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灰角のリスタート  作者: ヤッサン
第三章 鉄の轍

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第二十話 鉄巨人

 鉄巨人のガラスの目は、湊の角を見つめたまま動かなかった。

 湊も、目をそらせなかった。右手には、布をほどいたままの《欠けた月》を握っている。刃の冷たさが、指の骨までしみていた。

「ミナト」

 右にいるリシェルが、小さな声で呼んだ。左の脇の下には、ノアが肩を入れて、湊の体を支えている。ノアの肩がかたくなっているのが、湊にもわかった。

「……あれ、なに」

 ノアが、かすれた声で言った。

「鉄巨人だ。この工房跡の、いちばん強いやつだ」

 湊は、目を巨人に向けたまま答えた。それから、部屋の中を見回した。

『入口の間』は、縦に長い部屋だった。湊たちが立っている回廊の出口から、正面の奥の大扉まで、六十歩ほどある。幅は、その半分くらい。天井は高く、上のほうは暗くて見えない。

 左右の壁ぞいには、太い鉄の柱が四本ずつ並んでいた。一本の太さは、大人が二人で手をつないで、やっと囲めるくらいだ。

 床は、鉄の板を張りあわせたものだった。部屋の真ん中だけは板がなく、かわりに丸い鉄の網がはめこまれている。網の大きさは、荷馬車が二台並ぶほど。その下で水がうなり、何か大きなものがゆっくり回っていた。

 網の目から、ぬれた木の輪が見えた。水車だ。

 ゲームの掲示板に、一度だけ「入口の間の床の下に、水車があるのでは」という書きこみが出たことがある。誰も確かめられなかった書きこみだ。本当に、あったのだ。三日前に流れこんだ水が、この水車も回しているのだろう。

 鉄巨人は、大扉の手前に立っていた。湊たちからは、四十歩ほど先だ。巨人の背中の向こうに、半分開いた扉のすき間が見える。すき間の幅は、荷馬車が一台通れるくらい。人なら楽に通れる。けれど、肩幅が扉と同じくらいある巨人には、狭すぎた。

 湊は、攻略wikiに自分で書いた文を思い出した。

 〈鉄巨人。推奨レベル三十五。動きは三つ。右腕の横なぎ、両腕の振りおろし、胸の炎。横なぎの前には右の肩が後ろへ引かれるので、しゃがんでかわす。振りおろしの前には両腕が頭の上へあがるので、横へ走ってかわす。胸の炎を吐くときは、片ひざをつく。吐き終わると胸の格子が開き、三拍のあいだ、中の『炉心(ろしん)』が見える。炉心を三回たたけば倒れる〉

 湊は、鼻で浅く息を吸った。

 巨人からは、古い鉄と、熱い炭の匂いがした。汗の匂いも、血の匂いもしない。生き物の匂いは、何もしなかった。炉の間の番犬と同じだ。

 けれど、番犬と違って、この巨人には目がある。目のある相手なら、自分の手でとどめを刺せば、力を受け継げるかもしれない。

 湊は、その考えをすぐに振りはらった。今は、そんなことを考えている場合ではなかった。

 今の湊はレベル十六だ。推奨レベルの半分にも届かない。しかも体は、熱と傷でぼろぼろだった。

 戦って勝てる相手ではない。

 湊は、頭の中で手順を唱えた。

 一つ。戦わない。

 二つ。巨人を、扉の前からどかす。

 三つ。扉のすき間から、三人で外へ出る。

 どうやって巨人をどかすのか。その答えは、まだなかった。

 ぎいっ、と鉄がきしんだ。

 鉄巨人が、扉から右の手のひらを離した。体ごと、ゆっくりとこちらを向く。

 そして、一歩、踏みだした。

 床が揺れた。鉄の板が鳴り、真ん中の網の下で、水がはねる音がした。二歩目で、湊の足の裏までびりびりと震えた。

 巨人は、まっすぐ湊に向かって歩いてきた。

「さがって」

 リシェルが、湊の前に出ようとした。湊は、刃を握ったままの右手の甲で、リシェルの腕を押さえて止めた。

 おかしい、と思ったからだ。

 ゲームの鉄巨人は、目を覚ますとすぐに、胸の炎を燃えあがらせた。そして、いきなり右腕の横なぎを打ってきた。プレイヤーが何をしていようと、おかまいなしだった。

 この巨人の胸の炎は、ゆっくりと息をするように燃えているだけだった。腕も、下げたままだ。

 巨人は、湊の十歩ほど手前で止まった。

 それから、腰を折るようにして、頭を下げてきた。鉄の顔が、湊の目の高さまで下りてくる。ガラスの目は、大皿ほどの大きさがあった。その中に、胸の炎の赤い光と、湊の顔が映っている。

 湊の額の、二本の角も映っていた。

 胸の炎の熱が、顔に当たる。熱のある湊の頬が、さらに熱くなった。

 巨人は、長いあいだ湊の角を見ていた。

 それから、右の手を持ちあげた。手のひらを上に向けて、ゆっくりと湊のほうへ差しだしてくる。

 手の大きさは、荷馬車の荷台ほどもあった。指の一本一本が、湊の胴より太い。

 何をしようとしているのか、湊にはわからなかった。つかもうとしているのか。それとも、何かを確かめようとしているのか。

 けれど、リシェルには、そうは見えなかった。

 荷台ほどもある鉄の手が、湊を押しつぶしにくる。リシェルには、そう見えたのだ。

「ミナト、伏せて!」

 リシェルが、湊の手を押しのけて飛びだした。

 右の剣で、巨人の人差し指のつけ根を斬りつける。指の関節の、板と板のつなぎ目だ。

 ガキン、と大きな音がして、火花が散った。剣ははね返された。リシェルの右手から剣がすっぽ抜けそうになり、リシェルはあわてて柄を握りなおした。

 鉄の指には、細い傷が一本ついただけだった。

 巨人の手が、止まった。

 ガラスの目が、湊からリシェルへ動いた。

 胸の炎が、ごうっと音を立てて燃えあがった。さっきまでの、ゆっくりした炎ではない。格子のすき間から、火の粉が吹きだした。

 巨人が体を起こした。右の肩が、ぐっと後ろへ引かれる。

 横なぎの合図だ。

「しゃがめ!」

 湊は叫んだ。叫びながら、自分も床に伏せた。刃を握ったままの右腕で、ノアの頭を抱えこむ。

 リシェルが、その場にしゃがんだ。

 巨人の右腕が、うなりを上げて横に振られた。鉄の腕が、リシェルの頭の上を通りすぎる。リシェルの黒い髪が、風であおられて逆立った。

 腕は、そのまま南の壁ぞいの柱に当たった。

 ゴオン、と鐘をついたような音が、部屋じゅうに響いた。柱が大きくへこみ、天井から細かい砂が降ってきた。

 湊は、伏せたまま見ていた。

 リシェルの上を通ったとき、巨人の腕は、大人の胸くらいの高さにあった。けれど、その先で伏せている湊とノアの上を通るときだけ、腕は大人の頭より高く持ちあがっていた。

 よけたのだ。

 偶然かもしれない。けれど湊には、そう見えた。

 *

 巨人は、リシェルを追いはじめた。

 リシェルは、北の壁のほうへ走った。湊とノアから巨人を引きはなすためだと、湊にはわかった。

 巨人がリシェルを追って、向きを変えた。その途中に、伏せている湊とノアがいた。

 巨人の左足が持ちあがった。湊の頭の上に、鉄の足の裏が来る。小さな部屋の床ほどもある、足の裏だった。

 湊は、ノアを抱えたまま体をまるめた。

 足は、下りてこなかった。

 巨人は、湊たちの上で一度足を止めると、大きくまたいで、その向こうに足を下ろした。床が揺れ、湊の体が少し浮いた。

 ノアが、湊の腕の中から抜けだした。上着のポケットから石を出し、投石の紐にかける。腕を一度だけ回して、投げた。

 石は、巨人の左のガラスの目に当たった。カチン、と高い音がした。

 巨人は、ノアのほうを見もしなかった。そのままリシェルを追っていく。

 湊は、確信した。

 この巨人は、角のある者を攻撃しない。

 ゲームの湊は、いつも人間の主人公で工房跡に入っていた。ゲームの灰角族は、レベル二十までしか上がらない。推奨レベル三十五の工房跡に、灰角族のまま入ったプレイヤーは、湊の知るかぎり一人もいなかった。

 だから、誰も知らなかったのだ。

 〈鉄の巨人は主を待つ。主の名を、まだ知らぬまま〉

 もし、この工房を建てたのが、グンナルの唄のとおり「角のある鍛冶屋」だったのなら。巨人が待っている主は、角のある者なのかもしれない。

 巨人は、湊の角を見て、待っていた主かどうかを確かめようとしていた。手を差しだしたのは、そのためだったのかもしれない。

 けれど今、巨人はリシェルを追っている。角のない者を、工房から追いだそうとしているのだ。

 リシェルは、北の壁ぞいの柱と柱のあいだを走った。巨人が、その背中に向かって、また右の肩を引いた。

「しゃがめ!」

 湊の声と同時に、リシェルが床に滑りこんだ。鉄の腕が、その上を通りすぎる。腕の先が、リシェルの胸当ての肩のふちをかすった。革が裂ける音がして、リシェルの体が床の上を二回転がった。

 リシェルは、転がった勢いのまま起きあがった。肩の革が裂けていたが、血は出ていない。

 北の壁ぞいで、巨人が両腕を頭の上へあげた。

 振りおろしの合図だ。

「リシェル、横だ! 柱のほうへ走れ!」

 リシェルが、北の壁の柱に向かって横へ走った。

 巨人の両腕が、さっきまでリシェルがいた床に振りおろされた。

 鉄の床板が、紙のように折れまがった。部屋全体が、跳ねあがるように揺れた。湊は床に打ちつけられ、折れた肋骨がきしんだ。

 リシェルは、揺れで足をすくわれ、柱の根元に転がった。けれど、すぐに起きあがって、柱の陰に入った。

 巨人の腕が、床から引き抜かれる。折れた床板の下から、水しぶきがあがった。

 湊は、ノアの肩を借りて立ちあがった。

 このままでは、リシェルがもたない。リシェルの剣は、巨人の鉄の体には通らない。逃げつづけても、いつか一撃をもらう。一撃もらえば、人間の体はひとたまりもない。

 巨人を、止めるしかない。

 湊は、wikiの文を、もう一度頭の中でなぞった。胸の炎を吐くとき、巨人は片ひざをつく。吐き終わると、胸の格子が開いて炉心が見える。炉心を三回たたけば倒れる。

 それに湊は、wikiに書かなかったことを、もう一つ覚えていた。炉心を一回たたくと、巨人は両ひざをついて、しばらく動かなくなる。十数えるくらいのあいだだ。戦いの途中のひと休みのようなもので、わざわざ書くほどのことではないと思っていた。

 十数えるあいだ止まっていれば、扉までは走れる。

 湊は、頭の中で手順を唱えた。

 一つ。リシェルが柱の陰から出て、巨人に胸の炎を吐かせる。炎は、柱の陰に戻って、柱で受ける。

 二つ。炎を吐くとき、巨人は片ひざをつく。そのあいだに、俺が巨人の横へ回る。吐き終わって胸の格子が開いたら、ひざから太ももに上がって、炉心を《欠けた月》で突く。

 三つ。巨人が両ひざをついて止まっているあいだに、三人で扉のすき間から外へ出る。

 巨人は、角のある湊をたたかない。それに賭けるしかなかった。

 湊は、北の壁の柱に向かって叫んだ。

「リシェル! あいつに炎を吐かせてくれ。炎は柱で受けるんだ。吐き終わったら、俺が胸の中を突く。そうすれば、しばらく止まる。止まったら、扉まで走るぞ!」

 柱の陰から、リシェルの声が返ってきた。

「あなたが行くの? その体で?」

「あいつは、俺をたたかない。さっき、俺の上をよけていった」

「……たまたまだったら、どうするの」

「そのときは、そのときだ」

 少しのあいだ、返事がなかった。

 それから、リシェルが言った。

「わかったわ。でも、外に出たら、全部聞かせてもらうから。あなたが言う『ゲーム』のことも、全部よ」

「ああ。全部話す」

 湊は、ノアの肩から腕をおろした。

「ノアは、扉のそばの柱まで行ってくれ。俺たちが走りだしたら、先に外へ出るんだ」

 ノアは、首を横に振りかけた。けれど、湊の顔を見て、唇をかんだ。それから、南の壁ぞいに、扉のほうへ走っていった。

 *

 リシェルが、柱の陰から出た。

 左右の剣を打ちあわせる。キン、キン、と高い音が響いた。

「こっちよ!」

 巨人のガラスの目が、リシェルに向いた。胸の炎が、またごうっと燃えあがる。

 巨人は、左のひざを床についた。

 ひざの下で、鉄の床板がへこんだ。胸の格子が、リシェルのほうへまっすぐ向く。格子の奥の炎が、赤から白に近い色に変わった。

 リシェルが、柱の陰へ飛びこんだ。

 次の瞬間、巨人の胸から炎が吹きだした。

 川のような炎だった。太さは、大人の背丈ほどもある。炎は柱にぶつかり、左右に分かれて、北の壁をなめた。柱の角が、赤く光りはじめた。二十歩離れた湊の顔の皮膚まで、ちりちりと痛んだ。

 湊は、走った。

 南の壁ぞいから、ひざをついた巨人の左わきへ回りこむ。右足で床をけり、左足を引きずる。左の足首が、一歩ごとに悲鳴を上げた。

 巨人の左ひざは、床についている。そのせいで、左の太ももが、ひざから腰のほうへ、急な坂のように斜めに上がっていた。太ももの幅は、机くらい。表面は鉄の板で、びょうの頭が並んでいる。そのびょうに足をかければ、坂を上れる。

 上りきれば、胸の格子に手がとどく。

 炎が、細くなった。

 そして、止まった。

 ぎいい、と重い音がした。胸の格子が開きはじめた音だ。

 湊は、右足で床をけった。

 《疾駆》が、体を前へ押しだす。右足が、巨人のひざに乗った。

 鉄が熱い。足の裏に、焼けた鍋に乗ったような熱さが伝わってきた。湊は止まらなかった。びょうの頭に右足をかけ、太ももの坂を二歩でかけあがる。左足は、ついてくるだけだった。

 目の前に、胸の格子があった。

 格子は、開ききっていなかった。

 ゲームでは、格子は扉のように大きく開いた。今は、手のひら二つ分ほどしか開いていない。格子のつなぎ目が、赤いさびで固まっているのだ。何百年も眠っていた巨人の体は、どこもかしこも、さびついていた。

 すき間から、中が見えた。

 炎の奥に、樽ほどの大きさの、丸い鉄のかたまりがあった。白っぽい赤に光っている。あれが炉心だ。

 炉心の表面に、何かが彫ってあった。

 角のある人の姿だった。一人で立っている。その胸に、丸が一つ彫ってあった。

 丸の中は、空っぽだった。

 国境の森で、ノアの母が土に描いた絵と同じだった。ノアの丸だけが空っぽだった、あの絵だ。沈黙の井戸の壁で、列の端に一人だけ立っていた人とも、同じだった。

 湊の手が、一瞬止まった。

 それが、まちがいだった。

 格子が、閉じはじめた。

 三拍ももたなかった。さびついた格子は、開いたときと同じ重い音を立てて、もう戻りはじめていた。

 湊は、右腕を格子のすき間に突っこんだ。

 《欠けた月》の切っ先が、炉心に届いた。

 刃は、炉心の表面に、すっと沈んだ。じゅっと音を立てて、白い湯気が噴きだした。《欠けた月》の冷たさが、炎の熱とぶつかったのだ。

 同時に、閉じてくる格子の鉄の棒が、湊の右の前腕を両側からはさんだ。

 焼けた鉄だった。

 肉の焼ける匂いがした。自分の腕の匂いだった。前腕の、灰月の夜にヴァルターの光の槍で焼かれた跡の上だった。

 湊は、叫ばなかった。叫ぶかわりに、腕を引き抜いた。刃も、いっしょに抜けた。

 巨人の胸の奥から、低い音が響いた。大きな鐘が割れたような音だった。口のない巨人の、声のかわりだった。

 胸の炎が、大きく揺れた。

 巨人の左手が、動いた。

 湊を攻撃しようとしたのではなかった。後になって、湊はそう思った。胸にとまった虫を、人が思わず手で払うのと同じだった。痛みに、体が勝手に動いたのだ。

 けれど、その手の甲は、荷馬車の荷台ほどの大きさがあった。

 鉄の手の甲が、湊の左の脇腹に当たった。

 湊の体が、太ももの上から浮いた。

 床が見えた。天井が見えた。それから、南の壁ぞいの柱が、目の前に来た。

 湊は、柱に、背中から叩きつけられた。

 焼けた背中が、鉄の柱にぶつかった。左の肩が、ごきっと鳴って、つけ根から外れた。頭のうしろが柱に当たり、目の前に白い火花が散った。

 湊は、柱の根元の床に落ちた。

 息が、入らなかった。

 吸おうとしても、胸の左側が動かない。肋骨が、何本も折れているのがわかった。前から折れていた二本だけではない。もっと多くの骨が、胸の中でばらばらになっているような気がした。

 左腕は、もう自分の腕ではないみたいに、肩から変な向きにぶら下がっていた。右の前腕には、格子の棒の形に、焼けた線が二本ついていた。

 それでも、右手は《欠けた月》を握っていた。冷たさで指が刃の形に固まって、離れなかったのだ。

 角のつけ根は、ちりとも痒くならなかった。巨人は、まだ生きていた。

 ゲームなら、と湊はぼんやり思った。ゲームなら、今ごろ画面の左上で、体力の棒が赤く点滅している。回復薬を一つ飲めば、それで元どおりだった。

 ここには、そんな棒はない。回復薬もない。あるのは、息の入らない胸だけだった。

 *

 音が遠かった。

 リシェルが、何か叫んでいる。ノアの足音が近づいてくる。

 湊は、柱の根元から、巨人を見た。

 巨人は、動いていなかった。

 左ひざをついたまま、自分の左手を見ていた。湊を払った、その手の甲を。

 それから、ガラスの目が、ゆっくりと湊のほうを向いた。

 巨人は、右のひざも床についた。両手を、床に下ろした。胸の炎が、しぼむように小さくなっていく。白に近かった炎が赤くなり、やがて暗い赤の熾火(おきび)になった。

 炉心を一回たたくと、巨人は両ひざをついて止まる。ゲームと同じだった。

 けれど湊には、それだけではないように見えた。

 自分の待っていた主かもしれない者を、自分の手で払ってしまった。巨人は、そのことに気づいて止まったように見えた。飼い主にかみついてしまった犬のように。

「ミナト!」

 リシェルが、湊の横にひざをついた。顔が真っ青だった。

「息は? 息はできる?」

 湊は、答えようとした。声のかわりに、ひゅう、という細い音が出ただけだった。

「……とまってる、あいだに」

 やっと、それだけ言えた。

「扉へ」

 リシェルは、それ以上何も聞かなかった。湊の右の脇の下に、自分の肩を入れた。反対側には、ノアが小さな体を入れた。左側を支えられたとたん、外れた肩が焼けるように痛んで、湊は声を上げた。ノアの手が、びくっと止まった。

「いい。……そのまま、行ってくれ」

 二人は、湊を引きずって歩きだした。

 扉までは、三十歩ほどだった。

 湊の右足は、床をけろうとした。けれど、力が入らなかった。左足は、床の上をこするだけだ。湊の体は、ほとんど二人に運ばれていた。

 一歩ごとに、胸の中で骨がこすれた。息は、いつもの四分の一も入らなかった。目の前が、白くなったり暗くなったりした。

 巨人の前を通るとき、リシェルの体がかたくなった。

 巨人の頭が、ゆっくりと動いて、三人を追った。ガラスの目が、湊を見ている。

 十は、もうとっくに過ぎていた。

 巨人の右手が、床から持ちあがった。

 リシェルが、湊を支えたまま、左手で剣を抜こうとした。

 けれど、巨人の手は、三人のほうへは来なかった。

 手は、半分開いた大扉のふちにかかった。そして、扉を、ゆっくりと外へ押した。

 ぎいいい、と、古い鉄が長い声を上げた。

 扉のすき間が、広がっていく。荷馬車一台分だったすき間が、二台分、三台分になった。夜明けの光が、部屋の中へなだれこんできた。

 光の中で、巨人は扉から手を離した。そして、また両手を床について、動かなくなった。

 外へ出ようとしていたのではなかったのかもしれない、と湊は思った。

 巨人は、扉に手を当てて、待っていたのだ。誰かが、この扉から帰ってくるのを。何百年も眠っていたあいだも、たぶん、ずっと。

 ノアが、扉の前で一度だけ振り返った。

「……あの子、ひとりで、ずっと待ってたのかな」

 ノアは、巨人のことを「あの子」と呼んだ。湊は、答えられなかった。答える息が、なかった。

 三人は、扉を抜けた。

 *

 外は、崖の上だった。

 扉の前は、岩の広場になっていた。広さは、荷馬車が三台並べられるくらい。右手は切り立った崖で、下は深い谷になっている。谷の底には、まだ夜の暗さが残っていて、何も見えなかった。

 左手には、古い松が三本、岩にしがみつくように生えていた。松の根元に、雪が白く残っている。その松のあいだから、細い道が北へ下っていた。ゲームでも、ここから古い峠道が北へ延びていた。

 東の山の向こうが、白く光っていた。

 リシェルとノアは、湊を松の根元まで運んだ。背中を地面につけないように、右を下にして、横向きに寝かせる。岩の冷たさが、熱い頬に触れた。

「肩、外れてるわね」

 リシェルが、湊の左肩にそっと手を当てた。それだけで、湊の体がはねた。

「……ごめん。今は、さわらない」

 リシェルは、湊の胸に耳を当てた。湊の息の音を、しばらく聞いていた。顔を上げたとき、リシェルの唇は、白くなっていた。

「左の胸が、ほとんど動いてない。右だけで息をしてるわ」

 リシェルは、まるで自分に言い聞かせるように言った。それから、湊の右の前腕の焼けた線を見て、きつく目を閉じた。

「外に出たら全部話すって、約束したわよね。……話す前に死んだら、許さないから」

 湊は、口の端だけで笑おうとした。うまくいかなかった。

 リシェルは、湊の右手を見た。指は、まだ《欠けた月》の形に固まっていた。リシェルはその指を、一本ずつ、刃からはがしていった。沈黙の井戸の地の底で、そうしてくれたように。

 刃が、岩の上に置かれた。刃先から、まだ細い湯気が上がっていた。

 ノアが、湊の顔の前にしゃがんだ。

「ミナト。治癒、つかえないの? きのう、腕をなおしたみたいに」

 湊は、目だけでノアを見た。

 使えるかどうかは、わからなかった。昨日、二の腕の浅い傷を一つ閉じただけで、目の前が暗くなったのだ。今の傷は、あれとは比べものにならない。

 それでも、湊は右の手のひらを、自分の胸の左側に当てた。

 治癒、と頭の中で思った。

 手のひらの下が、灰色に光った。

 光は、ろうそくの火くらいの大きさだった。それが、胸の上で、ふるえるように揺れた。

 一つ息をするあいだもたたないうちに、光は消えた。

 かわりに、目の前が真っ暗になった。

 岩も、松も、ノアの顔も、消えた。

 どれくらい、そうしていたのかはわからない。

 気がつくと、リシェルが湊の名前を呼んでいた。湊の頬を、手のひらで何度もたたいている。

「ミナト。ミナト。……もう、使わないで。お願いだから」

 リシェルの声が、ふるえていた。

 湊は、まばたきをした。それで、聞こえていると伝えたつもりだった。

 胸は、少しも楽になっていなかった。今の湊の力では、骨の一本もつなげないのだ。

 ノアは、湊の右手を両手で握っていた。ときどき自分の手のひらを湊の胸の上にかざしては、首をかしげている。灰色の光は、ノアの手からは出なかった。

 湊は、岩の上で目を閉じかけた。

 まぶたの裏に、炉心の彫り物が浮かんだ。一人で立っている、角のある人。胸の、空っぽの丸。

 ノアの母の絵。沈黙の井戸の壁。そして、鉄巨人の胸の奥。三つの場所に、同じ空っぽの丸があった。

 湊のステータスの最下段には、〈器:―〉という一行がある。何も入っていない、という意味なのかもしれない。あの空っぽの丸と、どこかでつながっているのかもしれない。

 けれど今は、それ以上考えられなかった。考えるための息が、足りなかった。

 崖の下から、風が吹きあげてきた。

 谷の、冷たい風だった。松の匂い。雪の匂い。ぬれた岩の匂い。

 その中に、一つだけ、知っている匂いが混じっていた。

 湊の鼻の奥には、まだ硫黄の煙で焼けた跡が残っている。それでも、まちがえようがなかった。

 丁子(ちょうじ)の油の匂いだ。歯の痛み止めに使う、あの油の匂い。

 賞金稼ぎの頭、コール・ダリックの匂いだった。

 風は、谷の下から来ている。崖の下の、峠道のほうからだ。

「……リシェル」

 湊は、ひゅうひゅうと鳴る息のあいだから、言葉をしぼりだした。

「下から、……誰か、来る。コールだ」

 リシェルの顔が、谷のほうを向いた。右手が、ゆっくりと剣の柄にかかった。

 ノアも、湊の手を離して立ちあがった。上着のポケットに手を入れる。石を握る、かちりという音がした。

 湊は、起きあがろうとした。

 体は、少しも動かなかった。

 開いたままの扉の奥で、鉄巨人が両ひざをついているのが見えた。胸の熾火が、暗い赤に光っている。ガラスの目は、扉の外の湊を、まだ見ていた。

 夜明けの光が、崖の上に届いた。

 転移してから、十九日目の朝だった。次の灰月の夜まで、あと五日。

 湊の目の前が、また、ゆっくりと暗くなっていった。

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