第三話 三秒
東の丘は、思っていたより高かった。
ゲームでは、村の東門を出て丘を越え、森の入口まで、走って四十秒だった。湊はそれを、ストップウォッチで何度も計った。四十秒。走りながら回復薬を一本飲む余裕すらある距離だ。
実際には、丘の中腹で、もう息が上がっていた。
肺が焼けるように熱い。喉の奥で、さっき食べたパンの味と、血の味が混ざっている。左足を踏み出すたびに、足首の傷が布の下で脈を打つ。牙鼠に一度、番犬に一度。同じ場所を二度噛まれた足は、もう自分の足ではないみたいに重かった。
灰角族の敏捷4は、人間の村人と大差がない。三千時間、画面の中で軽々と丘を駆け上がっていたキャラクターの体は、本当はこんなに重かったのだ。
湊は、東の空を見上げた。
灰色の月が、丘の稜線の上に、半分だけ顔を出していた。
《夕暮れの迷子》の制限時間は、灰月が東の丘の上に昇りきるまで。ゲームでは、空の灰月の位置を見れば、残り時間がわかった。半分なら、あと半分。走って四十秒の距離を残して、時間は十分にあるはずだった。
ゲームの足なら。
「……くそ」
湊は、歯を食いしばって、丘の斜面を這うように登った。草を掴む。掌の傷に、からたちの棘が残っていて、握るたびに奥へ食い込む。それでも、掴んだ。
丘の頂上に出た。
眼下に、森が広がっていた。
黒い。それが最初の印象だった。夕闇の中で、木々は一本一本の形を失って、ひとつの巨大な黒い塊になっている。森の縁だけが、昇りかけた二つの月の光を受けて、かすかに銀色に縁取られていた。
黒狼の森。推奨レベル、5。
湊は、丘を駆け下りた。駆け下りるというより、半分転がり落ちた。斜面の途中で足首が折れ曲がり、体が前に投げ出されて、草の上を二回転した。起き上がって、また走った。
*
森に入ると、二つの月の光が、急に遠くなった。
頭上を、枝が網のように覆っている。光は、その網の目からこぼれ落ちてくるだけだ。足元は湿った落ち葉で、踏むたびにぬるりと滑る。どこかで、夜の鳥が低く鳴いた。
湊は、一本の木の根元にしゃがみ込んで、呼吸を整えた。
心臓の音が、うるさかった。暗闇の中で、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。木の幹に背中を押しつける。樹皮のざらつきが、麻の服越しに伝わってくる。
怖かった。
認めてしまうと、少しだけ楽になった。怖い。死ぬかもしれない。牙鼠三匹であれだけ震えた人間が、狼の群れに挑もうとしている。正気の沙汰ではない。
それでも、ここまで来た。
湊は、目を閉じた。そして、いつものように、手順を口の中で唱えはじめた。名もなき騎士の扉の前で、四十二回繰り返してきたのと、同じやり方で。
——群れは五頭。リーダーは、額に白い傷のある一頭。
——三頭が囲み、正面の一頭が跳ぶ。跳ぶ前に、必ず前脚を一度沈める。
——群れの一頭が倒れると、リーダーが吠える。そのあいだ三秒、群れ全体が止まる。リーダー自身も止まる。
——三秒のうちに、リーダーを殺す。
wikiの《夕暮れの迷子》のページに、湊が書いた攻略手順だった。レベル1の灰角族でも、この手順通りにやれば、群れを全滅させられる。理屈の上では。
実際にレベル1の灰角族で試したのは、一度きりだった。三回死んで、四回目で成功した。レベル1ではもう下がるレベルがないかわりに、死ぬたびに、それまで稼いだ経験値が消えた。
ここでは、一回目で成功しなければならない。
指が、無意識にコントローラーのボタンの位置を探して、空を掴んだ。
今回は、ボタンがない。
湊は、腰のナイフを抜いた。錆びた刃が、枝の隙間からこぼれる月の光を、鈍く跳ね返した。
「行くぞ」
誰に言ったのか、わからなかった。たぶん、自分の足にだ。
*
ゲームの道は、覚えていた。
入口から、二股の大木を右へ。苔むした岩を三つ越えて、小川の跡の窪地に沿って奥へ。窪地が途切れたところで、左に折れる。その先に、大きな樫の木が一本だけ立つ、小さな空き地がある。
暗い森の中で、その道は、驚くほど体に馴染んでいた。初めて歩く森なのに、次にどの木が現れるか、湊は知っていた。苔むした岩は、記憶よりひと回り大きかった。小川の跡の窪地には、ゲームにはなかった水が、細く流れていた。
違う。でも、同じだ。
窪地の途切れるあたりで、湊は足を止めた。
地面に、白いものが散らばっていた。
花だった。細長い花びらを持つ、小さな白い花。月の光を浴びて、ぼんやりと光って見える。何十本も、踏み荒らされて、泥の上に散っていた。
月見草だ。
ゲームでは、採取ポイントのアイコンとして表示されるだけの草だった。拾えば、ポーションの材料になる。それだけの。
泥の上に、小さな足跡があった。子どもの靴の跡だ。その周りを、もっと大きな、四本指の獣の足跡が囲んでいる。いくつも、いくつも。足跡は、窪地の先へ、左へ折れる道のほうへ続いていた。
子どもの足跡は、途中から、歩幅が大きくなっていた。走ったのだ。
湊は、散らばった月見草の中から、まだ茎の折れていない一本を拾い上げた。それを、外套の内側にしまった。理由は自分でもわからなかった。ただ、拾わずにはいられなかった。
そのとき、森の奥から、声がした。
子どもの、泣き声だった。
湊は、走った。
*
木々の切れ目に、小さな空き地があった。
二つの月の光が、そこだけ真上から降り注いで、空き地を青白く照らしている。真ん中に、大きな樫の木が一本。大人が三人で手をつないでも囲めないほどの幹。その低い枝に、少年がしがみついていた。
十歳くらい。痩せた手足。首に、青い襟巻き。片手に、白い花を握りしめている。月見草だ。木に登るときも、手放さなかったのだ。
少年は、声を殺して泣いていた。泣き声を出すと、下にいるものが騒ぐことを、もう学んだのかもしれない。
樫の根元を、黒い影が、ぐるぐると回っていた。
四頭。
少し離れた、空き地の縁の平たい岩の上に、もう一頭。他の四頭よりひと回り大きく、じっと座ったまま、樫の上の少年を見上げている。その額に、月の光を受けて、白い傷が一筋、浮かんで見えた。
五頭。リーダーは、額に白い傷。
手順どおりだ。
湊は、空き地の手前の木の陰で、膝をついた。息を殺す。四頭の狼は、少年に気を取られて、まだこちらに気づいていない。風は、湊の背中から空き地のほうへ吹いている。いや、吹いてしまっている。気づかれるのは、時間の問題だ。
だったら、先に動く。
湊は、足元の石を拾った。牙鼠と戦ったあとの小川で、石の重さはもう知っていた。拳ほどの大きさ。握り直して、樫の根元の、いちばん手前の狼に狙いを定める。
投げた。
石は、狼の背中に当たって、乾いた音を立てた。
四対の黄色い目が、いっせいにこちらを向いた。
「こっちだ!」
声が、裏返った。情けない声だった。それでも、狼たちは樫から離れた。
湊は、木の陰から空き地へ出た。足首が痛む。でも、もう止まれない。三頭が左右に広がって、湊を囲むように回り込んでくる。正面に一頭。低く唸りながら、じりじりと距離を詰めてくる。
近い。
画面越しに見ていた狼は、こんなに大きくなかった。肩の高さが、湊の腰まである。黒い毛並みの一本一本が、月の光で青く光っている。口の端から垂れた涎が、夜気の中で白く湯気を立てていた。獣の匂い。腐った肉と、湿った毛皮の匂い。
牙鼠とは、比べものにならなかった。
膝が、笑いそうになった。湊は、それを押さえつけるように、腰を落とした。
思い出せ、と自分に言った。牙鼠のときの失敗を。
あのとき、湊は、ゲームの感覚で避けようとした。キャラクターなら一瞬で横へ滑る距離を、この体は半分しか動かなかった。だから、噛まれた。
この体は、遅い。三千時間の指先より、ずっと遅い。だったら、そのぶん早く動くしかない。ゲームなら「見てから避ける」場面で、見る前に動く。
正面の狼が、前脚を沈めた。
沈めた瞬間、湊はもう右へ跳んでいた。
狼の体が、さっきまで湊の頭があった空間を裂いていく。牙が、外套の裾をかすめた。風圧が、頬を叩いた。
着地した狼の首の横が、がら空きだった。
湊は、錆びたナイフを逆手に握って、狼の首筋に突き立てた。
肉の手応えは、牙鼠とも違った。もっと硬く、もっと厚く、もっと重い。分厚い毛皮と筋肉の奥に、刃がようやく沈んでいく。狼が、体をよじって暴れた。ナイフごと、腕を持っていかれそうになる。湊は叫びながら、体重を全部かけて、もう一度、深く押し込んだ。
刃の先で、何かが切れた感触があった。
狼が、倒れた。
岩の上で、リーダーが、ゆっくりと立ち上がった。そして、首を真上に伸ばして、空を仰いだ。
ウォオオオオ——ン。
遠吠えが、森を震わせた。
腹の底に響くような、低く長い声だった。画面越しに、スピーカーから聞いていた音とは、まるで違った。空気そのものが震えて、湊の肋骨の内側まで、びりびりと揺らしてくる。
その瞬間、残りの三頭が、凍りついたように動きを止めた。
跳びかかろうとしていた姿勢のまま。唸り声を上げかけた口のまま。三頭の狼が、時間ごと固められたように、静止している。岩の上のリーダー自身も、首を真上に伸ばしたまま、固まっていた。
三秒。
一。
湊は、走った。岩まで、十五歩。
遠い。足が、落ち葉で滑る。左の足首が、踏み出すたびに悲鳴を上げる。
二。
まだ、半分。
間に合わない。
三。
遠吠えが、途切れた。
三頭の狼が、ばね仕掛けのように、いっせいに動き出した。
湊は、岩の手前で足を止めた。このまま岩に飛びつけば、背中を三頭に晒すことになる。湊は、とっさに樫の幹へ向かって跳び、幹を背にして振り返った。背後を取られないための位置取り。ゲームで、狼の群れと戦うとき、いつも使っていた場所だ。
三頭が、半円を描いて、湊を囲んだ。
頭上で、ティオが息を呑む音が聞こえた。
*
視界の左上に、文字が浮かんだ。
〈レベルが上がりました:1→3〉
格上の相手を倒した経験値が、一気に入ってきたのだ。黒狼の森の推奨レベルは5。レベル1の湊にとって、狼一頭は、それだけで大物だった。
体が、少しだけ軽くなった気がした。気のせいかもしれない。ステータス画面の数字を確かめる余裕はなかったが、ちらりと見えた筋力の欄は、3のまま動いていなかった。
成長率最低。わかっていたことだった。
それより、気になることがあった。
《継承》が、何も言わなかった。
当たり前だ、と思う。一万回に一回のスキルだ。牙鼠のときも、何も起きなかった。一頭や二頭で起きるはずがない。
なのに、頭の隅に、何かが引っかかっていた。
倉庫で数字が合わないときの、あの感覚に似ていた。何かが、おかしい。並べた数字のどこかに、見落としがある。
0.01%という数字を、湊は三千時間、疑ったことがなかった。wikiに〈飾り。期待するな〉と書いて、それきりだった。でも、ここでは、その0.01%が、空欄になっている。
ゲームとは、違う。
だったら、何が違う。
湊の頭の中で、ひとつの文章が浮かび上がった。《継承》のスキル説明の、いちばん最後の一行。誰も気にしていなかったフレーバーテキスト。湊自身、wikiに書き写しただけで、ろくに読みもしなかった一文。
〈瞳に映らぬ死は、何も遺さない〉
湊は、さっき倒した狼を思い出した。横から、首を刺した。狼の目は、見ていない。
牙鼠を思い出した。一匹目は、背中から刺した。最後は、顔を地面に伏せた首の後ろに、ナイフを突き立てた。二匹目は、正面から来た。でも、湊は、怖さに負けて、目を固くつぶっていた。
牙鼠が二匹と、狼が一頭。湊は三度とも、相手の目を見ずに殺している。
瞳に映らぬ死。
心臓が、どくんと跳ねた。
もし、あれが、ただの飾りの文章ではなかったとしたら。0.01%という数字が、条件を知らないまま当てずっぽうに倒し続けたときの、確率だったとしたら。
三千時間かけて、湊は一度も、それを試さなかった。
確かめる方法は、ある。そして、それは、とても怖い方法だった。
*
狼たちは、すぐには跳ばなかった。
仲間を一頭殺した獲物を、警戒しているのだ。三頭は、樫の幹を背にした湊を半円に囲んだまま、低く唸りながら、少しずつ位置を変えていく。右の一頭が半歩出れば、左の一頭が半歩下がる。隙を探している。
ゲームでは、こんな間はなかった。囲めば、すぐに跳んできた。
生きているのだ、と思った。この狼たちも、怖いのだ。
正面の一頭が、前に出た。三頭の中でいちばん若いのか、毛並みに艶があって、体が細い。その一頭が、湊の目の前で、前脚を沈めた。
避ければ、さっきと同じだ。横から刺せば、さっきと同じになる。
湊は、避けなかった。
半歩だけ、左にずれた。狼の顎が、まっすぐ自分の顔へ来るのではなく、左腕へ来る角度に。そして、左の前腕を、盾のように顔の前へ掲げた。
牙が、腕に食い込んだ。
麻の服の袖ごと、皮膚が破れる。牙が、肉に沈む。骨にまで当たったのがわかった。視界が、白く弾けた。牙鼠の比ではない。腕が、腕の形のまま、燃えているみたいだった。叫び声が、自分の喉から勝手に溢れた。
狼が、首を振る。腕ごと、体を引き倒そうとする。湊は、樫の幹に背中を押しつけて、踏みとどまった。
でも、狼の顔は、目の前にあった。
黄色い目だった。縦に細い、黒い瞳孔。月の光を受けて、濡れたように光っている。その瞳の中に、何かが映っていた。
フードの外れかけた、自分の顔。
自分だった。
狼の目に映った自分は、ひどい顔をしていた。泣きそうで、怯えていて、それでも、目を逸らしていなかった。
湊は、右手のナイフを、狼の顎の下から、突き上げた。
目を、逸らさなかった。
刃が、顎の下の柔らかいところから、喉の奥へ沈んでいく。狼の体が、びくりと跳ねた。黄色い目が、大きく見開かれた。その瞳の中で、何かが揺れて、ゆっくりと遠ざかっていく。湊の顔が、瞳の中で、だんだんぼやけていく。
湊は、最後まで、それを見ていた。
その瞬間だった。
腕に食い込んだ牙の奥から、熱いものが流れ込んできた。
血ではない。もっと細くて、鋭いものだ。針のような何かが、牙の跡から腕を駆け上がり、肩を抜け、首を通って、まっすぐ鼻の奥へ突き刺さった。
世界が、匂いになった。
湿った土の匂い。腐りかけた落ち葉の匂い。樫の樹皮の匂い。それだけではない。足元に倒れている二頭の狼の、血の匂い。半円の残りの二頭の、毛皮と涎の匂い。岩の上のリーダーの、少し年を取った獣の匂い。樫の枝の上の少年の、汗と、涙と、握りしめた月見草の匂い。
そして、湊自身の、血の匂い。
何もかもが、一度に、鼻の奥へ雪崩れ込んできた。目を閉じていても、どこに何がいるのか、わかる。風上も、風下も。生きているものも、死んだものも。
視界の左上に、文字が浮かんだ。
〈《継承》成功。スキル《嗅覚》を獲得しました(熟練度1)〉
額の、角の付け根が、ちり、と痒くなった。
成功、した。
三千時間で、一度も起きなかったことが。目を見て、殺しただけで。
湊は、狼の口から、左腕を引き抜いた。牙が抜ける感触に、また視界が白くなった。腕から、血がぼたぼたと落ちる。でも、考えている暇はなかった。
岩の上で、リーダーが、また空を仰いでいた。
今度は、湊のほうが近い。樫の幹から、岩まで、五歩。さっき、背中を守るために樫まで下がったのが、そのまま岩への近道になっていた。
ウォオオオオ——ン。
一。
湊は、跳んだ。左腕は使えない。右手にナイフを握ったまま、一歩、二歩、三歩。岩の縁に、右足をかける。足首の痛みは、もう感じなかった。感じている余裕がなかった。
二。
岩の上に、体を引き上げた。リーダーの喉が、目の前で震えている。遠吠えの振動が、空気ごと、湊の顔を叩いてくる。
リーダーの首は、真上を向いたままだった。目は、空を見ている。湊を見ていない。
今なら、殺せる。喉を一突きすれば終わる。
でも、目が合わない。
待て。
待て。
湊は、ナイフを構えたまま、待った。半秒が、ひどく長かった。耳の中で、自分の心臓が鳴っている。背後で、二頭の狼が、凍りついたまま固まっている。三秒が終われば、あの二頭が、背中から来る。
三。
遠吠えが、終わった。
リーダーの首が、ゆっくりと下りてきた。額の白い傷が、月の光の中を横切る。その下で、黄色い目が、空から地面へ、地面から、目の前の湊へ。
目が、合った。
古い目だった。若い狼のような艶はない。何度も冬を越えてきた獣の、静かで、深い目。その目が、湊を映した。
湊は、ナイフを突き出した。
錆びた刃が、リーダーの喉の奥まで沈んだ。リーダーは、声を上げなかった。ただ、黄色い目を見開いて、湊を映したまま、その光が、ゆっくりと遠のいていった。
湊は、目を逸らさなかった。
喉の奥に、何かが流れ込んできた。熱く、重く、震えるもの。腹の底から、喉を通って、外へ出ていこうとする、低い響き。
〈《継承》成功。スキル《咆哮》を獲得しました(熟練度1)〉
〈レベルが上がりました:3→5〉
額の角の付け根が、また、ちりりと痒くなった。
リーダーの体が、岩の上で横倒しになった。
凍りが解けた二頭の狼が、甲高い声を上げた。跳びかかってくるかと思った。湊は、岩の上で振り返って、ナイフを構えた。
二頭は、跳ばなかった。
倒れたリーダーと、その横に立つ湊を、交互に見た。それから、耳を伏せ、尾を巻いて、森の奥へ駆け去っていった。
リーダーを失った群れは、散る。ゲームでも、そうだった。
*
静かになった。
湊は、岩の上に座り込んだ。座り込んだというより、膝が勝手に折れた。
左腕から、血がぽたぽたと落ちて、岩の苔を黒く染めていく。腕を持ち上げようとすると、指先が震えるだけで、肘から先が言うことを聞かなかった。足首も、掌も、こめかみも、全部が今になって痛みはじめた。
息が、全然整わない。
湊は、横に倒れているリーダーを見た。開いたままの黄色い目に、二つの月が映っている。さっきまで湊を映していた目だ。
ステータス画面を開いた。
名前:ミナト
種族:灰角族
レベル:5
筋力 3 耐久 3 敏捷 4
魔力 2 精神 5 感知 5
スキル:《継承》 成功率:――
《嗅覚》1 《咆哮》1
装備:錆びたナイフ/麻の服/灰色の外套
器:―
レベルが四つ上がって、動いた数字は、感知の一つだけだった。灰角族らしい、と湊は思った。笑おうとして、うまく笑えなかった。
それでも、スキル欄には、名前が二つ並んでいた。
三千時間かけて、一度も手に入らなかったものだ。
目を見なければ、何も遺らない。目を見て殺せば、その生き物が持っていたものが、自分の中に流れ込んでくる。
湊は、自分の右手を見た。錆びたナイフを握ったままの手。灰色の指が、血で黒く汚れている。この手で、目を見て、殺した。狼の瞳が、光を失っていくところを、最後まで見ていた。
そうしなければ、手に入らない力なのだ。
胸の奥が、ひどく重かった。牙鼠を殺したときとは、違う重さだった。吐き気はなかった。かわりに、あの二つの黄色い目が、瞼の裏に焼きついて、離れなかった。
ふと、視線を感じた。
樫の枝の上で、少年が、口を開けたまま、こちらを見ていた。
月見草を握りしめた手が、震えている。青い襟巻きが、夜風に揺れている。泣き腫らした目が、湊を見ていた。怖がっているのか、驚いているのか、湊にはわからなかった。
湊は、外れかけていたフードを、右手で深く被り直した。
大丈夫だ。外套は、まだ乾いている。角は、見えていないはずだ。
「……ティオ、だな」
声をかけると、少年の肩が、びくりと跳ねた。
湊は、ゆっくりと岩から降りた。足首が、今度ははっきりと悲鳴を上げた。それでも、樫の木の下まで歩いていった。
そのときだった。
夜風が、向きを変えた。
北から、冷たい風が、森の奥を抜けて吹いてきた。
鼻の奥が、ずきりと疼いた。
手に入れたばかりの《嗅覚》が、何かを拾った。獣の匂いだった。さっき逃げていった二頭の匂いではない。もっと濃く、もっと重い、知らない匂いが、北の風に乗って、かすかに漂ってくる。
湊は、北の暗がりを振り返った。
何も見えなかった。木々の黒い影が、どこまでも重なっているだけだった。
気のせいだ、と思おうとした。
黒狼の森の群れは、一つだけだ。ゲームでは、何百回この森に来ても、そうだった。
鼻の奥の疼きは、消えなかった。




