序 黒い画面
棚番号B-14-3。伝票の数字は四十八。棚の上の段ボールを数えると、四十七しかない。
灰島湊は、もう一度数え直した。やはり四十七だった。それから隣のB-14-4を覗くと、同じ品番の箱がひとつ、紛れ込んでいた。
箱を正しい棚に戻して、伝票にチェックを入れる。数字が合った。
湊は小さく息を吐いた。合わない数字を見つけて、合わせる。それが湊の仕事だった。物流倉庫の在庫管理。契約社員になって、七年目になる。
合わない数字を見つけると、少しだけ安心する。自分がここにいる理由が、ひとつ増える気がするからだ。
検品の終わった台車を戻しに行くと、休憩所の自販機の前で、パートの佐伯さんが缶コーヒーを二本持って立っていた。五十代の、よく笑う人だ。
「灰島くん、これ一本あげる。間違えて二回押しちゃった」
「あ、すみません。ありがとうございます」
受け取ると、まだ温かかった。佐伯さんは自分の缶を開けながら、何気ない調子で聞いた。
「灰島くんってさ、休みの日って何してんの?」
湊は、缶を持ったまま固まった。
ゲームです、と言えばいい。それだけのことだ。でも、口が動かなかった。十年前のゲームを、毎晩、もう三千時間。そう言ったときの佐伯さんの顔を、想像してしまった。
「……まあ、ぼちぼち、です」
「ぼちぼちかあ」と佐伯さんは笑った。「若いんだから、もっと遊びなよ。うちの息子なんて、休みのたびにどっか行ってるよ」
湊は曖昧に笑って、頭を下げた。
遊んでいるのだ、と思った。誰よりも遊んでいる。ただ、それを誰にも言えないだけで。
*
帰りの車の中で、缶コーヒーは飲まずに、カップホルダーに置いたままにした。
国道沿いのコンビニでカップ麺を一つ買って、築三十年のアパートに帰る。六畳のワンルーム。玄関を開けると、昨夜のまま、モニターの電源ランプだけが小さく光っていた。
お湯を沸かす間に、パソコンとゲーム機の電源を入れる。湯を注いで三分待つ間に、タイトル画面が立ち上がる。
空に浮かぶ、二つの月。
白い月と、灰色の月。どちらも端が欠けていて、並ぶと割れた皿の破片を空に貼りつけたように見える。その下に、古い書体のタイトルが浮かび上がる。
『アルカディア・レクイエム』。
十年前に発売された、小さなスタジオのゲームだった。開発はラストランタン。死ぬとレベルが一つ下がる。セーブは選べず、すべてが勝手に記録される。初見では避けようのない罠や攻撃が、そこかしこに仕掛けてある。発売当初は「理不尽すぎる」「正気か」と散々に叩かれ、半年で話題から消えた。スタジオは、翌年に解散した。
それでも、ごく一部の人間だけが、この世界から離れられなかった。湊は、その一部の中でも、いちばん最後まで残った一人だった。
カップ麺をすすりながら、スマホで攻略wikiの更新履歴を開く。最終更新者の欄には、湊のハンドルネームしか並んでいない。三か月前の更新も、半年前の更新も、全部湊だ。
かつては、一緒に遊ぶ仲間もいた。
ノクトというハンドルの男で、湊より三つ年上だった。二人で夜通し通話をつなぎ、ボスの攻撃パターンを一つずつ書き出した。wikiの骨組みを作ったのは、ほとんどノクトだ。湊がまだ学生だった頃、ノクトはよく「お前、覚えるのだけは異常に早いな」と笑った。
四年前の春、ノクトから短いメッセージが届いた。
〈結婚することになった。たぶんもう、ゲームする時間はない。wikiは任せた〉
湊は〈おめでとう〉と返した。それきり、ノクトのアカウントは一度もログインしていない。
任された、と思った。だから続けた。最初は、そういう理由だった。いつからか理由はなくなって、続けることだけが残った。
そして今、湊には、あと二つだけやり残したことがあった。
『アルカディア・レクイエム』の実績は、全部で百二十個ある。湊がこれまでに解除したのは、百十八個。
残りのひとつは、《語られぬ終章》。解除条件が、誰にもわかっていない実績だ。wikiの該当ページには、三年前に湊自身が書いた一文が、今もそのまま残っている。
〈解除条件不明。情報求む〉
情報は、ひとつも来なかった。来るはずがない。
そして、もうひとつが《灰は灰へ》。灰角族のキャラクターで、最後のボスを倒すと解除される。
灰角族は、この世界でいちばん嫌われている種族だ。額に二本の角があって、肌は灰色。人間の村に入れば石を投げられ、店では高値をふっかけられ、教会の扉は目の前で閉められる。おまけに、性能も最悪だった。レベルの上限は20。成長率は全種族で最低で、取得経験値も他の種族より二割少ない。wikiの種族ページに「おすすめしない。本当に」と書いたのも、湊だ。
最後のボスは、王都の地下の最深部、《沈黙の玉座》で待っている。名前の表示されない騎士で、体力ゲージの上には「???」としか出ない。攻略サイトでは、ただ「名もなき騎士」と呼ばれている。普通の種族なら、レベル40前後で挑む相手だった。
それを、上限レベル20の灰角族で倒す。
《灰は灰へ》の達成者は、世界で三人しかいない。三人とも、海外の動画で見ただけの名前だった。
湊がこの挑戦を始めたのは、三週間前だった。昨夜までに、四十一回死んだ。
騎士の戦い方は、三つの段階に分かれている。第一段階は剣の連撃。第二段階は、床が崩れる。ここまでは、湊は何度も越えた。
越えられないのは、第三段階だった。
騎士が剣を床に突き立てると、天井の闇から六本の影の剣が降ってくる。四十一回の死のうち、二十九回はそこだった。
柱の陰に飛び込んだ回は、柱ごと貫かれた。穴の縁に沿って走った回は、三本目が進路の先に落ちてきた。回復薬を三本まとめて飲んで、体力を満タンにして耐えようとした回もある。六本のうち四本までは耐えた。五本目で、ゲージが空になった。
影の剣は、プレイヤーを狙って落ちてくるのではない。プレイヤーが「逃げた先」を狙って落ちてくる。それに気づいたのは、二十回目を過ぎた頃だった。気づいても、どうにもならなかった。どこへ逃げても、逃げた先が狙われるのだから。
死ぬたびに、湊はノートに書いた。何本目の剣が、どの位置に、何秒後に落ちたか。机の引き出しには、そういうノートがもう七冊ある。ボールペンの文字は、だんだん小さく、汚くなっていった。
ただ、ひとつだけ引っかかっていることがあった。
三十八回目の死の直前。影の剣が降ってくる瞬間、湊は操作を誤って、騎士の真正面に向かって転がってしまった。そのとき、一本目の剣が、背中をかすめただけで外れたのだ。結局その直後に、二本目で死んだ。でも、あれは偶然ではなかった気がする。
騎士の、真正面。誰もが一番危ないと思って避ける場所。
試すには、まずレベルを戻さなければならなかった。
昨夜の四十一回目の死で、湊のキャラクターはレベル19に下がっていた。死ねばその場でレベルが下がり、その状態が勝手に記録される。やり直しはきかない。下がったレベルは、自分の手で取り戻すしかない。
*
レベルを取り戻す狩り場は、王都の東に広がる《灰の湿原》だった。
膝まで水に浸かった枯れ草の原に、泥人形のような魔物が群れで湧く。一体ごとの経験値は少ないが、湧く速さが異常に早い。三体倒せば、次の三体がもう泥の中から起き上がっている。灰角族がレベル19から20に戻るには、ここがいちばん効率がいい。それでも、四十分かかる。
湊はキャラクターを、湿原の中央の小島に立たせた。ここなら、魔物は三方向からしか来ない。
泥人形が、左から腕を振りかぶる。湊は一歩下がって空振りさせ、伸びきった腕の付け根を斬る。正面の一体が泥を吐く。吐く前に首を引く癖がある。首が引いた瞬間に横へ。泥が水面を叩いて、しぶきが上がる。右の一体は動きが遅い。後回しでいい。
考えるより先に、指が動く。三千時間で体に刻まれたリズムだ。
斬る。下がる。避ける。斬る。泥人形が崩れて、経験値の数字が画面の端に小さく浮かんでは消える。
二十分ほど経ったところで、湿原の縁を、王都の巡回兵が二人通りかかった。湊のキャラクターに気づくと、兵士の一人が足を止めて、足元の石を拾った。
投げられた石が、キャラクターの頭に当たる。〈1〉という白い数字が浮かぶ。
「灰角だ、近寄るな」
兵士の台詞が、画面の下に表示される。何千回も見た台詞だった。灰角族でいる限り、この世界の人間は、こうやって石を投げてくる。ダメージは、いつも1だ。
湊は兵士を無視して、次の泥人形に向き直った。
ゲームを始めたばかりの頃、この演出が嫌いだった。石を投げられるたびに、なぜか自分が投げられたような気がして、灰角族を使うのをやめた。また使いはじめたのは、実績のためだ。それ以外の理由はない。
はずだった。
気がつくと、湊はこの種族で、もう何百時間も遊んでいた。石を投げられ、店で高値をふっかけられながら、このキャラクターで歩く始まりの村の坂道が、湊はいちばん好きになっていた。嫌われ者のまま、それでも誰かを助けに行く。それが、妙に性に合っていた。
経験値のゲージが、端まで満ちた。
〈レベルが上がりました:19→20〉
時計を見ると、午前二時二十五分だった。机の端では、食べかけのカップ麺がすっかり冷めて、スープの表面に薄い膜が張っていた。
*
湊はキャラクターを、王都の地下へ向かわせた。
崩れかけた石段を下り、骨の散らばる回廊を抜け、黒い水の溜まった広間を渡る。道中の敵は、もう目をつぶっていても倒せる。
最深部の扉の前で、湊はキャラクターを止めた。
コントローラーを膝に置いて、両手で顔をこすった。指の腹が脂っぽい。それから目を閉じて、息を吸った。
ボスに挑む前、湊はいつも手順を声に出して唱える。ノクトと遊んでいた頃からの癖だった。口に出すと、頭の中の手順が、指先まで降りてくる気がする。
「第一段階。三連撃のあと、四発目は一拍遅れる。焦って転がらない。四発目を見てから右へ」
「第二段階。床が三か所崩れる。順番は手前、左奥、右奥。崩れる前に、柱の影が一瞬だけ揺れる」
「第三段階。剣を地面に突き立てたら、影の剣が六本降ってくる」
そこで、声が止まった。いつもなら、続けてこう言う。安全地帯は、ない。
湊は、言い直した。
「……第三段階。騎士の正面へ。目を見たまま、前へ」
言葉にすると、少しだけ腹が据わった。湊は扉を開けるボタンを押した。
四十二回目。
*
玉座の間は、静かだった。
黒い石の床。天井まで届く柱が八本。部屋の奥、崩れた玉座の前に、騎士が一人立っている。兜の奥は真っ暗で、顔はない。古びた灰色のマントが、風もないのに揺れていた。
BGMは鳴らない。このボス戦だけは、最初から最後まで、音楽がない。足音と、剣の音と、自分の呼吸だけになる。初めて挑んだとき、湊はそれが怖くて、思わずテレビの音量を上げた。
騎士が剣を抜いた。
第一段階。
騎士が滑るように距離を詰めてくる。一撃目、横薙ぎ。湊は左に半歩。二撃目、切り返し。後ろに半歩。三撃目、突き。右に転がる。
四発目が来ない。一拍。
ここで焦って転がると、遅れてきた四発目に背中を斬られる。湊は親指をスティックの上で止めたまま、騎士の剣先を見ていた。
振り下ろし。
見てから右へ。剣が床を叩き、石の破片が画面に散った。騎士の背中ががら空きになる。湊は二回、斬りつけた。体力ゲージが、ほんのわずかに削れる。
「よし……」
声が掠れた。手のひらに汗がにじんで、コントローラーのグリップが滑る。湊はジャージの膝で手のひらを拭った。
同じことを、十一回繰り返した。三連撃、一拍、振り下ろし、二回斬る。一度でもリズムを崩せば終わる。十一回目の斬撃で、騎士の体力ゲージが三分の二を切った。
騎士が後ろへ跳んだ。剣を胸の前に掲げる。
第二段階。
床が鳴った。湊は柱を見る。手前の柱の影が、一瞬だけ揺れた。
「手前」
言うより先に、指が動いていた。キャラクターが前へ跳んだ直後、さっきまで立っていた床が抜け落ちて、黒い穴になる。
左奥の柱の影が揺れる。右へ。右奥の柱の影が揺れる。中央へ。
三つの穴が開いた床の上で、騎士が再び剣を構える。足場は狭くなった。右に転がれば穴に落ちる位置では、左へ。左が穴なら、後ろへ。
左のスティックが、かすかに勝手に右へ流れた。
湊の背中に冷たいものが走った。三年使っているコントローラーだ。スティックの付け根がすり減って、ときどき指を離しても入力が残る。いつか買い替えようと思って、ずっと先延ばしにしていた。
キャラクターが、穴の縁でよろめいた。
湊はとっさにスティックを逆へ倒した。キャラクターの踵が縁にかかったまま止まる。その頭上を、騎士の剣が通り過ぎていった。
「……っぶね」
心臓が、喉のあたりまで跳ね上がっていた。湊は左の親指に力を入れ直し、スティックをほんの少しだけ左に押しつけるようにして握った。それで、流れはなんとか抑えられる。
指が痛かった。でも、離すわけにはいかなかった。
狭い足場で、さらに九回。騎士の剣を見て、避けて、斬った。一度、肩を浅く斬られて、体力が半分まで減った。回復薬を飲む隙は、騎士が剣を振り上げる一瞬にしかない。湊はそこで一本だけ飲んだ。残りは二本。
騎士の体力ゲージが、三分の一を切った。
騎士が、ゆっくりと剣を逆手に持ち替えた。
部屋の空気が変わる。画面の端が、わずかに暗くなる。何十回も見た演出だ。それでも、湊の喉はひくりと鳴った。
第三段階。
騎士が剣を、玉座の前の床に突き立てた。
天井の闇の中に、六本の影の剣が浮かび上がる。切っ先は全部、湊のキャラクターを向いている。一本目が落ちてくるまで、二秒。
これまで湊は、ここで後ろへ逃げた。柱の陰に隠れた。穴の縁を回り込んだ。どこへ逃げても、六本のうちのどれかが追ってきて、刺さった。
「正面」
湊は、スティックを前に倒した。
キャラクターが、床に突き立った剣と騎士に向かって駆ける。兜の奥の、何もない暗闇が近づいてくる。それが騎士の目なのかどうか、湊にはわからない。でも、そこを見たまま、前へ。
一本目が落ちた。キャラクターの背中のすぐ後ろで、床が砕ける。
二本目。三十八回目のとき、湊を殺した剣だ。湊は騎士の足元に向かって転がった。影の剣が、湊のいた場所を斜めに貫く。外れた。
三本目、四本目。騎士の左右の床に突き刺さる。騎士のすぐ前、一歩分の空間だけに、何も落ちてこない。
あった。
安全地帯は、あったのだ。いちばん危ない場所に。敵の目の前に。
五本目が、湊の頭上で止まっている。落ちてこない。騎士自身を巻き込むから、落とせないのだ。
「ははっ」
変な笑いが、喉から勝手にこぼれた。湊は騎士の正面に張りついたまま、斬った。斬って、斬って、斬った。騎士の剣は床に突き立ったままで、抜けない。抜くまでの時間、騎士はただの的になる。
六本目が消えた。騎士が剣を引き抜く。
体力ゲージは、残り一割。
騎士が剣を振り上げた。湊は回復薬を飲まなかった。飲めば、その隙に一撃を受ける。今の体力で一撃を受ければ、死ぬ。四十二回目の死。また四十分の狩り。また三週間かもしれない。
振り下ろし。左。切り返し。後ろ。突き——
避けきれなかった。
剣先が、キャラクターの脇腹をかすめた。体力ゲージが、すっと減っていく。赤くなって、さらに減って——
一ドットで、止まった。
湊の呼吸も、止まっていた。
指だけが動いた。騎士の突きの戻り際、がら空きになった胸に、斬りつける。
騎士の体力ゲージが、消えた。
名もなき騎士は、ゆっくりと片膝をついた。剣が手から離れて、黒い床の上で乾いた音を立てる。兜が傾いて、それきり動かなくなった。
音のない部屋に、湊自身の荒い息だけが響いていた。
*
〈実績解除:灰は灰へ〉
右上に、灰色の枠が浮かんだ。三秒で消える。
湊はコントローラーを握ったまま、動けなかった。指が固まっていて、開こうとしても開かない。左の親指の付け根が、じんじんと痺れている。
終わった、と思った。百十九個目。残りは、条件のわからない最後のひとつだけ。
そのとき、もう一つ、枠が浮かんだ。
〈実績解除:語られぬ終章〉
湊は瞬きをした。
見間違いではなかった。灰色の枠の中に、確かにその名前がある。三秒経って、枠は消えた。ファンファーレも、演出もない。十年前に解散した小さなスタジオらしい、そっけない幕切れだった。
百二十個目。
「……え」
声が出た。間抜けな声だった。
条件は何だったのか。灰角族でラスボスを倒すことか。百十九個の実績を全部取っていることか。それとも、第三段階で、騎士の正面に飛び込んだことか。わからない。わからないまま、終わってしまった。
湊は膝の上のスマホを取って、wikiの編集画面を開いた。《語られぬ終章》のページ。三年前に自分が書いた一行が、そのまま残っている。
〈解除条件不明。情報求む〉
編集欄に、指を置いた。
〈解除条件:おそらく、灰角族でのラスボス撃破+他の全実績解除。ただし未検証。第三段階で〉
そこまで打って、指が止まった。
誰が、これを読むのだろう。最後にこのページを見に来た人間は、たぶん湊自身だ。ノクトはもういない。海外の三人も、もう何年も動画を上げていない。
湊は、打った文字を消さずに、保存もせずに、スマホを伏せた。明日書けばいい。そう思った。
伏せたスマホが、手の下で震えた。
画面をめくると、母からのLINEだった。時刻表示は、午前三時十二分。母は早起きだが、さすがに早すぎる。たぶん、寝る前に打って、送信ボタンを押し忘れていたのが、今になって届いたのだ。母はそういうことをよくする。
〈正月は帰ってくるの? お父さんが、湊の好きな栗きんとん、今年は自分で作るって張り切ってるよ〉
湊は、既読をつけないまま、通知の文面だけを眺めた。去年の正月も、その前も、仕事を理由に帰らなかった。本当は、倉庫は年末年始も休みだった。
帰ったら、何を話せばいいのか、わからなかった。ゲームの話はできない。仕事の話は、話すことがない。
「……今年は、帰るか」
呟いてから、自分で少し驚いた。最後の実績を取って、一区切りついた気がしたのかもしれない。
返信は、明日にしよう。湊はスマホを机に置いた。
椅子から立ち上がると、膝の関節が鳴った。腰が板のように固まっている。湊はカーテンを少しだけ開けた。
窓の外は、真っ暗だった。向かいのアパートの窓も、ひとつも灯っていない。電線の向こうに、細い月がひとつだけ出ていた。端が欠けた、頼りない月だった。
これから、どうしようか。
ふと、そう思った。百二十個の実績が全部埋まった。もう、このゲームでやることはない。明日の夜、仕事から帰ってきて、湊は何をするのだろう。
三千時間。一日三時間なら、およそ三年。その三年分の夜を、湊はこの世界に置いてきた。後悔はしていない。たぶん、していない。ただ、こちら側の部屋が、思っていたより狭くて、静かだった。
カーテンを閉めて、湊は椅子に戻った。
*
エンドロールが流れはじめた。
何度も見た名前の列。開発、ラストランタン。代表、エリオット・ヴェイン。発売の直後に行方をくらませたという、顔も国籍もわからない男の名前が、白い文字で静かに上へ流れていく。
湊はいつも、ここでスキップしていた。今夜は、最後まで見た。
スタッフの名前は、驚くほど少なかった。二十人もいない。この二十人足らずが、あの理不尽で、意地の悪い、それなのにどうしても嫌いになれない世界を作ったのだ。
最後の名前が、画面の上へ消えた。
そして、画面が黒くなった。
タイトルに戻らない。ロゴも出ない。フリーズかと思って、湊はコントローラーのボタンを押した。反応がない。
黒の中央に、一行だけ文字が浮かんだ。
《あなたは、この世界を愛していますか?》
背筋が冷えた。
三千時間遊んで、一度も見たことのない画面だった。それだけではない。有志がゲームのデータを丸ごと抜き出した解析スレッドに、湊も何度も目を通している。会話の一行、アイテムの説明文の一文字まで、全部が並べられていた。その中に、こんな文章は一行もなかった。
ないはずの文章が、画面にある。
選択肢は出ない。カーソルもない。問いだけが、黒の中に浮かんでいる。
愛しているか、だって。
湊は、この世界のことを考えた。
死ぬたびにレベルを奪われた。初見殺しに何百回も叩き潰されて、コントローラーを壁に投げつけかけた夜もある。理不尽だった。意地が悪かった。
十八歳の夏を思い出した。実家の、自分の部屋。発売日に買って、最初の一周を遊んだときのことだ。
序盤の街に、花を売る少女がいた。名前もない、ただのNPCだ。話しかけると、いつも同じ台詞で「お花、いかがですか」と言う。湊は毎回、一番安い花を一本だけ買った。理由はない。なんとなくだった。
ある日、街に魔物が攻めてくるイベントがあった。湊は別のクエストを優先して、街へ戻るのが遅れた。戻ったとき、少女の立っていた場所には、萎れた花が一本だけ落ちていた。
たかがゲームのNPCだ。それでも湊は、その夜、少しだけ泣いた。
翌日から、湊はNPCが死ぬイベントを全部調べはじめた。どの時間までに、どこへ行けば、誰を助けられるのか。それが後に、wikiでいちばん長いページになった。
〈NPC死亡フラグ一覧〉。
あのページを作ってから、湊は二度と、あの少女を死なせなかった。周回のたびに、街へ走った。間に合わせて、花を一本買った。
仕事で嫌なことがあった日も、誰とも一言も話さなかった日も、湊は気がつくとこの世界に帰ってきていた。ここには、湊が間に合えば助かる人たちがいた。湊が覚えていれば、死なずに済む人たちがいた。
「……はい」
声に出していた。
誰に答えたのか、自分でもわからなかった。画面の向こうに誰かがいるとは思えない。それでも、言わずにはいられなかった。
黒い画面の文字が、ふっと消えた。
かわりに、別の一行が浮かんだ。
《知っています》
湊は、息を呑んだ。
モニターの黒が、こちらへ滲み出してきた。
最初は、画面の縁が少しぼやけただけだった。目が疲れているのだと思った。だが、黒は画面の外へ、インクを垂らしたように広がっていく。モニターの枠が溶けた。机の輪郭が溶けた。カップ麺の容器が、割り箸ごと黒に沈んでいく。
湊は立ち上がろうとした。足が動かない。
自分の手を見た。コントローラーを握ったままの指先が、黒に呑まれて、見えなくなっていく。痛みはない。冷たさもない。ただ、そこにあったはずのものが、なくなっていく。
叫ぼうとした。声は出なかった。
机の上で、スマホの画面がぱっと光った。母のLINEの通知。〈正月は帰ってくるの?〉の文字が、黒の中で白く浮かんで、それから沈んだ。
返信、してない。
それが、湊が灰島湊として考えた、最後のことだった。
黒の中を、落ちていく。
上も下もない。風だけがある。風に、匂いが混じりはじめる。湿った土。青い草。遠くで焚かれている薪の煙。知らない匂いのはずなのに、なぜか、懐かしかった。
闇の底に、二つの光が見えた。白い光と、灰色の光。どちらも、端が欠けていた。
最後に聞こえたのは、ひどく穏やかな、誰のものともつかない声だった。
——では、今度こそ。




