第八話 審問官
「……場所は、知ってる」
湊がそう言うと、松明の炎が、また一度揺れた。
リシェルは何も言わなかった。続きを待っていた。
湊は、水の中で右手を握り直した。指の痺れは、まだ半分ほど残っている。ナイフの柄が、他人の手で握っているように遠かった。
知っている。発売初日に誰かが見つけて、その夜のうちに掲示板が埋まった。湊も次の週末に潜った。うっかり声を出した瞬間に天井が落ちてきて、三回死んだ。四回目は、現実の自分の口を手で押さえたまま、最下層まで下りた。
あれは、死んでもレベルが一つ下がるだけの世界だったから、できたことだ。
「だから、連れていけない」
「……どういう意味」
「あそこは、今の俺とあんたが入っていい場所じゃない。二人とも死ぬ」
リシェルの目が、細くなった。
「やっぱり。入ったことがあるみたいな言い方をするのね」
湊は口をつぐんだ。余計なことを言った。
「死ぬかどうかは、わたしが決める」
「決められない。あそこは、そういう場所だ」
「なら、わたし一人で探す」
脅しの声ではなかった。もう何度も、一人で探してきた者の声だった。
湊の喉の奥で、何かが詰まった。
〈第二章で死亡。回避方法:不明〉。
ゲームの彼女は、第二章の途中で、誰にも行き先を告げずに姿を消した。
もし、その行き先が、あの井戸だったとしたら。
確かめようはない。それでも、何年も空白のままだったwikiの一行が、急に形を持って、目の前の娘の背中に重なった。
「……一人では、行くな」
「指図される覚えはないわ」
「条件がある」
湊は、水の中で一歩、彼女の方へ寄った。右足だけで、泥を踏んで。
「中では、一言も喋るな。悲鳴もだめだ。それと、俺が引き返すと言ったら、何があっても引き返す」
リシェルは、しばらく湊を見下ろしていた。
「それを守れば、連れていくの」
「ああ」
「いつ」
「この腕で、ナイフが握れるようになったら」
「待てない」
即答だった。
「灰月が満ちる前に、着いていなきゃいけないの。あと九日しかない」
湊は、思わず彼女の顔を見上げた。
灰月。夜明け前の溝の中で、白い外套の審問官が数えていた月だ。
「……なんで、灰月なんだ」
「あなたが井戸の場所を教えてくれたら、話してあげる」
リシェルは、ようやく剣を鞘に収めた。かちり、と小さな音が溜め池に響いた。
「とにかく、そこから上がって。その格好のまま、地上には出られないでしょう」
*
リシェルが案内したのは、溜め池から水路を一本戻ったところの、壁の高いところに開いた穴だった。
壁に打ちこまれた鉄の足掛けを、六つ登る。
片手で登るものではなかった。右手で上の足掛けを掴み、右足で次を踏む。左足は、踏み台に載せるだけ。体を引き上げるたびに肋骨が軋み、左肩の傷が石壁に擦れた。四つ目で、痺れの残る右手の指が、錆びた鉄の上を滑った。
背中が、宙に浮きかけた。
その背中を、上から伸びてきた手が、外套ごと鷲掴みにした。
「……重い。水を吸いすぎ」
リシェルが、文句を言いながら引き上げた。
穴の先は、乾いた石の床だった。樽を三つ並べたほどの広さに、錆びた巻き上げ機と、腐りかけた木箱がいくつか。川に面した壁に拳ほどの小窓があって、昼過ぎの白い光が一筋、斜めに差しこんでいた。
「排水門の番小屋。昔はここで、門の鎖を巻いてたんだって。今は誰も来ない」
リシェルは、手慣れた様子で木箱を一つ踏み割り、火打ち石を打った。木屑に火が移るまで、三度もかからなかった。
「ここ、よく来るのか」
「半年。下水の地図を作ってた。古井戸が街の下のどこかにあるなら、下から探せばいいと思ったの」
それで、水の中の通路に慣れていたのか。
「見つからなかった」
「見つかってたら、あなたに頼んでない」
湊は、外套を脱いだ。
水を吸った布は、絞っても絞っても、黒い水を吐いた。巻き上げ機の取っ手に引っかけ、裏地を火の方へ向ける。表が乾いても、裏が湿っているうちは効かない。川辺の夜に、それを思い知らされた。
「火のそばなら、夜風よりは早い。日が沈むころには乾くと思う」
リシェルはそう言って、火の向こうに腰を下ろした。それから、腰の小袋から指ほどの小瓶を出して、湊の膝元に放った。
「解毒薬。安物だから、半分しか効かない。半分は飲んで、残りは噛まれたところにかけて」
「……いいのか」
「借りは作らない主義だって、言ったでしょう」
苦かった。舌の根が縮むほど苦い水が、喉を下りていった。残りを、右の脛と左肩の傷に垂らす。焼けるような痛みのあとで、右手の指先に、少しずつ血が戻ってくるのがわかった。
リシェルは、湊を見ないようにしていた。火を見て、壁を見て、自分の剣の柄を見て、それから、とうとう諦めたように、湊の額を見た。
灯りの中で、二本の角は隠れようがなかった。
「……触ったら、痛いの」
「痛くはない。感じはする」
「ふうん」
それきり、彼女はまた火に目を戻した。
しばらく、薪のはぜる音だけが続いた。
「名前は」
「ミナト」
「本当の名前?」
湊は、彼女を見た。
「灰角は、人の名前を盗むって」
「盗んでない。生まれたときから、これだ」
リシェルは、口の中で一度、ミナト、と繰り返した。
「変な名前」
それだけ言って、腰の紐をほどいた。結んであった大鼠の尻尾を数える。九本。そのうち六本を、湊の方へ放った。尻尾は、湊の膝の上に落ちた。
「これで十本。報酬、もらえるでしょう」
「あんたの分が足りなくなる」
「わたしは、明日また潜ればいい。あなたは潜れないでしょう。その外套で」
「借りは作らない主義、なんだろ。命の借りなら、尻尾六本じゃ」
「命の借りは、井戸で返す」
リシェルは、火を見たまま言った。
「これは、長を仕留めた分。わたしの剣じゃ、あの背中には届かなかった」
湊は、膝の上の尻尾を見下ろした。腰の四本と合わせて、十本。指先で数えたとき、左手の薬指が、ほんのわずかに、ぴくりと動いた。
湊は、息を止めて、その指を見た。
動かない、と思っていた指だった。黒狼に噛ませてから、ずっと。
「……どうしたの」
「いや」
湊は、左手を胸の布の中に戻した。
小窓から差しこむ光が、少しずつ橙色になっていった。
「礼拝堂、って言ったな」
湊がそう言うと、リシェルの肩が、小さく強張った。
「家にある礼拝堂か」
「家は、去年売ったわ。礼拝堂だけ、まだ残ってる。誰も買わないから」
彼女は、膝を抱えた。
「毎晩、そこで祈らされた。父がそうしろって。灰角は人の名前を盗み、月が満ちれば世界を終わらせる。見つけたら迷わず斬れ。……父は、灰角を一度も見たことがなかったくせに」
「親父さんは」
「アーデンフォードの家は、百年、あの井戸を探してきたの。祖父も、父も。父は見つける前に、全部なくした。家も、騎士の位も、紋章も」
リシェルは、自分の胸当ての、削り取った跡に指を当てた。
「教会に、余計なものを探るなって言われて、聞かなかったから」
湊は、何も言えなかった。
探るなと言われるものが、井戸の底にある。教会が、それを知っている。
ゲームの沈黙の井戸の最下層には、短剣が一本あるだけだった。壁には、読めない模様が彫られていた。湊は、それをただの背景の飾りだと思って、wikiにも書かなかった。
「……わかった」
湊は言った。
「今夜、九つの鐘が鳴ったら、ギルドの裏の路地に来い。灯りと、縄と、二日分の食い物。それから、靴底に布を巻いてこい。足音も、音だ」
リシェルが、顔を上げた。
「今夜? 腕が治るまで、って言ってたじゃない」
「あんたが一人で行くよりは、ましだ」
それに、と湊は胸の内で付け足した。
ギルドの裏の路地から、井戸までは百歩もない。
「その前に、ギルドで報告する。依頼を受けた新顔が戻らなければ、死んだと思われる。死んだと思われるのは、まだいい。生きて街にいるのに顔を出さないのは、怪しまれる」
リシェルは、少しのあいだ湊を見ていた。それから、ふっと息を吐いた。
「本当に、変な人」
*
外套が乾いたのは、日が城壁の向こうに落ちかけたころだった。
裏地に手を当てる。湿り気はない。袖を通し、頭巾をかぶって、右手を火にかざした。
生白い手だった。
湊は、長く息を吐いた。吐ききる前に、肋骨が止めた。
先に地上へ出たのはリシェルだった。一緒に出れば、目立つ。湊は、鐘を百数えるほど待ってから、下水番の老人の格子戸をくぐった。腰には、大鼠の尻尾が十本。長の死骸は重すぎたから、尻尾だけを切ってきた。
川沿いの道から、市場の通りを西へ。
店じまいの時刻だった。木箱を積む音、売れ残りの青菜を投げる音。焼いた肉の脂の匂いが、皮なめしの匂いを洗い流していく。湊は、口で浅く息をしながら、人の流れに紛れた。
噴水広場まで、あと三十歩。
そのとき、西から風が吹いた。
乾いた花のような、甘く冷たい匂い。
いつもの風ではなかった。匂いが、濃すぎた。角の付け根に、焼けた針が束になって突き立った。湊は、思わず足を止めた。後ろの男が、湊の背中にぶつかって舌打ちした。
広場の方から、声が響いてきた。
「聖光教団より、告げる」
よく通る、若い男の声だった。
「一昨日、ロウェル村に灰角現る。左腕に傷を負い、街道を北東へ逃れた。名を、ミナトと名乗る」
湊の足が、石畳に縫いつけられた。
その名を書きつけられたのは、この街に来てからだ。
城門の帳面と、ギルドの札。その二つだけだ。
「見た者、匿う者を知る者は、教会に申し出よ。灰角を匿う者は、同じ罪に問われる」
人の肩越しに、広場が見えた。
市場の通りが広場に開くところに、縄が張られていた。その脇に、白い外套の聖騎士が二人。一人が銀の鉢を抱え、もう一人が、房のついた銀の棒を鉢に浸しては、縄をくぐる者の頭に振りかけている。
聖水だった。
縄の手前で、帳面を抱えた年かさの門番が、居心地悪そうに立っていた。昨日、湊の名前を羽根ペンで書きつけた帳面だった。その隣には、若い門番と、黒い大きな犬。
そして、聖騎士の後ろに、もう一人。
頬のこけた、若い男だった。人の顔を一人ずつ、食い入るように覗きこんでいる。口を開けるたびに、欠けた前歯が見えた。
夜の街道で、湊が刺さずに逃がした男だった。
湊は、ゆっくりと体の向きを変えた。走ってはいけない。走れば、目を引く。来た道を、人の流れに逆らって、一歩ずつ戻る。
その来た道の奥から、蹄の音が下りてきた。
白い外套の騎馬が二騎、市場の通りを塞ぐように、横に並んで歩いてくる。後ろからも、縄が張られようとしていた。
挟まれた。
湊は、通りの脇の細い路地に目を走らせた。ゲームでは、ここから三本目の路地を右に折れれば、マルタの薬屋の方へ抜けられた。
三本目の路地の入口は、新しい石壁で塞がれていた。
犬が、唸った。
低い、腹の底からの唸り声だった。人の脚の間から、黒い鼻面がこちらを向いていた。若い門番が、引き綱を両手で引いた。犬は引かれるまま、湊の方へ首を伸ばした。
吠えた。
人の流れが、割れた。
湊と犬のあいだに、誰もいなくなった。
「おい、あんた……昨日の」
若い門番の声と同時に、欠けた前歯の男が、湊の顔を見た。目が、大きく見開かれた。
「そいつだ!」
銀の棒が、振られた。
冷たい滴が、頭巾と、右の頬と、右手の甲に散った。
焼けた。
水ではなかった。煮え立った油を浴びたようだった。頬の皮膚が、じゅっと音を立てた気がした。声も出なかった。角の付け根から、頭の芯まで、白い痛みが一本の杭のように打ちこまれた。
右手の甲を見た。
滴の落ちたところから、灰色が滲んでいた。紙に落とした墨のように、生白い肌の色が、内側からぽつぽつと食い破られていく。
頭巾が、重くなった。焼けた布が、頭の後ろへずり落ちた。
広場の夕闇に、二本の角がさらされた。
悲鳴が上がった。誰かが石畳に尻もちをつき、誰かが子どもを抱き上げて走った。
その人垣の向こう、噴水の前に、黒い馬がいた。
白い外套。黒い詰襟。後ろへ撫でつけた、灰色がかった金髪。
ヴァルター・クロイツが、馬上から湊を見ていた。
声を張り上げたわけではなかった。それでも、悲鳴の隙間を縫って、その声は湊の耳まで届いた。
「森から、子どもを連れ帰ったそうだな」
色のない目だった。
「粉挽きは、礼は言わなかったと言っていた」
ベンだ。
この男は、村でベンに会っている。何を聞いて、何をしたのか。
ヴァルターは、片手を上げた。
「捕らえよ。生かしてな」
*
湊は、走った。
広場とは逆、市場の通りの、店じまいの屋台の陰へ。
太った女が、玉葱の籠を抱えて立ちすくんでいた。湊は、その籠に体ごとぶつかった。玉葱が、石畳いっぱいに転がった。後ろから駆けてきた騎馬の蹄が、それを踏んだ。馬が、甲高くいなないて脚を滑らせた。
屋台の裏に、空の木箱が三段、積んであった。その上に、雨よけの布の庇。さらにその上に、二階建ての家の軒。
湊は、木箱に右足をかけた。
一段。二段。三段目で、左足首が、体重を拒んだ。膝が折れかけた。右手で庇の布を掴む。布が、裂けた。
裂けた布の向こうに、軒の縁があった。
右手で、縁を掴んだ。
ぶら下がった。
左手は、使えない。胸に縛ってある。肩も、上がらない。右腕一本に、全身の重さがかかった。肋骨が、内側から刃物で押し広げられるように軋んだ。
「下りてこい!」
下から、手が伸びてきた。聖騎士の籠手が、湊の左足首を掴んだ。
視界が、真っ白に弾けた。
噛まれ、捻り、引きずってきた足首だった。そこを、鉄の指が締め上げていた。
湊は、歯を食いしばった。右肘を軒の縁にかけ、右膝を、雨樋に乗せた。それから、掴まれた左の踵を、後ろへ蹴り下ろした。
《疾駆》が、腿の奥で弾けた。
半歩分の力が、踵に乗った。
籠手の向こうで、兜の鼻当てが鈍い音を立てた。指が、外れた。
湊は、屋根の上に転がりこんだ。
石の瓦だった。夕方の湿り気で、表がうっすらと濡れている。勾配がきつい。這うように登って、棟に右手をかけた。
棟は、掌ひとつ分の幅しかなかった。この上を走るのは、無理だ。今の足では、三歩で落ちる。
湊は、棟を越えて、広場から見えない側の斜面に体を移した。右手で棟の瓦を掴み、横向きに、蟹のように進む。足の裏を、瓦の継ぎ目に一枚ずつ噛ませながら。
隣の家の屋根が、続いていた。その隣も。この辺りの家は、壁を接して建っている。ゲームで何百回も見下ろした街の屋根を、今は、這いつくばって進んでいた。
光の匂いが、また濃くなった。
角の付け根が、焼けた。
湊は、知っていた。この匂いの後に来るものを。
ヴァルター・クロイツ。大聖堂の中ボス。推奨レベル四十。光の槍を、三連で撃つ。
一発目は、今いる場所に来る。
湊は、瓦から手を離して、斜面を半身分、滑り下りた。
白い光が、さっきまで右手のあった棟を打ち抜いた。瓦が砕け、破片が雨のように背中に降った。
二発目は、逃げた先に来る。三発目は——。
wikiの、ヴァルターのページ。湊が書いた一行。
〈三発目は、一発目と同じ場所に撃ちこまれる。二発目の爆風に驚いて元の位置へ戻った者を狩る。二発目をかわしたら、絶対に戻るな〉。
二発目が、湊の一歩前の瓦を砕いた。
爆風が、顔を叩いた。砕けた瓦の粉が目に入った。体が、勝手に後ろへ跳ねようとした。焼けた匂いと、白い光から、逃げようとした。
戻るな。
湊は、前に出た。粉塵の中へ。二発目が砕いたばかりの、穴の縁へ。
背中で、三発目が、一発目と同じ場所を打ち抜いた。
湊は、粉塵を抜けた。右手で、次の家の棟を掴んだ。
知識が、通じた。
通じても、体は相変わらずだった。息は半分しか吸えず、左足首は焼けるように疼き、右の頬は、聖水の滴の跡が、まだ煮えていた。
次の家の屋根の端で、湊は止まった。
その先に、屋根がなかった。
細い路地が、口を開けていた。幅は、大人が両腕を広げたほど。向こう側の屋根は、こちらより、人の背丈ひとつ分低い。
跳べば、届く。たぶん。
足首が、無事なら。
下の路地から、蹄の音が近づいてきた。
湊は、瓦を二枚分だけ下がった。それ以上の助走は、取れない。
右足で、蹴った。
《疾駆》が弾けた。半歩。それで、跳んだ体が、ほんの少しだけ遠くへ押し出された。
向こうの屋根の瓦に、胸から落ちた。
肋骨が、鳴った。今度こそ、どこかが折れたと思った。息が、まったく入らなくなった。体が、濡れた瓦の上を滑り落ちていく。軒の方へ。路地の上の、何もない宙の方へ。
右手が、雨樋を掴んだ。
古い雨樋が、湊の重さでぐにゃりと曲がった。曲がったまま、止まった。
湊は、雨樋にしがみついたまま、口を開けて、空気を吸おうとした。吸えなかった。吸えないまま、十数えた。十一で、ようやく、肺の半分に空気が入った。
這い上がって、また進んだ。
屋根の連なりは、北へ延びていた。北の坂の上には、冒険者ギルドがある。その裏の路地へ下りられれば。
最後の家の屋根の端に辿り着いたとき、湊は、下を見て動けなくなった。
ギルドへ上る坂道が、真下を横切っていた。石畳の、広い道だった。向こう側には、ギルドの裏手へ続く細い路地の口が見える。
その坂道に、白い外套の騎馬が四騎、横一列に並んでいた。
道を、塞いでいた。
騎馬の後ろで、若い門番が、黒い犬を引いて駆けてくるのが見えた。犬は、まっすぐに湊のいる屋根を見上げていた。
そして、坂の下から、一人の男が歩いて上がってきた。馬を降りて、ゆっくりと。急ぐ必要など、どこにもないという足取りで。
ヴァルターだった。
屋根の上に、逃げる先はもうなかった。この家の向こうは坂道で、両隣の家は、さっき越えてきた。
湊は、息を吸った。半分。
半分しか吸えないなら、半分で足りるやり方をするしかない。
湊は、喉の奥を開いた。
黒狼の森で、群れの長から受け継いだもの。今まで、まともな声になったことは一度もなかった。
《咆哮》。
掠れた声だった。割れて、ひび割れて、狼の遠吠えには程遠い、喉を擦り切らしたような声。それが、夕暮れの坂道に落ちた。
騎馬は、動じなかった。聖騎士の馬は、戦場の喚声にも慣らされている。
犬が、違った。
黒い犬が、びくりと全身を震わせた。耳を伏せ、尾を股の間に巻きこんで、甲高く鳴いた。子犬のころ、狼に兄弟を食われた犬だった。
犬は、引き綱を若い門番の手から引きちぎるようにして、逃げた。
騎馬の列の、真ん中へ。
四頭の馬の脚の間に、悲鳴を上げる黒い塊が飛びこんだ。
一頭目の馬が、跳ね上がった。二頭目が、それに押されて横へよろけた。乗っていた聖騎士が、鞍から投げ出された。三頭目と四頭目が、竿立ちになって前脚で宙を掻いた。
列が、崩れた。
湊は、屋根の端から、軒下の荷車の幌へ跳び下りた。
幌が、湊の体を受け止めて、大きくたわんだ。そのまま転がり落ちて、石畳に右肩から落ちた。
立った。
暴れる馬の、腹の下をくぐった。蹄が、耳のすぐ横の石畳を打った。火花が散った。
坂を横切って、向こう側の路地の口へ。
一瞬だけ、振り返った。
ヴァルターが、坂の途中で立ち止まっていた。暴れる馬にも、逃げる犬にも目をくれず、ただ、湊を見ていた。
細身の剣の柄に、手さえかけていなかった。
*
ギルドの裏の路地は、行き止まりだった。
知っていた。ゲームでも、ここは行き止まりだった。左手に、訓練場を囲む石の塀。正面に、ギルドの裏口。木の扉には、閂がかかっていて、プレイヤーには開けられなかった。
後ろから、足音が近づいてくる。蹄ではない。革の靴底が、石畳を規則正しく踏む音。
湊は、扉に右手を当てた。押した。動かない。
足音が、路地の角まで来た。
扉が、内側から開いた。
酒の匂いがした。
ギデオンだった。片手に酒瓶を下げ、扉の枠に肩をもたれさせて、湊を見下ろしていた。いや、湊ではなく、その頭の上の、二本の角を。
「……便所なら、表だぞ」
ギデオンはそう言って、体を横にずらした。扉の内側に、人ひとり分の隙間ができた。それから、ふいと目を逸らして、路地の上の、細く切り取られた夕焼けを見上げた。
湊は、その隙間に体を滑りこませた。
背中で、扉が閉まった。閉まる直前に、ギデオンが路地の方へ一歩出て、扉の前の石段に腰を下ろす音がした。
暗い倉庫だった。樽と、木箱と、古い木剣の束。
湊は、壁に背中をつけて、息を殺した。
扉一枚向こうで、革の靴音が止まった。
「ハーロウ」
ヴァルターの声だった。冷たく、静かな声。
「灰角が、こちらへ来なかったか」
「見てねえな」
ギデオンの声は、いつもの掠れた声だった。
「酔っ払いの目だ。あてにすんな」
短い沈黙があった。
「お前の目は、酔っても曇らなかった。昔からな」
「昔の話はよせ。酒がまずくなる」
また、沈黙。
湊は、自分の心臓の音が、扉の向こうまで聞こえるような気がした。
「去年の冬の、薬屋の婆の話は聞いているな」
ヴァルターの声は、少しも変わらなかった。
「灰角に薬を売った。それだけで、ああなった」
「聞いてるよ」
ギデオンが、瓶をあおる音がした。
「だから、俺は何も見てねえ」
足音が、遠ざかっていった。急ぐ様子もなく、規則正しく。
湊は、扉に額を押しつけた。
ありがとう、と言いかけて、やめた。言えば、ギデオンが何かを見たことになる。
扉の向こうから、掠れた声が、独り言のように落ちてきた。
「……訓練場の樽は、北東の隅だ。酔っ払いの独り言だがな」
湊は、倉庫の奥の扉を抜けた。
訓練場は、夕闇に沈んでいた。昨日、グラントと木剣を交えた、縄の四角。その北東の隅、縄から三歩外に、水を張った樽があった。
樽の縁に、右足をかけた。水に足を入れないように。外套の裾を、濡らさないように。
樽の上に立つと、塀の上端が、胸の高さに来た。右腕を塀の上にかけ、右の脇で体を引き上げる。左肩が石に擦れて、噛み傷が開いた。熱い血が、腕の布の中を伝った。
塀の上に、腹ばいになった。
向こう側は、草の伸びた空き地だった。崩れかけた物置。割れた桶。
そして、その真ん中に、石の蓋をかぶせた、古い井戸。
ゲームでは、ただの枯れ井戸だった。〈調べる〉を一度押すと、「からからに乾いている」。二度押すと、「底は暗くて見えない」。誰も三度目を押さなかった。発売初日の、名前も知らない誰かが押すまでは。
三度目の〈調べる〉で、井戸の縁の石が一つ、外れる。
湊は、塀から空き地へ下りた。右足から。それでも、着地の衝撃が左足首まで響いた。
「遅い」
暗がりから、声がした。
物置の陰から、リシェルが出てきた。背中に縄の束、腰に覆いをかけた小さなランタン。靴には、言われたとおり、布が巻いてあった。
「ギルドの裏の路地、って言ったでしょう。あなた、井戸の場所を口に出したくなさそうだったから。だったら、そのすぐ近くだと思った」
それから、湊の顔を見て、言葉を止めた。
頭巾が、落ちていた。角が出ていた。右の頬の、聖水の滴の跡が、火傷のように赤黒く腫れていた。
「……何があったの」
「審問官だ」
坂の方から、犬の声が聞こえた。さっきの悲鳴ではない。誰かに引き戻された犬が、もう一度、匂いを辿りはじめた声だった。
湊は、井戸の縁に右手を当てた。
縁の石を、指で数える。北から、時計回りに七つ目。
押すと、石が、ごとりと奥へ沈んだ。
井戸の内側の壁に、人ひとりがやっと通れる黒い口が開いた。その奥から、冷たい風が吹き上げてきた。湿った石の匂い。古い土の匂い。そして、そのどれよりも古い、何の匂いとも言えない匂い。
リシェルが、息を呑んだ。
声は、出さなかった。
湊は、彼女を振り返った。
これから先は、もう口をきけない。言っておくことがあるなら、今しかない。
言いたいことは、いくらでもあった。今の俺は、レベル8だ。推奨レベルの三分の一ほどしかない。片腕で、足首も肋骨も、まともに動かない。あんたを守れる保証はどこにもない。
あんたは、ゲームの中で、死ぬことになっている。
どれも、言わなかった。
「ここから先は、声を出すな」
リシェルは、頷いた。
湊は、ランタンの覆いを指で少しだけずらして、黒い口に足を入れた。
見上げると、塀の上の空に、二つの月が出ていた。右の欠けた白月と、左の欠けた灰月。
灰月は、昨夜より、わずかに太っていた。
あと、九日。
湊は、闇の中へ下りていった。
背中に、リシェルの、布を巻いた靴の、かすかな足音が続いた。




