蜂蜜とスパイス
すみません、だいぶ間があいてしまいました……
二週間過ぎた。瞳子はスズのマンションに居候している。共同生活にも慣れてきて、まるで実家のような居心地のよさを感じていた。メイドのナオミさんや運転手の田畑さんとも打ち解けた話ができるようになってきた。
「ナオミさん。あたし、お邪魔になっていませんか?」
居候が長くなってきたので、多少なりとも気にしていた瞳子。ナオミが部屋の観葉植物に水を遣っていた際に訊ねると、彼女は「いいえ」と穏やかに応じた。
「瞳子さまは、お嬢様が連れて来た初めてのご友人です。そのお嬢様がよいと言ったのですから、その言葉通りに受け取ればよろしいのですよ」
「そうかなあ」
ふふ、とメイドは口元に手を当てて笑う。
「瞳子さまは心配性ですね。ご安心ください。田畑も、わたくしも、喜んでお世話させていただいておりますよ。お嬢様も、内心では喜んでいらっしゃいます。人と関わるのを、苦手とされる方ですから」
「ああ、ちょっとわかります。あたしも、たまに自分のことをそう思うから」
だから『文学部の大和撫子』と呼ばれながらも孤高を貫くスズと話すことができたのだ。彼女の中の何かが、瞳子と共鳴したのだ。
「お嬢様は瞳子さまの明るさに救われていますよ」
「あはは……けっこう、ぐいぐい行っちゃいますけれど。変なところで突っ走り気質が働くんです」
「そういうところがよいのです」
なんというか、ナオミは完璧なメイドだと思う。美人で礼儀正しくて、仕事もできる。気遣いにもそつがない。メイドの制服も似合っていて、素敵。
あの姉でなく、ナオミが瞳子の姉だったらよかったのに。
「ナオミさんには……兄弟はいますか?」
「いませんよ。ただ」
ナオミは言いかけ、沈黙の後、こう続けた。
「わたくしは、瞳子さまが少しだけ羨ましいですよ。一緒に育って、喧嘩して、時にわずらわしくとも、気にしてしまう存在がいるのは、幸せです」
「あたし、佐々(ささ)さんに苛立って怒ってばかりですよ?」
「ええ、何度もおっしゃっていましたね。それだけお姉さまが好きなのでしょう?」
「なっ……! ち、ちがいますよ!」
瞳子は泡を食って否定するが、ナオミの淡い色の瞳は笑んだままだ。
「きっと、お姉さまも瞳子さまと同じです。……姉妹ですもの」
授業に出かけていたスズが帰ってきたから、その話はおしまいになった。例のごとく、ナオミは「お嬢様には内緒ですよ」と唇に人差し指を当てた。
大学の食堂で、ひさびさに友人たちとランチをした。前回の瞳子の態度などまるで気にしていない様子で、ぽんぽんと話が進む。
「瞳子はまだ大和撫子ちゃんにお世話になっているの?」
「うん」
「すっごいお金持ちらしいと聞いたけれど、ほんと?」
「そうみたい」
メイドさんと運転手さんもいるし、と思いながらもそもそとカレーを食べる。
「いい子なんだろうね、あの子。ふつう、知り合ったばかりの人を家に泊めたりしないよ。瞳子がよほど困っていたから、助けてくれたんだろうね」
ひとりがそう言えばそうだね、とみんな口々に同意する。
それからまた別の話題に切り替わる。関心がないというよりは、瞳子を気遣って、深く踏み込んでこなかったのだと思う。前の瞳子ならきっと気づかず、また拗ねていたかもしれない。
大学図書館で課題のレポートを仕上げるため、友人たちと別れた。
エントランスにさしかかる手前でふと立ち止まる。
少し離れたところに姉の佐々がいた。
エントランス前の階段を上るため、大きなキャリーケースを気合で持ち上げている。
「……なにやっているんだろ」
瞳子は思わず独り言を呟くと、隣で「……本だよ」と小さな声がした。スズラン模様が涼しげな白の着物に、紫の袴を纏ったスズが立っている。
「図書館でよく見るの、あの人。たくさん本を借りて、返しにいくの。あの大きなカバンで」
「え? ああ、そうか。スズちゃんと同じ学部だもんね」
うん、とスズは小さく頷く。
「……文学部で、たぶん、いちばん勉強しているよ。それに、優秀だって、先生たちが言っていた」
「そーなんだ……」
たしかに佐々さんは昔から成績がよかった。小学生でついたあだ名が「がり勉」で、親に言われるまでもなく自分から勉強している勉強人間だ。対して、瞳子の成績は上の下ぐらい。大学勉強も必死でやり、どうにか姉と同じ大学に滑り込んだほどだ。
しかし、佐々さんは勉強以外がさっぱりだった。その勉強以外の方面がしっかりしていた瞳子は「勉強だけできたところで仕方がないじゃない」と半ばあきれた目で姉を見ていた。だがその見方は間違っていたのかもしれない。
姉は学問に深く勤しむ努力家だ。その一面を見ようとしていなかった。瞳子が無視した部分こそが、姉を語るに欠かせない大事な部分であったのに。
瞳子は、受験生の時、姉に勉強を教わろうとしていたことを思いだした。ただ教え方が下手すぎたから文句を言うと、佐々さんは見るからに落ち込んでいた。今から思えば、姉は張り切っていたのだ。自分が妹の役に立てることが嬉しかったから。
家事がだめ、勉強はできる姉。
勉強は苦手、家事ができる妹。
姉妹で得意方面が違うなら、補い合えるはずなのだ。
「……スズちゃん。ちょっと佐々さんと話してくる!」
「うん」
スズはひらひらと小さく手を振って見送ってくれた。
佐々さん、と話しかける。階段上までキャリーケースを引き上げた姉が「どうしたの」と普段の調子で応じた。
「三宮さんのところでちゃんとやってる? 迷惑をかけていない? そうだ、菓子折りを買っておいたからあちらに持っていきなさいよ」
「ありがたくもらっておく。あっちではすごくよくしてもらっているよ」
「だろうね。あんた、昔からその辺の要領がいいものね」
そう言った佐々さんの唇が日に当たってきらきらしていた。
「珍しいね、リップ付けているの」
「あぁ、うん」
姉は伏し目がちに肯定した。
「たまにはつけておかないと。瞳子さんがいろいろうるさいし」
「……気にしていたんだ」
「あんた、姉をサイボーグか何かかと勘違いしてない?」
姉は太眉ワンピースで仁王立ちする。
「鋼鉄の心は持っているんじゃないかなー、とは思っていたけれど」
「そんなわけあるか」
佐々さんはくるりと背中を向けてしまう。
「私もたまには妹を心配するよ。たったふたりの姉妹なんだから、さ」
「……姉ちゃん?」
思わず、ひさしぶりに呼んでしまうと、姉の背中は見るからにびくついた。がたがたとけたたましくキャリーケースを牽きながら図書館に入っていってしまう。
後ろ姿を眺めていた瞳子の心は軽くなっていた。
お嬢様、と低めのアルトがスズを呼ぶ。振り向くと、図書館前の中庭に、メイドのナオミが立っていた。
申告していた帰宅時間より遅いので迎えにきたのだろう。
「あれでは直に帰ってしまわれますね。……残念ですか」
「……うん」
スズはこくりと頷いた。
「また、遊びに来てくれるといいな」
「それはお嬢様次第ですよ?」
「……がんばる」
ふふ、とナオミはアルカイックスマイルを浮かべる。
「お嬢様は瞳子さまといると、とても楽しそうにしておられますよ。よい出逢いをされましたね」
「よかった」
「差し出がましいようでしたが、あちらのお姉さまにはご連絡をさしあげていましたし、通う方が瞳子さま以外にもうひとり増えるかもしれませんよ」
「……そうだといいな」
ナオミと佐々はスズを通して連絡先を交換し、メールのやりとりをしていた。その交流があったからこそ、佐々は安心して妹を預けていたのだ。その代わり、「今日はどうしていましたか? 何をしていましたか?」と毎日のように尋ねられたが、彼女は自分から妹へ言わないし、知られたくないだろう。姉から妹への愛情はとてもわかりにくくて、ややこしいものなのだ。
「お嬢様はもっと、自分の世界を広く持たれるべきですよ。縮こまるのはまだ早いのですから」
「ナオミも、そこにいる?」
ふとナオミは沈黙した。帰路についていたスズの足が止まり、ナオミを見上げる黒の瞳がうるんでいる。
「いいえ、わたくしは出ていきます。お金で繋がった契約ですから、切れる時もお金で切れます」
ナオミはきっぱりと告げる。
「ど、して、そんなことを言うの……」
今度は逡巡するメイド。スズは足元がばらばらに崩れる恐怖を感じながら、ただ突っ立っていた。
「プロですから。これまでもしっかり出来上がっていましたでしょう? お嬢様が望むメイドとして」
「ち、ちが……」
「やめてください。まるで私が泣かしているみたいでしょう?」
ナオミはスズから視線を逸らし、カツカツ、と前を歩き始めた。モデルのような美女の後をスズは慌てて追いかける。
スズは泣きたかった。ナオミは普段は完璧なのに、ときどき、ものすごくいじわるになる。優しいくせに、冷たくなる。ただ、その原因にはスズの負い目があった。
彼女の時間を、お金で買ったという事実だ。
スズは、ナオミと一緒にいられればそれでよかった。そのためにはいくらでも財産を譲り渡せる。しかし、一番欲しい物は手に入らない。
「ね、ねえさ……」
「その先を言ったら、私は消えますよ」
ぴしゃりと言い放たれた言葉に、スズの呼吸が乱れる。すぐさま口を閉じた。
「お嬢様には姉妹はおりません。今までも、これからも。……そのお約束ですよ?」
「……はい」
ナオミはため息をひとつ零すと、ふたたびメイドの仮面を被った。
「参りましょう、お嬢様。本日の夕食は、白身魚のムニエルがメインですよ。お好きでしょう?」
メイドとお嬢様は、スズのわがままで、ままごと遊びに過ぎない。彼女の凍り付いた心は融かせない。
ナオミが姉で、スズが妹である限り。繋がった血は半分だけだが、それが固い壁となって立ちはだかる。
ぐちゃぐちゃの感情を混ぜ込んで溶かした息を吐きだして、スズはメイドと車に乗りこんだ。
お嬢様のスズは、メイドのナオミの気持ちが一番知りたいのに、一番わからない。