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灰角のリスタート  作者: ヤッサン
第三章 鉄の轍

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第十六話 名を持たぬ子

 白樺の空き地には、灰月の光が枝に砕かれて、まだらに落ちていた。

 湊は右足一本で立ち、リシェルに背中を支えられていた。杖は三歩先の枯れ葉の上に転がっていて、二股の少し下に、あの子の投げた丸い石がめりこんだままになっている。あの子がどの枝にいるのかは、見上げてもわからなかった。梢はどこも黒く、ときおり風に揺れるだけだった。

「戻りましょう」

 リシェルが耳元で囁いた。

「あの子は、ついてくるなと言ったわ。次は目に当てるとも言った。あの腕なら、本当に当てるわよ」

「わかってる」

 湊はそう答えて、目を閉じた。

 鼻で探すしかなかった。けれど空き地を囲む白樺の幹という幹には、胸の高さに灰角の汗の染みた布切れが擦りつけてあって、どちらを向いても同じ匂いがした。乾いた石と、冷えた灰。犬を撒くための目くらましは、湊の《嗅覚》もきれいに撒いていた。

 それでも湊は、幹の匂いの下に、もっと細い匂いがないかを探した。

 しばらくして、それは見つかった。白く濁った雪解け水の匂いだった。山の石を削って流れてきた、冷たくて粉っぽい水の匂いが、頭の上のほうでかすかに動いている。

 幹の布切れは、何日も前に擦りつけたものだから、古い汗の匂いしかしない。けれどあの子は、ついさっき川に胸まで浸かったばかりだ。髪も服も、まだずぶ濡れのはずだった。濡れた体は、乾いた布とは違う匂いをさせる。

「リシェル。耳を澄ましてくれ。水の音がしないか」

 リシェルが黙りこむと、空き地の音が聞こえてきた。遠くの川の流れと、梢を渡る風。その中に、ぽつ、ぽつ、と枯れ葉を打つ小さな音が混じっていた。空は晴れていて、雨ではない。あの子の髪と服から、水が滴り落ちているのだった。

 音は空き地の北の端から聞こえ、少しずつ北へ移っていった。あの子は枝から枝へ渡って、離れていこうとしている。

「あの子、震えてただろ」

 湊は目を開けて言った。

「雪解けの水に胸まで浸かって、火も焚かずに、濡れたまま木の上にいるんだ。あのままにしておいたら、朝までに熱を出す」

 リシェルはしばらく何も言わなかった。それから湊を手近な白樺の幹にもたせかけると、三歩歩いて杖を拾い、めりこんでいた石を親指でこじり出してから、湊の右の脇の下に杖を差しこんだ。

「その石、取っておくの?」

「あの子のだからな」

 湊は石を帯に挟んだ。昼間、谷の道で拾った血のついた石と、二つ並んだ。

「一つだけ、約束して」

 リシェルが言った。

「前は、わたしが歩く。あなたは、わたしの背中の後ろにいて」

「俺の鼻がないと、闇の中は歩けないだろ」

「じゃあ、あなたの目は、誰が守るの」

 湊には、言い返す言葉がなかった。

 *

 水の滴る音は、空き地を抜けたところで枝を離れ、地面に下りた。そこから先は、濡れた裸足が枯れ葉と苔の上に残していく雪解け水の匂いが、一本の線になって北へ続いていた。

 二人はその線をたどって、白樺の林を北へ二百歩ほど進んだ。リシェルが前を歩き、湊は杖をついてその背中を追った。地面はしだいに上り坂になり、右手から沢の音が近づいてきた。川へ下りていく細い流れだった。上り坂の杖は平らな地面の倍も重く、一歩ごとに折れた肋骨が鳴った。杖の先が濡れた苔に滑るたびに、リシェルが振り向かずに後ろへ手を伸ばし、湊の帯を掴んで支えた。

 途中で一度、匂いの線が沢の水の中に消えた。湊は沢のほとりで立ち止まって鼻を流れの上へ向け、三十歩ほど上で濁った水の匂いがまた岸に上がっているのを見つけた。犬なら、ここで匂いを見失っていたはずだ。あの子は、こうやって何度も一人で逃げてきたのだろうと湊は思った。

 けれど、その先で湊は、おかしなことに気づいた。

 匂いの線が、はっきりしすぎているのだ。空き地ではあれほど手のこんだ目くらましをしていた子どもが、ここでは迷いようのない一本道を残している。枯れ葉の上の濡れた跡は、灰月の光で、湊の目にさえ見えた。

 わざと見せている、と湊は気づいた。追ってくる者を、どこかへ連れていこうとしている。

「リシェル、止まってくれ」

 リシェルが足を止めたのは、ちょうど木々が切れて、前が開けたところだった。

 そこから先は、幅の広い上り坂になっていた。坂の広さは、両手を広げた大人が五人並べるくらい。右手は沢が岩を削って流れる急な斜面で、左手は苔むした岩がごろごろと積み重なった岩場だから、どちらからも登れない。登れる道は、正面の坂だけだった。

 その坂を三十歩ほど登った先で、道は行き止まりになっていた。巨大な樅の木が、坂をふさぐように倒れていたのだ。倒れた幹は坂を左から右へ横切って寝そべり、根元のほうは土ごと引き抜かれて、こちらに向かって立ちあがっていた。根と土の塊は、大人の背丈の二倍ほどの高さの黒い壁になって、坂の行き止まりをふさいでいた。

 その根の壁のてっぺんに、小さな影が膝を抱えて座っていた。

「……来ないで、って、言った」

 掠れた声が、坂の上から降ってきた。

 湊は根の壁を見上げた。あの子の住処は、きっとあの根の裏にある。根の壁の上からは正面の坂がまる見えで、ここへ来る者は誰でも、その坂を下から登ってくるしかない。この上り坂そのものが、あの子の城なのだった。

 湊は、頭の中でいつものように手順を唱えようとして、唱えられないことに気づいた。

 狼の群れには、仲間が倒れると三秒止まる癖があった。グラントには膝の古傷があり、ヴァルターには光の槍の三連撃があった。湊はいつも相手の手順を知っていて、その隙間に自分の手順を差しこんで勝ってきた。けれどあの子はゲームにいない。湊が書いた攻略wikiのどの頁にもいないのだから、あの子の手順を、湊は何ひとつ知らなかった。

「話をしに来ただけだ」

 湊は坂の下から声をかけた。

「石は投げなくていい。お前を捕まえる気もない。濡れたままじゃ熱が出るって、それだけ言いに――」

 言い終わる前に、杖の先が何かに引っかかった。

 脛の高さに張られた、細い紐だった。暗くてまったく見えなかったが、引っかかってから、獣の筋を乾かして撚った紐の匂いがした。

 頭の上で、かららら、と乾いた音が鳴った。坂の下の左右の木の枝に、乾いた骨とくり抜いた木の筒が吊るしてあって、それが紐に引かれていっせいにぶつかりあったのだ。鳴子だった。

 根の壁の上で、影が立ちあがった。

 *

 影の右腕が、頭の上で回りはじめた。紐が風を切る音が、坂の下まで届いた。

 湊はその腕を見つめた。川では、あの子は紐を二度回してから投げていた。だとすれば、石が来るのは二度目の回転が終わったときだ。

 ところが腕は、二度目の途中で振り下ろされた。

 湊の読みより半拍早く、石は灰月の光をよぎってまっすぐ湊の顔へ飛んできた。湊は首をすくめようとしたが、杖に体重を預けた体は首しか動かない。

 間に合わない、と思ったとき、リシェルが湊の襟を掴んで横へ引き倒した。石は湊の右の耳のすぐ横を唸って過ぎ、後ろの白樺の幹に当たって乾いた音を立てた。

 リシェルはそのまま湊を引きずって、坂の脇に立つ太い白樺の陰へ転がりこんだ。左足首が地面を擦って、湊の目の前が白くなった。

 息をつく暇もなく、次の石が白樺の幹の、ちょうど湊の頭の高さを叩いた。白い樹皮がぱっと散り、続けてもう一つが幹の反対側を叩いた。

 白樺は、二人が肩を寄せあってやっと隠れられるほどの太さしかなかった。根の壁の上から少し身を乗りだせば、幹の脇ははみ出して見えるだろう。

 また石が来て、幹の右をかすめていった。紐の鳴る音は二度のときもあれば、一度だけのときもあって、湊には投げる拍がまったく読めなかった。

 いや、読めないように投げているのだ、と湊は気づいた。

 川の曲がりで、湊は犬の跳ぶ線に刃を置き、猟師の振り下ろす斧に刃を置いた。あの子は水際から、それを見ていた。だから湊が拍を読んで動く相手だと知っていて、わざと拍を崩している。ヴァルターも、犬の二頭目もそうだった。この世界の生き物はみんな、見て覚える。十二歳の子どもも例外ではなかった。

 石が止んだ。根の壁の上で影がしゃがみ、こちらが動くのを待っているのが、灰月の光の中に見えた。

 湊は今度こそ、頭の中で手順を唱えた。

 一つ。あの子は、正面の坂を登ってくる者を上から撃つ。あの城は、そういう作りだ。

 二つ。根の壁の右端は、沢の急な斜面に落ちこんでいる。斜面の岩を伝っていけば、根の壁の右の脇に出られるかもしれない。張りだした根が邪魔になって、上からはそこが見えにくいはずだ。

 三つ。そのあいだ、俺がここから声をかけつづけて、あの子の目と石をこっちに引きつけておく。

 四つ。リシェルが沢の斜面から根の壁の上へ回りこむ。

 湊がリシェルの手のひらに〈おれ おとり〉と指で書くと、リシェルは湊の手首に爪を立てた。

「……あなたが、囮になるつもり?」

「声をかけるだけだ。顔は出さない」

「顔を出さなくても、あの子は声のするほうへ投げてくるわ」

「この幹が受けてくれる」

 リシェルはしばらく湊の顔を見ていたが、やがて湊の手のひらに〈すぐ もどる〉と書き、身を低くして幹の陰から沢のほうへ滑りでていった。

 湊は幹に背中を押しつけたまま、根の壁に向かって声を張った。

「なあ。その投げ方、誰に習ったんだ」

 返事のかわりに、石が幹を叩いた。

「腕を二回回すのは、狙いを合わせるためだろ。一回で投げるときは、そのぶん狙いが甘くなる。さっき右に外れたのが、そうだ」

 また石が来て、今度は幹の左をかすめていった。

 横目で沢のほうを見ると、リシェルの影が沢の斜面の岩から岩へ、足音も立てずに渡っていくのが見えた。もうすぐ根の壁の右端に着く。リシェルは最後の岩から、根の壁のすぐ下の、平らに見える苔の上へ足を下ろした。

 その苔が、下へ抜けた。

 *

 枯れ枝と苔が崩れる音がして、リシェルの姿が地面の下に消えた。

 落とし穴だった。沢の斜面を登ってきた者が、最後に足を下ろすその場所に、穴が掘ってあったのだ。あの子は正面の坂だけを見ていたのではない。坂を登れない者がどこへ回りこむかまで、ちゃんと読んでいた。

 穴の中から、金属が土に食いこむ鈍い音がして、リシェルの声が上がった。

「ミナト……!」

 湊は杖を掴んで、幹の陰から出た。

 穴までは八歩ほどあった。坂の斜面を横切っていくあいだ、湊の体は根の壁の上からまる見えになる。

 案の定、根の壁の上で腕が一度だけ回るのが見えた。立ったままではよけられないと思った湊は、杖を前に突きだしたまま、わざと前へ倒れこんだ。それでも石は、倒れた湊の左の肩口を打った。ちょうど胸に吊った左腕の、狼の牙の跡の真上だった。拳を叩きこまれたような重さに、声が喉の奥で潰れた。

 湊は倒れたまま、右の肘と右の膝で斜面を這い、杖を引きずって穴へ向かった。途中でもう一つ、石が肩甲骨の脇に当たって骨に響いたが、止まらずに這いつづけ、穴の縁にたどりついた。

 穴の口は四角く、幅は湊の肘から指先までを二つ並べたほどだった。覗きこむと、灰月の光が斜めに差しこんで、底まで見えた。深さはリシェルの背丈より少し深く、底には先を尖らせた枝が何本も上を向いて並んでいる。

 リシェルは、その枝の真上に宙吊りになっていた。

 落ちる途中で右の剣を穴の壁の土に突き立て、その柄に右手一本でぶら下がっているのだ。両足の先は、尖った枝の拳ひとつぶん上で揺れていた。左手は壁から突きでた根を掴もうとしていたが、あの子に噛まれた手の甲の傷がまた開いて血が滲み、指が滑ってどうしても掴めない。そのあいだにも剣は、土の中を少しずつ下へずれていった。

 湊は穴の縁に腹這いになって、右手を伸ばした。けれどリシェルの右手は剣の柄でふさがっていて、左手は湊の指先より指二本ぶん下にあった。届かない。それに、たとえ届いたとしても、火傷で半分しか力の入らない右手と、半分しか息の入らない胸では、人ひとりを引き上げることはできなかった。

 湊は、自分の手の中の杖を見た。

 リシェルが湊の脇の下に合わせて切った、白樺の杖。その長さは、穴の口の幅より手のひら三つぶんほど長い。

 湊は杖を、穴の口に横にして渡した。二股のほうを向こうの縁の土に押しつけ、手前の端を自分の胸の下に敷いて、腹這いの体ごとその上に乗った。これで穴の口に、白樺の細い橋が一本かかった。

「リシェル、杖だ。掴め」

 杖はちょうどリシェルの頭のすぐ上を横切っていた。リシェルはまず噛まれた左手で杖を掴み、それから剣の柄を放して、両手でぶら下がった。

 杖がたわみ、リシェルの重さがそのまま湊の胸の下にかかった。折れた肋骨の真上だった。湊は息を止めたが、止めなくても、もう息は入らなかった。向こうの縁では、二股の端が少しずつ土の上を滑りはじめていた。

 そのとき、湊は頭の上に気配を感じて、顔だけを上へ向けた。

 穴は、根の壁のすぐ下に掘られている。だから見上げた真上に、根の壁の縁に立ってこちらを見下ろしているあの子の姿があった。

 あの子の腕が、頭の上でゆっくりと回りはじめた。今度は急がず、何度も回して、じっくりと狙いを合わせている。

 ――次は、目に当てるから。

 湊は逃げられなかった。転がってよければ杖が外れ、杖が外れればリシェルは尖った枝の上に落ちる。

 湊は杖の上から動かなかった。

 腕が振り下ろされた瞬間、湊は顔をほんの少しだけ右へ傾けた。目を逸らすためではない。落ちてくる石を、目ではなく額の上で受けるためだった。

 かん、と石と石がぶつかるような音がした。

 石は湊の左の角の根元に当たって弾かれ、穴の底の闇へ落ちていった。頭の芯が揺れ、目の前に火花が散ったような気がした。角の付け根から熱い血が流れだし、額を伝って左の目に入って、左の視界を赤くふさいだ。けれど右の目は見えていたし、湊は杖を放さなかった。

 その下で、リシェルが杖を握った両手を交互に送って、向こうの縁へ体を寄せていった。縁から突きでた根に右手をかけ、肘をかけ、膝をかけて、とうとう穴の外へ這いだした。

 胸の下の杖がふっと軽くなって、湊はやっと、半分だけ息を吸った。

 *

 根の壁の上で、あの子は次の石を握っていた。

 けれど、投げなかった。

 右の目で見上げると、灰月の光があの子の顔を照らしていた。濡れた髪が額に張りつき、唇は色を失って、石を握った手が震えている。寒さで震えているのか、別の何かで震えているのか、湊にはわからなかった。

「……なんで、よけないの」

 あの子が言った。

「よけたら、そいつが枝の上に落ちてたからな」

 湊は、杖の上に腹這いになったまま答えた。

 あの子は湊の顔をよく見ようとしたのか、根の壁の縁から身を乗りだし、土と根の塊の上に片足を出した。

 その土は、雪解けの水をたっぷり吸っていた。

 あの子の足の下で、縁の土がずるりと崩れた。小さな体が前へ傾き、両手が宙を掻いて、握っていた石がこぼれた。あの子はそのまま根の壁から落ちてきた。真下には、尖った枝の並んだ穴が口を開けている。

 湊は杖を引き抜いて脇へ放り、右手で縁の土を押して、自分の体を穴の口の上へ転がした。

 穴の口の幅は、肘から指先の二つぶんしかない。仰向けになった湊の肩がこちらの縁に、腰が向こうの縁にかかって、湊の体はそのまま穴の蓋になった。

 その胸の真ん中に、落ちてきたあの子の膝がまともに入った。

 布の下で、折れた肋骨が湿った音を立て、息がまるごと消えた。二人ぶんの重さを受けて、湊の腰の下で向こうの縁の土が崩れはじめ、体が穴の中へずり落ちかけた。

 そのとき後ろから、誰かが湊の襟首を掴んだ。

 穴の向こうから回りこんできたリシェルだった。リシェルは湊の襟とあの子の服の背中をまとめて両手で掴むと、二人ぶんの体を一気に穴の縁の上へ引きずりあげた。

 湊は苔の上に仰向けに倒れ、あの子はその胸の上に馬乗りになっていた。

 あの子は軽かった。リシェルの言ったとおり、あの歳の子の半分くらいしか重さがなかった。それでも、折れた肋骨の上では岩のように重かった。

 あの子の右手が上がった。その手には、腰の袋から抜いたばかりの、別の丸い石が握られていた。石は湊の右の目の真上、指一本ぶんのところで止まった。

 リシェルが剣を抜く音がした。

「やめろ」

 息のないまま、湊は喉の奥から掠れた声を絞りだした。リシェルの剣は止まり、あの子の石も止まった。

 湊は右の目を開けたまま、目の前の石と、その向こうの灰色の目を見ていた。よけようとはしなかった。よけようにも、もう体のどこも動かなかった。

「……なんで、よけないの」

 あの子がもう一度言った。

「お前が上に乗ってるからだよ」

 湊は答えた。

「それに、よけるより、聞きたいことがあったんだ。……寒くないのか」

 あの子の唇が震えた。

 あの子は石を握ったまま、しばらく湊の顔を見下ろしていたが、やがてゆっくりと身をかがめ、湊の額に顔を寄せた。角の付け根の血が流れているところに鼻を近づけ、ひくりと鼻を動かす。

 目くらましの布切れではない、本物の匂いを嗅いでいるのだ。昼間、湊が谷の道に落ちていた石から、初めてあの子の匂いを嗅いだのと同じように。

「……おなじだ」

 あの子は小さく言った。

「でも、ちがう。くさい草のにおいがする。それと、そのひとの、かわのにおい。それと、しらないおとなの、ぬののにおい」

 苦蓬の軟膏と、リシェルの胸当ての革と、杖に巻いてあったギデオンの布のことだと、湊にはわかった。

「人間と一緒にいるからな」

「人間は、灰角を、狩るよ」

「狩らない人間も、いるんだよ」

 湊は右の目だけを動かして、リシェルを見た。リシェルはもう、剣を鞘に戻していた。

「そいつは、川でお前を水から引き上げた。お前に手を噛まれても、放さなかっただろ」

 あの子の目が、リシェルの左手の甲に向いた。半月形の歯の跡が、灰月の光の中でまだ血を滲ませていた。

 石を握っていたあの子の指が、少しだけゆるんだ。指が一本だけ石から離れて、湊の左の角の根元、石の当たったところにそっと触れた。湊の角は、あの子の角より少しだけ長かった。

「……いたい?」

「痛い。けど、目に当たるよりはましだ」

 あの子は湊の角から指を離すと、石を腰の袋に戻して、湊の胸の上から降りた。

 湊はようやく息を吸った。けれど入ったのは半分までで、残りの半分は肋骨のどこかに引っかかって、どうしても入ってこなかった。

 *

 あの子は、根の壁の脇の苔の上に膝を抱えて座りこんだ。濡れた服が細い体に張りついたままで、震えはまだ止まらなかった。

 リシェルが、湊の杖の二股に巻いてあったギデオンの布をほどき、あの子の前にしゃがんで黙って差しだした。あの子は布を見て、それからリシェルの顔を見たが、受け取ろうとはしなかった。リシェルは布をあの子の膝の上にそっと置いて、一歩下がった。

 しばらくして、あの子の手が布を掴み、ぎこちない手つきで何度も髪を拭きはじめた。

 リシェルはそれを見届けてから、穴の縁に腹這いになって腕を差し入れ、壁の土に突き立ったままの右の剣を引き抜いた。刃についた土を苔で拭って腰の後ろの鞘に収めると、双剣がようやく二本そろった。

 それから湊のそばに戻ってきて、額の血を自分の袖で押さえた。

「角に当たったのね」

「目に当てるって言われてたからな。角で受けた」

「当たる前に、わざと顔を傾けたでしょう。見てたわ」

 リシェルの声は、怒っているようにも、泣きだしそうにも聞こえた。

「あなたは、いつもそう。自分の体を、物みたいに使うの」

 湊は答えずに、左の目に入った血を指で拭った。瞼の向こうが、少しずつ見えるようになってきた。

 額の上では、角の付け根がどくどくと脈を打っていた。人間の体だったら、石は目の上の骨に当たって、目ごと潰していたかもしれない。ずっと人目から隠してきた角が、今夜は湊の目を守ってくれたのだった。

「名前は?」

 湊は、あの子に訊いた。

「俺はミナト。そっちはリシェルだ」

 あの子は布の陰から湊を見て、首を横に振った。

「……言わない」

「そうか」

「灰角は名前を盗むって、人間は言うの。だから、おかあさんが言ってた。名前は、だれにも言っちゃだめ。言ったら、呼ばれて、見つかるからって」

 あの子は布を胸に抱きしめた。

「それに、もう、呼んでくれるひとも、いないし」

 湊は、何も言えなかった。

 ミナトという自分の名前のことを、湊は思いだしていた。地の底でリシェルに意味を訊かれて、船が帰ってくる場所のことだと話した。リシェルは、あなたは帰るところがないのね、と言った。

 けれど湊の名前には、呼んでくれる人がいた。正月は帰ってくるの、と母はLINEを送ってきた。湊はそれに返事をしなかった。呼んでくれる人がいたのに、返事をしなかったのだ。

 この子には、呼んでくれる人がもういない。それでも名前だけは誰にも渡さずに、ひとりで抱えている。

「じゃあ、言わなくていい」

 湊は言った。

「言いたくなったら、言えばいい。そのときは、ちゃんと呼ぶから」

 あの子は何も答えず、布で顔を半分隠したまま、湊の顔をじっと見ていた。

 根の壁の裏からは、乾いた苔と、古い灰と、干した木の実の匂いが漂ってきていた。あの子の住処の匂いだ。その奥に、もうひとつ別の匂いがあった。何人ぶんもの古い汗が染みた布の匂いで、白樺の幹に擦りつけてあった布切れと同じ匂いだった。

 あの布切れは、あの子の服ではなかったのだ。あの子と同じ灰角の匂いのする、大人の服を裂いたものだった。それも、何人ぶんも。

 湊は、別のことを訊いた。

「昼間、谷の道で、小柄な男の頭に石を当てたのはお前だろ。あれは、俺たちを助けてくれたのか」

 髪を拭いていたあの子の手が止まった。

「……ちがう」

「じゃあ、なんで当てたんだ」

「あいつ、まえにも、この森に来た」

 あの子は、布の端を強く握りしめた。

「みんなが、いなくなった日に」

 それきり、あの子は何も言わなくなった。湊もそれ以上は訊かなかった。リシェルが、湊の手首を一度だけ軽く叩いた。

 そのとき、風向きが変わった。

 さっきまで森の奥から川のほうへ吹いていた風がふっと止み、今度は南から、ゆっくりと吹きはじめた。

 湊は鼻を上げた。南の風に、遠くの匂いが混じっていた。まだずっと遠く、川の向こうか、それよりもっと先だ。馬の汗と、鉄と、まだ火をつけていない松明の松脂の匂い。

 そして、乾いた花の匂いがした。甘くて冷たい、光の匂いだった。

 角の付け根が、ちくりと痛んだ。

 布から顔を上げたあの子も、湊と同じように鼻を上げて、南の闇を見ていた。

「……しろい、においがする」

 あの子は、自分の角に手をやった。湊と同じところが痛んでいるのだとわかった。

「夜明けまで、あと、どのくらいだ」

 湊はリシェルに訊いた。

「鐘が鳴っていれば、二つぶんくらいかしら」

 マルタの荷馬車は、夜明けまでしか待たない。三倍払っても、待たないと言っていた。

 あの子は布を胸に抱いたまま立ちあがり、根の壁の裏の暗い口のほうへ一歩下がった。それから振り向いて、湊を見た。

「……夜明けまでなら」

 掠れた声だった。

「夜明けまでなら、なかに、いても、いい」

 この世界に目覚めて、十三日目の夜。

 名前を言わない子どもが、灰角の住処の口を、湊のために開けていた。

 南からの風の中で、光の匂いが少しだけ濃くなった。

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