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灰角のリスタート  作者: ヤッサン
第三章 鉄の轍

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第十七話 空っぽの丸

 住処の口は、根の壁の左の端にあった。張りだした根と苔の岩場のあいだに、子どもが体を横にしてやっと通れるほどの隙間があって、その先が倒れた樅(もみ)の下の暗がりへ続いている。あの子が先に滑りこみ、リシェルが続き、最後に湊が這って入った。落とし穴の脇に放ってあった白樺の杖は、入る前にリシェルが拾ってきて、湊の右手に握らせてくれていた。

 中は、思っていたより広かった。樅が倒れたとき、根が土ごと持ちあがって、その下に大きな窪みが残ったのだろう。膝をつけば湊の角が天井に触れるくらいの高さで、広さは《樽底亭》の三号室を二つ並べたほどある。頭の上には、根の壁の裏から倒れた幹の上まで枝が何本も渡してあり、その上に樹皮と苔が何重にも重ねてあった。灰月の光は屋根の隙間から糸のように落ちてくるだけなので、目が慣れるまでは、匂いのほうが先に部屋の形を教えてくれた。

 床の真ん中に、石で囲んだ炉の跡があった。灰は冷えきっていて、火を焚いた匂いは何日も前のものだった。煙が上がれば、見つかるからだろう。右の隅には乾いた苔を厚く敷いた寝床があり、根から垂らした蔓(つる)の袋に、干した木の実と細く裂いて干した魚が入っている。

 そして奥の、倒れた幹の下に近い隅に、服が積んであった。

 大人の服が何枚も、きちんと畳んで重ねてあった。どれも灰角の汗の匂いがする。いちばん上の一枚だけ、袖が裂かれて短くなっていた。白樺の幹の布切れは、ここから取ってきたのだ。

 あの子は濡れた服のまま、その山の前に膝をついた。少し迷ってから、山の真ん中あたりの一枚を引きだした。灰色がかった茶色の、裾の長い毛織の上着だった。あの子はそれを胸に抱えて、襟元に鼻を埋めた。それが誰の服なのか、湊は訊かなくてもわかった。

「濡れた服は脱いで、それを着なさい」

 リシェルが言うと、あの子はリシェルの顔を見て、それから湊の顔を見た。

「あなたは、あっちを向いてて」

 リシェルに言われて、湊は根の壁のほうへ顔を向けた。後ろで濡れた布の擦れる音がして、しばらくしてから、リシェルが湊の肩を叩いた。振り向くと、あの子は大人の上着にすっぽりくるまり、袖を三重に折りかえして、寝床の苔の上に座っていた。上着の裾は足首まで届いていた。

 リシェルは、あの子が樹皮の椀に汲んでおいた沢の水で、湊の額の血を洗った。角の付け根の傷は、水が触れるたびに頭の芯まで響いた。

 痛みから気を逸らそうとして、湊は目の前の根の壁を見た。そして、そこで息を止めた。

 根の壁の裏側は、土の面を手で平らにならしてあった。その土に、尖った石で引っかいた線が並んでいた。

 人の形だった。頭に短い二本の線があるから、角のある人だとわかる。それが六つ、横一列に並んでいる。どの人の胸にも小さな丸が描いてあって、丸の中には、一つずつ違う印が刻まれていた。縦の線が三本のもの、波打つ線のもの、小さな点を二つ並べたもの。

 列の端の、いちばん小さな人の形だけ、胸の丸の中が空っぽだった。

 湊の頭に、沈黙の井戸の最下層の壁が浮かんだ。灰月の光で、彫り物の人々の胸に丸が浮かび、列の端の立っている一人だけ、丸が空っぽだった。地の底から戻ってきたリシェルが、湊の手のひらに指で円を描いて教えてくれたのだ。

 リシェルの手が止まっていた。リシェルも、同じものを見ていた。

「……これ、誰が描いたんだ」

 湊が訊くと、あの子は寝床の上から、壁の線を見た。

「おかあさん。みんなの、ぶん」

 あの子は、袖から出した指で、端から順に人の形をさした。

「おかあさんと、おかあさんのおかあさん。ふえが上手な、おじさん。そのおじさんの、こども。目のみえない、おじい。……それと、わたし」

「丸の中の印は?」

「名前の、しるし」

 あの子は言った。

「名前は口に出すと、見つかるでしょう。だから、しるしにして、丸の中にしまっておくの。丸に入れておけば、名前は、なくならないって」

「お前の丸が、空っぽなのは」

「わたしのは、じぶんで入れなさいって、おかあさんが言った。おおきくなったら、じぶんの名前は、じぶんで丸に入れるんだって」

 あの子は上着の襟を、ぎゅっと握った。

「おかあさんのおかあさんは、もっといろいろ、知ってた。灰角の胸の丸は、からっぽで生まれてくる。だから灰角は、そこに名前をしまっておく。人間が言うみたいに、ひとの名前を盗むんじゃない。じぶんの名前を、なくさないように、しまっておくの」

 そこで少し黙ってから、あの子は思いだすように言葉を足した。

「それと、いつか、丸がぜんぶ満ちたひとが来るって。そのひとは、灰月の下で、えらぶんだって」

「何を選ぶの」

 リシェルが訊いた。

「しらない。おばあも、しらなかった」

 湊は、口の中で小さく「ステータス」と言った。視界の左上に、見慣れた枠が浮かんだ。いちばん下の行は、いつもと同じだった。

 〈器:―〉

 空っぽなのか、満ちているのか。この世界の物差しでは測れない、とでも言うような、一本の横線。

 リシェルが湊の手首を一度掴んだ。湊は枠を消して、リシェルの目を見た。

「井戸の壁と、同じね」

「ああ」

「あとで話すって、言ったわよね。全部」

「言った」

「その全部に、これも入ってるの?」

 湊は答えるかわりに、うなずいた。リシェルは何か言いかけたが、そのとき湊が、屋根の隙間に向かって鼻を上げたので、口を閉じた。

 *

 南の風が、匂いを運んできていた。さっきよりずっと近い。

 松明に火が入っていた。松脂(まつやに)の焦げる匂いが三つ。人が四人。そのうち三人から、乾いた花の匂いがする。腰に下げた銀の瓶の、聖水の匂いだ。鉄の鎧に塗った油の匂いもする。馬の匂いは、川のほうで止まったまま動かない。馬を下りて、森へ入ってきたのだ。

 四人目の匂いを、湊は知っていた。汗と、古い血と、頭に巻いた布に染みた新しい血。荷馬車の上で湊の左腕を掴んだ、小柄な男の匂いだった。

「谷の小柄な男だ。それと、聖騎士が三人」

 湊が言うと、あの子の肩がびくりと跳ねた。

「あいつ、昼に北へ逃げたはずだろ。それなのに、南から来た。逃げたんじゃない。南の道まで、聖騎士を呼びに行ってたんだ」

「どうして、ここがわかったの」

 リシェルが訊いた。湊は、膝の上の杖を見下ろした。

「川の曲がりから空き地を抜けて、ここまで、俺は杖をついて歩いた。湿った土に、杖の穴と右足の跡を残しながらな。片足と杖で歩く奴なんて、ほかにいない。おまけに体じゅうから苦蓬(にがよもぎ)の軟膏の匂いをさせてる。追うほうからすれば、道に縄を張ってあるようなものだ」

「わたしが拾ってきた杖ね」

 リシェルは真顔で言った。笑っていいのかどうか、湊にはわからなかった。

 匂いは白樺の空き地で止まっていた。幹の布切れの目くらましに、松明の三つが迷っているのだ。けれど、小柄な男の匂いだけは迷わずに空き地を抜け、こちらへ向かってきていた。

「出よう。今のうちだ」

「うしろに、穴がある」

 あの子は寝床の脇から、樹皮を一枚剥がした。倒れた幹の下へ向かって、土を掘った細い穴が口をあけていた。あの子なら四つ這いで通れるが、大人は腹這いでなければ通れない幅だった。

「幹の下をくぐって、むこうの、ちいさい樅の根っこのあいだに出る」

 あの子は穴を見せてから、奥の服の山へ駆けよって、両腕いっぱいに抱えようとした。抱えきれない服が、足元にこぼれた。

「全部は持っていけない」

「おいていけない」

 あの子は、こぼれた服を拾いながら言った。湊は、言い返す言葉を探した。

 そのとき、小柄な男の匂いが、空き地からこちらへ来る線を外れて、左へ曲がった。坂を登らずに、苔の岩場のほうへ回りこんでいく。岩場を越えれば、倒れた樅の、向こう側に出る。

 あの子の顔から、色が消えた。

「……あいつ、うしろの穴を、しってる」

「なんで知ってるんだ」

「あの日も、そうだった」

 服を抱えた腕が、震えていた。

「まえのいえも、うしろに穴があった。灰角のいえは、どこでも、うしろに穴を掘るの。おかあさんが、そう教えてくれた。……あの日、白いひとたちが、まえから火を投げてきた。みんな、うしろの穴から逃げた。そうしたら、あいつが、うしろで待ってた」

 湊は、背筋が冷たくなるのを感じた。

 あの男は、知っているのだ。灰角の住処の作り方を。灰角が火に追われたらどこから逃げるかを。湊がゲームの魔物の手順を知っていたように、あの男は、灰角を狩る手順を知っている。

 湊のwikiのように、灰角の攻略法が、あの男の頭の中には書いてあるのだった。

 *

 坂の下から、声が響いた。

「灰角ミナト」

 若い男の、よく通る声だった。鳴子の紐をまたいで、坂の中ほどまで上がってきた松明が三つ、横一列に並んで止まっている。真ん中の聖騎士の兜のてっぺんには、隊長の印の、白い馬の毛の飾りが揺れていた。

「審問官殿から、言葉を預かっている。次は待たん、と」

 声は、少しも急いでいなかった。

「三つ数えるあいだに出てこい。出てこなければ、焼く。一つ。……二つ」

 三つ目は、言わなかった。

 根の壁の向こうで、何かが空を切る音がした。素焼きの壺が屋根の上に落ちて割れ、ランタンの油の匂いが、樹皮と苔の上にどっと広がった。続けて二つ目の壺が割れ、それから松明が一本、根の壁を越えて、回りながら屋根に落ちてきた。

 乾いた苔は、一息で燃えあがった。

 屋根の隙間から橙色の光が差しこみ、煙が渦を巻いて流れこんできた。あの子が服を抱えたまま、悲鳴のような声を上げた。リシェルがあの子の上着の背中を掴んで、床に伏せさせた。

 煙は低いところには溜まらず、屋根の上を、北へ流れていた。南の風が、煙をまっすぐ倒れた幹の向こうへ押しているのだ。それなら、うしろの穴の中も、煙が北へ抜けていく。

 湊は床に伏せて、頭の中で手順を唱えた。

 一つ。前の坂には、聖騎士が三人いる。根の壁を越えて出た者を、坂の下で待っている。前からは出られない。

 二つ。うしろの穴の出口には、小柄な男が待っている。風は南から北へ吹いているから、出口にいるあの男の匂いは、こっちへは届かない。穴を出るまで、男が穴の右にいるのか左にいるのか、鼻ではわからない。

 三つ。あの男は、穴から最初に出てくるものに刃を下ろす。灰角の匂いのするものに。

 だから、最初に出すのは、俺じゃない。

 湊は、あの子が抱えている服の山を見た。灰角の汗の匂いが、何人ぶんも染みた服だった。

 それを口にする前に、あの子が湊を見ていた。湊が何を見ているのか、あの子にはわかったのだ。あの子は服の山を胸に抱きしめて、一度だけ、強く顔を押しつけた。

 それから、母の上着だけを着たまま、残りの服を湊の前に押しだした。

「……これ、つかって」

 声が、震えていなかった。

「どうせ、燃えちゃうから」

 湊は、うなずくことしかできなかった。

 あの子は樹皮の椀の水に苔をひとつかみずつ浸して、湊とリシェルに押しつけるように渡した。煙を吸わないように口に当てるのだと、言われなくてもわかった。

 *

「最初は、俺が行く」

 湊が言うと、リシェルが首を横に振りかけた。

「穴の口で、あの男の刃を切れるのは、この刃だけだ。お前の剣じゃ、穴の中では振れない」

 リシェルは唇を噛んで、それから言った。

「すぐ後ろにいるわ。あなたが穴の中で動けなくなったら、足を掴んででも引きずり戻すから」

 屋根の火が、根の壁の裏の土の面を橙色に照らしていた。あの子は穴に入る前に、壁の前へ戻った。煤(すす)が降りはじめた土の上で、六つの人の形が揺れる光の中に浮かんでいた。あの子は、列の端の、いちばん小さな人の形の胸に、指先でそっと触れた。空っぽの丸のところだった。

 それから、何も言わずに戻ってきて、湊の後ろについた。

 湊は、服を三枚ほど丸めて、杖の二股に押しこんだ。杖を前に突きだしたまま、うしろの穴に頭から入った。あの子が後ろに続き、リシェルが最後に入る。

 穴は狭かった。右の肘と右の膝で土を掻(か)いて進むたびに、吊った左腕の肩が穴の壁に擦れ、胸の下で折れた肋骨が軋んだ。煙は湊の背中の上を、出口のほうへ流れていく。あの子がくれた濡れた苔を口に当てて、湊は浅い息だけで這った。倒れた幹の太さのぶん、穴は長かった。途中で一度、穴が幹の下で低くなり、湊の角が天井の土を削った。土くれが首筋に落ちてきて、湊は頭を横に向けたまま、肩をねじこむようにして通り抜けた。後ろで、あの子が湊の右の足首を一度だけ掴んで、離した。ここにいる、という合図のようだった。

 前方の闇が、ほんのりと灰色に変わった。出口だ。煙は、そこから外へ吐きだされていた。

 湊は這うのをやめて、杖を、ゆっくりと前へ押しだした。

 二股に丸めた服が、煙と一緒に穴の口から外へ出た瞬間、右の上から刃が落ちてきた。

 短い剣が、服の塊を貫いて、穴の口の土に突き刺さった。逆手に握った、殺すための突き方だった。

 剣の来た向きで、あの男が穴の右に立っているとわかった。湊は杖を手放し、腰の右から《欠けた月》を抜くと、穴の口から腕だけを出して、土に刺さった剣を横に払った。肘から先だけの小さな振りだったが、刃は剣の根元を通り抜け、鉄は湿った枝のように折れ飛んだ。男の手には、柄と、指二本ぶんの刃だけが残った。

 男が跳びのく気配がした。湊はその隙に、肘で体を穴の外へ押しだした。

 外は、若い樅の根のあいだの窪みだった。後ろの倒れた幹の上では屋根の火が高く上がり、その明かりで、窪みの右に立つ男の姿が見えた。顔の下半分を布で覆い、頭に血の滲んだ布を巻いている。男はもう、腰から二本目の短い刃を抜いていた。

 湊が膝をついて立ちあがろうとしたとき、男の左手が伸びてきて、湊の吊った左腕を掴んだ。

 牙の跡の真上だった。谷の荷馬車の上と同じ場所に、同じように指が食いこんだ。張り紙の〈左腕に獣の噛み傷〉を、この男は忘れていない。目の前が白くなり、男の右手の刃が、湊の脇腹へ回りこんできた。喉ではなく脇腹を狙ったのは、谷で剣を切られたことを覚えていて、湊の刃の前に自分の刃を出さないためだった。

 そのとき、穴の口から石が飛んだ。

 紐で投げたのではない。穴から上半身を出したあの子が、腕だけで投げた石だった。それでも石は、男の膝の皿にまともに当たった。男の体が傾き、脇腹へ来た刃は湊の麻の服を裂いただけで、肌には届かなかった。

 男はよろめいて、穴から出てきたあの子を見た。火の明かりが、あの子の角と、大人の上着を照らしていた。

 男の目が、細くなった。

「……あの日の、ちびか」

 布の下から、くぐもった声がした。

「生きてたのか。その上着、見覚えがあるぞ。おまえの母親のだな」

 あの子の手が、腰の石の袋の上で止まった。

「おまえの母親は、最後まで、おまえの名前を言わなかったぞ。何をされてもな。おかげで、おまえだけ、呼びだせなかった」

 あの子は動かなかった。動けないのだと、湊にはわかった。

 男が、湊の腕を放して、あの子に向かって刃を振りあげた。

 湊は膝をついたまま、右足で地面を蹴った。《疾駆》が、足を勝手に押しだした。半歩だけ前へ出た体を男とあの子のあいだに入れ、その勢いのまま、《欠けた月》を下から斜めに振りあげた。

 止めるつもりはなかった。止めるところを探す暇も、なかった。

 刃は、振りおろされてくる短い刃を柄の上で断ち、そのまま止まらずに、男の右の脇から鎖骨の上まで抜けた。手応えは、ほとんどなかった。布も、革も、その下のものも、濡れた紙のように裂けていった。手応えがないことが、何よりも恐ろしかった。

 男の体が、湊の上に倒れかかってきた。湊は避けられずに、その重さを右の肩で受けた。顔を覆った布の向こうで、男が何か言おうとした。それは言葉にならないまま、湿った息になって湊の耳にかかり、二度目で止まった。

 男の顔は、湊の顔のすぐ前にあった。布の上の、灰色がかった茶色の目が、湊を見ていた。あの子と男のあいだに割りこんだのだから、目を逸らす場所はどこにもなかった。

 その目は、息が止まるまで、湊から離れなかった。

 角の付け根が、ちり、と痒くなった。そして、いつもならそこで止むはずの痒みが、止まらなかった。角の付け根から頭の芯へ、頭の芯から胸の奥へ、熱い糸を引くように広がっていき、最後に、体のどこかで、掛け金が一つ外れるような音がした。

 その音と一緒に、煙の匂いが来た。

 今夜の煙ではなかった。もっと湿った、秋の落ち葉の燃える煙。燃えているのは、木の根の下に作った低い屋根だった。その前の地面に、角のある女が膝をつかされている。灰色がかった茶色の、裾の長い毛織の上着を着ていた。白い外套の誰かが、女の前に立って、一人足りない、子どもの名前を言え、と言っている。

 女は、笑った。

「名前なんか、つけてないよ」

 それだけだった。

 湊は、倒れかかってきた男の重さの下で、息をしていた。今の光景は、この男が覚えていたものだ。目を見てとどめを刺した相手からは、スキルと一緒に、その人の記憶が流れこんでくるのだ。そしてあの女の人は、今あの子が着ているのと同じ上着を着ていた。

 胸の奥に、焼けるような熱がひとつ灯った。レベルが上がるときの熱だった。

 湊は、自分が人を殺したのだと知った。

 男の体を右へ転がすと、顔の布がずれて、思っていたより年を取った顔が出てきた。目は半分開いて、もう何も見ていなかった。

 体が震えはじめた。寒さではなかった。《欠けた月》を握った指が、刃から離れようとして離れず、刃の冷たさの中で固まっていた。

 あの子が、穴の口から這いでてきた。男の顔を見下ろして、それから湊の顔を見た。何か言うかと思ったが、あの子は何も言わなかった。母の上着の襟を、両手で握りしめていた。

 穴から最後に出てきたリシェルが、倒れた男と、湊の手の刃を見て、息をのんだ。

 湊には、それを気にしている暇がなかった。鼻が、煙の向こうから近づいてくる別のものを嗅ぎとっていた。

 *

 倒れた樅の向こう側は、北へ向かって上る急な斜面だった。若い樅がまばらに立ち、地面には落ちた針のような葉が厚く積もって、足を置くたびにずるりと滑る。南には、屋根の火を背負った倒れた幹が横たわり、その熱が首筋を焼いた。左手は坂の脇から続く苔の岩場で、右手は沢へ落ちこむ崖になっている。崖のうちで、人が下りられるのは、右の奥の、岩が階段のように崩れた一か所だけだった。

 その一か所の前に、白い飾りの兜が立っていた。

 前の坂にいたはずの隊長格の聖騎士が、松明を地面に突き立て、剣を抜いて、沢への下り口を塞いでいた。そして左の岩場からは、煙の中を、二人目と三人目の聖騎士が下りてくる。乾いた花の匂いが三つ、湊たちを囲むように並んだ。

 後ろは燃える幹。前の北は、湊の足では登れない斜面。右は聖騎士の立つ下り口で、左は二人の聖騎士の来る岩場。

「逃げ道は、ここだけだ」

 隊長が言った。

「灰角が二匹。それに、灰角を匿った女が一人。審問官殿は、生かして連れてこいとは言わなかった」

 湊は、その声を聞きながら、頭の中で道を探した。けれど、どの道を思い浮かべても、その先に聖騎士の剣があった。逃げ道を探す手順が、どこにも続いていかない。

 街道の追い剥ぎ。井戸の上の大男。灰月の夜のヴァルター。川辺の猟師。湊はこれまで、組み伏せて目を合わせても、一度も人を刺さなかった。刺さずに済む道が、いつもどこかに残っていたからだ。

 さっきの男は、殺すと決めて斬ったわけではなかった。あの子に刃が下りるのを止めようとして、止まらなかっただけだ。

 今度は違う。逃げ道はなく、相手は三人で、三人とも殺すつもりで来ている。殺すと決めて、斬らなければならない。

 湊は《欠けた月》の柄を握りなおした。刃の冷たさが、指の骨まで染みてきた。

「リシェル」

「わかってる」

 リシェルの声は、ひどく静かだった。

「殺さないと、この子が殺されるのよね」

 湊はうなずいた。それから、あの子のほうを見ずに言った。

「石は、兜に白い飾りのあるやつに投げろ。あいつに、両手を使わせるな」

 あの子は返事をしなかったが、背中の後ろで、紐を指に巻きつける音がした。

 湊は、頭の中で手順を唱えた。今度は、知っている手順だった。

 ゲームの中盤に、《聖騎士の小隊》という敵の組があった。隊長が一人と、聖騎士が二人。隊長は、部下の体力が半分を切ると、《治癒》の光で傷を塞ぐ。だから攻略の手順は一つしかない。湊は自分で、wikiにこう書いた。

 〈回復役から倒すこと。隊長を残すと、部下は何度でも立ちあがる〉

 けれど今、隊長は沢への下り口の前にいて、二人の部下が先に来る。

 *

 最初の聖騎士が、岩場を下りきって斜面を駆けあがってきた。

 リシェルは何も言わずに、斜面の上へ走った。下から登ってくる相手を、上から迎えるためだ。聖騎士より五歩ほど上の、若い樅の幹の脇で、リシェルは足を止めた。

 聖騎士は剣を頭の上へ振りかぶった。けれど下から上へ振りかぶる剣は腕が伸びきらず、そのうえ踏みこんだ足の下で葉がずるりと滑って、振りおろす剣がわずかに遅れた。リシェルは右の剣を斜めに当てて、落ちてくる剣を自分の左の樅の幹へ流した。剣は幹に食いこみ、聖騎士の腕が一瞬止まった。リシェルはその腕の内側へ踏みこみ、左の剣の柄頭(つかがしら)を、兜の耳のあたりへ二度打ちつけた。

 聖騎士は膝から崩れ、葉の上を斜面の下へ滑り落ちた。

 そのとき、沢の下り口から、乾いた花の匂いが強く吹きつけてきた。

 隊長が、左の手のひらを倒れた部下に向けていた。手のひらから白い光がこぼれ、滑り落ちた聖騎士の兜の上に降りかかった。光が消えると、聖騎士は頭を振って、手をついて起きあがった。兜のへこみの下から流れていた血が、止まっていた。

 《治癒》だった。ゲームの手順どおりだ。

 湊はあの子を呼ぼうとして、呼ぶ名前を持っていないことに気づいた。

「おい、白い飾りの兜だ! あいつの手を狙え!」

 紐が二度鳴り、石が飛んだ。隊長はそれを、剣の腹で弾いた。

 その隙に、二人目の聖騎士が岩場から下りきっていた。湊の鼻に、乾いた花の匂いが、急に濃くなって届いた。瓶の栓が抜かれたのだ。

 聖騎士が投げたのは、剣ではなく、銀の瓶だった。瓶は煙を裂いて回りながら、湊の隣へ飛んできた。湊の隣には、紐を回しかけたあの子が立っていた。

 湊はあの子の上着の襟を右手で掴み、自分の胸に引き寄せて、体ごと覆いかぶさった。

 瓶が湊の背中に当たって割れた。

 煮えた油を背中いっぱいに浴びたようだった。肩甲骨(けんこうこつ)のあいだから腰のあたりまで、麻の服を通して聖水が肌に染み、焼けた。湊は声を上げなかった。上げる息が、胸に残っていなかった。

 腕の中で、あの子が湊を見上げていた。聖水は一滴も、あの子にはかかっていなかった。

 二人目の聖騎士が、剣を抜いて斜面を上ってきた。湊はあの子を背中の後ろに押しやり、膝をついたまま振り向いた。

 聖騎士は、膝をついた灰角の頭を見下ろして、剣を高く振りかぶった。上から叩き割るつもりの振り方だった。膝をついた相手には、それがいちばん速い。

 だから湊は、立ちあがらなかった。

 振りおろされる剣の下へ、膝をついたまま、右足だけで《疾駆》の半歩を踏みこんだ。剣の根元が肩の上を過ぎるのと同時に、《欠けた月》を右から左へ、力いっぱい振りぬいた。

 これまで湊は、刃を置いてきた。置くだけで、刃は剣も首輪も切った。さっきの男を斬ったのも、とっさの一振りだった。けれど今度は、殺すと決めて、肩から先の重さを全部乗せて振った。焼けた背中が引きつり、折れた肋骨が鳴った。

 刃は、聖騎士の剣を鍔(つば)の上で断ち、そのまま、胸当てと腰の鎧の継ぎ目に入った。

 鉄も、革も、その下のものも、さっきと同じように裂けていった。

 聖騎士は剣の柄を握ったまま、自分の腹を見下ろした。それから膝をつき、葉の上に横向きに倒れた。湊は、その体から目を逸らしていた。煙と兜の面頬(めんぼお)に遮られて、最後まで目は合わなかった。それなのに、角の付け根が、ちり、と痒くなった。痒みはすぐに引き、かわりに、右の手首から肩まで、何かがすっと通っていった。記憶は、何も来なかった。胸の奥に、また熱がひとつ灯った。

 二人目だった。一人目のときより、手の震えが小さいことに、湊は気づいた。それが、一人目のときよりも恐ろしかった。

 それに、目が合わなかったのに、角の付け根が痒くなった。黒狼の森の沢で、湊は目が合ったまま死んだ狼からさえ何も得られず、《継承》の条件は「目を見て、自分の手で」だと確かめたはずだった。さっき、あの男を斬ったときに外れた掛け金のことを、湊は思いだした。何かが変わったのだ。自分の手で殺せば、目を見なくても、もう受け継いでしまう。

「ミナト!」

 リシェルの声で、湊は顔を上げた。

 *

 《治癒》で起きあがった一人目の聖騎士が、リシェルを斜面の上へ追いつめていた。

 今度の聖騎士は、剣を振りかぶらなかった。足場の悪い斜面で、さっきと同じ手を食わないように、短く突いてはすぐに引く。リシェルの双剣が、そのたびに剣を弾いたが、下がる足の後ろは、もう若い樅の幹だった。

 沢の下り口では、隊長が、また左の手のひらを部下に向けようとしていた。

 紐が鳴った。

 石は隊長の剣を避けて、左の手首に当たった。手のひらの光がほどけた。隊長が初めてあの子のほうを向いた。あの子は木の陰に隠れず、母の上着の裾を引きずったまま、次の石を紐に載せていた。

 その一瞬、一人目の聖騎士の目が、隊長のほうへ流れた。

 リシェルは、それを逃さなかった。右の剣で突きを外へ弾き、空いた脇の下へ、左の剣を深く差し入れた。鎧の継ぎ目の、革だけの場所だった。

 聖騎士は、リシェルの肩に額をつけるようにして崩れた。リシェルは剣を抜かずに、その体が葉の上に横たわるまで支えていた。それから剣を抜いて、一歩下がった。

 リシェルの手が震えているのが、湊にも見えた。

「……斬れって、祈らされて育ったの」

 リシェルは、誰にともなく言った。

「灰角を見つけたら、迷わず斬れって。……斬ったのは、聖騎士だった」

 *

 隊長は、もう部下を見ていなかった。

 剣を両手で握りなおし、沢の下り口を離れて、斜面を一歩ずつ上ってきた。剣身が、白く光りはじめていた。乾いた花の匂いが、刃の形をして近づいてくる。光を纏(まと)った剣だった。

 湊は、刃を杖のかわりに地面について、膝で立った。目の前が揺れていた。背中は焼け、肋骨は息を半分しか通さず、左の足首は体重を拒んだ。それでも、下り口の前から隊長がいなくなった。そこを抜ければ、沢へ下りられる。

 隊長は、湊とリシェルのあいだに入るように回りこみ、まず湊に剣を振りおろしてきた。

 湊は《欠けた月》で受けた。刃と刃が触れた瞬間、白い光が火花のように散った。

 切れなかった。

 灰月の夜には光の槍を二つに裂いた刃が、今夜は光の膜の上で滑った。刃の奥で冷たいものが震えたが、光を裂くほどの力は戻ってこない。灰月が満ちていない夜の《欠けた月》は、光を纏った剣を、一息では断てなかった。

 隊長は押してきた。光が刃の上を這い、湊の右手の甲を焼いた。煮えた油の匂いが自分の手から立った。湊は膝をついたまま押しこまれ、背中が倒れた聖騎士の体にぶつかった。

 リシェルが横から斬りかかった。隊長は湊を押していた剣を外して、振り向きざまにリシェルの右の剣を弾き、柄頭でリシェルの胸当てを突いた。リシェルは葉の上を二歩滑って、片膝をついた。

 隊長の剣は、もう一度、湊の頭上へ上がった。

 湊は、隊長の足を見た。

 鉄の脛当(すねあ)てと、膝当てのあいだ。膝の裏に、革の帯だけの隙間がある。光を纏っているのは剣だけで、鎧は光っていない。

 剣が振りおろされる前に、湊は低く、横へ、刃を振った。そんな振り方を、湊は習ったことがなかった。膝をついたまま腰をひねり、手首を返して刃先だけを滑らせるその運びを、さっきの聖騎士から受け継いだばかりの腕が知っていた。

 膝の裏の革の帯が、紙のように裂けた。刃は帯の下の肉にも入った。隊長の左膝が折れ、振りおろした剣は湊の頭の横の地面に食いこんだ。

 そこへ、紐の音がした。

 石が隊長の兜の横に当たり、留め紐の切れた兜が、白い飾りごと葉の上に転がった。

 湊は、残った力の全部で、隊長の胸に体をぶつけた。額の角が、胸当ての上で鈍い音を立てた。二人はもつれて、針のような葉の上を倒れた幹のほうへ滑り、燃える枝の手前で止まった。

 湊が上になっていた。

 隊長の左の手のひらに、白い光が集まりはじめていた。今度は傷を塞ぐための光ではない。湊の顔に叩きつけるための光だった。

 その光の中で、湊は初めて、隊長の顔を見た。

 若かった。湊より、ずっと若い。二十を少し越えたくらいの、まだ髭の薄い顔だった。汗で額に張りついた茶色の髪の下で、薄い青の目が、湊を見上げていた。

 目が合った。

 角の付け根が、ちり、と痒くなった。目を合わせたまま殺せば、この男の覚えているものまで流れこんでくる。湊の体のほうが、それを先に知っていた。

 湊は、ほんの一瞬、止まった。これまで何度も止まってきたのと同じところで、止まりかけた。

「ミナト!」

 リシェルの声と、手のひらの光が強くなるのが、同時だった。

 湊は、隊長の目を見たまま、《欠けた月》を喉へ下ろした。

 光が、湊の顔の前でほどけて散った。

 *

 今度も、匂いから来た。

 蝋燭(ろうそく)の煙と、焼きたての白いパン。乾いた花。小さな石造りの礼拝堂で、膝を擦りむいた男の子が泣いている。その膝に、女の人の手が当てられていて、手のひらが白く光っている。

「痛いのは、光のほうへ行きなさい」

 女の人が、歌うように言った。男の子は泣きやんで、女の人の顔を見上げる。光が消えると、膝の擦り傷はなくなっていて、女の人は男の子の額を指でつついて、笑う。

 それだけだった。

 湊は、燃える枝の前の葉の上で、息をしていた。手の下で、若い聖騎士はもう動かなかった。薄い青の目は開いたまま、湊ではなく、湊の頭の上の煙の向こうを見ていた。

 胸の奥に、さっきよりも大きな熱が灯った。角の付け根の痒みが、ゆっくりと引いていった。

 湊は口の中で、「ステータス」と言った。

 視界の左上に、見慣れた枠が浮かんだ。一行目の数字が変わっていた。スキルの並びのいちばん上、これまで数字のついていなかった《継承》の横に、小さな数字がついていた。そして並びの最後に、知らない名前が三つ増えていた。

 〈《継承》2〉 〈《忍び足》1〉 〈《剣術》1〉 〈《治癒》1〉

 湊は枠を消した。今の光景が誰の記憶なのか、考えなくてもわかった。あの女の人は、この聖騎士の母親なのだ。《忍び足》は、荷馬車の上に音もなく乗りこんできた、あの小柄な男のものだ。《剣術》は、目を見ないまま殺した聖騎士のもの。その聖騎士からは剣の運びだけが来て、記憶は何も来なかった。目を見てとどめを刺したときだけ、スキルと一緒に、その人の覚えていたものが流れこんでくる。五つ目のスキルを受け継いだとき、《継承》そのものが、一つ育ったのだ。

 湊は、刃を喉から抜いた。手が、もう刃を放してくれた。指の震えは、止まらなかった。

 肩に、小さな手が触れた。

 あの子だった。あの子は湊の肩に手を置いたまま、湊が倒した若い聖騎士の顔を見下ろしていた。怖がってはいなかった。泣いてもいなかった。ただ、湊の肩の上の手に、少しだけ力をこめた。

 リシェルが、斜面の下から上ってきた。胸当ての上を押さえていたが、歩けていた。リシェルは何も言わずに、湊の右の脇の下に肩を入れて、湊を立たせた。反対側から、あの子が湊の帯を掴んだ。

「沢へ下りる」

 湊は言った。自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。

「水の中を歩けば、匂いも跡も残らない」

 *

 沢の水は、刃物のように冷たかった。

 三人は、岩が階段のように崩れた下り口から沢へ下り、膝まで水に浸かったまま流れを下った。あの子が先に立って、水の中の滑らない石を選んで歩き、湊はリシェルの肩とあの子の手に体を預けて、右足だけで石を探った。左の足首は、水が冷たすぎて、もう痛みすら遠かった。焼けた背中と右手の甲にだけ、ときおり跳ねた水が当たって、そのたびに火が戻ってきた。

 振り返ると、森の上の空が橙色に染まっていた。倒れた樅の幹が、燃えはじめたのだ。根の壁の土は燃えない。あの子の母が引っかいた六つの人の形は、焼けた屋根の灰の下で、黒く煤けながら残るだろう。その裏の斜面には、聖騎士が三人と、あの日の男が、横たわっている。湊はそう思ったが、口には出さなかった。

 沢が川に流れこむところで、東の山の稜線(りょうせん)が、白く浮かびあがりはじめていた。

 三人は、名前のない川の岸の丸い石の上を、下流へ急いだ。

 ハンノキの茂みの裏に着いたとき、マルタの荷馬車はもう動きだしていた。老いた栗毛の馬が轍(わだち)を踏みだし、御者台の小さな背中が、手綱を握っていた。

「マルタ!」

 リシェルが呼ぶと、荷馬車が止まった。マルタは振り向いて、ずぶ濡れの三人を順に眺めた。煙の匂いのする湊と、双剣を下げたリシェルと、大人の上着の裾を水に引きずっている、角のある子どもを。

「遅いよ。夜明けまでって言ったろう。もう明けてるじゃないか」

 マルタの目が、あの子のところで止まり、それから湊の手に握られたままの刃に移った。刃には、川の水でも落ちきらない色が残っていた。

 マルタは、しばらく黙っていた。

「……人を斬ったね」

「四人だ」

 湊は答えた。

「聖騎士が三人と、賞金稼ぎが一人。リシェルが一人で、残りは俺だ」

 マルタは、何も言わずに御者台から下りてきた。荷台の後ろの板を外し、苦蓬の袋をどけて、二重底の口を開けた。それから、湊の背中の焼け跡を見て、顔をしかめた。

「聖水だね。……寝る前に、軟膏だよ」

 マルタは荷台の袋のあいだから軟膏の壺を出し、湊の焼けた麻の服を背中から剥がした。剥がすとき、焼けた肌が布と一緒に持っていかれそうになって、湊は荷台の縁を右手で握りしめた。マルタの太い指が、苦蓬の軟膏を肩甲骨のあいだから腰まで塗りこんでいく。焼けるような熱さのあとに、痺れがゆっくりと広がって、痛みが一枚の布の向こうへ下がった。

「この子をかばったんだね」

 マルタは手を止めずに言った。

「灰角が灰角をかばうのを見るのは、何十年ぶりだろうね。……運び賃は、三倍だよ。三人目のぶんもね」

「俺のつけにしてくれ」

「ハーロウのじゃなくてかい」

「俺のだ」

 マルタは鼻を鳴らして、壺の蓋を閉めた。

 湊は荷台の縁に腰かけたまま、リシェルの左手を取った。手の甲に、あの子に噛まれた半月形の歯の跡があって、また開いて血を滲ませていた。

 湊は、知らない手順を、知っているもののように思いだした。手のひらを傷の上にかざす。痛いのは、光のほうへ。

 手のひらが、ほのかに光った。

 白い光ではなかった。夜明け前の空のような、灰色の光だった。乾いた花の匂いはせず、湊の手も焼けなかった。光は歯の跡の上にしみこみ、開いていた傷の縁が、ゆっくりと寄りあって閉じた。痕は残ったが、血はもう滲まなかった。

 そのかわり、湊の目の前が暗くなった。体の奥の、どこか浅い井戸の水を、底まで汲みあげてしまったような気がした。荷台の縁から落ちかけた湊の体を、リシェルが受けとめた。

「……今の、なに」

「あとで、話す」

 湊は、リシェルの肩に額をつけたまま言った。

「全部、だ。これも入れて」

 リシェルは閉じた傷を見下ろし、それから湊の顔を見て、何も言わずにうなずいた。

 二重底は、二人が肩を並べてやっと横になれる幅しかなかった。リシェルが先に入って奥へ詰め、湊が背中を板につけないように横向きに入って、そのあいだに、あの子が小さな体を押しこんだ。

 板が閉められる前に、あの子は一度だけ、上を見た。森の上の空に、煙が細く立ちのぼっていた。

 板が嵌(は)まり、暗がりになった。苦蓬の匂いの壁の中で、荷馬車がまた動きだした。

 しばらくして、湊の胸のあたりで、掠れた声がした。

「……さっき、名前、呼ぼうとしたでしょう」

 湊は、暗がりの中で目を開けた。隊長の手を狙えと叫ぶとき、湊は確かに、呼ぶ名前を探していた。

「呼べなかったな」

「……ノア」

 あの子は、母の上着の襟に顔を埋めたまま言った。

「わたしの、名前。……おかあさんの丸には、入れてもらえなかったけど」

 湊は、黙って聞いていた。

「おかあさんは、最後まで、言わなかったんだって。だから、わたしが、言う。……呼んで」

 湊は、焼けた背中の痛みも、半分しか入らない息も、まだ震えの残る指も忘れて、その名前を口の中で一度確かめた。それから、ちゃんと声に出して呼んだ。

「ノア」

 暗がりの中で、小さな体が、少しだけ湊のほうへ寄った。

「……うん」

 リシェルの手が、ノアの頭を越えて伸びてきて、湊の手首を一度だけ叩いた。

 この世界に目覚めて、十四日目の朝だった。

 湊は初めて人を殺し、初めて人から受け継いだ。そして初めて、誰かの名前を預かった。

 荷馬車は、北へ向かっていた。

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