第十四話 北の門
北の門へ向かう道は、夜の名残で、まだ青かった。
湊は、リシェルの肩に右腕をかけて、右足だけで跳ぶように歩いていた。左足は、地面に触れるたびに目の前を白くする。だから、触れさせない。それでも跳ぶたびに、布の下で肋骨が鳴り、息が半分で止まった。
灰月の夜に遠ざかっていた痛みは、ひとつ残らず戻ってきていた。戻ってきたうえに、利子までつけていた。右の前腕と右の脛には、光の槍に焼かれた線がある。左の腿には、ヴァルターの剣が引いた浅い線。左の頬の火傷は、二度焼かれた。
「あと、どれくらい」
リシェルが、前を向いたまま囁いた。
「知らない」
「知らないの」
「ゲームじゃ、北の門は、ずっと先まで開かなかった」
言ってから、しまった、と思った。リシェルは、何も訊かなかった。ゲーム、という言葉を、彼女はもう何度か聞いているはずだった。あとで話す、と湊は約束した。その「あと」に、全部まとめて訊くつもりなのだろう。
ギルド裏の空き地から北へ上り、古い屋敷町の手前で東へ折れて、城壁沿いの細い道を行く。北の見張り塔に隠れていたあいだ、崩れた窓から何度も見下ろした道だった。道の先に、北の門の黒い影が見えてきた。
門の手前には、荷馬車の列ができていた。城門は何日も封じられ、そのうえ灰月の夜は誰も外へ出られなかった。そのあいだ出るに出られなかった荷馬車が、ここに溜まっているのだ。樽を積んだもの、材木を積んだもの、鶏の籠を積んだもの。御者たちが白い息を吐きながら、門が開くのを待っていた。
「こっちだ」
列から外れた、家と家のあいだの暗がりから、掠れた低い声がした。
湊の鼻が、先に答えていた。安酒の匂い。古い革の上着の匂い。それから、もうひとつ。焼けるように苦い、草の匂い。
苦蓬だった。
路地の奥に、荷馬車が一台、隠すように停まっていた。幌はない。荷台には麻袋が山のように積んであり、上から帆布をかけて縄で縛ってある。引いているのは、くすんだ栗毛の老いた馬が一頭だけだった。
その馬の首の横に、ギデオンが寄りかかっていた。
赤茶けた髭に、霜のような白が混じっている。左の眉の上から頬まで走る古い傷。肩の肉が落ちて余った革の上着。見張り塔で別れたときと、何も変わっていなかった。目以外は。
酒の匂いがするのに、その目は少しも酔っていなかった。
ギデオンは、湊を頭から足まで眺めた。焼けた前腕。斬られた腿。地面に触れさせない左足。最後に、湊の顔を見た。
「……生きてやがる」
「賭けは」
「勝ったよ」
ギデオンは、上着の内側に手を入れた。
「自分から、銀貨一枚。きっちり巻き上げてやった」
親指で、何かを弾いた。夜明けの灰色の中を、小さな光がくるくる回りながら飛んできた。湊は右手を伸ばしかけて、リシェルの肩から腕を外せないことに気づいた。
リシェルが、空いている左手で受けとめた。開いた手のひらに、銀貨が一枚乗っていた。
「坊主のぶんだ」
「あんたが勝った金だろ」
「俺が賭けた相手は、俺だ。負けた俺は、もう払った。勝った俺は、いらねえ。だから、お前のだ」
理屈になっていなかった。湊が言い返す前に、リシェルが銀貨を湊の帯に挟んだ。この世界で、湊が初めて手にした銀貨だった。
「話が済んだなら、さっさと乗せな」
御者台から、声がした。
湊は、そこに人がいることに、今の今まで気づいていなかった。苦蓬の匂いが強すぎて、その下に人の匂いが埋もれていたのだ。
小さな老婆だった。御者台に座っていても、立っているギデオンの胸ほどの高さしかない。頭から灰色の布をかぶり、顎の下で結んでいる。布の端から覗く顔は皺だらけで日に焼け、干した林檎のようだった。手綱を握る指だけが妙に太く、節くれだっていた。乳鉢を何万回も回してきた指だ、と湊はなぜか思った。
老婆は、湊の額の角を見た。それから、リシェルの胸当ての、紋章を削り取った跡を見た。
「灰角と、没落騎士の娘かい。運び賃は、二人で銀貨六枚だよ。相場の三倍さ」
「……一枚しか、ない」
湊は、帯の銀貨に目を落とした。
「一枚あるなら、客だよ」
老婆は、鼻を鳴らした。
「金があるなら、角があろうが尻尾があろうが、客は客さ。残りの五枚は、ハーロウのつけにしとく」
「おい」
ギデオンが言った。老婆は、ギデオンを見もしなかった。
湊の喉の奥で、息が止まった。
その台詞を、湊は知っていた。
三千時間のうちの、最初の百時間。灰角族で始めたキャラクターが、どの店にも追い返され、回復薬ひとつ買えずに死に続けていたころ。ブラムウェルの裏通りの、さらに奥の店。カウンターの向こうに、小さな老婆の絵があった。値段は全部、三倍だった。それでも、大陸でその店だけが、灰角族に薬を売った。
湊はその台詞を、攻略wikiの〈マルタの薬屋〉の頁のいちばん上に、太字で書いた。
去年の冬、教会に連れていかれた、と玉葱の籠の女は言った。店は焼かれ、裏通りごと潰されて、倉庫になっていた。
「……マルタ」
老婆の、手綱を握る指が止まった。干した林檎のような顔が、ゆっくりと湊の方を向いた。目が細くなった。
「その名前で呼ぶ奴は、もうこの街にはいないはずなんだがね」
「あんたの軟膏で」
湊は言った。声が、うまく出なかった。
「腕が、まだ、ついてる」
ロウェルの村で、ティオの母が押しつけてきた壺。礼拝堂でギデオンが出してきた壺。どちらも、同じ匂いがした。
マルタは、しばらく湊を見ていた。それから、もう一度鼻を鳴らした。
「当たり前さ。あたしの軟膏だよ」
*
ギデオンが、荷台の後ろの板を外した。
荷台の床の下に、もう一枚の床があった。二枚の床のあいだに、肘から指先ほどの高さの隙間がある。奥行きは荷台の端から端まで、幅は、大人が二人、肩を並べて横になれるだけ。上の床には、苦蓬の袋が山と積まれている。
「嬢ちゃん」
ギデオンが、乾いた布を一枚、リシェルに放った。
「髪を拭け。そいつの隣で寝るならな」
リシェルは、自分の髪に触れた。百二十段を往復したとき、階段の壁の聖水に濡れた髪だった。もう半分は乾いていたが、彼女は何も言わずに布で頭を包み、強く、何度も拭った。それから手のひらを拭い、首を拭い、最後に胸当ての革の縁まで拭った。
湊が先に、仰向けで隙間へ這いこんだ。左腕は胸に吊ったまま。右の肘と右の踵で、板の上を少しずつ奥へ進む。角が、上の床の裏をこすった。首をわずかでも横に向ければ、角の先が板に当たって音を立てる。湊は、顔をまっすぐ上に向けたまま動くしかなかった。
リシェルが、湊の右側に滑りこんだ。肩と肩が触れた。腰に括りつけた祖父の籠手が、板に当たって小さく鳴った。
苦蓬の匂いが、上から降ってきた。
鼻の奥が、焼けるように痛んだ。《嗅覚》には、匂いの壁というより、匂いの拳だった。湊は、口で浅く息をした。下水道で覚えたやり方だった。
「犬はね、苦蓬が大嫌いなんだ」
マルタの声が、板の向こうから降ってきた。
「鼻の利く獣は、みんなそうさ。こいつを嗅がされたら、ほかの匂いなんざ、わかりゃしないよ」
それが、この荷馬車の仕掛けだった。苦蓬の山で、犬の鼻を塞ぐ。
湊の鼻も、一緒に塞がれる。
後ろの板を嵌める前に、ギデオンが、隙間の口にしゃがみこんだ。逆光で、顔は影になっていた。
「坊主」
「なんだ」
「二十年前に、言えなかったことを、言っとく」
ギデオンは、しばらく黙っていた。
二十年前、ギデオンはあの灰角を止めた。止まらなかった、と見張り塔で言った。止めることしか、しなかったのだ。
「……行ってこい」
湊は、何か言おうとした。言葉を探しているうちに、板が嵌まった。隙間の中が、暗くなった。
板の向こうで、ギデオンの声がした。マルタに言ったのか、自分に言ったのか、わからない声だった。
「俺は、隅で飲んでる。それが、俺の仕事だ」
足音が遠ざかった。安酒の匂いが、苦蓬に溶けて、消えた。
*
荷馬車が動きだした。
車輪が石畳を噛む音が、背中の板からじかに響いてくる。路地を出て、列に加わった。止まる。少し進む。また止まる。
暗闇の中で、板の継ぎ目だけが、細い白い線になっていた。夜が明けたのだ。
リシェルの指が、湊の右の手首に触れた。何も書かなかった。ただ、そこに置かれていた。
時計塔の鐘が鳴った。門の閂を外す、重い木の音がした。蝶番が軋み、列が一気に動きだした。
湊は、数を数えた。進んで、止まって、また進んだ。
二十七まで数えたところで、荷馬車が止まった。それきり、動かなくなった。
「荷を、改める」
男の声がした。若くはない。息に、磨いた甲冑の油の匂いが混じっている。
匂いは、それだけではなかった。苦蓬の拳の隙間から、乾いた花の匂いが、細く滲んできた。甘く、冷たい匂い。角の付け根に、焼けた針の先が触れた。
聖水だ。
聖騎士は、二人いる。匂いで、それだけはわかった。
「どこへ行く」
「北の山だよ」
マルタの声は、さっきより、ひと回りしゃがれて聞こえた。
「苦蓬を持って帰るとこさ。山じゃ、こいつは育たないんでね。南で仕入れて、山の坑夫どもに売るんだ。坑道の擦り傷には、これがいちばん効く」
「名は」
「グレタ。北の薬草売りのグレタだよ。門が封じられて、十日近く足止めを食った。宿代で、儲けが消えちまった」
聖騎士は、それには答えなかった。
荷台が、ぐらりと揺れた。誰かが、荷台に上がったのだ。
湊の真上で、何かが麻袋に突き刺さる音がした。
ずぶり、と鈍い音が、袋の山を下りてくる。止まらない。上の床まで、来る。
こつん。
湊の鼻の、指一本ほど先で、板が鳴った。鉄の棒の先が、上の床を突いたのだ。板の継ぎ目から、細かい苦蓬の粉が、湊の顔に降ってきた。
くしゃみが、鼻の奥で膨らんだ。
湊は、息を止めた。沈黙の井戸の回廊を思い出した。ゲームでは、くしゃみひとつで、天井の石に潰されて死んだ。
棒が抜かれた。少し横で、また、ずぶり、と音がした。こつん。今度は、リシェルの胸の上だった。もう一度。こつん。湊の腰の上。
鉄の棒は、袋の山を、端から端まで五度突いた。五度とも、上の床で止まった。
荷台から、重さが下りた。
湊は、止めていた息を、口から細く吐いた。
そのとき、ちゃぷり、と水の鳴る音がした。銀の鉢の中で、聖水が揺れる音だった。
房のついた銀の棒が、鉢の縁を打つ。噴水広場で、聞いた音だった。
ぱらぱらと、雨のような音が、袋の山の上に降った。
乾いた花の匂いが、上から一気に濃くなった。角の付け根の針が、二本になり、三本になった。
麻袋は、水を吸う。吸った水は、袋の中の苦蓬を伝い、下の袋へ、さらに下の袋へと降りてくる。
湊は、真上の継ぎ目を見ていた。細い白い光の線。その線の、ちょうど湊の左の目の上あたりで、光が、ゆっくりと膨らみはじめた。
雫だった。
板の継ぎ目に、小さな水の玉がひとつ、ぶら下がろうとしていた。夜明けの光を透かして、白く光っている。
顔を、逸らせない。首を横に向ければ、角が上の板に当たる。この距離なら、外の聖騎士に聞こえる。
右手は、リシェルの体とのあいだに挟まれて、顔の上まで上がらない。左腕は、胸に吊ったままだ。
雫が、膨らんでいく。
湊の右側で、布が、かすかに擦れた。手首の上から、リシェルの指が離れた。
リシェルが、腰から何かを外していた。暗闇の中で、彼女の左手が、それに滑りこむのがわかった。錆の匂いがした。
祖父の籠手だった。
籠手をはめた手が、湊の顔の上に、そっと差し出された。目の上、指二本ぶんのところで、止まった。
ちん、と。
ごく小さな音が、籠手の甲で鳴った。
湊は、目を閉じなかった。籠手の向こうで、二つ目の雫が膨らみ、落ちて、また、ちん、と鳴った。三つ目。
リシェルの腕が、震えはじめた。この隙間では、肘を下につくこともできない。腕を宙に浮かせたまま、支えているのだ。
湊は、挟まれた右手の指を少しだけ動かして、宙に浮いたリシェルの左の肘の下に触れた。支えるように、そっと押し上げた。
そのとき、爪の音がした。
荷台の下の、石畳の上だった。犬の爪が石を掻く、かちかちという音。それが、湊の背中の真下で、止まった。
荒い鼻息が、床の板の裏に当たった。湊の背中から、手のひら一枚ぶんの板を挟んだ、その向こうで。
苦蓬の匂いの中を、あの犬の鼻は、通り抜けてきた。
湊は、知っている匂いを嗅いだ。獣の毛。濡れた鼻。それから、怯えた獣が出す、すえた汗の匂い。
狼嫌いの、門番の黒い犬だった。
犬は、吠えなかった。
かわりに、喉の奥から、細い声を漏らした。子犬が母親を呼ぶような、鼻にかかった声だった。爪の音が止まり、重いものが石畳に伏せる音がした。
礼拝堂の霧の朝と、同じだった。この犬は、狼の声を覚えている。湊の匂いを覚えている。
「なんだ、この犬は」
聖騎士の声だった。
「荷台の下に、何かあるのか」
短い沈黙があった。
湊の肩の横で、リシェルの肩が、硬くなった。
「……こいつ」
若い声が、言った。
湊は、その声を知っていた。礼拝堂の霧の朝。路地の石塀のあいだで、「なんで、灰角なんか」と言った声だった。
「苦蓬の匂いが、嫌いなんです」
若い門番は、言った。
「鼻が、利きすぎるんで。……前の荷馬車のときも、こうでした」
前の荷馬車のときがあったのか、なかったのか、湊にはわからなかった。
聖騎士は、しばらく黙っていた。
「そうか」
それだけだった。
「行け」
マルタが、舌を鳴らした。老いた馬が、首を振った。荷馬車が、がたりと動いた。
車輪が、一回転、二回転した。
荷台のすぐ横を、若い門番の声が、低く通りすぎていった。犬に言ったのだと、湊は思った。
「……いい子だ。吠えるなよ」
石畳の音が、変わった。門の下の、敷石の音。それから、土の音になった。
湊は、リシェルの肘の内側に、指で書いた。
〈もんばん〉
リシェルの肘が、一度だけ、湊の指を押し返した。
リシェルの籠手の手は、まだ、湊の顔の上にあった。門の音が聞こえなくなるまで、彼女はそれを下ろさなかった。
*
半刻ほど走ったところで、荷馬車が止まった。
後ろの板が外れた。光と、冷たい朝の風が、隙間になだれこんできた。
湊は、這い出したとたんに、道端の草に向かって吐いた。吐くものは、何もなかった。苦蓬の匂いが、胃の底までこびりついていた。
リシェルが、籠手を外した。甲に溜まった三粒の聖水を、草の上に振り落とし、籠手ごと布で何度も拭った。それから、自分の手を見た。濡れていなかった。
「……濡れてない」
「ああ」
「よかった」
リシェルは、それだけ言った。
マルタが、御者台の上から、その籠手を見下ろしていた。
「盾の中に、鍵を咥えた鳥。……アーデンフォードかい」
リシェルが、顔を上げた。
「あの爺さんも、うちの客だった」
マルタは、手綱を指に巻きつけながら言った。
「三倍の値で、文句ひとつ言わずに軟膏を買っていった、ただ一人の人間さ。自分の傷に塗るんじゃないってことは、見りゃわかった」
リシェルの、籠手を握る指の付け根が、白くなった。
マルタは、それ以上何も言わなかった。
それから先は、荷台の袋の山の上に乗せられた。帆布の下に体を沈め、顔だけを出す。二重底は、次の関所のためにとっておくのだと、マルタは言った。
道は、麦畑のあいだをまっすぐ北へ延びていた。遠くに、青い山の連なりが見えた。山の肩には、まだ雪が残っていた。
「去年の冬だよ」
聞かれもしないのに、マルタは話しはじめた。手綱を握ったまま、前を向いて。
「店に、白い外套の連中が来てね。灰角に薬を売ったろう、って。売ったさ。客だからね。そう言ったら、鉄の格子のはまった馬車に放りこまれた。行き先は、聖王国の大聖堂だとさ」
老いた馬が、ぶるりと鼻を鳴らした。
「三日目の夜だった。街道の真ん中に、酔っ払いがひとり、大の字で寝てたんだ。護送の騎士が二人、馬から下りて、どかそうとした。……酔っ払いが、起きあがった」
マルタの声には、笑いも、怒りもなかった。
「酒の匂いは、ぷんぷんしてた。でも、あの男は酔っちゃいなかったね。剣を抜いたとこは、見なかったよ。抜く前に、終わってたから」
湊は、ギデオンの、立ちあがるときの動きを思い出した。礼拝堂の長椅子から、音もなく立った男。動きに、ひとつも無駄がなかった。
「格子の鍵を開けて、あの男は言ったよ。北へ行け、山の町なら教会の目が届かない、ってね。それから、壺を六つ、あたしの膝に置いた。店が焼かれる前の晩に、裏口から持ち出しといたんだとさ。……あたしは、そのうちの三つを、あの男に返した。持ってな、いつか誰かの傷に塗ることになるよ、って言ってね」
マルタは、鼻を鳴らした。
「三倍の値をつけときゃよかったよ」
湊は、帆布の下で、吊った左腕に触れた。牙の跡が四つ。苦蓬の軟膏の、焼けるような熱さと、そのあとの痺れ。
あの壺は、二十年分の酒代のつけと一緒に、ギデオンの上着の内側を回ってきたのだ。
「どこへ、行く」
湊は訊いた。
「グリムホルトだよ。ガルヴァンとの国境の手前の、鉱山町さ。この馬の足で、五日」
その名前も、湊は知っていた。
ゲームでは、北の国境を越える前の、最後の町だった。宿屋と、鍛冶屋と、坑道の入口。酒場の隅で、鉄巨人の工房跡の噂を語る、年老いた坑夫がいた。台詞は三つ。三つ目を聞くと、地図に印がつく。
ゲームの湊は、そこへ着いたころには、レベル三十を越えていた。
今の湊は、十一で、左足を地面につけない。
「……五日か」
「ぼやくんじゃないよ。歩けば、十日だ」
*
昼を少し過ぎたころ、街道は、林の谷間に入った。
両側から斜面が迫り、道は荷馬車一台がやっと通れる幅に狭まった。斜面は人の背丈より高く、土の中から松の根が、肋骨のように突き出している。斜面の上は白樺と松の林で、陽は、まだらにしか落ちてこない。
湊は、袋の山のいちばん前にいた。御者台のマルタの背中のすぐ後ろで、帆布の下に体を沈め、顔だけを出していた。リシェルは、荷台のいちばん後ろ、袋の山の陰に座っている。
風は、前から吹いていた。
谷の奥から吹いてくる風が、荷台の苦蓬の匂いを、後ろへ押し流してくれる。だから、前の匂いだけは、きれいに届いた。
湊の鼻が、それを拾った。
人の汗。三十歩ほど先の、道の上。汗の下に、脂と鉄の匂いがある。研いだばかりの、大きな刃物だ。
もうひとつ。左の斜面の上、十五歩ほど。松脂に似た、蝋の匂い。弓の弦に塗る蝋だ。それに、油を差した金具の匂い。
弩だった。
「止めるな」
湊は、マルタの背中に、小さく言った。
「でも、速くもするな」
マルタは、振り向かなかった。手綱を握る指が、ほんの少し締まった。
「何人だい」
「前の道に一人。左の上に一人。弩を持ってる」
「後ろは」
湊は、後ろの風を嗅ごうとした。苦蓬の匂いの壁しかなかった。自分たちが積んできた匂いが、後ろを塞いでいた。
「……わからない」
湊は、袋の上を這って、荷台の後ろへ下がった。左足を引きずるたびに、袋が沈む。リシェルが、身を低くしたまま、湊の方へ寄ってきた。
湊は、頭の中で手順を唱えた。
一つ。弩は、一発撃ったら、次を撃つまでに時間がかかる。足を鐙にかけて、取っ手を回し、弦を巻き上げなければならない。ゲームの《街道の弩兵》は、五つ数えるあいだ、何もできなかった。本物は、もっとかかるかもしれない。
二つ。だから、一発目を、わざと撃たせる。
三つ。撃たせたら、巻き上げているあいだに、リシェルが斜面を駆け上がって、弦を切る。
四つ。前の一人は、荷馬車に近づけない。近づいてきたら、湊がやる。
湊は、それを、リシェルに囁いた。
「撃たせるって」
リシェルの目が、湊の額を見た。
「誰に向けて」
「向こうが撃ちたいのは、角だ」
「その体で」
「置くだけなら、座っててもできる」
リシェルは、何か言いかけて、やめた。腰の後ろの双剣の柄に、両手をかけた。
「三つ数えて、登る」
「撃ってからだ」
「わかってる」
荷馬車は、ゆっくりと進んでいた。
前方二十歩の道の上に、男がひとり、木の陰から出てきた。
大きな男だった。肩が、荷馬車の馬ほどもある。両手で、柄の長い斧を提げていた。木こりの斧ではない。刃が三日月のように反った、戦の斧だった。男は斧の刃を道に下ろし、空いた手を上げた。
「止まんな、婆さん」
マルタが、手綱を引いた。荷馬車が、歩くより遅くなった。止まりはしなかった。
湊は、袋の山の上で、帆布を払いのけた。
頭を、上げた。
額の角に、まだらな陽が当たった。
左の斜面を見た。松の幹と幹のあいだに、光るものがあった。弩の、矢の先の金具だった。それが、ゆっくりと横へ動いて、湊の頭の高さで、止まった。
光の槍なら、撃つ前に匂いが膨らむ。弩には、匂いがない。だから、目で見るしかなかった。
金具の光が、ぴたりと止まった。狙いが、決まったのだ。
湊は、袋の上に体を倒した。
風を切る音が、湊の頭のあった場所を抜けた。すぐ後ろの麻袋に、太い矢が根元まで突き刺さった。袋が裂け、乾いた苦蓬の葉が、粉になって舞いあがった。
「今」
リシェルが、荷台の縁を蹴った。
斜面の根元に跳びつき、突き出した松の根を左手で掴む。根を足がかりに、二歩、三歩。斜面は人の背丈より高い。彼女は、根から根へ、体を縦に引き上げていった。
湊は、数えた。
一つ、二つ。
斜面の上から、きり、きり、と、金具の軋む音がした。巻き上げの音だった。
三つ、四つ。
リシェルの頭が、斜面の縁を越えた。
五つ。
ゲームなら、もう次が撃てる。巻き上げの音は、まだ続いていた。
六つ。
斜面の上で、男が何か叫んだ。巻き上げの途中の弩を、盾のように前へ突き出した。
リシェルの右の剣が、その弩の弦の上に、置かれた。
弦が、鞭のような音を立てて跳ねた。
男が弩を捨てて、林の奥へ転がるように逃げていくのが、松の幹のあいだに見えた。リシェルは、追わなかった。斜面の縁に膝をつき、下の道を見た。
そのとき、荷台が、後ろへ傾いだ。
湊は、振り向いた。
荷台のいちばん後ろの、さっきまでリシェルが座っていた袋の上に、男がひとり、膝をついていた。小柄で、痩せていて、顔の半分を布で覆っている。右手に、刃の短い剣を逆手に握っていた。
近すぎる。そこまで来て、ようやく、男の汗の匂いが、苦蓬の壁を破って湊の鼻に届いた。
後ろは、わからない。わからないところから、来た。
男が、袋の山の上を、四つ這いで来た。袋は、膝をつくたびに沈む。それでも、男の動きには迷いがなかった。荷馬車の上での戦い方を、知っている動きだった。
湊は、右の膝を袋に沈めて、上体を起こした。左の脚は、前に投げ出したまま。立てない。下がれない。
右手で、腰の布から《欠けた月》を抜いた。指の骨まで、冷たさが突き刺さった。
男の肩が、沈んだ。
黒狼の森で覚えた。跳ぶ前に、獣は肩が沈む。人も、同じだった。
男の短い剣が、湊の喉を狙って、上から斜めに振り下ろされてきた。
生かして連れていく剣ではなかった。殺すための、まっすぐな剣だった。
湊は、その通り道に、刃を置いた。
鋼が、鳴らなかった。男の剣の先が、半分、ふっと消えた。消えた先が、くるくる回って、荷台の外へ飛んでいった。
男は、止まらなかった。
半分になった剣を捨て、空いた右手で、湊の胸を突いた。そして左手で、湊の、胸に吊った左腕を掴んだ。
牙の跡の、四つの穴の上を。
目の前が、白くなった。
声が、出なかった。肺の半分しかない息が、喉の奥で潰れた。
「左腕に、獣の噛み傷」
男の声が、布越しに、耳元で言った。
「張り紙に、書いてあったとおりだな」
男の指が、さらに食いこんだ。肘の方へ退いていた腫れの、いちばん熱いところへ。
湊の右手の中で、《欠けた月》が、指からずれかけた。冷たさで、指先の感覚が遠のいていた。握っていられる数は、六十。それを、とっくに越えていた。
男の右手が、湊の喉へ伸びてきた。
「掴まりな!」
マルタの声だった。
湊は、考えるより先に、右の肘を、袋を縛った縄の下に突っこんだ。
マルタが、手綱の端で、老いた馬の尻を、力いっぱい打った。
荷馬車が、跳ねた。
馬が、歩くのをやめて、いきなり駆けだしたのだ。荷台が前へ引っぱられ、袋の山が後ろへずれた。
湊の体は、縄に引っかけた右の肘で、荷台に留まった。
男の体は、留まらなかった。膝で袋の上に乗っていただけの男は、湊の左腕を掴んだまま、後ろへ持っていかれた。指が、腕から剥がれた。剥がれるときに、牙の跡を、もう一度抉っていった。
男は、荷台の後ろから、道の上へ落ちた。背中から落ちて、二度転がった。
荷馬車は、前へ駆けていく。
前には、斧の大男が、道の真ん中に立っていた。二十歩。十五歩。
大男は、跳んで、右の斜面の根元へよけた。荷馬車が、その脇を抜けていく。
抜けかけたところで、大男の太い腕が伸びて、御者台の横の板を掴んだ。
荷馬車が、大男の重さで、右へ傾いた。大男は、走る荷馬車の横にぶら下がりながら、片腕で体を引き上げてきた。斧を握ったままの手が、御者台の縁にかかった。マルタの、すぐ横だった。
湊は、袋の上を這って前へ出ようとした。左足が、袋に沈んだ。間に合わない。
マルタは、片手で手綱を握ったまま、もう片方の手を、前掛けの物入れに入れた。
握って、出した。
赤い粉だった。
マルタは、それを、大男の顔に、まともに叩きつけた。
赤い煙が、ぱっと散った。湊の鼻にまで、焼けるような辛い匂いが届いた。胡椒と、干して挽いた唐辛子の匂いだった。
大男が、獣のような声を上げた。御者台から手が離れた。大男は、走る荷馬車の横から道に落ちて、顔を両手で押さえたまま、土の上を転げまわった。
マルタが、手綱を引いた。
三十歩ほど先で、荷馬車は止まった。
「薬屋はね」
マルタは、前掛けで手の粉を払いながら言った。
「目潰しも売るんだよ。三倍でね」
*
湊は、荷台の上で、しばらく動けなかった。
左腕が、脈を打つたびに焼けた。《欠けた月》が、右手の中で、まだ冷たかった。指を、一本ずつ、刃から剥がした。剥がした指は、刃の形に曲がったまま、すぐには伸びなかった。
後ろの道を、リシェルが走ってくるのが見えた。斜面から滑り降りてきたのだろう。膝の擦りきれた布に、土がついていた。
リシェルは、道に転がった大男の横を、剣を抜いたまま走りすぎた。大男は、目を開けられないまま、這って斜面の方へ逃げていた。小柄な男は、もう立ちあがっていた。
小柄な男は、こちらへ一歩踏み出しかけて、ふいに、頭を押さえてよろめいた。
それから、膝をついた。押さえた指のあいだから、血が流れていた。
荷台から落ちたときに、どこかで打ったのだろうか。湊は、さっき見た男の転がり方を思い出した。背中から落ちて、二度転がった。頭は、打っていなかったように見えた。
小柄な男は、血の流れる頭を押さえたまま、林の中へ逃げこんでいった。
「おい、灰角!」
斜面の根元から、大男の声がした。顔を押さえたまま、涙と赤い粉でぐしゃぐしゃの顔を、こちらへ向けていた。目は、開いていなかった。
「いい気になるなよ。門の犬が伏せたのを、俺らが見てなかったとでも思ったか」
湊の背中が、冷たくなった。
若い門番は、犬が伏せたのを、苦蓬のせいにした。聖騎士は、それを信じた。
信じなかった目が、門のそばに、もうひとつあったのだ。
「張り紙が、変わったんだよ。今朝な」
大男は、怒鳴った。
「生死を問わず、銀貨百枚だ。灰角の首ひとつで、百枚だぞ。……北の道に出てるのが、俺らだけだと思うなよ」
林の奥で、馬のいななきがした。蹄の音が、三つ。谷の斜面の上を、北へ遠ざかっていった。
生死を問わず。
湊は、その言葉を、口の中で転がした。
ヴァルターは、「生かしてな」と言った。噴水広場でも、井戸の縁でも。生かして連れていくか、どうか。真夜中に決める、と言った。
その男が、夜明けに、「次は、待たん」と言った。
待たない、というのは、こういうことだったのだ。
あの小柄な男の剣は、喉を狙っていた。殺すための、まっすぐな剣だった。ヴァルターの剣は、一度もそうではなかった。わざと浅く、湊の腿を斬った。
もう、誰も、浅くは斬ってこない。
リシェルが、荷台に追いついた。荷台の縁に手をかけて、肩で息をしていた。
「大丈夫」
「……腕を、掴まれた」
リシェルは、湊の左腕を見た。布の上に、血が滲んでいた。牙の跡が、また開いたのだ。
「マルタさん」
「わかってるよ。軟膏なら、売るほどある。売り物だけどね」
マルタは、御者台から下りかけて、ふと、道の上を見た。
湊も、そちらを見た。
小柄な男が膝をついていたあたりに、石がひとつ、転がっていた。
拳ほどの、丸い石だった。この谷の、乾いた道の石ではない。川の底で、何百年も転がって丸くなった石だ。片側が、赤く濡れていた。
風が、変わった。
谷の奥からではなく、右の斜面の上から、林を抜けて吹き下ろしてきた。
その風の中に、匂いがあった。
湊は、知らない匂いだと思った。
それから、知っている、と思った。
雨の前の、乾いた石のような匂い。焚き火のあとの、冷えた灰のような匂い。
湊は、それを、ずっと嗅いできた。外套が濡れて効かなくなるたびに。夜、自分の腕に鼻を寄せたときに。下水道の水から這い上がった、自分の肌の上に。
自分の匂いだった。
それが、自分の体からではなく、林の中から来ていた。
湊は、顔を上げた。
右の斜面の上。谷の上に倒れかけた、一本の松があった。根の半分が土から抜けて、幹が谷の方へ、斜めに突き出している。
その幹の上に、子どもがいた。
裸足だった。膝の破れた、丈の短い服を着ていた。片手から、紐が一本、垂れていた。紐の先に、革の小さな受けがついている。投石の紐だった。
もつれた灰色の髪の中から、親指の先ほどの角が二本、のぞいていた。
肌は、灰色だった。
子どもの目が、湊を見ていた。
湊も、その目を見た。
灰色の瞳だった。湊が、川の水に映して見た、自分の目と同じ色だった。
どれくらい、そうしていたのかわからない。
リシェルが、湊の視線を追って、斜面を見上げた。
そのときには、もう、松の幹の上には、誰もいなかった。枝が一本、揺れているだけだった。
「……ミナト?」
湊は、答えなかった。
鼻で、息を吸った。
風の中に、まだ、あの匂いが、ほんの少しだけ残っていた。乾いた石と、冷えた灰。それが、林の奥へ、北へ、遠ざかっていった。
この世界に目覚めて、十三日目。
湊は、自分以外の灰角の匂いを、初めて嗅いだ。




