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第四楽章 反逆か、英雄か

 光が瞬(またた)いた。強烈な閃光(せんこう)が夜闇を切り裂いて、地上が一瞬真昼のように輝きを帯(お)びる。

 ――断末魔(だんまつま)が、校庭に響き渡る。

 それも一瞬だった。

 光は陰画(ネガ)のように暗闇に呑(の)まれて、そこには暗澹(あんたん)たる静寂(せいじゃく)が満ち溢れる。耳鳴りのように、世界から音が消えて、光の中から少年が姿を現した。

 雨宮(あめみや)は一人、深夜の学校に立っている。雨宮が通っている松風(まつかぜ)高校、しかし雨宮が今日この学校に登校することはない。若草(わかくさ)が雨宮に告げた、一週間という期限はあと数時間のうちに終わる。

 雨宮は目に灼(や)きつけるように、暗闇の校舎を見上げる。若い心が集まる学び舎(や)は、活気が溢れる分だけ影も大きい。瞳に映る楽しそうに笑う表の世界の影で、裏では黴(かび)が繁殖するように淀(よど)んだ感情が育っている。

 雨宮は、そんな社会の縮図を見透かすように、静かに校舎を見上げている。明かりのない校舎は、廃屋(はいおく)に似ている。

「やあ、雨宮くん」

 背後から声をかけられて、雨宮は振り返る。

 闇に溶け込むように、身に纏(まと)っているのは黒の衣装。黒のTシャツに、黒のジャケット、黒い革のパンツ、黒い手袋までしているせいで、首から上の露出した肌だけが異様に白く見えて、地面から浮いている。

 身長一九〇センチメートル近い長躯(ちょうく)の足元に、同じく全身が闇に包まれた黒猫が一匹、寄り添うように立っている。深海の藍(ディープ・ブルー)に染まった二つの瞳が、じっと雨宮を見上げている。

 男は笑った。目を細めて、その口元に微笑を称(たた)える、慈愛(じあい)に満ちた笑顔で、男は優しい声で語りかける。

「こんな時間に、こんなところで何をしているんですか?今日、君は組織に行くのでしょう。家にいないと、若草さんが困ります。家に戻って、寝ておいたほうがいいです。組織に着いたら、休んでいる暇はないでしょう」

「クロさん」

 雨宮はクロに向かって、仰々(ぎょうぎょう)しく頭を下げる。

「今まで、ありがとうございました」

 クロは小声で笑った。

「おかしなことを言います。挨拶なら、もう済ませています」

「いいえ」

 雨宮は静かに首を横に振る。

「あのときの挨拶は、感謝の挨拶です。これは――」

 雨宮の瞳は澄(す)んでいる。

 一点の曇りもない、迷いのない目。

「お別れの挨拶です」

 クロは困ったように眉(まゆ)を顰(ひそ)める。

 言葉足らずな子どもに説明を求める、大人の言葉を向ける。

「すいません。君の言っている意味がよく……」

「僕はMASKS(マスクス)を辞めます」

 クロの言葉を遮(さえぎ)って、雨宮が口を開く。

「組織を、抜けます」

 迷いなく、決心を固めた声で雨宮は答える。

 組織を抜けるという意味を、雨宮もクロも知っている。自分たちが所持する知識や武力の流出を過敏(かびん)なまでに嫌う組織。組織を辞められるのは、もう使い物にならないと組織が判断した消耗品(しょうもうひん)ばかり。

 故(ゆえ)に、自ら組織を抜けるなど、認められない。

 組織を抜けるということは、組織から裏切り者として扱われること。

 裏切り者を、組織のことを公(おおやけ)にしかねない危険因子(きけんいんし)を、組織がほうっておくはずがない。裏切りは組織の敵であり、敵は一人だって存在を認めてはならない。

 雨宮の返答に、クロは納得したように柔らかな表情を浮かべる。

「そうですか」

 頷くクロ。

 クロの顔はとても穏やかで、周囲に広がる暗鬱(あんうつ)な雰囲気など微塵(みじん)も感じさせない。暗澹たる闇夜の中で白く浮かび上がる慈愛の笑みは、反(かえ)って異質な光を放っている。

 雨宮とクロの間に、静寂が満ちていく。

 と。

 ――黙したクロが顔の前に右手を翳(かざ)す。

 一瞬、菩薩(ぼさつ)のような顔が雨宮の視界から消えたかと思うと、すぐにその手は流水のように、風のように、滑らかな円運動に従って、雨宮の前で時計回りに回転する。

 クロの右手が腰の辺りまで来ると、隣で控えていたアオが地面を蹴(け)って飛び上がる。アオの身体(からだ)と、クロの腕が重なった。

 ――魔炎の中から、一匹の獣が姿を現した。

 全長は二メートルから三メートルほど、四肢(しし)で地面に立つ姿は、荘厳(そうごん)で、尊大(そんだい)。闇色に染められた毛並(けな)みは美しく、その姿は豹(ひょう)に似ているが、決して豹には辿り着けない隆起(りゅうき)した筋肉が目を奪う。頭部には金属のように光沢を帯びた仮面を被り、それはバッファローの頭蓋骨(ずがいこつ)のようにも見える。上顎(うわあご)から伸びる二本の犬歯(けんし)は人の腕くらいの長さがあり、その凶器は現代の獣の中には類を他に見ない。

 太古の昔に絶滅したとされるサーベルタイガーを起草(きそう)させる獣がそこに立つ。深海の藍(ディープ・ブルー)の瞳が獲物を見るような輝きを帯びて、雨宮を睨みつける。

 右手を払って、クロは柔和(にゅうわ)な笑みを浮かべている。

「でも、君は組織に行くよう、命令されています」

 その言葉が合図となった。

 空気が圧力を増した。

「……」

 それを感じ取って、雨宮は空を見上げる。

 闇の中で、圧力だけが増していく。体が押し付けられそうなほどの、強力な圧。目に見えないその異質な空気が、雨宮の肌をピリピリと刺激する。

 聳(そび)える校舎よりも高い空の中に、小さな影が見えた。その影は次第に大きくなり、あっという間に地面との距離を縮めていく。

 衝突の瞬間、地面が揺れた。クロのすぐ斜め前に立ったその男はすっと起き上がって雨宮を見ると笑みを浮かべる。狂気に歪(ゆが)んだ、快楽の笑みだ。

「はっ。見張りなんて意味ねーかと思ってたぜ」

 車谷(くるまだに)は、手にした金属バットを肩に乗せる。

 雨宮は突然入ってきた闖入者(ちんにゅうしゃ)に、しかし驚くこともなく、落ち着き払って訊ねる。

「僕の見張りは、お二人だけですか」

「ああ、そうだ」

 車谷がジロジロと雨宮を眺め見る。品定めでもするように雨宮を隅々(すみずみ)まで検分すると、不意に口元を緩める。

「いい面構(つらがま)えになったじゃねーか」

 車谷が感慨深(かんがいぶか)そうに呟(つぶや)く。

「仮面を外さねーでそんだけ芯(しん)がありゃ、ホリックを名乗っても誰も文句は言わねえ。最初に会ったときとは大違いだ」

 車谷が雨宮と最初に出会ったのは、二ヶ月前。

 フラストの異常発生が報告されるようになって、雨宮と倉橋(くらはし)は車谷の訓練を受けた。訓練はそんな生易しいものではなく、二週間のうちにホリックである車谷を二人がかりでも倒せなければ、二人は対榊原(さかきばら)との戦線から外されていた。

 そんな雨宮がフルセルフと戦い、フルセルフを倒し、榊原樹(いつき)をも倒した。二ヶ月という短い期間のうちにここまで変わった雨宮に、車谷は妙に清々(すがすが)しいものを感じる。

「俺も、シゴいてやったかいがある、ってもんだ。そんでもって……」

 車谷は笑った。そこに皮肉はなく、真っ直ぐに雨宮を賞賛している。

「組織を辞める、か。言うようになったじゃねーか」

 クロは困ったように苦笑を浮かべて車谷に視線を送る。

「車谷くんまで組織を抜ける、なんて言わないでください。一度に二人を相手にするのは、私でも無理です」

「しねーよ。まだな」

 意味深な言葉を付け足して、車谷はクロの言葉を軽く流す。

 車谷は視線を再び雨宮のほうへと戻して愉快(ゆかい)そうに笑みを浮かべる。

「さあて、お喋りはそろそろ止(や)めにしようぜ。悪いが、お前を若草のところに連れていく。それが俺たちの仕事だからな」

 二人に与えられた命令、それは雨宮が組織に行くまでの一週間、雨宮を監視して、その間にもしも雨宮が逃げ出すような行動を取ればすぐに拘束(こうそく)して若草のところまで連れて行く。

 念の入った指示に、車谷とクロ、そして雨宮も組織へ行くことの意味を改めて認識させられる。

 組織に戻されるのは、英雄ではない。

 それは罪人か、実験体。

「二人はどうしてMASKSになったんですか?」

 緊迫した空気を前にして、雨宮は二人に向かって最後の質問を口にする。

「二人は、これからもMASKSを続けたいですか?」

 二人は答えない。黙ったまま、雨宮を見つめ返すだけだ。

 ――どうしてMASKSになったのか。

 そこに理由はない。

 世間には組織と繋がる施設が幾(いく)つか存在する。そこには心に重度の傷を負った、主に子どもたちがやって来る。カウンセラーや保健所のようなところが多い。MASKSとしての素質が充分にある子どもたちは組織へと連れて行かれて、MASKSの訓練を受ける。

 ――これからもMASKSを続けていくのか。

 答えられるはずがない。

 もしもMASKSを辞めようとすれば、それは裏切り者、榊原樹と同じ運命を辿る。今の雨宮が、同じ道を進み始めたように。

 組織に対するMASKSの感情は様々だ。

 自由を奪われた不満の声と、自由を与えられた歓喜(かんき)の叫び。

 それでも、行き着く先は大方(おおかた)一つだ。真実を教えてくれない、組織の秘密主義。理不尽(りふじん)な命令も、たびたび発せられる。MASKSはモノではなく、人なのだ。考えることができる人は、その異常さに疑問を感じずにはいられない。

 しかし組織を抜けようとすれば、それは反逆者として各地に通達される。元々社会から外れた、不適合者。社会に居場所のない彼らに、裏切りはイコール死を意味する。

 停止しかけたときの中に、一陣の風が吹いた。

 風と呼ぶには優しすぎる、圧縮した空気の塊(かたまり)だ。その高圧の気体は、雨宮のすぐ隣を吹き抜ける。ピッと、雨宮の頬に細い線が入り、そこから赤いものが滲(にじ)み出る。

「――聞いてなかったのか?」

 金属バットを振り下ろした車谷が鋭い眼光を雨宮に突きつける。車谷の額の上で黒いサングラスが夜空の光を小さく反射している。

「お喋りは終わりだ」

 車谷はバットの先端を雨宮へと向ける。

 クロのすぐ隣で、アオが体勢を低くして身構える。

「……」

 雨宮はふっと微笑んだ。

 優しくて、悲しそうで、儚(はかな)げで、消えてしまいそうで。

「……そうですか」

 すっと、雨宮は自分の顔の前に右手を伸ばす。右手で顔を覆い隠し、その手で空気を掴(つか)む。瞬間、夜の学校の校庭に光が迸(ほとばし)る。



 明かりのない部屋の中で、咲希(さき)は飛び起きた。

 体が、熱い。もう九月も半ばに入り、空気は少しずつ秋の色を帯び始めているのに、心臓が波打っている。動悸(どうき)で胸が締めつけられる。肌を伝う汗の感触を、湿った髪で感じ取る。

「この感じ……」

 空虚(くうきょ)な闇の中で、咲希はぽつりと呟いた。

 咲希は上半身を起こしたまま、再び瞼(まぶた)を閉じる。瞼の裏側に、夢の残滓(ざんし)が瞬いている。

「雨宮くん」

 咲希は目を開いて、ベッドを抜けると電気を点(つ)けた。

 白く光を帯びた部屋に一瞬だけ目を細めて、咲希は壁にかかった時計に視線を向ける。時刻は三時を少し回ったところ。外はまだ暗いから、おそらく夜の時間だ。

 部屋で着替えを済ませると、咲希は両親を起こさないように静かに家を出た。秋の夜、外の空気は夏とは違って冷たさを含んでいる。

 家の前の道に出て、咲希はキョロキョロと辺りを見回す。周囲に人の姿はなく、人々が寝静まった静寂が広がっているだけだ。

「どうやって、学校まで行こう」

 明滅する街灯の下、咲希は思案するように暗い夜道を眺める。

「バスも電車も、まだ動いてないだろうし。タクシーを拾わないと」

 咲希は歩いて、車の通りが多い表通りへと出た。夜も遅いせいで、車は一台も通っていない。信号機が、黄色信号のまま点滅している。普段、車の流れが絶えない風景ばかりを目にしているので、あまりの静けさに妙に背筋が張る。

 咲希がタクシーが通らないか探している、そのとき。

 ――咲希のすぐ横に一台の車が停止した。

 咲希は驚いて一歩後ずさる。

「……!」

 咲希は目を見張った。

 普通車と比べて一回りは大きい。黒く磨き上げられたその車は街灯に照らされて輝いて見える。高級車というやつだろうか、雰囲気だけでその近寄りがたい威厳が感じられるようだ。車一つにここまでの威圧感があるのかと、妙に感心してしまう。

「…………」

 咲希のすぐ前に止まった高級車の、後部座席のウィンドウが静かに下りる。その人物を目にして、咲希は再び驚きに目を見張った。

「やあ、あなたは確か、上嶋(うえじま)咲希さん」

 その親しみを感じてしまう声に、咲希は思わず口を開いた。

「……若草さん?」

 若草宗助(そうすけ)、組織のトップの一人で、MASKSである雨宮の上司にあたる。

 若草には、以前一度会っているので、咲希にはわかる。着ている服も、以前と変わりない。車の中にいるのに、つばのついた帽子を律儀にも被っている。いや、この場合律儀とは少し違うか。

 車の中で、若草は微笑む。

「こんな時間にどうか……」

「雨宮くんに、何かあったんですか?」

 若草が言いかけた言葉を、咲希が遮る。

 咲希の中で、自分の予感と若草との出会いが、一つの確信を導き出す。雨宮に何かあったのだ。

 若草は黙り込んで、咲希は若草から目を逸(そ)らさない。

「…………」

「…………」

 時が止まったように見つめ合う二人が、最初にその沈黙を破ったのは若草のほうだった。

「彼女を乗せてください」

 運転手に声をかけると、後部の扉が勝手に開いた。

「……」

 咲希は呆然(ぼうぜん)とその様子を見ていたが、若草は奥に移動してすぐ目の前の席を咲希へと勧(すす)める。

「どうぞ。乗ってください」

 一瞬躊躇(ちゅうちょ)したが、咲希は言われるままに車へと乗り込んだ。扉が自動で閉まり、車は動き出した。

 車は夜の道を走る。前を塞(ふさ)ぐ車もないので、車は快調に先へと進んでいく。どこへ向かっているのかはわからない。運転手は前を向いたまま一言も喋らないし、若草のほうも咲希が隣に座ってからは口を閉ざしている。

 咲希は何か言おうと口を開いた。

「あの…………」

「どのくらい、わかりますか?」

 若草が訊ねる。

「上嶋さんは、どのくらい今の状況をわかっていますか?」

 咲希はしばらく俯いて黙考する。

 今の咲希には、何もわからない。MASKSの人たちにはわかるという気配も、咲希にはぴんとこない。

 しかし、咲希は迷わずに答える。

「あのときと、同じ感じがするんです」

 それは、夢で感じた感覚。

「あのときとは?」

 若草が訊き返す。

「二学期に、雨宮くんが学校に来た日です。その夜、私なんだかとても嫌な夢を見て」

 咲希は夢の説明を始める。

 誰もいない棄(す)てられた工場。その中に咲希一人だけでいて、不意に窓という窓から得体の知れないものの視線を感じる。咲希は嫌なものを感じ取ってそこから逃げ出す。

「倉橋さんは、全部終わった、って言ってました」

 咲希の言葉を、若草は黙って聞いている。

 若草は知っている。咲希が夢を見たという日、倉橋が全部終わったと言った日は、榊原樹が行動を起こした日、そして、榊原が消滅した日だ。

 榊原を中心に、町中のフラストが暴れ出して、同時に榊原は自分の仮面を解放した。一気に表層に浮き上がった心の領域。その異変に、咲希は気付いたのだろう。

 咲希はさらに言葉を続ける。

「あと、雨宮くんは今、きっと学校にいます」

 そこまで言って、咲希は若草を見た。

 若草は肯定するわけでも、否定するわけでもなく、真剣に咲希の話を聞いてくれた。

「あなたは…………」

 若草が口を開く。

「フラストと関わったために、感覚が鋭くなっているようですね」

 若草は苦笑する。

「普通のMASKSでも、そこまでわかる人はかなりの上級者に入ります」

 咲希の家から学校まで、かなりの距離がある。心の領域に最も近づく夢の中にいても、ここまで離れた距離の心の存在を感知できるのは、ホリックの中でもいない。

「私も、連絡を受けただけなので正確なことは言えませんが……」

 そう前置きしてから、若草はぽつりと言った。

「雨宮くんが、組織から離反(りはん)したようです」

 簡単すぎる、その一言。

 その言葉の意味を理解するのに、咲希はしばらく時間を要(よう)した。飲み込もうとして、しかし上手く頭が回らない。

 自分の頭の中にある、その単語の意味をようやく見つけて、咲希は恐る恐る口を開く。

「……それって、雨宮くんが組織を抜ける、ってことですか?」

 若草は曖昧(あいまい)に言葉を漏らす。

「さあ、組織を抜けるだけなのか。それとも、組織に敵対するのか。まだ詳しくはわかりません」

「どうして……!」

 咄嗟に言葉を漏らす咲希。

 しかし、それ以上の言葉が出てこない。

 雨宮の、組織からの離反。

 組織から抜けるにしても、組織は一般社会にその存在が知られることを嫌っていると雨宮は話していた。ならば、組織から出て行くことなどできるはずがない。

 それに、若草が漏らした敵対という言葉。その可能性は否定したいが、その可能性を仄(ほの)めかす若草の言葉は、それだけで咲希の胸には不安が広がる。

 雨宮は一体どうなるのか。

 そもそも、雨宮は何故組織を抜けたのか。

 組織の内情など知らない、ただの一般人に過ぎない咲希には、その大きな流れを察することができない。

「ここまで来てしまいましたし、あなたにも、お話しておきましょう」

 苦悩する咲希に、若草はこれまでのことを語り始める。



 地上から真っ直ぐに、白い塔(とう)が伸びている。五十メートル以上もの高さを誇るその塔は、目を凝(こ)らしてみると白い幻の塊だ。

 色を失ったバイクの集団、それに跨(またが)る無色の人間。現実味のない幻の集合体が、そこに非現実な塔を作り上げている。

 その塔の頂(いただき)に、二つの影が浮かび上がる。

「…………」

 クロは地上からその塔の天辺を見上げていた。

 天使の羽のように、背中から巨大な翼を広げた雨宮が、すっと右腕を前へと突き出している。その掌(てのひら)は上段にバットを構えた車谷の胸に触れて、二人は空中で静止している。

 無色のバイクの塔が消滅する。

「……!」

 クロは驚愕(きょうがく)に表情を歪ませて、しかし硬直したまま動かなかった。

 輝きを失った夜空を闇夜が支配して、天上から車谷の体が重力に引かれて自由落下する。バットを掴んでいた左手が離れて、右手だけで金属バットを握っている。足場を失った車谷は、何の抵抗もなく地面へと吸い込まれていき、衝撃音とともに校庭の上へと落ちた。

「……」

 クロから二十メートルほど離れたところに、車谷は仰向(あおむ)けで倒れた。

 気配を、感じない。

 エネルギーが消失したように、そこに穴が開いているようだ。車谷がかけていたサングラスの形をした仮面も、なくなっている。『番町(ばんちょう)』の証(あかし)が、失われたのだ。

「車谷さん(あなた)の過去(きず)、受け取りました」

 宙に浮かんでいた雨宮が、緩やかに地面へと着地した。

 異様だった。

 天使の翼は光り輝いて、その姿は神々(こうごう)しく美しい。漆黒(しっこく)に支配された夜闇の中でさえ、その白さを失わない天上の導き手。それは天が使わせた、使徒(しと)そのものだ。武器を持たず、ただ身に纏った光だけで全てを圧倒する。

 雨宮は自身の右手をしげしげと眺めた後で、クロへと視線を向ける。

「クロさんも、僕を止めますか?」

 余裕ではない。

 その言葉は事実を淡々(たんたん)と述べるようで、気負いするところがない。澄み切った声は、その光を背にして妙な威圧感がある。

 雨宮の問いに、クロは咄嗟に言葉が出てこなかった。

 細い目で雨宮の姿を注視して、クロは隣に立つサーベルタイガーに似た獣へと声をかける。

「アオ」

「何だ」

 アオがクロのほうへと視線を向けて、低く訊いた。

 クロは雨宮から目を離さずに言葉を続ける。

「仮面、少し借ります」

 アオの青い瞳が仮面の奥で揺れた。

「いきなり本気か」

 厳格さを含んだ声に、クロにしかわからない戸惑(とまど)いが滲んでいる。

 付き合いの長い一人と一匹だからこそわかる、互いの心の僅(わず)かな違和感。クロの仮面は『猛獣使(もうじゅうつかい)』、クロとアオは互いに心を共有させる。相手の心は自分のそれと等しく、よくわかる。

「ええ。でないと――」

 クロは前に視線を固定させたまま口元に笑みを浮かべる。

「ちょっと厳しそうです」

 慈愛に満ちた微笑みでも、余裕を見せるための笑顔でもない。すぐ目の前に深淵(しんえん)を見てしまったときの、あの恐怖を隠すための表情に似ている。

 アオはクロの顔を見上げてから、視線を前方へと移す。純白の翼を背に輝かせて立つ雨宮と、雨宮から大分離れたところで倒れている車谷。車谷の額に彼の仮面はなく、溢れるような車谷のオーラも感じない。

「好きにしろ」

 アオはぼそりと呟く。

 クロは柔和な笑顔をアオへと向ける。

「ありがとうございます」

 クロはアオから仮面を引き剥(は)がした。

 魔炎が上がり、炎に呑まれたアオは黒猫の姿に戻る。

「……」

 クロは両手で掴んだ仮面を眺めて、そして自分の顔よりも大きなその仮面を被る。

 ――魔炎が上がり、炎の中から野獣が現れた。

 一九〇センチメートル近いクロの身長が、さらに一メートルほど追加されて、最早(もはや)人と呼ぶにはあまりにも巨大過(す)ぎる大きさにまで膨れ上がった。

 肉体の変化は身長だけでなく、体つきまでも人とはかけ離れている。膨れ上がった筋肉のために衣服は伸びて、服の隙間から見えるのは闇色に染まった獣の体毛。倍近くまで膨らんだ両手にもびっしりと毛が生えて、指と同じ長さの鋭利な爪が光っている。

 人では獲得しえない上腕の隆起した筋肉の上には、痩せ型だったクロの胴回りほどの首が乗り、その上には仮面を被った野獣の顔が見える。ネコ科のように発達した牙と、仮面の下から覗く金色の瞳が獰猛(どうもう)に光っている。

「…………」

 目の前に現れた人外の獣を、雨宮は穏やかな目で見つめている。

 そこに恐怖はない。恐れはない。怯(おび)えもない。ただ事実のみを目に灼(や)きつけるように、その漆黒の野獣を静かに見つめている。

 ――瞬間、野獣の姿が霞(かす)む。

 クロが雨宮に肉薄(にくはく)している。

「!」

 雨宮の顔に驚愕の色が滲む。

 咄嗟に後ろに跳んで、翼を守りに出す。

 ――ドオォン!

 衝撃を感じたのは、百メートル離れた金網に衝突したときだった。

「……っ!」

 衝撃が、ビリビリと雨宮の身体(からだ)を震わせる。

 雨宮は薄く目を開く。霞む視界の中に、黒い獣の影が残像を残して近づいてくる。

「……」

 雨宮は地面を蹴って、天上へと舞い上がる。翼を羽ばたかせて、雨宮の体は校舎よりも高く飛び上がる。

 地上のクロは、雨宮を追いかけようと地面を蹴った。一蹴りで三階分まで飛び上がる。しかしそこが限界か、勢いは次第に衰えて自由落下に備えて体が宙で静止する。

 クロがさらに踏み込んだ。

 空を蹴って、クロはさらに跳躍する。

「……!」

 目を見張る雨宮に、クロは淡白な声で応える。

「忘れたか」

 重低音の、重みのある声。奈落(ならく)の底から響いてくるような、底冷えがする。

 普段のクロとは明らかに異質な声が、雨宮の耳にまで届く。いや、空気伝播という体から伝わるものではなく、直接心に響いてくるような、奇妙な感覚。

「アオは空を飛んでいただろ」

 クロはさらに跳躍する。クロは空を蹴って、一気に加速する。雨宮とクロとの間隔が、一瞬でなくなる。

 クロの拳が羽を散らす。防御に徹(てっ)した雨宮の翼が、砕けたように夜空を彩(いろど)る。クロは手応えを感じる。羽だけとは違う、固い感触だ。散った羽のために視界が悪いが、拳に響く感触が確かなものを教えてくれる。

 ――ぴたっ。

 クロの肩に冷たい感触が走る。

「……!」

 背筋に寒気が走った瞬間、クロの視界が暗転して、クロの体から力が抜ける。意識が遠のいて、心から何かが抜け落ちるような急激な喪失感(そうしつかん)が胸の内を占める。

「ニャー!」

 アオが鳴いた。

 学校の校舎を優に超える高さから、生身のクロの体が地面へと落下する。

 急いで駆け寄るアオに、しかしクロの体を受け止められるはずがない。派手な衝撃音で空気を震わせて、クロは校庭に横たわる。

「ニャー」

 クロの傍(かたわ)らで、アオが気遣(きづか)わしげに鳴いた。

 野獣の姿をしていたクロの体から体毛が消えて、顔に被った仮面も消えてなくなっている。あれだけの高さから落ちたというのに、外傷はない。意識だけを失ったように、クロは眠るように気を失っている。

「ニャー!」

 アオが必死に叫び声を上げるが、クロは一向に目を開かない。

 一方で、雨宮は地上へと舞い戻って、自分の右手を眺め見る。その掌を慈(いつく)しむように、憐(あわ)れむように、悲哀(ひあい)の表情でじっと見つめた後で、雨宮はぎゅっと手を握る。

「クロさん(あなた)の過去(きず)も、いただきます」

 校庭には、二つの人影が横たわる。空気を震わせるのは、悲痛な猫の鳴き声だけ。

 ――おおおおおおおおおお――――――――――――――――っ!

 突然、校庭が炎上した。

 瞬間、音と視界が一気に塗り替えられる。雨宮は驚いて顔を上げる。

「なぁにやってるのかしらぁ?」

 大人の女性特有の艶(なまめ)かしい、艶(つや)めいた声。

 その声を耳にして、雨宮は振り返った。

「雨宮くぅん」

 透き通るように白い肌が日本人形を起草させ、しかし彼女の大きく見開いた瞳はその印象とはかけ離れている。

 瞳に強い感情を滲ませて、白い頬を炎に染めた高峰灯(たかみねあかり)がそこにいた。右手には彼岸花(ひがんばな)の柄が描かれた扇子を手にして、顔の右側面には赫(あか)い仮面が揺れている。

 雨宮は静かに口を開く。

「意外だな。一条(いちじょう)さんあたりがまず来ると思ってたんだけど」

「その一条さぁんからぁ、メールが来たのぉ」

 高峰は頬を笑顔に歪めて、携帯電話を取り出して受信メールを開く。

「雨宮海斗(かいと)が裏切ったぁ。場所は学校ぉ」

 必要な情報だけを読み出すと、高峰は携帯を閉じて上着のポケットに仕舞った。

「気配を感じてすぐ出てきたからぁ、あたしのほうが早かったみたいねぇ」

 優美(ゆうび)な笑みを浮かべる高峰を、雨宮は憂(うれ)うような瞳で見返す。

「高峰さんも、僕を止めますか」

 高峰はおかしそうに笑う。

「命令ですものぉ、仕方ないでしょうぅ」

 そんなふうに、簡単に、高峰は告げた。

 当たり前のことを答えるように。まるで雨宮のほうがおかしなことを訊いているかのように。その自然な返答が、反って空気を歪ませる。

「――命令だから、戦わなくちゃいけないんですか?」

 雨宮が訊ねる。

 組織の命令は、絶対だ。無視をすれば、即ち反逆。その先に待っているものがどれほどのものか、雨宮だって知っているはずだ。

 それでも、雨宮は問う。

「それが命令だから、傷つけ合わなくちゃいけないんですか?」

 雨宮の問いに、しかし高峰はあからさまに表情を歪ませるだけで真剣に取り合わない。

「あなたぁ、頭大丈夫ぅ?」

 子莫迦にしたように目を細める高峰に、しかし雨宮はどこまでも真剣に言葉を紡ぎ出す。

「僕は、もう戦いたくない」

 苦悩に苛(さいな)まれた目で、雨宮は高峰に返す。

 迷っているのではない。ただ、現実を悲しんでいる、悲痛の叫びだ。

「誰かが傷ついているところを、見たくない」

 雨宮は言葉を、想いを続ける。

「戦って、争って、憎しみあって、啀(いが)み合って、傷つけ合って、殺し合って。そんなものは、もう見たくない」

 雨宮の言葉を受けて、高峰は嫌悪(けんお)を剥(む)き出しにした表情で、すっと畳(たた)んだ扇子を突き出した。

「矛盾してるわよぉ」

 高峰の指す先に、車谷とクロが倒れている。二人に意識はない。

 雨宮は首を横に振る。

「矛盾じゃない。僕は、人の心から傷を奪うだけ」

 雨宮は自分の右手を見つめる。その小さな右手は、背中から伸びる翼の光を受けて、神々しい輝きを放っている。

「傷がなくなれば、人は苦しまないですむ。もう二度と、誰かを憎んだり怨(うら)んだりすることはない。もう誰も、傷つけ合わなくていいんだ」

 雨宮は右手を握り締めて、胸の前で抱える。大切なものを仕舞い込むように、壊れ物を扱うように、優しく。

「僕が世界中の傷を背負えば、それで世界から争いはなくなる。皆にとって、住みやすい世界になる」

 雨宮の訴えに、しかし高峰はあしらうように返す。

「とぉんだお人良しぃ」

 そこには、隠そうとしない侮蔑(ぶべつ)の表情が浮かんでいる。

「世界にはぁ、気まぐれで人を傷つける人がいるのよぉ」

 MASKSは心に傷を持つ。

 高峰の過去(きず)を、雨宮は知らない。高峰の言葉には、彼女が抱えてしまった心の奥底を窺(うかが)わせる、激情の色がちらついている。

「その人にもきっと、傷があるはずだ」

 それでも、雨宮は譲らない。

 フラストは人の心から生まれた異端の化物。人を傷つけ、人の世界を乱す。だからこそ攻撃され、消さなければならない。

 しかし、フラストは人の精神的苦痛(ストレス)の塊。傷ついた心から生まれた、悲痛の叫び。痛みが、傷が、さらなる苦しみをこの世界にもたらすならば、全ての悪をどうして悪だと定義できるだろうか。

「莫迦みたぁいぃ」

 高峰が心底うんざりしたように溜め息を吐(つ)く。

 それが決定打となった。もう、戻れない。やり直せない。二人が止まれる瞬間は、永遠に失われた。

 高峰が手にした扇子を広げて顔のすぐ傍に掲(かか)げる。

「雨宮くんもぉ、仮面を壊されちゃったようねぇ」

 その言葉に、雨宮は違和感を覚える。

 しかし思考を巡らせる時間はない。高峰は彼岸花の裏に、自分の顔を隠した。

「灼(や)くるは焔(ほのお)、燻(くゆ)るは躰(み)」

 瞬間、高峰の口から感情が欠落した。

 高峰の顔を覆っていた扇子が取り払われて、現れた高峰の顔から仮面が消えていた。そこに映るのは艶やかな大人の女性の顔ではなく、感情のない、日本人形のように白い肌と魔力を秘めた大きな瞳。

「燻り燻りて、幻現(ゆめうつつ)」

 高峰が優しく風を起こす。

 途端に、雨宮の視界一面に炎の海が広がった。巻き上がる炎の風に、雨宮は咄嗟に目を瞑(つむ)った。



 目を開いたとき、そこには闇が広がっていた。上も下も漆黒に包まれて、世界そのものが消滅したように何もない。

 永遠に広がる闇の中で、白い光がぽおっと、二つ浮かび上がった。同時に、世界が二つに割れた。全てを呑み込む漆黒の空と、業火(ごうか)のように天下(てんげ)を染め上げる赤い海。浮かぶ白い光は、石ころのように生気がない。

「ここは……」

 雨宮の目に映る、無限の黒と侵食の赤、そして骸(むくろ)の白。

「僕の、記憶」

 今でもまだ覚えている。衝撃が大きすぎて大雑把(おおざっぱ)な情景しか思い出せないけれど、それでも雨宮には充分だ。雨宮が見た、経験した、雨宮の心の中に残っている記憶の塊。

「組織に入る前の、僕の家」

 夜も遅く、部屋の中には明かりが点いていたはずなのに、辺りは妙に暗かった。徹底的なまでに破壊された肉体は、そこら中が深い傷で覆われていて、止め処(ど)なく溢れた赤い液体は畳の上に染み込んでいく。血の気の抜けた肉は、月のように白かった。

「お父さん。お母さん……」

 その日、雨宮は父親に叱(しか)られて布団(ふとん)が閉まってある襖(ふすま)の中に隠れていた。怒られたときに布団の中に潜り込んでしまうのは、雨宮の癖(くせ)だ。

 両親を殺された日を境にして、雨宮は押入れの中のような狭い場所でしか眠れなくなった。辺りが見えてしまう広い部屋の中にいると、周囲の気配が異常なくらいに気になってしまうのだ。

 雨宮が家の中にモノを置かないのも、そのせいだ。襖の隙間から部屋の中を見渡したときに、何かモノが見えてしまうと両親を殺されたときの光景が蘇(よみがえ)る。赤い天下(てんげ)、白い塊、そして世界そのものを覆う暗黒の闇。

 両親を殺された現場のすぐ近くに、雨宮はいた。押入れの奥に隠れていたせいで見つからなかったが、犯人はすぐそばにいた。

 雨宮の目には、まだ灼(や)きついている。凶器を手にした真っ黒い影。雨宮にとって、闇は恐怖の象徴だ。だから雨宮は、夜道が苦手だ。闇そのものが、両親を殺した犯人(くろ)に繋が(リンクす)る。ぽっかりと開いた闇は、雨宮を呑み込んでしまう。

 何かが体を支配する。心の中を埋め尽くす音が聞こえる。外から、中から、締め上げられるように、満たされるように、それは決して雨宮を放さない。

 体が重い。意識が薄れていく。体中に粘(ねば)り気(け)の強い泥(どろ)が多い重なっているように、自由が利(き)かない。けれども、不快ではない。まるで安らかなる眠りのように、安楽死というのは、きっとこんな気分なんだろう。

 雨宮の心を、恐怖が絡(から)めとっていく。慈悲深い、それは殺意のない恐怖だ。

 ――何をやっているのかな。

 雨宮の耳元で声が囁(ささや)く。

 閉じかけた目を薄く開いて、声のしたほうに目を向ける。そこにぽおっと浮かぶ白い光が目に入った。その光に、しかし雨宮は驚かなかった。

 ――君は、こんなところで立ち止まっているつもりかい?

 仮面だ。

 目と口の部分だけくりぬいた、白い仮面。

 笑みを浮かべた仮面が、雨宮のすぐ隣に浮かんでいた。

 ――こんなもの……。

 仮面の下、闇の中から腕が一本伸びる。闇の向こうは空っぽで、体はない。まるで透明人間のようだ。

 指差す先に、雨宮は目を向ける。その先に両親と、殺人鬼の姿はなく、代わりに現れたのは仮面を外した雨宮自身だ。

 顔の右側面から垂れた仮面は、右目だけ異様に大きく、極彩色(ごくさいしき)の三角形を幾つも右目の周囲に飾って、狂喜の笑みを浮かべている。仮面の奥で、雨宮の瞳は殺意に燃えて、右手には大きなサブマシンガンが握られている。

 ――君はもう、捨てたはずだろう。

 囁きかける仮面に、雨宮は答える。

「いいえ」

 目の前に立つ自分自身へと、雨宮は歩み寄る。

 体から重みがなくなっている。縛るものも、絡めとるものもない。広がるのは無限の闇、ただそれだけ。

 立ち並んだ二人の姿は、同じはずなのに、少しも似ていない。銃器を手にした狂気の悪魔に、神々しい翼を背負った慈愛の天使。

 雨宮は静かに口を開く。

「僕は、僕さえも背負う」

 雨宮の仮面は、すでに砕かれている。雨宮の心を縛りつけていた過去(きず)も、今では雨宮が背負う身体(からだ)の一部。世界のために、雨宮はすでに自分さえも喰っている。今更迷うのは、それは自分の弱さだ。

 ――わかっているはずだ。

 雨宮は思う。

 ――迷う必要なんてない。

 仮面が囁く。

「……」

 すっと、雨宮は右手を伸ばして、もう一人の自分へと触れる。仮面を外した雨宮を眩(まばゆ)い光が包み込む。

「僕の心(きず)さえも、奪う」

 強烈な光が、闇を埋め尽くす。

 光に包まれる中で、白い仮面がさらに笑みを浮かべたような気がした。



 若草と咲希が乗った黒い車は、トンネルの中を走っている。トンネルの中を時折トラックや乗用車が通過していく。橙色(だいだいいろ)のナトリウムランプがちかちかと車内を明るく照らし出す。

「お話はこれで終わりです」

 若草は口を噤(つぐ)んだ。

 若草が咲希に話したのは、今までこの町で起きていたフラストの異常発生。その原因に、組織を裏切った榊原樹という人物が関わっていたこと。そして、榊原を倒したのが雨宮であること。

 咲希はゆっくりと若草の話を頭の中で整理しながら、口を開く。

「その榊原っていう人を倒しちゃったから、雨宮くんは組織の人たちに目をつけられちゃったんですか?」

 若草は曖昧に頷く。

「まあ、そういうことになりますか。実際は、雨宮くんの新しい力のほうなんですけど」

 若草の返答に、咲希はぽつりと呟く。

「心を消滅させる力」

 若草は頷く。

「触れただけで相手の心を消滅させる力。だから心と体の境界を失った榊原の体は、消えてしまった、というのが私の見解です」

 そう解説してから、若草が重い口を開いた。

「その力を、雨宮くんは仮面を破壊されて手に入れました。雨宮くんのそんな力を、組織は欲しがっています」

 咲希は俯いてしまう。

 若草の話で、大体のことは理解したつもりだ。しかしあまりにも咲希が知らなかったことばかりに、すぐには理解が追いつかない。咲希が理解したことは、雨宮が組織を抜け出そうとしていて、組織は雨宮のことを追っている、その必要最低限の情報だ。

 咲希は未だに回らない頭を何とか働かせながら、探し当てた言葉を口にする。

「雨宮くんは、そのことを知っているんですか?」

「わかりませんけど、その可能性はあります」

 若草は正直に答える。

 雨宮離反の連絡を若草は受けているが、実際の状況はまだ把握しきれていない。若草としても、この事態は最悪の場合(ケース)を想定したものが的中してしまった状態だ。雨宮が組織を抜けるようなことなど、それほど確信を持っていなかった。MASKS総指揮官として、念を入れた処置をしたまでだ。

 だからこそ、若草もまだ事態に納得できていない。

 若草が自嘲的(じちょうてき)な笑みを浮かべる。

「当然といえば、当然の反応かもしれません。しかし、あまりにも無謀(むぼう)です」

 さきほど咲希に答えたように、雨宮を組織に連れて行くのが昇格ではなくて実験体としてだということが知られていたら、雨宮が組織を憎んで離反することは考えられる。いや、雨宮の性格的には、実験体にされることを恐れているのかもしれない。

 しかし、それは安直(あんちょく)な考え方だ。組織の中にいる者ならば、そんな軽率な行動を取るべきではない。

 組織の中には、MASKS以外にも対フラスト用兵器の開発や、フラストを拘束するための装置が幾つも存在している。

 それはもちろん、心を解放するMASKSにも有効だ。トレストですら、一撃の下に動きを封じることができる。如何(いか)に雨宮の力が強大になったと言っても、そんなものを幾つも向けられたら抵抗しきれない。

 雨宮だって、組織にいる間にそのくらいのことは学んでいるはずだ。榊原のときとは違い、組織トップ層は躊躇をしないだろう。

「どうして、雨宮くんは組織を抜けようとしているんですか?」

 咲希の言葉に、若草は曖昧に首を横に振る。

「さあ、私にはわかりません」

 咲希のほうに目を向けて、若草はできるだけ車内の空気が重くならないように、配慮しながら言葉を選ぶ。

「組織に連行されて、実験体にされるのが嫌なのでは?」

「…………」

 気遣わしげに表情を和(やわ)らげて言った若草に、しかし咲希は納得した様子を見せない。膝(ひざ)の上に置いた手元を凝視しながら、何か考え込むように口元に力が入っている。

 その真剣な表情に、若草は自然と声をかけていた。

「上嶋さん?」

 若草の声は、咲希の耳に入っていないかのようだ。咲希は手元をじっと見つめたまま、視線を上げない。窓から差し込んでくるネオンランプの光が、咲希の顔を細切れにしたように照らし出す。

「私は…………」

 静寂を帯びた車内で、咲希がぽつりと呟いた。

「……私は、そうは思いません」

 咲希の言葉に、若草は咄嗟に応(こた)えることができなかった。

 咲希は独り言でも言うように、言葉を続ける。

「違うと思います」

 咲希は前を向いた。咲希の横顔がどこか浮世離(うきよばな)れして見える。中世の絵画から切り取られたような、見るものを惹(ひ)きつけてしまう強い表情だ。どこまでも続く長い長いトンネルの先、咲希は一体何を見ているのだろうか。

 若草は首を傾(かし)げる。

「どうして、そう思うんですか?」

 咲希は小さく首を横に振る。

「わかりません。でも……」

 言い淀(よど)むように、咲希は口を閉ざす。もどかしそうに口を微(かす)かに動かして、咲希は表現しにくい言葉を何とか口にする。

「そんな感じがするんです」

 咲希の言葉に、若草はどう返していいのか、迷った。

「…………」

 何か言おうと思って、しかし言葉が浮かんでこない。簡単な言葉ではいけないのだと、咲希の雰囲気が若草を立ち止まらせる。

「君は――」

 言いかけた瞬間、車内を照らしていた橙色の光が消えた。どうやらトンネルを抜けたようだ。弱い月明かりに照らされて、車内は暗い。窓の外を見れば、街頭も少ないせいで寂しい道が伸びている。

「……そろそろ、目的地に着きます」

 それだけ、若草は呟く。

「はい……」

 咲希が返して、二人はしばらく黙り込む。人気のない道を、沈黙が流れていく。



 世界は、漆黒の闇と炎の海に包まれていた。闇夜を彩る星々は炎の明かりに照らされて姿を隠している。

 地面を焦(こ)がす炎の中で、雨宮は高峰を掴んでいた。真っ直ぐ伸びた右手は高峰の首元を支えて、光は掌の中に収束していく。

 光の消滅とともに炎は霧散(むさん)して、辺りには十月の冷たい風が揺れている。雨宮が右手を離すと、高峰の体は糸の切れた人形のように地面に倒れた。

「高峰さん」

 雨宮は憐れむような目で高峰を見下ろした。

「高峰さんも、同じなんだ。僕と同じ。でも……」

 雨宮は高峰を見つめていた視線を、右手へと向ける。直前まで光を帯びていたその小さな掌は、今は何の変哲(へんてつ)もない、ただの人間の手だ。

「僕は立ち止まるわけにはいかないから」

 雨宮の背後に、人の気配が生まれた。

 気配を感じて、雨宮は静かに振り返った。人々が寝静まる夜の学校、その校庭に新たに二つの人影があった。雨宮の見知った二人の姿に、雨宮の心には温かいものと冷たいものが不完全に混ざり合って渦(うず)を巻いている。

「雨宮海斗(かいと)」

 最初に声をかけてきたのは、一条だった。氷のように冷たい声と、凍(い)てつくように鋭利は瞳が、雨宮に突きつけられる。

 雨宮は穏やかな笑みを口元に浮かべて二人に挨拶をする。

「こんばんは、一条さん、倉橋くん」

 返事はない。

 校庭に倒れている車谷の姿を見つけて、仮面を外した倉橋が叫んだ。

「車谷先輩……!」

「…………クロに、高峰も」

 一条も辺りを見渡して、その場に倒れている三人の姿を確認する。

「全部、あなたがやったんですか?」

「はい」

 雨宮の返事は、清々しいほど躊躇いがない。その清らかさは、三人ものMASKSを倒したものには不釣合いなほど穏やかだった。その静けさが、絶対的な自信からくるものなのか、反って不気味だ。

 倉橋は悔(くや)しさに奥歯を噛(か)んで、雨宮に向かって叫んだ。

「『跳馬(はねうま)』、これはどういう……!」

「僕はもう『跳馬』じゃない」

 倉橋の言葉を、雨宮は遮る。

 欠片(かけら)の躊躇もなく、雨宮は答える。

「僕の中にいた『跳馬』は、もういない」

 MASKSには、それぞれの仮面に名前が与えられる。その名前が、すなわち仮面の特性やMASKSが抱える心の傷に直結してくる。

 倉橋は『鉄槌(てっつい)』、一条は『死神(しにがみ)』、そして雨宮は『跳馬』。

「どういう意味だ」

 雨宮は答えない。

 倉橋は苛立(いらだ)ったように叫び声を上げる。

「どういう意味だよ。そりゃッ!」

 恫喝(どうかつ)に怯(ひる)むことなく、雨宮は静かに倉橋を見返すだけで答えない。嫌な沈黙が、両者の間に広がる。

 その沈黙を破ったのは、一条だった。

「雨宮海斗。あなたを組織に敵対する存在として――」

 すっと、手にした大振りの鎌を雨宮に向ける。鋭利な刃が、月明かりを受けて妖しく光る。

「この場で処刑します」

 髑髏(どくろ)の仮面、左の眼窩(がんか)を覆うカーディナルレッドの光を通して、一条の瞳が刃物のように冷たく雨宮を射抜く。

 一条の冷たい声に、倉橋の激情は一気に冷めていく。

「待ってください『死神』さん。あいつは……!」

「下らない情は捨てなさい」

 倉橋の言葉を、一条は無情に遮る。

「あれは、敵です」

 一条の言葉と、そして一条の瞳を見て、倉橋はぞくりとする。

 一条の目に宿っているもの、それは紛れもない殺意だ。僅かな間でも、ともに戦ってきた仲間に対する情など微塵にも感じさせず、その揺るぎない決意に、倉橋は呼吸が止まってしまいそうな錯覚を感じた。

「あなたはそこで見ていなさい」

 倉橋に一瞥(いちべつ)も与えず、一条はすっと前へと歩み出る。

「手出しは、不要です」

 その言葉に、倉橋はようやく金縛りが解けて、咄嗟に一条を止めようと手を伸ばした。

「いや、待ってください。俺は戦えます。一人じゃ流石(さすが)に……」

「足手まといです」

 倉橋の言葉さえも、一条は一蹴する。

 倉橋はそのまま硬直して、押し黙ってしまう。

 一条はホリックで、倉橋はそれ以下の一構成員。実力差は明確だ。上級同士の戦いは、よほどの規模でない限り、数など意味がない。それは、目の前ですでに倒れている三人の姿から、容易にわかることだ。

 向かい合う、一条と雨宮。

 髑髏を模(も)した仮面を被り右手に鎌を握る姿は、地獄の使いたる死神を連想させる。故に、一条の仮面の名は、『死神』。

 対する雨宮は、光り輝く翼を背中から伸ばし、神々しい後光に照らされている。戦場には不釣合いな、穏やかな微笑。天上で暮らす天使と見紛(みまが)うほどだ。

 一条の仮面、一条から見て時計回りに九十度傾いた仮面の左の眼窩が、カーディナルレッドから真紅へと、その色を増す。

 ――ドスッ。

 雨宮の体に衝撃が走る。

「えっ……」

 反射的に、雨宮は自分の腹部に視線を落とす。

 へそよりも少し上、鳩尾(みぞおち)のすぐ下から真っ赤に染まった鎌が生えている。

 雨宮の視界からは見えないが、雨宮のすぐ後ろに、黒衣のローブを身に纏った人影が浮かんでいる。

 ローブの下からは足がなく、ローブの隙間から見えるのは肉を失った鋼色(はがねいろ)の骨だけ。頭部には頭蓋骨が埋まって、眼窩からは赤い光が雨宮を凝視している。肉のない細い腕で巨大な鎌を掴んで、刃を雨宮の背中から突き刺している。その姿は、タロットカードなどに出てくる死神に似ている。

「…………」

 雨宮の服が、赤く染まっていく。傷口から溢れた血が服を濡らしている。

 雨宮の右手が、伸びた刃を掴んだ。

 ――強烈な光が夜闇を照らす。

 光に呑まれるように、死神が消滅する。

「……!」

 途端に、一条はその場に膝を折った。

「いやああああああああああああああああああっ!」

 苦痛に目を見開いて、一条が叫び声を上げた。

 普段の冷静さからは想像できない、取り乱した姿に、倉橋は度肝を抜かれた。両手で頭を抱えて、激しく頭を横に振っている。

「消さないで消さないで消さないで!若草さんの、若草さんの思い出っ」

 心の海辺(うみべ)から貝殻を拾い上げるように、何かが一条の中から喪失していく。掬(すく)い上げられる瞬間、その記憶が水面に映し出される。

 ――榊原と戦う若草。その後ろで、ただ眺めていることしかできない一条自身。一条は叫びたい声を、しかし必死に堪(た)えて今と同じように倒れている。

 その情景が、波紋(はもん)に呑まれて消えていく。

「いやああああああ――――――――――っ!」

 一条は絶叫する。

「一条さん。あなたは……」

 雨宮が蹲(うずくま)る一条に目を向ける。雨宮の服には裂け目に沿って鮮血が濡れているが、もう傷口は完全に塞がっている。

「黙れ!」

 反射的に、一条が叫び返す。

 ここにいる誰もが口を噤んだ。

「それ以上言ったら、私はあなたを許しません」

 ゆらゆらと、一条は立ち上がる。気丈(きじょう)にも立ち上がろうとした一条は、しかし足元がふらついてしっかりと立っていられない。一条は鎌を杖にして何とか立ち上がる。

「嫌な力ですね。人の心を奪うなんて」

 鋭利な瞳で雨宮を睨む。

 鋭い眼光は、しかし僅かに揺れて、一条の顔は蒼白(そうはく)にやつれて見える。

「辛(つら)いなら、どうか僕を放っておいてくれませんか?」

 そんな一条を見かねてか、雨宮が優しい声をかける。

「失うことが、一条さんにとって苦しみになるのなら、僕はこれ以上、一条さんから何も奪いません。僕はただ、人の心から苦しみを取り除いてあげたいだけなんです」

 その天使の囁きを、しかし一条は悪魔の誘いのように切り捨てる。

「上からものを言うのは止めなさい」

 ぴしゃりと言い放つ一条の瞳に迷いはない。

「裏切り者は許さない。それが――」

 すっと、一条は杖代わりにしていた鎌を上げる。刃の長さは一メートルを超える大鎌、ただの重りではない、これは敵を倒すための一条の武器(さつい)。

「組織の意思です」

 血の気の失せた顔で雨宮を睨む。一条の顔に、疲労の色はもうない。

 そんな一条を、雨宮は憐れみのこもった目で見返す。

「どうして…………」

 雨宮が口を開く。

「どうして自分の心を隠すんですか?」

 憐憫(れんびん)。同情。雨宮の目は慈愛に潤(うる)んでいる。

「伝えたい気持ちがあるのに。それを覆い隠して、別の感情で塗り潰す。その人だって、きっとわかって……」

「黙りなさい」

 一条の言葉が、雨宮の口を塞いだ。

「殺します」

 刹那(せつな)、一条は地面を蹴った。

 大振りの鎌を腰だめにして、雨宮へ肉薄する。雨宮は動かない。逃げることも、避けることもせず、その鋭利な刃を体に受け入れる。

 肉を突き抜ける鈍い音。

 生温い赤に刃が染まる。

 一条が手にした大鎌は再び雨宮の腹部にできた傷を押し広げて、刃は背中から半分以上も抜けている。

「あっ、あっ、ああああああああああああああああっ!」

 荒い息を吐き出しながら、一条が苦悶(くもん)に侵される。

「いいいいいいいいいぃぃ、あああああああぁぁぁぁあああああああああっ!」

 自分の体に突き刺さる鎌を右手で押さえて、雨宮の右手からは強烈な光が溢れ出す。

 一条の心の中で濁流(だくりゅう)が起きる。血管の中を沸騰(ふっとう)した血液が循環するように、荒れ狂う波が体中を蝕(むしば)んでいく。しかし磨耗(まもう)していくのは一条の体ではない、積み上げられた一条の心(きおく)だ。

 それは夏の台風に似ている。吹き荒(すさ)ぶ風、荒れ狂う雨、空気は嵐に呑まれて、世界は暗黒と脅威に包まれる。

 ――浮き上がり、浮き上がり、浮き上がり。

 しかし世界から見れば一瞬の嵐に怯えるだけ。風も雨もなくなれば、そこに現れるのは世界を照らす太陽。強い日差しに当てられて、地上を濡らした雨粒は瞬く間に蒸発して、残るのは干乾(ひから)びた地面だけ。

 ――消えていく、消えていく、消えていく。

 浮かび上がる無数の記憶、思い出は、神々しい光の前に呑み込まれていく。

「ああああああああああああああ――――――――っ」

 光が世界を包む。

 強烈な光が、しかし反転したように世界から消える。再び戻った闇の中に、雨宮と一条は立っていた。

 ゆっくりと、一条の体が傾いでいって、乾いた音を立てて地面に倒れる。雨宮の体を貫いていた鎌はなく、一条の顔からは髑髏の仮面が消えている。

「一条さん(あなた)の気持ち(きず)も、僕がもらいます」

 自分の言葉が、とても遠くから聞こえてくるような気がした。

 じっと見つめる自分の掌が、ただ遠い。

 雨宮はただぼんやりと自分の小さな右手を眺めて、自分の声を聞いた。

 ――不憫(ふびん)な子ですね。

 雨宮の耳元に、別の声が囁く。

 雨宮は別段驚くようなことはなく、じっとその声を聞いている。空気を震わせない声は、雨宮にしか聞こえない。そして、雨宮のすぐ隣に浮かんだ妖しい光を放つ白い仮面の姿も、雨宮にしか知覚できない。すでにこの世には存在していない、幻だ。

 ――秘めた想いを隠すために、その上から殺意で塗り潰す。本当はとても純粋で、一途(いちず)な子なのに。

 雨宮の右手から、全身に、心に、直前に取り込んだイメージが流れ込んでくる。そこに映るのは、いつでも同じ人物像。そのたびに、胸が熱くなったり、締めつけられたり、触れたいけれど、触れてはいけない。

 複雑な感情が絡み合って、けれどもそこに流れるのは一つの気持ち。それを覆い隠す別の心。決して表には出せない、その複雑で純粋な心。

 雨宮の背後で、白い仮面が笑みを浮かべる。

 ――でももう彼女は、想うことすら叶わない。

 雨宮は目を瞑って小さく祈りを捧げる。今の雨宮自身に、果たして祈る権利などあるのかと自問しながら。

「……………………」

 短い祈りを終えて、雨宮はその視線を倉橋のほうへと向ける。

 今まで硬直していた倉橋が、警戒するように身構える。そんな倉橋を見て、雨宮の瞳に暗い影が落ちる。

「僕は、君とは戦いたくない」

 呟いた雨宮に、倉橋は険(けん)のある目で睨む。

「俺を腰抜けにする気か」

 低く唸(うな)るような声で、倉橋は返す。

「俺は逃げない。貴様のようには、貴様のような、卑怯者(ひきょうもの)には、絶対ならない」

 仮面を剥がした、殺気だった倉橋の瞳が雨宮を見据える。そんな倉橋を、雨宮は憐れむような目で見ていた。

 ――戦うことが、勇敢なのか。

 人は争い、傷ついていく。その傷を隠すように、人は仮面を被る。痛みに震えて、傷を広げて、傷を作る。どうして人は、こうも理解(わか)りあえないのだろう。

 ――傷つけ合うことが、正義なのか。

 倉橋はすっと右腕に左手を添える。音もなく、右腕に光が収束していく。呼応するように、雨宮も右腕を上げようとする。

「待って!」

 雨宮は動きを止めた。

 二人は同時に振り返って、そして目を見開いた。



 その少女の登場に、雨宮は目を奪われた。

 駆け寄ってくる彼女は、倉橋の二メートルほど前まで来て立ち止まる。雨宮と少女と、二人の間に開いた距離が奇妙なほどにもどかしい。

「上嶋さん……?」

 雨宮の口が自然と動く。

「どうして、ここに?」

 押し潰されそうな闇の中で、咲希はしっかりとした声で返した。

「雨宮くんを、感じたから」

 驚いて自失(じしつ)していた雨宮も、次第に現実を認識し始めてきた。雨宮の視界がしっかりと咲希の像を結ぶ。

「そうか」

 雨宮は納得したように頷いた。

「上嶋さんは、ここまで感じ取れるんだ。凄いな」

 微笑む雨宮。

 幼さの残る柔らかい笑顔が、しかし咲希の目には傷だらけに映った。

「なんで……」

 咲希が掠(かす)れる声で訊いた。

「なんで、雨宮くんは、組織を辞めるの?」

 最初に出てきた疑問は、それだった。頭の中がぐちゃぐちゃになって、何を言えばいいのかわからない状況で、咲希の口から最初に発せられたものは、何故雨宮が組織を裏切ったのかという疑問。

「もう僕は、戦いたくないんだ」

 咲希の質問に、雨宮は答える。

「僕は、もう誰も傷ついて欲しくない。傷ついて、苦しむところを、僕は見たくない。だから、僕は…………」

「心を……、奪うの?」

 咲希の震えを極力抑えた声に、雨宮は柔和に微笑んだ。その穏やかな表情には、どこか哀愁(あいしゅう)漂う、暗い色が覗いているようだ。

「人は傷ついて、痛いと感じる。傷つけられるから、怒ったり、悲しんだりする。傷が争いを生んで、でも皆痛みに泣いている」

 雨宮は悲しそうに目を伏せる。

「もう僕は、誰も傷ついて欲しくない」

「だからって……」

 溜まらず、咲希は口を開く。

「人の心を、全部奪ってしまうの?」

 訴えるように、咲希の口は止まらない。

「高峰さんや、それに、早沙音(ささね)の心も?」

 咲希の視界には、校庭に倒れた四人の人影が映っている。その中に、高峰もいる。

「…………」

 雨宮は視線を落としたまま、咲希から目を逸らしている。

 咲希からは雨宮の表情を、感情を読み取ることはできない。しかし、最近の早沙音の変わりようと、若草の話が、咲希の中で繋がった。人の心を奪ってしまえるなら、早沙音にお姉さんの記憶がないのも、理解できないだろうか。

 雨宮が原因なのかは、わからない。

 けれども、雨宮が否定しないのもおかしい。

 雨宮は目を伏せたまま、小さく呟く。

「僕は、白百合(しらゆり)さんを殺した」

 どくん、と咲希の心臓が高鳴った。

 雨宮は後悔するように、言葉を紡(つむ)ぐ。

「早く、気付いてあげられれば良かった。もっと早く、彼女の気持ちに気付いてあげられれば良かった」

 咲希は混乱した。

 ――何を、言ってるの?

 理解が追いつかない。

 ――なんで、今そんなことを言うの?

 胸が絞(し)めつけられて、息苦しい。目の前が霞みそうになる。地面が揺らいでいるみたいだ。

「僕は、彼女を傷付けて、殺した」

 咲希は灼(や)けそうになる喉(のど)を堪えて、唇(くちびる)を噛んだ。

「真奈(まな)は、雨宮くんのせいになんかしない」

 自分が何を言っているのか、わからない。衝動に任せて、咲希は言葉を吐き出す。

「真奈は、そういう性格じゃない。そんなふうに、考えたりしない。真奈は…………」

 言葉が途切れた。じわりと、目元が熱くなって目の周りが痛い。簡単な言葉なのに、口にするのが辛い。

「雨宮くんのことが、好きだったはず」

 雨宮はふっと微笑む。

「上嶋さんは、何でも知ってるね」

 その笑顔に、咲希は追いたてられるような恐怖を感じた。背筋を冷たいものが走って、手足が小刻みに震え出す。

「雨宮くんは、真奈の恋心(きもち)まで、奪うつもりだったの?」

 雨宮の笑顔が消えた。

 哀愁を帯びた表情に、咲希は衝動のままに言葉を紡いだ。

「真奈の大切なモノまで、消しちゃうの?」

「笹竹(ささたけ)さんは、元気になったじゃない」

「早沙音がかわいそうだよ!」

 咄嗟に、咲希は叫んだ。

「だって、だって…………」

 涙が止まらない。

 体が熱くて、舌が上手く回らない。

 息苦しくて、震えを押さえられない。

「早沙音はもう、お姉さんに会えないんだよ」

 震える声にも構わず、頬を伝う涙も気にしないで、咲希は言葉を吐き出す。

「思い出すことも、できないんだよ。楽しかったことも、悲しかったことも、お姉さんと過ごしたたくさんの時間を、一生忘れたままなんだよ」

 雨宮は咲希から目を逸らすように、顔を横に向けている。

 涙で視界がぼやけて、咲希には雨宮の姿がぼんやりと見えているだけだ。

「辛いから忘れちゃえばいいなんて、そんなの嘘!」

 ありったけの声で、咲希は叫ぶ。

 今の早沙音は、確かに笑っている。しかしあの笑顔は、悲しみを乗り越えた強さとは違う。何もない、空っぽの笑顔だ。泣かなければいけないときに泣けないことが、果たして幸福なのだろうか。悲しみや、辛いときの涙や弱音は、なくなったほうがその人のためなのだろうか。

「全部忘れたら、嫌なこともなくなるかもしれないけど、良かったことや嬉しかったことも、全部なくなっちゃうんだよ」

 生きていることは、自由であると同時に、拘束されている。何をやってもいいなんて、そんなことはありえない。自分がいて、他人がいて、だからどこかで折り合いをつけなければいけない。咲希はすでに、そのことを認識している。

「…………じゃあ、私は?」

 咲希は凍えそうなほど弱った声で、呟いた。

「もしも、私の心の中にフラストがいたとき、雨宮くんが心を奪うことができたら――」

 咲希の心の中には、化物(フラスト)がいた。それは咲希の精神的苦痛(ストレス)が生み出した、もう一人の自分(ばけもの)だ。

 雨宮は言った、誰も傷つけたくない、と。そのために人の心から傷を奪う。悲しみや苦しみがなくなれば、人は誰も傷つけない。傷つけ合うことがない。世界から、争いがなくなる。

 そんな雨宮に、咲希は問う。

「その心も、雨宮くんは奪っていた?」

 雨宮の右手が、ぴくりと反応する。

 今の雨宮は、咲希の言葉になんて答えることができるだろうか。もしもなんて、現実には存在しない。咲希の心には、もうフラストはいない。死んでしまった真奈は、生き返ってはくれない。奪ってしまった早沙音の記憶も、元に戻すことはできない。

 過去を取り戻すことができない現実に、雨宮が手にしたのは、過去を消去する能力(ちから)。雨宮はこの手で、全てを奪うことができる。

「――私は」

 咲希が口を開く。

 さきほどまでの激情はなくなっていたが、そこにあるのは泣き疲れた力のない声ではない。咲希の目はまだ赤みを残していたが、その瞳は輝いている。

「忘れちゃいけないと思う」

 雨宮がハッとして咲希を見る。

「フラスト(そのきもち)は私の罪でもあるし、記憶でもある。私が背負わなきゃいけないことだし、私自身が乗り越えなくちゃいけないことだから。だから…………」

 咲希は、決して曲げない気持ち(こころ)を世界に向けて発した。

「私は、忘れちゃいけないと思う」

 そこにいる者、全てが唖然(あぜん)として何も言えなかった。倉橋も、雨宮も、遅れてやってきた若草でさえ、咲希の言葉に釘付けになっていた。

 咲希は、自ら生み出したもう一人の自分(ばけもの)を、自分の意志(こころ)で乗り越えたのだ。それを雨宮も知っているから、反論ができない。雨宮が背負わなくても、咲希は過去(きず)に縛られたりしない、確かな証人だ。辛いことが、必ずしも人を苦しめるとは言い切れなかった。フラストがなくなってから、咲希が変わってきていることを雨宮は知っていたはずなのに。

「そっか……」

 雨宮は頷いた。

「そうかも、しれない」

 雨宮は、もう一度頷いた。

 雨宮の心は、奇妙なくらい穏やかだった。光が差したという感覚は、決して大袈裟ではない。心の中で、引っかかっていたものが零れ落ちたような、妙な安堵感(あんどかん)。

 ――何をしているのですか。

 雨宮の耳元で仮面が囁いた。

 ――迷っているわけではありませんよね?

 その囁きには振り向かず、雨宮は正面へと目を向ける。咲希のすぐ隣に若草が立った。

「雨宮くん」

 若草は雨宮に向けて声をかける。

「君のことは、私が保証する。組織に行っても、私ができる限りのことをする。だから……」

 何とか説得しようとする若草に、雨宮は微笑んだ。

「ありがとうございます」

 雨宮は若草にお辞儀をする。

「僕は、大丈夫です」

 虚勢(きょせい)ではない。

 そのはずなのに、雨宮の笑顔は痛いくらい胸を突いた。まるで幻のように、雨宮の存在が遠くに感じられる。

 しかしこのとき、誰がそれに気付いただろうか。

 雨宮の耳元で、仮面が囁く。

 ――何をしている?

 語気が変わった。

 穏やかな調子が一変して、そこにあるのは脅迫的(きょうはくてき)な意思の強い声。仮面の姿が、雨宮の視界に入った。

 暗黒の仮面だった。闇の中にあるのに、その存在感は妙に強い。二つの目をくりぬいた部分の上下に白い線がはいっていて、雷の模様を連想させる。

 暗黒の仮面が雨宮を下から見上げてくる。

 ――若草(あいつ)はお前を騙していたんだぞ。

 敵愾心(てきがいしん)を露(あら)わにした声が、雨宮に向かって告げる。

 ――組織に戻れば、お前は実験体として道具のように扱われる。ホリックになんかなれやしない。MASKSにだって、もう戻れない。このまま組織に行けば、お前という存在は確実に消える。

 もう何度目だろうか、仮面の囁きを雨宮は心に刻みつけられる。

 心は常に雨宮に囁きかける。奪った心は、雨宮の中でともに生きている。背負った以上、雨宮は心の叫びを聞き続けなければならない。起きているときはもちろん、寝ているときでさえ、雨宮は心の悲鳴から耳を塞ぐことはできない。雨宮を守る仮面は、もうないのだから。

 暗黒の仮面が、低い声で命じる。

 ――何も迷うな。俺だけを信じろ。なぜなら俺は、お前なんだからな。

 暗黒の仮面が強く、笑みを浮かべる。

 優しさの欠片もない、そこにあるのは殺意に魅(み)せられた残虐(ざんぎゃく)な笑みだ。

「…………」

 しかし雨宮は、仮面を一瞥もしない。

 ――すっ……。

 右手を伸ばして、自分の顔を覆った。

 ――おいっ。何をする気だ!

 仮面が、明らかにどうようした声を上げる。その悲痛な叫びは、雨宮にしか聞こえない。心の中で、無数の心が騒ぎ出す。

 ――莫迦なっ。止せ。そんなことしたら、お前は……。

 叫ぶ声たちに、しかし雨宮は顔色一つ変えない。胸が絞めつけられて、心を痛めつけられても、雨宮は微笑んだままだ。

 雨宮の右手が、顔を塞いだ。

 ――途端、光が解放される。

 甲高い悲鳴が雨宮の心の中でのたうち回る。

 溢れた光は、雨宮の姿を完全に呑み込んで、周囲の視界から消し去った。

「――――――――っ」

 若草が驚いて目を見張る。

 倉橋が咄嗟に声を上げる。

 咲希が声を振り絞って叫んだ。

 光に呑み込まれるように、音がなくなった。昼夜を逆転させる強烈な光に、全ての視界がなくなった。

 光の中で、雨宮は体が軽くなるのを感じる。背中の翼が空を飛びたいのか、大きく上下している。

 無数の声が、光の中に吸い込まれては消えていく。その中に、黒い点のような染みが見えた気がしたが、すぐに光の中に消えてしまい、見えなくなる。

 光に抱かれて、雨宮は霞む視界で咲希の姿を見た気がする。彼女の周りには、幻のように幾つもの影がちらついて見える。

 雨宮は微笑んだ。

「みんな…………」

 光に呑まれて、その声すら聞こえない。

 世界を呑み込む光は、無数の声を優しく包みながら崩れ始める。

 ――ミンナガシアワセナセカイヲ。


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