第十二話 二十年前
リシェルの剣先は、下がらなかった。
祭壇の上の窓から落ちる灰色の光の中で、二本の刃が細かく震えていた。震えているのは刃ではなく、握っている手の方だった。
「二十年前って、何」
ギデオンは答えなかった。かわりに、酒瓶を長椅子の背に置いた。ことり、と小さな音がした。
それから、立ちあがった。
大きな男だった。立つと、礼拝堂の天井が低く見えた。肩の肉が落ちて、革の上着が余っている。それでも、立ちあがるまでの動きに、無駄がひとつもなかった。
リシェルが、半歩下がった。
ギデオンは、リシェルを見なかった。扉の脇にもたれた湊の前まで来て、しゃがんだ。
「息を吸ってみろ、坊主」
湊は、吸った。半分で止まった。喉の奥が、ひゅう、と鳴った。
ギデオンの大きな手が、湊の左の脇腹に触れた。巻いた布の上から、指が、骨を一本ずつ数えるように下りていく。三本目で、湊の背中が壁から跳ねた。
「二本だな」
ギデオンは言った。
「ひびじゃねえ。折れてる。グラントの木剣か」
「……それと、屋根と。今夜の、大男」
「欲張りだな」
ギデオンは、上着の懐から平たい革袋を出した。栓を抜くと、鼻の奥を刺す匂いがした。安酒よりずっと強い、透き通った匂い。
「手を出せ」
湊は、右手を開いた。掌を走る赤黒い線を、ギデオンが月の光にかざした。縁の膨れが二か所で裂けて、血と透明な汁が滲んでいた。
「聖水だな」
「壁の」
「痛えぞ」
言い終わる前に、ギデオンは革袋を傾けていた。
湊の喉が、勝手に鳴った。焼けた線の上を、もう一度、火が通っていった。湊は奥歯を噛んで、膝の上の左の拳を、腿に押しつけた。
リシェルが、剣を下ろしていた。下ろしたことに、自分でも気づいていないような顔だった。
「……あなた、何者」
「隅の酔っ払いだよ。ギルドで見たろ」
ギデオンは、湊の掌に布を巻きながら言った。布は、きれいだった。洗って、畳んで、懐に入れてあった布だった。
最初から、ここで誰かの傷を巻くつもりで来たのだ、と湊は思った。
*
布を巻き終えると、ギデオンは長椅子に腰を戻した。酒瓶には、手を伸ばさなかった。
「二十年前だ」
と、ギデオンは言った。
「この街に、灰角が一人いた」
リシェルの肩が、こわばった。
「名前は言わねえ。言っても、もう誰も覚えちゃいねえ。……外套で角を隠して、ギルドの隅で飲んでた。俺の隣でな。安い酒を、まずそうに飲む奴だった」
ギデオンの目が、祭壇の上の彫り物に向いた。盾の中で、鍵を咥えた鳥。
「あいつは、井戸を探してた。街より古い井戸だ。灰月が真上に来る夜に、壁の文字が読める、ってな。……一緒に探してたのが、アーデンフォードの爺さんだ」
「祖父が」
リシェルの声が、かすれた。
「灰角と、一緒に」
「ああ。あの爺さんは変わり者でな。騎士のくせに、教会の言うことを半分しか聞かなかった。灰角が名前を盗むなら、なんであいつは自分の名前を隠して生きてるんだ、ってよ。……ここで、三人で飲んだこともある」
ギデオンは、長椅子の背を、指で軽く叩いた。
「この椅子でな」
リシェルが、ゆっくりと膝をついた。籠手を、胸に抱えたまま。
「井戸は、見つからなかった。見つける前に、灰月の夜が来た」
ギデオンの声は、平らだった。平らにしようとしている声だった。
「その夜、ヴァルターは一人で待ってた。あいつが行きそうな場所でな。聖騎士も連れずに」
「……それで」
と湊は言った。
「それで、あいつは帰ってこなかった」
礼拝堂の中で、何かが軋んだ。古い梁だった。
「爺さんは、それから一人で探しつづけた。家にも寄りつかなくなった。……ある日、いなくなった。教会に消されたんだって噂が立った。俺も、そう思ってた」
リシェルが、膝の上の籠手を、ギデオンの方へ向けた。
錆びた、盾の中の鳥。
ギデオンの顔から、何かが抜け落ちた。
「回廊に、いたの」
リシェルは言った。囁き声ではなかった。それでも、礼拝堂の埃に吸われて、小さく聞こえた。
「井戸の下の、最初の回廊。天井の石の下に。……祖父は、見つけてたの。見つけて、下りて、そこで」
声を出したのだ、と湊は思った。
あの回廊で。たった一人で。何十年も探した井戸の底に、やっと辿りついて。
何を言ったのだろう。〈あった〉か。〈ここだ〉か。それとも、帰ってこなかった男の名前か。
湊は、それを口にしなかった。
ギデオンは、長いこと籠手を見ていた。それから、手を伸ばしかけて、やめた。
「……そうか」
それだけ言った。
酒瓶を取った。口元まで持ち上げて、飲まずに、また置いた。
*
「原本」
リシェルが、急に顔を上げた。
「家の記録の原本。父が、教会に取り上げられた」
湊には、彼女の言いたいことがわかった。わかって、背中が冷えた。
〈街より古き井戸の底に、月を待つ壁あり。その文字は、灰月が井戸の真上に来る夜にのみ浮かぶ〉。
リシェルが胸当ての内側に持っている写しの、元になった記録。それが、教会にある。
「あの人は、読んでる」
リシェルが言った。
「だから井戸に石を落として、ここだったかって。……場所だけ、知らなかった。何が起きるかは、知ってた。二十年前から」
ギデオンは、否定しなかった。
「あいつは、待つのが上手い」
それだけ言って、ギデオンは続けた。
「お前らは、壁が読みたい。あいつは、それを知ってる。灰月の夜に、お前らは、必ずあの井戸へ戻る。戻るしかねえ。……だから、下りなかった。城門も閉めたままだ。灰月の夜が明けるまでな」
湊は、壁にもたれたまま、天井を見た。
ゲームの中で、ヴァルター・クロイツは大聖堂から一歩も出てこなかった。推奨レベル四十。光の槍の三連撃。体力が半分を切ると、剣で間合いを詰めてくる。
湊の知っているヴァルターは、それだけだった。
二十年前に、誰かを一人で待っていた男のことは、wikiのどこにも書いていなかった。
*
それから三日、二人は礼拝堂から出なかった。
ギデオンは、たいてい夜明け前に来た。来ない日もあった。来るときは、裏の生け垣を、大きな体のわりに音を立てずに抜けてきた。
川で汲んだ水を、革袋に二つ。黒パン。干し肉。苦蓬の軟膏の、新しい壺。
「どこで」
と湊が訊くと、ギデオンは「マルタの婆さんの、残り物だ」とだけ言った。
湊は、壺の蓋を開けた。苦い草と、獣脂と、蜂蜜。湊の鼻は、その匂いを知っていた。ティオの母がくれた壺と、同じ匂いだった。
マルタの薬屋は、去年の冬に焼かれた。その前に、誰かが壺をいくつか持ちだしていたのだ。
湊は、何も訊かなかった。
九日目の昼、湊は左手の薬指を、第二関節まで曲げた。小指は、まだ動かなかった。
十日目の昼、湊は焼けた右手で《欠けた月》を握って、六十まで数えた。冷たさが、掌の線を黙らせた。リシェルが、湊の手の甲を指先で叩いて、一緒に数を数えた。
肋骨は、何も変わらなかった。息は、半分のままだった。
十日目の夜、ギデオンが、張り紙を一枚持ってきた。
〈灰角を匿いし者、リシェル・アーデンフォード。黒髪、灰色がかった青い目、双剣を帯ぶ。生け捕りにて、銀貨二十枚。聖光教団ブラムウェル教会〉
リシェルは、長いこと、自分の名前を見ていた。
「……二十枚」
「お前さんの方が安いな、嬢ちゃん」
「安くていい。高く売れても、嬉しくない」
リシェルは、張り紙を四つに畳んで、胸当ての内側にしまった。記録の写しの隣に。
「双剣の黒髪の娘なんざ、この街に一人しかいねえ」
ギデオンは言った。
「屋敷はもう人手に渡ってる。坊主どもが、裏の礼拝堂を思い出すまで……そうだな、あと一日だ」
「次は、どこへ」
「北の城壁に、使われてねえ見張り塔がある。下の扉の錠は、俺が壊しといた。……明日、日が昇る前に移れ」
ギデオンは、立ちあがりかけて、止まった。
「灰月の夜が明けりゃ、城門は開く。……荷馬車の底に、灰角と娘ひとりを隠せる奴を、俺は知ってる」
湊は、ギデオンを見た。
リシェルも、見た。
「井戸へは、行かなくていい」
ギデオンは、二人のどちらも見ずに言った。
「壁なんざ読まなくても、人は生きていける。俺は、そうやって二十年生きてきた」
扉が、閉まった。
*
その夜、リシェルは眠らなかった。
湊も、眠らなかった。
祭壇の上の窓で、灰月が、左の縁をほんのわずかに欠かせたまま、礼拝堂の床を灰色に染めていた。
「あなたは、来なくていい」
リシェルが言った。長椅子に背を預けて、籠手を膝に載せたまま。
「わたしの家の話。わたしの祖父の話。……あなたは、荷馬車に乗ればいい」
湊は、答えなかった。
頭の中に、一枚の表があった。
ゲームの攻略wikiの、湊が書いたページ。〈NPC死亡フラグ一覧〉。その最後の行。
〈リシェル・アーデンフォード 第二章で死亡。回避方法:不明〉
ゲームの彼女は、第二章の途中で、いなくなった。ギルドの掲示板に、短い訃報が貼られただけだった。どこで死んだのかも、なぜ死んだのかも、書いていなかった。
湊は、三千時間かけて、それを見つけられなかった。
今なら、わかる気がした。
一人で井戸へ行く、黒髪の娘。灰月の夜。井戸の縁で、一人で待っている男。
「……壁の文字は」
湊は言った。
「お前一人で、読めるのか」
「読めない。たぶん、誰にも」
「なら、二人で行って、二人で読めないって確かめればいい」
リシェルが、湊を見た。
「それに」
湊は、自分の額に手をやった。生え際の少し上の、固いもの。
「あそこに彫ってあったのは、角のある連中だった。名前を盗むって言われてきた連中が、壁に何を書いたのか。……俺は、それが知りたい」
それは、半分だけ本当だった。
残りの半分を、湊は言わなかった。言えば、彼女は、一人で行く。
リシェルは、しばらく黙っていた。それから、湊の右の手首を取って、内側に、指で書いた。
〈ばか〉
湊は、彼女の手のひらに、書き返した。
〈しってる〉
*
十一日目の朝は、霧だった。
まだ暗いうちに、湊は目を開けた。
鼻の奥が、冷たかった。
乾いた花の匂い。甘く、冷たい匂い。それが霧に溶けて、礼拝堂の扉の隙間から、細く流れこんでいた。
角の付け根が、焼けた針で突かれたように痛んだ。
光の匂いだ。それも、近い。
湊は、リシェルの肩を、二度叩いた。
リシェルは、目を開けたときにはもう、双剣の柄を握っていた。
湊は、鼻で息を吸った。霧の中の匂いを、ひとつずつ選り分けた。
聖水。鉄。磨き油。馬ではない。歩いている。重い足音が二つと、軽い足音が一つ。
それから、獣。
湿った毛皮の匂い。怯えた汗の匂い。
湊は、その匂いを知っていた。
〈いぬ〉
リシェルの手のひらに書いた。リシェルの顔が、白くなった。
生け垣の向こうで、声がした。
「――屋敷の者には、話を通してある。裏庭の奥だ」
「――こんなところに、礼拝堂なんて」
若い声だった。あの、若い門番の声。
「――アーデンフォードの家のだ。屋敷は売っても、祈る場所は売らなかったそうだ。……清めろ。中も、外もだ」
湊は、礼拝堂の中を見回した。
扉は、ひとつ。生け垣の側に向いている。窓は、祭壇の上の高い窓だけだった。大人の背丈の倍の高さに、肩幅ほどの四角い穴が開いている。
リシェルの目も、同じ窓を見ていた。
祭壇に乗って跳べば、届く。リシェルなら。
湊は、自分の左腕を見た。胸に吊った腕。それから、布を巻いた右手。
片手で、あの高さまで体ごと引き上げる。肋骨が二本折れた体で。
リシェルが、湊の手首を取った。
〈かた〉
湊は首を振った。肩を借りても、窓の縁を掴むのは、湊の手だ。
足音が、生け垣を抜けてきた。
〈さき いけ〉
湊は書いた。
リシェルが、湊の手首に爪を立てた。強く。
それから、いちばん前の長椅子に手をかけた。
彼女は、長椅子を音もなく祭壇の前まで引いた。持ち上げて、祭壇に斜めに立てかけた。座る板の端が、窓の下の壁に届いた。
坂だった。
梯子ではない。足の裏ひとつ分と少しの幅の、斜めの板。
湊は、それを見た。
沈黙の井戸の、石の橋と同じ幅だった。
扉の外で、鍵穴を探る音がした。
「――閉まってます」
「――壊せ」
リシェルが、先に上った。座る板の上を、膝から下だけで、するすると。窓の縁に手をかけて体を引き上げ、外を覗いた。振り向いて、湊に手を伸ばした。
湊は、板に右足をかけた。
一歩目で、左足首が軋んだ。
扉が、どん、と鳴った。
二歩目。
蝶番が、悲鳴を上げた。
三歩目で、左足の下の板が、ぴしりと鳴った。古い板だった。乾いて、割れかけていた。
湊は、布を巻いた右手で、板の縁を掴んだ。掌の線が、また裂けた。
扉が、内側に倒れた。
霧と一緒に、聖水の匂いが、礼拝堂になだれこんだ。
白い外套の聖騎士が二人。その後ろに、こめかみに布を巻いた若い門番。門番の手に、引き綱。引き綱の先に、黒い大きな犬。
犬が、湊を見た。
吠えなかった。
犬は、湊を見たまま、耳を伏せた。尾を、後ろ脚のあいだに巻きこんだ。床に、腹を擦りつけるように伏せた。
喉の奥で、子犬のような声を出した。
「……いた」
若い門番が、呟いた。犬を見て。それから、長椅子の坂の上の、灰角を見た。
「いたぞ!」
聖騎士の一人が、腰の銀の瓶を抜いた。栓を、親指で弾いた。
腕が、振られた。
聖水が、白い弧になって飛んできた。湊の背中へ。
その前に、リシェルが、窓の縁から身を乗りだしていた。
湊の頭と背中の上に、自分の体を被せていた。
聖水が、彼女の背中に当たった。黒い髪に当たって、散った。
彼女は、焼けなかった。
人間だから。
ひと粒が、彼女の髪の先から落ちて、湊の左の頬を打った。煮えた油の、小さな点。湊は、声を噛み殺した。
リシェルの手が、湊の襟首を掴んだ。
湊は、板を右足で蹴った。《疾駆》。半歩。
蹴られた長椅子が、祭壇から滑り落ちて、床で割れた。
湊の体は、窓の縁に、腹から乗った。
肋骨が、鳴った。湿った音だった。
窓の外は、霧だった。下に、生け垣の暗い緑があった。リシェルが先に跳んだ。湊は、窓の縁を、腹で転がるように越えた。
落ちた。
生け垣の枝が湊の体を受けとめて、折れて、それから、地面が来た。
*
屋敷町の裏は、石塀の迷路だった。
古い屋敷の庭と庭のあいだを、細い路地が縫っている。大人ひとりが、やっと通れる幅。塀の高さは、湊の背丈と少し。苔で滑る。
リシェルが、湊の右腕を肩にかけて走った。湊は、右足で跳んだ。左足は、地面に触れるたびに、目の前を白くした。
背中で、笛が鳴った。それから、甲冑の擦れる音。
聖騎士は、馬ではなかった。礼拝堂の生け垣を回って追ってくる。重い足音が霧の中で跳ね返って、どこから来るのかわからなくなった。
湊は、鼻で吸った。
聖水の匂いは、右から来ていた。
「左」
リシェルが、角を左に折れた。
路地が、まっすぐ延びていた。突き当たりが、ぼんやりと明るい。霧の向こうに、北の城壁の灰色の影が立っていた。
あと、百歩。
その百歩の真ん中に、白い外套が立ち塞がった。
先回りされていた。聖騎士の一人だった。路地の幅いっぱいに、肩が詰まっている。抜いた剣を、横には振れない。だから、切っ先をこちらへ向けて構えていた。
突きだ。
この幅では、突きしかない。
後ろで、もう一人の甲冑の音がした。角を曲がってくる。
挟まれた。
リシェルが、湊を塀に預けた。双剣を、抜いた。
彼女の剣は、前腕ほどの長さしかない。聖騎士の剣は、その倍あった。
「下がれ、娘。用があるのは、そこの灰角だ」
聖騎士が言った。
「アーデンフォードの名を、これ以上汚すな」
リシェルは、答えなかった。
足を大きく動かさなかった。膝から下だけで、するりと前に出た。
聖騎士の剣が、突いてきた。
リシェルの右の剣が、その切っ先の横に触れた。肘から先と、手首だけで。切っ先が指一本ぶん逸れて、塀の石を擦った。火花が散った。
リシェルの左の剣が、聖騎士の小手を打った。刃ではなく、柄頭で。
剣は、落ちなかった。重い手甲だった。
男は剣を引いた。引いて、また突いた。今度は、リシェルの胸当ての真ん中を狙って。
湊の右手が、勝手に動いていた。
腰の布から、《欠けた月》を抜いていた。リシェルの肩越しに、刃を差し出していた。
振らなかった。置いた。突いてくる切っ先の、通り道に。
鋼が、鳴らなかった。
聖騎士の剣の先が、掌ひとつぶん消えた。切り落とされた切っ先がくるくると回って、塀の上の苔に刺さった。
聖騎士の目が、短くなった自分の剣を見た。
その一瞬で、リシェルが入った。
左の柄頭が、兜の横を打った。右の柄頭が、同じところを、もう一度。
聖騎士は、塀に肩をぶつけて、ずるずると座りこんだ。兜の中で、目が回っていた。
リシェルが、湊を振り返った。何か言いかけた。
湊の鼻は、後ろを向いていた。
獣の匂い。怯えた汗の匂い。
路地の入口に、若い門番が立っていた。
新しい槍を構えていた。引き綱を、左の手首に巻きつけていた。犬は、門番の足の後ろで、腹を地面に擦りつけて伏せていた。路地の中へ、一歩も入ろうとしなかった。
「……アーデンフォード」
門番が言った。こめかみの布に、血が滲んでいた。あの夜、断ち切られた自分の槍の柄に打たれたところだった。
「あんた、ギルドの依頼書の前に、いつも一人で立ってた。構わないでって、誰にでも言ってた。……なんで、灰角なんか」
リシェルは、剣を下ろさなかった。
「借りがあるの」
「借り?」
「命の」
門番の槍の先が、揺れた。
その後ろで、甲冑の音がした。もう一人の聖騎士が、角を曲がってきた。門番の肩を押しのけて、路地に入ろうとしている。
「どけ!」
門番がよろけた。手首に巻いた引き綱が、ぴんと張った。
湊は、息を吸った。
半分しか入らなかった。
半分で、いい。
井戸の筒は、ない。ここは霧の中の、ただの路地だ。湊の声は、掠れた鳴き真似にしかならない。
それでも。
人は、覚える。
犬も、覚える。
湊は、喉を絞った。
《咆哮》。
掠れた声だった。群れの声には、ならなかった。一匹の、怪我をした獣の声だった。
それで、足りた。
犬が、跳ね起きた。
子犬のような悲鳴を上げて、身をよじった。路地と反対の方へ。来た道へ。
引き綱が、門番の手首ごと引かれた。
門番の体が、後ろへ持っていかれた。入ってこようとしていた聖騎士の胸に、背中からまともにぶつかった。槍が塀に引っかかって、柄が折れた。二人の体が、路地の入口で、もつれて倒れた。
犬は、止まらなかった。倒れた門番を引き綱で引きずったまま、霧の中を走った。門番の悲鳴が、遠ざかっていった。
聖騎士が、甲冑を鳴らして、起きあがろうともがいていた。
リシェルが、湊の腕を肩にかけた。
「……ずるい」
「何が」
「あの犬。かわいそう」
「あとで、謝る」
二人は、路地を城壁の方へ走った。
*
見張り塔は、北の城壁の内側に寄りかかるように立っていた。
上の半分が崩れて、屋根がなかった。下の扉の錠は、ギデオンの言ったとおり壊れていた。中は、石の螺旋階段と、鳩の糞と、乾いた藁の匂いがした。
聖水の匂いは、しなかった。
二人は、階段の途中の、崩れた床の陰に潜りこんだ。
外で、笛が鳴った。何度も鳴った。蹄の音が、城壁の下の道を行ったり来たりした。それは夕方まで続いて、それから、静かになった。
湊は、藁の上に横になった。
左の頬の、聖水の点が、じくじくと焼けていた。右の掌は、布の下でまた濡れていた。肋骨は、息をするたびに湿った音を立てた。
リシェルが、腰に括りつけてきた籠手を外して、膝に載せた。それから、湊の頬に指先で触れた。焼けた点の、すぐ横に。
「……ごめん」
「お前の髪のせいじゃない」
「わたしの髪から落ちた」
「お前がいなきゃ、全部、背中に浴びてた」
リシェルは、何も言わなかった。指を離して、自分のまだ湿った髪をひと房つまんで、見た。
「人間でよかったって、思ったの。……初めて」
湊は、何と答えればいいのか、わからなかった。
だから、別のことを言った。
「明日だな」
「明日」
塔の崩れた屋根の向こうに、灰月が昇ってきた。左の縁の欠けは、もう、目をこらさないと見えなかった。
*
ギデオンが来たのは、十二日目の夕方だった。
塔の階段を、大きな体で、ゆっくりと上ってきた。手には、酒瓶ではなく、水の革袋を提げていた。
「空き地の見張りが、消えた」
ギデオンは、前置きなしに言った。
「昼過ぎに聖騎士が来て、全員下げた。追い剥ぎの二人も、門番も、犬もだ。……井戸の蓋は外して、縁に立てかけてある」
リシェルが、息を呑んだ。
「罠よ」
「罠だな」
ギデオンは、あっさりと言った。
「街じゅうに触れが出てる。灰月の夜は、日が沈んだら家から出るな、ってな。不吉の月だそうだ。……空き地には、誰もいねえ。一人を除いてな」
湊は、藁の上で体を起こした。
「あいつは、一人で待つ」
ギデオンが言った。
「二十年前も、そうだった」
塔の中が、静かになった。
鳩が一羽、崩れた屋根から飛び立った。
「荷馬車は、明日の朝、北の門を出る」
ギデオンは、湊を見た。
「それに乗れ、坊主。娘を連れて」
湊は、ギデオンの目を見た。
酔っていない目だった。礼拝堂で〈二十年前と、同じだよ〉と言ったときと、同じ目だった。
この男は、二十年前、行かなかったのだ。湊はそう思った。
ギルドの隅で、まずそうに安酒を飲む男。その隣で飲んでいた男は、灰月の夜に、行かなかった。そうして二十年、同じ隅で飲みつづけた。
「……あんたは」
湊は言った。
「二十年前、止めたのか。そいつを」
ギデオンの顎が、わずかに動いた。
「止めた」
と、ギデオンは言った。
「止まらなかった」
湊は、立ちあがった。
左足首が軋んだ。肋骨が鳴った。それでも、立った。
「なら、止めるな」
ギデオンは、長いこと湊を見ていた。
それから、水の革袋を、湊の胸に押しつけた。
「川の水だ。清める前のな」
「……ありがとう」
「礼はいらねえ。賭けてんだよ」
ギデオンは、背を向けた。階段を一段下りて、止まった。
「銀貨一枚だ。お前が、生きて戻ってくる方にな」
「誰と賭けたんだ」
「俺とだよ」
ギデオンは、振り向かなかった。
「負けたら、二十年ぶんの酒代に、もう一枚足すだけだ」
足音が、階段を下りていった。
*
日が沈むと、街は死んだように静かになった。
窓という窓に、鎧戸が下りていた。灯りの漏れる家は、一軒もなかった。石畳を歩いているのは、湊とリシェルの二人だけだった。
灰月が、昇ってきた。
城壁の上に、まるい、灰色の顔を出した。
どこも、欠けていなかった。
湊は、自分の足を見た。
右足で踏んで、左足を下ろした。
左足首が、軋まなかった。
湊は、立ち止まった。
もう一度、左足に体重をかけてみた。痛みは、あった。あったが、遠かった。昨日まで骨の中で鳴っていたものが、厚い布の向こうで鳴っているようだった。
息を、吸った。
半分で、止まらなかった。半分を、少しだけ越えた。
鼻の奥に、匂いが流れこんできた。街じゅうの匂いだった。鎧戸の向こうで煮えているスープ。眠っている赤ん坊の、乳の匂い。遠い皮なめし通りの薬の匂い。それなのに、頭が痛くならなかった。匂いが、ひとつずつ棚に並べられたように、きれいに選り分けられていく。
その棚のいちばん奥に、乾いた花の匂いがあった。
ギルドの、裏の方から。
一人ぶん。
「……ミナト?」
リシェルが、湊の顔を覗きこんでいた。
湊は、首を振った。
「なんでもない」
なんでもなくは、なかった。
ステータス、と口に出しかけて、やめた。今、数字を見たら、何かが崩れる気がした。
ギルドの裏の路地から、百歩もない。
家々の裏の細い通路を抜けて、崩れた板塀の隙間をくぐると、空き地だった。
伸びた草。崩れかけた物置。割れた桶。
井戸の石の蓋は外されて、縁に立てかけてあった。
井戸の口が、まるく、黒く、開いていた。
灰月は、まだ東の空の低いところにあった。井戸の真上まで、まだ遠い。
そして、井戸の縁に、男がひとり、座っていた。
白い外套。その下の、黒い詰襟の僧衣。膝の上に、鞘に収めたままの細身の剣。後ろへ撫でつけた灰色がかった金髪が、灰月の光の中で、白く見えた。
男は、こちらを見なかった。井戸の中を、見下ろしていた。
「来たか」
ヴァルター・クロイツは、言った。
その声には、少しも、急いだところがなかった。
灰月が、満ちていた。




