終曲
山を登っていくバスを見送って、咲希は坂道を下っていく。都会のような大きなビルの群はなく、黒いコンクリートの道の横にはところどころから草が伸びた空き地が広がっている。泥が顔を出している田んぼを眺めながら、咲希は道を下りていく。
温かみのある太陽を浴びながら、頬にあたる風はひんやりとしていて気持ちがいい。都会では味わえない、静かさと穏やかさが広がっている。
公民館のような建物を前にして、咲希は足を止めた。一見すると診療所のようにも見えるが、看板もないので何の建物かは見ただけではわからない。外に立てかけられた掲示板には、「はやくおうちにかえりましょう」と子ども向けのポスターが、既に色褪せてボロボロになりながらも残っている。
咲希は扉を押して中へと入る。
「こんにちは」
声をかけたが、返事はない。ロビーにも人の姿はない。
咲希は奥の廊下へと進んでいく。木でできた細い廊下は歩くたびに小さく軋んで、両側にはガラス窓越しに幾つもの部屋が見える。小学校を思わせる部屋の中には、しかし机や椅子の数は見受けられない。物置に使われている部屋もあれば、人のいる部屋もある。人の年齢はバラバラで、小学生くらいの子どもがいたり、高校生くらいの人もいたり、老人ホームのような空間もある。様々な人たちが、この建物で交流を深めている。
「あ、咲希お姉さん!」
不意に声をかけられて、咲希は足を止めた。今までと同じくらいの大きさの部屋に、しかしその中にいるのは両手で数えられるくらいの人しかいない。小学校低学年くらいの子どもがほとんどで、残りは咲希のお母さんくらいの年頃の女性と、中学生、あるいはギリギリ小学校高学年くらいの男の子がいる。
中学生くらいの男の子に、咲希は挨拶を返す。
「こんにちは。海斗くん」
「こんにちは!」
子どものように無垢な笑顔を振り撒く、雨宮海斗がそこにいる。小学校低学年くらいの子どもたちの輪の中で、一緒に積み木遊びをしている。
「咲希お姉さん、見て見て」
雨宮は立ち上がって、咲希の手をぐいぐいと引っ張る。
「なあに?」
雨宮は奥の棚の前まで来ると、自分のロッカーから何かを取り出した。
「ほらっ」
それを咲希に差し出す。
それはA3の画用紙だった。咲希は画用紙を受け取って中を見た。クレヨンを押し付けたような、それは絵だった。人の絵だろうか、真ん中に大きな肌色の顔が画用紙の大半を占めている。
咲希は微笑んで雨宮に訊いた。
「上手だね、海斗くん。これは何の絵?」
「若草のおじさん!」
雨宮は即答する。
改めて絵を見て、咲希は小声で笑う。
頭につばのついた帽子を被って、顎の周りにはちゃんと無精髭が描いてある。よく見ているなと、咲希は感心する。
「そっくり」
雨宮に手を引っ張られて、しばらく子どもたちの輪の中にいると、部屋の戸を叩く音がして咲希は顔を上げた。
――コンコン。
その音に気付かないのか、子どもたちは遊びに夢中だ。
部屋の中にいた女性と、雨宮と咲希だけが、そこに立っている男を見上げた。
「やあ、上嶋さん」
絵の中の男が、そこにいた。
いつ見ても変わらない、優しそうで、それでいてどこかくたびれたような笑顔。咲希は引き込まれるように微笑み返す。
「こんにちは。若草さん」
咲希は立ち上がり、雨宮の頭を撫でてあげる。こう見ると、雨宮が本当に子どものように見えてしまうからおかしい。
「海斗くん。お姉さん、若草のおじさんとお話があるから、もう行くね」
雨宮は元気よく頷く。
「うん。また遊びに来てね」
すっと差し出された腕を、咲希は見つめる。握り締めた右手の拳の、小指だけがぴんと立っている。
咲希はくすりと笑って、右手の小指を雨宮の指と絡める。
「うん。約束」
雨宮と指きりをして、咲希は部屋を出た。部屋を出るとき、雨宮が手を振ってくれたので、咲希は笑いながら手を振った。
部屋を後にして、若草と咲希は廊下を歩いて玄関のほうへと進んでいく。
「お久し振りです」
最初に口を開いたのは咲希だった。
「久し振りです。ゴールデンウィークはどうしてました」
「研究室の課題に追われてました。卒論が近いので、文献と辞書とを毎日にらめっこしています」
若草は一瞬天上を見上げて、咲希を見る。
「卒論、ということは、もう四年生になるのかな」
「はい」
咲希の返答に、若草は時の流れを感じる。
「早いね」
「雨宮くんも、随分変わりましたよね」
咲希は微笑んで頷く。
「今日は絵を見せてもらいました。とても上手ですね。私がまだ高校生だった頃とは大違い。その頃は、話しかけても何も喋ってはくれませんでしたし、ずっと避けられてばっかりだったのに」
苦笑する咲希。
若草は頷く。
「もう六年経ちますから。知能も、小学一年生くらいになりますね」
その言葉に、咲希の心は何かに突き刺されたように痛んだ。無理に笑おうとして、けれども耐えられなくて、次第に表情が沈んでいく。言葉までも、消滅していく。
「…………思い出したりは、しないんですか?」
ぽつりと、咲希が呟いた。
「記憶が少しでも戻ったりは……?」
咲希はじっと若草の顔を見つめる。
何かを求めるように、咲希の顔には悲痛なものが滲んでいる。
「…………」
若草は黙って首を横に振る。
それを見て、咲希は俯く。
「そうですか……」
若草はそんな咲希の様子を見て苦笑する。
「寂しいかい?」
咲希は答えない。
しばらく考え込むように、下ばかり見ている。
「でも、記憶が戻ったら、組織に送り返されてしまうんですよね」
若草は言葉を失った。
それ以上の言葉が続かず、二人は建物の外へと出た。澄んだ空はどこまでも青く、白い雲が穏やかに揺れている。
道の上には車も通らず、人混みもない。柔らかい風が肌をくすぐる感触だけが心地よく、心の中を吹き抜けていく。
「――今でも」
空を見上げながら、若草が口を開く。
「組織の研究班のほうからは、雨宮くんの引渡しを求めているよ。研究資料としてこちらに渡すべきだ、ってしつこいくらいだ。もちろん、断っているけどね。もう雨宮くんは、MASKSではないから」
六年前、咲希が高校一年生の二学期が始まったばかりの頃。
雨宮は組織を抜けようとして、そのとき雨宮を止めようとした数人のMASKSはその戦闘の影響で記憶の欠落が見られ、MASKSとしての力も失った。もう彼らは、心を解放するこることができない。
そして。
――暴走。
雨宮は自分の力を、自分に対して使った。
心を喰らう力。触れた人間の、記憶を食い荒らす。記憶を食べられた人間は、その記憶を永遠に失う。雨宮はその力を使って、彼を止めようとしたMASKSの記憶を奪った。その人が抱える心の傷を、雨宮は一人で背負おうとした。
そして雨宮は、自分の心を喰い殺した。雨宮の記憶は、完全に失われた。MASKSとしての自分、MASKSになる前の自分、今まで生きていた自分の証、全てを。
――雨宮くんは、自分で自分を終わらせたんだ。
しかし、咲希は知っている。
それは、雨宮の気持ち。
――もう誰も、傷つけないために。
咲希は俯いて目を細める。
二人の間に、別の声が入ってきた。
「若草さんっ!」
二人は声のした方向を見た。
傾斜のある坂道を上ってくる一台の自転車の姿が見えた。袖にレースのついた半袖に、下はデニムパンツ、サンダルを履いている。前の籠には茶色いメッシュバッグが納まっている。女性らしい雰囲気に、しかしその切れ長の眼鏡だけで見間違うことはない。
二人の前で自転車を降りた女性に、若草は快く答える。
「お帰り、一条くん」
一条玲は若草に笑顔を向けて、後ろで立っている咲希に気付いて、急に表情を曇らせる。
「こんにちは、玲」
咲希が挨拶すると、一条は小声で返す。
「……こんにちは」
横から若草が声をかける。
「大学の講義は、もう終わったんですか?」
瞬間、一条の表情がぱっと明るくなる。
「そうそう、今日教育実習の申し込みをしてきたんです」
若草が嬉しそうに頷く。若草の表情に触発されてか、一条は快活に口を滑らせる。
「来年からいよいよ、小学校に行くんです」
自信満々で言う一条に、若草は微笑を浮かべて頷く。
「すごいですね」
若草に褒められて、一条は照れたように笑う。頬を上気させて、感情を溢れさせる彼女は、とても魅力的に咲希の瞳には映る。
充分釣り合いが取れると思うのに、若草がそれを認めないことを咲希は知っている。それが、とても悲しい。若草が一条の傍にまだいるのは、好意ではなく後悔からだ。
一条は自転車を押しながら、二人のほうへと振り返る。
「じゃあ私、子どもたちの面倒見てきますね」
一条の背中に若草は頷いて答える。
「はい、よろしくお願いします」
自転車を建物の脇に置いて、一条は玄関を潜っていった。廊下を進んでいって、部屋の中へと入っていく。
一条の姿が見えなくなったところで、咲希が若草に訊ねる。
「他の人たちは、今どうしていますか?」
若草は一瞬目を細める。
「倉橋くんと高峰くんだけが、まだMASKSを続けています」
咲希の表情が暗く曇る。
――他の雨宮と戦った者は、もうMASKSではない。
若草の言葉の奥には、その意味が隠れている。
「――私は」
若草がぽつりと呟く。
「自分のやっていることに疑問があります。まだ組織に身を置きながら、彼らの生活を、こうやって見届けている」
若草が自虐的に笑う。
「全く、私は矛盾しています」
心の傷に苛まれた人たち。
彼らの心をさらに壊して、過酷な戦いへと追いやる組織。傷ついた人たちに戦いを命じるMASKSのトップが若草だ。
そんな彼は、戦いの役目を失って、組織から見放された戦士たちの、その後の生活の世話をしている。彼らの履歴は、基本的に存在しない。戸籍すら消失しているものも、少なくない。組織が彼らを道具として扱うために、剥奪されたものがほとんどだ。
心をすり減らし、用が済めば捨てられる彼らに、向かう場所はない。そんな元MASKSのために、家や仕事を斡旋する作業を、若草は組織には秘密裏に行っている。
辛い過去をもつものたちを酷使して、彼らがそこから解放されれば可哀想だからと情けをかける。若草自身は、それを矛盾と称する。
「でもそれは、若草さんが決めたことなんでしょう」
咲希は真剣な目で若草を見つめる。嘲笑するでもなく、曖昧に返すわけでもなく、真摯に若草の言葉に応える。
「私は、矛盾しているなんて思いません。とても素敵なことだと思います」
「決めた。決めた、か……」
若草はまた自嘲する。
「力で人の心を押さえつけるのではなく、人が、自分で自分の心に立ち向かえるような、そんな社会を作り上げる。まだまだ理想の域をでないけどね」
いつか咲希に語った、若草の夢。
心の苦しみを無理矢理押さえつけるのではなく、苦しみを背負った人が自力でその苦しみを乗り越えられるような、そんな方法の模索。
実現の遠い夢を瞳の奥に映しながら、若草は口元を緩める。実年齢以上に長い年月を感じさせる若草の頬は、蓄積した疲労のせいか、くたびれて見える。
そんな若草を見ながら、しかし咲希は大真面目に口を開く。
「いいじゃないですか。夢を持ったって」
視線を、咲希のほうへと向ける。
真剣な少女の目が、キラキラと輝いて笑った。
「だから、私、院へ行きます」
若草は驚いて、首を傾げる。
「君は確か、文系だったはずじゃ……?」
咲希は照れたように笑う。
「教授にも言われました。院へ行ってもロクな仕事はないぞ、って。でも私、仕事決めてますから」
咲希は自信をもって答えた。さっきの一条みたいに。
「精神カウンセラーになりたいんです」
精神カウンセラー、海外に比べて知名度は低く、扱いも低い。あまり生活が保障される職業ではない。
それでも、咲希は決めたのだ。
若草が組織に残って中から変革を探すように、一条が教師になって真っ直ぐな人間を育てるように。
「人の悩みに接して、少しでもその人の苦しみがなくなってくれればいいなって、思うんです。誰だって、人は生きている限り、悩みが尽きないんだから」
人は誰でも仮面を被る。そのために、傷ついていく人がいる。傷を隠して、気がついたときには身を切るような痛みになっている。
――だから人は、人に触れたいと思うのかもしれない。




