第十九話 工房跡
壁の向こうの音は、すぐにやんだ。それでも、足の裏にはまだ床の震えが残っていた。
ドワーフのグンナルは、壁のほうを振り返らなかった。くわえていた短いパイプを口から外し、ランプを持ちあげて、湊の顔を照らした。
「熱があるな。顔が赤い。それに、背中から血の匂いがする」
リシェルが、湊の前に半歩出た。右手は剣の柄にかかっている。
それを見たグンナルは、肩にかついでいたつるはしを下ろし、先を床についた。戦う気はない、という仕草だった。
「心配するな、娘。この山の下に、灰角を狩るやつはいない」
「どうして、そう言いきれるの」
「狩る理由がないからだ。灰角は、おれたちの山を荒らしたことがない。荒らしたのは、白い外套の連中、教団のほうだ。あいつらは坑道に聖水をまいて清めて回った。清めた坑道の柱は、なぜか三年で腐る。それで、おれの爺さんの代に、坑道が二つ崩れた」
湊は、自分の脇の下を支えているノアを見た。ノアは逃げようとはしていない。けれど右手は、上着のポケットの中で石を握っているはずだった。
グンナルは、あごで後ろの鉄の壁を指した。
「それにな。この工房を建てたのは、ドワーフじゃない。おれたちに伝わる古い唄では、角のある鍛冶屋が建てたことになってる。……ただの唄だがな」
湊は息をのんだ。
角のある鍛冶屋。それは、灰角のことではないのか。
ゲームの『鉄巨人の工房跡』は、湊が何十回も攻略した場所だ。けれど、どの説明文にも「角」という言葉は出てこなかった。
「その唄、誰が歌うんだ」
「爺さん連中が、酔っぱらったときにな」
グンナルは、それ以上は話さなかった。ランプを、来た道のほうへ向けた。
「ついて来い。おれの休み場所で、その背中を手当てしろ。それと、その壁には触るなよ」
*
グンナルの休み場所は、坑道の脇に掘られた四角い部屋だった。広さは、小さな教室くらい。片方の壁には、三段の寝台がある。反対の壁には、つるはしやノミが大きい順に並べて掛けてあった。部屋の真ん中では、小さな鉄のストーブが赤く燃えている。
若いドワーフが二人いた。二人は湊の角を見て顔を見合わせたが、グンナルが一言何か言うと、黙っていちばん下の寝台を空けた。
湊は、そこにうつ伏せに寝かされた。背中の火傷のせいで、仰向けには寝られない。
グンナルが、棚から黒い壺を下ろした。中身は、松やにと獣の脂を練った、黒い薬だった。焦げた木のような匂いがする。
「しみるぞ」
グンナルが、背中に薬を塗った。
岩が当たった傷に薬が触れたとたん、湊は寝台のふちを右手でつかんだ。声を出さないように、歯を食いしばった。それでも、折れた肋骨が勝手に鳴った。
塗り終わったとき、湊の右手の指は、寝台のふちをつかんだまま固まっていた。ノアがそばにしゃがみ、指を一本ずつ、そっとはがしてくれた。
グンナルが、湯気の立つお椀を湊の顔の前に置いた。麦を煮た、しょっぱいおかゆだった。湊は半分も食べられなかった。
「寝ろ。坑道の中には昼も夜もない。寝られるときが夜だ」
湊は目を閉じた。
森で聖騎士の隊長を殺してから、目を閉じるたびに、あの男の薄い青の目が浮かんだ。だから今夜も来るのだと思った。
でも、来なかった。熱と疲れのせいで、湊はそのまま眠ってしまった。
*
目を覚ますと、聞き覚えのある声がした。
「起きたかい。よく寝る灰角だね。もう昼過ぎだよ」
マルタだった。寝台の横の丸太に座って、薬の壺をひざに抱えている。額の端に、紫色のあざがあった。
「その顔、どうしたんだ」
「椅子ごと蹴り落とされただけさ。蹴ったのは、手首に布を巻いた大男のほうだよ」
大男とは、賞金稼ぎのブルーノのことだ。昨夜、湊たちを逃がすために、マルタは床下の穴のふたの上に椅子を置いて座っていた。
マルタは、町の坑夫たちに連れられて、上の入口から坑道を下りてきたのだという。坑夫たちがつるはしを持って集まったので、賞金稼ぎたちはマルタの家から出ていった。
けれど、町からは出ていっていなかった。
「町の上の入口と、あたしの家の前に、交代で見張りが立ってるよ。頭のコールと、大男のブルーノ。それに、あんたが殴って気絶させた、弩の男もね」
マルタは声を小さくした。
「それと、金で雇われる坑夫が増えてる。春に下の町が沈んで、家をなくした連中さ。あの連中にとって銀貨百枚は、家をもう一度建てられる大金なんだよ」
湊は、寝台の板に額をつけた。
灰角を狩る理由は、灰角の側にはない。でも、人間の側には、いくらでもあった。
グンナルが、部屋の入口から言った。
「おれの坑道の中までは、誰も入れさせん。だが、坑道の外のことまでは、おれには決められん」
リシェルが、グンナルに聞いた。
「あなたたちは、隣の国のガルヴァンから掘ってきたんでしょう。その坑道を戻れば、国境の向こうに出られるはずよ」
「三日前までなら、出られた」
グンナルは、二本に編んだひげの先を指でしごいた。
「春に下の町を沈めた水が、どこへ消えたのか、ずっとわからなかった。それが三日前、おれたちの坑道の途中の割れ目から、いきなり噴き出してきた。今、坑道の半分は水の底だ」
「三日前」
湊は、その言葉をくり返した。
「壁の向こうで音がしはじめたのも、三日前だったよな」
「……そうだ」
「その水は、どっちへ流れてる」
「工房の壁のほうだ。床の下を、壁に向かって流れてる」
湊は、ゲームの工房跡を思い出した。
工房跡の中には、大きな歯車がたくさんあった。歯車はいつも回っていた。でも、何の力で回っているのかは、ゲームのどこにも書かれていなかった。
もし、その歯車がずっと止まっていて、三日前に流れこんだ水の力で、また回りだしたのだとしたら。壁の向こうの音は、その音なのかもしれない。
湊は、寝台の上で体を起こした。背中が裂けるように痛んだ。
「工房跡の中を通って、外へ出よう」
リシェルとマルタが、同時に湊を見た。
湊は説明した。
「工房跡には、本当の入口がある。町から谷を一つ越えた先の、崖の上だ。俺は、工房跡の中の道を知ってる。中を通りぬけて崖の上の入口から出れば、谷の向こう側に出られる。見張りのいる町の入口も、マルタの家の前も、通らなくていい」
「その体で?」
リシェルの声は低かった。
「知ってる場所だ。ゲームでは何十回も通った」
本当は、半分しか知らない、と湊は思った。ゲームの工房跡には、ドワーフの坑道がつながったりしていなかった。三日前に水が流れこんだりもしていなかった。
それでも、ここで待っていても熱は下がらない。外の見張りは、増える一方だ。
リシェルは長いあいだ黙っていた。それから、湊の右手首をぎゅっと一度つかんだ。いいわ、という意味だった。
ノアが、湊の左腕をじっと見ていた。二の腕に、昨夜コールの槍がかすった浅い傷がある。
「……あれ、つかわないの?」
「あれ?」
「リシェルの手を、なおしたやつ」
《治癒》のことだ。森で殺した聖騎士の隊長から受け継いだ、傷を治す力だった。荷馬車の中で一度だけ、リシェルの手の傷に使った。でも、自分の体にはまだ試したことがない。灰角の体に効くのかどうかも、わからなかった。
湊は、右の手のひらを、左腕の傷の上にかざした。
「……治癒」
口の中で、小さく唱えた。
荷馬車で使ったときは、隊長の母親の言葉を、一語ずつ思い浮かべなければならなかった。でも、今は違った。名前を唱えただけで、手のひらの奥に、ぼんやりと熱が集まってきた。声に出さなくても、頭の中ではっきり思えば同じことが起きる。湊には、なぜかそれがわかった。
手のひらの下が、灰色に光った。
光に照らされて、傷のふちが少しずつ寄っていく。数秒で、傷は細い線の跡を残して閉じた。
そのかわり、部屋がぐらりと揺れた。湊は、あわてて寝台に右ひじをついた。目の前が一度暗くなり、しばらくして元に戻った。今の湊には、この小さな傷を一つ治すのがやっとだった。
「なおった」
ノアが、閉じた跡を指でそっとなでた。
「灰角にも、きくんだ」
それから、湊の顔を見上げた。
「わたしにも、できる?」
「わからない」
湊は正直に答えた。ノアは自分の手のひらをしばらく見つめてから、ぎゅっと握った。
マルタは、そのあいだ何も言わなかった。口を開いたのは、薬の壺にふたをしてからだった。
「あたしは行かないよ。馬がいるし、家がある。坑夫の傷に薬を塗る仕事もあるからね」
マルタは、薬の壺と、布で包んだ黒パンと、水の入った革袋を、リシェルに押しつけた。
湊は、帯にはさんでいた銀貨を取りだした。ブラムウェルを出るとき、ギデオンがくれた一枚だ。マルタに渡そうとした。
マルタは、銀貨を見もしなかった。
「それは、ハーロウがあんたにやった銀貨だろう。自分で持ってな」
「でも、運び賃がまだだ」
「だから、つけにしとくって言ってるんだよ」
マルタは立ちあがり、節くれだった指で、湊の額をぴしっと弾いた。
「つけは、生きて払いにきな。三倍でね」
*
真夜中を過ぎたころ、湊たちは鉄の壁の前に立った。
いっしょにいるのは、リシェルとノアとグンナル、それに太い鉄の棒をかついだ若いドワーフ二人だった。
鉄の壁は、二階建ての家くらいの高さがあった。真ん中に、歯車の中にハンマーを抱いた形の模様が、浮き彫りになっている。
湊は、その模様をよく知っていた。
ゲームの工房跡の、崖の上の入口。その大きな扉にも、同じ模様があった。扉を開ける方法は、こうだ。模様のハンマーの部分を奥へ押しこむ。それから、模様の歯車を左へ三つ回す。
そしてゲームの工房跡には、同じ模様の扉がもう一枚あった。中に入って最初の大部屋『炉の間』の、東側の壁にある鉄の扉だ。この扉は、何をしても開かなかった。湊は攻略wikiに、「開かずの扉。開け方は不明」と書いた。
ドワーフの坑道は、工房跡に横からぶつかっている。方角から考えると、ぶつかった場所は炉の間の東の壁のはずだ。
つまりこの鉄の壁は、ゲームで開かなかったあの扉を、裏側から見ているのだ。
湊は、頭の中で手順を唱えた。
一つ。模様のハンマーを、奥へ押しこむ。
二つ。模様の歯車を、左へ三つ回す。
三つ。扉の向こうは炉の間だ。炉の間には『鉄の番犬』がいる。番犬は明かりの熱に寄ってくるので、扉を開ける前に明かりを消す。
湊は、右の手のひらをハンマーの模様に当てた。体重をかけて、押しこんだ。
しばらくは何も起きなかった。それから、壁の奥で「かちっ」と音がした。ハンマーの模様が、指一本分だけ奥へ沈んだ。
「開け方を、知ってるのか」
グンナルが、低い声で言った。
「表の扉の開け方ならな」
次は歯車だ。湊は歯車の模様のふちに手をかけ、左へ回そうとした。びくともしなかった。何百年分ものさびで、固まっているのだ。
グンナルが、若いドワーフにあごで合図した。
二人は、鉄の棒の先を歯車のすき間に差しこんだ。棒の反対の端に、二人でぶら下がるように体重をかける。さびが、ぎいっと悲鳴のような音を立てた。歯車が、少しだけ左へ動いた。一つ目だ。
二つ目は、一つ目より軽かった。
三つ目を回しきったとき、壁の奥で、何か重いものが外れて落ちる音がした。
壁の真ん中に、縦に一本、黒い線が走った。線はゆっくりと広がり、人が一人、体を横にしてやっと通れる幅で止まった。
すき間から、湿った温かい空気が吹き出してきた。さびと、水と、古い石炭の灰の匂いがする。
その中に一つだけ、新しい匂いが混じっていた。
熱い炭の匂いだ。中で、何かが燃えている。
リシェルが、自分のランプの火を吹き消した。
「おれたちは、ここまでだ」
グンナルが言った。
「唄で、この中には入るなと言われてる。婆さんには、お前らが中に入ったと伝えておく」
「今度、その唄の続きを聞かせてくれ」
「生きて出てきたらな」
グンナルは、自分のランプにふたをした。あたりが真っ暗になった。
湊は、体を横にして、すき間に入った。
*
中に入ると、足首の上まで水につかった。
床は鉄でできていて、その上を冷たい水が流れている。湊のあとに、リシェルとノアが続いた。
真っ暗な中に、赤い光が二つ、ゆっくりと動いていた。
湊は、入ってすぐの壁に右肩をつけて、目が慣れるのを待った。
少しずつ、部屋の形が見えてきた。
広い。小学校の体育館くらいある。天井は高すぎて見えない。
湊たちが立っているのは、部屋の東の端だ。左右の壁には、大きなかまどの口がいくつも並んでいる。口の高さは、大人の背丈の二倍くらい。どのかまども、火は消えて冷えている。
部屋の真ん中には、トラックの荷台ほどもある、巨大な鉄の作業台がある。鍛冶屋が鉄を叩くための台だ。
湊たちから見て正面、部屋の反対側の西の壁には、アーチ形の出口が開いていた。その奥から、ぎしぎしという歯車の音と、水がうなる音が聞こえてくる。
床の水は、右手の北の壁の割れ目から流れ出し、左手の南の壁の下へと流れこんでいた。
ゲームの『炉の間』だった。やはり、ここだった。
赤い光の正体も見えた。
鉄でできた犬だった。大きさは、大型犬の二倍くらい。黒い鉄の板をつなぎ合わせた体で、首は太い鎖を何重にも巻いたような形をしている。胸には鉄格子の窓がついていて、その中で炭が赤く燃えていた。赤い光は、その炭の光だった。
鉄の犬は二頭いて、作業台のまわりをぐるぐると歩いていた。歩くたびに、鉄の足が水をはねる。
作業台の横には、さらに二頭の鉄の犬が、うずくまっていた。こちらは胸の炭が消えていて、動かない。
『鉄の番犬』だ。
ゲームでは、四頭すべてが炉の間を歩き回っていた。湊は攻略wikiに、こう書いていた。
番犬には目がない。かわりに、熱を感じて獲物を探す。だから明かりを消して、壁ぎわでじっとしていれば、目の前を素通りしていく。胸の炭が燃えているあいだは、何をしても倒れない。弱点は、首の鎖のつなぎ目。
湊は、頭の中で手順を唱えた。
一つ。明かりは、もう消してある。
二つ。番犬が作業台の向こう側にいるあいだに、南の壁ぞいに西の出口へ進む。番犬がこちら側に来たら、止まって壁にくっつき、じっとする。
三つ。西の出口をくぐれば『歯車の回廊』だ。番犬は、炉の間から外へは出てこない。
湊は、リシェルの手のひらに指で字を書いた。
〈かべ〉〈とまる〉〈あるく〉
リシェルは湊の手首を一度握って、わかったと答えた。それから、ノアの肩に手を置いた。
番犬が二頭とも作業台の向こうへ回った。
三人は、南の壁ぞいに歩きだした。水音を立てないように、足を水の中ですべらせて進む。湊は左の足首をけがしているので、左足は引きずるしかなかった。
番犬が、作業台を回ってこちら側へ来た。
三人は止まり、壁に背中をつけた。湊だけは、背中の火傷が壁に触れないように、右肩だけを壁につけた。
一頭目の番犬が近づいてくる。胸の炭の赤い光が、水面に映って揺れる。番犬の鉄の足が、湊の三歩前の水を踏んだ。
そのまま通り過ぎる、はずだった。
番犬が、止まった。
鉄の頭が、ゆっくりと湊のほうを向いた。目のない顔だ。鼻のあたりに、小さな穴がたくさん並んでいる。その穴が、湊の顔の高さで、ひくっと動いた。
湊は息を止めた。そして、気づいた。
熱だ。
湊は、森を出てからずっと熱を出している。顔も背中も熱い。ゲームの主人公は、熱など出さなかった。だから、明かりを消してじっとしていれば見つからなかった。
でも、今の湊の体は、それ自体が明かりのように熱かった。番犬は、それを感じとっているのだ。
番犬の頭が、さらに半歩近づいた。胸の炭が、ひときわ赤くなる。
湊は、右手を腰に回した。そこには短剣《欠けた月》が差してある。刃には、布を何重にも巻いてあった。
森で人を殺してから、湊は一度もこの布をほどいていなかった。ほどけば、刃に残った血の色を見ることになると思ったからだ。
でも、今は迷っている暇がなかった。
《欠けた月》には、握った者の体を冷やす力がある。指の骨まで冷たくなるほどの冷たさだ。それを使えば、体の熱を下げられるかもしれない。
湊は、布の結び目を引いた。巻いていた布が、水の中へ落ちた。
番犬の赤い光が、むきだしになった刃に映った。
刃には、何の色も残っていなかった。青みがかった灰色の、少し欠けた刃が、いつものようにそこにあった。
色が残っていると思いこんでいたのは、刃ではなく、湊の心のほうだったのだ。
湊は、刃の平らな面を、自分の首すじに押し当てた。
氷のような冷たさが、首から胸へ、胸からお腹へと広がっていく。湊はさらに、流れる水の中にひざをついた。冷たい水が太ももまで来て、熱を奪っていく。歯がカチカチ鳴りそうになるのを、奥歯をかんでこらえた。
番犬の頭が、止まった。
鼻の穴が、もう一度ひくっと動いた。それから番犬は、頭を前に戻し、湊の前を通り過ぎていった。
うまくいった。
けれど、まだ二頭目がいる。二頭目は、一頭目の五歩ほど後ろから、壁ぞいにこちらへ近づいてきていた。
そして、刃を首に当てている湊の右手の指が、冷たさでしびれはじめていた。もう、指の半分の感覚がない。
そのとき、せきが出た。
昨夜、コールに硫黄の煙を吸わされた喉の奥から、せきがこみあげてきたのだ。湊は唇をかんで、声をおさえた。音はほとんど出なかった。けれど、せきをしたとたん、胸のあたりがカッと熱くなった。
二頭目の番犬が、湊のほうを向いた。
リシェルの指が、湊の手首に字を書いた。
〈ひ〉〈おとり〉
火で、囮を作る。湊は小さくうなずいた。
リシェルが、火打ち石を打った。ランプに火がつき、部屋がいっぺんに明るくなった。
ノアが、リシェルの手からランプを受け取った。そして、部屋の真ん中の作業台めがけて、放り投げた。
ランプは作業台の上に落ちて、ガラスが割れた。こぼれた油に火が燃え移り、作業台の上で大きな炎が上がった。
一頭目の番犬は、すぐに炎のほうへ走っていった。番犬は熱に寄っていく。作戦どおりだ。
でも、二頭目は迷った。
作業台の炎は、二十歩向こう。湊は、五歩先にいる。番犬の頭が、炎と湊のあいだを一度、二度と行き来した。
番犬は、近いほうを選んだ。湊だ。
湊は、南の壁を背にして、水の中にひざをついている。リシェルは湊の右に二歩離れて立っていて、ノアはリシェルの後ろにいる。番犬は、湊の左側から、壁ぞいに向かってきた。
まずい、と湊は思った。
湊の左腕はけがをしていて、布で首から吊っている。剣は右手でしか持てない。だから、左側から来る相手には、刃を向けにくい。
番犬の胸の炭が、ぐっと明るくなった。飛びかかる前の合図だ。
湊は、右手の刃を体の前に回そうとした。でも、間に合わなかった。
番犬が飛びかかってきた。鉄のあごが、湊の左腕に、吊っている布ごとかみついた。
歯は、腕の肉まではとどかなかった。布と服の袖が、歯のあいだにはさまって止まったからだ。
けれど、番犬の歯そのものが、焼けた鉄のように熱かった。布ごしに、その熱が腕に伝わる。湊の口から、思わず声がもれた。
番犬が、頭を後ろへ引いた。湊の体は壁から引きはがされ、水の中を引きずられた。体がひっくり返り、背中から水に落ちる。火傷した背中に水がたたきつけられて、目の前が真っ白になった。
その白い視界の中に、番犬の首が見えた。
番犬は、湊を引っぱるために首を長く伸ばしていた。そのせいで、首の鎖の一つ一つが伸びて、つなぎ目がすき間を見せていた。
wikiに書いた、番犬の弱点だ。
湊は、引きずられながら、右手の刃を鎖のつなぎ目に振りおろした。
刃は、鎖に食いこんだ。でも、半分まで切ったところで止まってしまった。
《欠けた月》は、よく切れる刃だ。木のこん棒も、聖騎士の剣も、軽く当てるだけで切ってきた。それでも、灰月の夜でない今は、聖騎士の隊長の光る剣を一回では切れなかった。親指ほどの太さの鉄の鎖も、一回では切りきれなかったのだ。
番犬が、頭を左右に振った。湊の体が水の中で振り回される。刃を握る右手が、すべりそうになった。
そこへ、リシェルが飛びこんできた。
リシェルは、番犬の頭の横に回りこんだ。そして左手の剣を、番犬のあごのつなぎ目に、横から突っこんだ。
剣がつっかい棒になって、番犬は頭を振れなくなった。
「今よ!」
湊は、鎖に食いこんだ刃から、一度手を離した。しびれかけた右手で、もう一度しっかり握りなおした。そして、肩から先の重さを全部乗せて、同じ場所にもう一度振りおろした。
鎖が、ばきっと割れた。
番犬の頭が、首から外れて水の中に落ちた。湊の吊り布を、口にくわえたままだった。
頭をなくした番犬の体は、それでも三歩、湊のほうへ歩いた。それから前足を折って、横に倒れた。胸の窓から水が入り、燃えていた炭が、白い湯気を上げて消えた。
湊は、水の中に座りこんだまま、自分の胸に手を当てた。
何も起こらなかった。
湊は、倒した相手の力を受け継ぐことができる。けれど、この鉄の犬からは何も来なかった。命のない機械からは、受け継ぐものがないのだ。
リシェルが、番犬のあごから剣を引き抜いた。剣の先が、少し欠けていた。リシェルはそれを見て、何も言わずに鞘に戻した。
作業台の上の炎が、小さくなってきた。
すると、炎のそばにいた一頭目の番犬が、こちらを向いた。消えかけた炎よりも、今まで戦っていた湊の体のほうが、熱くなっていたのだ。
「走るぞ!」
湊は、リシェルの肩に右腕を回して立ちあがった。左腕は、吊り布を番犬に持っていかれて、だらりと垂れ下がっている。
三人は、南の壁ぞいに、西の出口へ走った。湊は右足で水をけり、左足を引きずる。後ろから、番犬の足音が近づいてくる。
出口の手前で、ノアが振り返って石を投げた。石は番犬の胸に当たって、火の粉が散った。でも、番犬は止まらなかった。
三人は、アーチ形の出口に飛びこんだ。
番犬は、出口の手前でぴたりと止まった。
しばらく、胸の赤い光がそこで揺れていた。やがて番犬は向きを変え、作業台のほうへ戻っていった。
番犬は、炉の間から出てこない。wikiに書いたとおりだった。
*
出口の先は、『歯車の回廊』だった。
まっすぐな長い通路で、幅は車が一台通れるくらい。天井は高く、岩の細い割れ目から、月の光が何本も差しこんでいる。だから、明かりがなくても見えた。
床は鉄の網でできていた。網の下を、水がごうごうと流れている。
通路の両側の壁には、巨大な歯車が埋めこまれていた。歯車の歯の一つ一つが、湊の背丈より大きい。
右の壁の歯車と左の壁の歯車が、通路の真ん中で、かみ合うように回っている。だから歯車の歯が、通路の上をふさぐように、次々と横切っていく。
歯と歯のあいだには、すき間がある。そのすき間が通路の上に来た一瞬だけ、人が向こう側へくぐり抜けられる。そういう歯車の組が、通路の奥へ向かって三つ並んでいた。
ゲームでは、ここは「八拍の回廊」と呼ばれていた。歯車は決まった速さで回り、八つ数えるごとに、すき間が通路の上に来た。だから、八つ数えて、八つ目で走ればいい。それだけの場所だった。
湊は、一つ目の歯車の前で数えはじめた。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ。
六つ目で、すき間が来た。
湊は、走りだしかけた足を止めた。すき間はすぐに閉じ、次の歯が通路をふさいだ。もし八つ目で飛びこんでいたら、湊は歯にはさまれていた。
次のすき間は、九つ目で来た。その次は、七つ目だった。
ばらばらだ。決まった速さで回っていない。
湊は、足もとの網の下を流れる水の音に気づいた。音が、大きくなったり小さくなったりしている。
この歯車を回しているのは、三日前に流れこんだ水だ。水の勢いは一定ではない。だから、歯車の速さも変わる。
数える方法では、通れない。
「……みず」
ノアが言った。ノアは網の上にしゃがみこんで、片方の耳を床に近づけていた。
「水の音が大きいとき、歯車ははやい。小さいとき、おそい。おそいときに、いけばいい」
湊は、ノアを見た。
ノアは、数を数えない。歯車を回している、水の音そのものを聞いているのだ。
ノアは、しばらく水の音を聞いていた。うなるような音が、すうっと小さくなった。
「いま」
ノアが、歯と歯のすき間に飛びこんだ。小さな体がすき間をくぐり抜け、向こう側の床に転がった。そのすぐ後ろを、次の歯が通り過ぎた。
リシェルが湊の顔を見た。湊はうなずいた。
二つ目の歯車も、三つ目の歯車も、同じやり方で通った。まずノアが床に耳をつけ、水の音が小さくなったら「いま」と言って先に飛びこむ。リシェルがすぐ後に続き、湊が最後に、右足だけで体を投げこむ。
三つ目の歯車で、湊の左足が、床の網の目に引っかかった。
体が、半歩遅れた。後ろから来た歯のふちが、湊の背中をかすった。歯は、シャツの背中の布を引きちぎっていった。
湊は、残った右足で床をけった。《疾駆》の力で、体が前へ押し出される。湊はすき間を抜け、向こう側の床に胸から落ちた。折れた肋骨が鳴り、しばらく息ができなかった。
リシェルが、湊のえりをつかんで、歯車から離れたところまで引きずった。
「……八拍じゃ、なかったのね」
リシェルが、肩で息をしながら言った。
「ゲームでは八拍だったんだ。でも、ここでは水が回してた」
湊は、床に額をつけたまま答えた。
ノアは、通路の先を見ていた。
「ミナト」
低い声だった。
「この先に、なにか、いる」
*
回廊の先は、広い部屋だった。
ゲームの『入口の間』だ。崖の上の入口から入ると、最初に着く部屋である。
正面の奥に、外へ出る大きな扉があった。扉の高さは、三階建ての家ほどもある。湊がゲームで何十回も開けた扉だ。
その扉が、半分開いていた。
すき間から、冷たい風が吹きこんでくる。松の木と、雪の残った岩の匂いがした。すき間の向こうの空が、白くなりはじめている。もうすぐ夜明けだ。
あの扉を抜ければ、外に出られる。
けれど、扉と湊たちのあいだに、それが立っていた。
鉄でできた巨人だった。
背の高さは、大人の四倍くらい。黒い鉄の板を、こぶしほどの大きさのびょうでつなぎ合わせた体をしている。肩幅は、扉の幅と同じくらい広い。腕は長く、手の先が床にとどきそうだった。
胸の真ん中には、大人がはって入れるほどの大きな鉄格子の窓がある。その奥で、番犬の炭とは比べものにならない大きな炎が、ゆっくりと燃えていた。
『鉄巨人』だった。
ゲームの鉄巨人は、こんなところにはいなかった。工房跡のいちばん奥の『寝床』という部屋で、ひざを抱えて眠っていた。プレイヤーが寝床に入ったときに、初めて目を覚ますボスだった。
なのに、この鉄巨人は、外へ出る扉のほうを向いて立っていた。半分開いた扉のすき間に、右の手のひらを当てている。
外へ出ようとしている。でも、すき間が狭すぎて出られずにいる。湊には、そう見えた。
ゲームで鉄巨人と戦う前には、画面に一行の文章が出た。湊は、それを思い出した。
〈鉄の巨人は主を待つ。主の名を、まだ知らぬまま〉
ぎいっ、と鉄のきしむ音がした。
鉄巨人の首が、ゆっくりと回った。頭が、こちらを振り向いた。
口のない、鉄の顔だった。その上のほうに、丸いガラスの目が二つついている。ガラスの目は、胸の炎を映して、赤く光っていた。
その目と、湊の目が合った。
なぜかはわからない。けれど湊には、鉄巨人が自分の角を見たのだとわかった。
転移してから十九日目の朝が、扉のすき間の向こうで明けはじめていた。次の灰月の夜まで、あと五日だった。




