第二楽章 喝采は木霊する
白い廊下、白い天井、白い壁、どこをとっても白一色、どこを見ても汚れ一つない、唯一差異を見出すとするならば、廊下と壁、壁と天井の繋ぎ目くらいだろう。純白と言うにはあまりにも綺麗過ぎて、あまりにも無機質な空間、異質なほど清らかな場所。
――コツ、コツ、コツ、コツ……。
白い廊下の上を一人の少女が歩いている。
白いシャツに、膝頭を隠す黒いスカート、どこかの学校の制服のように見える。茶色い靴と黒い靴下を履いて、襟元には紺色のリボンが輝いている。短めに切られた髪は滑らかに整えられて、その下から横に長い眼鏡が覗いている。
全体的に生真面目な印象を与える少女だった。目元は鋭く、少しも笑みを見せない口元。片手に一抱えするくらいの分厚いファイルを持って、無駄のない足取りで廊下を進んでいく。
少女は一つの扉の前で止まった。廊下には他にも似たような扉が並んで、部屋の前に名札がかかっているおかげで誰の部屋かがわかる。
少女は扉をノックする。
「どうぞ」
少女は扉を開けて中へと入る。
白い廊下と繋がるように、病的なほど白い部屋だった。壁も床も天上も、全てが白一色で、ベッドも机も椅子までも白い。
部屋の中には一人の男が椅子に座っていた。黄土色がかったスーツを着て、部屋の中でもつばのついた帽子を目深に被っている。顎の周りには無精髭が生えて、その優しげな笑みはどこか疲れているようにも見える。
若草は少女を見て微笑む。
「やあ、一条くん。何か用かい」
「時間です」
一条はきっぱりと言い放つ。
事務的で、感情のない声。その断定的な言い方は、この部屋のように冷たい雰囲気を含んでいる。
若草は机の上に散乱している紙をまとめて、クリアファイルの中に放り込むと、その紙の束を抱えて一条とともに部屋を出る。
「困ったな。まだ資料が完成していないのに」
廊下を歩きながら、若草がふと口を開く。
隣で歩いていた一条が訊き返す。
「まだ終わっていないのですか?」
若草は苦笑を浮かべる。
「榊原の件は終わっているんだけどね。榊原を抹殺したこと、それと現在の事後処理状況なんかを。最も、トップの連中は榊原のやろうとしていたことに興味があるんだろうけどね」
「ディストラクション計画ですか?」
若草は一条を窘める。
「一条くん。その名前は組織では出さないほうがいいよ」
「知っているのは、総指揮官クラスのみなのでしょう」
一条は構わずに言葉を続ける。
「どこで研究が行われているのかは存じません。しかし、組織内ではまだその計画は完成していないのでしょう?」
若草は答えない。
一条は確信のこもった声で言った。
「――それを、榊原樹は完成させた」
若草は小さく溜め息を漏らす。
「概ね、正解だ」
若草は前を向きながら話を始める。
「当時、ディストラクション計画は目立った成果は挙げていなかった。机上の空論というのか、組織からの援助もそんなになかった。だが、その研究に火をつけたのは榊原だ。榊原は、私とともに独立監査委員になってしばらくして、ディストラクション計画班に自らを実験体として提供する話を持ち出した」
一条が怪訝そうな目を若草に向ける。
「自らを?」
「ただし、榊原は条件を出した。ディストラクション計画の実験材料になる代わり、その実験試料は全て自分に提供すること。これが榊原の出した条件だ」
若草は悲しげな笑みを浮かべる。
「こんな申し出ができたのも、榊原が独立監査委員になったからこそなんだけどね。でも、ディストラクション計画の研究班のほうが気負いしてたようだ。トップの人間をモルモット代わりに使うなんて、もし実験に失敗したら榊原の命がないからね」
「独立監査委員を死亡させたら、その研究班はすぐに解体。その研究に携わっていた研究員も、身の保障はありません」
若草は笑った。
「まあね。でも榊原の言い分は、仮に人格を破壊されても、自分の中には無限に等しい人格があるから平気、だそうだ」
榊原樹、元COSTUME総指揮官、その前はMASKSに所属していた、対フラスト用兵器だ。榊原の仮面の名は詐欺師、それは榊原の心の性質をよく表している。
多重人格障害、榊原は生まれながらにして多重人格だった。一つの肉体に、様々な人格が宿り、性別、年齢をも超えた多様な性格を榊原は持っていた。
組織での研究は、主に精神に働きかけるものが多い。如何にして心を強化し、心を破壊し、心を解放するか。心の世界の住人であるフラストが体の世界に出現したときの対応策としての研究が進んでいる。
ディストラクション計画は、その研究の内の一つだ。まだ実験段階のため、失敗の恐れがあった。失敗した場合、実験体となった人間の精神は崩壊する可能性がある。
榊原の場合、一つの肉体に幾つもの人格を持っているため、一度や二度の失敗では精神が完全に崩壊する恐れはないと考えられる。しかし、それはあくまで思考の中での議論であって、実際にどうなるかはわからない。
「榊原のような事例はないから、研究班のほうでも決心しかねていたようだ。でも、榊原という貴重な実験体、それに榊原からの援助も出る。榊原の強い要望で、ディストラクション計画は榊原を迎えて研究が進んだ」
研究の進行状況については、若草は榊原から聞かされていた。
最初はなかなか上手くいっていないようだったが、研究が進むにつれてそれなりの成果も出てきたらしい。詳しい状況については若草も知らなかったが、榊原は実験の様子を嬉々として語ってくれた。
近々、研究が完成するとまで、榊原は若草に語っていた。
――しかし。
若草は重々しく口を開く。
「そして、あの事件が起きた」
「――COSTUME第二棟消失」
一条が若草の言葉を引き継いだ。
「COSTUMEで勤務していた、榊原樹を含める、二十名の研究員が姿を消した。不可解なことに、研究員の衣服が棟内に散乱していた」
若草は頷く。
「まさに、もぬけの殻だった。脱ぎ捨てられたように服だけが残っていたんだから。当時は、榊原がそこでディストラクション計画の実験をして、それが失敗したせいだと考えられていた。榊原の衣服も発見されたから、榊原ももう死んだとされていたけど……」
「しかし、榊原樹は生きていた」
一条が若草の言葉の上から口を開く。
「榊原樹は、ディストラクション計画を完成させていた」
若草は俯く。
「実際、榊原の研究の成果のおかげで、MASKSに大きな被害が出た。多くのMASKSが、榊原の生み出したフルセルフのために戦闘不能になった」
榊原の完成させたディストラクション計画によって生み出されたとされる、フルセルフ。MASKSのように心を解放できるが、その決定的な相違は仮面を外す必要がないこと。MASKSは心を解放するためのスイッチとして仮面を外すが、フルセルフには仮面がない。いつでも心を解放でき、しかもその力はMASKS以上に強力だ。
「トップの連中は、榊原の持っていたディストラクション計画の研究資料を欲しがっているだろう」
組織の中では、未だにディストラクション計画は完成していない。
榊原がディストラクション計画を完成させていて、しかもその研究の結果として生まれたフルセルフが、現在対フラスト用兵器として主流をなしているMASKSを超える存在となるならば、これほど魅力的なものはない。研究班としても、組織としても、榊原のディストラクション計画は欲しい情報だ。
若草はふっと笑みを浮かべる。どことなく悲しげな雰囲気を含む、そんな悲痛な笑みだ。
「最も、榊原樹はもういない。身体さえも、残ってはいない。榊原が完成させたディストラクション計画は、もうなくなった。組織でも、あの事件以来、研究は行われていないようだし」
「重要参考資料は残っています」
一条が口を開く。
若草は振り向かず、じっと前を向いている
一条は言葉を続ける。
「広末広平。フルセルフです」
若草は頷く。
「広末くんが自供したり、あるいは広末くんの心を分析されたりして、フルセルフを生み出す要素が見つかってしまったら、ディストラクション計画は再び動き出す。…………広末くんは、あれから何か話しているようかな?」
「いえ、何も話していません」
一条は即答する。
「何の反応も示しません。臨時検討局の解散も、時間の問題でしょう」
「そうか」
それだけ言って、若草は歩き続ける。
一条は若草を一瞥してから口を開く。
「――若草総指揮官にしては、適切な判断です」
「…………私は」
言い淀んで、若草は迷ったようにすぐに口を閉じる。一条が横目で若草の様子を窺う。数秒の逡巡の後、若草は俯いたまま口を開く。
「私は、まだ迷っている。広末くんにしたことは、本当に正しかったのかどうか」
榊原の仲間として確保されたフルセルフ、広末広平は、現在組織内の臨時検討局で監視されている。
本来ならば、すぐに広末の身柄は研究班に回されて、その能力の解析が行われるはずだったが、若草が理由をつけて、研究班に引き渡すのをなんとか回避した。
その理由は、榊原の居場所を聞き出すこと。そのため、臨時検討局を設けて、どのグループにも属さない研究機関に広末を置いた。
しかし、榊原樹を倒した今、臨時検討局の意味はなくなった。すぐにでも、研究グループが広末の身柄引き渡しを要請するだろう。そうなれば、ディストラクション計画の参考資料として、広末の解析は進む。
「広末くんの体はまだ生きている。しかし、心を壊された広末くんが、果たして人間として生きていると呼べるのか」
「しかし、あのフルセルフを殺すわけにはいきません。死体として見つかった場合、嫌疑をかけられる恐れがあります」
若草の顔からは、しかしまだ苦悩の色は消えない。
若草は、すでに手を下している。広末に薬物を投与して、精神に障害を来すようにしている。広末をいくら調べても、もうフルセルフに関する情報、延いてはディストラクション計画に関係することは、広末からは何も出てこない。
しかしそれは同時に、広末にはもう普通の生活は望めないことを意味している。記憶もなければ、意思表示もない。植物状態になったそれを、果たして生きていると呼べるのか。
一条は冷たい目のまま、視線を正面に戻す。
「あなたは、まだ甘いです」
若草は苦笑を浮かべて一条を見る。
「手厳しいな」
「あなたが甘すぎるのです」
若草は帽子の上から頭を掻きながら、視線を前のほうへと戻す。
しばらくの沈黙の後、最初に口を開いたのは一条だった。
「彼は、どうしましょう」
「彼は、そのままでいい」
一条の問いに、若草は前を向いたまま答える。
「彼のことは、特に知らせる必要もないだろう。高峰くんからの報告は、あとで確認させてもらおう。何か、変わったことは?」
「変わりありません。あのままです」
若草は小さく答える。
「そうか……」
「これで、ディストラクション計画が再開されることはありません」
「ああ。でも――」
若草はふと手元の資料に目を向ける。
容量の限界を超えているせいで、クリアファイルが奇妙な形に膨れ上がっている。
「やらなきゃいけないことが、まだまだ山積みだ」
そこで二人の会話は途切れた。しばらく無言のまま、二人は廊下を進んでいく。
二人が廊下を進んでいくと、目の前に壁が現れた。どうやら行き止まりのようだ。扉もなく、他に進めるようなドアもない。
若草は上着のポケットからカードを一枚取り出した。それを壁の右側に備え付けてある機器に通した。
機器に点灯していた赤いランプが、緑色に変わる。
直後、目の前の壁が左右に割れて、その先に道が現れる。
若草は振り返って、後ろに立っている一条を見た。
「それじゃ、ここから先は私一人で行かせてもらう」
一条は何も言わず、黙って若草を見返す。
若草は壁の向こう側に向かって歩き始める。
「あまり喋りすぎないようにしてください」
一条の声が聞こえて、若草は立ち止まって一条のほうへと目を向ける。
一条の表情はいつもと変わらず、感情を悉く排したような、冷たい空気を放っている。
「あなたはお喋りがすぎますから」
若草は自嘲気味に笑いながら、扉の向こうへと足を踏み入れた。
「……わかった」
若草の背後で金属の扉が独りでに閉まる。
途端に、辺りは暗くなる。天上に明かりはなく、足元の壁際に点々と明かりが並ぶだけの薄暗い廊下が続いている。
この廊下の先に、一つの部屋があることを若草は知っている。組織の中で幾つか存在する、組織の上層部、独立監査委員のみが立ち入りを許可されている重要区域。
「……」
若草の顔から笑みが消える。
疲労の滲んだ、暗い表情。それが薄暗いの廊下の中に、浮かび上がる。
「多分、私が口を開いていられる時間はそんなにないだろうけどね」
若草は歩き出した。薄暗い廊下の中で、若草の足音だけが異様に響く。
若草は足を止めた。目の前に、大きな扉が聳えている。その右手に、さっきと同様、カードリーダーが設置されている。
若草はそこに自分のカードを差し込んだ。
火曜日の放課後、咲希は塾に行くため、早めに学校を抜けた。
以前は塾へ行く当日になって課題をやり始めていたが、今はその前日には宿題を終わらせるように習慣付けた。そのおかげで、塾へ行くのに余裕ができた。
塾が始まるのは夕方で、まだ学校を出るのは早いくらいなのだが、その間の時間潰しは決まっている。どこか誰もいない、誰も来ないような場所へ行くのではない。塾のある町の駅のデパートの中にある本屋だ。
今読んでいる本もそろそろ読み終わりそうなので、咲希は新しい本を購入するために今日は早いうちから学校を出た。
「咲希はん」
駅へ向かう途中に、咲希は後ろから声をかけられた。
雰囲気だけでわかる、関西の訛りを含んだ声。
咲希は振り返って、その生徒を見た。
「倉橋さん」
倉橋は鞄を掲げて咲希の隣に並んだ。
軽そうに鞄を振っていて、中身が入っていないのかもしれない。
「もう帰り?」
咲希は首を振る。
「いえ、今から塾です」
倉橋は驚いたように声を上げる。
「塾かぁ。大変やなー」
咲希は苦笑する。
「もういい加減に慣れましたけどね。嫌なんて言ってられませんし」
「さよか」
二人はしばらく、黙って歩いた。まだ生徒たちが帰る時間には早いのか、駅へ向かう生徒の数は少ない。
駅の前まで来て、咲希が駅の中へ入ろうとしたところで、倉橋が口を開いた。
「海斗、元気してるか?」
咲希は足を止めた。
駅の中には改札口が一つだけあって、そのすぐ横には窓の閉まった駅員室がある。駅の中にはベンチが一つあったが、今は誰も座っていない。
咲希は振り返って答える。
「はい。学校にもちゃんと来てますし、女子には人気あるんですよ、雨宮くん。また机の周りに人だかりができてます。――ただ」
「ただ?」
咲希はしばらく口籠り、そして戸惑いながらも口を開く。
「前と、雰囲気が少し違うかな、って」
咲希の言いたいことを察したのか、倉橋はその意味を特に聞くこともなく、軽い調子で答える。
「ま、海斗にもいろいろある、っちゅーことやろ」
倉橋の言葉に、まだ納得がいかないのか、咲希は倉橋を見て訊いた。
「……何か、あったんですか?」
「何かって?」
倉橋はとぼけるような調子で返す。
咲希は言葉を探しながら口を開く。
「二学期が始まっても、雨宮くんは学校に来ませんでした。本当なら、もう学校に来れるはずなのに」
雨宮は一学期が終わるしばらく前から学校を休んでいた。高峰も、同じ日から学校を休み始め、二学期の始業式の日に雨宮たちの上司と名乗る若草から、MASKSの関係で学校を休んでいたと聞かされた。
しかしそれは一学期後半と夏休み中の話で、二学期からは普通に学校に来れるはずだった。それでも、雨宮はしばらく学校を休んだ。
「雨宮くんが学校に来たのは、一週間くらい前。――早沙音のお姉さんが、自殺した日です」
倉橋も、早沙音のことは知っている。以前、咲希のクラスに雨宮を訪ねに来たときに見かけている。
咲希は倉橋の様子を窺いながら、話を続ける。
「久し振りに雨宮くんが学校に来て、クラスの皆も雨宮くんのこと、とても心配してました。皆の質問に答えているときの雨宮くんは、いつもの雨宮くんみたいだったけど……」
咲希はそこで言葉を切って、倉橋の顔を注視する。
倉橋の顔には、いつもの笑みが貼りついている。人の良さそうな、親しみの湧く笑顔。何でも話してくれそうな、悪い言い方をすれば口の軽そうな雰囲気が漂っている。
しかし、倉橋は答えない。
「けど?」
倉橋が訊き返す。
咲希は俯いて言葉を探す。
「上手く言えないんですけど、ちょっと雰囲気が大人っぽいって言うんでしょうか。少しだけ落ち着いているように見えたんです」
言って、咲希は倉橋を見る。
倉橋は困ったように腰に手を当てる。
「そんな気になるんやったら、海斗に直接訊いたらえーやん」
「なんか、訊き辛くって」
咲希は正直に答える。
「倉橋さんなら、何か知っているんじゃないかなと思いまして。知り合いのようですし」
「せやな……」
倉橋は考え込むように腕組みをする。
しばらく唸ってみせると、倉橋は不意に表情を和らげる。
「秘密、ってことにしといてや」
倉橋は歯を見せて笑う。
――はぐらかされた。
咲希は別の話題を探す。これ以上このことで訊いても、咲希が知りたい情報は得られそうにないと思うからだ。
「あと…………」
咲希は表情を変えずに口を開く。
「雨宮くんが学校に来た、その日、私は悪い夢を見たんです」
「夢?」
咲希は頷く。
「もう使われていない工場に、私は一人でいました。誰もいないのかな、って歩いていると、誰かが呼んでいるような気がするんです」
咲希は夢の内容を思い出す。
一週間以上経っても、しっかりと覚えている。忘れない夢はあるものだ。小さい頃の夢はよく覚えているけれど、年月が経ってくると毎日見る夢を一つ一つ覚えてなどいられない。忘れないように意識しても次第に夢の情景は褪せていき、そのうち記憶に留めようとする行為も無駄だと悟って覚えなくなる。
それでも、その日の夢だけは覚えている。
「誰もいないことを、私は知っているんです。でも、誰かがいる気がするんです。そして、私が工場の窓を見ると――」
動悸がする。
夢の内容を思い出しているだけなのに、そのときの感覚も蘇ってくる。体が熱くて、汗が噴き出してくる。背筋がピリピリしてくるが、咲希は体に染み込んだ感覚を無視しながら、言葉を続ける。
「誰かがこちらを見ているんです」
窓の向こうに見えた、黒い影。それが感染するように、全部の窓にびっしりと黒い影が浮かび上がる。
誰かが、じっとこちらを見ている。その視線を感じる。窓の向こうに開いた、黒い空洞。それらが、じっと咲希を見ている。
胸が締めつけられる。
心臓が止まりそうなほどの、異様な圧迫感。
咲希は慌ててその光景から目を背ける。
「私は工場から慌てて逃げ出します。工場を出たところで、目を覚ましました」
咲希は思い出すのを止めた。
思い出すだけでも、心臓が高鳴る。
「何か、嫌な予感がして…………」
咲希は倉橋の顔を見た。
さっきまでと変わらない、感じのいい笑顔を顔の表面に貼りつけたまま咲希のほうを見返している。
咲希はその顔の奥に、何か異質なものを感じ取った。
「何かあったんですね」
追い詰めるように訊くと、倉橋はわざとらしく腕を組んで、首を捻る。唸り声まで上げて、その仰々しい恰好がわざとらしい。
「はぁ……」
不意に、倉橋は手を解いて溜め息を吐く。
倉橋は咲希に手招きをして、駅から離れるように歩き始める。咲希は戸惑ったが、倉橋の後をついていくことにした。
倉橋の行く道は、駅はもちろん、咲希の通う松風高校からも離れる方向だった。この辺りはあまり生徒たちが遊びに行くような場所は少ないが、それでもコンビニなど、生徒たちの行く方面は決まっている。倉橋の進む先は、そんな生徒たちが行きたそうな場所からも遠く離れる方向だった。
十分くらい歩いて、倉橋は足を止めた。
「……」
咲希も足を止めて、辺りを見回した。
アパートと民家に挟まれた影になった場所で、民家の前には塀があってこちらの様子は窺えない。アパートのほうを見上げると、各部屋の窓が見えて、しかしほとんどの部屋はカーテンのせいで中が見えない。
「咲希はんは、ホント勘がええわ」
倉橋は腕組みをして溜め息を吐く。
「海斗も、それくらい気配が読めればええのやけどな」
その言葉に、咲希は引っかかるものを感じて、口を開いた。
「あの夜、何があったんですか?」
「ま、細かいことは俺の口からは言えへんけど……」
そう前置きしてから、倉橋は口を開く。
「全部終わったわ」
咲希は訊き返す。
「終わった?」
倉橋は頷く。
「この町な、実は結構ヤバかったんや」
倉橋は口を開く。
「フラストの大量発生があってな。お上のほうでも、その原因を探ってたんや」
言って、倉橋はにっと笑う。
いつもの、感じのいい笑顔だ。
「でも、それももうない。あの夜に全部終わったんや」
「…………あの」
咲希は咄嗟に口を開く。
「ん?」
倉橋は首を傾げて咲希を見る。
咲希は言葉を探しながら、口を開く。
「その、原因って、何だったんですか?」
倉橋はにっと笑う。
「秘密や」
その言葉に、咲希の表情は暗くなる。
――やっぱり、教えてくれないか。
その顔色を見て取って、倉橋は苦笑する。
「これ以上は言えへんのや。悪いな」
それを見て、咲希はふっと表情を和らげる。
「倉橋さんって、結構口堅いですよね」
倉橋はにっと笑う。
「意外か?」
咲希は慌てて手を振った。
「いえ、そういうわけじゃ……」
そう言って、咲希は言葉を濁す。その後の言葉が、上手く続いてくれない。
倉橋は右手を上下に振って咲希を宥める。
「ええねんええねん。俺は元々、無口キャラやったさかいに」
倉橋の言葉を理解するのに、二秒ほどの時間を要した。
咲希は無意識のうちに倉橋をまじまじと見つめていた。よほど驚いた表情をしていたのか、倉橋は笑って訊いてきた。
「信じられへん?」
「だって、よく喋るほうですし、そんなイメージは……」
咲希の口が自然と動く。
咲希の中のイメージとして、倉橋はよく喋るほうだし、明るい雰囲気がある。感じは良くて、倉橋の言う無口とは対極的な印象だ。
倉橋はすっと右の人差し指を自分の顔へと向ける。その仕草の意図がわからず、咲希は口を閉じて倉橋を見る。
「これが、俺の仮面や」
咲希にはまだその意味がわからない。
倉橋は腕を下ろして口を開く。
「咲希はんも、MASKSのことは大分知っとるやろ」
咲希は頷く。
「心から出てくる、フラストを倒すための、グループだって」
咲希の言葉を、倉橋が引き継ぐ。
「フラストと戦うために、俺らMASKSは仮面を外すんや」
倉橋が説明する。
「MASKSはな、普段と戦うときとやと、性格変わるんや。二重人格みたいにな。けど――」
倉橋がにやりと笑う。
「この二重人格、実は人工なんや」
咲希は反射的に声を上げる。
「えっ……」
倉橋の言葉は続く。
「俺の場合やと、今の俺が作りもんやな。昔の俺は、こんな喋ったことあらへんで。よー覚えとんのや」
咲希はまだ内容をうまく処理しきれていなかった。
――人工。作り物…………。
MASKSの二重人格性は、咲希も理解していた。普段、日常生活の中での雨宮や倉橋を見て、フラストと戦っているときのMASKSの姿を目にして、その両者に存在する大きな差異を、咲希は認識している。
しかし、その性格が人工的なもの、作り物であること。それは咲希にとって初耳だし、すぐに飲み込めなかった。
倉橋はさらに続ける。
「まあ、人によってどっちが作りもんか、ってのは違うさかい。例えば灯の場合――」
咄嗟に咲希は訊き返す。
「高峰さん?」
倉橋は頷いた。
「灯は仮面外したほうが作りもんや。組織に来るような奴は、喋らんのが普通やからな」
まあ、と言って、倉橋は頬を掻く。
「そない言っても、全部が全部無口キャラ、っちゅーわけちゃうで。灯の場合は、組織に来たときから喋らん奴やったらしいで。そう、俺は聞いてる」
咲希の頭の中に、じんわりと理解が浸透していく。理解というよりは納得、無理矢理にでも納得させないと、咲希の頭は理解に追いつかない。
MASKSは二重人格で、その二重人格のうち片方の人格は人工的に作られたもの。おそらくは、組織と呼ばれる場所で作られたのだろう。
人工的に性格を作れるのかという疑問もあったが、他人の手によって自分の性格が捻じ曲げられるのはどんな気分だろうか。それは自分が望んだ性格なのか。都合に合わせるためだけの偽りの自分ではないだろうか。それを果たして、自分だと呼べるのだろうか。
今の倉橋は作り物。
仮面を外したときの高峰は作り物。
――じゃあ、雨宮くんは?
雨宮も、MASKSだ。なら、雨宮海斗は、どちらが本物で、どちらが偽物なのか。本当の性格とはなんなのか、そして自分を偽るとはどういうことなのか。
二人の会話は、そこで終わった。
円いテーブルが中央に置かれている。部屋の半分くらいを占める大きなテーブルだ。その周りに、等間隔に八つの席が用意されている。その内の一つに、若草は腰掛けている。
組織には八つの部門があり、それぞれにトップが一人存在する。この八人が組織の運営を決め、この八人のトップの発言には絶対的な権限が与えられている。また、彼らには他にも様々な権限が認められていて、組織の内情や他の部門の実情を知ることができる。
この部屋には組織のトップたる独立監査委員のみが入室を認められていて、この部屋は会議のときにしか使われない。会議は決まった日時に行われるのではなく、トップの誰かが会議を希望した場合に開かれる。
若草は資料をテーブルの上に広げながら、他の七人に向かって先の組織を抜けた榊原樹に関しての報告を行っている。
「先日、組織を脱しました榊原樹を抹殺したことを、報告します。併せて、昨今のフラスト異常発生のほうも、未だに発生率は高いものの、通常レベルに落ち着きつつあることを確認しています」
報告を終えて、若草は手にしていた資料をテーブルの上に置いた。
独立監査委員の一人が若草に訊ねる。
「榊原の遺体は?」
部屋には各々様々な恰好で席に着いている。若草のようにスーツを着ているものが多いが、中には明らかに私服姿の者もいる。
訊ねてきたのは、初老の男だ。頭髪から髭まで色素を失ったように白く、頭の中央には地肌が剥き出しになって輝いている。目は小さく、そこから上目遣いに見上げているその素振りは、どこか陰気な雰囲気を放っている。
若草はそれに答える。
「ありません」
周囲が色めき立つ。
「ない?」
その老人が再び口を開く。
「ない、とはどういうことかね。いくら抹殺したとは言え、別に体が粉々になったわけではあるまい」
老人はねちっこく訊ねる。
若草は努めて穏やかに答える。
「現在、詳細な状況を調査中ですが、榊原樹の肉体は消滅したと私は確認しています」
周囲の各部門のトップたちが口々に声を上げる。
「MASKSとの戦闘で消失したというのか?」
「それは消滅ではなく、見失ったというのでは」
「君らの戦いは心を用いたもの。体の損失は少ないはずだ。遺体が出てこないはずはなかろう」
彼らの質問には答えず、若草は黙ってその言葉を聞いている。
テーブルの中から、すっと手が上がる。
「MASKSに質問したいのだが――」
最初に質問をしてきた老人だ。
周囲の視線が集まる中、老人は手を下ろす。
「榊原は、ディストラクション計画を完成させていたのでは?」
周囲がどよめいた。
「ディストラクション計画について、ご存知でない方々もいらっしゃられるかと思います。発言してもよろしいですか?」
老人は部屋の奥に座る人物へと目を向ける。
顔に刻まれた皺はこの中にいる誰よりも深く、老人の今までの長い人生が窺える。髪は真っ白になってしまったが、手を挙げた老人と違って、髪はまだ健在だった。
組織の中で、PRIEST総指揮官の地位にいる男だ。PRIESTは、組織の中で管理する立場を指し、普段は各部門の状況把握、そして会議が招集されればその議長を務めるのがその役目だ。
独立監査委員には皆、同等の特権が与えられているが、そのどれをも行使するにはPRIESTのトップ、つまりこの老人に許可を求める必要がある。そして、彼だけは他の誰の許可もなくその特権を行使することができる。
組織の中の最高権力者が、彼だ。
「許可しよう」
PRIESTの言葉を受けて、初老の男は立ち上がる。テーブルの上に置いてあった資料を手にとって、仰々しく咳払いをする。
「ディストラクション計画は、我々SCHOLARの中で行われている研究の一つですが、その研究内容は如何にして心と体の境界を破壊するかということにあります」
SCHOLARとは、研究を主な仕事としている部門だ。研究内容は、心の世界について。フラストの発生の仕組みやその原因についての研究も行われているが、主としているのは、対フラスト用兵器の開発、その研究である。
「現在、対フラスト兵器として活躍しているMASKSは、心の領域を解放するのに仮面を形成する方法を採用しています。仮面を持つことによって体と心の意識の切り替えをできるようにし、フラストと戦えるようにしています」
SCHOLARは別の資料を手にとって話を続ける。
「ディストラクション計画では、心と体の境界を最初から破壊してしまうのです。最初から心と体の区分がないので、MASKSのように仮面を外すという動作が必要ありません。さらに、解放率もMASKSより高くなると考えられ、MASKSに代わる兵器として、研究が進んでいます」
説明が終わると、SCHOLARはもったいぶったような笑みを浮かべる。顔中の脂が浮かび上がるような柔和で歪な笑みだった。
「そのディストラクション計画には、榊原樹も関わっていました」
SCHOLARの言葉に、しかし部屋の中からは驚きの声は上がらない。榊原がディストラクション計画に関わっていたことはすでに、トップの中では周知である。
SCHOLARは咳払いをして続ける。
「我々、SCHOLARではディストラクション計画はまだ成功しておりませんが、私の予想ですが、榊原はそれを完成させていたのではないでしょうか」
SCHOLARはちらと若草に視線を送る。
「心と体の境界がない、すなわち肉体はあってないようなもの。フラストのような存在になったとも言えます。だから、榊原は完全に消滅して、遺体が残っていないのでは?」
SCHOLARは資料をテーブルの上に置いて、まじまじと若草を見つめる。舐め上げるように見つめるその淀んだ視線は、肌に纏わりつくようで言いようのない不快感を伴う。
「どうかな」
若草は、しかしその視線を受けながらも、いつもの微笑を崩さない。
「私には、判断しかねます」
その返答に、しかしSCHOLARは納得した様子を見せず、まだ立ったまま若草をじっと見つめている。
若草のほうもそれ以上は何も言わず、じっとSCHOLARを見返すだけだ。
テーブルの中から別の声が上がった。
「その研究は、まだ成功していないのでしょう」
SCHOLARは声の上がった先に目を向ける。
ほとんどが年配の人たちが座る中で、場違いなほどの若さを放っている青年だった。年は若草よりも一つ下の世代くらい。丸い眼鏡と、人の良さそうな口元が特徴的だ。
SCHOLARの口元から笑みが消える。目皺が濃くなり、さっきまでとは表情が変わる。SCHOLARは低い声で答える。
「はい。実用以前に、まだ成功もしていません」
青年が再び口を開く。
「そんな実験を、榊原が完成させていたと?」
他のトップたちの中から声が上がる。
「あくまで推測の範疇だろ」
「何の証拠もない」
「証拠でしたら、ないとは断言できません」
SCHOLARは再びテーブルの上から資料を取り上げた。
「榊原には協力者がいました。榊原はそれをフルセルフと呼んでいたようです。榊原が生み出した、MASKSに代わる存在。それはディストラクション計画によって作られた可能性があります」
周囲からどよめきが上がる。
ディストラクション計画については全員が知っていたが、フルセルフの存在については知らないものもいるようだ。
「しかも、そのフルセルフを一人、組織は拘束しています」
周囲の視線がSCHOLARに集中する。
SCHOLARはもったいぶった調子で言葉を続ける。
「当初は、臨時検討局を設けて榊原の居場所を聞き出し、今はMASKSの管理下にあるとか」
SCHOLARはテーブルの上に資料を置いた。
「ぜひ、そのフルセルフを我々に譲ってはもらえないだろうか?」
SCHOLARは若草に、そのじとっとした目を向ける。肌を這いずり回るような、不快な視線。SCHOLARは満面の笑みを若草へと向ける。
「ディストラクション計画を成功させる、いい研究資料になると思うのだがね」
若草はその視線を受けながら、真剣な表情で返す。
「榊原が消滅してから、榊原が潜伏していた地域でのフラスト異常発生が少しずつなくなってきました。フラスト発生の原理を知る上で、MASKSにとってもそのフルセルフは貴重な存在です」
「研究については、SCHOLARに任せてもらいたい。MASKSの仕事は、フラストを倒して、世界に秩序を構築することだ」
SCHOLARの低い声が若草の鼓膜を震わせる。
SCHOLARの顔はまだ最高の笑みを浮かべたままだったが、その声に含んでいるものは少しも穏やかなところはなく、むしろ脅迫的な響きを帯びている。
若草はふっと表情を和らげる。
「わかりました。お譲りしましょう」
若草は柔らかい口調で答える。
「ただし、実験内容と研究結果はMASKSにも教えてください。フラストのことを知る参考になると思いますので」
「了解した」
SCHOLARは柔らかな声で答えると、そのまま席に着いた。
話が終わったのを確認して、PRIESTが口を開く。
「以上で、よろしいか」
静かになった卓上の中に、すっと手が伸びる。部屋の中の視線が彼に集中する。
細身の男で、顔には痩せ気味特有の強い皺が刻まれているが、男の顔からは精力的な力強さが感じられる。黒々とした髪に、まだ輝きを失っていない瞳、中年くらいだろうか、年は若草と同世代だと思われるが、その雰囲気は若草とは対照的だった。引き締まった口元からは笑みがなく、その細い瞳からは何かを貪るような獰猛な光が放たれている。仕事に人生を捧げたような、愛想のない顔色をしている。
「ORCHESTRA」
PRIESTに名を呼ばれて、中年の男、ORCHESTRAは手を下ろした。
ORCHESTRAは組織の中にある部門の一つで、その役割は世間にフラスト及び組織に関することが露見しないようにするための隠蔽工作の集団だ。
MASKSのように組織の外側で活動をする数少ない部門の一つで、MASKSとフラストとの戦闘の痕跡が世間に知られないようにするための事後処理や、MASKSやフラストによって世間にフラスト、または組織のことが露見しかけた場合の情報操作などを行っている。
ORCHESTRA自体はMASKSとは違って、フラストのような心の住人と戦うための術はない。ORCHESTRAの役割は、あくまで隠蔽工作、情報操作に限り、時として人の記憶を書き換える作業も行っている。
ORCHESTRAは淡白な声で若草に訊ねる。
「榊原樹を抹殺したということだが、殺したのは誰だね」
若草は愛想の良い笑みを浮かべてそれに応じる。
「おかしなことを訊きますね。MASKSではフラストを誰が倒したかなんて、逐一報告していませんけど」
「榊原はフラストではない」
遮るような口調で、ORCHESTRAは口を開く。
「組織を裏切った許されざる存在。しかも榊原は元MASKSで、相当な実力を持っていた。ここにいる独立監査委員の諸君は、充分知っているだろう」
榊原の名前は、榊原がまだMASKSにいた頃から知られていた。実力も確かだが、何よりその特異的な仮面の性質が組織内部の関心を集めた。
ORCHESTRAはじっと若草を見つめたまま言葉を続ける。
「その榊原を倒したのだ。MASKSの中でもかなりの実力者だと思うんだが」
若草は苦笑を浮かべながら返す。
「失礼ですが、そのことについて答える必要は……」
「雨宮海斗」
若草は口を噤む。
ORCHESTRAは手元の資料を引き寄せて、言葉を続ける。
「任務期間は一年にも満たない、新米のMASKS。初任ではMASKSの秘密を世間に曝してしまうという失態を犯すが、後にフルセルフ二体との戦闘に関与するなど優秀な成績を残している」
ORCHESTRAは資料を置いて、両手を組んだ。
「彼が榊原を倒したと聞いている。ホリックでも何でもない、ただのMASKSである彼が」
部屋の中の視線が若草へと集中する。周囲の好奇の目の中に、心配するような青年の目が一つだけ混ざっている。
若草は苦心したように口を噤んでいたが、不意に低く笑い声を漏らす。
「随分、お調べになったようだ。ORCHESTRA」
周囲の視線が集中する中で、若草は努めて冷静な口調で言った。
「しかし他の部門を調べるのは、PRIESTの役目では?」
その言葉を聞いて、すかさず青年が口を開く。
「確かに」
「少し出過ぎた真似ではありませんか、ORCHESTRA。PRIESTは、このことをご存知で」
若草はPRIESTのほうへと目を向ける。
それに倣って、ORCHESTRAも両手を解いてPRIESTを見る。
「いや。聞いていない」
PRIESTの言葉に、ORCHESTRAは笑みを漏らす。口元は笑っている、しかしその目は凍りついたように笑っていない。
「これは失礼。しかしMASKSを補助し、世間に組織のことを知られないようにするのが、ORCHESTRAの仕事ですから」
テーブルに座った青年が咄嗟に声を上げる。
「それとこれとは……」
「――私の部下がね」
青年の言葉を遮って、ORCHESTRAが口を開く。
「見てしまったのだよ。榊原が殺されるところを」
周囲からどよめきが上がる。
ORCHESTRAは淡々と言葉を続ける。
「実に奇妙な倒され方だったよ。なんなら、今ご覧になりますかな?」
周囲の視線がORCHESTRAに集中する。
その中で、青年だけが若草のほうを気遣わしげに見ている。
若草は真剣な面持ちでORCHESTRAの意見を遮った。
「今は会議の場です、ORCHESTRA。そういう資料は、事前に渡していただきたい」
若草はすっと視線をPRIESTのほうへと向ける。周囲の目も、同じようにPRIESTを見る。
PRIESTはその重い口を開いた。
「許可しない」
会議の場では、基本的に発表者の資料を閲覧することはできない。会議で何か発言することがあれば、事前に他の独立監査委員に資料を配布しておく必要がある。それは組織の秘密主義によるところが大きい。
組織は世間に自分たちのことが知られることを嫌う。自分たちの情報は、例え組織内にいる者でも軽々しく閲覧することはできない。組織の内情を知ることができるのは、トップに立つ独立監査委員のみである。
会議中に侵入者があった場合、重要機密事項が他の者に知られるのを防ぐため、会議では他の独立監査委員に資料を配る、または資料データをスクリーンに流すなどの行為は禁じられている。
「申し訳ない。時間がなかったものでね」
ORCHESTRAは低い声で言った。
「後で資料をお配りしよう。その資料を独立監査委員全員が確認した後――」
全員の視線が集中する中、ORCHESTRAは両手を組んで、そして仰々しくその言葉を発した。
「雨宮海斗の召喚を要請します」
電車を降りて、雨宮はその町の中を歩いていた。人通りは多すぎず、少なすぎず、一応に栄えている町らしい。
空には厚い雲が浮かんでいて、雲の切れ目から僅かに青空が覗くくらい、日の光が少ないせいか、気温は穏やかで涼しい。
十月になって数日が経ち、夏の暑さは秋の訪れの影に身を隠している。日中はあれほど喧しく鳴き続けていた蝉の声も、いまではぷっつりと聞こえない。
今日は休日、雨宮も高校に行くときのような制服ではなく、ジーンズにシャツを重ねた簡素な恰好をしている。夏休み中でも持ち歩いていたショルダーバックも、今は持っていない。腰に回したウエストバックの中に財布と携帯を入れているだけで、あとは何もない。
雨宮は駅前の商店街を抜けて、所々に住宅が見える道までやって来た。その中で、一軒のアパートを見つけて雨宮は足を止めた。
二階建てで、造りも新しい。塗られたペンキの色は派手ではなく、落ち着いた雰囲気がある。裏に回ると、各部屋の窓が並んで中の様子が見える。
ほとんどの窓にはカーテンがかけてあって中の様子が見えないが、そのなかでカーテンのない、空っぽの部屋が一つだけあった。誰もいないのか、片付いた床の上には何もない。
雨宮は道の上からその窓の中を覗き込んだ。
(早沙恵、久し振り)
雨宮の脳裏に一つの情景が浮かび上がる。
雨宮の知らない、今は誰もいないその部屋の中の、いつかの光景だ。部屋の中に二人の女性がいる。
一人用の小さいテーブルを前にして、眼鏡をかけた女性が一人座っている。まだ馴染んでいない様子で、じっとテーブルに視線を落としたままだ。
もう一人の女性は奥の部屋から出てきて、テーブルに座るところだ。ポニーテールにラフな部屋着で、楽しそうな笑みを浮かべている。こちらまでつい引き込まれそうになる、明るい表情だ。
<p class=MsoNormaltext-indent:10.1pt>両手に持っていたお盆を置いて、彼女も座る。
(さ、食べて食べて。あたしの手作りなの)
テーブルの上にはクッキーが並んでいる。手作りと称するにしてはどれも整った形をしていて、店頭に並んでいたものを買ってきたと言っても通じそうだ。
眼鏡の女性はテーブルに置かれたクッキーを一瞥しただけで、すぐに視線を手元に落とす。
(でも……)
遠慮しているのだろう。それとも、まだ緊張が解けないのか、眼鏡の女性は固く閉じた両手をじっと見つめたままだ。
ポニーテールの女性は眼鏡の女性の前に座って明るい声を出す。
(いいからいいから。しばらくここに泊まってくんでしょ)
ポニーテールの女性はお皿の上からクッキーを一枚取って、眼鏡の女性の前に差し出す。
(こんな狭い部屋だけど、これからよろしくね)
眼鏡の女性は差し出されたクッキーを見て、次いで目の前に座ったポニーテールの女性を見た。満面の笑みが浮かんでいる。
くすぐったい気分だった。
同時に、理解できなかった。どうしてそんなに笑っていられるのだろうか。どうして辛さや悲しみが顔に出てこないんだろう。
――苦しくないのかな。
眼鏡の女性は怖ず怖ずとクッキーを受け取った。 焼きたてなのだろうか、余熱を含んでまだ温かい。
(うん……)
眼鏡の女性は頷いた。
(ありがとう)
眼鏡の女性は手にしたクッキーを一口かじった。
甘い香りが口に広がったのだろうか。雨宮にはわからない。
(……)
彼女の手が、僅かに震えている。そして彼女の頬を、透明な雫が一筋零れ落ちる。
(ありがとう……)
眼鏡の女性はすぐにもう一口目を口にした。
「……」
雨宮は振り返って、アパートを離れた。
来たときの道を、そのまま逆に辿り始める。左右に店が並ぶ商店街。綺麗な道に、大勢の人たち、町の活気が人目でわかる。
(ここ、あたしのお気に入りの場所なんだ)
声が響いて、目の前に別の光景が広がる。左右に並ぶ店、道を歩く人々、その中に二人の女性が並んで歩いている姿が浮かび上がる。
ポニーテールの女性が楽しそうに隣の女性に話をする。
(いろんなお店があってさ。たくさんのイメージがそこら中にあるの。だから、何て言うのかな、創作意欲が湧いてくる、ってそんな感じ)
とても嬉しそうな笑顔だ。見ているこっちまで、温かい雰囲気に包まれる。
(…………)
一方、眼鏡の女性はポニーテールの女性の話を聞くばかりで、一向に口を開かない。相槌をするでもなく、商店街の様子を見るでもなく、ただじっと足元ばかりを見ている。
(ほらっ)
隣のポニーテールの女性の手が、眼鏡の女性の顔を持ち上げる。規則正しく敷き詰められたタイルが消えて、町を歩く人の姿が視界一杯に広がる。
(下ばっか向いてないで、もっと上を向いて歩こっ)
眼鏡の女性は隣の女性に顔を向ける。
満面の笑みが、彼女を見返している。
(……)
眼鏡の女性も、ポニーテールの女性に倣って笑顔を作ってみたが、作り物の笑みは歪で、不恰好な表情になってしまう。
(…………)
眼鏡の女性は、そのまま前を向いて歩く。
左右に並ぶ様々な店は、彼女の視界には入ってこない。どこまでも続く道の上に、敷き詰められたように歩く人の波。それが彼女の視界を埋めている。
今、自分はどんな顔をしているだろうか。自分の顔はどういうふうに他の人の目には映っているのだろうか。変な顔になってはいないだろうか。変な人だと思われていないだろうか。
――自分なんて……。
そんな女性の様子を見て、しかしポニーテールの女性は一度頷くと、微笑んだまま道を進んでいく。
二人は一軒の店に入っていった。どうやらケーキ屋のようだ。基本的には持ち帰りのようだが、中でも食べていくスペースがあるようだ。二人は席に座って、テーブルの前に向かい合う。テーブルの上には二種類のケーキが、互いの前に置かれている。
(ここのケーキ、あたしのオススメ)
ポニーテールの女性はフォークでケーキを切って、その一口分の大きさのスポンジと生クリームを口へと運ぶ。途端に、彼女の頬が赤く上気する。幸せ、とはきっとこういうことを言うのだろう。
(あ、でも、ここのレシピを真似しようなんて思ってはいないんだからね。自分で作るときは、やっぱり自分だけのオリジナリティを出したいじゃない)
言って、再びポニーテールの女性はケーキを口にする。
(カザミ……)
ぽつりと、眼鏡の女性は口を開く。
(ん?)
ポニーテールの女性は口にフォークをくわえたまま顔を彼女のほうへと向ける。よくよく見てみれば、眼鏡の女性の前の置かれた皿の上のケーキは、まだ口をつけられてはいない。
眼鏡の女性は小さく、呟くように言った。
(…………カザミは、反対されなかったの?)
その一言で充分だった。
ポニーテールの女性の顔から笑顔が消えた。
力を失ったように薄く開いた口からフォークが零れて、そのままポニーテールの女性はフォークを自分の皿の上に置く。
(…………)
(…………)
沈黙が降りた。
周りでは他にもケーキを食べている女性客の姿がある。周りの客も複数人で、互いにケーキを口にしては楽しそうに話をしている。その笑い声が、今は妙に鼓膜を不快に震わせる。二人の沈黙が、いっそう濃くなる。
(……あたしね)
最初に口を開いたのは、ポニーテールの女性のほうだった。
(生活費と大学の授業料は自分で払ってるんだ。親からの仕送りなんてもらってないから、全部自分で稼がなくちゃいけない。稼ぎながら料理の勉強もしてるから、ホント大変)
言って、彼女は苦笑を浮かべる。
(――家を出たばっかりのときはね)
ポニーテールの女性は思い出すように口を開く。
(毎晩電話がかかってきたんだよ、お母さんから。今どこで暮らしているの、とか、ちゃんとご飯食べてる、とか、体の具合は大丈夫、とか、早く家に帰っておいで、とか。もうやんなっちゃうくらい)
苦笑を浮かべて、ポニーテールの女性は続ける。
(途中から本当にやんなっちゃって、電話にも出なくなった。今はもう携帯変えちゃったから、家から電話がくることもないんだけど)
笑って言うポニーテールの女性の顔から、眼鏡の女性は顔を逸らした。ポニーテールの女性の笑顔は、妙に胸を刺した。
(最後に電話くれたのは、お父さんだった)
ポニーテールの女性は構わず話を続ける。
(すっごく久し振りに、お父さんと話をした。家にいたとき、あんまりお父さんと話したことなかったから)
眼鏡の女性は俯きながら唇を噛んだ。
両親とは、もう二ヶ月近く会っていない。その間、両親に電話したこともなければ、電話がかかってきたこともない。
――話すことなんて…………。
眼鏡の女性の口元が強張る。
(お父さんの声が聞こえてきたときね、最初は怒られると思ったんだ。だからすっごくビクビクしちゃったんだ)
ポニーテールの女性は、優しい声で続けた。
(――でも、怒らなかったんだ。お父さん)
眼鏡の女性は顔を上げた。
その様子を見て、ポニーテールの女性はにこりと笑う。
(早沙恵のお母さんもお父さんも、きっと心配してるよ)
言って、すぐにポニーテールの女性はフォークを手に取った。
(さ、食べよ食べよ)
彼女はまた明るい笑顔を浮かべて、ケーキを頬張る。
(……)
眼鏡の女性も、彼女にならってケーキを口に含む。甘い香りが口の中に広がって、自然と顔が綻ぶ。
「……」
雨宮は電車に乗って、そしてある駅で降りた。バスに乗って、そしてその場所に辿り着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
「……」
雨宮は周囲を見回した。そこは閑静な住宅地、家々が隣接して、道は車一台が充分、二台だと厳しいくらいの道幅。ぽつりぽつり街頭が点り、その明かりは夜闇を照らすにはまだ不十分だった。
雨宮は一軒の家の前に立っていた。どの家とも大差のない、他の家と同じような造り。車があって、玄関があって、家の中には人がいるのか、明かりが点っている。
(……)
その光景が、脳裏の景色と重なる。
人通りはなく、周囲は真っ暗で、家の中に明かりが点っている。
(…………)
眼鏡の女性は、一人で家の前に立っている。
玄関の前、インターホンの前に立って、そのままの恰好で女性は硬直する。十分以上もそうしていただろうか、女性は迷いながらもインターホンの前に人差し指を差し出す。
(…………)
そこから先が、動かない。
さらに十分近い時間が経過した。
(誰だ)
背後から声がした。低い、男の声だ。
眼鏡の女性は驚いたように振り返った。
(そこで何をしている)
その人影を目にした瞬間、目の前が急に真っ暗になった。全ての景色が一瞬でシャットアウトして、光と影が同時に消滅する。
雨宮の頭の中で流れていた情報が、そこで途切れる。
「…………」
雨宮は家に背を向けて、その場から離れる。
向かった先は、駅の近くにある歩道橋だった。さっきの家からこの場所まで、歩いて三十分近くかかる。歩道橋の上に立って、雨宮はその光景を見た。
(はぁ、はぁ……)
頭の中で、女性は息を荒げて歩道橋に凭れかかっていた。大分走ってきたのか、相当呼吸が激しい。
(…………)
五分くらいして、ようやく落ち着いてきたのか、眼鏡の女性は体を持ち上げて歩道橋の上に立った。
(私……)
眼鏡の女性は呟いた。
(ダメだ)
そのまま俯いてしまう。
歩道橋の下には幅の広い車道が広がっていて、その上を何台もの車が通り過ぎていく。暗闇の中で車のライトが眩しいくらいに光って、彼女の視界の中を明るく照らす。
――携帯が鳴った。
携帯の音に、彼女は遅れて気がついた。
(……!)
慌てて自分のバックの中身を引っ掻き回して、自分の携帯電話を取り出した。色は白一色の簡素な携帯、自分でデザインを選んだわけではないから、特に愛着はない。
眼鏡の女性は携帯電話を開いた。
(…………)
メールが一件届いていた。そのメールを開いてみて、強張っていた女性の表情は途端に緩んだ。
(……なんだ)
知らないアドレスだ。件名だけ見てもわかる、ダイレクトメール。
眼鏡の女性はすぐにそのメールを削除して、携帯電話を閉じた。
(…………)
しばらくぼんやりと眺めていた女性は、思いついたように再び携帯電話を開いた。彼女はボタンを押して、開いたのは着信履歴のページだ。
(…………)
女性はキーを操作して、ページをめくっていく。
携帯電話を持って二年くらいは経つけれど、電話帳に登録されているのは両手の指の数も超えない。高校時代に一緒だった友人とも、アドレスなどの交換はあまりしていない。彼女が携帯を持っているという事実を、知っている人のほうが少ない。
――パタン。
眼鏡の女性は携帯を閉じた。
(お父さんと、お母さんと、電話したことない)
履歴は、携帯の画面でもたったニーページ分。それは数少ない電話番号を教えた友人と、自分の妹だけだった。
(かかってきたことも、なかったんだ)
女性は呆然と歩道橋の下を眺めた。
日の落ちた町の中に幾つもの光が蠢いている。車のライトの光だ。まるで顕微鏡で微生物でも観察しているみたいだ。ぐちゃぐちゃ動いていて、気持ちが悪い。
(私……)
開いた口は、しかしそれ以上の言葉を発しない。
――捨てられたんだ。
女性はハッとする。
――お前は親に捨てられたんだ。
頭の中に、人の声が聞こえた。
男なのか、女なのかもわからない、ただ言葉だけが聞こえる。それがどこからでもない、女性本人の体の中から湧いてきているのだとわかる。
(違う……)
女性は咄嗟に口を開く。
しかし、頭の中の声はさらに続ける。
――今まで、親から電話がかかってきたことがあったか?心配されたことは?
女性は首を横に振る。
(違う)
声は、しかし容赦なく口を開く。
――家を出たのに、あいつらちっとも電話してこない。お前は家を出たつもりでいるのかもしれないけど、本当は、お前は家から――。
女性は耳を塞いでその場に屈む。
(違う!)
頭の中の声がピタリと止んだ。
しかしその声が頭の中で木霊するような気がして、女性はしばらく耳を塞いだまま立ち上がろうとしない。
(違う……)
別の声が聞こえたのは、ちょうどそのときだった。
(――では、何が正しいのかな)
眼鏡の女性はその声に気付いて、目を開いた。
空気を振動させて、その声は確かに女性の耳を振るわせた。女性は耳を塞いでいた手を離して、ゆっくりと立ち上がった。
目の前に人影があった。
(君の本当の気持ちを、教えてくれないか?)
優しい声だった。
優しいの定義は明確でなくて、いまいちその認識がはっきりしないけれど、その音が無性に優しさを含んでいることを、女性は感じた。
(私……)
女性の口は、独りでに動いていた。
(私の、本当の気持ち――)
彼女の手から携帯電話が零れ落ちた。下へ下へ、白い携帯電話は闇の中へ落ちて――。
真っ白な光の中へ、彼女の携帯電話は消えてなくなった。
白い靄が辺りを包んでいる。
何も見えない、白い世界。
――りん……………………。
鈴の音が聴こえた。
「やあ、君か」
靄の中から、人影が現れた。妙な恰好をしている。
肩から爪先まで、黒いマントに身を包んで、顔には白い仮面を被っている。目と口だけの簡素なもので、仮面は愉快そうな笑みを浮かべている。
「君から私の中に入ってくるとは珍しいね。何か用かな」
仮面の人間は訊ねる。
優しい声だった。感じのいい、つい全てを話してしまいそうな、心を許してしまいそうな、そんな誘惑的な響き。
雨宮は口を開く。
「あなたは、何のために戦ったんですか?」
「私は別に、戦うことを目的とはしていないよ」
仮面はおかしそうに笑う。
心の中をくすぐられるような、心地よい響き。その声に、頭の芯まで揺さぶられているようで、つい聞き入ってしまう。
「戦いたかったわけじゃない。ただ、私と衝突するものがいるから、戦いになってしまっただけだ」
「そう」
雨宮は頷く。
「誰も、争いなんて求めてはいない」
「でも君は戦いを欲していた」
仮面は真剣な調子で返す。
しかしその声には、どこか柔らかな響きが含まれている。
「フラストの存在。敵の存在。君には敵がいなければいけない。敵を倒すことで、君は両親を殺した殺人鬼への復讐の代わりにした」
雨宮は黙した。
仮面は優しい声で続ける。
「そうだろ?」
「そうですね」
雨宮は、すぐにその問いに答える。
「確かに、僕は両親を殺した相手を憎んでいた。その憎悪が、僕の前に銃の形で現れた」
記憶が揺れる。
記憶の中に、仮面が浮かぶ。右目が異様に膨らんで、その周囲には赤や黄色や橙色など、派手な色の三角が、太陽のように飾られた異質な仮面。喜色を浮かべたその仮面が、狂ったように笑っている。
仮面の奥から、一人の少年の姿が見える。その少年の顔は、憎しみに燃えた怒りと、殺戮に歓喜する狂気の笑みが入り混じった表情をしている。少年は右手に持った大きなサブマシンガンを両手で握り締める。
「仮面を取り去り、銃を持って引き金を引く。目の前に現れたフラストを次々と撃ち続けていた」
仮面は優しく訊いた。
「それで、君は満たされたのかい?」
心の中を覗かれるようで、それでいて不快なところのない、むしろ全てを許せてしまうほどの清々しさの残る音。
「君の心は、敵を殺すことで満足できたのかい?」
雨宮は俯いた。
「わからない」
記憶の中で、雨宮の姿が二つに裂ける。
柔和な表情。穏やかで、優しげで、愛らしい色。人の中に囲まれているその姿は、とても楽しそうに笑っているけれど、どこか消え入りそうな影がある。
険しい表情。殺気だった、敵愾心を露わにした色。体格の割には大きなサブマシンガンを片手に持って、全てを破壊する。
「僕の心が二つにわかれて、社会にいる自分と、MASKSとして、兵器としての自分、二つの心を僕は抱えるようになった。僕がそれに満足しているのか、今の僕にはわかりません」
「心が二つに裂けて、今の君には、もう一人の自分が満足しているのかわからない、とそういうことかな。そんなの、言い訳だ」
「言い訳です」
雨宮は微笑む。
「この町で仕事をするようになって、いろいろな人たちと出会って、失って、僕は自分が何をしたいのかわからなくなった」
雨宮は遠い記憶の中に意識を送る。
「最初は、組織のために仕事をしようと思っていた。組織の言うとおりにしよう、それが今の僕の生きている理由だと、そう考えていた」
いろいろな場所を歩いて、たくさんのものを目にする。懐かしいと思うはずの感情は、しかし雨宮の中には別のものとして浮かび上がる。
初めての場所を、一人で歩く。いつまで経っても慣れない闇。新しい世界に迷い込んだような、期待と不安。
「その最初の仕事で、僕は大きなミスをした」
一人の少女の姿が浮かび上がる。その背後に、高さ五メートルもある巨大な剣が聳えている。剣の幅は一メートルもあり、柄の部分には顔のような模様が施されている。
「僕の正体が世間にバレそうになって、そのせいで僕はこの町に移されて、高峰さんに監視されて。僕は、今度こそ失敗をしないようにと決心した」
記憶が揺れる。
「でも僕は、また自分の正体を知られてしまった」
記憶の中に浮かんだのは、一人の少女だった。
すらっと伸びた長身の体躯。伸ばされたストレートの髪。白いヘアバンドが、少女の唯一の装飾品。
驚いた顔。睨むような瞳。恥ずかしそうに赤らめた頬。感情を吐き出しそうな口。そして、崩れ行く少女のもう一つの心と、新しく生まれた少女の姿。
「組織からは、お咎めはなかった。だから僕は、今度こそ失敗しないように、そう思って戦ってきた」
銃を構えて、走り続ける雨宮。銃弾が当たっては、叫び声が記憶を揺さぶる。心を歪められる痛みに、しかし銃を持った彼は笑っている。
「クロさんと会って、僕は言われた。君は戦いたがっている、って。そのときはまだ、僕はその言葉を信じられなかった。僕は、戦いたがってなんかいない。戦いを欲してなんか、いない。そう、思っていました。自分に、言い聞かせていた」
雨宮の表情が、急に暗く沈む。
記憶が濁流を起こす。
「白百合さんが死んで、僕はわからなくなった」
雨宮が通う学校の、雨宮の所属するクラスの中が見える。生徒たちが自由に立っていて、どうやら休み時間らしい。
雨宮の席の周りに人だかりができている。主に女子生徒で占められたその集団の中に、ツインテールが可愛らしい女の子の姿が見える。楽しそうに笑ったり、本当にビックリしたように驚いたり、表情豊かで、明るい印象がある。
記憶に雑音が入る。
「私を怨むか?」
仮面が訊ねる。
「白百合くんをフルセルフにしたのは私だ。君と同じ学校のクラスメイトで、君に好意を寄せていた彼女を、君の敵にしたのはこの私だ」
仮面が、再び訊ねる。
「私を怨むか?」
記憶が暗転する。
周囲は真っ暗で、明かりもない。空と地面の境が曖昧な暗闇の空間、その中に二つの金色の明かりが点っている。
それは二つの目のように、こちらをじっと見ている。蛇に似た、金色の瞳。黒い肌、黒い髪、その髪が意志をもったように個別に動き回っている。人の形をして、しかし人とは思えない異形の姿。人と呼ぶには、あまりにも怪物じみている。
「いいえ」
雨宮は首を横に振る。
「白百合さんは、敵だとわかった僕でさえ、好きだと言ってくれた。たくさん傷付けたのに、それなのに、僕のことを……」
記憶が霞む。
記憶の中の暗闇が、白い霧に呑まれて消えていく。
「白百合さんを死なせてしまったのは、僕の責任だ」
雨宮は自分の右手を見つめる。
そこにはない、見えない銃器が記憶と重なる。握る感触、そして引き金を引く感覚。けたたましい音に、敵を砕いていく衝撃。
決して忘れることのできない感触。
殺戮で濡れた掌。
「僕は、考えた」
考えていたわけではない。
後悔と自責の念に、押し潰されていただけだ。
敵を倒した。そんなことは、詭弁でしかない。
自分に与えられた使命、敵を倒すこと。銃を持って、引き金を引く。敵を倒すことが、今の自分の存在理由。
――違う。
しかし、それは本当に正しかったのか。
――そんなの、嘘だ。
敵であるなら、人を殺してもいいのか。自分にとっての障害になるからといって、今まで親しくしてくれた人を死なせてもよかったのか。
――僕は、卑怯だ。
長い間、苦悩に苛まれた雨宮だったが、しかし雨宮は再び銃を握ることになった。
「でも、僕にはやらなくちゃいけないことがあった」
仮面は薄い笑い声を漏らす。
「私に復讐することかな」
「あなたを倒すことです」
雨宮は即答する。
「組織の敵、そう聞かされていましたから」
「組織の敵、か」
仮面はおかしそうに笑う。心を震わせるその音は、どこか悲しい、自虐的な響きを含んでいた。
「まあ、どちらにせよ、そうなるだろうね。私は組織を抜けた。そんな存在を、組織は許してはおかない」
雨宮は訊ねる。
「あなたは何故組織を抜けたんですか?」
「やらなければいけないことができたからだよ」
仮面はすぐに答える。
迷いのない、真っ直ぐとした声は、耳にするものの心を惹きつけて離さない。疑いようのないほど、綺麗な音だ。
「ディストラクション計画ですか?」
記憶が揺れた。
意識が混ざり合って、情報が錯綜する。混濁したイメージが、雨宮の中に流れ込んできて、それが記憶と意識を形成する。
雨宮は口を開く。
「人から、心と体の境界を破壊する。そうすることで、人から仮面を奪い去る。全ての人が何の隔たりもなく、思いのままに意志を伝えられる世界を、あなたは目指した」
混ざり合った情報は何色もの絵の具を混ぜたように不確かで、そこからは何の色も見出すことはできない。
「私の親友は――」
仮面は不意に笑った。
「私の意見には、賛成できなかったようだけどね」
雨宮の記憶の中に、一人の男の姿が映し出される。使い古したつばのついた帽子を目深に被っている。顎に無精髭を生やして、その顔はどこか疲労が滲んで見える。
――間違っている。
声が、雨宮の心の中に響き渡る。
仮面が訊ねる。
「君はどう思うかい?私は間違っていると、そう思うかな?」
雨宮は俯いた。
「それがわからないんです」
雨宮は言葉を続ける。
「何が正しくて、何が間違っているかなんて、僕にはわからない。自分のことでさえ、わからなくなっているんだから」
正しいとか、間違っているとか、そんなことすら最初はどうでもよかった。ただ、居場所のない自分にとって、与えられたそこが唯一の場所ならば、自分はそこにいられることを喜んで、その存在理由を全うする、それが全てだった。
自分は何を考えていて、何を思っていて、何を望んでいるのか、そんなことを感じる必要すらない。理由なんて、なくていい。ただ言われたことだけをしているだけで、自分はこの世界にまた存在できる。
「でも、僕は――」
すっと、雨宮は顔を上げる。
「あなたに仮面を割られたとき、思い出したんです」
落ち着いた目をしている。
曇りのない、真っ直ぐな瞳。迷いのない意志が、その雰囲気からも充分に感じ取れた。雨宮は意志を固めた目で、仮面を見据える。
仮面が訊ねる。
「何を?」
仮面は、笑ってはいなかった。
冗談めいた様子もなく、雨宮の言葉を冷やかす素振りもない。真剣で真摯な、純粋な問いを雨宮に投げかける。
雨宮は口を開く。
「彼女たちは、傷ついていたんだ」
記憶が揺れる。
幾つもの情報が混ざり合って、正確な記憶が浮かび上がらない。それは水面に揺蕩う泡のように、浮かんでは消えて、そしてまた浮かび上がる。無限の流れの中の記憶が、泡のように弾けては消える。
雨宮は一瞬だけ目を閉じて、そして再び瞼を上げる。
「皆、苦しんでいたんだ」
無数の声が、雨宮の心の中で木霊する。
――苦しみ、辛さ、痛み、悲しみ、怒り、憤り。
あらゆる声が雨宮の心の中に湧き出して、ハウリングするように音が震動する。雨宮の心が風船のように膨らんだり萎んだりして、強烈な痛みに、しかし雨宮は苦痛を表情には表さない。必死に隠すようでもなく、その全ての痛みを一身に背負っている。
「僕も、彼らも、本当は何も変わらない。その境遇は、むしろ同じなんだ、って。ただ、歩んだ道が違うだけ」
記憶が止まった。
同時に、雨宮の中で溢れ出した声も、動力を失ったように聞こえなくなった。
雨宮は口を開く。
「フラストは人を襲う加害者かもしれないけれど、今まで辛いことを抱えてきた被害者でもある」
雨宮は薄く笑みを浮かべる。
「上嶋さんは、そう言っていた」
フラストは人の心から溢れ出した化物だ。人を襲い、人の心を養分として人の世界に留まり続ける。
人に危害を加える存在だが、元々は人の心の一部。人の苦悩、苦痛、憤慨、悲嘆、訴願、後悔、意志、諸々の感情が蓄積して、抑えられなくなった感情が溢れ出したものだ。元を辿れば、それは人の心と同義だ。
「僕も、皆を救ってあげたい」
咲希は言っていた。
――助けたい。
咲希はMASKSではない。雨宮のように、フラストを倒せる力なんてもってはいない。フラストを感じ取ることができるだけで、咲希は雨宮と違って普通の女の子なのだ。
しかし咲希は、フラストを助けたいと言ったのだ。フラストは化物だ、心の領域から外れた異形の化物。その化物を、咲希は被害者だと言った。以前フラストをその心の内に宿していたからわかるのかもしれない。フラストは人の心に蓄積された精神的苦痛が破裂したもの。人の苦しみの象徴でもある。
「苦しみから、皆を解放できるかなんて、僕にはわからないけど、少しでも多くの人から、悩みを、苦しみを、怒りを、悲しみを、消し去ることができるなら――」
雨宮は続ける。
「僕は、そのために戦う」
仮面はじっと雨宮の話を聞いていた。
子莫迦にするわけでもない。嘲笑するわけでもない。仮面はただじっとして、雨宮の話を真剣に聞いていた。
「君は、イエス・キリストにでもなるつもりかな?」
仮面が口を開く。
「イエス・キリストは人々の持つあらゆる罪を背負って、天へと還っていった。彼の死によって、人々は罪から解放された。君は、そんな救世主にでもなるつもりかい?」
聖母マリアから生まれた神の子、イエス・キリスト。彼は各地で神の教えを広めて、民衆の心を捉えたが、後に磔刑を宣告される。
処刑された彼は、しかしそのことによって人々の全ての罪悪を一身に背負って、父親である神の許へと還ったのだ。
雨宮は首を横に振る。
「神様になろうなんて、そんな大それた考えはないですよ」
ただ、と言って雨宮は続ける。
「人の心の傷を消し去ることができるなら、僕はいくらでもこの力を使います。自分の心を、いくら犠牲にしても構わない」
雨宮は自分の右手を見る。
小さな手だ。小さな体に相応しい、小さな掌。同じ歳の男子と比べると明らかに小さい、女子と比べても小さい。
雨宮の肉体の成長は、雨宮が組織に送られるきっかけとなった事件以来、止まっている。精神は肉体に影響を及ぼし、肉体は精神に影響を及ぼす。雨宮の時間は、そのときから少しも前に進んでいない。
雨宮は右手を握り締めて、すっと前を見る。今の自分を見てくれているのは、一人の仮面だけだった。
「それが僕の役目」
遠くで鈴の音が聞こえる。世界に染み込んでいくような、清んだ音色。
辺りを白い靄が包み込んで、世界は白い世界へと呑まれていく。




