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灰角のリスタート  作者: ヤッサン
第二章 灰色の街

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第六話 辺境都市ブラムウェル

 城門の前には、荷車の列ができていた。

 麦袋を積んだ荷車。樽を積んだ荷車。鶏の籠を背負った女。湊は、その列のいちばん後ろに並んだ。日は、まだ真上まで昇っていない。昼前に、城門。手順の一つ目は、どうにか守れた。

 見上げると、灰色の城壁が、思っていたより高かった。

 ゲームの画面では、城壁は背景の一枚絵だった。視点を上に振っても、てっぺんは画面の外に切れていた。こうして真下から見上げると、石の継ぎ目の一つ一つに、苔と、鳥の糞と、古い矢の跡がある。誰かが積んだ石だ。誰かが、何年もかけて。

 列が、少しずつ進む。

 湊は、外套の頭巾を深くかぶり直した。右手をかざす。生白い手のままだ。それを確かめるのが、もう癖になりかけていた。

 前の荷車の男が、振り返って湊を見た。泥だらけの麻の服。胸に縛りつけた左腕。腰の、錆びたナイフと、刃の欠けた短剣。男はすぐに前を向いた。関わりたくない、という背中だった。

 それでいい、と湊は思った。

 *

 門の脇に、門番が二人立っていた。

 一人は年かさで、帳面と羽根ペンを持っている。もう一人は若く、槍を立て、足元に大きな犬を一頭、繋いでいた。

 湊の足が、一瞬止まった。

 犬。

 ゲームの門番は、一人だった。「ようこそ、ブラムウェルへ」と言うだけの、立ち絵もない兵士だ。話しかけても、同じ台詞しか返さない。帳面も、犬も、いなかった。

 ロウェル村の番犬に噛まれた左足首が、思い出したように疼いた。

「次」

 年かさの門番が、顔も上げずに言った。湊は、前へ出た。

「頭巾を取れ」

 湊は、右手で頭巾を下ろした。額の上、生え際の少し上に、角がある。触れれば、ある。でも、外套が乾いているあいだは、誰の目にも見えない。見えないはずだ。昨夜の川辺で、裏地まで乾いたのを確かめた。

 門番の目が、湊の額を素通りした。顔、腕、腰の刃物へと、順に下りていく。

「名前は」

「……ミナト」

「聞かねえ名前だな。どこから来た」

 湊は、喉の奥で一度、言葉を飲んだ。

 ロウェル、とは言えない。夜明け前に審問官が向かった村だ。灰角が出たと、早馬が知らせた村だ。

「南の、海沿いから」

 嘘ではなかった。ロウェル村の西は海だ。

 門番は、ふん、と鼻を鳴らしただけで、帳面に何か書きつけた。

 そのとき、犬が立ち上がった。

 湊のすねの高さに、黒い鼻面が寄ってくる。湿った鼻が、外套の裾を嗅ぎ、泥だらけの服を嗅ぎ、上へ上がってくる。胸に縛った、左腕のあたりで止まった。

 犬の首の毛が、逆立った。

 喉の奥から、低い唸り声が漏れた。

「おい、どうした」

 若い門番が、綱を引いた。犬は引かれても、湊から目を離さない。唸り声が、少しずつ大きくなる。

 湊は、動かなかった。動けば、跳びかかってくる。それは、ロウェルの番犬で学んだ。

 《嗅覚》が、犬の匂いを拾っていた。乾いた毛と、獣脂と、怯えの匂い。怯えている。この犬は、湊を怖がっている。

 何を嗅いだのか。

 狼の血か。それとも、外套では隠せない、灰角の匂いか。

 湊には、わからなかった。

「……狼に、噛まれた」

 湊は、自分の声が落ち着いているのに驚いた。右手で、胸の布を少しだけずらした。黒く腫れ上がった前腕と、牙の跡が、一つだけのぞく。

「まだ、血の匂いが残ってると思う」

 若い門番が、顔をしかめた。

「うわ、ひでえな」

「そりゃ唸るわけだ」

 年かさの門番が、帳面から顔を上げずに言った。

「こいつは狼が大嫌いでな。子犬のころに、群れに兄弟を食われてる」

 若い門番が、犬の首を叩いた。犬は、まだ唸っていた。でも、綱を引かれると、門の陰に戻って腹ばいになった。目だけは、湊から離さなかった。

 湊は、ゆっくりと息を吐いた。外套の下で、背中に汗が伝っていた。

「入市税、銅貨二枚」

 年かさの門番が、手のひらを出した。

 湊は、その手を見た。

 入市税。ゲームにはなかった。城門は、誰でも、何度でも、ただでくぐれた。

 金はない。銅貨一枚もない。

 湊は、頭の中で、ブラムウェルの攻略ページを一枚ずつめくった。城門。ギルド。宿屋。武器屋。どこかに、金のない者が街に入る手順はなかったか。

 あった。

 ゲームの冒頭、無一文で城門に着いた主人公に、門番は一言だけ言った。

「冒険者志望か。なら、通れ」

 チュートリアルの台詞だ。二周目からは、誰も読まずに飛ばす一行。湊は、それをwikiの「序盤の流れ」のページに、律儀に書き写していた。

「……ギルドに、登録しに来た」

 年かさの門番の手が、止まった。

 初めて、門番がまともに湊の顔を見た。

「登録料は、あるのか」

「ない。登録して、依頼で稼いで、払う」

 門番は、しばらく黙っていた。それから、帳面の端を破り取って、何か書きつけ、湊に突き出した。

「ギルド付けだ。入市税は、ギルドの払いから引かせる。そういう決まりになってる」

 湊は、紙切れを受け取った。名前と、日付と、「ギルド付け」の文字。

「ただし、登録できなかったら、日が沈むまでに出ていけ。札のない余所者が夜に街をうろついてたら、牢だ」

「……わかった」

「最近は物騒でな」

 門番は、もう次の荷車のほうを見ていた。

「灰角が出たんだと。南の村で」

 湊は、返事をしなかった。紙切れを握りしめて、城門をくぐった。

 背中に、犬の視線が、いつまでも貼りついていた。

 *

 音が、押し寄せてきた。

 荷車の車輪が石畳を叩く音。物売りの呼び声。鍛冶場の槌音。子どもの泣き声。どこかの窓から、誰かが誰かを怒鳴りつけている。

 それから、匂いだった。

 焼きたてのパン。腐りかけた野菜。馬糞。なめし革の、鼻を刺す薬品。煮込みの湯気。人の汗。数えきれないほどの人の汗が、ひとつに溶け合って、街そのものの匂いになっている。

 《嗅覚》が、それを全部拾った。

 湊は、思わず壁に手をついた。頭の中に、色の違う糸が何百本も、一度に押し込まれたようだった。目の奥が、ずきずきと痛んだ。

 森では、匂いは道しるべだった。ここでは、洪水だ。

 湊は、壁に手をついたまま、息を整えた。鼻で息をするのをやめて、口で浅く吸う。少しだけ、ましになった。

 顔を上げると、目の前に噴水広場があった。

 知っている。

 石造りの噴水。真ん中に、水瓶を抱えた女の像。その向こうに、時計塔。広場から、道が五本、星の形に延びている。ゲームで何百回も、ここを走り抜けた。北の道を行けば冒険者ギルド。東の道は市場。西の道の先には、教会の尖塔がある。

 道の数も、像の形も、時計塔の位置も、同じだった。

 違うのは、そこに人がいることだった。

 噴水の縁に腰かけて、昼の弁当を広げている男。洗濯物を籠いっぱいに抱えて、早足で横切っていく女。像の足元で、裸足の子どもが三人、水を掛け合って騒いでいる。

 ゲームの広場には、決まったNPCが七人いた。花売りの娘。噂好きの老人。迷子の犬を探す少年。湊は、その七人の名前も台詞も、全部言えた。

 今、広場には、百人以上の人間がいる。

 湊は、その誰の名前も知らなかった。

 風が、西から吹いた。

 角の付け根が、ちり、と疼いた。

 乾いた花の匂いが、かすかに混じっていた。甘くて、冷たい匂い。教会の尖塔のほうからだ。夜明けの街道で嗅いだものより、ずっと薄い。でも、間違いなかった。

 西の道には、近づかない。

 湊は、頭の中の地図の、西の一画に、黒く線を引いた。

 *

 最初に向かったのは、ギルドではなかった。

 噴水広場から東へ。市場の通りを抜けて、三本目の路地を右。突き当たりを左に折れて、すぐ右の、細い裏通り。その奥に、傾いた看板の薬屋がある。

 《マルタの薬屋》。

 偏屈な婆さんが、一人でやっている店だ。ゲームの中で、灰角族のキャラクターに薬を売ってくれるのは、大陸じゅうでこの店だけだった。値段は相場の三倍。それでも、教会の治療院に入れない灰角族にとっては、唯一の命綱だった。

 婆さんは、話しかけるとこう言う。

「金があるなら、角があろうが尻尾があろうが、客は客さ」

 湊は、その台詞が好きだった。

 金は、ない。でも、場所だけは確かめておきたかった。灰角でも薬を買える場所が、この街にひとつだけある。それがわかっているだけで、明日を考えられる。

 市場の通りを抜けた。三本目の路地を右に入る。

 突き当たりを、左に。

 湊は、足を止めた。

 すぐ右にあるはずの、細い裏通りがなかった。

 あるのは、壁だった。新しい石の壁。漆喰がまだ白い。壁の向こうから、樽を転がす音と、男たちの掛け声が聞こえてくる。倉庫だ。

 湊は、壁に右手を当てた。冷たかった。

 場所を間違えたのか。もう一度、頭の中で地図をなぞる。噴水から東。三本目を右。突き当たりを左。すぐ右。

 間違えていない。

 裏通りが、ない。

「何か、探しもんかい」

 声をかけられて、振り向いた。籠いっぱいに玉葱を抱えた、太った女が立っていた。

「……この先に、薬屋が、なかったか。婆さんが、一人でやってる」

 女の顔が、すっと曇った。

「マルタ婆さんのことかい」

 名前は、合っていた。

「あんた、婆さんの知り合いかい」

「昔、世話になった」

 嘘だった。でも、半分は本当だった。画面の向こうで、何十回も。

 女は、壁のほうをちらりと見た。それから、声を落とした。

「去年の冬にね。教会の人たちが来たんだよ。婆さんが、灰角に薬を売ってたって」

 湊の喉が、乾いた。

「それで、婆さんは」

「連れていかれた。それっきりさ。店は焼かれて、裏通りごと潰されて、あの倉庫が建った」

 女は、それ以上は言わなかった。玉葱の籠を抱え直して、足早に路地を出ていった。一度も振り返らなかった。

 湊は、白い漆喰の壁の前に、しばらく立っていた。

 ゲームの中では、婆さんの店は、最後までそこにあった。湊が百周しても、二百周しても。誰も店を焼かなかった。誰も婆さんを連れていかなかった。

 この世界では、誰かが、そうしたのだ。

 灰角に、薬を売ったというだけで。

 湊は、壁から右手を離した。掌に、漆喰の白い粉がついていた。それを服で拭うと、泥と混ざって、灰色になった。

 *

 冒険者ギルドの建物は、ゲームと同じ場所にあった。

 噴水広場から北へ、石畳の坂を上った先。樫の大扉。軒先に、盾と羽根ペンを組み合わせた看板。扉の脇の柱に、誰かが刃物で刻んだ、意味のない落書き。その落書きまで、ゲームと同じだった。

 湊は、少しだけほっとした自分に気づいた。

 扉を押す。

 酒と、煙草と、油を引いた革の匂いが、どっとあふれ出てきた。

 広い広間だった。長机がいくつも並び、昼間から冒険者たちが杯を傾けている。奥の壁には依頼書がびっしりと貼られ、その手前に受付の台がある。右手の階段は、二階の支部長室へ。左手の扉は、裏の訓練場へ。

 全部、知っている。

 ただ、声が、多すぎた。

「——ロウェルだとよ。審問官様が、夜明け前に出ていったって」

「灰角一匹に、聖騎士四騎か。大げさなこった」

「大げさなもんか。あいつら、一匹見つかりゃ、十匹いると思ってやがる」

 長机のひとつで、男たちが笑っていた。

 湊は、頭巾をかぶったまま、その横を通り過ぎた。足を引きずらないように、左足に体重を乗せた。足首が、骨の奥で軋んだ。

 受付の台の向こうに、若い女がいた。栗色の髪をひとつに束ねて、羽根ペンを耳に挟んでいる。湊を見ると、泥だらけの服と、縛った腕と、二本の刃物を順に見て、小さくため息をついた。

「登録?」

「……ああ」

「名前は」

「ミナト」

 女は、帳面に名前を書いた。ミリー、と台の端の木札に彫ってある。

「登録料は銀貨一枚。持ってなければ、最初の依頼の報酬から引くわ。門で札をもらってるなら、それも一緒に引く」

 湊は、紙切れを差し出した。ミリーは慣れた手つきでそれを帳面に挟んだ。

 ゲームどおりだ。登録料の天引き。無一文のプレイヤーのための、ささやかな救済措置。

 湊が息をついたとき、ミリーが、台の下から何かを取り出した。

 白い石の板だった。手のひらほどの大きさで、表面に細かい文字が円を描いて刻まれている。その真ん中に、小さな窪みがひとつ。脇に、銀の針が添えてあった。

「指を出して。血を一滴、ここに落とすの」

 湊は、石の板を見つめた。

 知らない。

 こんなものは、ゲームになかった。登録は、名前を入力して、職業を選んで、それで終わりだった。

「……これは」

「判定盤よ。血を落とすと、種族が出る。半年前に、教会から全部の支部に配られたの」

 ミリーは、退屈そうに言った。

「灰角が紛れ込まないように、ですって。ここ何十年、灰角が登録しに来たなんて話、聞いたこともないけど」

 角の付け根が、ちり、と痛んだ。

 乾いた花の匂い。石の板から、かすかに立ちのぼっている。光の匂いだ。

 血を一滴落とせば、湊の種族が、この石に浮かび上がる。広間の、あの男たちの目の前で。

 外套は、血までは隠してくれない。

 湊は、右手を台の上に置いたまま、動けなかった。

 逃げるか。今なら、扉まで十二歩。でも、逃げれば、登録はできない。登録できなければ、日暮れまでに街を出なければならない。街を出れば、街道には、ロウェルから戻ってくる審問官がいる。

 袋小路だった。

 頭の中で、攻略ページを、もう一度めくる。冒険者ギルド。登録。受付嬢の台詞。

 受付嬢の台詞は、三つあった。

 一つ目は、「ようこそ、冒険者ギルドへ」。

 二つ目は、「登録料は最初の報酬から引いておくわね」。

 三つ目は——。

 選択肢によっては出る、四つ目の台詞があった。登録画面で、名前の入力を飛ばそうとすると出る、隠し台詞。

「腕に覚えがあるなら、試験で示してもいいのよ。書類なんて、あとでいいわ」

 湊は、それを見つけたときのことを覚えていた。発売から三年目。名前を入力せずに決定ボタンを連打していたら、偶然出た。wikiに書いたら、誰にも見向きもされなかった。何の得にもならない、ただの小ネタだったからだ。

「……試験を、受けたい」

 ミリーが、羽根ペンを止めた。

「試験?」

「腕を示した者は、書類はあとでいい。そういう決まりが、あったはずだ」

 ミリーの眉が、ゆっくりと寄った。

「誰から聞いたの、そんな話」

 湊が答えるより先に、笑い声がした。

 広間の隅からだった。

 壁際の、窓のない席。空の酒瓶が三本、机の上に倒れている。その陰に、男がひとり、背中を丸めて座っていた。

 大柄な男だった。でも、肩の肉が落ちて、着ている革の上着が余っている。赤茶けた髭には白いものが混じり、左の眉の上から頬まで、古い傷が一本走っていた。

 湊は、その男を知っていた。

 名前は知らない。ゲームの中で、この男は、ギルドの隅に座っているだけのNPCだった。話しかけると、一行だけ喋る。「酒をおごってくれりゃ、昔話をしてやる」。でも、酒をおごる選択肢は、どこにもなかった。wikiでは、「隅の酔っ払い」と書かれていた。湊も、そう書いた。

 その男が、こちらを見て、笑っていた。

「あるぜ、その決まり」

 掠れた、低い声だった。

「規約の一番最後に、まだ残ってる。消すのを、みんな忘れてるだけだ。『登録試験において、ギルド員に勝利した者は、仮登録を許す。正式の手続きは、支部長の裁可をもって行う』」

 男は、酒瓶の一本を逆さにして、最後の一滴を舌の上に落とした。

「そいつを知ってる奴を見たのは、十年ぶりだな」

「ギデオンさん」

 ミリーが、困った顔で言った。

「勝手なこと言わないでください」

 ギデオン。

 湊は、その名前を、頭の中のどのページにも見つけられなかった。

「勝手じゃねえ。規約だ」

 ギデオンは、肩をすくめた。

「マーカスの野郎が帰ってくるのは、十日は先だろう。それまで判定はお預けだ。この坊主が勝てりゃな」

 ミリーは、何か言いかけて、口をつぐんだ。それから、長いため息をついて、白い石の板を、台の下に戻した。

「……相手は、ギルド員なら誰でもいいわ。名乗り出る人がいれば」

「いるぜ」

 長机のほうから、椅子を引く音がした。

 立ち上がったのは、湊より頭ひとつ大きな男だった。

 肩も、腕も、首も、太い。剃り上げた頭に、汗の粒が光っている。腰には、使い込まれた長剣。

 グラント。

 この男は、知っていた。

 ゲームの序盤、ギルドで新人に絡んでくる、名前つきのNPC。《新人潰しのグラント》。任意の決闘イベントで戦える相手で、勝てば少しの経験値と、ギルド員たちの評判が上がる。湊は、その行動パターンも、wikiに書いていた。

「片腕の新人か。いいぜ、相手してやる」

 グラントが、にやにやと笑いながら、こちらへ歩いてきた。右足を、ほんのわずかに引きずっている。

 湊は、それを見逃さなかった。

 *

 ギルドの裏の訓練場は、四方を石の塀に囲まれた、土の広場だった。

 固く踏み固められた地面に、縄が張られて、十歩四方ほどの四角ができている。隅には、水を張った樽がひとつ。昼の光が、樽の水面で揺れていた。

 湊は、樽の位置を確かめた。北東の隅。縄から三歩離れている。

 あそこには、近づかない。

 外套が濡れれば、それで終わりだ。試験にも、この街にも。

 広間にいた冒険者たちが、ぞろぞろと塀際に集まってきた。誰かが「グラントに銅貨三枚」と叫び、誰かが笑って「賭けになるかよ」と返した。

 木剣を渡された。

 重かった。樫の芯に、鉛でも仕込んであるような重さだ。右手一本で構えると、手首が震えた。

 縄の向こうで、グラントが、木剣を片手でくるりと回した。

「坊主に、銀貨一枚」

 塀際から、声がした。

 ギデオンだった。酒瓶を一本ぶら下げて、塀にもたれている。冒険者たちが、どっと笑った。

「酔いどれが、ついに頭までやられたか」

「いいから受けろ。銀貨一枚だ」

 ギデオンは、懐から本当に銀貨を一枚出して、指で弾いた。銀貨が、昼の光を跳ね返して、誰かの手の中に落ちた。

 湊は、ギデオンを見た。ギデオンは、湊を見ていなかった。グラントの右足を見ていた。

「始め」

 ミリーが、塀際から声をかけた。

 グラントが、踏み込んできた。

 ゲームの、《新人潰しのグラント》の行動パターン。

 一、正面からの振り下ろし。

 二、もう一度、振り下ろし。

 三、横薙ぎに見せかけて、足払い。

 四、そこから、右足を大きく踏み込んでの、渾身の振り下ろし。

 四の振り下ろしのあとに、二秒の隙がある。そこが、唯一の勝ち筋だ。

 フレーバーテキストには、こう書いてあった。〈若いころ、魔猪の牙に右膝を砕かれた。それ以来、力むと膝が鳴る〉。

 一つ目の振り下ろしが来た。

 湊は、右へ体をずらした。木剣が、耳の横を通り過ぎて、地面を叩いた。土が跳ねる。

 速い。ゲームのグラントより、ずっと速い。でも、来る場所はわかっている。

 二つ目。

 また、右へ。今度は、左足首に体重が乗った。痛みが、脛を駆け上がる。歯を食いしばって、こらえた。

 鼻の奥が、疼いた。

 グラントの体から、汗と酒の匂いに混じって、別の匂いがした。苦い草。獣の脂。ほんの少しの蜂蜜。

 苦蓬の軟膏だ。

 湊の左腕に塗ったのと、同じ匂いだった。それが、グラントの右の膝から、濃く立ちのぼっている。今朝、塗ったばかりの匂いだ。

 フレーバーテキストは、嘘をついていなかった。

 三つ目は、足払い。

 湊は、低く来る木剣に備えて、跳ぶ準備をした。

 グラントの目が、動いた。

 湊の足ではなかった。湊の胸。布で縛りつけた、左腕のほうへ。

 足払いは、来なかった。

 代わりに、木剣が、横から来た。足元ではない。腰より上。縛った左腕の、その下の、がら空きの脇腹へ。

 ゲームのグラントは、プレイヤーの怪我を見なかった。見る必要がなかった。プレイヤーキャラクターは、いつも無傷で、両腕で剣を構えていたから。

 この男は、見ていた。最初から。片腕の新人の、守れない側を。

 湊は、左腕で受けようとした。

 左腕は、動かなかった。

 木剣が、脇腹にめり込んだ。

 音が、体の内側から聞こえた。乾いた小枝を、膝で折ったような音だった。

 息が、止まった。

 地面が、横から迫ってきた。湊は、右肩から土の上に倒れていた。木剣が、手から離れて転がる。

「——っ、か……」

 息を吸おうとすると、左の脇腹の奥で、何かが擦れた。吸えない。半分も吸わないうちに、鋭い痛みが胸じゅうに広がって、息が勝手に止まる。

 肋骨だ。折れたのか、ひびか。どちらにしても、もう深く息はできない。

 塀際から、どっと歓声が上がった。

「終わりだ、終わり!」

「銀貨一枚、いただきだな、酔いどれ!」

 グラントが、ゆっくりと近づいてくる。木剣を、肩に担いで。

「悪いな、坊主。新人ってのは、最初に一回、地面の味を覚えるもんだ」

 縄の外、三歩先に、水の樽が見えた。もう少し転がっていたら、と思うと、脇腹とは別のところが冷えた。

 湊は、右手で土をつかんだ。

 木剣は、手の届くところにある。指一本ぶん、先に。

 視界の隅で、グラントが足を止めた。湊の頭のすぐ前。そこで、木剣を、肩から下ろした。

「まだ立つ気なら、もう一発くれてやる」

 湊は、木剣に手を伸ばした。指が、柄に触れる。握る。

 グラントが、笑った。

 そして、右足を、大きく前に踏み出した。

 木剣を、頭の上に振りかぶる。

 四つ目だ。

 崩れていなかった。一つは崩れた。でも、四つ目は、残っていた。この男は、最後の一撃を、いつも同じ形で振るう。何百回も、何千回も、そうしてきた体だ。人間の癖は、狼の癖より、ずっと深いところに沈んでいる。

 膝が、鳴った。

 《嗅覚》でも、ゲームの知識でもなかった。ただ、聞こえた。踏み込んだ右膝の奥で、こきり、と小さな音がした。

 フレーバーテキストの、一行。〈力むと膝が鳴る〉。

 湊は、息を吸わなかった。吸えないなら、吸わなければいい。

 《疾駆》が、腿の奥で弾けた。

 右足が、地面を蹴った。体が、半歩、前へ滑る。グラントの懐の内側へ。振り下ろされる木剣の、根元のさらに内側へ。

 その半歩の勢いのまま、湊は、握った木剣を、グラントの右膝の横に叩きつけた。

 鈍い音がした。

 グラントの顔が、歪んだ。膝が、外へ折れる。振り下ろしかけていた木剣が、宙で止まった。巨体が、湊の上に覆いかぶさるように、ぐらりと傾ぐ。

 湊は、地面を転がって、その下から抜けた。

 グラントが、膝から崩れ落ちた。

 湊は、右膝をついて、体を起こした。脇腹が、焼けるように痛んだ。目の前が、白と黒に点滅する。それでも、木剣を離さなかった。

 切っ先を、グラントの喉元に向けた。

 訓練場が、静まり返っていた。

 グラントが、湊を見上げていた。

 目が、合った。

 昨夜の、痩せた追い剥ぎの目とは違った。怯えていなかった。驚いて、それから、ゆっくりと何かを悟っていく目だった。

 木剣だ。刺さらない。継承の条件など、ここには何ひとつ揃っていない。

 それでも、湊の右手は、一瞬だけ、昨夜と同じように固まった。

「……まいった」

 グラントが、言った。

 塀際の誰かが、口笛を吹いた。それをきっかけに、どよめきが広がった。

「嘘だろ」

「グラントが、膝ついたぞ」

 湊は、木剣を下ろした。下ろした拍子に、脇腹の痛みが戻ってきた。湊は、そのまま、地面に両手をつきかけて、左手がないことを思い出した。右手だけで、体を支えた。

 視界の隅で、ギデオンが、誰かの手から銀貨を二枚、受け取っていた。

 *

 仮登録の札は、木でできていた。

 親指ほどの大きさの、薄い板。焼き印で、ギルドの紋と、「仮」の一文字。裏に、ミリーが小刀で「ミナト」と彫った。

「正式な登録は、支部長が戻ってから。そのときに、判定盤もやってもらうわ」

 ミリーは、札を湊の掌に載せた。

「登録料と入市税は、最初の依頼の報酬から引いておく。依頼は明日から受けられるけど……」

 ミリーは、湊の脇腹に目をやった。湊は、そこを右腕で押さえたまま、浅い息をしていた。

「無理はしないでね。死んだら、登録料が取りっぱぐれになるから」

 冗談なのか本気なのか、わからない顔だった。

 湊は、札を握りしめた。

 十日。

 支部長が戻るまで、十日。判定盤に血を落とすまで、十日。

 ヴァルターが、灰月が満ちるまでと数えていたのも、十日だった。

 偶然だろうか。偶然だとしても、十日後に、何かが来る。

 ギルドの裏口から外へ出ると、細い路地だった。昼を過ぎた日が、石畳を白く照らしている。

 湊は、壁に背中を預けて、ずるずると座り込んだ。

 息を吸う。脇腹が軋む。半分で止める。吐く。また、半分だけ吸う。

 ゲームの中で、肋骨にひびが入ったことはなかった。体力のゲージが減るだけだった。半分になれば赤くなり、ゼロになれば倒れる。それだけだった。

 足音がした。

 顔を上げると、ギデオンが立っていた。片手に、新しい酒瓶。もう片方の手で、何かを弾いた。

 湊の膝の上に、銅貨が五枚、落ちてきた。

「取り分だ」

「……何の」

「お前に賭けて、銀貨二枚になった。元手の分は返してもらった。残りの一部だ」

 ギデオンは、湊の向かいの壁にもたれて、酒瓶の栓を歯で抜いた。

「安宿なら、二晩は寝られる。粥もつく」

 湊は、銅貨を一枚つまんだ。丸くて、すり減っていて、知らない王の横顔が刻まれている。ゲームの銅貨は、画面の右上の数字だった。

「……どうして、俺に賭けた」

 ギデオンは、酒をひと口あおった。

「お前、最初から、あいつの右膝しか見てなかった」

 湊は、黙っていた。

「振り下ろしを二回よけるあいだも、目はずっと膝だ。最後の一撃が、どの足で、どの形で来るかも、知ってるような顔だった」

 ギデオンは、瓶の口を、湊のほうへ向けた。

「あいつの膝のことを知ってるのは、この街じゃ、俺と、あいつに毎朝薬を塗ってる女房くらいだ。十五年前、魔猪狩りで、俺の目の前で砕けた膝だからな」

 湊の背中を、冷たいものが這い上がった。

 フレーバーテキストの一行。〈若いころ、魔猪の牙に右膝を砕かれた〉。

 あの一行は、この男が、見ていたことだった。

「おまけに、あの規約だ。十年前に、俺が酔っぱらって、ミリーの前任者に読み上げさせたのが最後だよ。あれを知ってる新人なんざ、いるはずがねえ」

 ギデオンの目が、湊を見た。

 酔いどれの目では、なかった。赤く濁っているのに、その奥に、何かが据わっていた。年寄りの狼が、群れの後ろから湊を見ていたときの目に、少し似ていた。

「お前、何なんだ」

 湊は、答えなかった。答えられなかった。

 ギデオンは、しばらく湊を見下ろしていた。それから、ふいに、視線を下げた。

 湊の、胸に縛った左腕へ。

 グラントの木剣を受けたとき、布が緩んでいた。ずれた布の隙間から、黒く腫れ上がった前腕がのぞいている。牙の跡が、四つ。前腕の内側と外側に、二つずつ。

 ギデオンが、しゃがみ込んだ。

 湊が身を引くより先に、太い指が、布の端をつまんで、少しだけめくった。指は、乱暴ではなかった。傷には、一度も触れなかった。

 ギデオンは、牙の跡を、しばらく黙って見ていた。

 跡と跡のあいだの幅。牙の入った角度。腫れの色。それを、ひとつずつ確かめるような目だった。

 それから、低い声で言った。

「黒狼の牙だな」

 湊の息が、止まった。肋骨が、軋んだ。

 ギデオンは、布を元に戻した。立ち上がって、酒瓶を傾けた。

 そして、南の空のほうを、ちらりと見た。

 夜明け前に、審問官が駆けていった方角を。

「ロウェルの森か」

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