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第三楽章 使徒は祈る

 学校が終わって、雨宮(あめみや)は一条(いちじょう)に連れられて市内のビジネスホテルにやって来た。大きな町の駅の近くにある交通に適したホテルで、一条は一つの扉の前で立ち止まる。

「どうぞ」

 一条がノックをすると、すぐに中から声が聞こえた。

 一条が扉を開けると、中に若草(わかくさ)がいた。

「失礼します」

 一条が部屋に入り、彼女に従って雨宮も中へと入る。

 部屋はビジネスホテルにありがちな一人部屋。部屋の半分近くをベッドが占領して、三人も入ると窮屈(きゅうくつ)で仕様がない。

「では、私はこれで失礼します」

 一条はすぐに一礼して二人に背を向ける。

「ああ、ありがとう」

 部屋を出て行く一条に、若草は礼を言った。一条は部屋の外で再度一礼して扉を閉める。

 雨宮と若草は向かい合う形で、部屋の中に残った。若草は椅子に座っていて、そのせいか雨宮と若草の視線はほとんど同じ高さにある。

 若草は優しい笑みを浮かべる。

「突然呼び出してしまって、悪いね」

「いえ……」

 昨日のうちに、雨宮の携帯にメールが入った。送り主は一条で、用件は若草に会いに来ること。場所は一条が案内するので、学校が終わり次第、校門まで来ること。

 呼び出しをした若草本人が連絡しないのも、用件の内容が書かれていないのも、組織ではよくあることだ。雑務は下のものが代わって行い、連絡内容は必要最低限に留(とど)める。組織の秘密主義の傾向が、そこからもわかる。

「組織から戻ってきたばかりでね。まあ、そこに座ってくれ」

 若草は雨宮をベッドへと促(うなが)す。室内にもかかわらず、若草はつばのついた帽子を目深に被っている。

 雨宮はベッドに腰掛けて、若草に訊ねる。

「組織から戻ってきた、ってことは、何か呼び出しでもあったんですか?」

 若草は頷く。

「うん。榊原(さかきばら)のことで、色々とね」

 それ以上のことは、何も言わない。

 組織のトップの人間だけが、組織内の全ての情報を知る権利を有する。それ以下の一構成員は、情報の開示を求める権利を与えられない。任務に必要なだけの情報しか知らされず、その理由は明確ではない。それが、秘密主義の組織の性格だ。

 若草は椅子に深く座って、言葉を続ける。

「そのことで、雨宮くんには話しておかないといけないことがある」

 雨宮は反射的に背筋を正す。

 若草の立場を、雨宮は重々知っている。MASKS(マスクス)総指揮官、つまり雨宮の上司、MASKSのトップたる人物。

 普段、任務の連絡などはMASKS各自に配布されている携帯、または現在の自宅へと郵送される。MASKS総指揮官である若草がこうやって個々にMASKSを呼び出す場合、その内容は相当重大なものだ。

 その重大なことを想像したとき、雨宮は悪い報(しら)せの可能性しか思いつかない。若草と面会するときは、いつもそうだったからだ。

 若草は、しかし感じのいい笑みを顔に浮かべる。

「おめでとう、雨宮くん。君は大手柄だ」

 賛美(さんび)の言葉に、しかし雨宮の頭は理解が追いつかない。

 咄嗟に、頭の上に疑問符が浮かぶ。若草の言っている言葉の意味が、雨宮には飲み込めない。緊張していた肩から急に力が抜けて、雨宮の口は半開きのままで固まった。

「君は榊原樹(いつき)を倒してくれた。組織のほうでも、君には感謝している」

「いえ、そんな……」

 反射的に答えて、雨宮の体は妙な居心地の悪さを感じる。

 何か、よくない報せを告げられるのではないかと、内心身構えていただけに、若草のその言葉が咄嗟に飲み込めない。

 若草は優しい笑みを浮かべたまま続けた。

「そこで、雨宮くんには一度組織に戻ってほしいんだ」

 雨宮の口から声が漏れる。

「え……?」

 雨宮の頭は、まだ理解しきれていない。今の状況もそうだが、その言葉の意味するところも、はっきりしてこない。

 次の若草の言葉で、雨宮は驚きでさらに混乱した。

「君の今までの活躍が認められて、君の昇格が決定した」

 言葉を理解するのに、数秒を要した。

 沈黙が流れ、ようやく雨宮が口を開いた。

「え、じゃあ。僕は――」

 雨宮は再び考え込む。MASKSにとっての昇格の意味を思い浮かべると、一つしか浮かんでこない。しかしそれが容易には納得できない。

「ホリックに、なるんですか?」

 ホリックは、MASKSの中でもかなりの実力を持つものに送られる地位だ。雨宮は、同期の倉橋や高峰がMASKSとして外に出るよりも、大分遅くになって組織を出た。その影響からか、今でも雨宮はフラストの気配を読むのが苦手だ。

 しかも雨宮はMASKSになったばかりで、外の人間に自分の正体をバラしかけるという失態を犯した。

 MASKSとしての任務期間はまだ一年もいかず、実力も経験も不足している。そんな自分が、ホリックになる。簡単には信じられない。

 若草は、しかしあっさり頷く。

「そういうことだ」

 雨宮が目を瞬(しばた)かせるのに構わず、若草は続ける。

「組織へ行くにしても、色々と準備があるだろう。一週間後の早朝にこの町を出る。こちらで迎えに行くから、それまでに支度を済ませておくように」

「あ、はい。でも…………」

「でも?」

 言い淀(よど)む雨宮に、若草は訊き返す。

 雨宮はぎこちないながらも、それに答える。

「あまりモノがないので、いつでも出られますけど」

 その返答に、若草はつい微笑を浮かべる。

 雨宮の部屋は知っている。以前、雨宮に会うために一度入ったことがある。あまりモノがない、というのは、実際は正しくない。ほとんどモノがない、と言ったほうが正確性をついている。

 雨宮の家には洗濯機も冷蔵庫もない。流し台の上には俎板(まないた)も置かれていない。戸棚の中に食器の類(たぐい)が仕舞ってあるのかもしれないが、それは不確かだ。

 部屋を開けたら、おそらく開けたうち十人が十人とも驚くだろう。例えでもなんでもなく、本当にモノがないのだ。テーブルもない、ベッドもない、カーテンもない、他のあらゆるものがない。いつでも人が引っ越してこれるような、綺麗な空間。

 その光景を思い出しながら、若草は微笑んだ。

「色々あるだろ。学校の友達と一緒に過ごす、とか」

 若草は言葉を続ける。

「組織に戻った後の、君の移動先も特に決まっていない。だから、高峰(たかみね)くんや倉橋(くらはし)くん、それに今までペアを組んでいたクロくんとも、よく話をしておくといい」

 雨宮の顔が突然、影を帯びる。

「また、この町に戻ってくるんじゃないんですか?」

 若草は肩を竦める。

「組織に戻った後のことは、まだ決まっていないからなんとも言えないけれど、移動になる可能性が高い。ホリックの戦力は大きいからね。一つの地域に固めるわけにはいかないんだ。だから、またこの町を担当してもらうかどうかは、正直わからない」

 雨宮は表情を暗くして頷いた。

「そうですか……」

 ホリックになれば、今まで担当していたよりも広い地区を任されることになる。それに伴って、担当地区の移動もありうる。頭ではわかっていたけれど、いざそれを告げられると、戸惑(とまど)いを覚える。

 今まで接した人たちと別れて、新しい町に身を置く。もう高校生という年だが、まだ幼さの残る雨宮は不安を隠しきれない。

「次の町でも――」

 雨宮の心を見透(みす)かしてか、若草が優しい声で言った。

「君の活躍は、期待しているよ」

 雨宮は驚いたように顔を上げる。そして、次第に若草の言葉を理解していったのか、顔に喜色(きしょく)が広がっていって、雨宮は大きく頷いた。

「はい」

 それから若草は、雨宮に町を出る際の細かな連絡をして、それで全てを済ませた。用事が済んで、雨宮は部屋を退室した。

 雨宮が部屋を出て一分もしないうちに、外からノックする音が聞こえた。

「どうぞ」

 若草が応(こた)えると、扉が開いて一条が部屋の中へと入ってくる。

「やあ、一条くん。何かようかな」

 微笑んだ若草に、しかし一条は答えようとしない。

 つかつかと狭い部屋を進んで、若草のすぐ前で立ち止まる。二人の距離は、十センチメートルもない。

「…………」

 対応に困った若草を完全に無視して、一条は若草の後ろの机へと手を伸ばす。

「今回は、余計なことを話されなかったようです」

 体を起こして、一条は若草から一メートルくらい距離をあける。

「…………また、それか」

 一条の手にしているものを見て、若草は肩を落とす。

 直方形で掌に乗るくらいの大きさのアラーム。時間が経(た)つと警告音が出るタイプのものだ。

「そんなに信用がないかな。私は」

「あなたは甘すぎるからです」

 苦笑交じりに言ったつもりが、一条に一蹴(いっしゅう)されてしまった。一条には悉(ことごと)く、冗談というものが通じない。

「しかし――」

 眼鏡の奥の、一条の瞳が一瞬色を変える。

「予定通りですね」

 付き合いの長い若草だからこそ気付いた、僅(わず)かな変化。

 一条の瞳から、冷たさが和(やわ)らぐ。敵意を剥(む)き出しにした鋭利な刃物が、安堵したように溶けて和らぐ。

 若草は微笑して頷く。

「ああ」

「結構です」

 その言葉を発した瞬間、一条の瞳が冷たい色に戻る。事務的で、感情を殺した、冷たい瞳。

 若草の笑みに、疲労感にも似た一抹(いちまつ)の陰りがよぎって、一条は心配そうに眉(まゆ)を寄せる。端(はた)から見れば、また追求しているようにも見える。

「まだ、迷っているのですか?」

 数秒の沈黙を置いて、若草は口を開く。

「…………いや」

 溜め息混じりに、若草は答える。

「もう、決意は固めている」

「そうですか」

 事務的な返事が、さらにこの窮屈な空間を零下(れいか)に落とす。一条の瞳には、すでに感情は失せて、温かみもなかれば、切りつけられるような鋭さもない。ただ冷たいだけの空気が、この部屋に淀んでいる。



 雨宮がまず向かったのは、電車で一時間以上もかかる場所。駅を出てすぐに目につくのは畑ばかり。ただ広い空間の中に生え揃った緑や果実が目を惹(ひ)いて、町の風景とは異なる雰囲気を漂わせている。

 大分昔に舗装されたまま手をつけられていない道路を十分くらい歩いて、雨宮は大きな道を逸(そ)れて橋の下へと向かう。

 道路とは異なる材質で整備された遊歩道。日も傾き始めて、道の上には散歩を楽しむ中年から初老にかけての人々や、部活のランニングに使っているのだろうか、十代の人の姿も見受けられる。

 川に沿って引かれた道を、雨宮は歩く。太陽の光を背に浴びながら、五分ほど進んだ先に新しい橋が見えてきた。こちらの橋のほうは整備が行き届いているのか、橋の上には街頭も見える。

「あ、いたいた」

 橋の下、ちょうど影になったところに人影を見つけて、雨宮は歩調を速める。

 雨宮が近づいて、最初に気がついたのは黒猫のほうだった。草地の上で寝転がっている人の奥で寛(くつろ)いでいたであろう黒猫が、すっと身を起こす。暗がりの中、猫の青い瞳が雨宮を凝視する。

 猫の動きに反応するように、草地で寝ていた人間が首を雨宮のほうへと向ける。まだ寝ているのではないかと思ってしまいそうなくらい、細い目。表情は穏やかで、ついつい見惚(みほ)れてしまいそうな優しい顔つき。

「クロさん」

 雨宮が声をかけると、クロは上半身を起こした。

 日が落ちかけた暗がりの中で、クロが見につけているものは綺麗に黒一色で統一されている。白い地肌だけが、異様なくらい浮かんで見える。

 いつもと変わらないクロの姿を見て、雨宮は妙な安心感を覚える。

「やっぱりこちらでしたか」

 クロは優しい笑みを浮かべながら口を開く。慈愛(じあい)に満ちた、誰もが見入ってしまいそうな美しい笑顔だ。

「何か私に用ですか?」

「はい、今までお世話になったのでお礼を言いに来ました」

 雨宮は姿勢を正して、行儀よく頭を下げる。

「今まで、ありがとうございました」

 クロは微笑む。

「こちらこそ、お世話になりました」

 雨宮は顔を上げて、クロを見た。クロの慈愛に満ちた笑顔が目の中に広がって、不思議と気持ちが良くなっていく。

「なかなか楽しかったです」

 雨宮はやや首を傾(かし)げながら訊ねる。

「隣、いいですか?」

「どうぞ」

 雨宮はクロのすぐ隣に腰を下ろす。黒猫、アオの座っている場所はアオの特等席なので、雨宮は手前側に座る。

「クロさんは、どこか別の町に移動するんですか?」

 雨宮が訊くと、クロは首を横に振った。

「いえ。私はしばらくこの町を担当することになりました」

 雨宮は驚いて訊き返した。

「移動しないんですか?」

 クロは頷く。

「榊原さんとの戦いで、組織は多くのMASKSを失ったようです。ホリックも何人かやられて、その穴を私が埋めることになりました」

 雨宮は納得した。

 榊原樹によるものと思われるフラスト大量発生、及びMASKSと等しい実力を有するフルセルフの出現。榊原のために、多くのMASKSが傷を負い、何人かは心を奪われた植物状態にある。

 MASKSの損失によって、各地域で大きな移動が行われている。今までは、対榊原樹用にと、各地域のバランスも崩れていた。榊原樹が潜んでいると思われる地域には、通常以上のMASKSが配置されていた。

 榊原樹が倒されたことにより、何人かのMASKSには担当区域の移動が伝えられている。クロの場合は、MASKSが欠けた穴に埋め合わせとしてこの町に残ることとなったのだ。

 そこで、二人の会話が途切れた。

「…………」

「…………」

 雨宮は俯いて、クロから視線を外す。

 言うべき言葉は、決まっている。何を伝えなければいけないのか、何のためにここまで来たのか、そんなことは雨宮も理解している。

 一時間もかけて、この場所までやって来た。用がなければ、わざわざこんなところまで来るはずがない。それを伝えなければ、意味がない。

 口に出そうとして、しかし上手く言葉にならない。何と言って切り出せばいいのか、わからない。

 迷っている雨宮の隣で、しかしクロは特に気にした様子もなく、じっと目の前の川を眺めている。

 終(つい)に決心して、雨宮はクロへと顔を向ける。

「僕は、この町を出ます」

 雨宮は町を出る。

 決まったことだ。若草がそう言っていた。この町を出て、組織へと戻る。まだ次にどこの地域を担当するかは、決まっていない。この町に戻ってこれるかも、今の雨宮にはわからないのだ。

 クロの顔が、雨宮へとゆっくりと傾いだ。

 雨宮は言葉を続ける。

「組織に、戻ることになりました」

 雨宮の言葉に、しかしクロは動揺しない。いたって普通、いつも通りに、クロは優しげな笑みを浮かべたまま返す。

「らしいですね。若草さんから聞きました」

 雨宮は目を細めて苦笑する。

「あの場所に戻るなんて、ちょっと信じられません」

 その言葉を引き継(つ)いで、クロは口を開く。

「一度あの施設から出たら、基本的に戻ることはありませんから。MASKSを辞める日が来ても、組織に残ることを希望しない限り、あそこには二度と戻りません」

 MASKSを辞めるのは、MASKSとしての能力を失うとき、仮面を外せなくなるときだ。通常は心の解放率が下がり始めた頃で、その時期になると組織から通知が届く。

 MASKSのこと、組織のこと、全ての記憶を消された上で、組織を抜けて社会の中で生きるか、組織のある場所まで戻ってそこで第二の人生を過ごすか、そのどちらかだ。

 元MASKSで組織に戻る者は少なく、職自体も用意されてはいない。若草のように、元MASKSで、かつ独立監査委員にまでなれるのは、かなり稀少(レア)なケースだ。

「僕は――」

 雨宮は緊張したように、固い表情をクロに向けて、言った。

「ホリックになれるみたいです」

 クロの表情が、不意に崩れる。

「そう、若草さんが言ったのですか?」

「はいっ」

 雨宮ははっきりとした声で答える。少し興奮しているのか、声が弾んでいる。雨宮の輝いた瞳を見て、クロは不意に視線を上に逸らす。

「そうですか」

 独り言のように呟いてから、雨宮のほうへと視線を戻す。

「それは良かったですね」

 そこにはいつもの微笑が広がっている。

「おめでとうございます」

 雨宮の頬が再び上気して、嬉しそうに微笑む。純粋で、無邪気(むじゃき)で、無垢(むく)な、幼い表情がそこに広がっている。

「ありがとうございます」

 二人のすぐ隣で、アオは大きく欠伸をして、退屈そうに身を丸めて、尻尾(しっぽ)を風になびかせている。



 あれから、数日が過ぎた。若草が雨宮に組織へ戻ることを告げたときとは、また別の日。雨宮に残された、この町で過ごすという一週間は、刻一刻と消費されていく。その短い期間に、雨宮は身近な人たちに別れを告げて回った。

 ここで言う身近な人たちの中には、高校でのクラスメイトは含まれていない。雨宮が学校からいなくなる、という近未来的事実を皆に知らせでもしたら、おそらくは――特に女子生徒の間で――大騒ぎになることは簡単に予想される。

 そうなれば、好奇心の塊(かたまり)である女子生徒の中から、転校理由やら、転校先について、とやかく質問攻めにあうだろう。予想される質問に、雨宮は何一つとして答えることができない。事実を話すわけにはいかないから、ここは最後まで黙っていて、クラスメイトの皆には悪いが、秘密のままで学校を、この町を去るしかない。

 咲希(さき)にだけは、話をした。咲希は雨宮の事情を知っているし、説明は簡単だった。それに、心の世界(こちら)とは無関係だった咲希を巻き込んでしまったので、雨宮は申し訳ない気持ちがしている。咲希にだけは、伝えておこうと思ったのだ。

 もちろん、倉橋や高峰には話をした。同じMASKSなのだし、今まで一緒に戦ったのだし、話しておく必要はあるだろう。

 二人には、雨宮の移動については知らされていなかった。当然だろう。組織は必要な情報しか提供しない。雨宮が移動になったとしても、倉橋や高峰の今後の活動には何も影響しない。MASKSは元々、単独で行動し、単独でフラストと戦闘を行う。今までが、関わり過ぎていたくらいだ。

 雨宮が去ろうとしている、この町は、しかし変わらず、目に映るのは平凡な日常が流れていくだけだ。

「ふぅ、ふぅ……」

 ビルが犇(ひし)めき合う町の中にぽっかりと開いた緑に囲まれた場所、人々が心と体を休める、そこは公園だ。敷地は広く、子どもが遊ぶような遊具がない代わりに、とにかく緑が多い。整備された道の上にはベンチも置かれて、休憩にはもってこいだ。

 公園の石段を上った先、大きな木が一本だけ生えたその影に、車谷(くるまだに)が上半身裸で素振りをしている。

 素振りと言っても、片手で金属バットを掴んで、我武者羅(がむしゃら)に振り回しているだけだ。縦に、横に、斜めに、規則性がない。秋の風に、車谷の隆起(りゅうき)した筋肉から溢れる汗がさらわれていく。

 人の数は少ないが、そんな数少ない階段を上ってくる人々は車谷の姿を見つけて、それぞれが奇異の視線を向けて、たちどころに立ち去ってしまう。

 石段の影からヘラヘラと笑う小学生くらいの子どもたち。上りかけて携帯電話を取り出してすかさず写真を撮る高校生。十分くらい意味深に笑って去っていく老人。様々な人が車谷を見かけては、そのまま去っていく。

 そんな車谷に、声をかけるものはいないし、警察に通報する人もいない。車谷を目にする人たちそれぞれが個々に満足して、それで充分のようだ。

「車谷先輩!」

 背後から声をかけられて、車谷は振り返った。

 そこに倉橋の姿があった。

「よお、駿(しゅん)」

 倉橋はバットを下ろして、倉橋のほうへ体を向ける。

「先輩はお元気ですか?」

「おいおいおい。俺を何だと思ってるんだ、お前は。元気に決まってんだろ。元気なのが俺の取り柄だ」

 車谷は笑って答える。

「そうですよね」

 倉橋がわざとらしく手で頭を叩いてみせる。

「良かったですわ。あの戦い以来、先輩におーてなかったですから。ちょっと心配してたんです」

 車谷が大きく口を開けて答える。

「バーカっ。俺があんなのに負けると思ったのか」

「そうですよね。先輩やったら、相手がトレスト何体でも、フルセルフでも、楽勝ですよね」

 すかさず、倉橋が車谷の言葉に同調する。

 車谷はホリックだ。MASKSの中でも、上位の実力と認められたものの証(あかし)。まだMASKSの一兵器に過ぎない倉橋には、とても及ばない力だ。

 車谷は顎(あご)に手を当てて首を捻(ひね)る。

「まあ、あれは確かにヤバかったな」

 倉橋は驚いたように目を見開く。

「先輩でも、梃子摺(てこず)りはったんで?」

 車谷は眉(まゆ)に皺(しわ)を寄せる。

「なんせ、あのフルセルフとかいう奴のせいで、MASKSも大分やられたらしいしな。仮面壊されてもう戦えねーヤローとか、ホリックでもやられた奴とかいるみてーだしな」

 フルセルフによって、MASKSにどれだけの被害が出ているのかを二人は知らない。兵器の戦闘に必要のない情報は、MASKSには知らされない。しかし、異常なまでのフラスト大量発生と、新たに現れたフルセルフという存在によるMASKSへのダメージは、相当大きいことを二人も耳にしている。

「でも、先輩は……!」

 倉橋が口を開きかけたとき、別の声が二人の間に割って入ってきた。

「ここにいましたか」

 倉橋は口を閉じて、二人は声の主へと視線を向ける。

 石の階段を上りきり、現れたのは一条だった。いつも一緒にいるであろう若草の姿は、今はない。

「車谷徹也(てつや)」

「よお。一条」

 車谷は偉ぶるように腰に手を当てる。

 車谷の姿を、しかし一条は冷めた瞳で見返すだけだ。

「なんだ。何か用か?」

「その前に、服を着なさい」

 車谷は面倒臭そうに表情を歪(ゆが)ませる。

「いいじゃねーかよ、別に。んで、用事は何だ」

 一条は至極事務的に返す。

「準備は終わってますか?この町を出る準備です」

 車谷は当然のように答える。

「もちろん、まだだ」

 その返答に、一条は顔色一つ変えずに、凍えるような口調で命じる。

「三日以内に、この町を出なさい。そして、次の町に移動しなさい」

 その言葉に、車谷はあからさまに顔を歪める。

「若草は一週間後、っつってたじゃねーか」

 鋭利な眼鏡の奥で、一条の瞳が僅かに細くなる。

「総指揮官です。あなたが時間を厳守するとは思えません。早め早めに行動するよう、心がけてください」

 車谷は吐き捨てるように言った。

「はっ。若草が一週間後っつったんだ。テメーが決めるこっちゃねーだろ。ごちゃごちゃうるせーヤローだ」

「総指揮官です。若草総指揮官に対するそういう態度は、あなたの身を滅ぼします」

 一条の言葉に、しかし車谷は開き直ったように声を上げる。

「ご忠告ありがとよ。俺は元々こういう性格だ。もう一生、更生(こうせい)は無理だ。テメーは黙って、さっさと組織に帰んな」

 睨(にら)み合う二人。

 車谷と一条の間に、緊迫した空気が流れる。

 組織の意思を絶対だとする一条と、組織の対応に反抗心剥(む)き出しの車谷は、会うたびに衝突している。考え方が全く正反対な二人なだけに、仲違(なかたが)いは仕方がないのだろうか。

 一つ一つに目を光らせる一条も極端だが、組織に身を置きながらその飼い主の不満ばかりを口にする車谷も、なかなか度胸がある。

 その凍りついた空気を、察してかいないのか、倉橋が緊張感のない、間の抜けた声で二人の間に割って入る。

「先輩、この町出ちゃうんですか?」

 下から見上げてくる倉橋の視線を感じて、車谷は咄嗟に頷く。

「あ?ああ」

 その返答に、倉橋はガッカリしたように目尻を下げる。

「寂しくなりますわ~」

 その言葉に、車谷は軽く笑い返す。

「またどっかで会えんだろ。女々(めめ)しいこと言うな」

 それでも納得しないのか、倉橋は女々しい言葉を続ける。

「海斗(かいと)も、この町出てしまうんですって」

「海斗?」

 車谷は反射的に訊き返す。

「雨宮海斗のことです」

 倉橋の言葉を聞いて、二秒くらい経ってようやく雨宮の顔が浮かんできた。

「ああ、あいつか」

 倉橋と、そして雨宮、二人は以前、車谷指導の元、強化訓練を行った。期間は二週間、倉橋とは組織にいたときから見知っていたが、雨宮に会ったのはその間だけだ。

 車谷がそのときのことを思い出していると、倉橋が隣から言葉を続ける

「なんや、お上に呼ばれはったようです」

 ふーん、と車谷が気のない返事をする。

 しかし次の倉橋の言葉を聞いて、車谷は自分の耳を疑った。

「でも凄いでんな、海斗の奴。ホリックに昇格が決まったらしいんですわ」

 車谷は睨みつけるような勢いで、倉橋を見下ろした。

「誰が言った?」

 車谷本人は普通に訊いたつもりだったが、倉橋はその声音に反射的に口籠(くちごも)る。車谷の目がさらに怪訝(けげん)そうに歪んだ。

「誰が言ったんだ。そんなこと」

 その声は地の底から響いてくるみたいだった。

 底冷えするような、どすの利(き)いた声。

「海斗が、そう……」

「そんなの――」

 言いかけた倉橋の言葉を、車谷はあっさりと遮(さえぎ)った。

「嘘に決まってんだろ」

 倉橋の顔が硬直した。

「へ?」

 口から漏れるのは、間の抜けた音だけだ。

 フリーズした倉橋を無視して、車谷は言葉を続ける。

「雨宮がホリックになれるってのは、嘘だって言ったんだ。うーそ!」

 倉橋の思考は、まだ追いついていない。

 五秒くらいして、ようやく倉橋の口が動く。

「せやけど……」

 開きかけた倉橋の口を、車谷の言葉が塞(ふさ)いだ。

「ホリックになるのに、わざわざ組織に呼ばれるなんてことはない」

 車谷はさらに続ける。

「家に書類が送られてきて、ホリック任命と次の担当地区の場所と移動日時と手段が書いてあるだけだ。あっけないもんだぜ。他のホリックの連中にも聞いたことがあるから、まず間違いない」

 車谷はホリックだ。ホリックになるための手続きがどういうものかは、倉橋や雨宮より知っている。ホリック同士で交流があるわけではないが、一条やクロのように、偶(たま)に顔を合わせることもある。

 それに、ホリックはそれ以下のMASKSとは違って、組織から多くの情報を提供される。それは、ホリックが上級のMASKSだからというのもあるが、ホリックには担当地域の管理も任されているからだ。

 ホリックは、それ以下のMASKSでは処理できないトレストの壊散(かいさん)や、広範囲の地域を担当している。普通のMASKSが小さな地区を担当して、そのMASKS何人かをホリックが監視している、という形をとっている。

 ホリックが実際に戦闘を行うのは対トレスト、またはフラストでもかなりの数が相手のときぐらいで、それ以外は担当地域内の他のMASKSの様子を観察する。

 ホリックには、他のMASKSの実力を組織――ここではMASKS総指揮官、若草のことだが――に報告することができる。その実力に応じて、MASKS総指揮官がMASKSの処遇を決定する。実力のあるMASKSにはホリックの昇格を、怠惰(たいだ)なもの、任務失敗の多いものには、処罰を下すことがある。

「組織に呼ばれるのは、何かやらかしたときだけだ」

 ホリックをやっているために、車谷は知っている。ミスの多い奴、世間にフラスト、または自分の正体を曝(さら)してしまう危険性のあるようなものは、例外なく担当地区の移動か、組織へ招集される。

 組織に連れて行かれたMASKSの名前を、車谷は二度と聞かない。

「せやけど!」

 倉橋は、堪(たま)らず叫んだ。

「海斗は、榊原樹を倒しはったんですよ。やらかしなんて、誉められることしかないです。あんな大手柄、きっとお上の前で表彰でもされるんちゃいますかっ」

 必死に訴える倉橋。

 雨宮が嘘を吐(つ)くような奴じゃないことを、倉橋はよく知っている。どちらかと言えば嘘を言うのは下手なほうで、そのために誤解されたり、追い詰められてしまう性格(タイプ)だ。あの雨宮(あれ)が演技だとは、倉橋には到底思えない。

 車谷は視線を一条のほうへと向ける。

「実際、どうなんだ?」

 黙ったままの一条に、車谷は言葉を続ける。

「俺は、榊原樹が倒されるところを見てねえ。会ったこともねえから、どんだけ強いのかは知らないが、雨宮って奴はただのMASKSだろ。俺たちみてーなホリックじゃない。そんな奴が、榊原樹を倒したぁ?」

 榊原樹、組織を裏切り、組織に反逆した男。榊原はMASKSに対抗するために、フルセルフを作り出した。

 フルセルフの強さを、車谷は知っている。今まで相手にしてきた、トレストなんかよりも遥かに強い。ホリックである車谷が相手をしても、危なかった相手だ、それ以下の倉橋や雨宮では、勝負にすらならなかっただろう。

 そのフルセルフをまとめていた、榊原樹。榊原の実力は、フルセルフの実力(それ)を超えていただろう。そんな相手を、ホリックですらない、ただのMASKSである雨宮が倒したなどということを、車谷はすぐに納得できない。

 懐疑(かいぎ)の目をありありと見せる車谷に、一条は淡々とした口調で応じる。

「榊原樹を抹殺したのは雨宮海斗で間違いありません」

 その事務的な言葉に、車谷の目は少しも譲らない。

「あの夜――」

 一条は説明を続ける。

「榊原樹と戦闘を行ったのは、私と雨宮海斗と倉橋駿の三人です。当初はこの三人で榊原樹と交戦していましたが、雨宮海斗は榊原樹によって仮面を破壊され、倉橋駿も仮面は破壊されませんでしたが戦闘不能になりました」

 車谷は横目で倉橋を一瞥(いちべつ)する。

 ビクリと、倉橋は肩を震わせたが、車谷の鋭い視線に怖ず怖ずと首肯する。倉橋が榊原樹と戦ったのは、事実だ。

 車谷は視線を一条のほうへと戻す。

「その後、雨宮海斗は意識を取り戻し、榊原樹を消滅させました」

 一条の言葉に引っかかるものを感じ取って、車谷は眉を寄せる。

「仮面を、破壊された?」

 怪訝そうな顔で、車谷は一条を見る。

「ちょっと待てよ。仮面を破壊されたら、その時点でアウトだろ」

 叫ぶ車谷。

 車谷が納得しないのも、無理はない。MASKSにとって、仮面は心と体の領域の橋渡し、心を解放するためのスイッチだ。仮面を破壊されたら、溢れる心を制御することができない。心は粉々になって体から離れて、MASKSは心を失って体しか残らない。つまり、植物植物状態だ。

 一条は、しかし冷静に返した。

「しかし、雨宮海斗は意識を取り戻しました」

 そのときの様子を、倉橋は頭の中に映し出す。

 粉々に砕かれた雨宮の仮面。媒介として使っていたサブマシンガンも失って、雨宮は完全にやられていた。

 その雨宮が、突然立ち上がる。銃も持たずに、次々と無数に存在する榊原樹を倒していき、最後の仮面さえも消し去った。

 一条は言葉を続ける。

「それどころか、たった一人で榊原樹を短時間で抹消しました」

 車谷は眉(まゆ)を顰(ひそ)める。

「抹消?」

 一条は事務的に頷く。

「はい。跡形もありません」

 榊原の遺体はない。組織に入った時点で、榊原には戸籍(こせき)がない。この国に元々存在していない人間が消えたら、それは本当にいなかったのと同じだ。

 途端に、一条の冷静な表情が崩れる。

 僅かに視線を俯かせ、そのときのことを思い出したのか、恐怖で口元が震えている。

「あれは……」

 震える声で、一条は言った。

「あれは、はっきり言って、考えられません。仮面を破壊されたにも関わらず、心の領域を解放してた。しかも――」

 一条は一瞬言い淀む。

 明確な言葉が見つからず、一条は感じたままを口にする。

「あれは、ホリックさえも超えた力でした」

 それは、確かな恐怖だ。

 ありえないものを見せ付けられた、それは畏怖(いふ)。

 納得して理解するのではない。理解して、納得を強制される、それだけの存在感。一条の脳裏には、まだあのときの光が灼(や)きついている。

「どういうことだ」

 車谷の頭は理解が追いつかず、不服そうに目元を歪める。

「ちゃんと説明しろよ。どういうことだ」

 一条を怒鳴りつけるが、一条のほうは視線を泳がせて反応がない。一向に返答のない一条を見ながら、車谷の中に怒りが蓄積していく。

「おいっ。駿」

 突然ふられて、倉橋はビクッと肩を震わせて背筋を伸ばす。

「お前は見てたんだろ。詳しく教えろ」

「えっ、ええっとー……」

 それ以上の言葉が出てこない。

 車谷と一条の顔を交互に見ながら、倉橋は言葉に困る。組織では他人への不必要な情報開示は禁止されている。同僚同士でも、許可がおりてないことを話してしまうと罰則が加算される恐れがある。

 しかし、車谷は倉橋の先輩だ。組織にいたときは部屋が一緒で、ともに訓練をすることもあった。そんな親しい先輩に、隠し事を作るのは、倉橋には耐え難い苦痛だ。

 決心が決まらない倉橋を遮って、一条が割って入る。

「それ以上のことは答えられません」

 車谷がキッと睨み返す。

 一条は冷静な表情に戻って、冷たく返す。

「確かなことは、まだわかっていません」

「それで、呼び出し、か」

 車谷は口元を笑みの形に歪める。

「大体読めてきたぜ、組織のやりてーことが」

 倉橋が車谷を見上げる。

「どういうことでっか?先輩」

 興味を示す倉橋に対して、車谷は自信たっぷりに答える。その残忍(ざんにん)な笑みが、背筋を凍らせる。

「雨宮は、バラされる」

 途端に、倉橋の表情が凍りつく。

「えっ……」

 それ以上の言葉が出てこない。

 車谷は構わずに続ける。

「そんなスゲー力を持っているなら、組織の奴らも興味津々だろうさ。つまり、雨宮は研究対象として色々弄(いじ)くられる、ってわけだ」

 車谷はひねくれたように悪態を吐く。

「組織の連中なんざ、MASKS(おれたち)のことを道具か何かにしか思っちゃいねー。ホリックに昇格できるってよりは、モルモットにされるってのほうが、俺は信じられるな」

 MASKSは兵士ではない。

 フラストを倒すための兵器だ。

 モノに、権利などない。命令だけを与えて、理由など話す必要はない。役に立たなければ切り捨てて、利用価値があれば動かなくなるまで酷使(こくし)するだけだ。

 倉橋の顔がさっと蒼(あお)くなる。

「まさか……!」

 その言葉を、一条が遮る。

「不要な詮索はしないことです」

 一条の瞳が、見下ろすように車谷の体を射抜く。刃物を背後から押し付けられるような、ぞくりとする冷たい感触。

「あなたの普段からの言動は、ただでさえ不穏(ふおん)なものです。余計な言動は慎みなさい」

 はっ、と車谷が反抗的に睨み返す。

「なんだよ。テメーはそんなこと言うために、わざわざ俺の前に出てきたのか?」

 二人の視線が拮抗(きっこう)する。

「…………」

「…………」

 灼熱のような視線と、絶対零度の瞳。二つの不可視の力が押し合って、空気さえもざわめき出す。

「……」

 黙って対立する二人を、倉橋は怯(おび)えたように見守るだけだ。二人の間に入った瞬間、何が起こるかわかったものではない。

 最初に身を引いたのは一条のほうだった。

「早急にこの町を出る準備をしなさい。部屋を片付けておくことです」

 一条は振り向いて、もう用はないとばかりに、石段を降りていく。

 車谷はバットを振り上げて、高らかと叫んだ。車谷の露出した筋肉が太陽に当てられて眩しい。

「俺の居場所は、俺が決める。俺が何をしようと、それは俺の勝手だ。俺は誰の指図も、受けない」

 一条は一瞬足を止める。振り向いたりはしない。車谷には目もくれず、ただ一言、冷たい声で命じるだけだ。

「今日中に、整理ぐらいはしておきなさい」

 つかつかと、一条は階段を下りていく。

 凍りついた二人の空気の間で、倉橋は緊張して体を強張らせる。何も言えず、固まってしまって動けない。

「けっ」

 車谷はバットを握り締める右腕の筋肉を隆起させる。

「ヤローッ!」

 振り下ろされたバットが石の地面を激しく打ちつける。

「……!」

 倉橋はびくっとして体を震わせる。怒りに燃え上がらせた瞳を、車谷はじっと石段に向ける。一条の残像が、車谷には見えていた。



 白い靄(もや)が辺りを包み込んで、濃い霧のせいで十メートル先も見えない。地面一面を埋め尽くす原色の緑と、道を塞ぐように立ち並ぶ木々が、周囲の景色のほとんどだ。

 深い森の中、人が踏み入るにはあまりにも原生に近いこの場所に、人の影があった。木々の隙間を縫(ぬ)って、人影は森の奥へと進んでいく。

「こっちでいいのか」

 迷彩(めいさい)服を着た男が、先頭を歩く男たちへと声をかける。前を歩く男は二人、後ろからついてくる男とは違って、白衣を見にまとっている。

「そのはずですが、なにぶん、霧が深いので」

 白衣の男が振り返って答える。

 迷彩服の男は辺りに気を配りながら白衣の男の後をついていく。

「案内できるのは君たちしかいないんだ。頼むぞ」

「はい」

 二人の男たちは、不慣れな様子で森の中を進んでいく。霧の濃い深い森の中を白衣で進む姿は、あまり目にすることはない。迷彩服姿のほうがまだ自然だが、右手に握られた拳銃が状況の異質さを強調している。

「なあ」

 隣を歩くもう一人の迷彩服を着た男が声をかけてきた。

「ん?」

 歩を進めながら、男は隣の迷彩服の男へと目を向ける。

「なんであの人たちまで来るんだ?」

 後方へと指を指して、迷彩服の男は背後を横目で見る。

 言われた男も、同じように後ろを振り返った。

 後方二メートルほどのところに、二人の人影が見える。一人は女性で、学生だろうか、どこかの高校の制服を着ている。線の細い眼鏡の奥からは、鋭利で生真面目(きまじめ)そうな瞳が覗いている。もう一人は男、黄土色がかったスーツを身につけて、つばのついた帽子を目深(まぶか)に被っている

 白衣を着た二人組みを先頭に、真ん中に迷彩服を着た二人、そして後からは男と女が一人ずつついてくる、異様な行進ができあがっている。

 迷彩服を着たうちの一人が小声でもう一人の迷彩服の男に答える。

「来たい、って言うんだ。仕方ないだろ。独立監査委員の要求を、断るわけにはいかない」

「でも、関係ないだろ。今向かっているのはCOSTUME(コスチューム)第二棟で、あの人はMASKSの総指揮官だ」

 迷彩服の男が再び背後の二人を一瞬見る。

「まあな」

 迷彩服の男はそこで言葉を切る。

 もう一人の迷彩服の男が、まだ納得がいかないのか、振り返って口を開く。

「それに……」

 男の視線は、後ろからついてくる、女のほうを向いていた。

「一緒についてくるあの女、一体誰だ?」

 隣の男も、その視線の先を見る。

 女子高生ふうの女は、引き締まった口元、刃物のように冷たい瞳のせいで、ひどく固い雰囲気を放っている。

 彼女の鋭利な視線は、しかし迷彩服の男たちを素通りして、先頭を行く白衣の二人組み、その行く先しか見えていない。

 迷彩服の男は特に不快感を隠すこともせず、答えた。

「何でも、MASKS総指揮官の補佐をしている人らしい」

 組織の中で、総指揮官補佐という役職は正式には存在しない。聞き慣れない単語を耳にして、男は明らかな驚きの表情を浮かべる。

「補佐ぁ?」

 男は物珍しそうに女を凝視しているが、隣の男はすでに視線を前のほうへと戻す。

 迷彩服を着た二人は、組織の中のORCHESTRA(オーケストラ)に所属している。ORCHESTRAの役割は主に社会へと出て、MASKSやフラストの存在が社会一般の人々に知られないよう、監視、情報操作を行うことだ。

 ORCHESTRAの中でも、極僅かだが組織に残される者もいる。組織の中にいる彼らの役目は、簡単に言ってしまえばガードマンだ。組織内で発生した問題、例えば組織の近くで発生したフラストや組織で発生した様々な事故、それと組織からの脱走者への対応がその仕事だ。

 故に何かことが生じれば、大概(たいがい)はORCHESTRAに声がかかる。この二人も、先頭を行くCOSTUMEの二人から連絡を受けて目的の場所へと向かっている。目指している場所は、COSTUME第二棟。

 この第二棟は、現COSTUME総指揮官榊原樹によって建設された。COSTUMEの役割は、MASKSの武器開発。MASKSの武器は個々に異なるため、一人一人にあったオーダーメイド、故に大量生産はできず、COSTUMEの施設は今まで武器の開発のみを扱っている第一棟しかなかった。

 今、六人が向かっている先の第二棟が、一体何を目的とした施設なのか、二人は知らない。この六人の中で知っているのは、先頭の白衣の二人と、後ろからついてくるMASKS総指揮官、若草宗助(そうすけ)だけだ。

 もう大分長い距離を歩いた気がする。周囲が見えないために、どれだけ進んだのか、いまいちわからない。

 森の中を進む六人の前、霧の中に黒い影が浮かび上がる。

「着きました」

 先頭を歩いていた二人の白衣の男が立ち止まる。

「ここです」

 後ろの四人も、先頭の二人に倣(なら)って足を止める。

 二階建てほどの大きさの、そこにあるのは洋館だ。窓のない洋館は、几帳面(きちょうめん)なほどに黒一色で、深夜に森を彷徨(さまよ)っていたら、気付かなかったかもしれない。白い霧の中に、その洋館は異様な存在感を持っている。

 白衣のうちの一人が建物の扉を開けようと、一歩近づいた。

「開けます」

「待て」

 迷彩服の一人が声を上げる。ドアノブへと手を伸ばしかけた白衣の手が、ピタリと止まる。

「私が開ける。他の者は退(さ)がって」

 男の指示に従い、四人は迷彩服の男たちから離れる。

 迷彩服を着た男二人は、それぞれドアの両端へと立った。壁に背中を預けて、手に持った拳銃を握り締める。

 迷彩服を着た男の一人が、ポケットから小型の機材を取り出す。大きさは掌に納まる程度で、テープレコーダかなにかだろうか、機器には幾つかのボタンがついている。

「…………」

「…………」

 迷彩服の男たちは、互いに顔を見合わせて黙って頷き合う。後方で、四人の男女が静かに迷彩服の男たちの様子を見守る。

 ――カチッ。

 迷彩服の男が、機器のスイッチを押した。

「…………」

「…………」

 何も起こらない。

 森は静かなまま、濃い霧を内包してその場に佇んでいる。霧の中から現れた建物も、何の変化もない。

 迷彩服を着た、テープレコーダらしき機器を手にしていた男が、すっとドアノブへと手を伸ばす。

 ――カチャ…………。

 薄く、扉を開ける。

「………………」

 十秒くらい間をあけて、迷彩服を着た男の一人が、扉の隙間から建物の中を覗き込む。

「…………」

 この場にいる、全員の視線が彼に集中する。

 迷彩服の一人が扉を完全に開いて、中へと入る。広々とした玄関の先に、三つに分かれた廊下が伸びている。どの廊下も、先で折れていて奥の様子は窺(うかが)い知れない。

 人影、物音がないことを確認して、男は扉のところで控(ひか)えているもう一人の迷彩服の男に合図を送る。

 仲間が建物の中に入ってきたのを確認して、先頭の男は拳銃を握り締めて真ん中の廊下を進んでいく。後の四人も、彼らに続いて中へと入る。

 室内まで黒く塗り潰された床と壁と天上が続いて、明かりは足元の壁に並んだ小さなライトくらいのもので、明らかに明度が足りない。

 薄暗い廊下を、迷彩服を着た男たちは黙って進んでいく。

 最初の角を曲がって、広い空間へと出た。何かの部屋だろうか、辺りが暗いために何の部屋化はわからない。

 しかし、その異様な光景を目にして、二人は足を止めた。

「何だ。これは…………」

 二人は一瞬、拳銃を握る感覚を忘れた。

 黒い床の上に散らばった、それは何枚もの白衣。脱ぎ捨てられたように、白衣の下からは衣服が転がっている。ご丁寧に、靴まで揃っている。

「誰も、いないのか……?」

 迷彩服の二人組みは、慎重に辺りを窺う。

 白衣はあちらこちらに散らばっているが、人の姿はなく、自分たち以外にその気配すら感じられない。

 廊下の奥から案内役の白衣の男たちがやって来て、迷彩服の男は彼らに訊いた。

「ここにいた人たちは?本当に、誰もいないのか」

 白衣の男たちは青ざめた顔で頷いた。

「見た通りです。誰もいないし、呼びかけても返事はしないし、中に入ってみたら服だけが床の上に散らばっているんです」

 二人は俯いて、震える声で呟いた。

「……私たちは、その、怖くなって…………」

 その言葉に、白衣の男たちの恐怖が感染したように、迷彩服の男たちも言葉を失った。震えこそしなかったが、男たちは自分が拳銃を握っていることすら忘れている。

「……」

「……」

 凍りついた時間を、後から部屋の中へと入ってきた二人が解かした。男のほうを先頭にして、二人は固まっている四人にも、床の上に散乱した白衣にも構わず、さらに奥の部屋へと進んでいく。

「……!」

「ちょっと……!」

 迷彩服の男が咄嗟に口を開く。

「お待ちください。ここは危険です。若草様は、どうか外で……」

 声をかけるが、若草は構わず奥のほうへと足を進める。若草に従って、彼の補佐役、一条玲(れい)も男たちのすぐ横を通り抜けていく。

 白衣の男たちも、迷彩服を着た男たちでさえも、二人の行動に状況を忘れたように口を開く。その間に、若草と一条は廊下を突き進んで、一番奥の部屋へと姿を消した。

 迷彩服の男の一人が、思い出したように舌打ちする。

「くそっ。行くぞ」

 叱咤(しった)されて、もう一人の迷彩服を着た男が彼の後を追う。

「はいっ」

 四人は部屋を抜けて、奥の廊下へと進んでいく。白衣の男たちだけが、呆然(ぼうぜん)としてその場に立ち尽くしていた。

「お二人とも……!」

 声をかけるが、二人に止まる気配はなく、それどころかさらにスピードを上げて、かなり早足になっている。先へ行く二人の姿はあっという間に次の部屋も通り過ぎて、奥の廊下へと姿を消してしまう。

 迷彩服の男たちは走って二人のあとを追おうとするが、廊下は狭く、所々に白衣が散乱して、明かりも少ないために、それ以上に速度を上げられない。先へ行ってしまう二人の姿を見失わないようにするのがやっとだった。

「全く」

 迷彩服の男たちは愚痴(ぐち)を漏らす。

「なんだってこんな面倒な……」

 半(なか)ば見失いそうになりながら、迷彩服の男たちはは入り組んだ道を進んでいく。細い廊下は何度も折れ曲がり、次の部屋にはその先へ進む幾つもの分かれ道が広がる。まるで迷路のようだ。不用意に入った侵入者の行く手を阻(はば)む、ここは迷宮。

「くそっ。どこに」

 迷彩服の男たちが若草たちの姿を完全に見失った、そのとき。

 ――階段を上がる足音が聞こえた。

 迷彩服の男たちは、同時に音のした方向を見た。

「こっちか」

 部屋を通り抜けて、廊下を進んだ先に、階段があった。

「……」

「……」

 二人は立ち止まり、階段の先を見上げる。階段は中間で折れ曲がっていて、そのまま二階へと続いている。

 二人は改めて拳銃を握り直して、階段を上り始める。

「…………」

 後ろの男が、前の迷彩服の男の裾(すそ)を握る。振り返ると、後ろの男が身振りで何かを伝えようとする。前の男はその意図に気がついて、懐からカセットテープのような機器を取り出した。

 ――カチッ。

 スイッチを入れる。

 ボタンをオンにしたまま、迷彩服の男たちは慎重に階段を上っていく。静かに、音を立てないように上っていくが、階段が小さく軋(きし)んで鳴き声を上げる。

 あと少しで二階に着く、手前で、先頭の男が頭だけ突き出して二階の様子を窺う。一階とは違って、長い廊下が一本だけ伸びていて、その両脇には扉付きの部屋が並んでいる。

 ――気に入らない場所(ところ)だ。

 男は目の奥を不快に歪める。

 一階では侵入者の進行を防ぐための、迷宮さながらの入り組んだ道。対して二階は、見通しを良くして、迎撃(げいげき)に備える。侵入者からすれば敵は扉の数だけ存在するが、待ち受ける側からすれば敵は階段の一箇所からしか姿を見せない。その一点を集中放火すれば、楽に勝負がつく。研究機関というよりは、要塞(ようさい)に近い。

 二人は階段を上りきり、二階の廊下に立った。幾つも扉が並んでいるが、正面、一番奥の扉だけが開いている。

「…………」

 二人はその部屋の中へと入った。

 床と壁、天井までもが黒一色なのは今までと変わらない。この部屋には様々な器具が置かれている。拘束(こうそく)椅子、同じく拘束用のベルトが床に垂れた寝台、棚の中には様々な薬品が並んでいて、そこだけ真っ白な机の上には何本もの注射器や薬剤が散乱している。

 この部屋にも、何枚かの白衣が散らばっている。

「ここは……」

 迷彩服の男たちは、この部屋に見覚えがあった。似たような部屋を、彼らはよく目にしている。組織の中の研究グループ、SCHOLAR(スカラー)の部屋の作りと非情に良く似ている。

 SCHOLARでは、実験体を大人しくするために、まず最初の部屋で拘束されて、暴れるものに対しては薬品を用いる。

 この部屋が、もし何かの実験のために使われていた部屋ならば、この奥に、もう一つ部屋があるはずだ。

 二人が部屋の中を見回すと、部屋の奥に布で仕切られた部屋がある。迷彩服の男は、その奥へと足を踏み入れた。

「お二人とも……!」

 言いかけて、その場で言葉を呑(の)み込んだ。二人はその場の光景を目にして、同時に足を止めた。

 ――何十枚という白衣が、折り重なるように床の上を埋め尽くしていた。

 この部屋の床も、きっと黒いのだろう。しかし、その色を覆い隠すように、床の上にはびっしりと白衣が敷き詰められていた。今まで床や廊下の上に散らばっていた白衣の数の、比ではない。

「…………」

 あまりの光景に、二人の足と思考は一瞬にして凍りついた。

 その部屋の中央にはガラスの板が張られていて、若草と一条はその手前で立ち止まっている。ガラスの向こうには、奇妙な器具が設置されている。それは十字架のように、真っ直ぐ伸びた柱が首の下辺りで左右に伸びて、ちょうど人の手首、肩回り、首、胴、足元の部分に丸い金具が伸びている。

 若草はこの器具がどういう目的で使われているかを知っている。おそらく、ここにいる誰もが知っている、これは実験体を拘束するための器具で、金具で実験体を縛って固定する。

 通常、金具は器具の中に仕舞ってあり、見ることはできない。十字架に人の姿はなく、代わりに一枚の白衣が人の形に張りつけられている。

「榊原……」

 ガラスの向こう側を見つめたまま、若草はぽつりと呟いた。



 小さな部屋の中に点った明かりは弱く、部屋の隅には暗い闇が蔓延(はびこ)っている。机の上に温かみのある明かりが一つ点いて、その光を前にして若草は椅子に座っていた。肘を机の上に乗せて、組んだ両手の上に自分の額を押し付ける。

 両手の下からは、若草の口元だけが見えるだけで、表情までは映らない。重く閉ざされた口が、静かに息を吐き出す。

「榊原……」

 若草は小さく呟いた。

 そのとき。

 ――コン、コン。

 ノックの音が聞こえた。

「どうぞ」

 若草は顔を上げて、扉へと体を向ける。

 カチャリと扉の開く音が聞こえて、ぽっかり開いた空間に一条の姿が浮かび上がる。

 一条は片手にクリアファイルを抱えて、部屋の中へと入ってくる。若草の前で立ち止まり、一条はクリアファイルから数枚のA4紙を取り出した。

「病院からの報告です」

 差し出された報告書を、若草が受け取る。

 若草が書類に目を通しながら、一条は内容の要約を報告する。

「病院に収容されているフルセルフは、依然、何も喋りません。食事、睡眠はとっているのですが、それ以外の反応は一切ありません」

 一条の言葉は拡大解釈に過ぎない。書類上でも、栄養状態、睡眠状態は良好と記されているが、実態は必ずしも正しいとは言えない。

 若草も、一条も、一度だけ、彼に会ったことがある。病室のベッドに横たわり、一日中目を瞑(つむ)ったままの少年。

 脳の波形を見れば、少年の意識はあるのだが、目を開けず、刺激にも一切反応がない。血管に突き刺さったチューブから直接栄養を流し込んでいる。

 部屋の明かりには関係なく、一定時間経つと眠りに就(つ)く。波形からそれがわかる。人間の活動周期は、正しくは二十四時間ではないため、彼の一日は少しずつずれていく。しかし、二十四時間管理されている栄養バランスのおかげで、支障はない。

 意識もなければ、感覚もない、ただの植物状態。どんな刺激を送っても、決して目を覚まさない眠った少年。

 MASKSが確保したフルセルフは、書類上では広末広平(ひろすえこうへい)一体とされているが、もう一体目、落合昭伍(おちあいしょうご)のことはMASKS内部、若草と一条、他数名の研究員ぐらいしか知る者はない。榊原樹が暴走した戦闘のどさくさで、落合の存在はまだ組織上層部には気付かれていない。

 若草が一通り目を通すと、一条は続いて一枚の紙をクリアファイルから取り出した。それで全部のようだ。

「これが高峰からの報告です」

 若草は一条から報告書を受け取って、紙面に目を通す。

「落合昭伍。能力は火、か。高峰くんも、確か炎を操作するタイプだったね」

 若草が顔を上げると、同意するように一条が頷く。

 報告書を見ながら、若草の瞳に疑問の色が浮かぶ。

「壊散方法、不明?」

「高峰本人も、よくわかっていないようです」

 若草の言葉に、一条はすぐに口を挟む。

「本人は、一度落合昭伍にやられたと書いています。しかし、目が覚めると、フルセルフは倒れていた」

 若草は報告書から目を離す。

「一度やられた?」

 一条は説明を続ける。

「その場には、他に二名のMASKSがいました。しかし、両名とも仮面を破壊されていて、今も意識がありません。他のMASKSの報告からは、落合昭伍の名前がないことから、最後に戦闘を行ったのは高峰灯(あかり)で間違いないと思われます」

 若草は報告書と一条の顔を交互に見比べながら、こめかみに中指と人差し指を押し付ける。間に挟まれた帽子のつばが折れ曲がる。

「しかし高峰くんに、この落合くんを倒した覚えはない」

「はい」

 若草は机の上に書類を置いて帽子を深く被る。ただでさえ目深に被っているのに、これで顔の半分が埋もれて見えなくなる。

 十秒近く黙考(もっこう)した後に、若草は帽子を上げて一条を見る。

「どう思うかい?」

 一条はすぐ首を横に振った。

「私には判断できません」

 若草は困ったように溜め息を吐く。

「高峰くんは落合くんと戦い、一度やられている。ここにも、仮面を破壊されたという記述がある」

 一条は首肯する。

 若草は苦心したように帽子の上から頭を掻く。

「高峰くんの様子は?」

「まだ確認していません」

「そうか」

 若草は一声唸(うな)って、再び考え込む。

 実のところ、落合がフルセルフだという証拠(しょうこ)が今のところない。フルセルフだと判断する唯一の手掛かりが、高峰の証言に委(ゆだ)ねられている。

 脳波が示す情報は、落合が起きていて、寝ているか、つまり彼が植物状態で生きているということしかわからない。後の情報は、皆無に等しい。彼と似た脳波を、若草は知っている。組織の研究の中で、実験に失敗して心を壊された子どもの波形と酷似(こくじ)している。

 落合が心を破壊されたことは大いにありうるが、その場合、新たに問題が生じる。では落合の心を破壊するほどのダメージを与えたのは、一体誰なのか。

 フルセルフとして拘束されたもう一人の少年、広末広平は、二人がかりで確保された。二人がかりで、広末が動けなくなるまで攻撃した結果で抑えることができたが、それでも広末には意識がある。

 つまり、落合と戦ったのは二人以上の実力を持つもの、ホリックの中にも、そこまでの実力を持つものはいない。

 その中で、高峰が落合と遭遇したと言っている。高峰の実力は、ホリックの中でも低いほうに扱われている。

 高峰は力が弱い。多くの弱小フラストを相手にするには適しているが、たった一体でも、通常レベルのフラストを倒すのにも、かなりの時間を要する。

 もしも落合がフルセルフだった場合、ホリックを含めたMASKS二人以上で相手をしても手がかかる。高峰一人で倒せるような相手ではない。

 落合昭伍は、本当にフルセルフなのか。そしてもし落合がフルセルフならば、彼を倒したという高峰は、どうやって落合を倒したのか。謎は尽きない。

「あの、若草総指揮官」

 一条が口を開いた。

 不意に声をかけられて、若草は顔を上げる。

「ん?」

 一条の言葉は妙に歯切れが悪い。躊躇(ためら)うように、一条は口を開く。

「…………その、雨宮海斗のことなんですが」

「うん」

「組織のほうに移送後、彼はどうなりますか?」

 若草はじっと一条を見返す。

 雨宮海斗についての細かい事情を、若草はまだ一条に説明していない。一条のほうからも、この瞬間まで若草に訊いてくるようなことはなかった。

 組織は秘密主義、その性格を知っているから、一条はいつも傍にいる若草から答えの見ない質問をするようなことをしない。逆に、若草から情報を受けたときには、その仕事を全うするために奔走(ほんそう)する。

 普段は厳しい態度を装う一条だが、それは仕事に対して忠実であるが故の、彼女なりの自己規律だった。

 その一条が、珍しく雨宮のことについて訊いてきた。

「雨宮くんか……」

 若草は言い淀んで、ふっと意地悪そうに笑う。

「気になるかい?」

 瞬間、一条の頬に朱が広がる。

「別に、特に深い意味はありません」

 一条は顔を逸らす。

 いつもは冷静な一条の顔に、感情の色が浮かぶ。

「余計なことでしたら、忘れてください」

 若草は、そんな一条を微笑ましい気持ちで眺める。

「会議では……」

 若草は一条に応える。

「榊原樹を倒したということで、雨宮くんの召喚(しょうかん)が要請された。雨宮くんの名前が挙がったことも軽視できないけれど、問題は榊原を倒した者の(その)件を発議した――」

 若草は苦虫を噛んだように口元を歪める。

「ORCHESTRAだ」

 一条が驚いたように顔を上げる。

「ORCHESTRAが……?」

 一条は続けて訊いた。

「何故、ORCHESTRAが?ORCHESTRAの役目は違反者の告発です。雨宮海斗の異変を知りたいのであれば、SCHOLARが進言するほうが……」

 若草は頷く。

「そういうことだ」

 一条はまだ若草の言わんとすることが理解できていない。まだ納得がいかないように、眉を寄せて若草を凝視する。

 若草は帽子の上から頭を掻く。

「……おそらく、今回の会議を要求したのは、SCHOLARとORCHESTRAだ」

 その言葉を聞いて、一条の頭がそれぞれの単語をリンクする。

「二人は、グルだと?」

 若草は苦笑する。

 つまりは、そういうこと。

「最初、私は榊原樹抹殺の報告をさせられた。次に、SCHOLARが榊原の研究していたディストラクション計画についての話題を出して、広末くんの引き渡しを発言する。あれは流石(さすが)に断れなかった。議論に持ち込んでもよかったけれど、そうした場合、私の立場が危(あや)うくなるから、あれは仕方がなかった」

 MASKSが捕獲したフルセルフ、広末広平の所有権は、まだMASKSが持っていた。本来ならば、研究班であるSCHOLARに渡して解析を任せるのだが、その先にある広末の人生は苦痛の日々だ。組織に長く関わってきた若草には、それが容易に想像できた。

 若草は榊原樹の所在を知るために、広末広平をSCHOLARに引き渡すのを拒(こば)んでいた。しかし、榊原樹を倒した今となっては、その理由も通らない。会議でのSCHOLARの発言は自然の流れだ。ここで若草が広末の提供を拒んでいた場合、その理由を激しく追及されていただろう。

 MASKSは、対フラスト用の戦闘集団。研究機関ではない。広末はフルセルフ、延(ひ)いては榊原の完成させたディストラクション計画の手掛かりを知る、重要な研究資料だ。組織からすれば、SCHOLARが所持しているほうが妥当だ。

「その後で、ORCHESTRAが榊原を倒したものについての話題を挙げる」

 その言葉に、一条は引っかかるものを感じ取る。

「しかし、何故ですか?MASKSでは他の所属に対して壊散の報告をしていません。その要求は不当なものではありませんか」

 組織内の各機関は、互いに独立している。故に、トップの名を独立監査委員と言う。この独立監査委員には組織内部の情報を知る権利があるが、意図的に他の機関の実態を探る行為は奨励(しょうれい)されていない。

 秘密主義の傾向が強い組織内では、情報の流出を特に嫌う。その考え方が、各トップには染み付いている。

 故に他の機関にその機関独自の情報の開示を求めても、それに答える義務はないし、そういった探りの行為は疎(うと)まれる。

 若草は謎かけでもするように、一条に訊き返す。

「ORCHESTRAが発議した、この意味がわかるかい?」

 一条は眼鏡の奥でしばらく考え込み、そしてハッとして目を見開く。

「見られていた……!」

 若草は頷く。

「あそこに、ORCHESTRAがいたらしい。映像を見せてもらったよ。完璧に録画されている。私が榊原にあったところから、雨宮くんが仮面を破壊されて、起き上がって、榊原を次々と消していくところまで、全部」

 会議の後、独立監査委員全員に配られた録画映像。

 一般的なビデオカメラでは心のエネルギーは記録に残らない。特殊な処理をされて録画されるため、普通のビデオカメラと比べて画質は劣(おと)る。しかし、そこには確かに雨宮の仮面が砕け散り、そして雨宮が再び立ち上がる様子が残っている。榊原の姿が消えていく様子も、確かに記録されている。

 一条はまだ納得がいかず、奥歯を噛む。ここまで食い下がる一条は珍しい。

「しかし…………」

 一条はさらに若草に訊ねた。

「何故わざわざ録画などしていたのですか?監視をするのに、そこまでする必要はありません」

 一条の表情を見て、若草は笑った。

 疲労が深く刻まれた、自虐的(じぎゃくてき)な笑み。

「言っただろう。SCHOLARとORCHESTRAは組んでいたんだ。最初から」

 一条は虚(きょ)をつかれたように、胸が締めつけられるのを感じる。

 組織内のどの機関も互いに独立していて、自分の担当する機関の仕事を全うして殉(じゅん)じる、それが組織という場所のはずだ。

 一条の信じていた足元に、突然罅(ひび)が入った、そんな絶望感が彼女の胸を締め上げる。

「それでは、雨宮海斗の身柄は、SCHOLARに委譲(いじょう)される?」

 己の欲望を満たすために、他人を陥(おちい)れる。利用して、必要がなくなったら使い捨てのように廃棄する。

 そんな当たり前の、社会の摂理(せつり)がここにもあった。

「そうなるだろうね」

 若草は帽子の上に掌を乗せる。

「組織への召喚だけは避けたかったけど、まさか通ってしまうとはね」

 ORCHESTRAが要求した雨宮海斗の組織への召喚。

 独立監査委員から挙がった意見は、八人いる独立監査委員のうち六人の承諾が得られれば可決される。

 若草はもちろん反対したが、ほとんどの独立監査委員がORCHESTRAの意見に賛同したということだ。あの映像を見せられては、無理もない。MASKSを超える存在として研究されていたディストラクション計画、それを完成させた榊原樹をあっという間に消滅させた、仮面を破壊されたはずの雨宮海斗。

 仮面を破壊されたら、MASKSはもう役に立たない、という組織の常識をあっさり覆してしまったのだから。

「どうなさるおつもりですか」

 一条が目を鋭くして訊ねる。

 若草は帽子を頭に押しつけて目元を隠す。

「雨宮くんに話した通り、実力を加味(かみ)して何とかホリックにしたいところだけど…………」

「ホリックにしたところで、どうなりますか?」

 一条の鋭い声に、若草は口元を緩める。

「どうにも、ならないだろうね」

 その言葉に、一条の心のうちには鉛(なまり)が落ちたように重くなる。

 若草を責めることはできない。若草が尽力(じんりょく)していることを、一条は知っている。会議では一条が踏み込む領域ではない。だからといって、若草にあたるのは筋が違う。

 一条は、迷子なのかもしれない。

 一条が求めている、理想の世界。皆が正しく同じ道を歩いて、悪を憎んで正義を翳(かざ)す、そんな理想郷(りそうきょう)。

 しかしそれは理想で、理想は理想の中に沈む。結局、組織(ここ)も同じなのだろうか。自己の利益のために、他人を使って、他人を陥れる。

 一条にとって、規則は絶対だ。

 規律は、守られなければならない。

 だから組織の意思には従い、組織のために尽くそうとした。しかしその組織でさえも、自己利益のためにしか動いていないのか。

 若草は顔を伏せたまま、ぽつりと呟く。

「雨宮くんは、あくまでMASKSの一人だ。榊原のときとは、違う」

 組織で行われたディストラクション計画において、榊原は身の保障があった。それは榊原が独立監査委員で、組織のトップたる人間だったからだ。

 仮に雨宮がホリックの地位を手にしても、所詮はMASKSの一構成員。ただの兵器に、人権など与えられない。

 二人の葛藤(かっとう)は、薄暗い部屋の中に落ちていく。


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