第二十話 鉄巨人
鉄巨人のガラスの目は、湊の角を見つめたまま動かなかった。
湊も、目をそらせなかった。右手には、布をほどいたままの《欠けた月》を握っている。刃の冷たさが、指の骨までしみていた。
「ミナト」
右にいるリシェルが、小さな声で呼んだ。左の脇の下には、ノアが肩を入れて、湊の体を支えている。ノアの肩がかたくなっているのが、湊にもわかった。
「……あれ、なに」
ノアが、かすれた声で言った。
「鉄巨人だ。この工房跡の、いちばん強いやつだ」
湊は、目を巨人に向けたまま答えた。それから、部屋の中を見回した。
『入口の間』は、縦に長い部屋だった。湊たちが立っている回廊の出口から、正面の奥の大扉まで、六十歩ほどある。幅は、その半分くらい。天井は高く、上のほうは暗くて見えない。
左右の壁ぞいには、太い鉄の柱が四本ずつ並んでいた。一本の太さは、大人が二人で手をつないで、やっと囲めるくらいだ。
床は、鉄の板を張りあわせたものだった。部屋の真ん中だけは板がなく、かわりに丸い鉄の網がはめこまれている。網の大きさは、荷馬車が二台並ぶほど。その下で水がうなり、何か大きなものがゆっくり回っていた。
網の目から、ぬれた木の輪が見えた。水車だ。
ゲームの掲示板に、一度だけ「入口の間の床の下に、水車があるのでは」という書きこみが出たことがある。誰も確かめられなかった書きこみだ。本当に、あったのだ。三日前に流れこんだ水が、この水車も回しているのだろう。
鉄巨人は、大扉の手前に立っていた。湊たちからは、四十歩ほど先だ。巨人の背中の向こうに、半分開いた扉のすき間が見える。すき間の幅は、荷馬車が一台通れるくらい。人なら楽に通れる。けれど、肩幅が扉と同じくらいある巨人には、狭すぎた。
湊は、攻略wikiに自分で書いた文を思い出した。
〈鉄巨人。推奨レベル三十五。動きは三つ。右腕の横なぎ、両腕の振りおろし、胸の炎。横なぎの前には右の肩が後ろへ引かれるので、しゃがんでかわす。振りおろしの前には両腕が頭の上へあがるので、横へ走ってかわす。胸の炎を吐くときは、片ひざをつく。吐き終わると胸の格子が開き、三拍のあいだ、中の『炉心』が見える。炉心を三回たたけば倒れる〉
湊は、鼻で浅く息を吸った。
巨人からは、古い鉄と、熱い炭の匂いがした。汗の匂いも、血の匂いもしない。生き物の匂いは、何もしなかった。炉の間の番犬と同じだ。
けれど、番犬と違って、この巨人には目がある。目のある相手なら、自分の手でとどめを刺せば、力を受け継げるかもしれない。
湊は、その考えをすぐに振りはらった。今は、そんなことを考えている場合ではなかった。
今の湊はレベル十六だ。推奨レベルの半分にも届かない。しかも体は、熱と傷でぼろぼろだった。
戦って勝てる相手ではない。
湊は、頭の中で手順を唱えた。
一つ。戦わない。
二つ。巨人を、扉の前からどかす。
三つ。扉のすき間から、三人で外へ出る。
どうやって巨人をどかすのか。その答えは、まだなかった。
ぎいっ、と鉄がきしんだ。
鉄巨人が、扉から右の手のひらを離した。体ごと、ゆっくりとこちらを向く。
そして、一歩、踏みだした。
床が揺れた。鉄の板が鳴り、真ん中の網の下で、水がはねる音がした。二歩目で、湊の足の裏までびりびりと震えた。
巨人は、まっすぐ湊に向かって歩いてきた。
「さがって」
リシェルが、湊の前に出ようとした。湊は、刃を握ったままの右手の甲で、リシェルの腕を押さえて止めた。
おかしい、と思ったからだ。
ゲームの鉄巨人は、目を覚ますとすぐに、胸の炎を燃えあがらせた。そして、いきなり右腕の横なぎを打ってきた。プレイヤーが何をしていようと、おかまいなしだった。
この巨人の胸の炎は、ゆっくりと息をするように燃えているだけだった。腕も、下げたままだ。
巨人は、湊の十歩ほど手前で止まった。
それから、腰を折るようにして、頭を下げてきた。鉄の顔が、湊の目の高さまで下りてくる。ガラスの目は、大皿ほどの大きさがあった。その中に、胸の炎の赤い光と、湊の顔が映っている。
湊の額の、二本の角も映っていた。
胸の炎の熱が、顔に当たる。熱のある湊の頬が、さらに熱くなった。
巨人は、長いあいだ湊の角を見ていた。
それから、右の手を持ちあげた。手のひらを上に向けて、ゆっくりと湊のほうへ差しだしてくる。
手の大きさは、荷馬車の荷台ほどもあった。指の一本一本が、湊の胴より太い。
何をしようとしているのか、湊にはわからなかった。つかもうとしているのか。それとも、何かを確かめようとしているのか。
けれど、リシェルには、そうは見えなかった。
荷台ほどもある鉄の手が、湊を押しつぶしにくる。リシェルには、そう見えたのだ。
「ミナト、伏せて!」
リシェルが、湊の手を押しのけて飛びだした。
右の剣で、巨人の人差し指のつけ根を斬りつける。指の関節の、板と板のつなぎ目だ。
ガキン、と大きな音がして、火花が散った。剣ははね返された。リシェルの右手から剣がすっぽ抜けそうになり、リシェルはあわてて柄を握りなおした。
鉄の指には、細い傷が一本ついただけだった。
巨人の手が、止まった。
ガラスの目が、湊からリシェルへ動いた。
胸の炎が、ごうっと音を立てて燃えあがった。さっきまでの、ゆっくりした炎ではない。格子のすき間から、火の粉が吹きだした。
巨人が体を起こした。右の肩が、ぐっと後ろへ引かれる。
横なぎの合図だ。
「しゃがめ!」
湊は叫んだ。叫びながら、自分も床に伏せた。刃を握ったままの右腕で、ノアの頭を抱えこむ。
リシェルが、その場にしゃがんだ。
巨人の右腕が、うなりを上げて横に振られた。鉄の腕が、リシェルの頭の上を通りすぎる。リシェルの黒い髪が、風であおられて逆立った。
腕は、そのまま南の壁ぞいの柱に当たった。
ゴオン、と鐘をついたような音が、部屋じゅうに響いた。柱が大きくへこみ、天井から細かい砂が降ってきた。
湊は、伏せたまま見ていた。
リシェルの上を通ったとき、巨人の腕は、大人の胸くらいの高さにあった。けれど、その先で伏せている湊とノアの上を通るときだけ、腕は大人の頭より高く持ちあがっていた。
よけたのだ。
偶然かもしれない。けれど湊には、そう見えた。
*
巨人は、リシェルを追いはじめた。
リシェルは、北の壁のほうへ走った。湊とノアから巨人を引きはなすためだと、湊にはわかった。
巨人がリシェルを追って、向きを変えた。その途中に、伏せている湊とノアがいた。
巨人の左足が持ちあがった。湊の頭の上に、鉄の足の裏が来る。小さな部屋の床ほどもある、足の裏だった。
湊は、ノアを抱えたまま体をまるめた。
足は、下りてこなかった。
巨人は、湊たちの上で一度足を止めると、大きくまたいで、その向こうに足を下ろした。床が揺れ、湊の体が少し浮いた。
ノアが、湊の腕の中から抜けだした。上着のポケットから石を出し、投石の紐にかける。腕を一度だけ回して、投げた。
石は、巨人の左のガラスの目に当たった。カチン、と高い音がした。
巨人は、ノアのほうを見もしなかった。そのままリシェルを追っていく。
湊は、確信した。
この巨人は、角のある者を攻撃しない。
ゲームの湊は、いつも人間の主人公で工房跡に入っていた。ゲームの灰角族は、レベル二十までしか上がらない。推奨レベル三十五の工房跡に、灰角族のまま入ったプレイヤーは、湊の知るかぎり一人もいなかった。
だから、誰も知らなかったのだ。
〈鉄の巨人は主を待つ。主の名を、まだ知らぬまま〉
もし、この工房を建てたのが、グンナルの唄のとおり「角のある鍛冶屋」だったのなら。巨人が待っている主は、角のある者なのかもしれない。
巨人は、湊の角を見て、待っていた主かどうかを確かめようとしていた。手を差しだしたのは、そのためだったのかもしれない。
けれど今、巨人はリシェルを追っている。角のない者を、工房から追いだそうとしているのだ。
リシェルは、北の壁ぞいの柱と柱のあいだを走った。巨人が、その背中に向かって、また右の肩を引いた。
「しゃがめ!」
湊の声と同時に、リシェルが床に滑りこんだ。鉄の腕が、その上を通りすぎる。腕の先が、リシェルの胸当ての肩のふちをかすった。革が裂ける音がして、リシェルの体が床の上を二回転がった。
リシェルは、転がった勢いのまま起きあがった。肩の革が裂けていたが、血は出ていない。
北の壁ぞいで、巨人が両腕を頭の上へあげた。
振りおろしの合図だ。
「リシェル、横だ! 柱のほうへ走れ!」
リシェルが、北の壁の柱に向かって横へ走った。
巨人の両腕が、さっきまでリシェルがいた床に振りおろされた。
鉄の床板が、紙のように折れまがった。部屋全体が、跳ねあがるように揺れた。湊は床に打ちつけられ、折れた肋骨がきしんだ。
リシェルは、揺れで足をすくわれ、柱の根元に転がった。けれど、すぐに起きあがって、柱の陰に入った。
巨人の腕が、床から引き抜かれる。折れた床板の下から、水しぶきがあがった。
湊は、ノアの肩を借りて立ちあがった。
このままでは、リシェルがもたない。リシェルの剣は、巨人の鉄の体には通らない。逃げつづけても、いつか一撃をもらう。一撃もらえば、人間の体はひとたまりもない。
巨人を、止めるしかない。
湊は、wikiの文を、もう一度頭の中でなぞった。胸の炎を吐くとき、巨人は片ひざをつく。吐き終わると、胸の格子が開いて炉心が見える。炉心を三回たたけば倒れる。
それに湊は、wikiに書かなかったことを、もう一つ覚えていた。炉心を一回たたくと、巨人は両ひざをついて、しばらく動かなくなる。十数えるくらいのあいだだ。戦いの途中のひと休みのようなもので、わざわざ書くほどのことではないと思っていた。
十数えるあいだ止まっていれば、扉までは走れる。
湊は、頭の中で手順を唱えた。
一つ。リシェルが柱の陰から出て、巨人に胸の炎を吐かせる。炎は、柱の陰に戻って、柱で受ける。
二つ。炎を吐くとき、巨人は片ひざをつく。そのあいだに、俺が巨人の横へ回る。吐き終わって胸の格子が開いたら、ひざから太ももに上がって、炉心を《欠けた月》で突く。
三つ。巨人が両ひざをついて止まっているあいだに、三人で扉のすき間から外へ出る。
巨人は、角のある湊をたたかない。それに賭けるしかなかった。
湊は、北の壁の柱に向かって叫んだ。
「リシェル! あいつに炎を吐かせてくれ。炎は柱で受けるんだ。吐き終わったら、俺が胸の中を突く。そうすれば、しばらく止まる。止まったら、扉まで走るぞ!」
柱の陰から、リシェルの声が返ってきた。
「あなたが行くの? その体で?」
「あいつは、俺をたたかない。さっき、俺の上をよけていった」
「……たまたまだったら、どうするの」
「そのときは、そのときだ」
少しのあいだ、返事がなかった。
それから、リシェルが言った。
「わかったわ。でも、外に出たら、全部聞かせてもらうから。あなたが言う『ゲーム』のことも、全部よ」
「ああ。全部話す」
湊は、ノアの肩から腕をおろした。
「ノアは、扉のそばの柱まで行ってくれ。俺たちが走りだしたら、先に外へ出るんだ」
ノアは、首を横に振りかけた。けれど、湊の顔を見て、唇をかんだ。それから、南の壁ぞいに、扉のほうへ走っていった。
*
リシェルが、柱の陰から出た。
左右の剣を打ちあわせる。キン、キン、と高い音が響いた。
「こっちよ!」
巨人のガラスの目が、リシェルに向いた。胸の炎が、またごうっと燃えあがる。
巨人は、左のひざを床についた。
ひざの下で、鉄の床板がへこんだ。胸の格子が、リシェルのほうへまっすぐ向く。格子の奥の炎が、赤から白に近い色に変わった。
リシェルが、柱の陰へ飛びこんだ。
次の瞬間、巨人の胸から炎が吹きだした。
川のような炎だった。太さは、大人の背丈ほどもある。炎は柱にぶつかり、左右に分かれて、北の壁をなめた。柱の角が、赤く光りはじめた。二十歩離れた湊の顔の皮膚まで、ちりちりと痛んだ。
湊は、走った。
南の壁ぞいから、ひざをついた巨人の左わきへ回りこむ。右足で床をけり、左足を引きずる。左の足首が、一歩ごとに悲鳴を上げた。
巨人の左ひざは、床についている。そのせいで、左の太ももが、ひざから腰のほうへ、急な坂のように斜めに上がっていた。太ももの幅は、机くらい。表面は鉄の板で、びょうの頭が並んでいる。そのびょうに足をかければ、坂を上れる。
上りきれば、胸の格子に手がとどく。
炎が、細くなった。
そして、止まった。
ぎいい、と重い音がした。胸の格子が開きはじめた音だ。
湊は、右足で床をけった。
《疾駆》が、体を前へ押しだす。右足が、巨人のひざに乗った。
鉄が熱い。足の裏に、焼けた鍋に乗ったような熱さが伝わってきた。湊は止まらなかった。びょうの頭に右足をかけ、太ももの坂を二歩でかけあがる。左足は、ついてくるだけだった。
目の前に、胸の格子があった。
格子は、開ききっていなかった。
ゲームでは、格子は扉のように大きく開いた。今は、手のひら二つ分ほどしか開いていない。格子のつなぎ目が、赤いさびで固まっているのだ。何百年も眠っていた巨人の体は、どこもかしこも、さびついていた。
すき間から、中が見えた。
炎の奥に、樽ほどの大きさの、丸い鉄のかたまりがあった。白っぽい赤に光っている。あれが炉心だ。
炉心の表面に、何かが彫ってあった。
角のある人の姿だった。一人で立っている。その胸に、丸が一つ彫ってあった。
丸の中は、空っぽだった。
国境の森で、ノアの母が土に描いた絵と同じだった。ノアの丸だけが空っぽだった、あの絵だ。沈黙の井戸の壁で、列の端に一人だけ立っていた人とも、同じだった。
湊の手が、一瞬止まった。
それが、まちがいだった。
格子が、閉じはじめた。
三拍ももたなかった。さびついた格子は、開いたときと同じ重い音を立てて、もう戻りはじめていた。
湊は、右腕を格子のすき間に突っこんだ。
《欠けた月》の切っ先が、炉心に届いた。
刃は、炉心の表面に、すっと沈んだ。じゅっと音を立てて、白い湯気が噴きだした。《欠けた月》の冷たさが、炎の熱とぶつかったのだ。
同時に、閉じてくる格子の鉄の棒が、湊の右の前腕を両側からはさんだ。
焼けた鉄だった。
肉の焼ける匂いがした。自分の腕の匂いだった。前腕の、灰月の夜にヴァルターの光の槍で焼かれた跡の上だった。
湊は、叫ばなかった。叫ぶかわりに、腕を引き抜いた。刃も、いっしょに抜けた。
巨人の胸の奥から、低い音が響いた。大きな鐘が割れたような音だった。口のない巨人の、声のかわりだった。
胸の炎が、大きく揺れた。
巨人の左手が、動いた。
湊を攻撃しようとしたのではなかった。後になって、湊はそう思った。胸にとまった虫を、人が思わず手で払うのと同じだった。痛みに、体が勝手に動いたのだ。
けれど、その手の甲は、荷馬車の荷台ほどの大きさがあった。
鉄の手の甲が、湊の左の脇腹に当たった。
湊の体が、太ももの上から浮いた。
床が見えた。天井が見えた。それから、南の壁ぞいの柱が、目の前に来た。
湊は、柱に、背中から叩きつけられた。
焼けた背中が、鉄の柱にぶつかった。左の肩が、ごきっと鳴って、つけ根から外れた。頭のうしろが柱に当たり、目の前に白い火花が散った。
湊は、柱の根元の床に落ちた。
息が、入らなかった。
吸おうとしても、胸の左側が動かない。肋骨が、何本も折れているのがわかった。前から折れていた二本だけではない。もっと多くの骨が、胸の中でばらばらになっているような気がした。
左腕は、もう自分の腕ではないみたいに、肩から変な向きにぶら下がっていた。右の前腕には、格子の棒の形に、焼けた線が二本ついていた。
それでも、右手は《欠けた月》を握っていた。冷たさで指が刃の形に固まって、離れなかったのだ。
角のつけ根は、ちりとも痒くならなかった。巨人は、まだ生きていた。
ゲームなら、と湊はぼんやり思った。ゲームなら、今ごろ画面の左上で、体力の棒が赤く点滅している。回復薬を一つ飲めば、それで元どおりだった。
ここには、そんな棒はない。回復薬もない。あるのは、息の入らない胸だけだった。
*
音が遠かった。
リシェルが、何か叫んでいる。ノアの足音が近づいてくる。
湊は、柱の根元から、巨人を見た。
巨人は、動いていなかった。
左ひざをついたまま、自分の左手を見ていた。湊を払った、その手の甲を。
それから、ガラスの目が、ゆっくりと湊のほうを向いた。
巨人は、右のひざも床についた。両手を、床に下ろした。胸の炎が、しぼむように小さくなっていく。白に近かった炎が赤くなり、やがて暗い赤の熾火になった。
炉心を一回たたくと、巨人は両ひざをついて止まる。ゲームと同じだった。
けれど湊には、それだけではないように見えた。
自分の待っていた主かもしれない者を、自分の手で払ってしまった。巨人は、そのことに気づいて止まったように見えた。飼い主にかみついてしまった犬のように。
「ミナト!」
リシェルが、湊の横にひざをついた。顔が真っ青だった。
「息は? 息はできる?」
湊は、答えようとした。声のかわりに、ひゅう、という細い音が出ただけだった。
「……とまってる、あいだに」
やっと、それだけ言えた。
「扉へ」
リシェルは、それ以上何も聞かなかった。湊の右の脇の下に、自分の肩を入れた。反対側には、ノアが小さな体を入れた。左側を支えられたとたん、外れた肩が焼けるように痛んで、湊は声を上げた。ノアの手が、びくっと止まった。
「いい。……そのまま、行ってくれ」
二人は、湊を引きずって歩きだした。
扉までは、三十歩ほどだった。
湊の右足は、床をけろうとした。けれど、力が入らなかった。左足は、床の上をこするだけだ。湊の体は、ほとんど二人に運ばれていた。
一歩ごとに、胸の中で骨がこすれた。息は、いつもの四分の一も入らなかった。目の前が、白くなったり暗くなったりした。
巨人の前を通るとき、リシェルの体がかたくなった。
巨人の頭が、ゆっくりと動いて、三人を追った。ガラスの目が、湊を見ている。
十は、もうとっくに過ぎていた。
巨人の右手が、床から持ちあがった。
リシェルが、湊を支えたまま、左手で剣を抜こうとした。
けれど、巨人の手は、三人のほうへは来なかった。
手は、半分開いた大扉のふちにかかった。そして、扉を、ゆっくりと外へ押した。
ぎいいい、と、古い鉄が長い声を上げた。
扉のすき間が、広がっていく。荷馬車一台分だったすき間が、二台分、三台分になった。夜明けの光が、部屋の中へなだれこんできた。
光の中で、巨人は扉から手を離した。そして、また両手を床について、動かなくなった。
外へ出ようとしていたのではなかったのかもしれない、と湊は思った。
巨人は、扉に手を当てて、待っていたのだ。誰かが、この扉から帰ってくるのを。何百年も眠っていたあいだも、たぶん、ずっと。
ノアが、扉の前で一度だけ振り返った。
「……あの子、ひとりで、ずっと待ってたのかな」
ノアは、巨人のことを「あの子」と呼んだ。湊は、答えられなかった。答える息が、なかった。
三人は、扉を抜けた。
*
外は、崖の上だった。
扉の前は、岩の広場になっていた。広さは、荷馬車が三台並べられるくらい。右手は切り立った崖で、下は深い谷になっている。谷の底には、まだ夜の暗さが残っていて、何も見えなかった。
左手には、古い松が三本、岩にしがみつくように生えていた。松の根元に、雪が白く残っている。その松のあいだから、細い道が北へ下っていた。ゲームでも、ここから古い峠道が北へ延びていた。
東の山の向こうが、白く光っていた。
リシェルとノアは、湊を松の根元まで運んだ。背中を地面につけないように、右を下にして、横向きに寝かせる。岩の冷たさが、熱い頬に触れた。
「肩、外れてるわね」
リシェルが、湊の左肩にそっと手を当てた。それだけで、湊の体がはねた。
「……ごめん。今は、さわらない」
リシェルは、湊の胸に耳を当てた。湊の息の音を、しばらく聞いていた。顔を上げたとき、リシェルの唇は、白くなっていた。
「左の胸が、ほとんど動いてない。右だけで息をしてるわ」
リシェルは、まるで自分に言い聞かせるように言った。それから、湊の右の前腕の焼けた線を見て、きつく目を閉じた。
「外に出たら全部話すって、約束したわよね。……話す前に死んだら、許さないから」
湊は、口の端だけで笑おうとした。うまくいかなかった。
リシェルは、湊の右手を見た。指は、まだ《欠けた月》の形に固まっていた。リシェルはその指を、一本ずつ、刃からはがしていった。沈黙の井戸の地の底で、そうしてくれたように。
刃が、岩の上に置かれた。刃先から、まだ細い湯気が上がっていた。
ノアが、湊の顔の前にしゃがんだ。
「ミナト。治癒、つかえないの? きのう、腕をなおしたみたいに」
湊は、目だけでノアを見た。
使えるかどうかは、わからなかった。昨日、二の腕の浅い傷を一つ閉じただけで、目の前が暗くなったのだ。今の傷は、あれとは比べものにならない。
それでも、湊は右の手のひらを、自分の胸の左側に当てた。
治癒、と頭の中で思った。
手のひらの下が、灰色に光った。
光は、ろうそくの火くらいの大きさだった。それが、胸の上で、ふるえるように揺れた。
一つ息をするあいだもたたないうちに、光は消えた。
かわりに、目の前が真っ暗になった。
岩も、松も、ノアの顔も、消えた。
どれくらい、そうしていたのかはわからない。
気がつくと、リシェルが湊の名前を呼んでいた。湊の頬を、手のひらで何度もたたいている。
「ミナト。ミナト。……もう、使わないで。お願いだから」
リシェルの声が、ふるえていた。
湊は、まばたきをした。それで、聞こえていると伝えたつもりだった。
胸は、少しも楽になっていなかった。今の湊の力では、骨の一本もつなげないのだ。
ノアは、湊の右手を両手で握っていた。ときどき自分の手のひらを湊の胸の上にかざしては、首をかしげている。灰色の光は、ノアの手からは出なかった。
湊は、岩の上で目を閉じかけた。
まぶたの裏に、炉心の彫り物が浮かんだ。一人で立っている、角のある人。胸の、空っぽの丸。
ノアの母の絵。沈黙の井戸の壁。そして、鉄巨人の胸の奥。三つの場所に、同じ空っぽの丸があった。
湊のステータスの最下段には、〈器:―〉という一行がある。何も入っていない、という意味なのかもしれない。あの空っぽの丸と、どこかでつながっているのかもしれない。
けれど今は、それ以上考えられなかった。考えるための息が、足りなかった。
崖の下から、風が吹きあげてきた。
谷の、冷たい風だった。松の匂い。雪の匂い。ぬれた岩の匂い。
その中に、一つだけ、知っている匂いが混じっていた。
湊の鼻の奥には、まだ硫黄の煙で焼けた跡が残っている。それでも、まちがえようがなかった。
丁子の油の匂いだ。歯の痛み止めに使う、あの油の匂い。
賞金稼ぎの頭、コール・ダリックの匂いだった。
風は、谷の下から来ている。崖の下の、峠道のほうからだ。
「……リシェル」
湊は、ひゅうひゅうと鳴る息のあいだから、言葉をしぼりだした。
「下から、……誰か、来る。コールだ」
リシェルの顔が、谷のほうを向いた。右手が、ゆっくりと剣の柄にかかった。
ノアも、湊の手を離して立ちあがった。上着のポケットに手を入れる。石を握る、かちりという音がした。
湊は、起きあがろうとした。
体は、少しも動かなかった。
開いたままの扉の奥で、鉄巨人が両ひざをついているのが見えた。胸の熾火が、暗い赤に光っている。ガラスの目は、扉の外の湊を、まだ見ていた。
夜明けの光が、崖の上に届いた。
転移してから、十九日目の朝だった。次の灰月の夜まで、あと五日。
湊の目の前が、また、ゆっくりと暗くなっていった。




