第七話 最初の依頼
「ロウェルの森か」
その声は、問いではなかった。
湊は、銅貨を一枚つまんだまま、動かなかった。
路地の奥で、誰かが桶の水を撒く音がした。表通りの方からは、荷車の軋みと、物売りの呼び声。昼過ぎの街は、何事もなかったように回り続けている。
ここで頷けば、終わる。首を振っても、たぶん、終わる。
ギデオンの目は、湊の顔ではなく、湊の右手を見ていた。腰のナイフに、指一本ぶん近づいた右手を。
「……何のことだ」
湊は、銅貨を握りこんだ。声が掠れたのは、肋骨のせいだった。そういうことにしておいた。
ギデオンは、鼻で笑った。
「抜くなよ。抜いても、その脇腹じゃ、俺の膝にも届かねえ」
見抜かれていた。湊は、右手を膝の上に戻した。
ギデオンは、酒瓶をひと口あおって、壁にもたれ直した。
「今朝、南から早馬が来た。ロウェルって村に、灰角が出たんだとよ。審問官様が、夜も明けねえうちに飛んでいった」
湊は、息を半分だけ吸った。
「黒狼が出るのは、この辺りじゃ、ロウェルの東の森だけだ。その日の昼に、黒狼に噛まれた片腕の男が、南から来た。規約の最後の一行と、グラントの膝のことを知ってる男がな」
ギデオンは、指を二本立てて、それをくっつけた。
「二つ並べりゃ、ガキでもわかる」
「…………」
「だがな」
ギデオンは、くっつけた指を、ふいに離した。
「灰角ってのは、肌が灰色で、頭に角が生えてるもんだ。俺の婆さんがそう言ってた。お前は、生白い顔をしてる。角も見えねえ」
赤く濁った目が、湊の額のあたりを、ゆっくりとなぞった。生え際の、少し上。外套の頭巾の下で、角の付け根が、汗で冷たくなった。
「だから、俺の勘違いだ。酔っ払いの、な」
湊は、ギデオンを見上げた。
「……どうして」
「あ?」
「教会に、突き出さない。灰角は、生きてれば銀貨二十枚だって聞いた」
言ってから、馬鹿なことを訊いたと思った。でも、訊かずにはいられなかった。ロウェル村では、顔を見られただけで石が飛んできた。助けた子どもの父親でさえ、「礼は言わん」と言った。
ギデオンは、しばらく黙っていた。
「俺は、賭けに勝たせてくれた奴は売らねえ。それだけだ」
それから、瓶の口で、湊の胸を指した。
「勘違いするなよ。助けもしねえ。次にその腕を誰かの前でさらしたら、そのときは知らん」
「……わかった」
「それと、その腕。膿んでるぞ」
湊は、自分の左腕を見下ろした。布の上からでも、熱が伝わってくる。
「黒狼の牙は汚え。噛まれた跡が腐って、骨まで行く。今夜のうちに膿を絞り出せ。泣くほど痛えが、腕を切り落とすよりはましだ」
ギデオンは、壁から背中を離した。行きかけて、足を止めた。
「宿は、東の皮なめし通りの《樽底亭》にしろ。あそこの親父は、皮の薬で鼻が潰れてる。客の顔も見ねえ。銅貨五枚なら、二晩と粥だ」
「……あんた」
湊は、思わず呼び止めていた。
「あんたは、何なんだ」
ギデオンの肩が、小さく揺れた。笑ったのだと、少し遅れてわかった。
「隅の酔っ払いだよ」
wikiに、湊が自分で書いた言葉だった。
ギデオンは、振り返らずに路地を出ていった。角を曲がる前に、一度だけ、言葉を背中越しに投げてよこした。
「ひとつ、覚えとけ。俺が気づくことに、審問官が気づかねえと思うな。あれは、俺より目がいい」
*
《樽底亭》は、名前のとおり、樽の底のような宿だった。
皮なめし通りの、いちばん奥。鼻を刺す薬品の匂いが、通りじゅうに澱んでいる。《嗅覚》には、拷問だった。湊は口で浅く息をしながら、低い戸をくぐった。
親父は、帳場の奥で居眠りをしていた。銅貨を五枚、全部置くと、目も開けずに「二晩」とだけ言って、鍵を一本放ってよこした。鍵には「三」と彫ってあった。
これで、また一文なしだ。
部屋は、寝台がひとつ置けるだけの広さだった。窓はない。藁の匂いのする寝台と、蝋燭が一本。
湊は寝台に腰を下ろして、外套を脱いだ。
蝋燭の灯りに、自分の手が灰色に浮かんだ。
外套を脱げば、こうなる。わかっていても、見るたびに、胸の奥が小さく縮む。
外套は、寝台の端に畳んで置いた。濡れないように。誰の目にも触れないように。
それから、左腕の布をほどいた。
ひどい有様だった。牙の跡が四つ、黒く盛り上がって、そのうち二つに黄色い膿が溜まっている。腫れは肘の近くまで広がっていた。熱い。脈を打つたびに、腕全体がずきずきと鳴った。
ゲームでは、毒も膿も、状態異常のアイコンがひとつ出るだけだった。教会で治すか、薬を飲むか。灰角族は教会に入れないから、薬を飲む。それだけのことだった。
この世界の灰角族には、薬を売ってくれる婆さんも、もういない。
湊は、錆びたナイフを蝋燭の火にかざした。刃先が黒く煤けるまで、待った。
ほどいた布を丸めて、口にくわえた。
「……一。刃先を、跡に当てる」
手順を、声に出す。声に出せば、手が勝手に動いてくれる。三千時間、そうやってきた。
「二。押す」
刃先が、膿の溜まった跡に沈んだ。
布を噛んだ歯が、ぎしりと鳴った。視界が白く弾けた。叫び声が喉までせり上がって、肋骨にぶつかって止まった。息が吸えない。吸えないまま、痛みだけが胸の中で膨れ上がる。
「さ……三。絞る」
右手の親指で、腫れを根元から押した。
黄色いものが、どろりと出た。血と混じって、敷布に落ちる。腐った匂いが、皮なめしの匂いを押しのけて鼻を打った。
二つ目の跡でも、同じことをした。
終わったとき、湊は寝台に横倒しになっていた。いつ倒れたのか、覚えていなかった。口の布は、唾と血で湿っていた。
壺の底に、苦蓬の軟膏が、指一本ぶんだけ残っていた。それを全部、跡に塗りこんだ。焼けるように熱くなり、それから痺れて、痛みが遠のいた。
空になった壺を、しばらく手の中で転がした。ティオの母の、痩せた手を思い出した。湊の顔を見ないまま、包みを押しつけてきた手だった。
湊は、天井を見上げた。
蝋燭の煙が、梁の暗がりに溶けていく。
「……ステータス」
視界の左上に、見慣れた枠が浮かんだ。
ミナト。レベル7。筋力4、耐久3、敏捷4、魔力2、精神5、感知5。《継承》《嗅覚》1《咆哮》1《疾駆》1。
最下段に、「器:―」。
何も変わっていない。ここ二日、誰も殺していないのだから、当たり前だった。
強くならなければ、と思った。
支部長が戻るまで、十日。いや、もう九日か。判定盤に血を落とす日が来る。審問官は、ロウェルから戻ってくる。九日のうちに、何かを変えなければならない。逃げるにしても、戦うにしても、今のままでは、どちらもできない。
湊は目を閉じて、明日の依頼のことを考えた。
新人が最初に受ける依頼。ゲームでは、いつも依頼書の壁の、いちばん下の隅に貼ってあった。
《下水道の大鼠退治》。
推奨レベル3。大鼠を倒して、尻尾を持ち帰る。下水道の奥には大鼠の長がいて、その巣の裏の壁を調べると、隠し部屋に入れる。中には、小さな宝箱がひとつ。
wikiの「序盤の稼ぎ」のページに、湊はこう書いた。〈水路の脇の通路は乾いているので、移動は楽。大鼠は水から跳ねてくるので、着地の瞬間を狙えば安全〉。
息を、半分だけ吸った。
楽な依頼だ。何十回も、目をつぶってでも終わらせた。
湊は、そう自分に言い聞かせて、眠った。
*
三日目の朝、ギルドの広間は、昨日より静かだった。
湊が扉をくぐると、長机の何人かが顔を上げた。誰も、何も言わなかった。ただ、昨日のように笑う者はいなかった。
隅の席に、ギデオンの姿はなかった。空の酒瓶が二本、倒れているだけだった。
グラントはいた。長机の端で、右足を前に投げ出して座っていた。湊と目が合うと、ふん、と鼻を鳴らして、杯に目を落とした。それだけだった。
湊は、奥の壁の依頼書の前に立った。
いちばん下の、隅。あった。
《下水道の大鼠退治》。報酬、銀貨一枚と銅貨八枚。
湊は手を伸ばした。
その指先より早く、別の手が依頼書の端に触れた。
細い指だった。でも、指の付け根に、剣だこが硬く盛り上がっている。
「それ、わたしが先に見てたの」
振り向くと、女がいた。
年は、十七か、十八か。湊より、ずっと若い。顎の線で切りそろえた黒髪。使い込まれた革の胸当ては、手入れだけは行き届いていて、左胸のところに、何かの紋章を削り取った跡があった。腰の後ろに、短い剣が二本、交差して差してある。
灰色がかった青い目が、湊を見た。泥の落ちきらない服。胸に縛った左腕。腰の、錆びたナイフ。
湊は、その顔を知っていた。
ゲームの中で、何度も見た顔だった。ギルドの広間で、いつも依頼書の前に立っている、双剣の少女。話しかけると、短く答える。「わたしに構わないで」。
リシェル・アーデンフォード。
湊が作った「NPC死亡フラグ一覧」の、いちばん下の行に、その名前はあった。
〈リシェル・アーデンフォード。第二章で死亡。回避方法:不明〉。
二百周しても、湊はその行を埋められなかった。どの選択肢を選んでも、どの順番で動いても、彼女は第二章の途中で姿を消し、ギルドの掲示板に、短い訃報が一枚貼り出された。どこで、どうして死んだのかは、書かれていなかった。wikiのその行には、何年も「情報求む」とだけあった。誰も、何も書き足さなかった。
「……何?」
リシェルの眉が寄った。湊は、自分が彼女の顔をじっと見ていたことに気づいた。
「いや」
「その依頼、もう一人受けてるわよ」
受付台から、ミリーが声をかけた。羽根ペンを耳から抜いて、帳面を指で叩く。
「大鼠が二十匹は増えてるって、下水番から苦情が来てるの。だから、二人まで受けられる。尻尾十本ずつね」
リシェルは、湊の左腕を見た。
「片腕で、下水に入るつもり?」
「……ああ」
「足手まといは、要らない」
「一緒に行くとは言ってない」
湊が言うと、リシェルは、ほんの少しだけ目を見開いた。それから、依頼書から手を離した。
「勝手にすれば」
背中の双剣が、歩くたびに小さく鳴った。
ミリーが、帳面に二人の名前を書きながら、湊にだけ聞こえる声で言った。
「アーデンフォード家の娘よ。昔は騎士の家。今は……まあ、ああいうこと」
ミリーは、それ以上は言わなかった。
湊は、依頼の札を受け取った。
楽な依頼だ。
そう思おうとしたが、指が、札の角をきつく握っていた。
*
下水道の入口は、街の東の外れ、川に面した石垣の下にあった。
鉄の格子戸に、錆びた錠前。下水番の老人が鍵を開けながら、二人に獣脂の松明を一本ずつ渡した。
「今年は水が多い。春の長雨が、まだ抜けてねえ。足元に気をつけな」
湊の手が、松明を受け取ったまま止まった。
水が多い。
ゲームの下水道に、季節はなかった。春も、長雨も。水路の水はいつも同じ高さで、脇の通路はいつも乾いていた。
格子戸の向こうから、冷たい風が吹き上げてきた。
匂いが、喉を殴った。
腐った水。汚物。黴。獣の糞。その底に、生き物の匂い。たくさんの、毛の濡れた、小さな生き物の匂い。
《嗅覚》が、それを全部、頭の中に押しこんできた。湊は石垣に右手をついて、えずいた。脇腹が軋んで、えずくことさえうまくできなかった。
「……大丈夫なの」
リシェルが、後ろで言った。心配しているのではなく、呆れている声だった。
「平気だ」
湊は、口で浅く息をした。それから、外套の裾をたくし上げた。
膝の高さで裾を束ね、ティオの母がくれた最後の布で、腰にきつく縛りつける。頭巾の紐も、顎の下で固く結んだ。外套が、少しでも水から遠くなるように。
リシェルが、その手元を怪訝そうに見ていた。
「そんなに大事なの、その汚い外套」
「……これしか、持ってないんだ」
嘘ではなかった。
石の階段を下りた。
十段。十一段。十二段目で、足の裏が水に触れた。
湊は、松明を掲げた。
水路があった。幅は、大人が両腕を広げたほど。その脇に、壁に沿って、人ひとりがやっと歩ける幅の石の通路が延びている。
ゲームどおりだった。
通路が、水の下にあることを除けば。
黒い水が、通路の上を、ゆっくりと流れていた。足を下ろすと、水は膝のすぐ下まで来た。冷たさが、脛の骨に噛みついた。
膝ひとつ分。
ゲームより、水が膝ひとつ分、高い。
湊は、足元を見下ろした。
通路の縁が、見えない。黒い水の下で、どこまでが石で、どこからが水路なのか、わからない。一歩踏み外せば、その先は胸まで沈む深さだ。
そして、たくし上げた外套の裾は、水面から拳ふたつ分しか離れていない。
〈水路の脇の通路は乾いているので、移動は楽〉。
自分の書いた一行が、頭の中で、空々しく響いた。
*
大鼠は、水から来た。
最初の一匹は、通路に入って二十歩ほどのところだった。
松明の灯りの縁で、水面が、すうっと盛り上がった。黒い背中。猫ほどの体が、波も立てずに泳いでくる。
ゲームの大鼠は、水路から跳ねて通路に着地し、それから噛みついてきた。着地の一瞬に隙がある。そこを斬る。
ここでは、着地する通路が、水の下だった。
大鼠は跳ねなかった。泳いだまま、湊の足元に滑りこんできた。
脛に、何かが噛みついた。
「っ……!」
湊は、ナイフを水の中に突き入れた。手応えがない。水が刃の勢いを殺す。大鼠は脛に食いついたまま、体をよじった。
牙鼠と同じだ。噛みついたら、離さない。
湊は、左手で松明を——
左手は、胸に縛りつけてあった。松明も、ナイフも、右手にしかない。
湊は松明を脇に挟み、噛みつかれた右足を、水の中から引き上げた。大鼠ごと。
水面から、濡れた黒い塊が持ち上がった。
左足一本で立った。左足首が、骨の奥で悲鳴を上げた。足の裏が、水の下の苔で、ずるりと滑りかけた。
倒れれば、外套が水に浸かる。
湊は、通路の壁に右肩を叩きつけて、体を止めた。そのまま、脛にぶら下がった大鼠の背中に、ナイフを突き立てた。
二度。三度。
牙が、ようやく緩んだ。黒い体が水に落ちて、浮いた。
湊は壁にもたれて、息を吸った。半分で止まった。
脛から血が流れて、黒い水に溶けていく。
目は、合わなかった。継承のことを考える余裕など、どこにもなかった。
尻尾を、ナイフで切り取った。一本。
前方で、水音がした。
リシェルが戦っていた。
十歩ほど先。松明を通路の壁の割れ目に差しこんで、両手を空けている。双剣が、灯りの中で二筋の弧を描いた。
水面から跳び上がった大鼠が、宙で二つになった。
もう一匹が、彼女の足元の水を割った。リシェルは跳ばなかった。膝を落とし、右の剣を逆手に持ち替えて、真下の水に突き下ろした。水しぶきが上がって、すぐに静かになった。
狭い通路で、彼女は一度も足を大きく動かさなかった。肘から先と、手首だけで斬っていた。水の中の通路を、もう何度も歩いた者の動きだった。
ゲームのリシェルは、戦うところを見せなかった。いつも依頼書の前に立っていて、話しかけると「構わないで」と言うだけだった。
この娘が、第二章で死ぬ。
リシェルが振り返った。湊の脛の血を見て、小さく舌打ちした。
「だから言ったでしょう」
「……まだ、一匹目だ」
「わたしは三匹目」
リシェルは尻尾を三本、腰の紐に結びつけて、先へ進んだ。
湊は、その背中を追った。
左足を出すたびに、水の下の石を爪先で探った。縁はどこか。苔はどこか。足首に体重をかけられないぶん、一歩ずつが遅い。裾を、水面から拳ふたつ分の高さに保つことだけを、ずっと考えていた。
*
大鼠は、三匹ずつ来た。
それは、ゲームの出現パターンと同じだった。通路の曲がり角ごとに、三匹。それだけは、変わっていなかった。
《嗅覚》は、この下水では役に立たなかった。匂いが多すぎて、どれが生きた鼠で、どれが死んだ鼠かもわからない。代わりに、目を使った。泳いでくる鼠は、水面に細い筋を引く。松明の灯りが、その筋に揺れる。
曲がり角の手前で、湊は足を止めた。
壁に背中をつけ、水路の側に体を向ける。
来た。水面に、筋が三本。
一匹目が足元に滑りこんでくる前に、湊は右足で水を蹴った。しぶきが、鼠の鼻先で弾けた。鼠が一瞬、潜った。浮かんできた背中に、ナイフを落とした。
二匹目は、壁沿いに来た。湊の左側。縛った左腕の、下。
グラントと同じだ、と思った。守れない側を狙ってくる。
湊は、体を半回転させた。《疾駆》が、腿の奥で弾けた。水の中では、半歩も出なかった。それでも、鼠の牙は湊の脇腹を外れて、たくし上げた外套の裾の端に食いついた。
布が、水の方へ引っ張られた。
「——っ!」
湊は、自分でも驚くほどの速さで、ナイフを振り下ろしていた。刃が、鼠の首の付け根に食いこんだ。鼠が裾を放した。
裾の端が、水面をかすめた。
湊は息を止めて、裾を見た。
濡れたのは、指先ほどの、端の一角だけだった。
右手を、松明の灯りにかざす。生白い手のままだった。
三匹目は、リシェルが斬った。湊が二匹目に気を取られているあいだに、背後から来ていたのだった。
湊が振り向いたとき、彼女はもう剣を下ろしていた。何も言わずに尻尾を切り取って、湊の方へ放った。尻尾は湊の足元の水に落ちて、ぷかりと浮いた。
「それ、あなたの分でいいわ。あなたが二匹引きつけたから、三匹目は隙だらけだった」
湊は、尻尾を拾った。
「わたし、借りは作らない主義なの」
リシェルは、それだけ言って、また先へ進んだ。
腰の紐の尻尾を数える。四本。
脛の傷が、じんじんと熱かった。
最初は、牙の傷のせいだと思った。でも、熱は脛から膝へ、膝から腿へと、ゆっくり這い上がってきていた。足の指先から、痺れが始まっていた。
毒だ。
ゲームの大鼠には、毒があった。噛まれると、低い確率で「毒」の状態異常がつく。歩くたびに、体力が少しずつ減る。解毒薬を一本飲めば治る。
湊は、解毒薬を持っていなかった。
*
下水道の最奥は、丸い溜め池だった。
街じゅうの水路がここに集まり、川へと落ちていく。ゲームでは、溜め池の周りに乾いた石の床が広がっていて、その真ん中に、大鼠の長の巣があった。巣の裏の壁を調べると、隠し部屋に入れた。
湊は、溜め池の入口で立ち止まった。
床は、なかった。
溜め池の縁から壁際まで、黒い水がひと続きに広がっていた。水面から突き出ているのは、崩れた石の柱が三本と、壁沿いに延びる細い石の段だけ。段の幅は、足の裏ひとつ分。
奥の壁の下半分は、水に沈んでいた。隠し部屋の入口があったはずの場所も、黒い水の下だった。
リシェルが、通路の出口に立って、松明を掲げた。
「……何もいないじゃない」
いる。
湊は、黙っていた。
ゲームの長は、巣の上で待っていた。プレイヤーが近づくと、三回、甲高く鳴いて、それから突進してくる。鳴き声が三回。それが合図だった。
鳴き声は、聞こえなかった。
代わりに、溜め池に注ぐ四方の水路から、小さな水音が集まってきていた。松明の灯りの縁で、泳ぐ鼠の筋が、いくつも揺れている。十匹か、それ以上。
そして、溜め池の真ん中の水面だけが、静かだった。
静かすぎた。
脛の痺れが、腿の付け根まで来ていた。湊は、松明を壁の割れ目に差しこんで、壁沿いの石の段に右足をかけた。足の裏ひとつ分。左足は、乗せられない。右手を壁について、体を支えた。
「来るぞ」
「何が——」
リシェルの言葉は、水音にかき消された。
四方の水路から、大鼠が一斉に跳ねた。
リシェルが、双剣を抜いた。一匹、二匹。彼女の剣は速かった。でも、数が多すぎた。三匹目が、壁の割れ目の彼女の松明に跳びついた。松明が水に落ちて、じゅっと音を立てて消えた。
灯りが、半分になった。
湊の松明だけが、溜め池を照らしていた。
その灯りの中で、溜め池の真ん中の水面が、ゆっくりと盛り上がった。
黒い背中だった。犬ほどの大きさ。毛の抜けた背中に、古い傷が何本も走っている。それが波ひとつ立てずに、水の中を滑っていく。
湊の方ではなかった。
リシェルの足元へ。
彼女は、鼠の群れを相手にしていた。灯りを失った暗がりで、目の前の水しぶきしか見えていなかった。
ゲームの長は、プレイヤーに向かってきた。いつも、まっすぐに。
この長は、灯りを失った方を選んだ。
湊は、外套の裾を見た。
拳ふたつ分。水面から、拳ふたつ分。
それを守って、ここまで来た。
ここで水に入れば、全部終わる。外套は濡れて、半夜は乾かない。灰色の肌と角が、あの娘の目の前にさらされる。灰角を呪われた種族と教えられて育ったはずの、騎士の家の娘の前に。
〈リシェル・アーデンフォード。第二章で死亡。回避方法:不明〉。
ここで死ぬのかもしれない。ゲームが書かなかった一行の中身が、今なのかもしれない。
違うかもしれない。
わからない。
わからないのは、もう慣れていた。
湊は、石の段を蹴った。
《疾駆》が弾けた。半歩。それだけで十分だった。湊の体は段から外れて、黒い水の中に落ちた。
冷たさが、全身を噛んだ。
水は、胸まであった。水の重さに肋骨を締めつけられて、息が完全に止まった。外套が、一瞬で重くなる。水を吸った布が、背中に、肩に、貼りついていく。
角の付け根が、ひやりとした。
かまわなかった。
湊は、水の中を、半ば泳ぐようにして進んだ。左足は、水底を蹴れない。右足だけで、底の泥を蹴った。
長の背中が、リシェルの膝の、すぐ手前まで来ていた。
湊は、その背中に、右腕ごと体を叩きつけた。
長が、水の中で身をよじった。黒い頭が、水面から突き出た。
赤い目だった。
小さな、濁った、赤い目。それが松明の灯りを映して、湊を見た。
次の瞬間、長の牙が、湊の左肩に食いこんだ。縛った左腕の、すぐ上。守れない側だった。
痛みより先に、熱が来た。脛の毒とは比べものにならない。焼けた鉄を押しつけられたような熱が、肩から首へ、胸へと、ひと息に広がった。
指が、痺れはじめた。ナイフを握る右手の指が、一本ずつ、言うことをきかなくなっていく。
湊は、指が動くうちに、ナイフを握り直した。
長が、湊を水の中へ引きずりこもうとしていた。肩に食いついたまま、体重をかけてくる。湊の顔が、水面に沈みかけた。
沈めば、目が見えなくなる。
湊は、右足で水底を蹴った。顔を、水面の上に押し上げた。
長の目が、そこにあった。
拳ひとつ分の距離。肩に食いついた長の顔が、湊の顔のすぐ横にある。赤い目が、まっすぐに、湊の灰色の目を見ていた。
目を逸らすな。
自分の手で。
湊は、痺れかけた右手で、ナイフを長の喉の下に押し当てた。
長の目の中に、湊の顔が映っていた。灰色の肌。濡れた髪の間から突き出た、二本の角。
湊は、目を見たまま、刃を押しこんだ。
長の体が、一度だけ、大きく震えた。
牙が、肩から離れた。
赤い目から、光がゆっくりと抜けていった。最後まで、湊を見ていた。
角の付け根が、ちり、と痒くなった。
*
周りの水音が、止んでいた。
長を失った鼠たちが、四方の水路へ散っていく。水面に引かれた細い筋が、灯りの外へ、一本ずつ消えていった。
湊は、長の死骸を抱えたまま、水の中に立っていた。
左肩の熱が、まだ全身を焼いていた。でも、焼け方が、少しだけ変わった気がした。燃え広がる火ではなく、燃え残りの熾火のような熱に。
「……ステータス」
声が、勝手に漏れた。癖だった。
視界の左上に、枠が浮かぶ。
ミナト。レベル8。
能力値は、ひとつも変わっていなかった。筋力4、耐久3、敏捷4。レベルが上がっても、何も増えなかった。灰角族の成長率は、相変わらず最低だった。
スキルの欄に、一行、増えていた。
《毒耐性》1。
熱が、引いていくのがわかった。ほんの少しずつ。消えるのではなく、遠のいていく。苦蓬の軟膏の痺れに、少し似ていた。熟練度1。毒を消すほどの力はない。それでも、死ぬほどではなくなった。
「……何を言ってるの」
声がした。
すぐ上だった。
湊は、顔を上げた。
通路の出口に、リシェルが立っていた。湊が壁に差した松明を、いつの間にか抜き取って、右手に掲げている。左手には、抜き身の剣。
灯りが、湊を照らしていた。
濡れた外套。水面から出た、湊の肩と、首と、顔。
湊は、自分の右手を見た。
灰色だった。
長の血と黒い水に濡れた、灰色の手。
リシェルの目が、湊の額に止まっていた。濡れた髪をかき分けるようにして突き出た、二本の角に。
松明の炎が、細かく震えていた。彼女の手が、震えているのだった。
「灰角……」
その声は、湊がロウェル村で聞いたどの声とも違った。
叫び声ではなかった。怯えた声でも、怒った声でもなかった。子どものころに読み聞かされた物語の怪物が、目の前に出てきてしまったときの、声にならない声だった。
剣の切っ先が、湊の喉元に下りてきた。
湊は、動かなかった。
動けなかった、と言った方が正しい。水は胸まであり、左足は水底を蹴れず、右手の指はまだ痺れていて、肋骨は息を半分しか吸わせてくれない。外套は、ずぶ濡れだった。
逃げる場所も、隠れる手段も、なかった。
切っ先が、喉の皮膚に触れた。冷たかった。
「……呪われた種族」
リシェルが、つぶやいた。誰かの言葉を、なぞるように。
「人の名前を盗んで、月が満ちれば世界を終わらせる。家の礼拝堂で、毎晩そう祈らされた。灰角を見つけたら、迷わず斬れ。それが騎士の家の務めだって」
「…………」
「それが、わたしの足元に飛びこんできたの。わたしの代わりに、噛まれるために」
切っ先が、震えていた。
湊は、リシェルの目を見た。
灰色がかった青い目。松明の灯りが、その中で揺れていた。
目が、合った。
夜の街道の、痩せた追い剥ぎの目とも、グラントの目とも違った。何かを決めかねて、決めかねたまま、必死に何かを探している目だった。
長い沈黙だった。
溜め池の水が、どこかの水路へ落ちていく音だけが、ずっと続いていた。
やがて、剣が、湊の喉から離れた。
リシェルは、剣を鞘に収めなかった。下ろしただけだった。
「あなた、この下を知ってるでしょう」
湊は、答えなかった。
「灯りの届かない曲がり角で、一度も迷わなかった。分かれ道で、一度も止まらなかった。曲がり角の手前で、鼠が来る前に壁に背中をつけてた。この溜め池に入る前に、『来るぞ』って言った。何もいなかったのに」
ギデオンと同じことを言われている、と湊は思った。
この世界の人間は、湊の知識を、目で見抜く。
リシェルは、松明を少し下げた。灯りが湊の角から外れて、黒い水面に落ちた。
「黙っていてあげる」
湊は、顔を上げた。
「ギルドにも、教会にも。誰にも、言わない」
リシェルは、一度、唇を噛んだ。それから、まっすぐに湊を見た。
「そのかわり」
声が、ほんの少しだけ、掠れた。
「地下の古井戸まで、わたしを連れていって。この街の下にある、街より古い井戸。あなたなら、場所を知ってるはずよ」
湊の胸の中で、何かが、冷たく固まった。
知っていた。
街の下の、古井戸。発売初日に見つかった、隠しダンジョン。声を出すと、罠が動く。推奨レベル25。
レベル8の灰角が、片腕で、毒を抱えて、入っていい場所ではない。
そして、目の前の娘は、ゲームの第二章で死ぬ。
水が、胸を冷やしていた。濡れた外套の重みが、肩にのしかかっていた。乾くまで、半夜。そのあいだ、湊はこの暗い下水の底から、一歩も出られない。
リシェルは、答えを待っていた。
剣を下ろしたまま。松明を、震える手で掲げたまま。




