第九話 欠けた月
階段は、思っていたよりずっと急だった。
井戸の内壁に開いた口をくぐると、すぐ足もとから石の段が下へ落ちていた。段の幅は、足の裏ひとつ分と少し。高さは膝の半分ほどもある。人の足のために刻まれた段ではないような気がした。
湊は、右手を壁に当てた。
階段は、井戸の外側を巻くように、左回りに下りていく。右手がずっと壁に触れていられる向きだった。今夜はじめての幸運だった。左手は胸に吊ったまま、指一本ぶんの役にも立たない。
一段下りるたびに、左足首が軋んだ。籠手に締め上げられた骨が、体重をかけるたびに、もう嫌だと言った。湊は、右足を先に下ろし、左足をそっと揃える。一段ずつ。それしかできなかった。
頭の上で、石の擦れる音がした。
振り返ると、さっきくぐった口が、ゆっくりと閉じていくところだった。井戸の内壁の石が、横から滑り出てくる。外の夜の、薄い明るさが細くなり、糸になって、消えた。
ゲームでも、そうだった。入口は、十数えるあいだしか開いていない。
完全な闇になった。
その闇の向こうから、くぐもった犬の声が届いた。井戸の真上か、もっと遠くか。わからなかった。声は二度、三度と吠えて、それきり、石の厚みに呑まれて聞こえなくなった。
後ろで、リシェルがランタンの覆いをわずかにずらした。指一本ぶんの隙間から、橙色の光が漏れて、湊の足もとの段だけを照らした。
湊は、そこで初めて気づいた。
合図を、決めていなかった。
「止まれ」も「進め」も、「伏せろ」も「戻れ」も、何ひとつ。言っておくことがあるなら今しかないと思いながら、言ったのは「声を出すな」だけだった。
湊は、右手を壁から離して、後ろへ伸ばした。
リシェルの手は、すぐに見つかった。冷たかった。指の付け根が硬い。剣だこだ。湊はその手首を取って、人差し指で一度、軽く叩いた。それから、自分の足を止めて見せた。
もう一度、手首を一度叩く。止まる。
二度叩いて、一段下りる。
三度叩いて、彼女の手を、上へ、来た道の方へ押し返した。
リシェルの指が、少しのあいだ動かなかった。それから、湊の手首を取り返して、一度、叩いた。二度、叩いた。三度目は、叩かずに、湊の手の甲を、指の腹で強くつねった。
わかった。けど、引き返す気はない。
そう言われた気がした。湊は、闇の中で、声を出さずに笑った。笑うと、肋骨が痛んだ。
*
階段は、百二十段あった。
数えていたわけではない。ゲームのマップに、そう書いてあった。湊が自分で数えて、wikiに書いた。〈第一層まで百二十段。途中に踊り場なし。降りるだけで二分かかるので、MP回復に使え〉。
二分では、済まなかった。
最後の段を下りたとき、湊の右手は、壁の苔で緑色に汚れていた。膝が笑っていた。背中は汗で濡れ、汗が聖水の火傷に染みた。頬の皮膚が、まだ煮えていた。
第一層は、長い回廊だった。
両側に、石の柱が並んでいる。柱と柱のあいだの天井に、一枚ずつ、四角い石の板がはめこまれていた。大人が三人並んで寝られるほどの板だ。その継ぎ目に、細い黒い筋が走っている。
声を出せば、あれが落ちる。
湊は、知っていた。体で知っていた。一度目は、宝箱を開けて思わず「よし」と言った。二度目は、くしゃみをした。現実の、自分の部屋で、自分の鼻がくしゃみをした。ゲームの中の灰角の男の頭に、石の板が落ちた。三度目は、二度目に腹を立てて、舌打ちをした。
リシェルが、ランタンの光を回廊の奥へ向けた。
光の届くぎりぎりのところに、何かがあった。
板が一枚、落ちていた。
床に斜めに突き刺さるように。そして、その下から、何かがはみ出していた。
湊は、手首を一度叩いて、彼女を止めた。それから一人で、柱の陰を伝って近づいた。
骨だった。
人の骨だ。落ちた板の下から、腕が一本だけ出ていた。肘から先。茶色く変わった骨に、錆びた籠手がまだ嵌まっていた。指の骨が、床の石を掻いた形のまま、固まっていた。
ゲームには、こんなものはなかった。
後ろで、光が揺れた。
リシェルが、来ていた。止まれと言ったのに。湊が振り向く前に、彼女はもう骨の前に膝をついて、ランタンを籠手に近づけていた。
籠手の甲に、紋章が打ち出されていた。
錆に半分喰われている。それでも、形はわかった。盾の中に、鍵を咥えた鳥。
湊は、リシェルの胸当てを見た。左胸の、削り取られた跡。その削り跡の輪郭が、今、籠手の上にある盾の形と、同じだった。
リシェルの肩が、跳ねた。
喉が、ひくりと鳴った。
湊は、考えるより先に、彼女の口を右手で塞いでいた。
リシェルの息が、掌に当たった。熱かった。彼女の目が、湊を見ていた。灰色がかった青い目が、大きく見開かれて、光の中で揺れていた。
天井の板の継ぎ目を、湊は見上げた。
何も、落ちてこなかった。
湊は、手を離さなかった。リシェルの肩が、二度、三度と震えた。声にならない何かが、彼女の喉の奥でせり上がって、そこで止まった。
やがて、彼女は自分の右手を持ち上げた。湊の手の上から、自分の口を押さえた。それから、湊の手首を、一度だけ叩いた。
もう、大丈夫。
湊は、手を離した。
リシェルは、自分の手の甲に歯を立てていた。血が滲むほど強く。そうして、骨の指を、しばらく見ていた。
それから、籠手に、指先で一度だけ触れた。
立ち上がったとき、彼女の目は乾いていた。ランタンを持ち直して、回廊の奥を顎で示した。
行こう。
湊は、頷いた。何も、言えなかった。言えない場所でよかったと、少しだけ思った。
*
第二層へ下りる階段の先は、裂け目だった。
床が、途中でなくなっている。左右の壁から壁まで、地面がぱっくりと割れて、底の見えない闇が口を開けていた。向こう岸まで、二十歩ほど。
その上に、石の橋が一本、渡してあった。
橋というより、梁だった。幅は、足の裏ひとつ半。手すりはない。両側は、闇だ。
ゲームでは、ここで落ちて死ぬプレイヤーが一番多かった。橋の石は、白っぽいものと灰色のものが交互に並んでいて、灰色の石は踏むと「鳴る」。ぐらりと揺れて、石と石がこすれる音がする。声ではないから天井は落ちない。そのかわりに、揺れた拍子に足を踏み外す。
〈白い石だけを踏め。灰色は一枚おきに来る。歩幅を一定にすれば迷わない〉
湊は、そう書いた。
その橋が、今、目の前で、白も灰色もない、一面の埃の色をしていた。
湊は、橋のたもとに膝をついた。右の袖で、最初の石の埃を拭った。白い。二枚目を拭う。灰色。三枚目、白。
ゲームどおりだ。
並びさえ合っていれば、拭わなくても渡れる。一枚おきに、跨げばいい。
問題は、跨ぐ足だった。
白い石から白い石まで、大股の一歩。右足で踏み切って、左足で着く。左足で踏み切って、右足で着く。左の足首が、それに耐えるか。
リシェルが、湊の肩を叩いた。
自分の胸を指し、橋を指して、湊を指した。先に行く、あとから来い。そういう意味だった。
湊は、首を振った。
彼女の手首を取って、手のひらを上に向けさせた。そこに、指で書いた。
〈しろ だけ〉
リシェルは、手のひらを見て、橋を見た。埃の色の石を見た。それから、湊の顔を見た。
どうして知ってるの、とは、彼女は書かなかった。書かずに、頷いた。
リシェルは、ランタンを口に咥えた。取っ手を歯で噛んで、両手を空ける。そうして、橋の上に、すっと立った。
足を、大きく動かさなかった。膝から下だけで、一枚おきの石を拾っていく。体の芯がぶれない。下水道の、水の中の通路を歩いていたときと同じだった。二十歩を、二十と少しの呼吸で渡りきって、向こう岸でこちらを向いた。
ランタンの光が、橋の上に細い帯を落とした。
湊は、最初の白い石に、右足を置いた。
次の白い石まで、大股で一歩。左足を、出した。着いた。足首に、ずきりと来た。来たが、持った。
右。左。右。
五枚目の白い石で、左足首が、ぐにゃりと曲がった。
体が、左へ傾いた。闇の側へ。
湊は、右足を、とっさに前へ出した。出した先の石は、灰色だった。
こつん、と、石が鳴った。
ぐらりと揺れた。揺れながら、隣の石とこすれ合って、ざり、ざり、と嫌な音を立てた。湊は、右膝を折って、橋の上に這いつくばった。右手で、梁の縁を抱えた。両脚の下で、灰色の石が三度、四度と揺れて、やっと止まった。
天井は、何もしなかった。声ではない。わかっている。
それでも、心臓は、喉のすぐ下まで跳ね上がっていた。
向こう岸で、リシェルが息を止めているのが、光の揺れ方でわかった。
湊は、這ったまま、次の白い石に右手を伸ばした。
そのときだった。
下で、何かが動いた。
橋の下の、底の見えない闇の中。湊の耳が、それを拾った。石の上を、大きなものが引きずられていく音。ずるり、と。それから、しばらく止まって、また、ずるり、と。
湊は、這いつくばったまま凍りついた。
ゲームでは、この裂け目には何もいなかった。落ちれば死ぬ、ただの穴だった。
鼻が、ひくりと動いた。《嗅覚》が、下から上がってくる匂いを拾った。湿った石。水。そして、何かの生き物の、脂じみた、生臭い匂い。
狼でも、鼠でもない。嗅いだことのない匂いだった。
ずるり、という音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
湊は、それが聞こえなくなるまで待った。それから、残りの白い石を、膝と右手で、一枚ずつ這って渡った。
向こう岸に転がりこんだとき、リシェルの手が、湊の外套の襟を掴んで引き寄せた。
彼女は、湊の手のひらに、指で書いた。
〈した なにか いる〉
湊は、頷いた。
〈しらない〉
と、書き返した。
リシェルの指が、湊の手のひらの上で、少しのあいだ止まった。
この男にも、知らないものがある。
彼女がそう思ったのが、湊にはわかった。
*
第三層は、ひとつの広間だった。
丸い部屋だ。ギルドの広間が三つは入る。天井は高く、ランタンの光が届かない。床には細かい砂が積もっていて、その真ん中に、大きな石の像が倒れていた。
《沈黙の番人》。
ゲームでは、広間の奥の扉の前に立っていた。鎧を着た騎士の像で、背丈は人の二倍。声を出すと目を覚まし、声のした場所へ石の大剣を振り下ろす。黙っていれば、ぴくりとも動かない。
攻略は、湊が書いた。〈番人は音でしか敵を探さない。黙って背後に回り、背中の鎧の継ぎ目を三回突け。三回目で崩れる〉。
その番人が、床に倒れて、ばらばらになっていた。
首は、胴から離れて、壁際まで転がっていた。右腕は肩から落ち、大剣ごと砂に埋もれかけていた。背中の継ぎ目には、何かが三度突き立った跡が、白い傷になって残っていた。
古い傷だった。埃が、傷の底まで積もっている。
誰かが、ここまで来た。湊より、ずっと前に。
あの回廊の籠手だろうか、と湊は思った。違う気がした。籠手の主は、回廊で死んでいる。
リシェルが、倒れた像の向こうを照らした。
奥の壁に、扉があった。石の扉が、人ひとり分だけ、開いていた。
あの先が、最下層だ。
湊は、手首を二度叩いた。進む。
広間の縁を、壁伝いに回る。真ん中は通らない。真ん中の天井には、ゲームで湊を三回目に殺した、いちばん大きな石が吊られているはずだった。
三歩。四歩。
鼻の奥に、あの匂いが来た。
脂じみた、生臭い匂い。橋の下で嗅いだ匂いだった。それが、近い。下からではない。横からだ。
湊は、手首を一度叩いた。リシェルが止まった。
広間の右手の壁に、穴が開いていた。床から、人の背丈ほどの高さにある穴だ。人が掘ったものではない。縁が、何かに削られて丸くなっている。
その穴から、白いものが出てきた。
最初は、太い根のように見えた。白くて、濡れていて、ぬらぬらと光る、ひと抱えもある根。それが、穴の縁を舐めるように這い出して、床の砂の上に落ちた。
頭だった。
平たい、楔のような形の頭。馬の頭ほどもある。そして、どこにも、目がなかった。目のあるべきところは、つるりとした白い皮膚に覆われていた。そのかわりに、頭の両脇に、小さな穴がびっしりと並んでいた。
体が、続いて出てきた。長い。いつまでも出てくる。蜥蜴のような四本の短い脚が、胴の両脇から突き出していた。爪が、砂を掻いた。尾の先が穴から抜けきったとき、それは、馬三頭を縦に並べたほどの長さになっていた。
番人の像を、誰かが三度突いて倒した。
そのあとに、この広間を住みかにしたもの。
湊は、息を止めた。
白い頭が、ゆっくりと持ち上がった。左右に振られる。頭の脇の穴が、ひくひくと開いたり閉じたりしていた。
目がない。耳も、見えない。それなら、何で探す。
答えは、すぐに出た。
リシェルが、重心をわずかに右足へ移した。ほんのわずかだった。布を巻いた靴底が、砂の上で、音とも言えない音を立てた。
白い頭が、ぴたりとこちらを向いた。
足音だ。足の裏が床を押す、その揺れを、こいつは拾っている。
橋の上で、灰色の石が鳴ったときも。あのとき、下でずるりと音がしたのは。
湊の背中を、冷たい汗が伝った。
ゲームの番人は、声で敵を探した。声さえ出さなければ、何もしなかった。だから、プレイヤーはみんな、黙って番人の背中に回った。
この番人は、声を聞かない。足を聞く。
黙っていても、歩けば見つかる。
白い頭が、こちらへ、這い寄ってきた。
湊は、動かなかった。リシェルも、動かなかった。二人とも、壁に背中をつけたまま、石になった。
頭が、目の前に来た。
近い。腕を伸ばせば届く。脂と、腐った水の匂いが、顔に吹きかかった。白い皮膚の下に、青い血の管が透けて見えた。頭の脇の穴が、湊の顔の前で、ひくひくと動いた。
喉の奥で、何かがこみ上げてきた。
咳だった。
屋根に胸から落ちた肋骨が、こんなときを選んで、肺の底をつついてきた。息を吸えないまま、咳だけが、喉を押し上げてくる。
湊は、奥歯を噛みしめた。咳を、噛み殺した。口の中に、鉄の味が広がった。唇の端から、温かいものが一筋、顎へ伝った。
白い頭が、ゆっくりと、湊から離れた。
リシェルの前を、通り過ぎていく。彼女の顔の、指一本先を。リシェルの睫毛が、震えていた。
頭が、広間の真ん中へ向かって、這っていった。
湊は、音を立てずに、長く息を吐いた。吐ききる前に、肋骨が止めた。
扉まで、あと二十歩。
二十歩を、足音なしで歩けるか。
布を巻いた靴のリシェルなら。左足を引きずる自分では。
湊は、壁の向こうの扉を見た。それから、広間の真ん中の、高い天井の闇を見上げた。
光は届かない。それでも、そこに何があるかは知っていた。
吊られた大岩。広間でいちばん大きな、声ひとつで落ちる罠。声を出した者の真上に、三拍の後に落ちてくる。
湊は、それで三回目に死んだ。舌打ちをした、その場所で。
声を出した者の、真上に。
湊は、リシェルの手首を取った。
手のひらに、指で書いた。
〈なわ〉
リシェルが、湊を見た。
湊は、彼女の背中の縄の束を指した。それから、自分の腰を指した。縄の端を、ここに結べ。
〈なにするの〉
彼女の指が、湊の手のひらに書いた。
湊は、答えのかわりに、天井を指さした。それから、広間の真ん中を指さした。それから、自分の口を指さした。
リシェルの目が、大きくなった。
彼女は、激しく首を振った。
湊は、彼女の手のひらに、もう一度書いた。
〈みっつ かぞえて ひけ〉
リシェルは、長いあいだ、湊を見ていた。
それから、唇を噛んで、縄の束をほどいた。
*
縄の端を、湊の腰に、二重に巻いて結ぶ。リシェルの指は速かった。下水道で何度も、自分の体を壁に繋いできたのだろう。結び目を一度引いて確かめ、もう一方の端を、自分の右の手首に巻きつけた。
彼女は、扉の脇の、倒れた番人の胴の陰まで、壁伝いに下がった。足音は、なかった。
湊は、広間の真ん中へ、歩いていった。
足音を、消さなかった。
左足を引きずる音が、砂の上に、ずり、ずり、と落ちた。
白い頭が、こちらを向いた。
四本の短い脚が、砂を掻いた。体が、思っていたよりずっと速く、床の上を滑ってきた。蛇のように、左右にうねりながら。
湊は、広間の真ん中で、足を止めた。
見上げても、天井は見えない。足もとの砂に、ランタンの細い光が、大きな丸い影を落としていた。昔、一度落ちて、また吊り上げられた岩の、床に残した窪み。
ここだ。
白い頭が、迫ってきた。
あと十歩。
湊は、右の踵で、床を一度、強く踏んだ。
白い頭が、それを拾った。まっすぐ、湊の正面に来る。楔の形の口が、開いた。歯がなかった。そのかわりに、口の内側が、細かい棘で白くびっしりと覆われていた。
あと五歩。
湊は、喉の奥を開いた。
黒狼の森で、群れの長から受け継いだもの。
《咆哮》。
掠れた声が、広間に響いた。
割れた、ひび割れた、喉を擦り切らしたような声。それでも、それは声だった。この井戸で、何年も、何百年も、誰も出さなかった音だった。
頭の上で、石が、ぎしりと鳴った。
一つ。
白い頭が、湊の声の上に、喰らいついてきた。
湊は、右へ跳んだ。《疾駆》が、腿の奥で弾けた。半歩。半歩しか、出ない。
棘だらけの口が、湊の左の脇腹を掠めた。外套が裂けた。麻の服が裂けた。皮膚が、何十本もの細い針で一度に引っかかれたように、焼けた。
二つ。
湊の体が、砂の上に落ちた。左足首が、まともに着いた。目の前が白くなった。立てない。
白い頭が、口を開けたまま、湊の方へ向き直った。
三つ——。
腰が、ぐいと引かれた。
縄だった。
湊の体が、砂の上を、仰向けのまま滑った。後ろへ。扉の方へ。リシェルが、倒れた番人の胴に足をかけて、全身で縄を引いていた。
湊がいた場所に、白い頭が喰らいついた。
その真上に、岩が落ちた。
音が、なかった。いや、あった。大きすぎて、音だと思えなかった。床が跳ねた。湊の体が、砂ごと浮いた。砂が、壁まで吹き飛んだ。ランタンの光が、粉塵の中で、何も照らさなくなった。
湊は、仰向けのまま、咳きこんだ。もう、こらえなかった。咳は声ではない。そうであってくれと祈った。
天井は、もう何も落とさなかった。
粉塵が、ゆっくりと沈んでいった。
岩が、広間の真ん中に、どっしりと座っていた。湊の背丈よりも高い岩だった。
その下から、白い胴が、はみ出していた。
まだ、動いていた。
尾が、砂を打っていた。四本の脚のうち、岩の外に出ている二本が、虚空を掻いていた。そして、岩の縁から、平たい白い頭が、半分だけ突き出していた。顎が、ゆっくりと開いて、閉じた。開いて、閉じた。
湊は、腰の縄をほどかずに、這った。
右手に、錆びたナイフを握った。
岩のそばまで這い寄って、白い頭を見下ろした。頭の脇の穴が、ひくひくと動いていた。湊の膝が砂を擦る、その揺れを、まだ拾っていた。
目は、どこにもなかった。
目を見て、とどめを刺す。それが、湊の知っている《継承》の条件だった。見る目のない相手からは、何を受け継げるのか。何も、受け継げないのか。
それでも、この生き物を、このまま苦しませておく理由はなかった。
湊は、ナイフを、頭の脇の穴の並びのいちばん奥、柔らかそうな皮膚の継ぎ目に、突き立てた。
一度では、通らなかった。皮膚が、ぬるりとナイフを滑らせた。二度目で、刃が沈んだ。三度目で、白い頭が、大きく一度跳ねて、それきり動かなくなった。
角の付け根は、ちりとも痒くならなかった。
そのかわりに、体の奥で、別のものが動いた。
熱だった。胸の真ん中に、ぽっと火がともるような。それが、一度、二度、三度と、立て続けに来た。
レベルが、上がっていた。
湊は、ナイフを握ったまま、岩の下の白い胴を見ていた。
後ろから、手が伸びてきて、湊の外套の肩を掴んだ。
振り返ると、リシェルが、縄を巻きつけたままの右手で、湊を引き起こしていた。彼女の手首には、縄が食いこんだ赤い跡が、ぐるりと残っていた。
彼女は、湊の手のひらを掴んで、指で、乱暴に書いた。
〈しゃべるなって いったの だれ〉
湊は、少しのあいだ、その文字を見ていた。
それから、彼女の手のひらに、書き返した。
〈おれ〉
リシェルの肩が、小さく揺れた。笑ったのか、怒ったのか、湊にはわからなかった。
*
最下層の部屋は、思っていたより小さかった。
樽底亭の三号室を、四つ並べたほどの丸い部屋。床も壁も、継ぎ目の見えない灰色の石でできていた。扉をくぐると、空気が変わった。冷たく、乾いていて、湿った石の匂いも、古い土の匂いもしない。残っているのは、一つだけだった。
井戸の口で嗅いだ、何よりも古い、何の匂いとも言えない匂い。その出どころが、ここだった。
部屋の真ん中に、腰の高さの石の台があった。
その上に、短剣が一本、横たえてあった。
天井の真ん中に、丸い穴が開いていた。人がひとり通れるほどの、真っ暗な縦穴。ランタンの光を向けても、どこまで続いているのか見えなかった。
湊は、部屋の入口で、立ち止まった。
ゲームでは、最下層の部屋だけは、声を出しても何も起きなかった。〈最下層は安全地帯。ここで回復してから帰れ〉。湊がwikiに書いた。
それが、この世界でも本当かどうかは、わからない。
湊は、リシェルを手で制して、扉の外に下がらせた。一人で、部屋の真ん中まで進んだ。天井を見上げた。丸い穴の他に、石の板の継ぎ目はなかった。
湊は、口を開いた。
「……あ」
かすれた声が、石の壁に吸いこまれた。
何も、落ちてこなかった。
湊は、三つ数えた。それから、もう三つ。
「……大丈夫だ。ここは、喋っていい」
扉の外で、リシェルが、長い長い息を吐いた。それが、彼女が井戸に入ってから初めて立てた、ちゃんとした音だった。
彼女は、部屋に入ってくるなり、壁際にずるずると座りこんだ。
「……死ぬかと思った」
「俺もだ」
「あなたは、死ぬつもりだったでしょう」
湊は、答えなかった。
台の上の短剣を、見下ろした。
刃渡りは、湊の前腕ほど。柄も鞘もなく、刃と握りが一つの金属から削り出されたような形をしていた。色は、月の光をそのまま固めたような、青みがかった灰色。刃の先が、わずかに欠けていた。欠けた月の、細い弧のように。
《欠けた月》。
フレーバーテキストを、湊は覚えていた。
〈満ちることを知らぬ月。欠けたまま、それでも夜を照らした〉。
序盤の剣の、三倍の攻撃力。そのかわりに、握った者の体温を奪う。
湊は、右手を伸ばした。
握りに指が触れた瞬間、冷たさが、指の骨まで一息に来た。雪に手を突っこんだのとは違う。もっと深い。血が、指先から肘まで、すっと引いていくような冷たさだった。指先が、たちまち痺れた。
それでも、湊は、握った。
持ち上げた。
軽かった。錆びたナイフより、ずっと軽い。そして、刃の欠けたところに、ランタンの光がひとすじ、細い弧を描いて宿った。
「……それが、あなたの目当てだったの」
リシェルが、壁際から言った。
「いや」
湊は、短剣を見たまま言った。
「目当てが、あるとしたら、あんたの方だ」
湊は、振り返って、部屋の奥の壁を見た。
リシェルも、見た。
壁一面に、模様が彫られていた。
ゲームでは、ただの模様だった。背景の飾りだと思った。それを、今、湊は初めて、自分の目で見た。
模様ではなかった。
人だった。
壁の下の方に、何十人もの人が、横一列に並んで彫られていた。みな膝をついて、上を見上げている。その頭に、二本の角があった。
彼らが見上げる先、壁の上の方に、二つの円が彫られていた。右の欠けた円と、左の欠けた円。
その周りを、細かい線がびっしりと埋めていた。文字のようにも見える。けれど、ランタンを近づけても、彫りが浅すぎて、ただの擦り傷にしか見えなかった。
リシェルが、ゆっくりと立ち上がった。
壁の前まで歩いていって、角のある人の彫り物の一つに、指先で触れた。
「……角」
彼女は、湊の方を振り返った。湊の額を見た。
「百年」
と、彼女は言った。
「アーデンフォードの家が、百年探してたのは、灰角の壁だったの」
湊は、何も言えなかった。
リシェルは、胸当ての留め金を外した。胸当ての内側から、小さく折りたたんだ紙を取り出した。何度も開いては畳んだのだろう。折り目が擦り切れて、透けそうになっていた。
「家の記録の、写し。原本は、父が教会に取り上げられた」
彼女は、紙を開いて、ランタンの光にかざした。古い字で、数行だけ書いてあった。
「〈街より古き井戸の底に、月を待つ壁あり。その文字は、灰月が井戸の真上に来る夜にのみ浮かぶ〉」
リシェルは、天井の丸い穴を見上げた。
「あの穴、たぶん、上の井戸の底に繋がってる。灰月が井戸の真上に来たら、その光が、まっすぐここまで落ちてくる。この壁に、当たる。そのときだけ、文字が読める」
「それが、九日後か」
「灰月が満ちる夜。真上に来るのは、その夜だけ。次は、ずっと先。十年か、百年か、記録には書いてない」
だから、待てなかった。
湊は、短剣を握ったまま、壁の二つの円を見上げた。
「読めたら、どうするつもりだったんだ」
リシェルは、少しのあいだ黙っていた。
「わからない」
彼女は、紙を畳み直した。
「父が、何を探して全部なくしたのか。それが知りたかっただけ」
それから、紙を胸に押し当てたまま、言った。
「回廊の籠手。あれ、祖父のだと思う」
湊は、彼女を見た。
「わたしが生まれる前に、家を出て、それきり戻らなかったって。父は、祖父のことを、一度も話さなかった」
彼女の声は、平らだった。平らすぎた。
「見つけてたのね。誰にも言わずに。たった一人で」
湊は、彼女の手のひらに書いた文字を思い出した。〈しゃべるなって いったの だれ〉。あの回廊で、彼女の口を塞いだとき、掌に当たった熱い息。
「……声を、出したのかもしれないな。あの籠手の人も」
「何かを見つけて、か」
「たぶん」
リシェルは、少しだけ笑った。笑ったように、口の端を持ち上げた。
「なら、わたしの家の人間は、二代続けて、余計なものを探って、全部なくしたのね」
「三代目は、まだ何もなくしてない」
湊は言った。
リシェルが、こちらを見た。
「今のところは、な」
*
リシェルは、湊の脇腹の傷を見ると、黙って荷を下ろした。
棘に裂かれた傷は、浅かった。そのかわりに、広かった。左の脇腹から腰にかけて、細い引っかき傷が何十本も並んで、血が玉になって滲んでいた。
彼女は、水筒の水で傷を洗い、自分の上着の裾を裂いて、湊の胴にきつく巻いた。肋骨の上で、布を締める。湊は、息を詰めた。
「折れてる?」
「たぶん、一本」
「なら、締めておいた方がいい。父が昔、落馬した騎士にそうしてた」
それから、湊の右の頬の火傷を見て、眉をひそめた。
「これは、わたしじゃ治せない」
「わかってる」
二人で、硬いパンを分けた。リシェルが持ってきた干し肉を、湊は三口で食べた。噛むたびに、肋骨が痛んだ。それでも、腹の底に食べ物が落ちていく感覚に、湊は思わず目を閉じた。今朝、樽底亭で粥をすすってから、何も食べていなかった。
「……ステータス」
湊は、小さく呟いた。
リシェルが、変な顔をした。湊は構わなかった。
視界の左上に、青白い文字が浮かんだ。
〈ミナト 灰角族 レベル11〉
〈筋力4 耐久4 敏捷4 魔力2 精神5 感知5〉
三つ上がって、耐久が一つ増えただけだった。
それでも、増えた。湊は、その「4」を、しばらく眺めていた。
スキルの欄は、変わっていなかった。《継承》《嗅覚》1《咆哮》1《疾駆》1《毒耐性》1。白い番人から受け継いだものは、何もない。
そして最下段に、いつものように。
〈器:―〉
「……何が見えるの」
「何も」
湊は、文字を消した。
「疲れて、独り言が出ただけだ」
リシェルは、それ以上は聞かなかった。聞かないかわりに、ランタンの芯を短く切った。灯りが、半分になった。
「油は、あと二晩分。食べ物は、切り詰めて三日」
「上がるのは、明日の夜でいい。今は、街じゅうが俺を探してる」
「そうね」
リシェルは、膝を抱えた。それから、思い出したように言った。
「そういえば、市場で触れが出てた。明日の朝から、教団が街の井戸を全部清めるって。灰角が水に毒を入れるから、だって」
湊は、天井の丸い穴を見上げた。
「……全部、か」
「全部。広場の噴水から、裏通りの汲み井戸まで」
湊は、何か言いかけて、やめた。
肋骨が痛かった。脇腹が熱かった。頬が煮えていた。左足首は、もう自分の足ではないような気がした。右手の指先は、《欠けた月》の冷たさで、まだ痺れていた。
それでも、まぶたが勝手に下りてきた。
最後に見たのは、壁の上の二つの円と、その下で膝をつく、角のある人たちの列だった。
*
匂いで、目が覚めた。
どれだけ眠ったのか、わからなかった。地の底には、朝も夜もない。ランタンは消えていて、闇の中で、リシェルの浅い寝息だけが聞こえた。
甘い匂いがした。
乾いた花のような、甘く、冷たい匂い。
角の付け根に、焼けた針が一本、突き立った。
湊は、跳ね起きた。肋骨が悲鳴を上げた。それを、歯で噛み殺した。
匂いは、上から来ていた。
天井の丸い穴から。そして、開いたままの扉の向こう、広間の方から。百二十段の階段を下りて、回廊を抜けて、橋を渡って、ここまで。冷たい空気の流れに乗って、ゆっくりと、ゆっくりと、下りてきていた。
ぽたり、と、音がした。
闇の中、部屋の真ん中。石の台のすぐ脇に、何かが落ちた。
ぽたり。
もう一滴。
湊は、手探りで、その場所に右手を伸ばした。
床が、濡れていた。指先が、その水に触れた。
焼けた。
煮え立った油に指を突っこんだように。噴水広場で、頬に浴びたのと同じ痛みだった。湊は、手を引っこめて、胸に抱えこんだ。
声は、出さなかった。ここでは出してもいいのに、出なかった。
ぽたり。
天井の穴の、ずっと上。地上の、石の蓋をかぶせた枯れ井戸。
その井戸にも、誰かが、聖水を流しこんだのだ。
街じゅうの、全部の井戸に。
湊は、闇の中で、濡れた床から体を遠ざけた。壁際まで這って、背中をつけた。
甘く冷たい匂いが、部屋の中に、少しずつ満ちていった。
灰月が満ちるまで、あと八日。
先に満ちるのは、この匂いの方かもしれなかった。




