第四話 知らない群れ
「降りられるか」
湊が声をかけると、ティオは首を横に振りかけて、それから小さく頷いた。
枝にしがみついていた手を、一本ずつ剥がすように離す。幹に足をかけ、ずり落ちるように下りてくる。最後の一段で、足が滑った。
湊は、右腕だけで受け止めた。左腕は、もう持ち上がらなかった。
思ったより、軽かった。汗と涙と、土の匂いがした。少年の体は、湊の腕の中で、小刻みに震えていた。
地面に下ろすと、ティオは一歩下がって、湊を見上げた。
「……なんで、おれの名前、知ってるの」
「村で聞いた。みんな、探してる」
嘘ではなかった。ティオは、湊の左腕に目をやって、顔をしかめた。袖が裂けて、牙の跡から血が流れつづけている。
「いたくないの」
「痛い」
正直に答えると、ティオは、少しだけ目を丸くした。大人がそんなふうに言うのを、聞いたことがないという顔だった。
ティオの手の中の月見草は、握りしめすぎて、茎が途中から折れていた。白い花びらも、半分ほど萎れている。ティオは、それに気づいて、唇を噛んだ。
「……リナの、なのに」
湊は、外套の内側に手を入れた。森へ来る途中、窪地で拾った一本。茎は、まだまっすぐだった。
「これも、持っていけ」
ティオは、湊の手の中の花を見て、それから湊の顔を見た。フードの奥を覗き込むように。湊は、思わず顔を少し伏せた。外套はまだ乾いている。見えているのは、ただの人間の顔のはずだ。
ティオは、黙って花を受け取った。二本の月見草を、両手で胸に抱えた。
「帰るぞ。妹が、待ってる」
湊は、ティオの手を取ろうとした。
そのときだった。
鼻の奥が、また、ずきりと疼いた。
さっき北の風に混じっていた匂いが、今度ははっきりと、濃くなっていた。獣の匂い。黒い毛皮の匂い。さっきの群れと、似ている。でも、違う。もっと古くて、もっと重い。
湊は、目を閉じた。
手に入れたばかりの《嗅覚》は、まだ熟練度1だ。細かいことはわからない。それでも、匂いの数だけは、なんとか数えられた。
一頭、二頭、三頭。四頭。五頭。六頭。
北の風下から、こちらへ近づいてくる。速い。
背中を、冷たいものが走った。
黒狼の森の群れは、一つだけだ。ゲームでは、何百回この森に来ても、そうだった。wikiの敵配置のページにも、湊が自分で書いた。〈黒狼:一群れ五頭。リーダー撃破で離散〉。
知らない。
この群れを、湊は知らない。
*
「走れ」
ティオの手を掴んで、湊は駆け出した。
来た道ではなかった。来た道は北の窪地を通る。匂いは、その北から来ている。湊は、空き地の南へ向かった。斜面を下った先に、沢がある。
ゲームでは、帰り道を短縮するための抜け道だった。沢には古い倒木が一本、橋のように渡されていて、向こう岸から森の出口まで、ほとんど一直線に出られる。
そして、倒木の幅なら、狼は一頭ずつしか渡れない。
斜面は、思っていたよりずっと急だった。湿った落ち葉の上を、ほとんど滑り落ちるように下る。ティオが転びかける。湊は右手で、少年の襟首を掴んで引き上げた。自分の左足首が、ぐきりと嫌な音を立てた。
「いっ……」
声を噛み殺した。止まれない。
背後で、枝の折れる音がした。
息遣いが聞こえる。荒い、獣の息遣い。ひとつではない。湊の鼻の奥で、六つの匂いが、どんどん大きくなっていく。
「おにいさん、うしろ……!」
「振り向くな!」
斜面の下に、沢が見えた。
幅は、十歩ほど。岩だらけの浅瀬で、白い水が細く流れている。底までは、大人の背丈の二倍ほどの高さがあった。落ちれば、ただでは済まない。
倒木は、記憶どおりそこにあった。
苔に覆われた、古い幹。湊が思っていたより、ずっと細かった。ゲームの画面では、キャラクターが余裕で歩ける太さに見えていた。実際には、大人ひとりがやっと立てる幅しかない。
この上で狼とやり合えば、身をかわした瞬間に沢へ落ちる。
戦うなら、渡りきった先だ。倒木の根元は、向こう岸の土に深く食い込んでいる。その脇に立てば、足の下は揺れない地面になる。狼は細い幹の上を一頭ずつ渡ってくるしかない。こちらは、渡りきる瞬間を地面の上で待ち受けられる。
「先に渡れ。四つん這いでいい。振り向くな」
ティオは、一瞬だけ湊の顔を見上げた。それから、月見草を襟巻きの中に押し込んで、倒木に飛び乗った。小さな手で苔を掴み、必死に渡っていく。
湊は、その後を追った。
渡りきって、根元の脇の土を踏みしめたところで、振り返った。足の下はぬかるんでいるが、揺れない地面だった。一歩ほど横には、沢へ落ちる崖の縁がある。
斜面の上に、黒い影が並んでいた。
六頭。
その真ん中に、ひときわ大きな一頭がいた。さっきのリーダーよりも、さらにひと回り大きい。右の耳が、半分ちぎれていた。鼻面の毛が、白く褪せている。体じゅうに、古い傷の跡が走っていた。
年寄りの狼だった。何度も冬を越え、何度も戦ってきた獣の目が、倒木の上の湊を、まっすぐに見下ろしていた。
湊は、手順を唱えようとした。
——跳ぶ前に、必ず前脚を一度沈める。
一頭目が、倒木に乗った。
細い幹の上を、まっすぐ、駆けてくる。速い。さっきの群れの狼より、明らかに速い。湊は膝を落として、ナイフを構えた。前脚が沈む瞬間を待った。
沈まなかった。
狼は、走ってきた勢いのまま、倒木の端から、いきなり跳んだ。
胸に、丸太で殴られたような衝撃が来た。
湊の体が、沢の縁のぬかるみに、仰向けに倒れた。狼の重みが、胸の上に乗る。牙が、喉の目の前で噛み合わされた。がちん、と硬い音がした。生臭い息が、顔にかかる。
手順が、崩れた。
頭が、真っ白になりかけた。
三千時間かけて積み上げたものが、足元から抜け落ちていく感覚。知っているはずの森で、知らない狼に、喉を噛まれかけている。
死ぬ。
レベルが一つ下がるのではない。ここで、終わる。
「——っ、ああああ!」
湊は、膝を跳ね上げた。
狼の腹を、下から蹴り上げる。狼の体が、一瞬浮いた。その一瞬に、湊は泥の上を横へ転がって、狼の下から抜け出した。狼が着地したのは、崖の縁ぎりぎりだった。濡れた土に、後ろ脚が滑る。湊は仰向けのまま、その脇腹を、両足で思いきり蹴り飛ばした。
狼の体が、崖の縁から外れた。
落ちていく狼と、目が合った。
黄色い目が、見開かれていた。驚いている目だった。その目に、湊が映っていた。
狼は、悲鳴を上げながら、沢の底の岩に叩きつけられた。鈍い音がした。それきり、動かなかった。
何も、起きなかった。
視界の左上に、何の文字も浮かばない。
目は、見ていた。最後まで、見ていたのに。
湊の頭のどこかが、冷たく回った。《継承》が起きた二頭は、どちらも、目を見たまま湊のナイフでとどめを刺した。今のは違う。殺したのは、湊ではなく、沢の岩だ。
自分の手で、とどめを刺さなければ。
考えている暇はなかった。
二頭目が、倒木に乗っていた。
湊は、膝立ちのまま、今度は跳ぶ前から体を沈めた。手順は、捨てた。前脚が沈むかどうかなど、もう見ない。見るのは、目の前の狼の肩だけだ。
肩の筋肉が、盛り上がった。
湊は、横に身を倒した。狼の体が、頭上を越えていく。すれ違いざま、右手のナイフで後ろ脚を斬った。着地に失敗した狼は、後ろ脚をもつれさせて、崖の縁から沢へ転げ落ちていった。
頬に、冷たいものが当たった。
雨だった。
最初は、ぽつぽつと。木々の葉を叩く音が、すぐに森じゅうを満たした。さっきまで晴れていた空に、いつのまにか厚い雲が流れ込んでいた。二つの月が、雲に呑まれて消えていく。
外套が、肩から重くなっていく。
湊は、自分の右手を見た。
ナイフを握った手の甲が、灰色に戻っていた。
水濡れで解除。
wikiの備考欄に、自分で書いた一行が、頭の中で点滅した。
*
すぐ後ろから、小さな声がした。
「……つの」
ティオが、少し離れた木の根元で立ち尽くしていた。雨の中で、二本の月見草を胸に抱えたまま、湊の額を見ている。
湊は、振り向かなかった。
振り向いて、あの子の目に浮かんでいるものを見たくなかった。広場で浴びた、あの目。獣か、汚物を見るような目。さっきまで「いたくないの」と聞いてきた子の目が、あれに変わっているのを、今は見たくなかった。
「……向こうの、木の陰にいろ」
それだけ言った。背中で、小さな足音が遠ざかった。
斜面の上で、年寄りの狼が、ゆっくりと空を仰いだ。
ウォオオオオ——ン。
湊は、息を止めた。
三秒。三秒あれば——
止まらなかった。
遠吠えが響くあいだ、残りの三頭は、止まるどころか、狂ったように吠え返した。雨音を引き裂くような声が、沢の上で何重にも重なる。三頭とも、牙を剥いたまま、斜面の縁を行ったり来たりしている。
さっきの群れでは、長の遠吠えは「止まれ」だった。この群れでは、違う。これは、「行け」なのだ。
そして、年寄りの狼自身が、ゆっくりと倒木に足をかけた。
群れの長が、自分で来る。
湊は、倒木の根元の脇で膝立ちになったまま、右手のナイフを握り直した。雨で、柄がぬるりと滑る。左腕は、肘から先が、もう自分のものではない。左足首は、さっき斜面で捻ってから、体重をかけるたびに鈍く響く。
倒木が、軋んだ。
年寄りの狼が、一歩ずつ近づいてくる。巨体の重みで、古い幹がたわむ。雨に濡れた苔が、月のない闇の中で、ぬらりと光る。
怖かった。
さっきの群れのリーダーとは、格が違った。目が違う。あのリーダーの目は、静かで深かった。この狼の目は、それよりもっと冷たい。何十回も獲物を殺してきて、何十回も生き延びてきた目だ。
手順は、ない。
wikiにも、ノートにも、この狼のことは一行も書いていない。三千時間の知識が、ここでは何の役にも立たない。
だったら、今、ここで見るしかない。
湊は、目を凝らした。雨と闇で、狼の輪郭がにじむ。見えない。目だけでは、足りない。
鼻の奥が、疼いた。
《嗅覚》だった。
雨の匂いが、すべてを洗い流そうとしている。土の匂いも、毛皮の匂いも、薄くなっていく。その下に、一筋だけ、別の匂いが混じっていた。
古い血の匂いだった。
乾いて、こびりついて、何度も舐められた傷の匂い。狼の体の、左の前脚から。
古傷だ。
湊は、狼の足元を見た。さっきは気づかなかった。狼は、左の前脚を、ほんのわずかに浮かせるようにして歩いていた。体重を、右へ、右へと逃がしている。
跳ぶなら、右で踏み切る。着地も、右だ。
ゲームの知識ではなかった。この森で、この雨の中で、今、手に入れたばかりの鼻で拾った情報だった。
狼が、右の前脚に、体重を乗せた。
来る。
湊は、左へ倒れ込んだ。
狼の牙が、湊の右肩のすぐ上の空気を噛んだ。濡れた毛皮が、頬を擦っていく。巨体が、湊の頭上を越えて、右の前脚から、湊の背後の崖の縁に着地する。
その右脚が、濡れた土で、滑った。
狼の巨体が、傾いた。崖の縁から、後ろ半身がずるりとはみ出す。狼は、前脚の爪を縁の土と木の根に突き立てて、落ちまいともがいた。古傷の左脚が、うまく掛からない。爪が泥を削り、細い根を引きちぎる。
湊の顔の、すぐ前に、狼の顔があった。
崖の縁にしがみついた狼と、泥の上に這いつくばった湊。同じ高さで、ほんの一尺の距離で、目と目が、向き合っていた。
灰色に濁りかけた、年寄りの目だった。
怒りでも、飢えでもなかった。
ただ、生きようとしている目。落ちたくない。死にたくない。まだ、群れを率いていたい。その目の中に、雨に打たれた、角のある灰色の顔が映っていた。
一瞬、手が止まった。
この狼は、腹が減っていただけかもしれない。冬を越すために、群れを食わせるために、獲物を追っていただけかもしれない。湊がこの森に来なければ、この狼は、明日も群れを率いて生きていたはずだ。
でも、そうしたら、ティオは。
湊は、雨音の向こうに、背後の木の陰で震えている少年の息遣いを、嗅いだ。月見草の匂いを。
湊は、目を逸らさずに、ナイフを突き入れた。
狼の喉の、柔らかいところへ。錆びた刃が、沈んでいく。狼の目が、大きく見開かれた。その瞳の中で、湊の顔が、揺れた。ぼやけた。遠ざかっていった。
湊は、最後まで、見ていた。
狼の爪が、崖の縁から外れた。
その瞬間、ナイフの柄を伝って、何かが流れ込んできた。
足だった。いや、足の中にある、何か。地面を蹴る力。風を切って走る感覚。獲物を追って、森の中を、どこまでも駆けていく、その速さ。それが、湊の腿の奥に、ばねのように巻き込まれていく。
〈《継承》成功。スキル《疾駆》を獲得しました(熟練度1)〉
〈レベルが上がりました:5→7〉
巨体が、雨の沢へ落ちていった。
湊は泥に這いつくばったまま、それを最後まで見ていた。岩に叩きつけられる音は、雨音にかき消されて、ほとんど聞こえなかった。
額の角の付け根が、ちり、と痒くなった。
*
顔を上げると、斜面の上に、三頭の狼が残っていた。
牙を剥いて、低く唸っている。長を失っても、逃げない。さっきの群れとは、違うのだ。三頭の中の一頭が、倒木のほうへ、一歩、踏み出した。
湊は、崖の縁で、立ち上がった。
膝が、笑っている。左腕は、ぶら下がっているだけだ。ナイフを握る右手は、震えが止まらない。もう一頭でも来られたら、終わる。
喉の奥に、さっき継承したものが、まだ慣れない形で引っかかっていた。
《咆哮》。
熟練度1のスキルで、何ができるのかはわからない。でも、今の湊には、それしか残っていなかった。
湊は、それを、無理やり押し出した。
「——ウォ、オオ……ッ」
掠れた声だった。
遠吠えとは、とても呼べない。濡れた喉から絞り出した、獣の鳴き真似。雨音に半分かき消されて、沢の向こうまで届いたかどうかもわからない。熟練度1の《咆哮》なんて、こんなものだ。
それでも、三頭の唸り声が、止まった。
雨の中で、狼たちが鼻をひくつかせている。湊のほうを、じっと見ている。いや、嗅いでいる。
湊の体から立ちのぼる匂いを。
二つの群れの長の、血の匂いを。
一頭が、耳を伏せて、後ずさった。二頭目が、それに続いた。最後の一頭は、しばらく湊を睨みつけていた。黄色い目が、雨の中で光っていた。
やがて、その一頭も身を翻して、森の暗がりに消えた。
雨音だけが、残った。
*
湊は、崖の縁から這うように離れて、へたり込んだ。
雨が、容赦なく降っていた。外套は、もうすっかり水を吸って、肩にのしかかるように重い。手の甲は、灰色のままだった。額に触れると、角は濡れて、冷たかった。
少し離れた木の陰から、ティオがこちらを見ていた。
雨で濡れた前髪の下で、目が大きく見開かれている。胸に、二本の月見草を抱えたまま。
怖がられて当然だった。
湊は、外套のフードを引き下ろそうとして、やめた。濡れた布では、もう何も隠せない。隠すふりをするのも、みっともない気がした。
「……帰るぞ」
それだけ言って、湊は立ち上がった。ティオのほうは見ずに、森の出口へ向かって歩き出した。左足首が痛む。でも、さっきまでとは少し違った。足の奥に、何かばねのようなものが巻き込まれていて、痛む足を、ほんの少しだけ前へ押し出してくれる。《疾駆》だろうか。熟練度1では、走れるほどの力はないらしい。
少しして、外套の裾が、後ろから引っぱられた。
振り向くと、ティオが、裾の端を握っていた。
目は、湊の額から逸らしている。唇を、ぎゅっと噛んでいる。でも、手は、離さなかった。
湊は、何も言わずに、また歩き出した。裾を引く小さな力が、ついてきた。
森の中は、真っ暗だった。月は雲の向こうに隠れている。湊は、《嗅覚》を頼りに歩いた。自分が来たときの、自分の血の匂い。牙鼠の匂い。踏み荒らされた月見草の匂い。来た道を、匂いが教えてくれた。
「……灰角って、悪いやつなんでしょ」
雨音の中で、ティオが、ぽつりと言った。
「さあな」
「父ちゃんが、言ってた。灰角は、人をだますって。名前を盗むって」
「そうか」
しばらく、二人とも黙って歩いた。落ち葉を踏む音と、雨の音だけが続いた。
「でも」
ティオが、言った。
「狼より、こわくない」
湊は、返事をしなかった。
できなかった。喉の奥が、何かで詰まっていた。さっき無理やり押し出した《咆哮》のせいではない、別の何かで。
湊は、空を見上げるふりをして、雨に顔を打たせた。雨でよかった、と思った。
*
森を抜けると、雨は小降りになっていた。
東の丘の上に、松明の列が見えた。十本ほどの火が、雨に揺れている。村の男たちだ。森に入れないまま、丘の上で、ずっと待っていたのだろう。
「ティオ!」
先頭の大柄な男が、叫んだ。
ティオが、湊の裾を離して、駆け出していった。転びそうになりながら、丘を駆け上がっていく。ベンは、松明を放り出して、膝をついた。駆け込んできた息子を、両腕で抱きとめた。
太い腕が、震えていた。
「この、馬鹿……この、馬鹿が……」
ベンは、息子の頭を胸に押しつけて、何度もそう繰り返した。ティオは、父親の前掛けに顔を埋めて、声を上げて泣いていた。月見草は、二本とも、まだ手の中にあった。
湊は、丘の中腹で足を止めて、それを見ていた。
それから、ベンが、顔を上げた。
息子の頭越しに、丘の中腹に立つ人影を見た。松明の明かりが、雨に濡れた外套と、その下の顔を、照らした。
灰色の肌。額の、二本の角。
ベンの顔から、表情が消えた。
男たちが、ざわめいた。「灰角だ」と誰かが言った。誰かが、斧を握り直す音がした。鍛冶場の男が、松明を前に突き出して、一歩出た。その後ろで、廃屋に来た若い男が、熊手を持ったまま、凍りついたように湊を見ていた。
ベンは、湊から目を離さなかった。
その目が、ゆっくりと動いた。湊の顔から、外套へ。雨に濡れて黒ずんだ、灰色の外套。日暮れの広場で、ベンが両腕を掴んだ、旅人の外套だ。
ベンの喉が、大きく動いた。
知ったのだ。自分が、誰に息子を頼んだのか。
ベンの目が、湊の左腕に落ちた。袖が裂けて、牙の跡から、まだ血が流れている。腕は、だらりと垂れ下がったまま、動かない。それから、湊の足首に。こめかみの傷に。最後に、息子の手に握られた、二本の白い花に。
「父ちゃん」ティオが、顔を上げた。「このひとが、たすけてくれた。狼、いっぱいいたのに。このひとが——」
「わかってる」
ベンは、息子の頭を自分の胸に押しつけて、湊から目を逸らさないまま、低く言った。
「わかってる」
雨が、松明の火をじゅっと鳴らした。
長い沈黙だった。男たちは、ベンと湊を、交互に見ていた。誰も動かなかった。
やがて、ベンが、口を開いた。
「礼は、言わん」
「……ああ」
「言えん。俺は、お前に石を投げた。お前を、教団に売った。その口で、お前に息子を頼んだ。今さら、どの面下げて礼が言える」
ベンの声は、掠れていた。
「日暮れに出した早馬は、もう呼び戻せん。明日の夕方には、ブラムウェルの教会から人が来る。灰角を見たと、俺が言わせた。取り消しはきかん」
ベンの太い喉が、もう一度、大きく動いた。
「今夜のうちに、村を離れろ」
男たちの間で、誰かが何か言いかけた。ベンは、振り向きもせずに、それを遮った。
「今夜だけは、誰にもお前を追わせない。誰にも、石は投げさせない」
それから、ほとんど聞き取れないほどの声で、こう付け足した。
「……息子の、命の分だ」
男たちが、黙って、道を開けた。
鍛冶場の男が、松明を下ろした。熊手を持った若い男は、湊と目が合うと、うつむいた。
湊は、その間を、一人で歩いて抜けた。誰も、石を投げなかった。誰も、何も言わなかった。
ベンの横を通り過ぎるとき、ベンの後ろにいた痩せた女が、湊の右手に、布の包みを押しつけた。ティオの母親だった。母親は、湊の顔を見なかった。灰色の肌も、角も、見なかった。ただ、包みを押しつけて、すぐに夫の陰に下がった。
包みは、少し重かった。中で、何かが、ことりと鳴った。
湊は、それを握りしめて、歩きつづけた。
*
村の外れの丘で、湊は足を止めた。
振り返ると、ロウェル村の屋根が、雨上がりの闇の中に沈んでいた。風車の羽根だけが、ぼんやりと白く浮かんでいる。一枚だけ、色の新しい羽根。
包みを開けると、中には、パンがひとつと、乾いた布が何枚か、それに、小さな陶器の壺が入っていた。蓋を開けると、ツンとした草の匂いがした。傷薬らしい。
湊は、乾いた布で、左腕の傷をきつく縛った。歯で布の端を噛んで、右手で引く。痛みで、目の前が白くなった。それでも、縛った。
雨が上がって、雲が裂けていく。
その切れ間から、灰色の月が覗いていた。
湊は、ステータス画面を開いた。
名前:ミナト
種族:灰角族
レベル:7
筋力 4 耐久 3 敏捷 4
魔力 2 精神 5 感知 5
スキル:《継承》 成功率:――
《嗅覚》1 《咆哮》1 《疾駆》1
装備:錆びたナイフ/麻の服/灰色の外套(濡れ)
器:―
レベルが二つ上がって、増えたのは筋力の一つだけ。目覚めたときから数えれば、六つ上がって、能力値はほとんど変わっていない。
それなのに、スキル欄には、三つの名前が並んでいた。三千時間かけて、一度も手に入らなかったものだ。
目を見て、自分の手で、とどめを刺す。そうしなければ、何も遺らない。
湊は、額に手をやった。
角の付け根が、まだ少し熱い。指先で、角の形をなぞった。夕方、草原で目を覚ましたとき、角は親指の先ほどだった。
今は、それより、ほんの少しだけ、長くなっている気がした。気のせいかもしれない。でも、気のせいではない気もした。
湊は、さっきの年寄りの狼の目を思い出していた。
死ぬ瞬間まで、生きようとしていた目。あの目を見なければ、何も手に入らない。あの目が光を失っていくところを、最後まで見届けなければ。
そういう力なのだ。
それから、ベンの言葉を思い出した。明日の夕方、教会から人が来る。
ゲームのロウェル村には、そんなイベントは存在しなかった。黒狼の森の群れも、一つしかいなかった。村に番犬はいなかった。床板に釘は残っていなかった。
ずれている。
湊が知っている世界と、この世界が、少しずつ。そのずれのどこかで、湊はいつか、死ぬかもしれない。一度死んだら、やり直しはきかない。四十二回目は、ない。
外套に触れた。まだ、重く湿っている。乾けば、また効果が戻るのか。それも、わからない。わからないことばかりだった。
《あなたは、この世界を愛していますか?》
あの黒い画面の問いが、耳の奥で鳴った。
はい、と答えた。三千時間分の夜を思い出して、そう答えた。
でも、あれは、画面の向こうの世界の話だった。石が痛くて、狼の牙が熱くて、殺した獣の目がいつまでも瞼の裏に残る、この世界の話ではなかった。
「……まだ、わかんねえよ」
灰月に向かって、そう呟いた。
声に出してみると、不思議と、少しだけ楽になった。わからない。わからないから、確かめるしかない。倉庫で、合わない数字を見つけたときと、同じだ。
湊は、包みの中のパンを、ひとくちかじった。固くて、少し焦げていて、麦の味がした。
濡れた外套の前を合わせて、湊は丘を下りはじめた。
街道は、北東へ延びている。その先に、辺境都市ブラムウェルがある。教会があって、冒険者ギルドがあって、灰角族を嫌う人間が、この村の何十倍もいる街だ。
明日の夕方、そこから、湊を追う者たちがやって来る。
湊は、そちらへ向かって、歩き出した。




