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灰角のリスタート  作者: ヤッサン
第二章 灰色の街

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第五話 夜の街道

 夜の街道は、思っていたより明るかった。

 雨雲が東へ流れ去って、空の高いところに、二つの月が並んでいた。右の欠けた白月と、左の欠けた灰月。その光が、濡れた轍の水たまりに、二つずつ落ちている。湊は、そのひとつを踏まないように、よけて歩いた。理由はなかった。ただ、なんとなく、踏みたくなかった。

 左足首が、一歩ごとに鈍く響く。左腕は、乾いた布で胸に縛りつけてある。三角巾の代わりだ。歩くたびに揺れないだけで、ずいぶん楽になった。

 ロウェル村の風車は、とっくに丘の向こうに沈んでいた。

 街道の両脇には、刈り入れの終わった麦畑が、どこまでも続いている。ゲームでは、ここは右上に「ロウェル街道」というエリア名が一瞬出るだけの、ただの移動区間だった。馬車を使えば、読み込み画面ひとつで飛ばせる。湊も、千回近くは飛ばしてきた。

 歩いてみると、遠かった。

 湊は、歩きながら、頭の中で地図を広げた。

 ロウェル村は、アルカディア大陸の南西の端にある。村の西は、海へ落ちる切り立った崖だ。南には、ゲームでは見えない壁があった。草原の先の、ある一線を越えようとすると、キャラクターがその場で足踏みを始める。マップの外。何もない場所。

 今、そこに何があるのかは、わからない。本当に何もないのかもしれないし、何かがあるのかもしれない。どちらにしても、湊の頭には一行の知識もない。

 知らない場所に、この体で踏み込む。それは、昨夜の六頭の群れに、もう一度ナイフ一本で挑むのと同じだった。

 だから、道は一本しかない。北東へ延びる、この街道だけだ。

 そして、ベンの言ったことが正しければ、教会の人間は、この街道を通って村へやって来る。「明日の夕方」。日付はもう変わったはずだから、今日の夕方だ。

 湊は、追っ手のいる方角へ向かって歩いている。

 わかっていた。わかっていて、そうしている。

 理由は、三つあった。

 一つ目。ロウェルの周りは、袋小路だ。西は海で、南は知らない土地。村の近くの森に隠れても、教会の人間が犬を連れてくれば、いずれ見つかる。番犬に足首を噛まれたことを、湊の体はまだ覚えている。袋の底で縮こまっていれば、口を縛られて終わりだ。

 二つ目。入れ違いになれる。

 教会の人間は、まず村へ向かう。灰角を見たという、その村へ。村で話を聞き、森を調べ、足跡を探す。そのあいだ、彼らは湊のいない場所で、湊を探し続けることになる。

 早馬が街に着くのが夜中。人を集めて、馬を整えて、出立は朝。夕方に村へ着く。ゲームの移動時間に当てはめれば、そうなる。湊が夜のうちに街道の半分を歩けば、教会の人間が街道に出てくるころには、もう城壁が見えているはずだ。すれ違うとしても、明るい昼の街道で、旅人のふりをしていればいい。

 それに、人の多い街のほうが、紛れやすい。

 ロウェルのような村では、見知らぬ顔はそれだけで目立つ。ブラムウェルなら、灰色の外套を着た旅人は、千人のうちの一人にすぎない。外套が、乾いてさえいれば。

 三つ目が、いちばん大きかった。

 湊は、自分の右手を見た。錆びたナイフを握り続けて、掌に柄の形の赤い跡がついている。親指の付け根には、からたちの棘が、まだ一本刺さったままだ。

 金はない。まともな武器もない。左腕は動かない。レベルは7で、能力値は、目覚めたときとほとんど変わらない。

 このままでは、どこへ逃げても、次に出会った何かに殺される。

 強くならなければならなかった。それも、急いで。

 ブラムウェルの街の下には、古い井戸がひとつ口を開けている。その底には、街ができる前の遺跡が広がっている。発売初日に見つかった隠しダンジョン、《沈黙の井戸》。その最深部に、序盤で手に入る最強の短剣が眠っている。推奨レベルは25。今の湊の、三倍以上だ。

 でも、湊は、あの井戸の罠をすべて知っている。どの床石が沈み、どの壁から矢が飛ぶのか。どこで声を出してはいけないのか。目をつぶっていても歩けるほど、何十回も潜った。

 それに、ブラムウェルの裏通りには、金さえ払えば灰角族にも薬を売る、偏屈な薬屋の婆さんがいた。ゲームではそうだった。この世界でも、そうであってほしい。

「……夜のうちに、街道を抜ける。外套は、乾かす。昼前に、城門」

 湊は、小さく唱えた。

 声に出すと、手順が体に入っていく気がする。倉庫で、ピッキングの順番を口の中で繰り返していたときと同じだ。

 ただ、その手順が昨夜、沢の倒木で崩れたことも、湊は忘れていなかった。

 *

 夜半を過ぎたころ、街道の脇に、細い流れが見えた。

 湊は、麦畑の畦を下りて、流れのほとりに膝をついた。岸には柳が一本、水面に枝を垂らしている。水は冷たくて、月の光を映していた。右手ですくって、何度も飲んだ。喉が、焼けるように乾いていた。

 それから、左腕の布をほどいた。

 ほどくだけで、ひどく時間がかかった。布は、乾きかけた血で傷に貼りついている。端を歯で噛んで、少しずつ剥がしていく。剥がすたびに傷口が新しく裂けて、目の前が白く点滅した。

 ようやく出てきた腕を月明かりにかざして、湊は、しばらく息をするのを忘れた。

 狼の牙の跡が、四つ。前腕の内側と外側に、二つずつ。どれも深い。まわりの肉が、黒いほどに腫れ上がっている。指を動かそうとすると、人差し指と中指が、ほんのわずかに震えた。薬指と小指は、ぴくりともしなかった。

 ゲームなら、回復薬を一本飲めば済んだ。体力のゲージが緑に戻って、それで終わりだ。腫れも、震えも、画面には表示されない。

 湊は、流れの水で傷を洗った。叫び声が出そうになって、外套の襟を噛んだ。

 洗い終えてから、ティオの母親がくれた陶器の壺を開けた。

 中身は、濃い緑色の軟膏だった。指ですくうと、ツンとした匂いが鼻を刺す。《嗅覚》のせいで、その匂いの中身まで、いくつか分けて嗅ぎ取れた。苦い草の匂い。獣の脂の匂い。それから、ほんの少しだけ、蜂蜜の甘い匂い。

 塗った瞬間、腕の内側に、焼けた鉄を押し当てられたような熱が走った。

「——っ、ぐ……」

 湊は、地面に額をこすりつけて耐えた。熱は、しばらくすると、じんじんとした痺れに変わった。痺れが広がるにつれて、痛みが、少しだけ遠くなった。

 効いている、と思う。たぶん。痛みは引く。でも、この腫れが一晩で引くとは、とても思えなかった。

 ゲームの中で、ロウェル村の道具屋に並んでいた《苦蓬の軟膏》は、「体力を少し回復し、出血を止める」とだけ書かれていた。いちばん安い回復アイテムで、湊は序盤のほかで使った記憶がない。

 そのいちばん安い薬が、今の湊には、何よりありがたかった。

 新しい布で腕を巻き直して、また胸に縛りつけた。残った布は、二枚になった。

 それから、外套を脱いだ。

 雨を吸った外套は、半夜歩いても、まだじっとりと重かった。湊は、それを柳の枝に広げて掛けた。麦畑を渡ってくる夜風が、裾を揺らす。乾くまでにどれだけかかるのかは、わからない。わからないが、濡れたまま着ていても、何も隠せない。

 外套を脱ぐと、月明かりの下で、右手の甲がはっきりと灰色に見えた。

 こんな夜中に、街道を歩く人間はいない。そう自分に言い聞かせて、湊は柳の根元に背中を預けた。

 包みからパンを出して、半分だけ食べた。固くて、少し焦げていて、麦の味がした。残りは包みに戻した。次にいつ食べられるか、わからない。

 眠るつもりはなかった。目を閉じただけだった。

 *

 鼻の奥が、ずきりと疼いて、目を開けた。

 月が、雲に隠れていた。さっきまで水面に揺れていた二つの光が、消えている。流れの音だけが、暗がりの中で続いていた。

 匂いがした。

 人間の匂いだった。

 安い酒の、酸っぱい匂い。何日も洗っていない体の汗。それから、手入れの悪い鉄の、錆の匂い。二つ。街道の土手の上から、ゆっくりと下りてくる。

 湊は、柳の枝を見上げた。

 外套は、まだそこに掛かっていた。手を伸ばして触れると、表は乾きかけているのに、裏地がまだ湿っている。

 羽織っても、効かないかもしれない。

 迷っている暇はなかった。湊は外套を引き下ろして、肩に掛けた。右手を目の前にかざす。暗くて、色がよくわからない。

「おう、旅の。こんな夜中に、水浴びか」

 土手の上から、声が降ってきた。

 男が二人、立っていた。片方は、肩幅の広い大男で、手に太い棍棒を下げている。もう片方は痩せていて、刃の欠けた短剣を、指先でくるくると回していた。

 追い剥ぎだ。

 ゲームの街道にも、出た。夜にロウェル街道を歩くと、一定の確率で現れる雑魚の二人組。名前は《街道の追い剥ぎ》。大男が先に殴りかかってきて、痩せたほうは後ろで様子を見る。大男を倒せば、痩せたほうは逃げる。経験値はほとんどないが、小銭を少し落とす。

 湊は、それを知っていた。

 ただ、それは、レベル10を超えたキャラクターが、片手間に追い払う相手としての知識だった。

「荷物を置いていきな。そうすりゃ、痛い目は見ねえ」

 大男が、土手を下りてきた。一歩ごとに、湿った草が潰れる。

 湊は、ゆっくりと立ち上がった。右手は、腰のナイフの柄にかけたまま。左腕は、胸に縛りつけてある。

「……荷物は、ない」

「嘘つけ。その包みは何だ」

 ティオの母がくれた包みが、柳の根元に置いてあった。中には、パンが半分と、薬の壺と、布が二枚。

「パンだ」

「なら、パンでいい」

 大男が、にやりと笑った。笑いながら、さらに近づいてくる。

 そのとき、雲が切れた。

 月の光が、川辺に落ちてきた。湊の顔に。湊の、外套から出た右手に。

 大男の足が、止まった。

「……おい」

 大男の目が、湊の額に吸い寄せられていた。湊は、思わず額に手をやりかけて、やめた。触れなくても、わかった。

 外套は、効いていない。

「灰角だ」

 痩せたほうが、土手の上で、短剣を回すのをやめた。

「灰角だぜ、兄貴。本物だ」

「見りゃわかる」

 大男の顔から、さっきまでの薄笑いが消えていた。代わりに浮かんだのは、もっと嫌な笑いだった。値踏みをする顔。倉庫で、返品の箱の中身を確かめるときの、主任の顔に似ていた。

「教会に突き出しゃ、いくらになる」

「生きてりゃ銀貨二十。死んでりゃ十だったか」

「なら、生かしたほうが得だな」

 大男が、棍棒を握り直した。

 湊は、ナイフを抜いた。錆びた刃が、月の光を鈍く跳ね返した。

 大男が、踏み込んできた。

 速くはなかった。でも、重かった。振りかぶった棍棒が、風を唸らせて湊の頭へ落ちてくる。

 湊は、後ろへ跳ぼうとした。

 左足首が、ぐしゃりと沈んだ。痛みで、膝が抜けかける。

 その瞬間、腿の奥で、何かが弾けた。

 《疾駆》。

 右の足が、勝手に地面を蹴っていた。体が、ほんの半歩だけ、後ろへ滑る。棍棒の先が、湊の鼻先をかすめて、川辺の石を叩き割った。破片が、頬に当たった。

 半歩。熟練度1のスキルが湊にくれたのは、たったそれだけだった。

 それで、十分だった。

「ちょこまかと……!」

 大男が、棍棒を横に薙いだ。湊は、身を沈めた。頭の上を、風が通り過ぎる。そのまま、大男の脇をすり抜けるように、流れのほうへ転がった。

 足が、水に入った。

 冷たい。外套の裾が、水を吸う。もう構わなかった。どうせ効いていないのだ。

 月が、また雲に隠れた。

 川辺が、暗くなった。

「どこ行った!」

 大男の声がした。目が、闇に慣れていないのだ。湊も同じだった。何も見えない。

 でも、匂いは、あった。

 安い酒の匂い。汗の匂い。大男の匂いは、右手の、三歩ほど先。棍棒を構えたまま、首を左右に振っている。痩せたほうの匂いは、まだ土手の上だ。下りてこようと、していない。

 ゲームのとおりだ、と湊は思った。大男が前に出て、痩せたほうは後ろで見ている。

 だったら、大男を先に。

 湊は、水の中の石を、右手で一つ拾った。ナイフは口にくわえた。錆の味がした。

 石を、左へ放った。

 ぼちゃん、と水音が立った。大男が、そちらへ振り向く。棍棒が、闇の中で振り下ろされる。水しぶきが上がった。

 その背中へ、湊は、水を蹴って跳んだ。

 《疾駆》が、また半歩、体を押し出した。

 大男の膝の裏に、右肩からぶつかった。大男の巨体が、前のめりに崩れる。濡れた石の上で足を取られて、頭から水の中へ倒れ込んだ。棍棒が、手から離れて流されていく。

 ぶつかった拍子に、胸に縛った左腕が揺れた。目の前が白くなった。湊は、ナイフを噛みしめて耐えた。

 大男は、水の中でもがいている。浅い流れだ。すぐに起き上がってくる。

 湊は、土手を、ナイフをくわえたまま、駆け上がった。左足が悲鳴を上げる。構わなかった。

 土手の上の痩せた男が、短剣を構えた。月のない闇の中で、男の目がまだ湊を捉えられていないのが、匂いでわかった。男の汗の匂いが、急に濃くなる。怯えた獣と同じ匂いだった。

 湊は、口のナイフを右手に戻した。

 男が、闇雲に短剣を突き出した。湊の外套の脇腹を、刃がかすめて、布を裂いた。

 その手首を、湊は、ナイフの柄頭で、思いきり打った。

 短剣が、草の上に落ちる。男が叫ぶ。湊は、そのまま体ごとぶつかって、男を地面に押し倒した。

 右膝で、男の胸を押さえつける。右手のナイフを、男の喉元に当てる。

 雲が、切れた。

 月の光が、男の顔を照らした。

 若かった。

 湊よりも、ずっと若い。まだ二十歳にもなっていないかもしれない。頰がこけて、無精髭がまばらに生えている。前歯が一本、欠けていた。

 その目が、湊を見上げていた。

 見開かれた目だった。灰色の肌と、二本の角を映して、震えていた。

 《継承》の条件が、頭の中で、勝手に並んだ。

 自分の手で。目を見たまま。とどめを。

 揃っている。

 今、この刃を、ほんの少し押し込めば。

 湊の右手は、動かなかった。

 狼の目とは、違った。年寄りの狼の目には、生きたいという意志があった。この男の目にあったのは、ただの恐怖だった。死にたくない。痛いのは嫌だ。こんなはずじゃなかった。おふくろ。

 最後の一つは、目の中に書いてあったわけではない。でも、湊には、なぜかそう見えた。

 人間の目だった。

 夜勤明けの更衣室で、曇った鏡の中に湊が毎朝見ていたのと、同じ種類の目だった。

「……行け」

 声が、勝手に出た。

 男は、一瞬、何を言われたのかわからない顔をした。

「行けって、言ってるんだ」

 湊は、膝をどけた。

 男は、這うようにして湊の下から抜け出した。草の上を転がり、立ち上がり、短剣も拾わずに土手を駆け下りていく。水の中で起き上がりかけていた大男の腕を引いて、何か叫んだ。二人の足音が、もつれながら、麦畑の向こうへ遠ざかっていった。

 湊は、その場に座り込んだ。

 右手が、震えていた。ナイフを握ったまま、指が開かない。

 刺せなかった。

 狼は、刺せたのに。

 それにほっとしているのか、情けなく思っているのか、湊にはわからなかった。

 ただ、ひとつだけわかっていることがあった。

 あの二人は、この先どこかで、「ロウェル街道で片腕の灰角を見た」と言いふらすかもしれない。教会に駆け込んで、銀貨の一枚でももらおうとするかもしれない。

 それでも、刺せなかった。

 湊は、震える右手を膝に押しつけて、震えが止まるのを待った。草の上に、刃の欠けた短剣が一本、転がっていた。

 *

 東の空が、白みはじめていた。

 湊は、街道を歩いていた。腰には、錆びたナイフのほかに、刃の欠けた短剣が一本差してある。拾うかどうか、しばらく迷った。結局、拾った。欠けていても、錆びてはいなかった。

 外套は、もう一度柳の枝に掛けて、夜風に当てた。そのあいだ、湊は川辺に座って、自分の手が灰色のままなのを見ていた。夜明け前のいちばん冷たい風が麦畑を渡ってきたころ、ふと触れると、裏地までかさりと乾いていた。

 羽織って、右手をかざした。

 灰色だった手の甲が、見ているうちに、ゆっくりと色を変えていった。日に焼けていない、生白い、夜勤明けの倉庫作業員の手の色に。

 乾けば、戻る。

 ただし、乾くまでには、半夜かかった。そのあいだ、湊は灰角のままだった。もう一度水をかぶれば、また半夜、灰角に戻る。

 湊は、それを頭の中のノートに書きつけた。〈灰色の外套:水濡れで解除。乾燥で復帰(所要:半夜ほど)〉。wikiの備考欄には、そこまでは書いていなかった。ゲームには、「乾かす」という操作がなかったからだ。

 鼻の奥が、また疼いた。

 北東から。街道の先から。

 馬の匂いだった。

 一頭ではない。四頭、五頭。汗をかいた馬の、むっとした匂い。革。油を引いた鉄。それから——

 湊は、足を止めた。

 乾いた花のような匂いがした。甘くて、冷たい匂い。それを嗅いだ瞬間、角の付け根が、ちり、と痛んだ。継承のときの痒みとは、まるで違う。焼けた針を、根元に刺されたような痛みだった。

 なぜか、わかった。

 これは、光の匂いだ。

 灰角族は、光属性の攻撃で、一・五倍の傷を負う。ゲームの数字が、頭の奥で点滅した。

 蹄の音が、聞こえはじめた。

 速い。夜明け前の街道を、全力に近い速さで駆けてくる。

 早すぎる。

 ベンは、明日の夕方と言った。早馬が街に着いて、人を集めて、馬を整えて——湊の計算では、彼らが街道に出てくるのは、早くても朝のうちだった。

 その計算を、誰かが一晩で踏み潰していた。

 湊は、街道の脇の溝に飛び込んだ。

 麦畑の水を落とすための、浅い溝だった。底に、昨夜の雨水がまだ溜まっている。

 水。

 湊は、とっさに外套の裾を胸の下に巻き込んだ。溝の縁の、枯れ草が山になったところへ、横向きに体を押しつける。右の脇腹から下が、泥水に沈んだ。麻の服が、冷たい水を吸い上げていく。外套の背中だけが、かろうじて乾いた枯れ草の上にあった。

 蹄の音が、地面を伝って、頰に響いた。

 来た。

 五頭の馬が、湊の頭の、ほんの数歩先を駆け抜けていく。蹄が跳ね上げた泥が、溝の中に降ってきた。

 湊は、枯れ草の隙間から、それを見た。

 四頭の馬には、白銀の鎧の騎士が乗っていた。胸に、円の中に十字を刻んだ紋章。聖光教団の聖騎士だ。

 先頭の一頭だけが、違った。

 黒い馬だった。その背に、白い外套の男がいた。鎧は着ていない。白い外套の下は、黒い詰襟の僧衣だ。腰に、細身の剣を下げている。

 夜明け前の薄明かりの中で、男の横顔が、一瞬だけ見えた。

 痩せた頰。高い鼻。後ろへ撫でつけた、灰色がかった金髪。目は、前だけを見ていた。冷たい目だった。凍った湖の、底のほうを覗き込んだときのような、色のない冷たさ。

 湊は、その顔を知っていた。

 ゲームの中盤。聖王国の大聖堂で、プレイヤーの前に立ちはだかる中ボス。白い外套をひるがえし、光の槍を三連で撃ってくる。体力が半分を切ると、剣を抜いて間合いを詰めてくる。湊は、その行動パターンのページを、wikiに一から書いた。

 《異端審問官ヴァルター・クロイツ》。

 推奨レベル、四十。

 その男が——ゲームでは一度も大聖堂から出てこなかった男が、夜明け前の辺境の街道を、ロウェル村へ向かって駆けていた。

 湊のいた村へ。

 先頭の黒い馬が、ふいに、速度を落とした。

 湊は、息を止めた。

 ヴァルターが、馬の上で、わずかに首を巡らせた。溝のほうへではない。空へ。西の低いところに沈みかけている、灰色の月へ。

「……灰月が満ちるまで、あと十日か」

 低い声だった。独り言のようだった。

 後ろの聖騎士の一人が、何か答えた。湊には聞き取れなかった。

 ヴァルターは、それ以上何も言わずに、馬の腹を蹴った。黒い馬が、また駆け出す。四頭の白い馬が、その後を追う。

 蹄の音が、南西へ遠ざかっていった。

 光の匂いが、薄れていく。角の付け根の痛みが、ゆっくりと引いていく。

 湊は、溝の中で、長いあいだ動けなかった。

 泥水が、脇腹から体温を奪っていく。それでも、動けなかった。

 あと十日。

 その言葉の意味は、わからなかった。ゲームの中で、灰月が満ちることに何かの意味があった記憶はない。「灰角族の守護月」という、フレーバーテキストの一行があるだけだ。

 でも、あの男は、それを数えていた。

 ようやく溝から這い上がったとき、東の空は、もう明るくなっていた。

 麻の服は、右半身が泥だらけだった。外套の背中を、手で払った。泥はついていたが、濡れてはいない。右手をかざす。生白い、人間の手のままだった。

 湊は、北東を見た。

 麦畑の地平の先に、朝靄に霞んで、灰色の線が一本、横たわっていた。

 城壁だった。

 辺境都市ブラムウェル。ゲームで何百回もくぐった、あの城門のある街。

 ヴァルターのいない街だ。今のところは。

「……昼前に、城門」

 湊は、唱えた。

 崩れるかもしれない手順を。崩れたら、またその場で見るしかない手順を。

 それでも、唱えずにはいられなかった。

 湊は、左足を引きずりながら、灰色の城壁へ向かって歩き出した。

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