第十五話 灰の匂い
苦蓬の軟膏は、塗った瞬間がいちばん熱い。
マルタの太い親指が、湊の左腕の牙の跡に、それを押しこんだ。小柄な男の指が抉っていった四つの穴の上に、ひとつずつ。焼けるような熱が腕の骨に沿って肘まで駆けのぼり、それから、ゆっくりと痺れに変わっていった。
湊は、荷台の縁に背中を預けたまま、奥歯を噛んでいた。
「動くんじゃないよ」
「動いてないって」
「腕じゃない。顔だよ。そんな顔をされたら、塗りにくいったらありゃしない」
マルタは、新しい布で腕を巻き直した。きつく、手早く。乳鉢を何万回も回してきた指は、布の端を結ぶのも速かった。
荷馬車は、まだ林の谷間の中で止まっていた。賞金稼ぎの三人が北へ逃げてから、百も数えていない。老いた馬は、いきなり駆けさせられたことに腹を立てているのか、首を振って鼻を鳴らしていた。
リシェルは、荷台の後ろで、湊の右手を自分の膝に乗せていた。
《欠けた月》を握りすぎた指は、まだ刃の形に曲がったままだった。リシェルはそれを、一本ずつ、関節ごとに伸ばしていった。地の底で白い番人の子を仕留めたあとにも、彼女は同じことをした。あのときより、指は冷たかった。
「六十、越えてたでしょう」
「……数えてなかったんだよ」
「越えてたわ。指を見れば、わかる」
小指まで伸ばし終えると、リシェルは湊の手を、自分の両手で包んだ。湊は、何も言わなかった。
湊の目は、道の上の石に向いていた。
小柄な男が膝をついたあたりに転がっている、拳ほどの丸い石。
「リシェル、悪い。あの石、取ってくれないか」
彼女は荷台から下りて、石を拾ってきた。片側が、乾きかけた血で黒ずんでいる。湊は、それを右の手のひらに乗せた。重い。表面はつるりとしていて、細い白い筋が一本、帯のように巻いている。
この谷の道には、角の尖った、乾いた石しか落ちていない。
「これ、川の石だな」
「川なんて、このあたりにはどこにもないけど」
「だから、誰かが持ってきたんだよ。どこかの川から」
湊は、石を鼻に近づけた。血の匂いの下に、かすかに、あの匂いが残っていた。雨の前の乾いた石。焚き火のあとの、冷えた灰。
石を握っていた手の匂いだった。
「ねえ、さっき何を見てたの」
リシェルが訊いた。彼女が斜面を見上げたとき、松の幹の上には、もう誰もいなかった。
湊は、少し迷ってから答えた。
「……灰角の子どもが、いたんだ」
リシェルの手が、止まった。
マルタが、鼻を鳴らした。
「国境の森にはいるって話は、聞くよ。山の町でも、たまに噂になる。羊が消えた、干し肉が消えた、灰角の仕業だ、ってね」
「あんたは、見たことあるのか」
「ないね。見たって言う奴は、たいてい酒が入ってる」
マルタは、布の端を歯で噛み切った。
「関わるんじゃないよ、灰角。首に百枚ぶら下げた奴が、寄り道なんかするもんじゃない」
湊は答えなかった。
三千十四時間。
『アルカディア・レクイエム』の大陸を、湊は歩ける場所は全部歩いた。全部の村の全部の家の扉を叩き、全部の住人に三度ずつ話しかけた。攻略wikiの〈種族〉の頁、灰角族の項のいちばん下の行には、湊自身がこう書いた。
〈灰角族のNPCは存在しない(全マップ確認済み)〉
この世界でも、灰角は自分ひとりだと思っていた。少なくとも、生きている灰角は。
二十年前の灰角は、帰ってこなかった。地の底の壁の人々は、膝をついて月を見上げたまま、石に刻まれていた。
それなのに、あの子どもの目は、灰色だった。
*
谷を抜けると、道は川に出会った。
幅は二十歩ほど。山の雪解け水を集めた、白く濁った速い流れだった。岸は一面の丸い石で、どれもこれも、湊の手の中の石と同じ、つるりとした灰色をしていた。白い筋の巻いたものも、いくらでも転がっていた。
「この川、名前はあるのか」
「ないね。山の連中は、ただ川って呼ぶ」
ゲームでも、名前はなかった。北の街道を横切る、青い線が一本。橋を渡るのに、三秒もかからなかった。
荷馬車は、古い木の橋を渡り、川沿いに北へ進んだ。右手は川。左手には、白樺と松の森が、黒い壁のように迫っていた。
国境の森だった。
ゲームでは、通り抜けるだけの道だった。道の両脇の森には、見えない壁があって、一歩も入れなかった。
今は、ない。
日が傾きはじめたころ、マルタは街道を外れた。川へ下りる細い轍をたどり、ハンノキの茂みの裏に荷馬車を入れた。道からは、茂みに隠れて見えない。
「この先に、ウィルデンって村がある。炭焼きと木こりの村さ。灰角を連れて泊まれる宿なんか、ありゃしない。今夜は、ここだ。火は焚かないよ」
湊は、荷台から下りようとして、左足を地面につけかけた。目の前が、白くなった。
リシェルが、何も言わずに森の縁へ歩いていった。しばらくして、白樺の枝を一本、引きずって戻ってきた。親指と人差し指で作った輪ほどの太さで、先が二股に分かれている。彼女は短い剣で余計な小枝を払い、何度か刃を入れて、長さを湊の脇の下に合わせた。二股のところには、ギデオンの乾いた布を巻いた。
「はい、杖。使って」
「……助かる。ありがとう」
「借りは、作らない主義なの」
それが何の借りなのか、湊は訊かなかった。
杖を右の脇に挟み、右足と杖で、体を運んだ。三歩で、息が上がった。肋骨が鳴った。それでも、リシェルの肩を借りずに、自分の足で川岸まで歩けた。
川の水で、顔を洗った。冷たさが、二度焼かれた左の頬に沁みた。
それから、水際の砂の上を見た。
足跡があった。
小さな、裸足の足跡だった。五本の指の形まで、くっきり残っている。湊の手のひらほどの長さしかない。足跡は、水際に沿って上流から来て、川に入り、また出て、森の方へ消えていた。
足跡のそばに、石が積んであった。拳ほどの丸い川の石ばかり、七つ。拾って、選んで、積んでおいたのだ。
湊は、その石の山に鼻を近づけた。
あの匂いがした。
*
日が沈んだ。
森の縁が、空より先に黒くなった。川の音だけが、暗くなっても変わらなかった。
湊は、荷台の袋に背を預けて、川の向こうの空を見ていた。灰月は、まだ昇っていない。満ちた夜から一日たった灰月は、日が沈んでしばらくしないと、山の端に顔を出さない。
最初に聞こえたのは、角笛だった。
森の奥。北西の方角。低く、長く、一度。
それから、犬の声。一頭ではない。二頭。吠えながら、走っている。獲物を追い立てる犬の声だった。
マルタが、御者台の上で身を起こした。
「……ウィルデンの連中だ」
「狩りでもしてるのか」
「灰角狩りだよ」
マルタの声は、低かった。
「村の衆が、ときどきやるんだ。教会の触れでね。灰角を匿った村は、村ごと清める。灰角を差し出した村には、生きてりゃ一匹につき銀貨二十枚。死んでりゃ十枚」
風が、森から川へ吹きはじめた。
湊は、目を閉じた。
匂いが、来た。松脂を燃やす松明の煙。六本ぶん。人の汗が、六人ぶん。犬が二頭。犬の匂いの中に、鉄の匂いが混じっている。首輪の金具だ。犬の毛には、古い獣の血の匂いが、何度も重ねて染みこんでいた。
狼の血だった。
そして、その全部の先を、あの匂いが走っていた。
乾いた石。冷えた灰。切れた息の汗。それに、新しい血。
「……何かが、追われてる」
「誰が追われてるの」
リシェルが訊いた。答えは、わかっているはずだった。
湊は、もうひとつ、別のことに気づいていた。
昼過ぎ、賞金稼ぎの三人は、馬で北へ逃げた。この道を北へ行けば、ウィルデンを抜ける。
――灰角の首ひとつで、百枚だぞ。
あの大男が、村でそれを触れて回らなかったはずがない。
ウィルデンの男たちは、百枚の灰角を狩りに出たのだ。そして犬に、灰角の匂いを追わせた。犬の鼻には、湊の匂いとあの子の匂いの区別がつかない。湊の鼻にさえ、昼間、自分の匂いだと思えたのだから。
あの子が追われているのは、湊のせいだった。
湊は、杖を掴んだ。
「その足で、行く気?」
リシェルが言った。
「あの子の石に、俺は命をひとつ拾ってもらったんだ」
湊は、手の中の丸い石を見せた。
「お前だって、借りは作らない主義なんだろ」
リシェルは、湊の顔を見た。それから、細く息を吐いて、腰の後ろの双剣の柄に両手をかけた。
マルタは、手綱を膝に置いたまま、二人を見下ろしていた。
「あたしは止めないよ。客の行き先に、口は出さない主義でね」
それから、付け足した。
「荷馬車は、夜明けまでしか待たない。三倍払っても、待たないよ」
*
犬の声は、川へ向かっていた。
湊にはわかった。犬は、獲物を水際へ追いこんでいる。前が川なら、獲物はもう逃げられない。狼狩りの犬の、いちばん得意な追い方だった。
湊とリシェルは、ハンノキの茂みを抜けて、川岸を上流へ進んだ。杖の先が、丸い石の上で何度も滑った。
四十歩ほど行くと、川が東へ曲がっていた。曲がりの内側に、岩があった。
湊の背丈より高い、丸い大岩がひとつ。その手前に、膝ほどの高さで、机ほどの広さの平たい岩がひとつ。大岩を背にして平たい岩に座れば、右手はすぐ川で、左手は川岸の石の原が上流へ続く。前は、十歩ほどの石の原の先が、森の縁だった。
湊は、平たい岩に腰を下ろした。左足を前に投げ出し、杖を岩の脇に寝かせた。
頭の中で、手順を唱えた。
一つ。あの犬たちは、狼の血を何度も浴びている。狼を怖がる犬ではない。狼を狩る犬だ。だから、狼の声を聞けば、怯えて逃げるのではなく、こっちへ来る。
二つ。犬がこっちへ来ているあいだに、リシェルが上流のあの子のところへ行く。
三つ。背中は大岩、右は川。犬は、前か左からしか来られない。
四つ。来たら、置く。
「ねえ、左はどうするの」
リシェルが囁いた。
「そっちには、刃が届かないでしょう」
「わかってるよ」
「わかってるなら、左を空けて座らないでよ」
「しょうがないだろ。ほかに座れる岩がないんだ」
リシェルは、何か言いかけて、やめた。湊の左の肩に一度だけ触れて、上流の暗がりへ、足音もなく消えた。
湊は、腰の布をほどいた。《欠けた月》を、右手でじかに握った。指の骨まで、冷たさが刺さった。
一つ、と数えはじめた。
上流で、水の音が乱れた。
三十歩ほど先の水際に、小さな影があった。川を背にして、膝まで水に浸かっている。その影に向かって、森の縁から、黒い犬が二頭、石の原を駆けてきた。
影の腕が、頭の上で一度だけ回った。紐の鳴る音がして、先頭の犬の首のあたりで、かん、と石と鉄のぶつかる音がした。首輪に当たったのだ。犬は、ひるまなかった。
影は、さらに水の中へ下がった。流れが、影の胸まで来た。小さな体が、ぐらりと傾いだ。
湊は、息を吸った。半分しか、入らなかった。
それで足りた。
喉の奥から、《咆哮》を押し出した。掠れた、鳴き真似の声だった。井戸の反響もない。灰月の夜でもない。それでも、犬の耳には、狼の声に聞こえたはずだ。
二頭の犬の頭が、同時に、こちらを向いた。
犬たちは、吠えるのをやめた。黙って、湊の方へ走りだした。狼を見つけた狼狩りの犬は、もう吠えない。吠えるのは、獲物を追い立てるときだけだ。
十、と数えた。
先頭の犬が、石の原をまっすぐに来た。大きい。背中が、座った湊の肩の高さほどある。毛は硬くもつれ、首には、外向きに鉄の鋲を打った太い革の首輪。狼に喉を噛ませないための首輪だった。
犬の肩が、沈んだ。
跳ぶ。正面から、湊の喉を狙って。
湊は、刃を、犬の跳ぶ線の上に置いた。振らない。肘から先だけで、刃の向きを犬の胸の高さに合わせ、そこに置いておく。地の底で、白い番人の子を相手に覚えたやり方だった。
犬の体が、置かれた刃の上を通りすぎた。
手応えは、ほとんどなかった。濡れた布を裂くような、かすかな抵抗だけ。犬の胸から右の前脚の付け根まで、毛と皮が、ぱくりと割れた。
犬は、湊の右の肩をかすめて背中の大岩にぶつかり、甲高い悲鳴を上げた。三本脚で、石の原へ転がり出た。血の匂いが、どっと広がった。
二頭目は、跳ばなかった。
一頭目の悲鳴を聞いて、走る向きを変えた。正面ではなく、左へ。大きく回りこんで、湊の左側から来た。
刃の届かない側だった。
ヴァルターと同じだ、と湊は思った。獣も、見て覚える。
湊は、刃を左へ回そうとした。体がついてこない。前に投げ出した左足が、胴をひねらせなかった。ひねりかけた胴の内側で、肋骨が鳴った。
二頭目の顎が、湊の左の肩口に食らいついた。
牙は、肩までは届かなかった。胸に吊った左腕の吊り布と、上着の厚い布を、まとめて噛んだのだ。犬が、首を振った。布ごと、湊の体が、平たい岩の上から左へ引きずり出された。
湊は、引かれるまま、左へ倒れた。
倒れながら、右腕を、自分の胸の上を越えて左へ伸ばした。体が左へ倒れるぶんだけ、右手は、届かなかった左側へ届いた。
刃を、犬の首輪の上に置いた。
鉄の鋲を打った革の首輪が、音もなく、二つになった。刃は首輪の下の毛と皮にまで届いて、浅く滑った。
犬が、布を放した。首を振り、切れた首輪を石の上に落として、悲鳴を上げながら森の方へ逃げていった。一頭目が、三本脚で、そのあとを追った。
湊は、平たい岩の脇の石の上に横倒しになったまま、息をした。半分。また、半分。
三十一、と数えた。
*
松明の光が、森の縁に並んだ。
六本。湊が匂いで数えたとおりだった。
男たちが、木の陰から出てきた。厚い毛織の上着。木こりの斧。干し草を返す三つ叉の熊手。一人は、肩に巻いた網を担いでいた。網からは、魚の脂の匂いがした。
いちばん後ろに、弓を持った男がいた。四十を少し越えたくらい。日に焼けた顔の右の頬に、獣の爪の跡が三本、平たく走っている。熊の脂を塗った革の匂い。弓の弦に塗った蝋の匂い。
松明が、平たい岩の脇に転がった湊を照らした。
角を、照らした。
「いたぞ」
熊手の男が、声を上ずらせた。
「……おい、こっちが百枚のほうだぞ」
「あいつ、足が悪いらしいな」
弓の男が言った。落ちついた声だった。
「ヤン、網を投げろ」
網の男が、前へ出た。五歩の距離で、網を両手で広げ、腰をひねって投げた。
湊は、右の肘で身を起こしかけていた。そこへ、網が降ってきた。
魚の脂の匂いが、顔を覆った。網の目は、湊の指が二本通るほどの粗さで、太い麻縄を編んである。縁に並んだ鉛の重りが、湊の体を石の上に押さえつけた。
網の向こうで、熊手の男が走ってきた。三つ叉の先が、松明の光を受けて光った。
湊は、網の内側から、刃を立てた。
麻縄は、刃に触れたところから、ほどけるように切れた。濡れた紙を裂くより軽かった。湊の頭の上に、人の頭ほどの穴が開いた。
熊手が、上から突き下ろされた。
湊は、頭を右へずらした。三つ叉の先が、湊の左の耳のすぐ横で、平たい岩の縁を打った。火花が散った。
湊は、網の穴から右手を出し、熊手の柄の上に、刃を置いた。
柄が、二つになった。熊手の男は、短くなった柄だけを握ったまま、前のめりに膝をついた。
「なんだ、ありゃあ」
「刃物だ。熊手の柄が、すぱっと……」
男たちの声が、乱れた。
そのときだった。
上流の暗がりから、風を切る音がした。
いちばん端の松明が、男の手の中で跳ねた。松明の頭に、丸い石がぶつかったのだ。火の粉が散り、松明は男の手からこぼれて、水際の浅瀬に落ちた。じゅっ、と音がして、光がひとつ消えた。
もう一度、風を切る音。二本目の松明が叩き落とされて浅瀬に転がり、これも消えた。
湊は、上流を見た。
水際に、リシェルが立っていた。濡れた何かを、左腕で抱きかかえるようにしている。その腕の中から、細い腕が一本突き出して、頭の上で紐を回していた。
あの子だった。リシェルに抱えられたまま、投石を続けていたのだ。
三本目の松明が、消えた。
残りは三本。
「リシェル! 松明を消してくれ!」
湊は、叫んだ。
リシェルが、抱えていたものを水際に下ろした。石の原を、こちらへ駆けてくる。走りながら、腰の後ろの双剣を抜いた。
松明を持った男の一人が、彼女に気づいて振り向いた。リシェルは、その脇をすり抜けざまに、右の剣を松明の柄の上に置いた。火のついた頭が、くるりと回って川へ落ちた。
二人目の男は、松明を彼女の顔へ振り回した。リシェルは身を沈めて火の下をくぐり、左の剣の柄頭で、男の手首を打った。松明が落ちた。彼女はそれを、川へ蹴りこんだ。
最後の一本を持った男は、松明を放り出して森の縁へ逃げた。リシェルは、石の上で燃えているそれを踏みつけ、火の頭を石に擦りつけて消した。
闇が、来た。
*
灰月は、まだ昇っていなかった。
森の縁の木々の下は、墨を流したように暗かった。川の水面だけが、空の残りの光を映して、白っぽく浮いていた。
男たちには、何も見えていなかった。
湊には、見えなくても、わかった。
地の底の闇で、白い番人の子を仕留めたときと同じだった。匂いが、闇の中に、点になって並んでいた。
湊は、網の残りを肩から払い落とし、右の肘と右の踵で石の上を這って、平たい岩の上へ戻った。背中を、大岩に押しつけた。背中と右が塞がっていれば、匂いを嗅ぐ方角は、前と左だけでいい。
網の男、正面、六歩。腰が引けている。汗の匂いが酸っぱい。熊手の柄だけを握った男、右手前、三歩。まだ膝をついている。斧の男が二人、左手、八歩と九歩。松明を落とされた男たちが、森の縁にひと固まりになっている。
弓の男だけが、動いていなかった。
森の縁の、いちばん太い松の根元。湊から十二歩。息を殺している。闇の中でじっとしていれば見つからないことを、知っている男だった。
「リシェル」
湊は、低く言った。
「左に八歩。斧を持ってる。もう一人、そのすぐ後ろにいる」
リシェルの足音が、石の上を左へ流れた。
鈍い音がした。柄頭が、誰かの手首を打つ音。斧が石の上に落ちる音。男の悲鳴。
「灰角が……二匹、いや、もっといるのか……」
誰かが、闇の中で喚いた。
「次は正面、六歩。網の男だ」
リシェルの足音。もう一度、鈍い音。
男たちは、もう逃げはじめていた。闇の中の剣と、闇の中で居場所を言い当てる声が、何よりも怖いのだ。森の縁の枝を折る音が、ばらばらに遠ざかっていった。
五十、と数えた。指先の感覚が、遠くなりはじめていた。
弓の男だけが、残っていた。
湊の鼻に、弦の蝋の匂いが、ふいに濃くなった。
弦が、引かれている。
男の向いている先は、湊ではなかった。
川だった。
白っぽく光る水面を背にして、小さな影が、水際に立っていた。闇の中で、そこだけが、影の形に切り抜かれていた。
弓の男は、見えるものを狙ったのだ。
湊の座る平たい岩から、あの子までは、二十歩以上ある。湊の足では届かない。《疾駆》の半歩でも、届かない。
声なら、届く。
湊は、叫んだ。叫べば、自分の居場所を男に教えることになる。それは、わかっていて叫んだ。
「弓だ! 太い松の根元にいるぞ!」
影の腕が、頭の上で回った。
紐の音と、弦の音が、重なった。
森の縁で、硬いものが砕ける音がした。男が呻いた。矢は狙いを外れ、あの子の頭の上を越えて、川の向こうの闇に消えた。
石は、男の弓を握る手に当たったのだ。
湊は、息を吐いた。
吐き終わる前に、熊の脂の匂いが、まっすぐこちらへ来た。
弓の男は、弓を捨てていた。かわりに腰の手斧を抜いて、闇の中を、湊の声のした方へ走ってきた。足音が、石を踏む。七歩。五歩。
湊は、背中を大岩に押しつけた。
男の汗の匂いが、上へ動いた。手斧が、振り上げられたのだ。
匂いが、落ちてくる。湊は、その落ちてくる線の上に、刃を置いた。
鋼が、鳴らなかった。
手斧の頭が柄から離れ、湊の右の肩の上を飛んで大岩に当たり、石の原に落ちた。
男の体は、止まらなかった。振り下ろした勢いのまま、湊の上へ倒れこんできた。柄だけになった木の棒が、湊の胸を打った。布の下で、肋骨が鳴った。息が、消えた。
息のないまま、湊は、倒れこんできた男の喉に、刃を当てた。
男が、止まった。
男の息が、湊の顔にかかった。煙と、熊の脂と、乾いた血の匂い。
そのとき、山の端から、灰月が顔を出した。
左の欠けた、灰色の月。その光が、川を渡って、平たい岩の上に届いた。
男の顔が、見えた。右の頬の、三本の爪の跡。四十過ぎの、疲れた目。その目が、湊の目を見ていた。
角の付け根が、ちり、と疼いた。
目を見たまま、自分の手で、とどめを刺す。条件は、そろっていた。
男が、言った。
「……刺せよ。どうした」
湊は、刺さなかった。息が戻るのを待って、訊いた。
「なんで、あの子を追ったんだ」
「追ってたのは、お前だよ」
男は、唇の端を歪めた。
「昼過ぎに、馬の三人連れが、村を抜けていった。百枚の灰角が、北の道を来るってな。……犬に、灰角の匂いを追わせた。犬が見つけたのは、あのガキだった。灰角の匂いは、灰角の匂いだ。犬には、わからねえ」
湊は、何も言えなかった。わかっていたことだった。
「去年の秋だ」
男は続けた。刃を喉に当てられたまま、声は落ちついていた。
「白い外套の坊主が、村に来た。森に灰角が棲んでるそうだな、と言った。匿ったら、村ごと清める、とな。清めるってのがどういうことか、ブラムウェルの薬屋の話を聞いてりゃ、わかる」
ハンノキの茂みの裏で、マルタがこれを聞いていなければいい、と湊は思った。
「あのガキの首ひとつで、村が冬を越せる。三十人の村だ」
男は、湊の目から、目を逸らさなかった。
「お前に、何がわかる」
湊は、刃を引いた。
男の喉に、赤い線は残らなかった。
「あの子は、もう追わないでくれ」
「追わなきゃ、村が清められるって言ってるだろうが」
「だったら、俺を追えばいい」
湊は言った。
「百枚のほうをな。あの子じゃなくて」
男は、しばらく湊の顔を見ていた。灰月の光の中で、湊の角と、灰色の肌を、最後まで見た。
それから、柄だけになった手斧の棒を捨てて、湊の上から体をどけた。何も言わずに背を向け、森の縁で弓を拾った。石に打たれた左手を押さえながら、闇の中へ戻っていった。
遠くで、角笛が、短く二度鳴った。引き上げの合図だった。
湊は、《欠けた月》から、指を一本ずつ剥がした。もう、数えていなかった。
*
リシェルが、湊の横に膝をついた。
左手の甲に、血が滲んでいた。
「噛まれたわ」
「犬にか?」
「ううん、あの子に」
リシェルは、手の甲を見せた。小さな、半月形の歯の跡が、きれいに並んでいた。
「水から引き上げたら、噛みついてきた。離さなかった。……離したと思ったら、腕の中で、投石を始めた」
「女の子だったのか」
「ええ、女の子」
リシェルは、手の甲の血を、胸当ての革で拭った。
「すごく軽かった。あの歳の子の、半分くらいしかなかったと思う」
湊は、水際を見た。
あの子は、まだそこにいた。
灰月の光の中に、立っていた。濡れた服が、細い体に張りついている。もつれた灰色の髪から、水が滴っていた。右手に投石の紐。左手に、丸い石をひとつ握っていた。
その子が、鼻を、ひくりと動かした。
こちらを、嗅いでいた。
湊は、杖を引き寄せて、立ちあがった。右足と、杖で。一歩、水際の方へ出た。
子どもが、紐の革の受けに、石を乗せた。
湊は、止まった。
「……おまえ」
子どもが、言った。
掠れた声だった。長いあいだ、誰とも喋っていない声だった。
「なんで、灰のにおいが、するの」
「お前と同じ、灰角だからだよ」
湊は、杖を脇に挟んだまま、右手の指で、自分の額の角に触れた。
子どもの灰色の目が、湊の角を見た。それから、湊の顔を見た。それから、湊の後ろにいるリシェルを見た。
目が、細くなった。
「うそだ」
「うそじゃないって」
「灰角なんか、もう、どこにもいない」
子どもは、言った。
「みんな、いなくなっちゃった。……それに、人間といっしょにいる灰角なんて、いるわけない」
湊が何か言うより先に、子どもは背を向けていた。
水際の石の上を、裸足で、音も立てずに走った。森の縁の闇に、飛びこんだ。
湊は、杖をついて、そのあとを追った。
「ミナト、待って」
リシェルの声がした。湊は振り向かなかった。
森の中は、暗かった。灰月の光は、白樺の梢で砕けて、まだらにしか届かない。杖の先が、松の根に引っかかる。湊は、匂いだけを頼りに進んだ。
乾いた石。冷えた灰。濡れた服。それが、白樺のあいだを、北へ続いている。
リシェルの足音が、すぐ後ろについてきた。
百歩ほど進んだところで、匂いが、ふいに乱れた。
湊は、足を止めた。
白樺の林の中の、小さな空き地だった。
匂いが、前からだけでなく、右からも左からも来た。後ろからも来た。乾いた石と、冷えた灰。同じ匂いが、空き地を囲む白樺の幹という幹から、立ちのぼっていた。
湊は、いちばん近い幹に鼻を寄せた。
白い樹皮の、湊の胸の高さに、古い布の切れ端が擦りつけてあった。灰角の汗の染みこんだ、着古した服の切れ端だった。
匂いの目くらましだった。
犬を撒くための。そして、湊のような鼻を撒くための。
「ミナト、上よ」
リシェルが、囁いた。
湊が顔を上げるより先に、風を切る音がした。
杖が、湊の脇の下から弾き飛ばされた。二股の少し下に、丸い石がめりこんでいた。
湊は、右足だけで立ったまま、ぐらりと揺れた。リシェルの手が、背中を支えた。
頭の上の、どこかの枝から、掠れた声が降ってきた。
「もう、ついてくるな」
湊は、闇を見上げた。どの枝なのか、匂いではわからなかった。空き地じゅうが、あの子の匂いだった。
「次は、目に当てるから」
この世界に目覚めて、十三日目の夜。
湊は、自分の匂いに、囲まれていた。




