。
「オレはフローラよりも上手く踊る!」
「では、やってみましょうか」
「おう!」
こうして、フローラによるダンス教室が始まった。
フェルディナンにとっては嬉しいことに、相手役を務めることになった。
幸い、あの日のことをよく覚えているらしい。
動きはまだ少しぎこちないものの、今度は誰の足も踏まなかった。
「右足!」
「こう?」
「はい。次は左です」
「左!」
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
フローラの動きを見ながら、子どもたちも見様見真似で身体を動かす。
やがて、あちらこちらから笑い声が上がった。
いつもの深い紺色の法衣と、控えめな深緑色のドレス。
舞踏会とは比べものにならないほど質素な服装で、二人は子どもたちの前で踊っている。
「フェル様、もっと回って!」
「フローラお姉ちゃん、こっち!」
「ちょっと待ってください。順番ですよ」
賑やかな声が、教会の敷地いっぱいに響いていく。
その様子を見に来た司祭と修道女は、少し離れた場所から眺めていた。
司祭が笑みを浮かべる。
「楽しそうですね」
「ええ」
二人は顔を見合わせ、微笑んだ。
いつもの教会。
いつもの二人。
いつもの穏やかな時間だった。
その、さらに数日後。
第三王子を支えているアルケイア侯爵が、亡くなった。




