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灰角のリスタート  作者: ヤッサン
第三章 鉄の轍

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第十八話 鉄の町

 二重底の暗がりで目を閉じると、決まって同じ目が見えた。

 薄い青の目だった。開いたまま、湊ではなく、湊の頭の上の煙の向こうを見ている。続けて、蝋燭(ろうそく)の煙と焼きたての白いパンの匂いが鼻の奥によみがえり、湊は目を開ける。暗がりには、苦蓬(にがよもぎ)の匂いの壁と、板の継ぎ目から落ちる細い光と、胸のあたりで丸くなって眠るノアの寝息がある。それを確かめてから、もう一度目を閉じる。すると、また同じ目が、湊の頭の上を見ている。

 森を出てから二日、湊はほとんど眠れなかった。

 熱が出たのは、一日目の昼過ぎだった。沢の冷たい水に浸かって下ったせいか、背中の火傷のせいかは、わからない。体の芯は凍えているのに、顔と背中だけが燃えていた。マルタは荷馬車を止めるたびに二重底の板を外し、湊の背中に軟膏を塗り直して、水の革袋を口に押しつけた。

「飲みな。熱で死なれたら、運び賃の取りっぱぐれだよ」

 二日目の夕方、街道が山の肩を回りこむところで、マルタは荷馬車を道から外し、張りだした岩の陰に入れた。このあたりまで来ると、北の街道を通るのは坑夫の町へ塩や麦を運ぶ荷馬車くらいで、それも日が暮れれば一台も通らない。今夜は二重底から出て寝ていい、とマルタは言った。

 湊は岩の陰で、腹ばいになった。背中を下にできないからだ。着ているのは、マルタが荷の中から出してきた、坑夫に売るための古い毛織のシャツだった。袖口がほつれ、脇には知らない男の汗の染みが残っている。

「古着だけどね、三倍だよ」

「つけにしてくれ」

「あんたのつけは、もう荷馬車一台ぶんだよ」

 マルタはそう言って、岩の反対側で毛布をかぶった。

 火は焚かなかった。山の夜は冷え、空には右の欠けた白月が昇っていた。灰月は、満ちた夜から三日が過ぎて、左から痩せはじめている。次に満ちるのは、九日後だ。

 《欠けた月》は、腰の右に差したままだった。外套の裾を裂いた布を三重に巻き、その上からマルタにもらった麻の切れ端をさらに巻いてある。森を出てから、湊は一度もその布をほどいていなかった。ほどけば、川の水でも落ちきらなかった色が、まだ刃に残っているような気がした。

「眠れないの」

 リシェルの声がした。岩に背中を預けて座ったリシェルは、膝の上に双剣を置き、片方の刃を布で拭いていた。拭く手は止まらないが、刃はもうずっと前からきれいだった。

「お前もだろう」

「わたしは、見張りよ」

「見張りは、きれいな刃を拭かない」

 リシェルの手が止まった。しばらく黙ってから、布をたたんで膝の上に置いた。

「……あの人、わたしの肩に額をつけて倒れたの。重かったわ。鎧の重さじゃなくて、人の重さだった」

 湊は答えなかった。答える言葉を、湊も持っていなかった。かわりに、自分の右手を見た。隊長の光に焼かれた手の甲が、薄闇の中で黒くひきつっている。その指が、まだ細かく震えていた。

「あなたは、三人ね」

「ああ」

「後悔してる?」

 湊は考えた。後悔という言葉は、少し違う気がした。あのとき止まっていれば、ノアが斬られていた。それはわかっている。わかっていても、目を閉じれば、あの薄い青の目が来る。

「……してない。たぶん、してないから、眠れないんだと思う」

 リシェルは長いあいだ黙っていた。それから手を伸ばして、湊の右の手首を一度だけ叩いた。

 ノアは、湊の頭のそばで、母の上着にくるまって丸くなっていた。眠っていると思っていたが、上着の襟の奥から、灰色の目がこちらを見ていた。

「……ねえ」

「起きてたのか」

「あいつを斬ったとき」

 ノアの声は小さかった。

「なにか、見た? あいつの、目のなかに」

 湊の胸の奥が冷えた。湿った秋の落ち葉の煙。木の根の下の、燃える低い屋根。膝をつかされた女の人と、その人の笑った顔。

「……少しだけ、見た」

「おかあさん、いた?」

 湊はすぐには答えられなかった。答えれば、あの男が覚えていた最後のところまで、話さなければならなくなる。それを、熱に浮かされた頭で、この暗がりの中で話していいのか、湊にはわからなかった。

「いた。……でも、今はうまく話せない。ちゃんと話せるようになったら、話す」

 ノアはしばらく湊を見ていた。それから、上着の襟に顔を半分うずめた。

「……あとで話すって、そのひとにも、言ってたよね」

「言った」

「ミナトの『あとで』は、いっぱいあるね」

 ノアが湊を名前で呼んだのは、それが初めてだった。湊は返事のかわりに、熱い息をひとつ吐いた。

 二人の寝息が聞こえはじめてから、湊は口の中で「ステータス」と言った。視界の左上に、見慣れた枠が浮かんだ。森ではゆっくり見る暇がなかった数字を、湊は初めて一行ずつ読んだ。

 〈ミナト 灰角族 Lv.16〉

 レベルが、十一から十六になっていた。一度に五つだ。この世界の一般人のレベルは十前後で、教団の聖騎士ならもっと上だろう。格上を倒すほど、経験値は多く入る。ゲームのそのルールは、ここでも生きていた。

 〈筋力 5〉〈耐久 5〉〈敏捷 4〉〈魔力 2〉〈精神 5〉〈感知 5〉

 それでも、増えたのは筋力と耐久が一つずつだった。灰角族の成長率は、相変わらず最低だ。三人の命と引き換えに、数字が二つ動いた。湊はそれを、うまく笑えなかった。

 スキルの欄は、八つに増えていた。〈《継承》2〉〈《嗅覚》1〉〈《咆哮》1〉〈《疾駆》1〉〈《毒耐性》1〉〈《忍び足》1〉〈《剣術》1〉〈《治癒》1〉。ゲームでは、どの種族も同時に持てるスキルは五つまでだった。湊の枠は、八つ並べても、まだ下に余白があった。

 〈魔力 2〉の行で、湊の目は止まった。荷馬車でリシェルの手の傷を閉じただけで、目の前が暗くなった。背中の火傷に《治癒》を試すのは、少なくとも、この熱が下がってからだ。灰色の光が灰角の肌に効くのかどうかも、まだわからない。

 湊は枠を消して、目を閉じた。

 そしてまた、同じ目を見た。

 *

 グリムホルトに着いたのは、転移十七日目の夕方だった。

 ゲームのグリムホルトなら、湊は目をつぶっていても歩けた。山の斜面に段々に張りついた町で、いちばん下に木の柵の門があり、真ん中に広場と宿屋の《つるはし亭》、いちばん上に坑道の入口がある。広場の井戸の脇ではドワーフの鍛冶屋が一日じゅう同じ剣を打っていて、低い太鼓の曲がずっと鳴っていた。酒場の隅には年老いた坑夫がいて、三度話しかけると、三つ目の台詞で地図に鉄巨人の工房跡の印がつく。それが、北の国境を越える前の最後の町だった。

 二重底の側板には、節の抜けた小さな穴があった。湊はそこに片目を当てた。

 門は、ゲームと同じ木の柵だった。門番はマルタの顔を見ただけで手を振り、荷台には目もくれなかった。荷馬車は坂を上っていく。

 広場に出たところで、湊は息をのんだ。

 町の下半分が、傾いていた。

 家々は肩を寄せあったまま、みな同じ方へ少しずつ傾き、窓の鎧戸(よろいど)が斜めにずれていた。広場の石畳は真ん中から一本の長い裂け目で割れ、裂け目の片側だけが、膝の高さほど沈んでいた。その沈んだ側に、《つるはし亭》があった。正確には、《つるはし亭》の屋根があった。看板のつるはしは、地面とほとんど同じ高さで、かしいだ軒の下にぶら下がっていた。

 裂け目のまわりには縄が張られ、広場の隅では、背が低く肩の広い男たちが、木の腕のついた大きな汲みあげ機を回していた。腕が回るたびに、地面の下から茶色い水が吐きだされてくる。ドワーフだった。

「下の町は、春に沈んだよ」

 御者台から、マルタが前を向いたまま言った。

「ガルヴァンのドワーフどもが、去年から山の下を深く掘りはじめてね。そしたら古い坑道が水を吸って、上に乗ってた町ごと腰を抜かしたのさ」

「宿屋の中にいた人は」

「宿屋も酒場も、沈んだのは夜中だった。……酒場の隅で、いつも飲んでた坑夫の爺さんがいたけどね。あれが出てきたって話は、聞かないね」

 湊は、節穴から目を離した。三つ目の台詞で地図に印がつく、あの年老いた坑夫だ。工房跡へ行く道筋は、湊の頭の中では、あの酒場の隅から始まっていた。その酒場が、地面の下に沈んでいる。

 匂いが、板の隙間から流れこんできた。石炭の煙、熱い鉄、鉱石の割れ目から立つ硫黄、濡れた石、坑夫の汗。ブラムウェルほど種類は多くないが、どれも重く、鼻の奥に溜まる。その中に、湊は知っている匂いを拾った。

 胡椒と唐辛子の、古くなった刺激。その下の、大男の汗。それから、弦に塗った蝋(ろう)と金具の油。

 林の谷間の、斧の大男と弩の男だった。二人の匂いは、広場の上の、まだ傾いていない酒場の戸口のあたりに溜まっていた。今日だけの匂いではない。何日も、そこに出入りしている。

 そして、もう一つ。湊の知らない匂いが、二人の匂いに混じっていた。歯の痛みを抑えるときに噛む丁子(ちょうじ)の油と、古い鉄の錆。

 湊は、拳で上の板を二度叩いた。

「マルタ。谷の賞金稼ぎが、この町にいる。斧と弩の二人だ。それと、知らない奴が一人いる」

「知ってるよ」

 マルタの声は変わらなかった。

「門番が言ってた。三日前から、酒場に居ついてる余所者がいるってね。北の道の終わりは、この町さ。北へ向かう荷馬車は、みんなここへ着く。待つなら、ここで待つのがいちばん楽だよ」

 *

 マルタの家は、町のいちばん上の外れにあった。坑道の入口よりさらに上の、古い岩肌に背中を押しつけるように建った、半分が石で半分が木の小屋だった。表に老いた馬を入れる差し掛けの屋根があり、中は二間で、奥の一間は岩をそのまま掘りこんだ部屋になっていた。

 その奥の部屋の床に、板の跳ね上げ戸があった。マルタが戸を開けると、下は大人がかがんで歩ける高さの、細い横穴になっていた。

 ノアが、穴を覗きこんだ。

「……うしろに、穴がある」

「山の家はね、どこも、うしろに穴があるのさ」

 マルタは言った。

「落盤があったとき、反対側から出られるようにね。前に住んでた坑夫が、試しに掘った穴だよ。坑道の古いところに抜けてる。風の来るほうへ歩けば、上の入口に出られる」

 ノアは、しばらく穴を見ていた。それから、ほんの少しだけ、口の端をゆるめた。湊がノアのそういう顔を見たのも、初めてだった。

 マルタは湊をうつ伏せに寝かせ、背中の軟膏を塗り直した。

「あの連中は、今夜来るか、明日の夜に来るよ。町の者はみんな、北の薬草売りのグレタの家を知ってる。斧の男は、あたしの顔を見てるからね」

「なら、今夜のうちに出たほうがいい」

「その足でかい」

 マルタは湊の左の足首を指でつついた。湊は声を噛み殺した。

「坑夫の町で薬屋に手を出す馬鹿は、そういないよ。でもね、賞金稼ぎは坑夫じゃない。……寝てな。灰角は、寝るのが仕事さ」

 湊は寝なかった。寝られなかった。

 *

 夜が更けると、風の向きが変わった。

 昼のあいだ谷から吹き上げていた風は、日が落ちてしばらくすると止み、やがて山の上から、冷えた空気が斜面を滑り下りはじめた。風は、マルタの小屋の裏の岩肌から小屋を通り抜けて、町のほうへ下っていく。

 湊は、跳ね上げ戸のそばで腹ばいになったまま、その風を首筋で感じていた。そして、気づいた。

 この風では、町から上ってくるものの匂いは、何も届かない。

 森の夜と同じだった。《嗅覚》が拾えるのは、風上のものだけだ。今、湊の鼻は、背中の岩の匂いしか嗅いでいない。

 差し掛けの屋根の下で、老いた馬が鼻を鳴らした。

 一度。それから、足を踏みかえる音がした。湊は顔を上げた。小屋の表で、砂利を踏む音がする。何人かが、足音を揃えずに、ゆっくりと近づいてくる。

 湊は、隣で眠るリシェルの手首を二度叩いた。リシェルはすぐに目を開けて、剣の柄に手をかけた。ノアも、湊が何も言わないうちに起きていた。

 戸が、三度叩かれた。

「グレタ婆さん。夜分に悪いね」

 低い、急がない声だった。

 マルタは寝台から起きて戸の前まで行ったが、閂(かんぬき)は外さなかった。

「こんな時間に、薬かい」

「薬じゃねえ。人を探してる」

 声の主は、戸の向こうで少し間を置いた。

「ヴィックが戻らねえんだ。俺の弟でね。南の森へ聖騎士を三人連れて入ったきり、誰も戻らねえ。そのかわりに、婆さんの荷馬車が戻ってきた。積み荷が、出ていったときより重そうだったって、門番が言ってたぜ」

「苦蓬が湿ったのさ」

「そうかい」

 戸の向こうの声は、笑いもしなかった。

「開けてくれ、婆さん。婆さんに用はねえ。用があるのは、床の下の百枚だ」

 マルタが振り向いて、奥の部屋の湊を見た。口だけが動いた。行きな。

 リシェルが跳ね上げ戸を開けた。ノアが先に穴へ滑りこみ、マルタは壁から外した小さな坑夫のランプと火打ち石を、リシェルの手に押しつけた。湊はノアの後に続き、リシェルが最後に下りた。

 戸を閉める前に、湊はマルタを見上げた。

「あんたは、どうするんだ」

「あたしは、客を売らないよ」

 マルタは小声で言った。

「それにね、坑夫の町で薬屋を殺したら、明日から誰が坑夫の傷に軟膏を塗るんだい。あいつらも、それくらいは知ってるさ」

 跳ね上げ戸が閉まった。頭の上で、何かを引きずる音がした。マルタが戸の上に敷物を広げ、椅子を引いてきて、その上に座ったのだ。

 ブラムウェルの枯れ井戸の蓋の上に座っていた大男のことを、湊は思いだした。あのときは、上に座られて出られなかった。今は、上に座ってもらって、逃げている。

 表の戸が、蹴破られる音がした。

 *

 横穴は、人の手で掘った細い穴だった。

 かがめば歩ける高さはあったが、湊の角はときどき天井の土を削った。数歩おきに、天井を支える丸太の柱が立っている。リシェルはランプに火を入れなかった。灯りは穴の先まで光を投げて、後ろから来る者に道を教えてしまう。

 暗がりの中で、湊は顔に風を感じた。前から吹いてくる。坑道の奥から、マルタの小屋の床下へ向かって、冷えた空気がゆっくりと流れていた。この風なら、前にあるものの匂いは届く。

 そのかわり、後ろから来るものの匂いは、届かない。

 二百歩ほどで、手掘りの穴は、もっと広い坑道に突き当たった。足の裏に、湊は鉄の感触を拾った。鉱石を運ぶ車の、細い軌道だった。

 湊は、その軌道をたどって、少し先の暗がりを手で探った。広くなっている。天井も高い。背を伸ばしても、角が届かなかった。湿った岩と、古い松の柱と、錆びた鉄の匂いがする。奥の正面にもう一本の坑道が口を開けていて、風はそこから、ほかより強く吹きこんでいた。

 湊は知っていた。ここは、ゲームの《グリムホルト旧坑》の、最初の《溜まり場》だ。

 推奨レベル二十八の、短いダンジョンだった。鉱石を積んだまま錆びついたトロッコが一台、軌道の上に残っている。ゲームでは、ここで後ろから《大岩蜘蛛》に追われることになっていて、溜まり場の奥の右の隅に、赤く塗られた柱が一本あった。その柱を剣で叩くと天井が崩れ、蜘蛛を埋めてくれる。攻略wikiの〈赤柱〉の項目を書いたのは、湊だった。

 奥の坑道から、匂いが流れてきた。

 ランプの油が燃える匂い。弦の蝋と金具の油。それから、石炭の粉と、知らない男の汗。

 二人だった。弩の男と、坑夫らしい誰か。上の入口から、坑道を下ってくる。

「前から、二人来る」

 湊は、ほとんど息だけで言った。

「弩の男と、灯りを持ったやつだ。上の入口から回りこませたんだろう。後ろは、匂いが届かない。でも、たぶん来てる」

 耳を澄ますと、手掘りの穴のずっと奥で、跳ね上げ戸の開く鈍い音がした。マルタはどうなったのか。湊はそれを考えるのをやめた。今考えても、何もできない。

 奥の坑道の先が、ぼんやりと黄色くなった。灯りが、角を曲がってきたのだ。

 湊は、頭の中で手順を唱えた。

 一つ。前の二人のうち、灯りを持っているのは弩の男ではない。弩には両手が要る。灯りは、もう一人が持っている。

 二つ。弩は、灯りの中に見えるものしか撃てない。灯りを消せば、弩はただの重い木の塊になる。

 三つ。灯りまで、音を立てずに近づく。走れば、足音で撃たれる。

 四つ。リシェルとノアは、トロッコの陰で待つ。灯りを持たない俺たちは、後ろから来る連中にも見えない。

 湊はリシェルの手のひらに、指で書いた。〈かげ〉〈まて〉。リシェルは湊の手首を一度握り、ノアの肩を抱いて、トロッコの陰へ下がった。

 湊は軌道を離れ、左の岩壁に右の肩をつけた。

 音を立てずに。そう思っただけで、足の運びが変わった。

 右足の踵が、地面に下りなかった。足の外側の縁から先に地面に触れ、小指の付け根から親指の付け根へ、ゆっくりと重さが転がっていく。そのあいだ、体の重さはずっと後ろの足に残っていて、前の足が地面を確かめ終えてから、初めて重さが前へ移る。息は浅く、鼻からだけになった。膝が勝手に少し曲がり、体が低くなる。荷馬車の後ろから音もなく乗りこんできた、あの小柄な男の歩き方だった。

 《忍び足》だった。

 二歩目で、湊は奥歯を噛みしめた。左足の番だった。足の外側の縁から下ろし、重さをゆっくりと転がしていく。その「ゆっくり」が、左の足首には、いちばんつらかった。一息に踏めば一瞬で済む痛みが、重さの移るあいだ、ずっと続く。体は、この歩き方を知っている。けれど、この足首は、この歩き方のためにできていなかった。

 湊は息を止めずに、浅い息のまま、一歩ずつ進んだ。

 灯りが近づいてきた。坑夫の男が、鎖のついたランプを顔の高さに提げ、その一歩後ろを、弩を構えた男が歩いていた。鼻の潰れた、頬骨(ほおぼね)の高い男だった。弩の先は、灯りの届くところをなめるように、左右に動いている。灯りの輪は、湊の三歩手前の岩壁で切れていた。

 あと三歩だった。

 湊は右足を下ろし、左足を下ろそうとした。そのとき、左の足首が重さを拒んだ。膝が勝手に崩れ、踵が地面に落ちた。踵の下で小石が転がり、軌道の鉄に当たった。

 かちり、と小さな音がした。

 弩が、こちらを向いた。

 湊は、考えるより先に、右足で地面を蹴った。《疾駆》の半歩が、体を前へ押しだした。弦の鳴る音と同時に、湊の左の耳のすぐ脇を何かが風を連れて通り過ぎ、後ろの柱に突き立つ音がした。

 半歩で、灯りの輪の中に入った。坑夫の男が目を見開いて、ランプを持った腕を上げた。湊は《欠けた月》を下から振りあげた。刃はランプの鎖を断ち、ガラスの火屋(ほや)を割った。ランプは地面に落ちて、こぼれた油の上で一度大きく炎を上げ、それから消えた。

 闇になった。

 闇の中で、湊は弩の男の匂いをつかんでいた。弦の蝋と、巻き上げの取っ手を回そうとする、鉄の擦れる音。湊は吊った左腕ごと肩から男の胸にぶつかり、二人で溜まり場の軌道の上に倒れた。男の手が湊の首を探る前に、湊は《欠けた月》を男の喉の下に当てた。

 男が、動かなくなった。

 坑夫の男の足音が、奥の坑道を上へ向かって遠ざかっていった。

「灰角が二匹だなんて、聞いてねえぞ!」

 叫び声が、坑道の壁に何度もぶつかりながら、小さくなっていった。

 湊は、刃を喉に当てたまま、闇の中で男の荒い息を聞いていた。

 目は見えない。互いに、何も見えていない。それでも、《継承》は2になっている。自分の手で殺せば、目を見なくても受け継ぐ。弩の男のスキルなら、たぶん、狙いを定める何かだ。

 そして、目を見ないで殺せば、記憶は来ない。

 楽だ、と思った。

 この闇の中で、目を見ないまま刃を引けば、薄い青の目も、蝋燭の煙も、何も来ない。スキルだけが来る。

 そう思った自分に、湊は、背中の火傷よりも冷たいものを感じた。

 湊は刃を返した。《欠けた月》の握りの尻で、男のこめかみを一度、強く打った。男の体から力が抜けた。息は、続いていた。

 *

 手掘りの穴の口が、明るくなった。

 灯りが一つ、溜まり場に入ってきた。灯りを持った男は、ランプを穴の口の柱の釘に掛けた。黄色い光が溜まり場いっぱいに広がり、錆びたトロッコと、その陰のリシェルとノアと、奥の坑道の口の手前で軌道に膝をついた湊を照らしだした。

 男が二人いた。

 一人は、林の谷間の斧の大男だった。戦の斧は持っていない。この天井の高さでは、あの斧は振りかぶれない。かわりに、坑夫が岩を割るのに使う、柄の短い大槌を右手に提げていた。

 もう一人が、匂いの主だった。丁子の油と、古い鉄の錆。

 湊とそれほど背丈の変わらない、痩せた男だった。白いものの混じった髭を短く刈り、顔の下半分を濡らした布で覆っている。小柄な男と、同じ巻き方だった。手には、湊の背丈ほどの柄の、短い槍を持っていた。坑道の中で自由に使えるのは、突く武器だけだ。この男は、それを知っている。

「お前が、ミナトか」

 布の下から、低い声がした。戸の向こうで聞いた声だった。

「ヴィックは、どこだ」

 湊は、膝をついたまま答えた。嘘をつく気には、なれなかった。

「森だ。燃えた樅の裏の斜面に、いる」

 男はしばらく黙っていた。布の上の目が、少しも動かなかった。

「そうか」

 それだけ言うと、男は腰の袋から、拳ほどの黄色い玉を取りだした。

「弟から聞いてた。灰角は鼻で見る。暗いところほど、よく見えるってな。灰角の森は、俺とあいつで三つ潰した。……鼻を潰すのが、最初の手順だ」

 男は玉をランプの火にかざしてから、湊の頭の上を越えるように、奥の坑道の口へ放った。玉は湊の後ろの軌道の上で割れ、黄色い煙を吐きはじめた。

 硫黄(いおう)だった。坑夫が、坑道の鼠をいぶしだすのに使う煙だ。

 風は、奥の坑道から溜まり場を通って、手掘りの穴のほうへ流れている。煙は、その風に乗って、まず湊の顔を包んだ。

 鼻の奥に、焼けた拳を突っこまれたようだった。目から涙があふれ、喉が裂けるように咳が出た。咳をするたびに、折れた肋骨が鳴った。そして、ほかの匂いが、何ひとつしなくなった。リシェルの革の胸当ても、ノアの冷えた灰の匂いも、男の丁子も、全部が黄色い煙の向こうに消えた。

 煙は、そのまま男たちのほうへも流れていく。それでも男は、濡れた布の下で平気な顔をしていた。最初から、そのつもりで布を巻いてきたのだ。

 斧の大男が、大槌を担いでトロッコのほうへ歩きだした。

「ブルーノ。女とちびは、任せる」

 痩せた男が言った。そして自分は、短い槍を低く構えて、湊のほうへ来た。

 湊は、刃を杖にして立ちあがった。涙で、灯りがにじんで見えた。

 槍が来た。

 まっすぐ胸ではなかった。湊の左だった。吊った左腕の側、《欠けた月》が回りこめない側を、槍の穂先が浅く、速く突いてくる。湊は体をひねって、刃を穂先の前に置こうとした。刃が届く前に、槍は引かれていた。突いては、引く。刃の前に、一度も柄を出さない。

「ヴィックの剣を切った刃だろう」

 男は言った。

「弟の話は、よく聞くことにしてる」

 二度目の突きが、吊り布の上から左の二の腕をかすめた。布が裂け、腕の外側に熱い線が走った。三度目を、湊は《剣術》の腕に任せた。膝を落とし、刃を斜めに払って、穂先の手前の柄を狙った。刃が柄に触れかけた。男は、それも引いた。

 ヴァルターと同じだった。同じ手を、二度は食わない。

 湊の後ろで、鈍い音がした。ブルーノの大槌が、トロッコの縁を叩いたのだ。錆びた鉄が鳴り、トロッコが軌道の上で傾いた。その陰から、リシェルが低く飛びだした。大槌を振りかぶるには、天井が少し足りない。ブルーノは振りかぶりを途中で止め、槌の頭で突くように前へ押しだした。リシェルはその柄に沿って滑りこみ、肘から先だけで右の剣を返して、槌を握るブルーノの右の手首を裂いた。大槌が、軌道の上に落ちた。

 紐の音はしなかった。トロッコの陰では、紐を回す広さがない。かわりに、トロッコの縁から、ノアが腕だけで石を投げた。石はブルーノの顔に当たった。胡椒と唐辛子に焼かれた目の、すぐ下だった。ブルーノは顔を押さえて、手掘りの穴のほうへよろめき下がった。

 湊はまた一歩、左へ追いつめられた。背中が、奥の坑道の口の柱に触れた。

 湊は、頭の中で手順を唱えた。咳のあいまに、一つずつ。

 一つ。この男には、勝てない。鼻は死に、目は涙でにじみ、男は刃の前に柄を出さない。

 二つ。溜まり場には、天井を落とす柱がある。ゲームでは、奥の右の隅の赤い柱だった。

 湊は、涙でにじむ目で、奥の右の隅を見た。赤い柱は、なかった。そこに立っているのは、まだ白っぽい新しい樫の柱だった。ドワーフが、古い柱を入れ替えたのだ。あれを切っても、天井は落ちない。

 三つ。それでも、古い柱は残っている。

 さっきランプの光が溜まり場に広がったとき、湊は見ていた。古い松の柱のいくつかに、白い石灰で、大きな×の印が描いてあった。坑道の柱に描かれた×が何を意味するかは、ドワーフの文字が読めなくてもわかる。

 崩れかけ。触るな。

 その×のある柱の一本が、今、湊が背中をつけている、奥の坑道の口の柱だった。

 四つ。リシェルとノアを、先に奥の坑道へ入れる。俺が最後に入り、口の柱を切る。天井が落ちれば、あの男とのあいだに岩の壁ができる。

 五つ。切ったら、天井が落ちきる前に、《疾駆》で坑道の奥へ跳ぶ。跳べなければ、俺も埋まる。

「リシェル! ノア! 奥の坑道へ行け!」

 湊は叫んだ。叫んだせいで、また咳が出た。

 リシェルは迷わなかった。ノアの手を掴んでトロッコの陰から飛びだし、湊の右脇を抜けて、奥の坑道の口へ駆けこんだ。男の槍が、そちらを向きかけた。湊は男とリシェルのあいだに体を入れ、刃を前に出した。男は、刃の前に柄を出さないために、一歩引いた。

 その一歩で、湊と男のあいだが三歩に開いた。

 湊は振り向かずに一歩下がって、坑道の口に入った。右手の《欠けた月》を、肩から先の重さを全部乗せて、背中の脇の柱へ叩きこんだ。

 古い松の柱は、濡れた紙のように、斜めに断たれた。

 一瞬、何も起きなかった。

 それから、頭の上で、岩が低く唸った。天井の土が、ぱらぱらと首筋に落ちてきた。

 男が、跳び下がった。槍を構えたまま、音のする天井を見上げもせずに、後ろへ三歩。坑道で天井が唸ったときにどうすればいいかを、体が知っている男の動きだった。

 湊は、右足で地面を蹴った。《疾駆》の半歩が、体を坑道の奥へ押しだした。左の足首が地面に触れて、目の前が白くなった。湊は、そのまま前へ倒れこんだ。

 背中に、何かが当たった。拳ほどの岩だった。焼けた背中に、火の塊を押しつけられたようだった。それから、湊の足のすぐ後ろで、天井がまるごと落ちてきた。

 音というより、揺れだった。坑道の床が持ちあがり、土と石の粉が、闇の中を濃い霧のように満たした。

 リシェルの手が、湊の襟首を掴んで、前へ引きずった。

 *

 粉が落ちつくまで、誰も口をきかなかった。

 湊は、坑道の床に腹ばいになったまま咳をしていた。後ろの、坑道の口があったところは、天井まで岩と土で埋まっていた。硫黄の煙は、もう流れてこない。風は前から吹いてきて、崩れた岩の隙間へ細く抜けていった。

 岩の向こうから、声がした。

「弟は」

 痩せた男の声だった。岩に阻まれて、くぐもっていた。

「お前の顔を、見て死んだか」

 湊は、咳を噛み殺した。

「見てた。最後まで」

 岩の向こうは、しばらく黙っていた。

「……コール・ダリックだ。覚えとけ」

 声は変わらず低く、急がなかった。

「次は、坑道の外でやろう。俺も、お前の顔を見て殺す」

 足音が遠ざかっていった。大槌を拾う重い音と、倒れた弩の男を担ぎあげるらしいブルーノの唸り声が、それに続いた。やがて、何も聞こえなくなった。

 リシェルが、ランプに火を入れた。小さな灯りの中で、リシェルの頬にもノアの髪にも、白い石の粉がかぶっていた。ノアは、湊の左腕の吊り布の裂け目を見て、自分の上着の裾で、腕の外側の血を押さえた。

「あさい」

 ノアは言った。

「そっちの、ほうが、いたそう」

 ノアの目は、湊の背中を見ていた。古い毛織のシャツの背中に、岩の当たったところだけ、黒い染みが広がりはじめていた。

 湊は答えるかわりに、鼻から息を吸った。硫黄の焼けつく匂いの奥から、少しずつ、ほかの匂いが戻ってきていた。前から吹く風に乗って。

 湿った岩。新しい樫の樹液。獣脂のランプ。それから、湊の嗅いだことのない種類の煙草の煙。

 そして、鉄だった。

 鍛冶場の熱い鉄でも、剣の油を引いた鉄でもない。もっと大きくて、冷たくて、古い鉄。長いあいだ誰にも触れられずに眠っていた、山ほどもある鉄の塊の匂いだった。

 三人は、風の来るほうへ歩いた。

 しばらく行くと、坑道は二つに分かれた。左の坑道からは、坑夫の男が逃げていった汗の匂いと、上の入口の夜気が細く下りてきていた。右の坑道からは、さっきの古い鉄の匂いと、強い風が来ていた。

 左へ行けば、町の上の入口に出る。坑夫の男が逃げこんだ先で、誰が待っているかはわからない。

 湊は、右を選んだ。

 右の坑道は、しばらく行くと、まっすぐな四角い穴に変わった。壁には鑿(のみ)の跡がきれいに揃い、天井の柱はどれも新しい樫で、柱と柱のあいだが、定規で測ったように等しい。ドワーフの掘った坑道だった。ゲームのグリムホルト旧坑に、こんな坑道はなかった。

 その先に、灯りがあった。

 背が低く肩の広い男が、ランプを提げて立っていた。胸まで届く髭を二本に編み、肩につるはしを担いでいる。ドワーフはランプの光を、まず湊の角に当て、それからリシェルとノアの顔に当てた。

 逃げる場所は、なかった。後ろの坑道は、崩れた岩で塞がっている。

 ドワーフは、口に咥えた短い煙管(きせる)を、ゆっくりと外した。

「……灰角か」

 声は、岩を擦るように低かった。驚いてはいなかった。

「グレタ婆さんの家の下の、古い穴から来たな。上の町で、坑夫どもが騒いでたぞ。婆さんの家に余所者が押しこんだってな。うちの若いのが、つるはしを持って二十人ばかり集まった。婆さんは、無事だ。余所者どもは、坑道へ下りていったそうだが」

 ドワーフは、湊たちの後ろの暗がりに目をやり、髭の中で何か言った。

「旧坑の柱を切ったのは、お前か。……あれは、もう、もたん柱だった。印をつけといたのは、おれだ」

 湊は、ドワーフの肩越しに、坑道の行き止まりを見た。

 そこは、岩ではなかった。

 黒ずんだ鉄の壁だった。人の背丈の三倍ほどの高さまで、ドワーフの鑿が岩を剥がした跡の下から、平らな鉄の面がのぞいている。鉄の板と板の継ぎ目には、拳ほどの頭の鋲(びょう)が、まっすぐな列になって並んでいた。そして壁の真ん中に、歯車の中に槌を抱いた紋が、浮き彫りになっていた。

 湊は、その紋を知っていた。

 ゲームの《鉄巨人の工房跡》の入口の扉に、同じ紋があった。けれど、ゲームの入口は、町から谷を一つ越えた先の崖の上にあって、酒場の年老いた坑夫の地図がなければたどり着けなかった。山の下から、工房の壁の横腹に行き当たる道など、どこにもなかった。

「ガルヴァンの奥から、鉄の筋を追って掘ってきたら、これに当たった」

 ドワーフは言った。

「おれはグンナル。この坑の頭だ。……その壁には、触るな」

「なぜだ」

 グンナルは、煙管を咥えなおした。煙が、湊の嗅いだことのない匂いを連れて、坑道の天井へ昇っていった。

「三日前から、壁の向こうで、何かが動く音がする」

 鉄の壁の奥からその音が聞こえてきたのは、そのときだった。

 遠い、重い音だった。とても大きな何かが、長い眠りの中で、一度だけ寝返りを打ったような音。坑道の床が、湊の足の裏で、かすかに震えた。

 湊の鼻の奥で、古い鉄の匂いが、少しだけ濃くなった。

 この世界に目覚めて、十八日目の夜明け前だった。灰月が満ちるまで、あと六日あった。

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