第十一話 百二十段
犬は、長いこと吠えていた。
湊は、壁際にうずくまったまま、縦穴を見上げていた。光の弧が、翳っては戻る。そのたびに、上で黒い鼻面が出入りしているのがわかった。
爪が、石を掻く。かり、かり、と。井戸の筒を落ちてくるうちに、その音は、耳もとで鼠が齧っているような音に変わっていた。
リシェルの指が、湊の腕に食いこんでいた。
「――やめろって。おい」
若い門番の声だった。引き綱を引く気配がして、犬の声が、一度、喉の奥で潰れた。それでも、すぐにまた吠えた。
「――わかった、わかったよ。……隊長に、言ってくる。動くなよ、お前」
足音が、遠ざかっていった。
犬だけが、残った。
吠えるのをやめて、今度は、鼻を鳴らしはじめた。ふん、ふん、と。蓋の隙間から、地の底の空気を、肺いっぱいに吸いこんでいる。
湊は、息を殺した。殺しても、意味がないことはわかっていた。犬は、耳で探しているのではない。
匂いは、上へ昇る。
乾いた花の匂いが、この部屋を満たしている。その下に、湊の血の匂いがある。脇腹と、脹ら脛と、煮えた指先の。それから、狼の匂い。左腕の牙の跡に、まだ残っているはずの。
あの犬は、子犬のころ、狼に兄弟を食われた。
狼の匂いだけは、どれだけ薄くても、嗅ぎ違えない。
*
昼に近いころ、蹄の音が来た。
石畳を打つ、重い音だった。一頭ではない。音は井戸の筒の中で膨らんで、崩れて、頭の上を馬が渡っていくように響いた。
人の声が、いくつも重なった。
「――ここです。犬が、朝から離れなくて」
「――今朝も清めた井戸だな」
「――涸れ井戸です。底は、すぐそこで」
それきり、声がやんだ。
蓋が、動いた。
石が石の上を擦る、長い音。光の弧が、太くなった。弧ではなくなった。半月になり、それから、ほとんど丸くなった。
真昼の光が、縦穴を、まっすぐに落ちてきた。
湊は、壁際で身を縮めた。光は、部屋の真ん中の、石の台と水たまりを白く照らした。湊のいる壁際までは、届かなかった。指一本ぶん、届かなかった。
光の丸の中に、小さな頭の影がひとつ。いや、二つ。のぞいて、引っこんだ。
「――見えません。底が」
「――すぐそこだと言ったな」
「――昔は、そうだったんですが」
短い沈黙があった。
それから、別の声がした。
低くはない。大きくもない。それなのに、ほかのどの声よりもはっきりと、井戸の筒を落ちてきた。
「石を」
湊の背中が、壁から浮いた。
その声を、湊は知っていた。街道の溝の中で聞いた。噴水広場で聞いた。〈捕らえよ。生かしてな〉。
ヴァルター・クロイツ。
光の丸の中に、拳ほどの黒い点が現れた。
それが、落ちてきた。
湊は、数えた。勝手に、口の中で数えていた。ゲームで、落とし穴の深さを測るときにそうしたように。
一つ。二つ。
点は、縦穴の壁に一度当たって、甲高い音を立てた。跳ねて、また落ちた。
三つ。四つ。
五つ目で、石の台の角に当たった。
ぱん、と乾いた音がして、石が割れた。破片が水たまりに飛びこんで、聖水の飛沫が、光の中に白く散った。
湊の膝の、指二本ぶん先に、ひと粒、落ちた。
上で、誰も喋らなかった。
湊は、自分の心臓の音が、縦穴を昇っていくのではないかと思った。
「……五つ、か」
ヴァルターの声だった。独り言のように低いのに、言葉の形は崩れていなかった。
「街より古い井戸。……そうか。ここだったか」
少しの間があった。
「アーデンフォードの爺さんが、死ぬまで探していた井戸だ」
リシェルの肩が、跳ねた。
湊は、とっさに、彼女の手首を掴んだ。強く、一度。
止まれ。
リシェルの手首が、湊の掌の中で震えていた。震えて、それから、止まった。彼女は、空いた方の拳を、自分の口に押しあてていた。
「――下ろしますか。縄を集めれば、昼過ぎには」
「要らん」
ヴァルターは、短く言った。
「下りるな。縄も下ろすな。蓋を戻せ。今度は、隙間なくだ。犬と見張りを置け。昼も夜もだ」
「――ですが、もし、下に」
「いるなら、上がってくる」
声は、少しも急いでいなかった。
「水も、食い物もない穴だ。上がってきたら、生かして捕らえろ。それまでは、何もするな」
足音が、いくつも遠ざかっていった。蹄が、石畳を打った。
それでも、光の丸の縁に、まだひとつ、影が残っていた。
影が、少しだけ、こちらへ身を乗りだした。
「――急がなくていい」
声が、落ちてきた。
もう、独り言の声ではなかった。井戸の底へ向けて、はっきりと言っていた。
「灰月が満ちるまで、まだ五日ある」
蓋が、滑った。
光の丸が、半月になり、弧になり、針の先になって、消えた。
石が、石の縁に、ごとりと嵌まる音がした。
地の底は、本当の闇になった。
*
ランタンに火を入れたのは、ずいぶん経ってからだった。
リシェルは、灯りの中で膝を抱えていた。拳の指の付け根に、歯の跡が赤く残っていた。
「あの人は」
囁き声だった。蓋が嵌まっても、二人は囁き声でしか話さなかった。
「祖父を、知ってた」
「審問官だ。教会に逆らった家のことなら、調べてある」
「爺さん、って言った」
リシェルは、湊を見なかった。灯りの、芯の先を見ていた。
「父のことを、教会の人たちは、アーデンフォードの若造って呼んだ。みんなそう。……祖父のことを爺さんって呼ぶのは、祖父の顔を知ってた人だけ」
湊は、何も言えなかった。
〈灰月が満ちるまで、あと十日か〉。街道の溝で聞いた声が、耳の奥で鳴った。あの男は、ずっと数えていた。湊が、この世界の暦を知るより前から。
あの男は、知っている。この井戸の底で、灰月の夜に何が起きるのかを。
だから、下りてこない。
待っていれば、灰角は、ここへ来る。
「……荷物を、見せてくれ」
と湊は言った。
リシェルは、黙って荷をほどいた。
黒パンが二つ。チーズが拳ひとつぶん。干した無花果が八つ。ランタンの油が、小壺に一つと少し。
水袋は、一つが空で、もう一つが半分。
湊が飲める水は、それだけだった。
「五日は、もたない」
リシェルが言った。
「もたない」
湊も言った。
「今夜、出る」
リシェルが、顔を上げた。
「階段は」
湊は、答えるかわりに、空の水袋を手に取った。
山羊の革を縫い合わせた袋だった。内側に、松脂が塗ってある。中の水を、外へ漏らさないための袋だ。
なら、外の水も、中へ通さない。
湊は、腰の布をほどいて、《欠けた月》を抜いた。
刃を、水袋の縫い目に当てた。置いただけだった。革が、すうっと口を開けた。
冷たさが、指を駆け上がってくる。湊は数えながら、革を裂いた。底を切り落とし、筒を開いて、一枚の革にした。十八で、刃を置いた。
松脂の面を内側にして、右手に巻いた。掌から手首まで。水袋の口を縛っていた革紐で、手首をきつく縛った。リシェルが黙って、その結び目を引き締めた。
湊は、革に包まれた手を、握って、開いた。
「……手袋」
と、リシェルが言った。
「壁が、ずっと濡れてたら」
「いつかは、染みる」
「染みたら」
「そのときは、上の方だ。上の方なら、残りは少ない」
リシェルは、しばらく湊の顔を見ていた。それから、ふっと息を吐いた。
「上の方ほど濡れてるって言ったでしょう、わたし」
「聞いた」
湊は、革の手を、膝の上に置いた。
「だから、急ぐ」
リシェルが、笑いかけて、やめた。
「……上には、見張りがいる。蓋は、閉まってる」
「わかってる」
「どうするの」
湊は、自分の喉に、指を当てた。
「縦穴の筒は、声を大きくする。犬の声も、審問官の声も、上で喋ったより大きく聞こえた。なら、井戸の中で出した声は、上で、出したより大きく聞こえる」
リシェルの眉が、寄った。
湊は、喉に当てた指を、離した。
「あの犬は、狼が嫌いだ」
*
九つの鐘を聞いてから、二人は最下層の部屋を出た。
ランタンは、リシェルが持った。覆いを指一本分だけずらして、足もとだけを照らした。
広間は静かだった。白い番人の子は、三匹とも死んでいる。それでも二人は、行きと同じように、音を立てずに歩いた。右手の壁の横穴の下を通るとき、湊は鼻で息を吸った。脂じみた匂いは古くなって、腐りかけていた。新しい匂いは、なかった。
七十一歩。
石の橋には、袖で拭った跡がまだ残っていた。白い石だけを踏んだ。湊の左足首は、五枚目の石の上で、また曲がりかけた。リシェルの手が、後ろから湊の帯を掴んでいた。
回廊で、リシェルが足を止めた。
落ちた天井の板の下。骨と、籠手。
彼女は膝をついた。音を立てずに、籠手の留め金を外した。錆びた革紐が、指の中でぽろぽろと崩れた。
籠手を、胸に抱えた。
それから、骨の手首を、指で一度だけ叩いた。
止まれ。もう、歩かなくていい。
湊は、それを見ないふりをした。
*
階段の一段目に、湊は右足をかけた。
革の手を、壁に当てた。
濡れていた。
革越しにも、わかった。石の面が、ぬるりとしていた。乾いた花の匂いが、壁から立ちのぼってくる。角の付け根に、焼けた針が刺さったような痛みが走った。
湊は、手を離さなかった。
二段目。
膝の半分ほどもある高さを、右足で上がる。左足を、引き上げる。足首が、一段ごとに湊に何かを言った。湊は、聞かなかった。
数えた。
十。二十。
リシェルは、湊の後ろを上ってきた。ランタンは、彼女の腰に吊ってある。湊が落ちたら受けとめる位置だった。受けとめられるとは、二人とも思っていなかった。
三十。
肋骨が、息を半分で止める。半分の息で、一段。半分の息で、もう一段。
四十。
上へ行くほど、石の色が暗くなった。滲みだした水が、石の継ぎ目に沿って細い筋を作り、段の上に垂れていた。湊は、その筋を踏まないように足を置いた。
五十。
六十。
左の脹ら脛の棘の穴が、全部、口を開けた気がした。巻いた布が湿っていた。血か汗か、わからなかった。
七十。
革の手の、掌のところが黒ずんでいた。濡れて、色が変わっている。それでも、中はまだ乾いていた。
山羊は、えらい。
湊は、どうでもいいことを考えた。考えていないと、足が止まりそうだった。
八十。
八十四段目で、それが来た。
掌の、親指の付け根。縫い目の、ひと針ぶんの隙間。
そこから、細い線が、皮膚の上に引かれた。
煮えた油を、針の先で引いたような線だった。
湊の喉が、鳴りかけた。
噛んだ。奥歯で、自分の舌の脇を。血の味がした。
声は、出なかった。
この階段で声を出しても、罠は動かない。ゲームでは、そうだった。それでも、上には見張りがいる。この筒は、声を運ぶ。
湊は、手を壁から離さなかった。
離せば、落ちる。
八十五。八十六。
線が、太くなった。掌の真ん中まで、焼けていく。湊は、指を革の中で反らせた。焼けたところが、石に押されないように。それで、手の力が半分になった。
九十。
九十五。
九十八段目で、右足が、段の縁を踏み外した。
体が、後ろへ傾いた。
背中の下に、何もなかった。九十八段ぶんの闇が、口を開けていた。
腰の帯を、掴まれた。
リシェルだった。彼女は、自分の背中を外側の壁に押しつけて、両足を段に突っぱっていた。帯を握った手が、白くなっていた。
湊は、段の上に、膝から落ちた。
左膝と肋骨が、同時に鳴った。
しばらく、二人とも動かなかった。
ランタンの灯りの中で、リシェルの顔が真っ青だった。それから、その目が、湊の右手を見た。黒ずんだ革の、親指の付け根から、薄く湯気のようなものが立っていた。
彼女は、湊の手首を取った。
手のひらには、書けなかった。手のひらは、革の中で焼けていた。
彼女は、湊の手首の内側に、指で書いた。
〈かた〉
湊には、意味がわからなかった。
リシェルは、湊の右手を持ち上げた。
自分の肩に、載せた。
革越しに、胸当ての縁が触れた。乾いていた。温かかった。
彼女は、湊の前に回った。一段上に立った。湊の手を肩に載せたまま、壁に背を向けて、湊の方を向いて、一段、後ろ向きに上った。
湊は、立った。
彼女の肩に手を置いたまま、一段、上った。
リシェルが、もう一段、後ろ向きに上った。
湊も、上った。
百。
百五。
彼女の肩は、細かった。剣を振る肩とは思えないほど、細かった。その肩が、湊の体重の半分を受けていた。
百十。
リシェルの踵が、段の縁を探る。探り当てて、乗る。湊は、その肩を、壁のかわりにした。
百十五。
百二十。
最後の段の正面に、白っぽい石があった。
*
二人は、最後の段に、並んで座りこんだ。
湊は、革の紐をほどいた。掌を、灯りに向けた。
親指の付け根から掌の真ん中まで、赤黒い線が斜めに走っていた。線のまわりが、白く膨れていた。
リシェルが、残りの水袋の水を、ほんの少しだけ、そこに垂らした。湊は目を閉じて、それをやりすごした。
石の向こうから、音がした。
ごく遠く、石と土を何枚も隔てた向こう。人の声だった。言葉は聞きとれない。笑い声がひとつ。低い、太い笑い声。
それから、もうひとつの声。
細い、掠れた声。息が、言葉の端で、すうっと漏れる。
前歯が一本欠けた口の声だった。
湊は、目を開けた。
街道の、麦畑の脇。組み伏せた、頬のこけた若い男。湊は、あの男の目を見て、刺せなかった。噴水広場で、あの男は群衆の顔をひとつずつ覗きこんで、湊を見つけて叫んだ。〈そいつだ!〉。
そして、太い方の笑い声。
あの男が、兄貴と呼んでいた声だ。
「……知ってる声?」
リシェルが、唇だけで訊いた。
湊は、頷いた。
見張りは、聖騎士ではなかった。湊の顔を知っていて、金の欲しい男たちだった。
ヴァルターは、手を汚さない。待っているだけだ。
リシェルが、湊の左の手のひらに、指で書いた。
〈いくつ〉
湊は、鼻で息を吸った。石の継ぎ目から、地上の夜気が、ほんのわずかに染みてくる。伸びた草。湿った土。安酒。汗。三人ぶんの汗。それから、獣。
湊は、指を三本立てた。それから、四本目を、半分だけ曲げて立てた。
三人と、犬。
リシェルは頷いて、腰の後ろの双剣の柄に手をかけた。
湊は、首を振った。
彼女の手のひらに、書いた。
〈ころすな〉
リシェルは、湊の顔を見た。
それから、書き返した。
〈わかってる〉
もう一行。
〈あなたも〉
時計塔の鐘が、石の奥で、くぐもって鳴った。
湊は、数えた。
十二。
*
リシェルが、白い石に両手を当てた。
湊は、彼女の後ろで、腰の布をほどいた。焼けた右手で、《欠けた月》の握りを掴んだ。冷たさが、焼けた掌に沁みた。焼けた線が、少しだけ黙った。
一度目。
石が、少しだけ、奥へ沈んだ。
二度目。
リシェルが、肩ごと、石を押した。
壁が、開いた。
人ひとりぶんの口の向こうに、井戸の筒があった。上は、すぐそこだった。手を伸ばせば届く高さに、石の蓋の裏が、黒く塞いでいた。
一つ。
リシェルが、口の縁に足をかけて立ちあがり、蓋の裏に、両手と肩を当てた。押した。
蓋は、動かなかった。
二つ。
彼女の腕が、震えた。指一本ぶんも、動かなかった。
蓋のすぐ上で、声がした。
「――冷てえな、この石。尻が冷える」
太い声。あの笑い声と、同じ声。
三つ。
あの男が、蓋の上に、座っていた。
四つ。
湊は、リシェルの足もとから、頭と肩を、井戸の筒の中へ突きだした。
上は見なかった。下を見た。
井戸の底へ続く、縦穴の闇。その闇に向かって、湊は、口を開けた。
五つ。
腹の底から、喉を絞った。
《咆哮》。
狼の遠吠えには、ならなかった。いつもの、掠れた、鳴き真似のような声だった。
その声が、井戸の筒に入った。
筒が、鳴った。
湊の声は、石の壁で跳ね返り、下へ落ち、底で跳ね返り、何度も重なって、膨らんで、上へ昇っていった。掠れたところが、全部、唸りになった。一匹の、怪我をした獣の声ではなくなった。
群れの声だった。
深い地の底から、狼の群れが、井戸の筒を駆け上がってくる声だった。
六つ。
蓋の上で、悲鳴がした。
重みが、消えた。
外で、犬が、聞いたこともない声で鳴いた。吠える声ではなかった。子犬のような、甲高い、裂けるような悲鳴だった。引き綱の鎖が、石に打ちつけられて、じゃらりと鳴った。
七つ。
リシェルが、蓋を押した。
石が石の縁を擦って、滑った。夜空が、斜めに開いた。
二つの月が、見えた。
八つ。
リシェルが、井戸の縁に跳びついた。両腕で体を引き上げて、縁を越えた。
湊は、口の縁に右足をかけた。刃を握ったままの右手を、井戸の縁に伸ばした。
届かなかった。
九つ。
襟首を、掴まれた。
リシェルが、縁の上から、両手で湊の襟を掴んで引いていた。湊は、右足で口の縁を蹴った。《疾駆》。半歩ぶんの力が、湊の体を上へ押し出した。
右の拳が、刃ごと、縁の石に乗った。焼けた線が、裂けた。
十。
足もとで、石が石に嵌まる音がした。
閉じた口の縁が、左の踵をこすっていった。
湊は、井戸の縁を越えて、草の上に転がり落ちた。
*
夜の空き地だった。
伸びた草。崩れかけた物置。割れた桶。訓練場の石の塀。その全部が、二つの月に照らされていた。
白月は、細かった。
灰月は、ほとんど丸かった。左の縁が、ほんのわずかに欠けているだけだった。
湊は、草の中で、片膝を立てた。
犬が、いなかった。外れた首輪が、鎖ごと草の上に転がっていた。遠くで、犬の悲鳴が、まだ続いていた。
塀の下で、若い門番が、槍を握ったまま尻もちをついていた。口が開いたままだった。目は井戸を見ていた。湊を見ていなかった。
物置の陰に、痩せた男が立っていた。首から紐で、何かを提げている。笛だった。それを握りしめていた。まだ、吹いていなかった。
そして、井戸から三歩のところに、大男が、尻から落ちていた。
肩幅が、湊の倍もあった。
男が、湊を見た。
湊の額の、角を見た。
「……狼じゃ、ねえ」
男の口から、声が漏れた。
「灰角だ」
男が、跳ね起きた。速かった。この大きさで、と思うほど。草の上の棍棒を拾いざまに、振りかぶっていた。
「笛だ! 吹け!」
湊は、横に転がった。
棍棒が、湊のいた場所を打った。草が、土ごと弾けた。
転がった先で、湊は左肩から落ちた。吊った腕が、体の下になった。目の前が、白く光った。
男が、来る。
湊は、右膝で立った。
男の目が、湊の左を見ていた。胸に吊った腕を。
街道で、この男は、湊が片腕だと知った。その片腕に、転がされた。
人は、覚える。
棍棒が、横から来た。湊の左から。吊った腕の側から。
湊は、刃を、置いた。
振らなかった。棍棒の通り道に、刃を寝かせて差し出しただけだった。
棍棒の頭が、飛んだ。
腕ほどもある、樫の棍棒だった。その頭が、音もたてずに刃の上を滑り、草の中へ、くるくると回って落ちた。
男の手に、短い柄だけが残った。
男は、その柄を見た。
それから、湊の手の中の、青みがかった灰色の刃を見た。
湊も、少しだけ、自分の手を見た。
序盤の剣の、三倍。それが樫の棍棒にとってどういう数字なのか、wikiには書いていなかった。
男は、柄を捨てた。
捨てたのと同時に、跳びこんできた。
刃を返す暇は、なかった。男の腕が、湊の胴を、正面から抱えこんでいた。
締められた。
肋骨が、鳴った。
ぎしり、ではなかった。もっと奥の、湿った音だった。
息が、一滴も入ってこなかった。
湊の右腕は、男の腕と一緒に、胴に抱えこまれていた。刃は、男の背中の方を向いたまま、動かせなかった。
男の顔が、すぐ前にあった。酒と汗と、虫歯の匂いがした。
「五十枚だ」
男が、言った。
「生け捕りで、五十枚。……暴れんなよ。暴れたら、骨が全部いくぞ」
湊の足が、地面から浮いた。
夜空が、端から暗くなっていった。
どこだ、と湊は考えた。何が使える。
左腕は、ない。右腕は、刃ごと抱えこまれている。足は、浮いている。
残っているのは、頭だけだった。
湊は、首を後ろへ反らせた。
それから、額を、男の顔に叩きつけた。
生え際の、少し上。
角が、男の眉の上に入った。
固いものが、肉と骨を打つ感触があった。親指の先ほどの角が、男の眉の上の皮膚を裂いて、滑った。
男が、吠えた。
腕が、緩んだ。
湊は、男の腕の中からずり落ちて、膝から地面に落ちた。息が、戻ってこなかった。一つ。二つ。三つ。四つ。
五つ目で、喉が、ひゅう、と鳴った。
男は、顔を両手で押さえて、よろめいていた。指のあいだから、血が溢れていた。眉の上から流れた血が、両目に入っていた。
「どこだ……どこ行った!」
男が、腕を振りまわしながら歩いた。一歩。二歩。
井戸の方へ。
蓋は、リシェルが押しのけたまま、半分以上ずれていた。月の光が、井戸の中に斜めに差しこんでいた。
その奥は、底の見えない闇だった。
石を落として、五つ数えるまで、底に着かない闇だった。
男の膝が、井戸の縁に当たった。
男の上半身が、前へ傾いた。
湊は、自分の体が動くのを、止められなかった。
《疾駆》。半歩。
それから、もう一歩。左足首が、悲鳴を上げた。
右手を、伸ばした。刃を、捨てた。刃が、草の上に落ちた。
男の帯を、掴んだ。
男の腰が、井戸の縁の上にあった。頭と肩は、もう井戸の中だった。湊は、帯を掴んだまま、後ろへ倒れた。自分の体の重さの全部を、地面の方へ預けた。
焼けた掌の、焼けた線が、帯の革に擦れて、また裂けた。
男の体が、止まった。
止まって、それから、少しずつ、こちらへ戻ってきた。男の手が、井戸の縁を掴んだ。這い戻った。草の上に、仰向けに転がった。
男は、空を見ていた。血に濡れた目で。
湊は、草の上で、男の横に転がっていた。
息が、半分しか入らなかった。
男が、首をこちらへ向けた。
目が、合った。
刃は、手の届くところに落ちていた。男は動けなかった。仰向けで、目に血が入っていた。目を見たまま、喉に刃を置けば。
湊は、それを知っていた。
角の付け根が、ちり、と痒くなる前から、わかっていた。
湊は、刃を拾った。
男の喉ではなく、自分の腰の布に、差しこんだ。
「……なんで」
男の口が、言った。
湊は、答えなかった。
かわりに、言った。
「下は、深い」
声が、掠れた。
「落ちたら、死ぬ」
*
リシェルは、塀の下にいた。
若い門番の槍が、柄の真ん中で斜めに断ち切られて、草の上に転がっていた。門番は塀にもたれて、こめかみを押さえていた。目は開いていた。リシェルの顔を、見上げていた。
月の光が、彼女の黒い髪と、灰色がかった青い目を照らしていた。
リシェルは、それに気づいた。気づいて、一瞬だけ顔を背けた。それから、湊の方へ駆けてきた。
湊の右腕を、自分の肩にかけた。湊を、引き起こした。
「行ける?」
「行く」
空き地の出口は、物置の向こうだった。崩れた板塀の、子どもがくぐれるほどの隙間。
その前に、痩せた男が立っていた。
笛を、口に当てていた。
湊と、目が合った。
頬のこけた顔。前歯の欠けた口。街道で湊が組み伏せて、刃を止めた顔。
男は、笛を吹かなかった。
リシェルが、湊を半分担いで、前へ出た。一歩。二歩。距離が、詰まっていく。男は、動かなかった。笛を口に当てたまま、湊の目を見ていた。
三歩。
男が、一歩、横にずれた。
板塀の隙間が、空いた。
湊は、男の横をすり抜けた。すれ違うとき、男の唇が、笛の上で何か言いかけた。何も、言わなかった。
板塀の隙間を、くぐった。
家々の裏の、細い通路に出た。
十歩。二十歩。
背中で、笛が鳴った。
高く、長く、夜を裂くように。一度。二度。三度。
坂の下の方で、応える声がした。蹄が、石畳を打ちはじめた。
リシェルが、湊を担いだまま走った。湊は、右足だけで、跳ぶように走った。左足は、地面に触れるたびに、目の前を白くした。
「北へ」
リシェルが、息だけで言った。
「家の、礼拝堂。……そこしか、ない」
*
礼拝堂は、街の北の、城壁に近い古い屋敷町の外れにあった。
屋敷は、もう別の家の持ち物だった。窓に、新しい鎧戸がはまっていた。その裏庭の、伸びほうだいの生け垣の奥に、小さな石の建物がひとつだけ取り残されていた。
リシェルが、胸当ての内側から鍵を出した。
扉が軋んで、開いた。
中は狭かった。長椅子が左右に三つずつ。埃の匂い。古い蝋の匂い。奥の祭壇の上の壁に、盾の中で鍵を咥えた鳥が、石に彫られていた。
湊は、扉のすぐ内側に、崩れるように座りこんだ。
リシェルが扉を閉めて、鍵をもう一度、今度は内側から回した。かちり、と小さな音がした。
その背中が、扉にもたれて、ずるずると下がっていった。彼女も、床に座りこんだ。
二人とも、しばらく、息をすることしかできなかった。
祭壇の上の高い窓から、月の光が差しこんでいた。灰月の光だった。ほとんど丸い、灰色の光。
「ここで」
リシェルが、言った。
「毎晩、祈ったの。灰角は人の名前を盗み、月が満ちれば世界を終わらせる。見つけたら、迷わず斬れ」
湊は、何も言わなかった。
リシェルは、胸に抱えていた籠手を、膝の上に置いた。錆びた、盾の中の鳥。
「おかしいでしょう。斬れって祈った場所に、連れてきた」
湊は、焼けた右手を、膝の上で開いた。閉じた。開いた。
「……いい場所だ」
と、湊は言った。
「ここなら、誰も灰角を探しに来ない」
リシェルが、湊を見た。
それから、声を出さずに、肩だけで笑った。
そのとき。
湊の鼻が、ひくりと動いた。
埃と蝋の匂いの、下に。
安酒の匂いがした。
古い革の上着の匂い。湊は、その匂いを知っていた。ギルドの隅の、長机の端に、いつも染みついていた匂いだ。
祭壇のいちばん手前の、長椅子の陰から、声がした。
「遅かったな」
掠れた、低い声だった。
リシェルが、跳ね起きた。双剣が、抜かれていた。
長椅子の背もたれの上に、酒瓶を握った大きな手が、ぬっと載った。
それから、赤茶けた髭の顔がのぞいた。左の眉の上から頬にかけて、古い傷が、月の光に白く浮いていた。
「剣をしまえ、嬢ちゃん。俺は何も見てねえ」
ギデオンは、瓶をひと口あおった。
「井戸から狼の声がした。ギルドの窓まで聞こえたぞ。……ありゃあ、狼じゃねえな」
湊は、何か言おうとした。息が、半分で止まった。
「どうやって、入ったの」
リシェルの声が、震えていた。剣先は、下がっていなかった。
ギデオンは、上着の懐から、古い鍵を出して、長椅子の上に置いた。リシェルが胸当てから出したのと、同じ形の鍵だった。
「昔から、ひとつ余計に持ってる。……アーデンフォードの爺さんの礼拝堂だ。あの爺さんなら、困ったらここへ逃げこめと言ったはずだ」
リシェルの剣先が、揺れた。
「祖父を、知ってるの」
ギデオンは、答えなかった。
瓶をもうひと口あおって、それから長いこと、瓶の口を見ていた。
「審問官は、待ってるぞ」
と、ギデオンは言った。
「灰月の夜にな。お前らが、あの井戸に戻ってくるのを」
湊は、壁にもたれたまま、ギデオンを見た。
「……知ってるのか。あいつが、何を待ってるのか」
ギデオンは、やっと、こちらを向いた。
その目は、酔っていなかった。
「二十年前と、同じだよ」
祭壇の上の窓で、灰月が、ほとんど丸い顔をしていた。
灰月が満ちるまで、あと四日。




