第一話 二つの月
最初に来たのは、匂いだった。
湿った土と、青い草。それから、どこか遠くで焚かれている薪の煙。部屋の匂いではなかった。カップ麺の残り香も、ジャージに染みついた柔軟剤の匂いもない。
次に来たのは、音だった。
風が草を撫でる音。虫の声。耳のすぐそばで、何かが小さく跳ねる音。国道を走るトラックの低い唸りは、どこにもなかった。
灰島湊は、目を開けた。
空が広かった。
アパートの窓から見上げる、電線に切り取られた空ではない。視界の端から端まで、何にも遮られない空が、ぶちまけたように広がっていた。日は西に傾きはじめていて、雲の縁が金色に光っている。
その空の東の端に、月が二つ浮かんでいた。
まだ昼の明るさが残っているせいで、どちらも白く透けて見える。ひとつは大きく、右の縁が齧られたように欠けている。もうひとつは少し小さく、灰色がかっていて、こちらは左側が欠けていた。二つ並ぶと、割れた皿の破片を空に貼りつけたように見えた。
湊は、その二つの月を知っていた。
白月と、灰月。『アルカディア・レクイエム』のタイトル画面の背景に、毎回映っていた月だ。三千時間のあいだ、ゲームを起動するたびに見てきた。落ちていく闇の底で最後に見た、二つの光と同じ形をしていた。
「……は?」
声が出た。自分の声だった。少し掠れているが、確かに自分の声だ。
体を起こした。草の上に寝ていたらしい。背中に、湿った土の冷たさが残っている。周りは見渡す限りのなだらかな草原で、ところどころに白い岩が顔を出している。少し先に、丘の稜線が見えた。
夢だ、と思った。
騎士を倒したあと、そのまま机で寝落ちしたのだ。そうに決まっている。三週間、まともに寝ていなかった。こういう夢を見ても、おかしくない。
そう思いながら、湊は額に手をやった。寝起きにいつもする癖だった。
指先に、硬いものが触れた。
二つ。髪の生え際の少し上、左右対称に、小さくて硬い突起が生えている。親指の先ほどの大きさ。爪で叩くと、こつ、と骨のような音がした。
湊は、ゆっくりと手を下ろした。
自分の手の甲を見た。
色が、おかしかった。日焼けでも、血色が悪いのでもない。雨上がりの石畳のような、くすんだ灰色をしている。指の形は自分のものだ。中指の第一関節にある、ボールペンだこもそのままある。七冊のノートに、騎士の剣の落ちる位置を書きつづけてできた、硬いたこだ。それなのに、色だけが違う。
袖をめくった。腕も灰色だった。着ているのはジャージではなく、ごわごわした生成りの麻の服で、腰には革紐が巻かれている。紐には、鞘に入った小さなナイフが一本差してあった。
灰角族。
その言葉が、頭の中で勝手に形になった。
額に二本の角を持ち、灰色の肌をした、この世界でいちばん嫌われている種族。湊が三週間、四十二回の挑戦を共にしたキャラクターの、種族だ。
「……いや」
湊は首を振った。
「いやいやいや、ないって。さすがにそれはないだろ」
独り言が止まらなかった。口を動かしていないと、何かが崩れてしまいそうだった。
夢なら、覚めるはずだ。湊は自分の頬をつねった。痛い。でも、夢の中でも痛いことはあるらしい。どこかでそう聞いた。じゃあ、どうやって確かめればいい。
立ち上がろうとして、湊は右手を地面についた。
草の陰に、尖った石があった。
体重をかけた掌に、石の角が食い込んだ。皮膚が裂ける感触がして、湊は思わず手を引いた。掌に、一センチほどの赤い線が走っている。線はすぐに膨らんで、丸い血の粒になった。
痛い。
つねったときとは、比べものにならなかった。じんじんと脈を打つ熱が、掌から手首へ、手首から肘へと伝わってくる。心臓が打つたびに、傷口が小さく疼く。
血の粒が、掌の皺に沿って流れた。灰色の肌の上で、血は、ちゃんと赤かった。
湊は、その赤を、長いあいだ見つめていた。
これは、夢ではない。
頭のどこかが、静かにそう告げていた。どれだけ否定しようとしても、この痛みと、この匂いと、この風の冷たさが、否定させてくれなかった。夢は、こんなに細かくない。草の一本一本の匂いまで、こんなにはっきりしていない。
湊は膝を抱えて、しばらく動けなかった。
*
どれくらいそうしていたのか、わからない。
日の傾きが少し変わったことに気づいて、湊はようやく顔を上げた。喉が乾いていた。鼻の奥がつんとして、目の縁が熱かった。泣いていたのかどうかは、自分でもよくわからなかった。
考えなければいけない、と思った。
倉庫で、数字が合わないときと同じだ。まず、今ある数字を全部並べる。合っているものと、合っていないものを分ける。棚番号B-14-3。伝票は四十八、箱は四十七。足りない一箱は、たいてい隣の棚に紛れている。
ここは、たぶん『アルカディア・レクイエム』の世界だ。空に二つの月がある。自分は灰角族になっている。それなら——
「ステータス」
口に出したのは、ほとんど冗談のつもりだった。
視界の左上に、半透明の板が浮かんだ。
湊は、思わず後ろにのけぞった。板はのけぞった湊についてきて、視界の同じ位置に浮かんだまま、動かない。
名前:ミナト
種族:灰角族
レベル:1
筋力 3 耐久 3 敏捷 4
魔力 2 精神 5 感知 4
スキル:《継承》 成功率:――
装備:錆びたナイフ/麻の服
器:―
見慣れたステータス画面だった。
フォントも、枠線の色も、ゲームと同じだ。灰色がかった半透明の板に、白い文字。三千時間、何万回と開いてきた画面が、現実の空を背景にして浮かんでいる。
レベル1。湊のキャラクターは、ついさっきまでレベル20だった。四十分かけて取り戻した、あのレベル20だ。名前は、ゲームで使っていたハンドルと同じ「ミナト」。種族は灰角族。能力値は、灰角族の初期値そのままだ。
全部が、ゲームの最初の状態に戻っていた。
違うところは、二つだけだった。
ひとつ目は、《継承》の横の成功率が、空欄になっていること。
《継承》は、灰角族だけが持つ固有スキルだ。倒した相手のスキルを、一つだけ自分のものにできる。説明文だけ読めば、ゲームで一番強いスキルと言ってもいい。だが、ゲームでの成功率は「0.01%」と表示されていた。一万回に一回しか成功しない。
湊は三千時間で、一度も成功させたことがない。灰角族で数えきれないほどの敵を倒してきたのに、一度もだ。だからwikiのスキルのページに、こう書いた。〈飾り。期待するな〉。
その0.01%が、空欄になっている。
ふたつ目は、最下段の一行。
〈器:―〉
こんな項目は、ゲームのどこにもなかった。三千時間遊んだ湊が言うのだから、間違いない。解析されたデータの中にも、「器」という単語は、少なくともステータスに関わる場所には一度も出てこなかった。あの黒い画面の問いと、同じだ。データにないはずのものが、ここにはある。
湊は板の縁に手を伸ばした。指先は、板を素通りした。見えるのに、触れない。
「……なんだよ、器って。こんなの見たことねえぞ」
答える声はなかった。草がざわめいて、遠くで鳥が一羽、甲高く鳴いた。
湊は、思いつく限りの言葉を口に出してみた。
「メニュー」
何も起きない。
「インベントリ。持ち物。アイテム」
何も起きない。
「ログアウト」
言ってから、喉の奥が冷たくなった。何も、起きなかった。
「ログアウト。……おい、ログアウトだって。タイトルに戻るでも終了でもいい。セーブして終了でいいから」
声がだんだん大きくなった。最後のほうは、ほとんど叫んでいた。草原に、自分の声だけが吸い込まれていく。誰も答えない。板は、さっきと同じ位置に、さっきと同じ文字を浮かべている。
湊は、口を閉じた。
出られない。
あの部屋には、帰れない。
机の上のカップ麺の容器のことを思った。たぶん、あのまま腐っていく。佐伯さんにもらった缶コーヒーは、車のカップホルダーに置いたままだ。月曜日には倉庫のシフトが入っている。湊が来なければ、班長が電話をかけてくるだろう。出ない。二回目も出ない。三回目で、たぶん諦める。契約社員がひとり来なくなっても、倉庫は回る。
それから、スマホの通知のことを思った。
〈正月は帰ってくるの?〉
返事を、していない。
今年は帰るか、と呟いたのだ。ほんの数時間前に。明日にしよう、と思ったのだ。明日なんて、いくらでもあると思っていた。
湊は、灰色の手で顔を覆った。掌の傷が、目の下で鈍く疼いた。
*
水の音が聞こえたのは、立ち上がって少し歩いたときだった。
草原のくぼみに、細い小川が流れていた。幅は一歩で跨げるほど。水は驚くほど澄んでいて、底の小石が一つ一つ数えられる。
喉の渇きが、急に耐えられなくなった。湊は膝をついて、両手で水をすくった。生水を飲んで大丈夫なのか、という考えが一瞬よぎったが、手はもう口元まで来ていた。
冷たかった。歯に沁みるほど冷たくて、ほんの少しだけ、土と石の味がした。湊は何度もすくって、喉を鳴らして飲んだ。掌の傷に水が沁みて、顔をしかめた。
水面が静まったとき、そこに顔が映った。
湊は、手を止めた。
自分の顔だった。少し伸びすぎた前髪。眠そうに見えるとよく言われる、幅の狭い二重の目。左の眉の端にある、小学生のときに自転車で転んでできた小さな傷。全部、二十八年間鏡で見てきた、灰島湊の顔だ。
ただ、色が違った。肌は、石畳のような灰色。瞳も、もとの焦げ茶色ではなく、薄い灰色に変わっている。そして、額の上には二本の角。水面の中の自分が、知らない種族の顔をして、こちらを見返していた。
ゲームのキャラクターの顔ではない。湊がキャラクター作成で選んだのは、もっと鋭い目つきの、いかにも主人公らしい顔だった。
これは、自分の顔のまま、灰角族になった顔だ。
湊は、水面に映る角に、そっと触れた。冷たい水の中の角は、指を近づけると揺れて、崩れた。
「……似合わねえな、これ」
小さく呟いて、湊は少しだけ笑った。笑うと、水面の灰色の男も、同じように口の端を歪めた。
*
小川の脇に座り込んで、湊は考えた。
この世界がゲームと同じなら、ここは大陸の南西の端だ。草原と、二つの月と、遠くの丘。ゲームの序盤に何度も見た景色に似ている。丘を越えた先に、たぶん村がある。
でも、いちばん大事なことは、別にあった。
デスペナルティ。
ゲームでは、死ぬとレベルが一つ下がる。それだけだ。だから湊は、何百回でも死ねた。騎士に四十一回殺されても、四十二回目に挑めた。死んで、敵の動きを覚えて、また挑む。それが、この世界での生き方だった。
でも、ここで死んだら、どうなるのか。
掌の傷を見た。血はもう固まりかけて、黒っぽい線になっている。この傷の痛みは本物だ。だったら、もっと大きな傷の痛みも、本物だろう。剣で斬られる痛みも。牙で喉を裂かれる痛みも。
レベルが一つ下がって、どこかで目を覚ますのか。それとも、それきりなのか。
確かめる方法は、ひとつしかない。そして、その方法だけは、絶対に試せない。
「……死なない。死んだら終わりなら、一回も死なないで攻略するだけだろ」
声に出した。ボス戦の前に手順を唱えるときと、同じ声で。
そのときだった。
背後の草むらが、がさりと鳴った。
湊は振り向いた。草の葉の間から、何かが顔を出していた。茶色い毛並み。丸い耳。黒く濡れた鼻。大きさは、中型の犬くらいある。
口の両端から、黄ばんだ牙が二本、下向きに突き出していた。
牙鼠だ。
ゲームで、最初に戦う魔物だった。始まりの草原にしか出ない、最弱の敵。体力は低く、攻撃は単純で、レベル1のキャラクターでも三回斬れば倒せる。wikiの魔物ページには、湊が一行だけ説明を書いた。〈チュートリアル。気にするな〉。
ゲームの中の牙鼠は、画面の端で小さく跳ねている、愛嬌のある魔物だった。
目の前の牙鼠は、違った。
大きい。毛の一本一本が、夕陽を浴びてぎらついている。湿った鼻がひくひくと動き、湊の血の匂いを嗅いでいる。口の端から、粘ついた涎が糸を引いて垂れた。
生き物だった。腹を空かせた、生き物だった。
草むらが、もう二か所で鳴った。左右から、同じ茶色い頭が二つ。
三匹。
湊は、腰のナイフを抜いた。手が震えて、鞘から抜くのに二度失敗した。刃は錆びて、ところどころ茶色く曇っている。こんなもので、本当に斬れるのか。
頭の中で、手順が勝手に浮かんだ。
——牙鼠は、まっすぐ突進してくる。曲がらない。
——狙うのは足首。必ず、低く来る。
——突進のあと、一秒止まる。そこが隙。
正面の牙鼠が、後ろ脚に力を溜めた。
来る。
湊は右へ跳んだ。跳んだつもりだった。
体が、思ったように動かなかった。ゲームのキャラクターなら一瞬で横に滑る距離を、湊の足はもつれながら半分しか進まなかった。敏捷4。レベル1の、灰角族の体。三千時間の指先の感覚に、この体は少しもついてこない。
左の足首に、焼けるような痛みが走った。
牙鼠の牙が、ズボンの布ごと肉に食い込んでいた。湊は悲鳴を上げた。上げたつもりはなかったのに、喉から勝手に溢れた。牙鼠は首を左右に振って、肉を引きちぎろうとする。痛みで視界が白くなる。
一秒止まる。そこが隙。
止まらない。噛みついたまま、離さない。ゲームでは、噛みつきは一瞬のモーションだった。噛んで、離れて、一秒止まる。でも、生きている牙鼠は、獲物に食らいついたら離さないのだ。考えれば当たり前だった。
左右から、残りの二匹が距離を詰めてくる。
湊は、噛みついている牙鼠の背中に、ナイフを振り下ろした。
錆びた刃は、思ったより深く入らなかった。分厚い毛と皮に阻まれて、肉に届いた感触が浅い。牙鼠が甲高く鳴いて、牙がさらに深く食い込む。
「離せ……っ、離せよ!」
二度、三度。刃を振り下ろすたびに、手首まで衝撃が響く。四度目で、刃が骨と骨の隙間に滑り込んだ。牙鼠の体が、びくりと痙攣した。
牙が、緩んだ。
湊は足を引き抜いて、転がるように後ろへ下がった。左の足首から血が流れて、草を濡らしている。
右から、二匹目が跳んできた。
今度は、待った。足がまともに動かないなら、跳ぶのはやめる。湊はその場で膝をつき、低く飛び込んでくる牙鼠の鼻面に、正面からナイフを突き出した。刃が届く瞬間、怖さに負けて、目を固くつぶってしまった。
狙ったわけではなかった。ほとんど偶然だった。刃は牙鼠の開いた口の中に入り、牙鼠の勢いがそのまま、刃を喉の奥へ押し込んだ。
牙鼠が、湊の胸にぶつかって、止まった。
湊は牙鼠の体を抱えたまま、仰向けに倒れた。牙鼠の重みが胸の上にある。生温かい。腹のあたりが、まだ小さく上下している。ナイフの柄を伝って、温かい液体が湊の手に流れてくる。
やがて、上下が止まった。
湊は目を開けて、牙鼠の体を横へ押しのけ、上半身を起こした。
最初に噛みついてきた一匹は、背中にいくつも傷を負ったまま、草むらの縁でうずくまっていた。もう動けないらしい。三匹目は、少し離れたところで足を止めて、こちらを見ている。
湊は、ナイフを握りしめたまま、その三匹目を睨んだ。睨んだつもりだった。たぶん、ひどく怯えた顔をしていた。
三匹目は、しばらく鼻をひくつかせてから、くるりと背を向けて、草むらの奥へ消えた。
風が、草を撫でていった。
湊は、うずくまっている一匹目に近づいた。牙鼠は湊を見上げて、弱々しく牙を剥いた。でも、もう立ち上がる力はないようだった。
このまま放っておけば、苦しんで死ぬ。
湊は、牙鼠の首の後ろに、ナイフを突き立てた。牙鼠は顔を地面に伏せたまま、小さく鳴いて、動かなくなった。
視界の端で、何かが光った。
〈経験値を獲得しました〉
それだけだった。レベルは上がらない。最弱の魔物を二匹倒した程度では、ゲージがほんの少し動くだけだ。《継承》も、何も言わなかった。当たり前だ、と湊は思った。一万回に一回のスキルなのだから。
湊は、二匹の牙鼠の死骸を見下ろした。
チュートリアル。気にするな。自分の書いた一行が、頭の中で乾いた音を立てた。
胃の奥から、何かがせり上がってきた。湊は小川のほうへ顔を向けて、吐いた。さっき飲んだ水が、ほとんど全部出てきた。吐いても吐いても、喉の奥から酸っぱいものが上がってくる。
手が、震えていた。牙鼠の血が、灰色の指の間で乾きかけている。
ゲームでは、何万匹倒したかわからない。灰の湿原の泥人形も、ついさっきまで四十分かけて斬りつづけていた。倒した魔物は、光の粒になって消えた。こんなふうに、温かいまま、重いまま、そこに残ったりはしなかった。
湊は小川で手を洗った。何度も洗った。血は落ちても、手の中に残った重みは、落ちなかった。
左の足首を見た。ズボンの裾をまくると、牙の跡が二つ、深く穿たれていた。血は止まりかけているが、歩くたびに痛むだろう。湊は麻の服の裾を少し裂いて、足首にきつく巻いた。倉庫の安全講習で習った止血の仕方を、こんなところで思い出すとは思わなかった。
それから、湊は立ち上がった。
足首が痛む。掌が痛む。胃が空っぽで、喉がひりひりする。それでも、歩けた。
*
丘を登りきったときには、日はもう西の地平に半分沈みかけていた。
空の色が、紫と橙の境目で燃えている。東の空では、二つの月がさっきよりはっきりと輪郭を持ちはじめていた。白月と、灰月。どちらも、端が欠けたまま。
丘の下に、屋根が見えた。
十数軒の木造の家が、なだらかな斜面に寄り添うように並んでいる。煙突から、細い煙がいくつも立ちのぼっている。村の真ん中には井戸があって、その脇に、風車がひとつ。村の入口から井戸の広場まで、ゆるやかな坂道が一本延びている。
風車の羽根は、一枚だけ色が新しかった。直したばかりの、白っぽい板だ。
湊は、その羽根を知っていた。
ゲームでは、村に着いた最初の日、風車の羽根が一枚だけ新しい。村人に話しかけると、先週の嵐で折れたのを、粉挽きが自分で直したのだと教えてくれる。何の意味もない、ただの背景の一部だ。湊は、それを三千時間のうちに、何百回も見た。
あの坂道もそうだ。灰角族のキャラクターで、石を投げられながら、何度も上り下りした坂道。湊がこの世界でいちばん好きだった場所。
ロウェル村。
すべての冒険が、始まる場所だった。
湊は、丘の上に立ったまま、しばらくその屋根を見下ろしていた。夕方の風が、灰色の頬を冷やしていく。村から、かすかに子どもの笑い声が聞こえた。夕餉の支度の匂いが、風に乗って届いた。
腹が、鳴った。
間抜けな音だった。湊は思わず、腹を押さえた。最後に口にしたのは、冷めたカップ麺のスープだった。こんなときでも、腹は減るのだ。
あの村に行けば、何か食べられるかもしれない。休める場所があるかもしれない。この世界のことを、もっと知ることができるかもしれない。
灰角族が、あの村でどう迎えられるかは、知っていた。ゲームでは、石を投げられる。ダメージは、1だ。
でも、ここでは、たぶん1では済まない。
湊は、額の角に一度だけ触れた。それから、痛む足を引きずって、丘を下りはじめた。




