第十三話 灰月の夜
湊は、答えなかった。
かわりに、鼻で息を吸った。
乾いた花の匂いが、井戸の縁から流れてくる。甘く、冷たい匂い。それが、いつもより静かだった。礼拝堂の霧の朝のように、扉の隙間からなだれこんでくる匂いではない。井戸の縁に座った男のまわりにだけ、薄い膜のように留まっている。
ほかには、何もなかった。甲冑の磨き油も、馬も、犬もない。物置の陰にも、板塀の向こうにも、人の汗の匂いはひとつもなかった。
本当に、一人だった。
灰月の光が、湊の首筋に当たっていた。
光に、温度があるはずはない。それでも、首筋のその場所だけが、ぬるい湯に浸したように、内側からゆるんでいた。角の付け根が、痛まなかった。光の匂いがこれほど近くにあるのに、焼けた針で突かれるような、あの痛みが来なかった。
白月の光は、湊を焼く。灰月の光は、湊のどこかを、ほどいている。
リシェルが、湊の右の手首を一度、強く握った。
ヴァルターが、ようやく顔を上げた。色のない目だった。灰月の光を映しても、その目は何の色にもならなかった。
「アーデンフォードの娘か」
リシェルの指が、湊の手首の上で固くなった。
「爺さんは、どこにいた」
問いだった。命令の声ではなかった。
リシェルは、しばらく答えなかった。それから、腰に括りつけた籠手に、左手で触れた。
「回廊。最初の回廊の、天井の石の下」
「……そうか」
ギデオンと、同じ言い方だった。
ヴァルターは、井戸の中に目を戻した。
「行け。下へ」
リシェルの肩が、跳ねた。
「灰月が真上に来るのは、真夜中だ。下りるには、時間がかかるのだろう。……娘に、用はない」
ヴァルターの顎が、わずかに湊の方へ動いた。
「用があるのは、そっちだ」
*
罠だ、と湊は思った。
それから、匂いをもう一度、嗅いだ。空き地のどこにも、人はいない。井戸の口から昇ってくるのは、古い石と、清めの聖水の残り香と、地の底の、何の匂いとも言えない匂いだけだった。
下には、誰もいない。
頭の中で、あの表の最後の行が光っていた。
〈リシェル・アーデンフォード 第二章で死亡。回避方法:不明〉
一人で井戸へ行く、黒髪の娘。灰月の夜。井戸の縁で、一人で待っている男。
湊は、それをずっと、ひとつの絵として見ていた。だが、絵は二つに分けられる。
娘は、井戸の中へ。男は、井戸の上に。
男が上から動かなければ、井戸の中の娘は、一人ではあっても、あの男と一緒ではない。
湊は、リシェルの手のひらを取った。
〈いけ〉
リシェルが、湊を見た。灰月の光の中で、灰色がかった青い目が、ほとんど灰色に見えた。
〈いや〉
〈おれが ふた〉
リシェルの指が、止まった。
湊は、もう一文字だけ書いた。
〈かべ よめ〉
長い間があった。リシェルは、湊の手のひらに爪を立てなかった。かわりに、ゆっくりと、二文字を書いた。
〈かえる〉
地の底から一人で地上へ上がっていった、あの夕方と同じ字だった。
湊は、書き返した。
〈まってる〉
リシェルは、歩きだした。
三歩行って、止まった。振り向かずに、言った。
「……ミナト」
「なんだ」
「借りは、作らない主義なの」
それだけ言って、また歩きだした。湊は、その背中に何か言い返そうとして、やめた。返せる言葉が、ひとつもなかった。
井戸の縁を、ヴァルターから一番遠いところまで回った。男の剣が届く距離を、測るように。ヴァルターは、動かなかった。
リシェルが、縁の石に手を置いた。北から、時計回りに数えていく。一つ、二つ、三つ。七つ目で、指が止まった。立てかけた蓋の、右に三つ目の石だった。
押した。
石が、奥へ沈んだ。井戸の中から、石の擦れる低い音が昇ってきた。
リシェルは縁に腰を下ろし、足を井戸の中へ振りこんで、そのまま、消えた。
湊は、数えた。
一つ、二つ、三つ。
十で、井戸の中の擦れる音が止まった。
「七つ目か」
ヴァルターが、呟いた。
それが、払った代価だった。湊は、それを飲みこんだ。
湊は、井戸の口から昇ってくる匂いを嗅いだ。
リシェルの匂いが、まだあった。ランタンの油ではない。今夜は灯りを持っていない。革の胸当て。張りつめた汗。籠手の錆。それが、石の継ぎ目から細く滲んで、ゆっくりと下へ遠ざかっていく。
百二十段。左回り。段の幅は、足の裏ひとつ分と少し。濡れた壁。
人間の手なら、壁に触れても焼けない。それでも、闇の中だ。
それから、回廊。天井の石。祖父の骨の脇を、声を出さずに抜ける。裂け目の石橋。白と灰色。色の見えない闇の中で、数を数えて、白い石だけを踏む。
あいつは、一度、自分の足で渡っている。
湊は、それを何度も自分に言い聞かせた。
*
「座れ、灰角」
ヴァルターは、こちらを見ずに言った。
「真夜中まで、まだある」
湊は、座らなかった。物置の脇の、割れた桶の横に立った。井戸までは、大股で十歩。ヴァルターの剣は、鞘に収まったまま、膝の上にあった。
息を吸った。半分を、少しだけ越えた。
湊は、口の中で、小さく言った。
「ステータス」
視界の左上に、見慣れた枠が浮かんだ。
〈ミナト 灰角族 Lv.11〉
数字が、違っていた。
〈筋力 5〉〈耐久 5〉〈敏捷 5〉〈魔力 2〉〈精神 6〉〈感知 6〉
どの数字の横にも、薄い灰色で、もとの数字が小さく並んでいた。4。4。4。2。5。5。
魔力だけが、変わっていなかった。三割増しても、二は二のままだった。端数を、切り捨てたのだ。
湊は、そんな計算をしている自分が、少しおかしかった。三千時間、ずっとそうしてきた。
枠のいちばん下に、一行増えていた。
〈状態:灰月〉
その下に、いつもの〈器:―〉があった。
「何と言った」
ヴァルターの声だった。
「独り言だ」
湊は、枠を消した。
ヴァルターは、それ以上、訊かなかった。
湊は、男の横顔を見た。
痩せた頬。高い鼻。後ろへ撫でつけた髪は、近くで見ると、金よりも灰色の方が多かった。膝の上の鞘は、使いこまれて、口のまわりの革が擦りきれている。鞘を押さえる指の関節が、太い。剣だこがある。リシェルの指にあるのと、同じ場所に。
ゲームのヴァルター・クロイツは、大聖堂の床の上に立つ、一枚の絵だった。推奨レベル四十。体力の棒。光の槍が三本。湊は、その絵を何百回も倒した。
こんな指をしていたとは、知らなかった。
「ロウェルの粉挽きの息子を」
ヴァルターが、ふいに言った。
「森から、連れ帰ったそうだな」
「……ああ」
「粉挽きは、礼を言わなかった。言わなかったと、俺に言った。わざわざな」
湊は、ベンの太い眉を思い出した。〈礼は言わん〉。〈息子の命の分だ〉。
「礼は、いらなかった」
「そうだろうな」
ヴァルターの声は、平らだった。
灰月が、昇っていった。
時計塔の鐘が、十を打った。十一を打った。ヴァルターは、その間、一度も井戸から目を離さなかった。
「なんで、真夜中まで待つ」
湊は訊いた。
「急がなくていい、と言ったはずだ」
井戸の底へ向けて、あの昼に言った言葉だった。
「真夜中に、決める」
「何を」
「お前を、生かして連れていくか。どうかを」
湊は、答えなかった。
かわりに、もうひとつ訊いた。
「二十年前も、こうやって待ったのか」
ヴァルターの背中が、動かなかった。動かないことが、答えのようだった。
「……ハーロウか」
「酒は、飲んでなかった」
長い沈黙があった。
「あの男が、酒を飲まずに喋ったのなら」
ヴァルターは、言った。
「それは、本当のことだ」
灰月が、空のてっぺんへ近づいていった。井戸の縁の石が、灰色に光りはじめた。
ヴァルターが、立ちあがった。
*
剣は、抜かなかった。
ヴァルターは井戸を背にして立ち、鞘に収めたままの剣を右手に提げていた。湊は物置の前にいる。二人のあいだは、大股で十歩。伸びた草が、膝の高さで揺れていた。
ヴァルターが、空いている左手を、湊の方へ上げた。
その掌の先に、白い光が集まりはじめた。光は細く長く伸びて、槍の形になった。
光の槍。ゲームで何百回も見た技だった。三本続けて撃ってくる。一本目と二本目は、立っている場所を狙う。三本目は、一本目と同じ場所にもう一度落ちる。一本目をかわして安心し、元の場所に戻ったプレイヤーを、三本目が貫く。湊はwikiにそう書いた。
湊の鼻の奥で、乾いた花の匂いが、ふいに濃くなった。光の匂いだ。撃つ直前に、匂いが膨らむ。
湊は、左へ跳んだ。
一本目が、さっきまで湊の立っていた草を焼いた。焦げた匂いと一緒に、白い光の粒が散った。
跳べた。
目覚めた日、牙鼠の前で、この体はゲームの手順に一拍ずつ遅れた。森でも、屋根の上でも、頭でわかっているのに体が遅れた。今夜は違った。左足首が軋まない。頭の中の手順と、足の動きが、ぴたりと重なった。
二本目。匂いが膨らんだ瞬間に、今度は右へ。光の槍は湊の外套の裾をかすめて、後ろの物置の板壁に突き刺さり、消えた。
あとは三本目だ。一本目の焦げ跡にだけは、戻らなければいい。
湊は焦げ跡から離れ、ヴァルターとの距離を詰める方へ、斜めに踏み出した。光の槍は遠くから撃たせるほど不利になる。《欠けた月》は前腕ほどの長さしかない。近づかなければ、刃は届かない。
花の匂いが、三度目に膨らんだ。
違う、と鼻が言った。
匂いの先が、一本目の焦げ跡を向いていない。湊が今、踏み出した先を向いている。
ヴァルターは、噴水広場から逃げたあの夕方、屋根の上の湊がこの手順で三連撃をかわすのを見ていた。三本目は焦げ跡に落ちる、と湊が知っていることを、知っているのだ。
人は、覚える。
かわせなかった。跳んだばかりの左足首は、もう一度跳ぶ準備ができていなかった。
湊は右手で、腰の布から《欠けた月》を抜いた。
振りかぶる時間はない。だから、刃を体の前に立てて、光の槍の通り道に、そのまま差し出した。路地で聖騎士の剣の先を切り落としたときと同じだ。刃を振るのではない。止めて、相手の方から刃に当たらせる。湊はそれを「置く」と呼んでいた。
光の槍の先が、刃に当たった。
光が、二つに裂けた。
川の水が杭にぶつかって左右に分かれるように、裂けた光は湊の両脇をすり抜けていった。右に逸れた端が湊の右の前腕を舐め、煮えた油の線が走った。左に逸れた端は、頬の聖水の火傷をもう一度焼いた。
それでも、槍そのものは、湊の胸に届かなかった。
光が消えた。
手の中で、《欠けた月》が震えていた。青みがかった灰色の刃が、灰月の光を吸って、薄く光っている。冷たさが手首を越え、肘まで這い上がってきた。
〈満ちることを知らぬ月。欠けたまま、それでも夜を照らした〉
ヴァルターの目が、刃を見ていた。
「……井戸の底のものか」
ヴァルターは、右手の鞘を払った。
細身の剣が、灰月の光の中で、一本の白い線になった。
*
ゲームのヴァルターは、体力が半分を切るまで剣を抜かなかった。
この男は、まだ傷ひとつ負っていない。
ヴァルターが、草を蹴って間合いを詰めてきた。速かった。灰月の夜の目でも、剣の先を追うのがやっとだった。
湊は、剣の通り道に刃を置こうとした。剣が刃に当たれば、剣の方が切れる。
だが、ヴァルターの剣は、一度も湊の刃の前に来なかった。
刃のある右側から来ると見せて、寸前で手首を返し、反対側へ回りこんでくる。湊の左側。左腕は胸に吊ったままで、そちらには刃を差し出せない。
剣の平たい腹が、湊の左の脇腹を打った。
刃ではなかった。それでも、布の下で、折れた肋骨が湿った音を立てた。痛みは遠かった。遠いのに、息がまるごと消えた。
「聖騎士の剣を、落としたそうだな」
ヴァルターは一歩下がって、剣を構え直した。
「同じ手は、食わん」
湊は、膝をつかなかった。
息が戻るより先に、鼻が働いていた。花の匂いの下に、別の匂いが混じっている。汗。ヴァルターの汗だった。
この男も、息を切らしはじめている。
湊は、自分から踏みこんだ。《疾駆》。足が勝手に地面を蹴り、体が前へ押し出される。いつもは半歩の後押しが、今夜はまる一歩分あった。
狙ったのは、剣を握るヴァルターの右腕だ。その腕が次に動く先に、刃を置いた。
ヴァルターは、体をひねって後ろへ跳んだ。腕は刃の手前で抜けていった。白い外套の裾だけが、遅れて刃の上を通った。
布が、濡れた紙のように、音もなく裂けた。裂けた裾が、ひらりと草に落ちた。
ヴァルターが、落ちた布を一瞬だけ見た。それから湊を見た。目の色は変わらなかった。変わらないまま、何かが冷たく決まったのがわかった。
次の一撃は、湊の左の腿に来た。今度は刃だった。麻の布が裂け、腿の外側に熱い線が引かれた。
浅い。わざと浅く斬っている。
生かして連れていく。この男は、まだそちらを選んでいる。
剣を握ったまま、ヴァルターの左手の指が二本、湊の足もとへ向いた。
花の匂いが、目の前で弾けた。
近すぎて、跳ぶ間がなかった。湊は刃を膝の前に下ろし、そこに置いた。
指の先から飛んだ短い光の槍が、刃に当たって裂けた。裂けた片方が右の脛をかすめて焼き、草に突き刺さった。膝が、勝手に折れかけた。折れなかった。灰月が、膝の裏を支えていた。
剣と光を、同時に使う。ゲームのヴァルターは、剣を抜いたら二度と光の槍を撃たなかった。三千時間、湊はその順番を疑ったことがなかった。
順番など、なかったのだ。あれはゲームを作った誰かが、遊ぶ人間のために並べた順番だった。
剣が来る。湊は下がる。また来る。また下がる。
踏みこみ、かわし、回りこむうちに、二人の立ち位置は入れ替わっていた。最初は井戸を背にしていたのはヴァルターだった。今、井戸を背にしているのは、湊の方だった。
腰の後ろに、固いものが当たった。
井戸の縁だった。腰の高さの、丸く積んだ石の縁。その向こうは、底の見えない縦穴だ。
ヴァルターの剣の先が、湊の喉の前で止まった。
「膝をつけ、灰角」
湊は、膝をつかなかった。
かわりに、頭の中で手順を唱えた。wikiを書くときと同じように。
沈黙の井戸へ下りる隠し通路の入口は、どこか別の場所にあるのではない。この枯れ井戸の内側の壁に、直接開いている。噴水広場から逃げた夜にリシェルと二人で下りたのも、聖水に濡れた百二十段を這い上がって出てきたのも、さっきリシェルが一人で消えていったのも、全部、同じ口だ。その口の奥で、階段は井戸の外側を巻くように地の底へ下りている。
一つ。縁の石を、北から時計回りに数えて七つ目を押す。立てかけた蓋の、右に三つ目。リシェルが押した石だ。押せば、井戸の内側の壁、縁から腕一本ほど下に、隠し通路の口が開く。
二つ。後ろへ倒れて、井戸の中へ落ちる。開いた口の下の縁、足の裏ひとつ分と少しの石に、足を乗せる。
三つ。井戸の縦穴は、声を何倍にも響かせる。そこで《咆哮》を使う。
四つ。口は十数えると閉じる。閉じる前に、縁をよじ登って外へ出る。
そのためには、右手を空けなければならない。
湊は、《欠けた月》を口にくわえた。歯の根まで、冷たさが突き刺さった。
ヴァルターの目が、わずかに細くなった。
空いた右手を、腰の後ろへ回した。指で縁の石をなぞる。立てかけた蓋の右。一つ、二つ、三つ。
押した。
石が奥へ沈み、井戸の中で、低い石の擦れる音が鳴った。
一つ。
湊は、後ろへ倒れた。
*
井戸の中は、真上から差しこむ灰月の光で、真っ白だった。
二つ。
湊の背中が、縦穴の中へ落ちていく。足の裏が、さっき開いたばかりの口の、下の縁を探した。
あった。
右足、左足と、石の縁に乗った。湊は井戸の内壁に開いた口の中に半分体を入れ、残りの半分は縦穴の上に出して立っていた。背中のすぐ後ろには、百二十段の階段の最後の段がある。その壁は聖水に濡れて光っていた。背中が触れれば焼ける。
三つ。
見上げた。縁は、湊の頭より、手を伸ばした分だけ上にある。
その縁から、ヴァルターが身を乗りだして、井戸の中を覗きこんでいた。左手が、こちらへ伸ばしかけたまま止まっていた。倒れる湊の襟首を掴もうとして、掴みそこねた手だった。
捕まえようとしたのか。それとも、落ちる者を引き上げようとしたのか。
湊には、わからなかった。
四つ。
ヴァルターの左手の先に、また光が集まりはじめた。真下にいる湊を、上から撃つつもりだ。
湊は、口から刃を外して右手に持ちかえた。息を吸った。灰月の夜の胸は、半分を越えて、もう少し吸えた。
井戸の筒は、ここにある。
五つ。
湊は、真上のヴァルターの顔へ向けて、喉を開いた。
《咆哮》。
いつもの掠れた鳴き真似ではなかった。灰月の夜の息は、声を最後まで押し出した。
声は縦穴の石に当たって跳ね返り、重なり、また跳ね返った。一匹の狼の声が、三匹になり、十匹になった。地の底から駆け上がってくる群れの声になって、筒の出口にあるヴァルターの顔へ、まともに叩きつけられた。
ヴァルターは犬ではない。狼の声に怯えはしない。
それでも、耳は人間の耳だった。
すぐ耳もとで鳴らされた音の塊に、ヴァルターの体が縁から仰け反った。左手に集まっていた光は、ほどけて散った。
六つ。
湊は、刃をもう一度口にくわえた。空いた右手を真上に伸ばし、縁の石を掴んだ。焼けた掌の線が、また裂けた。
《疾駆》。
足もとの口の縁を、右足で蹴った。
いつもなら、体を半歩押し出すだけの力だった。今夜は、それで縁を越えられた。湊の体は、右手を支点にして、井戸の外へ跳ね上がった。
七つ。
縁の向こうに、仰け反ったヴァルターの胸があった。湊は、頭を下げた。額の生え際の少し上の、二本の角を前に向けて。
井戸から跳び出した勢いのまま、角が、ヴァルターの胸にぶつかった。
ヴァルターは背中から草に倒れ、湊はその上に落ちた。
八つ。九つ。
背後の井戸の中で、石の擦れる音がした。
十。
隠し通路の口が、閉じた。
*
湊は、ヴァルターの上にいた。
右の膝で、剣を握ったヴァルターの右の手首を、草に押さえつけていた。口から刃を取った。《欠けた月》の刃が、ヴァルターの喉の、白い詰襟の上にあった。
時計塔の鐘が、鳴りはじめた。
一つ。二つ。
ヴァルターの左手が、草の上で、指を開きかけた。
湊は、刃を、喉の皮一枚ぶん、沈めた。白い詰襟に、細い赤い線が浮いた。
左手の指が、閉じた。
ヴァルターは、それきり動かなかった。左の眉の上が、角で裂けていた。血が、こめかみへ流れていた。
湊は、その目を見た。
ヴァルターも、湊を見ていた。
色のない目に、何かが映っていた。灰色の肌。灰色の瞳。額の二本の角。その真後ろに、満ちた灰月。
鐘が、十二を打った。
灰月が、井戸の真上に来た。
湊の背中の向こうで、光が、井戸の中へまっすぐ落ちていった。灰色の、太い柱のような光だった。
井戸の口の縁の石が、内側から照らされたように、白く浮かんだ。
そして、ずっと下の方から、何かが、応えるように淡く光った。
息をするように。いちど明るくなって、すこし暗くなって、また明るくなった。冷えた朝の窓に浮かぶ霜の模様が、遠い底で、ゆっくりと広がっていくようだった。
地の底の壁。リシェルのいる場所。
湊は、振り向かなかった。振り向けば、刃が喉から外れる。
ヴァルターの目だけが、湊の肩越しに、その光を見ていた。それから、また湊に戻った。
湊の右手の中で、刃が冷たかった。
わかっていた。
目が合っている。自分の手で。刃は、喉の上にある。
ここで、引けば。
この男の何かが、湊に流れこむ。光の槍か。剣か。二十年、誰かを待つことのできる何かか。角の付け根が、まだ何も起きていないのに、ちりちりと疼いた気がした。
「刺せ」
ヴァルターが言った。
声は、平らだった。
「灰角は、名前を盗むのだろう。盗んでいけ」
湊は、刃を見下ろした。
街道の溝の脇で、痩せた男の目を見た夜。井戸の縁で、大男の帯を掴んだ夜。
あのときも、刺せなかった。今は、刺さないと、決められた。
「名前なら、もう持ってる」
湊は言った。
刃を、喉から離した。
それから、ヴァルターの右手の中の剣の上に、置いた。
振らなかった。
鋼が、鳴らなかった。細身の剣が、鍔の上、指二本ぶんのところで、ふたつになった。
湊は、ヴァルターの上から下りた。
左足が、草を踏んだ。軋まなかった。
*
湊は、井戸の縁に腰を下ろした。ヴァルターに顔を向けて。七つ目の石の、すぐ上に。
ヴァルターは、草の上に仰向けのまま、灰月を見ていた。剣の残りを、まだ握っていた。左手は、光を作らなかった。
長い時間が、過ぎた。
灰月が、真上から、西へ傾きはじめた。井戸の中の光の柱が、細くなっていった。
一つの鐘が鳴った。二つの鐘が鳴った。
湊は、井戸の口から昇ってくる匂いを、ずっと嗅いでいた。
リシェルの匂いは、もう届かなかった。深すぎる。石が多すぎる。届いてくるのは、地の底の、何の匂いとも言えない匂いだけだった。
〈第二章で死亡。回避方法:不明〉
井戸の縁で待っている男は、ここにいる。剣は、ふたつになった。それでも、あの行は、湊の頭の中から消えなかった。回廊の天井。石橋の灰色の石。広間の横穴。湊の知らない何か。
湊は、自分の手のひらを見た。〈かえる〉と書かれた場所を。
待つのは、得意ではなかった。
倉庫の夜勤では、待つことは仕事のうちだった。トラックが来るまで。検品の数が合うまで。それでも、こんなふうに、一つ数えるごとに胸の中の何かが削れていく待ち方は、知らなかった。
この男は、これを二十年やっているのだ、と湊は思った。
草の上で灰月を見上げている男を、湊は見た。
「ハーロウは、来なかったか」
ヴァルターが言った。
「来ない」
「……そうだな。あいつは、来ない」
「賭けてる。俺が、生きて戻る方に。銀貨一枚」
ヴァルターは、しばらく黙っていた。
「誰とだ」
「自分と」
喉の奥で、短い音がした。笑ったのかもしれなかった。湊には、わからなかった。
「あの男は、昔から、勝つ方にしか賭けん」
三つの鐘が鳴って、しばらくしてからだった。
湊の腰の下で、石が擦れた。
湊は、縁から身を乗りだした。内壁の口が開いていて、その縁に、黒い髪の頭があった。リシェルが、顔を上げた。髪が濡れていた。階段の壁の、聖水だった。
湊は、右手を伸ばした。布の下で、掌が濡れていた。
リシェルは、自分の手を一度、胸当ての革で強く拭ってから、湊の手を掴んだ。壁に触れてきた手だった。湊の掌は、焼けなかった。
引き上げた。灰月の夜の腕は、彼女の体を、思っていたより軽く引き上げた。
リシェルは、縁の上に転がりでて、草に膝をついた。肩で、息をしていた。両の膝の布が、擦りきれていた。籠手は、腰にあった。
それから、草の上のヴァルターを見た。ふたつになった剣を見た。湊を見た。
湊の顔を、長いこと見ていた。
「……生きてる」
最初に、それを言った。湊にか、自分にか、わからない声だった。
「生きてる」
湊は言った。
「お前も」
リシェルは、短く息を吐いた。笑ったのではなかった。張りつめていたものが、そこから抜けていった音だった。
「回廊、真っ暗だった。祖父の横を通るとき、手首を、一回だけ叩いてきた。……橋は、数えた。白い石だけ。ひとつおきに。あなたが、あの夜、数えてたとおりに」
湊は、うなずいた。教えたのではない。あの夜、彼女は湊の背中を見て覚えたのだ。
「下に着いたら、光が来てた」
リシェルは、言った。
「……読めなかった」
「文字は、光ってた。霜みたいに。でも、一文字も、読めなかった」
湊は、うなずいた。
「でも」
リシェルが、湊の手を取った。手のひらを上にして。布の巻いていない、指の付け根のところに、指先で、ゆっくりと描いた。
円だった。
「彫り物の、人たち。膝をついて、月を見上げてる人たち。光が当たったら、胸のところに、丸が浮かんだの。一人に、ひとつずつ。中に、細かい線がいっぱい詰まってた」
リシェルの指が、湊の手のひらの上で、止まった。
「列のいちばん端に、一人だけ、立ってる人がいた。前は、暗くて見えなかった。……その人の丸だけ、中に、何もなかった」
湊は、自分の手のひらの円を見た。
視界の左上に、出してもいない枠が見えた気がした。いちばん下の一行。
〈器:―〉
この世界の物差しでは、測れない。湊は、ずっとそう読んできた。目覚めた日の草原から、ずっと。
測れないのではなかったのかもしれない。
まだ、何も入っていないだけなのかもしれない。
湊は、手のひらを閉じた。円が、指の中に隠れた。
「……ミナト?」
「なんでもない」
言ってから、湊は、首を振った。
「なんでもなくは、ない。……あとで、話す。全部」
リシェルは、湊の閉じた手を見ていた。それから、うなずいた。
*
東の空が、白みはじめた。
灰月が、西の城壁の向こうへ沈んでいった。
最初に戻ってきたのは、左足首だった。厚い布の向こうで鳴っていた痛みが、布を破って、骨の中に戻ってきた。次に、肋骨。息が、半分で止まった。右の掌が、前腕が、頬が、腿が、順番に、思い出したように焼けはじめた。
湊は、縁の石を掴んで、体を支えた。
ヴァルターが、起きあがった。
草の上から鞘を拾い、ふたつになった剣の残りを、そこへ収めた。収まりきらない短い刀身が、鞘の口で、からりと鳴った。
眉の上の血は、もう乾いていた。
ヴァルターは、リシェルを見なかった。湊を見た。
「門は、日が昇れば開く」
ヴァルターは、言った。
「次は、待たん」
背を向けた。崩れた板塀の隙間の方へ、歩きだした。
三歩目で、止まった。
振り向かなかった。白い外套の背中が、明けていく空の下で、灰色に見えた。
「また灰角か」
ヴァルター・クロイツは、言った。
「前の奴も、同じ目をしていた」
足音が、板塀の向こうへ消えた。
リシェルが、湊を見た。湊も、リシェルを見た。
前の奴。
ギデオンの隣で、まずそうに安酒を飲んでいた灰角。アーデンフォードの爺さんと、街より古い井戸を探していた灰角。灰月の夜に、帰ってこなかった灰角。
あの男は、その目を、間近で見たのだ。
二十年前の灰月の夜に。今夜の湊と同じように、喉に刃を当てられて見上げたのか。それとも、逆だったのか。
湊にはわからなかった。ギデオンは、〈帰ってこなかった〉としか言わなかった。
リシェルが、籠手を握っていた。錆びた、盾の中の鳥。その指の付け根が、白くなっていた。
「あの人」
リシェルが、言った。
「祖父の顔も、知ってた。前の灰角の顔も、知ってた。……三人で飲んだっていう、あの椅子のこと、きっと、知ってた」
湊は、答えなかった。答えられることが、まだ何もなかった。
湊は、さっき自分がヴァルターを見下ろしていた場所を、見た。草が、二人ぶんの形に倒れていた。
遠くで、時計塔の鐘が鳴った。夜明けの鐘だった。
北の門が、開く。
リシェルが、湊の右腕を肩にかけた。湊は、右足で立った。左足が地面に触れると、目の前が白くなった。
いつもの痛みだった。
「行こう」
リシェルが言った。
湊は、うなずいた。
ギデオンは、銀貨一枚を、自分から取り戻すことになる。




