第二話 石と外套
坂道の入口に立ったとき、湊はしばらく足を動かせなかった。
踏み固められた土の道が、ゆるやかに上へ延びている。道の両脇には低い石垣が続き、石の隙間から名前も知らない小さな黄色い花が顔を出している。坂の上、井戸の広場のほうから、夕餉の煙と、焼けたパンの匂いが下りてくる。
全部、知っていた。
石垣の三つ目の角が欠けていることも。その先の家の軒先に、干した玉葱が吊るしてあることも。ゲームの画面の中で、何百回も通り過ぎた景色だった。
違うのは、匂いがあることだ。音があることだ。左足を踏み出すたびに、牙鼠に噛まれた足首がずきりと痛むことだ。
湊は、髪を前に引っぱって、額を隠そうとした。前髪は眉にかかる程度しかない。角の根元まではとても届かなかった。手の甲の灰色も、どうしようもない。
考えたことは、ひとつだけだった。
ゲームでは、灰角族に石を投げてくるのは、一部の村人だけだ。話しかければ、渋々でも答えてくれる者もいる。宿屋の主人は高い料金をふっかけてくるが、泊めてはくれる。だから、もしかしたら。ここが本物の世界なら、ゲームより少しはましかもしれない。
そんな甘い考えに、すがっていた。腹が減っていた。足が痛かった。一晩、屋根の下で眠りたかった。
湊は、坂を上りはじめた。
途中で、子どもが三人、木の枝を振り回して遊んでいた。騎士ごっこらしい。一番小さな子が「やられたー」と叫んで、草の上に大の字に倒れる。他の二人が笑う。
湊は、子どもたちの横を、うつむいて通り過ぎた。笑い声は止まらなかった。気づかれていない。夕暮れの薄暗さが、灰色の肌を少しだけ隠してくれているのかもしれない。
坂の上に出た。
井戸のある広場だった。石を円く積んだ井戸。その脇の、パン屋の煙突。左手の柵の中では、羊が三頭、のんびりとこちらを見ている。広場の奥に風車がそびえていて、一枚だけ新しい羽根が、夕陽を浴びて白く光っていた。
井戸の前で、女がひとり、水を汲んでいた。
三十代くらいの、腕の太い女だった。釣瓶の縄を手繰りながら、鼻歌を歌っている。聞いたことのない歌だった。ゲームのBGMではない。この村の、誰かが昔から歌い継いできた歌なのだろう。
湊は、その歌を、少しだけ聞いていたいと思った。
女が、桶を井戸の縁に上げた。ふと顔を上げて、広場の入口を見た。
目が合った。
鼻歌が、途切れた。
女の顔から、すうっと色が引いていくのが、夕暮れの中でもはっきり見えた。女の目は、湊の顔ではなく、もっと上を見ていた。額だ。
桶が、女の手から滑り落ちた。
井戸の縁で一度跳ねて、石畳に落ちる。水がぶちまけられて、湊の足元まで流れてきた。
「——灰角!」
悲鳴は、思っていたよりずっと鋭かった。
広場に面した家々の戸が、次々に開いた。パン屋の窓から、粉のついた顔が覗く。鍛冶場の奥から、金槌を握ったまま男が出てくる。坂の下で遊んでいた子どもたちの笑い声が、ぴたりと止んだ。
「待ってくれ。違うんだって」
湊は、両手を上げた。武器を持っていないことを見せるつもりだった。腰のナイフが目に入ったのか、男たちの顔がさらに強張った。
「俺は何もしてねえって——」
言い終わる前に、何かが飛んできた。
とっさに首をすくめた。拳ほどの石が、耳の上をかすめていった。皮膚が裂ける熱さ。こめかみを、生温かいものが伝って落ちた。
「出てけ! 村さ入ってくんでねえ!」
投げたのは、粉まみれの前掛けをした大柄な男だった。太い眉。熊のような肩。前掛けの胸のあたりに、麦の穂の刺繍が入っている。
粉挽きのベンだ。
湊は、その男を知っていた。ゲームでロウェル村に着くと、最初に話しかけてくる村人だ。主人公に最初の依頼をくれる。「森の手前で薬草を摘んできてくれ」とか、「風車の羽根を直すのを手伝ってくれ」とか。灰角族で話しかけても、ベンだけは渋い顔をしながらも依頼をくれた。そして、どの依頼の最後にも、太い眉を下げて笑いながら、必ずこう言うのだ。
「息子を頼むよ。あいつ、すぐ森のほうさ行っちまうんだ」
その眉が、いまは恐怖と嫌悪で吊り上がっていた。
「ベン、さん」
思わず、名前が口から出た。
ベンの顔が、一瞬固まった。それから、さっきより激しく歪んだ。
「なんで……なんでおらの名前を知ってんだ」
「違う、俺は——」
「呪いだよ、これ」と、誰かが言った。井戸の女だった。「灰角は人の名前を盗むんだよ。うちのばあちゃんがそう言ってたもの」
空気が、変わった。
二つ目の石が飛んできた。今度は肩に当たった。三つ目は、腕で顔をかばって受けた。前腕の骨に響く、鈍い痛み。四つ目、五つ目。石は、広場のあちこちから飛んできた。もう誰が投げているのかもわからない。
「教団さ知らせろ!」ベンが怒鳴った。「ブラムウェルさ早馬だ! 今すぐ出すんだ!」
若い男がひとり、広場の奥の厩のほうへ駆けていった。
ゲームの中の灰角族は、村人に石を投げられる。ダメージは1。仲間内では、ちょっとした笑い話だった。灰角族で遊ぶときの、お約束の演出。
笑えなかった。
石は痛かった。痛いだけではない。石と一緒に飛んでくる目が、もっと痛かった。子どもを背中に庇う母親の目。鍬を構える老人の目。湊を人間として見ていない、獣か、汚物を見るような目。
倉庫でどれだけ浮いていても、こんな目で見られたことは、一度もなかった。
鍛冶場の男が、金槌を振り上げて、こちらへ歩いてきた。その後ろから、鍬や斧を手にした男たちが続く。
湊は、背を向けて走った。
*
左足を踏み出すたびに、足首の傷が開いていくのがわかった。
巻いた布の下で、何かが温かく滲んでくる。痛みが、走るリズムに合わせて脳天まで突き上げてくる。それでも、止まれなかった。背後で、男たちの怒鳴り声と、地面を蹴る重い足音が追ってくる。
頭は真っ白だった。それなのに、足は勝手に道を選んだ。
広場を右へ。パン屋の裏手に、人ひとり通れるほどの隙間がある。ゲームでは、ここを抜けると鍛冶場の裏庭に出る近道だった。湊は体を横にして、その隙間に滑り込んだ。肩が煉瓦の壁にこすれて、麻の服が裂けた。
鍛冶場の裏庭には、炭の山と、壊れた荷車が転がっていた。
「裏だ! 鍛冶場の裏へ回れ!」
声が、壁の向こうを回り込んでくる。湊は荷車の脇を抜けて、裏庭の奥の柵へ走った。柵の下から三本目の板が、腐って外れかけている。ゲームでは、ここを潜ると村の北側へ抜けられた。
板を蹴った。外れない。
もう一度。足首に体重がかかって、視界が一瞬白く弾けた。板が、ばきりと音を立てて折れた。
そのとき、背後で獣の唸り声がした。
振り向くと、鍛冶場の勝手口から、大きな犬が飛び出してくるところだった。黒い毛並みの、牧羊犬のような体つきの犬だ。犬は湊を見つけると、低く身を沈めて、牙を剥いた。
ゲームにはいなかった。この村に、番犬などいなかった。
考えている暇はなかった。湊は柵の穴に頭から飛び込んだ。肩が抜け、胸が抜け、腰が抜けかけたところで、左足首に何かが噛みついた。
牙鼠に噛まれたのと、同じ場所だった。
声にならない悲鳴が、喉から漏れた。犬が首を振る。体ごと、穴の内側へ引き戻されそうになる。湊は柵の向こう側の地面に爪を立てて、右足で、犬の鼻面を思いきり蹴った。
一度。二度。三度目で、犬が甲高く鳴いて、牙を離した。
湊は這うように柵を抜けて、立ち上がった。犬が穴に首を突っ込んで、狂ったように吠えている。体が大きすぎて、通れないのだ。
村の北側は、畑と、洗濯物の干された物干し場が広がっていた。
白い麻のシーツが、何枚も、夕風に揺れている。湊はその間に飛び込んだ。濡れた布が顔に張りつく。シーツの陰から陰へ、身を屈めて進む。背後で、柵の板が叩き割られる音がした。男たちが、穴を広げて抜けてこようとしている。
物干し場の先に、低い垣根があった。腰の高さほどの、からたちの垣根だ。棘がある。ゲームでは、ここは「飛び越えられる段差」として設定されていた。ボタンひとつで、キャラクターは軽々と越えていった。
湊は垣根に手をかけて、体を持ち上げた。
棘が、掌に刺さった。石で切った傷のすぐ横だった。足首の痛みで、踏み切りが甘くなる。体が垣根の上で引っかかり、腕と脇腹を棘が裂いていく。
それでも、湊は体をねじって、向こう側へ転がり落ちた。
土の上に仰向けになったまま、湊は空を見上げた。紫色になりかけた空に、二つの月が浮かんでいる。息が、全然整わない。肺が焼けるようだった。
起きろ、と自分に言った。
倉庫で、重い段ボールを一日中運んだ日の帰り道を思い出した。あの日も、足が棒のようになって、駐車場で座り込みそうになった。でも、座り込んだら最後、もう立てなくなると知っていた。
湊は、立ち上がった。
*
垣根の先、村の北の外れに、一軒の廃屋が立っていた。
屋根の一部が崩れ落ち、壁の漆喰はほとんど剥がれている。戸口には扉がなく、黒い四角い穴が口を開けている。
ゲームでは、昔この村にいた薬師の家だということになっていた。薬師はある日ふらりと村を出て、それきり戻らなかった。村人に話しかけると、そんな噂話を一言だけ聞かせてくれる。
湊は、その廃屋に転がり込んだ。
中は暗く、黴と鳥の糞の匂いがした。崩れた屋根の穴から、最後の夕陽が斜めに差し込んで、床に橙色の四角を落としている。割れた棚。散らばった陶器の破片。かつて薬草を干していたらしい、天井から垂れた縄。
湊は、床に膝をついた。
入口から、奥へ。床板を数える。一枚、二枚、三枚。四枚目。そこから、右の壁へ向かって。一枚、二枚。
爪を立てて、二枚目の板の縁を引いた。
動かない。
心臓が、一度大きく跳ねた。ここではないのか。ゲームとは、違うのか。
湊は指先で、板の縁をなぞった。釘の頭が、一本だけ飛び出している。ゲームでは、板は「調べる」を押すだけで外れた。でも、この板には、釘が一本残っていた。
腰のナイフを抜いて、刃先を板の隙間にねじ込んだ。てこの要領で、ゆっくりと持ち上げる。錆びた刃がしなる。折れるな、と祈った。
釘が、軋んだ音を立てて抜けた。
板が浮いた。
床下の土の上に、畳まれた布が置いてあった。
灰色の外套。
湊は、それを両手で持ち上げた。思ったより軽く、思ったより柔らかかった。何年もここにあったはずなのに、埃ひとつついていない。手触りは、絹のようでもあり、霧のようでもあった。
ゲームでは、序盤の隠しアイテムだった。発売から二か月後、湊が偶然見つけて、wikiに書いた。効果は、認識阻害。着た者の種族の見た目を隠し、NPCの反応を普通の人間と同じにする。灰角族で遊ぶなら、何をおいてもまず取りに来る装備だ。
ただし、雨に濡れると効果が切れる。
wikiの備考欄に、自分でそう書いた。
外の声が、近づいてきた。
「垣根を越えたぞ!」
「北だ、北の外れのほうだ!」
湊は外套を肩に羽織って、フードを深く被った。
その瞬間、肌の上を、薄い膜が覆っていくような感触があった。冷たくも温かくもない。ただ、何かに包まれた、という感覚だけがある。
手の甲を見た。
灰色だった肌が、見慣れた自分の肌の色に戻っていた。爪の色も、指の皺も、二十八年間見てきた、灰島湊の手だった。
額に触れた。角は、まだそこにある。指先に、硬い感触が確かにある。
視界の隅で、ステータス画面の装備欄が書き換わった。
〈灰色の外套:認識阻害(水濡れで解除)〉
触ればわかる。でも、見えないはずだ。ゲームの通りなら。
確かめる時間は、すぐに来た。
廃屋の戸口に、人影が立った。
若い男だった。二十歳くらい。鍛冶場の前掛けをしている。両手で、柄の長い熊手を握りしめていた。肩で息をしながら、薄暗い室内に目を凝らしている。
湊は、壁際にしゃがみ込んだまま、動けなかった。
男の目が、湊を捉えた。
熊手の先が、こちらを向いた。
「……誰だ、そこにいんのは」
湊は、息を止めた。
「あんた、どこの人だ? こんなとこで何してんだよ」
男の声には、警戒はあった。でも、さっき広場で浴びせられた、あの目ではなかった。獣を見る目ではない。見知らぬ人間を見る目だった。
「……旅の者です」
声が震えた。湊は、震えが疲れのせいに聞こえるよう祈った。
「街道で、日が暮れちまって。休める場所を探してたら、村が騒がしくて……怖くなって、ここに」
男は、しばらく湊を見ていた。それから、熊手の先を少し下ろした。
「灰角を見なかったか? 角の生えた、灰色の化け物だよ。こっちのほうへ逃げてきたはずなんだけどな」
「……さっき、垣根のほうを何かが走っていくのを見ました。北の柵のほうです」
嘘をつくのは、苦手だった。倉庫でも、在庫が合わないときは、正直に合わないと報告してきた。でも今は、舌が勝手に動いた。
「北の柵のほうか。わかった」
男は外を振り返って、それからもう一度、湊に目を戻した。湊の足元を見ている。足首に巻いた布が、血で黒く染まっていた。
「あんた、怪我してんのか」
「……転んだんです。暗くて、足元が見えなくて」
「そりゃ災難だったな」男は、ほんの少しだけ表情を緩めた。「灰角なんかがうろついてる晩にさ。あとで村長のとこに行けば、納屋くらいは貸してもらえるかもしれねえよ」
そう言い残して、男は廃屋を出ていった。外で「北の柵だ!」と叫ぶ声が聞こえ、足音が遠ざかっていく。
湊は、壁に背中を預けたまま、長く息を吐いた。
指が震えていた。止めようとして拳を握ると、掌の傷がまた開いた。
同じ人間だ。さっき湊に石を投げたかもしれない男が、外套一枚で、湊を気遣った。災難だったな、と言った。角が見えるかどうか。肌の色が見えるかどうか。それだけで、人の目は、あんなにも変わるのだ。
湊は、外套の襟をぎゅっと握りしめた。
ありがたかった。ありがたくて、同じくらい、胸の奥が冷えた。
*
外の声の調子が変わったのは、それから間もなくだった。
「ティオ! ティオ、どこだ!」
さっきまで湊を探していた男たちの声に、別の焦りが混じっている。怒りではない。もっと切羽詰まった、底の抜けたような声。
湊は、その名前を聞いた瞬間、顔を上げた。
ティオ。
知っている名前だった。
湊は廃屋の戸口まで這っていって、外を覗いた。北の柵のほうへ散っていった男たちが、ばらばらと広場へ駆け戻っていく。松明が灯りはじめていた。夕陽はもう、西の丘の稜線に、細い一筋を残すだけになっている。
湊は、フードを深く被り直して、廃屋を出た。
足首が痛んだ。でも、さっきほどではなかった。体が、痛みに慣れはじめているのかもしれない。湊は物干し場の脇を抜けて、広場へ続く路地に入った。
路地ですれ違った老人が、湊をちらりと見た。それだけだった。石は飛んでこない。誰も叫ばない。ただの、見知らぬ旅人として、湊は村の中を歩いていた。
広場には、村じゅうの人間が集まっていた。
井戸の前で、女がひとり泣き崩れていた。痩せた、小柄な女だ。その肩を、さっき湊に気づいた井戸端の女が抱いている。
「だから言ったじゃないのさ、森には行くなって……」
「月見草を摘んでくるって、言ってたの」泣いている女が、途切れ途切れに言った。「リナの熱が昨日から下がらなくて。月見草を煎じて飲ませれば下がるって、おばあちゃんが言ってたのを、あの子、聞いてて……止めたのよ。止めたのに……」
「ティオ兄ちゃん、森のほうへ行ったよ」と、子どもの声がした。さっき坂道で騎士ごっこをしていた子のひとりだった。「日が沈む前に、東の丘を走ってった」
「東って……」
誰かが呟いて、それきり、広場がしんと静まった。
村の東の丘を越えた先には、森がひとつしかない。
「東の丘の先といえば、黒狼の森だな」
年寄りの男が、低く言った。白い髭を胸まで垂らした男だ。周りの者が、その男に道を開けている。村長なのだろう。
「あの森は、もう狼の時間だ。夜が明けるまでは、誰も入ってはならん」
「ふざけんでねえ!」
怒鳴り声が、広場を震わせた。
ベンだった。
さっき湊に石を投げた太い腕が、薪割りの斧を握りしめている。粉まみれの前掛けのまま、ベンは村長に詰め寄った。
「夜が明けるまで待てってか? 明けたら何が残ってると思ってんだ!」
「ベン、落ち着きなさい」
「おらひとりでも行く。止めても行くかんな」
ベンが、東へ向かって歩き出した。その腕を、鍛冶場の男と、さっき廃屋に来た若い男が、二人がかりで掴んだ。
「離せ! 離せってば!」
「おめえまで死ぬ気かよ!」鍛冶場の男が怒鳴り返した。「黒狼は群れで来るんだぞ。斧一本でどうにかなる相手じゃねえ。去年、隣村の猟師が三人食われたのを忘れたのか!」
「あいつは、おらの息子だ!」
ベンは、二人を引きずったまま、何歩か前へ進んだ。それから、膝が折れた。斧が手から落ちて、石畳の上で鈍い音を立てた。
大きな背中が、丸くなって、震えていた。
「……リナに月見草を摘んでやるって……あいつ、そう言ってたんだべ……」
誰も、何も言わなかった。泣いている女の嗚咽だけが、暗くなりかけた広場に響いていた。
湊は、人垣の後ろに立ったまま、それを見ていた。
*
知っている。
ゲーム開始一日目の、夕暮れ。粉挽きの息子ティオは、熱を出した妹のために、月見草を摘みに黒狼の森へ入る。日が完全に沈んで、灰月が東の丘の上に昇りきる前に、プレイヤーが森へ向かえば、狼に囲まれた少年を救える。向かわなければ——翌朝、森の入口で、少年の青い襟巻きだけが見つかる。
イベント名、《夕暮れの迷子》。
NPCの死亡フラグ一覧のページで、いちばん最初に載せたイベントだった。湊がいちばん時間をかけて、検証したイベントでもある。何分までなら間に合うか。どの道を通れば最短か。狼の群れは何頭で、どう動くか。
全部、覚えている。
湊は、東の空を見た。白月と灰月が、さっきより高くなっている。灰月が丘の上に昇りきるまで、あと、どれくらいだろう。ゲームの時間なら、走って間に合う。この足なら、わからない。
村の男たちは、森へ入らない。入れないのだ。黒狼の森の推奨レベルは5。群れで動く狼を相手にできる者は、この村にいない。だからゲームでは、主人公が行くしかなかった。
湊のレベルは、1だ。
成長率最低の、灰角族。錆びたナイフが一本。左の足首は、二度噛まれて血が止まらない。掌は裂けて、棘が刺さったままだ。牙鼠を三匹相手にしただけで、吐くほど震えた。
そして、ここで死んだら、たぶん本当に終わる。
それに、あそこで膝をついているのは、ついさっき湊に石を投げた男だ。湊の名前の呼び方ひとつで、呪いだと言われた。化け物だと言われた。あの目で見られた。
行く理由が、どこにある。
湊は、外套の襟を握った。今なら、この外套がある。誰にも気づかれずに、この村を出られる。街道を歩いて、どこか別の町へ行けばいい。ゲームの知識があれば、生きていく方法はいくらでもあるはずだ。
「……知るかよ」
口の中で、そう言った。
言いながら、思い出していた。
十八歳の夏。萎れた花が一本だけ落ちていた、あの石畳。名前もない花売りの少女。間に合わなかった、あの夜。
たかがゲームのNPCだった。それでも、湊は泣いたのだ。そしてその次の日から、間に合わせるために、全部を調べはじめた。
ここには、湊が間に合えば助かる人がいる。湊が覚えていれば、死なずに済む子どもがいる。
ゲームの画面の中では、ない。本物の、ここに。
湊は、腰のナイフの柄を、確かめた。
知っているのだ。あの襟巻きが、どんな青をしているか。
*
人垣を抜けて、湊は東へ歩き出した。
広場の端を通り過ぎようとしたとき、太い声が、湊の背中にかかった。
「おい、あんた」
振り向くと、ベンが、膝をついたまま、こちらを見上げていた。
「あんた、旅の人だべ? どこさ行くんだ。そっちは東の丘だぞ」
湊は、フードの下で唇を噛んだ。それから、短く答えた。
「森に行きます」
ベンの目が、見開かれた。
広場の空気が、また変わった。何人かが、湊を見た。正気か、という目だった。鍛冶場の男が何か言いかけて、口を閉じた。
ベンは、ゆっくりと立ち上がった。湊の前まで歩いてきて、湊の両腕を、大きな手で掴んだ。粉の匂いがした。手が、震えていた。
「……あんた、狼とやり合えるのか」
「正直、わかりません」
嘘ではなかった。
「でも、森の中の道なら知ってます」
ベンは、長いあいだ、フードの奥の湊の顔を見ていた。見えているのは、ただの人間の顔のはずだった。角も、灰色の肌も、隠されたまま。
やがて、ベンの太い眉が、ゆっくりと下がった。
笑ってはいなかった。泣きそうな顔だった。それでも、その眉の形を、湊は知っていた。三千時間、何百回も見てきた形だった。
「頼む……頼むよ」
ベンは、掠れた声で言った。
「息子を、頼む。あいつ、すぐ森のほうさ行っちまうんだ」
ゲームで何百回も聞いた台詞と、ほとんど同じ言葉だった。ただ、ゲームのベンは、こんなふうに声を震わせたりはしなかった。
湊は、返事ができなかった。喉の奥で、何かが詰まっていた。ただ、小さく頷いた。
ベンの後ろから、泣いていた女が駆け寄ってきた。ティオの母親だ。女は湊の手に、布に包んだ何かを押しつけた。温かかった。パンだった。
「顔が真っ青じゃない。何も食べてないんでしょ?」女は、涙で濡れた顔のまま言った。「お願い……お願いします」
湊は、パンを握りしめて、もう一度頷いた。
それから、東の丘へ向かって、走り出した。
左足が痛んだ。走りながら、パンにかぶりついた。固くて、少し焦げていて、麦の味がした。涙が出そうなくらい、美味かった。
背中で、ベンの声がもう一度聞こえた気がした。振り向かなかった。
あの男は、自分が誰に息子を頼んだのか、知らない。
夕陽の最後の一筋が、西の丘の向こうに消えた。東の空で、灰色の月が、ゆっくりと丘の上へ昇りはじめていた。




