第二十一話 傷
頬を、冷たいものがたたいた。
雪だった。松の枝から落ちたひとかたまりの雪が、湊の頬の上でとけていく。
湊は、目を開けた。
目の前に、松の根があった。岩のすき間に指を差しこむように、太い根が何本も地面をつかんでいる。湊は、その根元に右を下にして横たわっていた。気を失っていたのは、ほんの少しのあいだだったらしい。東の山の上の空は、まだ白いままだった。
「起きた」
ノアの声がした。ノアは湊の顔の前にしゃがんで、湊の右手を握っていた。
「リシェル、ミナト、起きた」
足音が近づいてきた。リシェルが、湊の横にひざをついた。
「聞こえる?」
湊は、まばたきをした。それから、声を出そうとした。
「……どれくらい、寝てた」
「百数えるくらいよ。そのあいだに、崖のふちから下をのぞいてきたわ」
リシェルは、谷のほうへ目をやった。
「峠道は、崖の下で何度も折れまがって、谷の底まで下りてる。木が多くて、人の姿は見えなかった。でも、下のほうで鳥がいっせいに飛びたったの。誰かが上ってきてる」
湊は、鼻で浅く息を吸った。
谷から吹きあげる風は、まだ止んでいなかった。松の匂い、雪の匂い、ぬれた岩の匂い。そして、その下に、丁子の油の匂いがある。さっきより、少しだけ濃かった。
「まだ、遠い。……でも、来てる」
「どれくらいで、ここに着くと思う?」
「わからない。道が、折れまがってるなら……少し、かかる」
リシェルは、うなずいた。それから、湊の左肩を見た。
「なら、今のうちに、肩をはめるわ」
湊は、リシェルの顔を見た。
「……できるのか」
「騎士の家では、子どもでも習うの。馬から落ちると、肩はよく外れるから。父が、兵の肩をはめるのを何度も見たわ。自分で、はめたこともある」
リシェルは、そこで一度、口を閉じた。
「でも、すごく痛いわよ。それに、はめないと、わたしはあなたを運べない。左腕がぶらぶらしたままだと、背負ったときに肩が引っぱられて、あなたはきっと、また気を失う」
湊は、少し考えた。考えるまでもなかった。
「やってくれ」
リシェルは、ノアを呼んだ。
「ノア。ミナトの右の肩を、両手で岩に押さえていて。体が動かないように」
ノアは、言われたとおりに湊の右肩に両手を置いた。小さな手だったが、体重をかけて押さえてくる。
リシェルは、湊の左のわきに座った。片手で湊の左の手首を、もう片方の手でひじを持つ。
「ひじを曲げたまま、腕をゆっくり外へ回すの。骨のあたまが、もとの穴に戻るまで。途中で止めたら、もっと痛いから、止めないわよ」
「……ああ」
リシェルが、湊のひじを体のわきにつけた。そして、手首をゆっくりと外へ回しはじめた。
肩の中で、何かがこすれた。
焼けた鉄の棒を、肩のつけ根にねじこまれるような痛みだった。湊は、歯を食いしばった。息を止めると、折れた肋骨が胸の中できしんだ。目の前が白くなる。
「もう少し」
リシェルの声が、遠くで聞こえた。
腕が、さらに外へ回された。
ごとん、と、肩の奥で重い音がした。
骨が、穴に落ちた音だった。痛みが、一度だけ大きく跳ねあがって、それから少しずつ引いていった。左腕が、また自分の体についている、という感じがした。
湊は、長い息を吐いた。吐いたぶんだけ、胸がきしんだ。
「入った」
リシェルが、額の汗を手の甲でぬぐった。その手が、小さくふるえていた。
リシェルは、湊のシャツの残った袖を、ためらわずに肩のところから裂いた。歯車の回廊で背中をむしり取られた、マルタの古着だ。もう、着ているとは言えない。リシェルは裂いた袖をつなぎ、湊の左腕をひじで曲げて、胸の前に吊った。
それから、マルタの荷から苦蓬の軟膏の壺を出した。右の前腕の、格子の棒の形に焼けた二本の線に、指で塗っていく。塗ったところが焼けるように熱くなり、そのあとで、痛みがしびれの向こうへ遠のいた。
「足の裏も見せて」
足の裏は、赤くふくれていた。巨人の熱い太ももを、はだしでかけあがったせいだ。リシェルはそこにも軟膏を塗った。
ノアは、岩の上に置かれた《欠けた月》を見ていた。刃先の湯気は、もう消えていた。
「これ、どうするの。むきだしだと、もてない」
「パンの布を使いましょう」
リシェルは、黒パンを包んでいた布をほどいた。パンを荷に戻し、布で刃を三重に巻く。布の端を固く結んで、湊の腰ひもの右に差した。布ごしでも、腿がひやりと冷えた。
「これで、あなたのものは全部よ」
湊は、右手で刃の上の布に触れた。それから、谷のほうを見た。
丁子の匂いが、また濃くなっていた。
*
湊は、リシェルとノアに、崖の上の広場の形を確かめさせた。
大扉を背にして立つと、広場は荷馬車が三台並べられるほどの広さがある。右手は切り立った崖で、下は深い谷だ。左手のふちに、古い松が三本、並んで生えている。湊が寝ているのは、扉にいちばん近い一本目の松の根元だった。
峠道は、二本目と三本目の松のあいだから、北の谷へ下っている。道の幅は、人ひとりがやっと通れるくらい。両わきは松の幹と岩で、道の上には、根元からとけだした雪が薄い氷になって張りついていた。急な坂で、上るのも下りるのもすべりやすい。
坂を上りきったところが、二本の松の幹にはさまれた口になっている。口の幅は、大人が両腕を広げたくらいしかない。
「あそこに立てば、一人ずつしか上がってこられない」
湊は、ひゅうひゅうと鳴る息のあいだから言った。
「坂の上から、下を突ける。……向こうは、上を見上げて戦うことになる」
「わたしが、口に立つのね」
「ああ。ノアは、二本目の松の上だ。枝の上から、坂の下を見下ろせる」
ノアは、二本目の松を見上げた。いちばん下の枝は、大人の背丈より少し高い。ノアは何も言わずに幹に取りつき、するすると上っていった。枝の上にまたがって、上着のポケットから石を出す。
「俺は、ここから匂いを言う。……風は、下から来る。下にいるやつらの匂いは、全部、上がってくる」
リシェルは、湊を見下ろした。
「つまり、あなたが、わたしの目になるのね」
「鼻だ」
「同じことよ」
リシェルは、少しだけ笑った。それから笑いを消して、二本の松のあいだの口に立った。右の剣を抜く。左の剣は抜かずに、腰の後ろに差したままにした。口が狭いので、二本は振れないと見たのだろう。
湊は、目を閉じて匂いに集中した。
丁子の油。古い鉄のさび。それは、コールの匂いだ。
その少し下に、汗の匂いが濃い、大きな体の匂いがあった。右の手首に巻いた布に、古い血がしみている。ブルーノだ。斧の大男で、賞金稼ぎの一人だ。
弦にぬる蝋と、金具の油の匂い。弩の男だ。旧坑で湊が気絶させて、殺さなかった男だった。
それから、石炭の粉の匂いが二つ。町で雇われた坑夫たちだろう。
「五人だ」
湊は言った。
「先頭は、坑夫だ。石炭の匂いが、二つ。……そのうしろに、弩。ブルーノ。いちばんうしろが、コールだ」
「坑夫を先に出して、わたしたちを疲れさせるつもりね」
「ああ。……それと、弩に気をつけろ。坂の下からでも、口に立ったおまえの胸から上は、見える」
足音が聞こえはじめた。
氷を踏む音。ときどき、ずるっとすべる音。荒い息。峠道の最後の折れ目を、誰かが曲がってきた。
「坑夫だ。坂の下、二十歩。……つるはしの、鉄の匂いがする」
リシェルが、剣を低く構えた。
坂の下に、男が現れた。厚い上着、顔は石炭の粉で黒い。両手でつるはしを握っている。男は坂の上のリシェルを見て、一度止まった。それから、氷の上を一歩ずつ上ってきた。すぐうしろに、太い棒を持ったもう一人の坑夫が続く。
先頭の坑夫が、口の三歩手前まで来た。つるはしを頭の上に振りあげる。
リシェルは、坂の上から半歩だけ前に出た。振りおろされるより先に、剣の先で、つるはしの柄を握る男の右手の指を払った。
男が悲鳴を上げて、つるはしを落とした。つるはしは氷の上をすべり、坂の下へ落ちていった。男は指を押さえてよろけ、うしろの坑夫にぶつかった。二人はもつれあって、氷の坂を三歩ぶん、尻ですべり落ちた。
坂の上は、上から押す者が強い。下から上がる者は、踏んばるだけで精いっぱいだ。リシェルは、その坂を使っていた。
棒を持った坑夫が、起きあがってまた上ってきた。今度は棒を短く持ち、突いてくる。
リシェルは、棒の先を剣で横へ流した。棒は松の幹に当たって止まった。リシェルは、そのまま一歩踏みこみ、剣の柄頭で男のこめかみを打った。男はひざから崩れて、坂をずるずると下っていった。
「殺さないの?」
松の上から、ノアが小さな声で聞いた。
「坑夫は、家をなくして、百枚に釣られただけよ」
リシェルは、坂の下を見たまま答えた。
「それに、ここで死体が坂に転がったら、足場が悪くなる」
湊の鼻に、蝋の匂いが急に濃くなって届いた。弦が、引かれたのだ。
「リシェル、弩だ! 坂の下の、左の岩の陰だ!」
リシェルが、右の松の幹の陰に体を引いた。
ひゅっ、と音がして、矢が、さっきまでリシェルの胸があった空気を抜けた。矢は広場の岩に当たって火花を散らし、扉のほうへ転がっていった。
「ノア、左の岩だ。……頭を出したら、投げろ」
ノアが、松の枝の上で投石の紐を回しはじめた。一度、二度。
岩の陰で、弩の男が次の矢をつがえる音がした。取っ手を回す、きりきりという音だ。巻きあげが終わるには、時間がかかる。男は、矢をつがえるために、岩の陰から肩を少し出した。
ノアの石が飛んだ。
石は、男の肩の脇の岩に当たって砕けた。男は首をすくめて、岩の陰に戻った。当たらなかったが、男はしばらく顔を出さなかった。
そのとき、坂の下で、大きな声がした。
「どけ、どけ!」
ブルーノだった。
斧の大男が、倒れた坑夫たちをまたいで、坂を上ってきた。両手に、刃が三日月のように反った戦の斧を握っている。右の手首には、布がきつく巻かれていた。旧坑で、リシェルに裂かれた手首だ。
ブルーノは、氷の上でも足をすべらせなかった。靴の底に、鉄の爪のようなものを巻いている。坑夫が雪の山で使う、すべり止めだ。
「坂の上で待つってのは、上手えな、嬢ちゃん」
ブルーノは、口の五歩手前で止まった。斧を、頭の上へ振りあげる。
「だがな、その細い剣じゃ、俺の斧は止まらねえ」
湊は、ブルーノの汗の匂いを嗅いだ。匂いは、体の右側に寄っている。右の手首が痛いのだ。だから、振りおろすとき、斧はほんの少し、左へ流れる。
「リシェル」
湊は、ひゅうひゅうと鳴る息を押しだした。
「右へ、よけろ。……斧は、左へ流れる」
ブルーノが、斧を振りおろした。
リシェルは、口の中で右へ一歩踏みだした。斧は、湊の言ったとおり、リシェルの左の肩の脇をかすめて流れ、二本目の松の根に深く食いこんだ。根が裂け、木くずが飛んだ。
松の上のノアの体が、大きく揺れた。ノアは、両手で枝にしがみついた。
ブルーノが、根に食いこんだ斧を引き抜こうとした。右の手首に力が入らず、一度では抜けなかった。
その手首に、リシェルの剣が落ちた。
布の上から、剣の先が手首を打った。ブルーノがうなり声を上げて、斧から右手を離した。左手一本で斧を引き抜き、そのまま横に振ってくる。
リシェルは、坂の上の口から一歩、広場のほうへ下がってよけた。斧の刃は、松の幹に当たって止まった。
ブルーノは、斧を引き戻しながら、口を抜けて広場に足を踏み入れようとした。
そこへ、松の上からノアの石が落ちてきた。
石は、ブルーノの頭のてっぺんに当たった。ブルーノはよろけて、口の手前で片ひざをついた。氷の上で、靴の底の鉄の爪がきしむ音がした。
リシェルが、また口に戻った。坂の上から、剣の先をブルーノの喉の前に突きだす。
「下がって」
ブルーノは、リシェルを見上げた。頭から、血が一筋、額に流れていた。
そのとき、坂の下から、低い声がした。
「ブルーノ。下がれ」
コールの声だった。
*
ブルーノは、舌打ちをして坂を下りていった。
かわりに、坂の下の折れ目に、痩せた男が立った。
湊とそれほど変わらない背丈。白いものの混じった髭を短く刈り、顔の下半分を濡らした布で覆っている。手には、湊の背丈ほどの柄の、短い槍。賞金稼ぎの頭、コール・ダリックだった。
コールは、坂の上の口を見上げた。それから、その奥の松の根元に横たわる湊を見た。
「生きてたか、灰角」
湊は、答えなかった。答える息が、もったいなかった。
「坑夫どもが教えてくれた。ドワーフの坑が、工房の壁に当たったってな。工房の中に入った奴が出てくる穴は、二つしかねえ。町の上の坑の口と、この崖の上の扉だ。……崖の扉は、何百年も開かずの扉だと聞いてたがね」
コールは、湊の後ろの、開いた大扉を見た。
「開けたのは、お前か」
コールは、そう言ってから、腰の袋に手を入れた。
湊は、その手の動きを知っていた。旧坑で、同じ手が同じ袋に入るのを見た。
「リシェル、息を止めろ!」
コールの手から、黒い玉が坂の上へ投げあげられた。玉は、二本の松の口の手前の氷の上に落ちて、割れた。
黄色い煙が、噴きあがった。
硫黄の煙だった。
谷から吹きあげる風が、煙をそのまま広場へ運んだ。コールは、この風を知っていた。風下に、湊がいることも。
煙が、湊の鼻にとどいた。
旧坑のときと同じだった。鼻の奥に、焼けた拳を突っこまれたような痛みが来た。涙があふれた。咳が出た。咳のたびに、折れた肋骨が胸の中でこすれあった。湊は、松の根元で体を丸めた。
何の匂いも、しなくなった。
「灰角は、鼻で見る。弟が、そう言ってた」
煙の向こうで、コールの声がした。
「鼻をつぶすのが、最初の手順だ」
リシェルも、咳きこんでいた。口に腕を当てて、煙の中で目を細めている。松の上のノアは、煙の上にいたので、まだ目を開けていられた。
坂の下で、氷を踏む音がした。何人もの足音だった。
「上がってくる」
ノアが、枝の上から叫んだ。
「三人。……弩のひと、もう一回、ねらってる」
湊は、涙で見えない目を開けた。
このままでは、もたない。湊の鼻はつぶれた。リシェルは煙の中で、ほとんど何も見えていない。下から上がってくる者は、コールとブルーノを含めて四人。弩もある。ここは、もう守れない。
湊は、開いた大扉を見た。
扉の奥の暗がりで、胸の熾火が、暗い赤に光っていた。
鉄巨人は、まだ両ひざをついていた。
湊は、さっき扉を通るときのことを思い出した。巨人の前を、リシェルとノアに支えられて通った。巨人は、リシェルを追いださなかった。角のない者は、工房から追いだそうとするはずなのに。
リシェルが、湊を運んでいたからかもしれない。
角のある者に触れている者は、たたかない。そういう決まりなのか。それとも、ただの偶然だったのか。湊には、わからなかった。
けれど、ほかに逃げ場はなかった。
湊は、頭の中で手順を唱えた。
一つ。リシェルが、俺を背負う。ノアは、俺たちのうしろを守る。
二つ。三人とも、体のどこかを触れあわせたまま、扉の中へ入る。
三つ。角のない者が追ってきたら、巨人が追いだす。
「リシェル」
湊は、咳のあいだから声をしぼりだした。
「扉の中へ、入る。……俺を、背負え。ノアも、おまえに、つかまらせろ」
「中へ? あの巨人のところへ?」
「さっき、巨人は、俺を運ぶおまえを、通した」
リシェルは、一瞬だけ扉のほうを見た。それから、剣を鞘に戻した。
「ノア、下りて!」
ノアが、松の枝から飛びおりた。リシェルは湊の前にしゃがみ、湊の右腕を自分の肩にかけた。
「痛いわよ」
「知ってる」
リシェルが、湊を背中に乗せて立ちあがった。
胸が、リシェルの背中に押しつけられた。折れた骨が、いっせいに悲鳴を上げた。湊は、リシェルの肩に額を押しつけて、声をかみ殺した。吊った左腕が、二人の体のあいだにはさまれた。
リシェルが、走りだした。
扉までは、二十歩ほどだった。ノアが、リシェルの帯の端を左手でつかみ、うしろ向きに走りながら、右手で投石の紐を回している。
背中のうしろで、二本の松の口を抜ける足音がした。
「逃がすな!」
ブルーノの声だった。
ノアが、うしろへ石を投げた。誰かの肩に当たる、にぶい音がした。
ひゅっ、と矢の音がした。
矢は、湊の背中のすぐ右を抜けて、大扉の鉄に当たった。高い音がして、矢が足もとに落ちた。
背負われている湊の背中は、弩の男から見れば、いちばん大きな的だったはずだ。それでも、矢は外れた。わざと外したのか、煙で狙えなかったのか。湊には、わからなかった。
リシェルが、扉の内側へ飛びこんだ。
入口の間は、薄暗かった。夜明けの光が、扉のすき間から細長く床の上にのびている。その光の先に、鉄巨人がひざをついていた。
巨人のガラスの目が、動いた。
胸の熾火が、ごうっと音を立てて、赤から明るい橙に燃えあがった。
リシェルの足が、止まった。湊を背負ったまま、巨人の前で動けなくなった。
巨人が、顔を下げた。ガラスの目が、リシェルを見た。それから、リシェルの肩の上にある、湊の角を見た。そして、リシェルの帯をつかんでいる、ノアの角を見た。
巨人は、右手を持ちあげた。
リシェルの体が、かたくなった。
巨人の手は、三人の頭の上を越えた。
そして、三人の背中のうしろ、扉の内側の床に、ずしんと下ろされた。
手のひらを下に向けて、床に置かれた鉄の手は、扉のすき間の前をふさぐ壁になった。
その壁の向こうで、ブルーノが扉の中へ飛びこもうとしていた。
ブルーノは、目の前に下りてきた鉄の手に、斧を振りおろした。ガキン、と音がして、火花が散った。斧は、はね返された。
巨人の手が、手の甲を外へ向けて、ゆっくりと押しだされた。
虫を払うような速さではなかった。扉の外へ、ものを押しだすような、ゆっくりした動きだった。ブルーノの体が、鉄の手に押されて、扉のすき間から外の岩の広場へ転がりでた。斧が、岩の上ではねた。
巨人の手は、扉のすき間の前に戻って、止まった。
外で、コールの声がした。
「下がれ。全員だ」
足音が、扉から遠ざかった。
リシェルが、ひざから床に崩れた。湊の体が、リシェルの背中からずり落ちそうになり、ノアがあわてて湊の右腕を支えた。
巨人は、三人を見ていた。胸の炎は、また暗い赤の熾火に戻っていった。
ノアが、湊の腕を離した。そして、巨人の、床に置かれた指のほうへ歩いていった。
「ノア」
リシェルが、止めようとした。
ノアは止まらなかった。巨人の人差し指の前に立って、さっきリシェルが斬りつけた、関節の細い傷に手を当てた。
「このひとは、だいじょうぶ」
ノアは、巨人を見上げて言った。
「ミナトを、ここまで、はこんでくれたひと。……だから、だいじょうぶ」
巨人のガラスの目が、ノアを見ていた。長いあいだ、見ていた。
それから、巨人は、ゆっくりとまた両手を床について、頭を垂れた。
*
扉の外の話し声は、聞こえなくなった。
ときどき、岩を踏む音がする。煙の匂いは、広場から少しずつ流れてきたが、扉の内側までは強くは入ってこなかった。湊の鼻の痛みが少し引くと、丁子の油の匂いが、扉の外の松のあたりにとどまっているのがわかった。
コールは、帰っていない。
「待つつもりね」
リシェルが、扉のすき間から外を見て言った。
「巨人が扉の前にいるかぎり、中には入ってこられない。でも、わたしたちも外に出られない」
湊は、入口の間の南の壁ぞいの柱にもたれて、右を下にして横になっていた。さっき叩きつけられた柱の、となりの柱だ。巨人の熾火の熱が、ここまでぼんやりととどいてくる。岩の上より、ずっと暖かかった。
リシェルは、湊の前に座った。ノアは、湊の右側に、ひざをかかえて座っている。
しばらく、誰も何も言わなかった。
床の下で、水車の回る音だけがしていた。
「外じゃないけど」
リシェルが、言った。
「扉の外には出たわ。一度は」
湊は、リシェルの顔を見た。リシェルは、まっすぐ湊を見ていた。
「全部、聞かせて」
湊は、目を閉じた。どこから話せばいいのか、わからなかった。三千時間ぶんのことを、ひゅうひゅうと鳴る胸で話せるとは思えなかった。
それでも、約束した。
「……俺は、この世界の、人間じゃない」
湊は、目を開けて言った。
「別の世界から、来た。……そっちには、灰角も、魔物も、いない。二つの月も、ない。月は、一つだけだ」
リシェルは、何も言わなかった。続けて、という顔をしていた。
「そっちの世界に、『ゲーム』という、遊びがある。……絵の中で、人を動かして、旅をさせる遊びだ。この世界は、その中にあった」
「この世界が、遊びの中に?」
「ああ。……ブラムウェルも、ギルドも、沈黙の井戸も、この工房も、全部あった。俺は、それを、十年近く遊んだ。……数えたら、三千時間を、越えてた」
「三千時間」
リシェルは、口の中でくりかえした。
「眠らずに続けても、百二十日よ」
「眠ってたよ。……仕事も、してた。夜、倉庫で、荷物の数を数える仕事だ。帰って、遊んで、寝て、また、数えた」
湊は、少しだけ笑った。胸が痛んで、すぐにやめた。
「だから、知ってるんだ。……どこに、何があるか。魔物が、どう動くか。誰が、何を言うか。俺は、それを全部、書いて残した。ほかの人が、迷わないように。……wikiという、帳面だ」
「だから、あなたは、迷わなかったのね」
リシェルが、ゆっくりと言った。
「下水道でも、井戸でも、あなたは初めて来た場所を、知っている顔で歩いてた。わたし、ずっとそれが怖かったの」
「怖かったのか」
「怖かったわ。……でも、それで何度も助かった」
リシェルは、ひざの上で両手を組んだ。湊は、続けた。
「最後の日、遊びが終わって、黒い画面に、問いが出た。……『あなたは、この世界を、愛していますか』」
湊は、天井の暗がりを見た。
「はい、と答えた。……そしたら、ロウェルの外れの、草の上で、目が覚めた。この角が、生えてた」
ノアが、湊の角を見上げた。それから、自分の角に手を触れた。
「ゲームのなかに」
ノアが、小さな声で聞いた。
「わたしは、いた?」
湊は、ノアを見た。うそはつけなかった。
「いなかった。……ゲームには、灰角は、一人も、出てこなかった。俺は、帳面に、そう書いた。『灰角族の住人は、いない。全部の場所を、確かめた』って」
ノアは、しばらく黙っていた。
「じゃあ、わたしは、ミナトの知らないひと」
「ああ」
「ミナトの帳面に、書いてないひと」
「ああ。……書いてない」
ノアは、ひざをかかえなおした。少しだけ、うれしそうに見えた。湊の知らない者であることが、ノアには、なぜかうれしいらしかった。
湊は、リシェルを見た。
ここから先を、言わなければならなかった。
「リシェル。……おまえは、ゲームに、いた」
リシェルの指が、ひざの上で止まった。
「ギルドの、依頼書の前に立ってる、女の剣士だ。台詞は、一つだけ。『わたしに、構わないで』」
「……言ったわ。何度も」
「俺は、帳面に、もう一つ、表を作ってた。……死ぬ人の、表だ。ゲームの中で、話の途中で死ぬ人を、全部、書いた。どうすれば、死なずにすむかも」
湊は、息を吸った。四分の一しか入らなかった。
「その表の、いちばん最後の行が、おまえだった」
リシェルは、動かなかった。
「『第二章で、死ぬ』。……そう書いてあった。死ぬ場所も、死ぬ理由も、ゲームには、出てこなかった。ある日、ギルドの掲示板に、短い知らせが、貼られるだけだ。だから、助け方も、書けなかった。『回避方法、不明』。……俺は、そう書いた」
入口の間が、静かになった。
水車の音だけが、床の下で続いていた。
リシェルは、長いあいだ黙っていた。それから、静かに聞いた。
「第二章って、いつ?」
「……ブラムウェルの、話の終わりまでだ。灰月の夜まで」
「なら、もう過ぎたわね」
「ああ」
「あなたが、灰月の夜に井戸までついてきたのは、そのせい?」
湊は、うなずいた。うなずくだけで、肩が痛んだ。
「一人で、井戸へ行く娘。……それが、死ぬ絵に、見えた。だから、一人で、行かせたくなかった」
リシェルは、目を伏せた。両手で、顔を覆った。
泣いているのか、と湊は思った。けれど、リシェルの肩はふるえていなかった。しばらくして、リシェルは手をおろした。目は、乾いていた。
「わたしね、ずっと、わからなかったの」
リシェルは言った。
「なんであなたが、わたしにだけ、あんなに意地を張ったのか。井戸の上で、『おれが、ふた』って書いたときも。荷馬車に乗ればいいって言ったのに、ついてきたときも」
リシェルは、少しだけ笑った。
「借りを返させないつもりなのかと思ってた」
「……そんなつもりは、ない」
「わかってる。今は、わかってる」
リシェルは、湊の右手を取った。格子の跡の焼けた線の上には触れないように、指先だけを握る。
「ミナト。その表に、わたしのことは、もう何も書いてないのね」
「ああ。……第二章の、あとは、何もない」
「じゃあ、ここから先は、わたしが自分で書くわ」
リシェルの指に、力がこもった。
「あなたもよ。この先のことは、あなたの帳面にも、書いてないんでしょう。この巨人が扉を開けるなんて、書いてなかったでしょう」
「……書いてない」
「なら、同じね。わたしも、あなたも、ノアも」
ノアが、顔を上げた。
「おなじ」
「ええ。同じよ」
湊は、何か言おうとした。言葉が、出てこなかった。かわりに、目の奥が熱くなった。熱のせいだ、と湊は思うことにした。
リシェルが、もう一つだけ聞いた。
「最後に、聞いてもいい?」
「ああ」
「今も、愛してる? この世界」
湊は、すぐには答えられなかった。
石を投げられた。犬に噛まれた。聖水で焼かれた。人を斬った。三人を殺した。そのうちの二人とは、目が合った。その目の色を、まだ覚えている。今は、息が四分の一しか入らない。
それでも。
ベンは、礼を言わずに湊を逃がした。ギデオンは、銀貨を弾いてよこした。マルタは、三倍の値でつけにした。グンナルは、黒い軟膏を塗ってくれた。ノアは、名前を言ってくれた。リシェルは、今、指を握っている。
「……わからない」
湊は、正直に言った。
「ゲームのときより、ずっと、痛い。……でも、ゲームのときより、ずっと、ここにいたいと、思ってる」
リシェルは、何も言わずにうなずいた。
巨人の熾火が、ゆっくりと明るくなり、また暗くなった。巨人が、息をするように。
*
日が傾くと、扉のすき間から入る光が、橙色に変わった。
湊は、いつのまにか眠っていた。目を覚ましたとき、熱はまだ下がっていなかった。胸は、相変わらず左が動かない。それでも、薄い青の目の夢は見なかった。
リシェルは、扉のそばの柱にもたれて、外を見張っていた。ノアは、巨人の手の指のあいだに座って、うとうとしている。巨人は、ノアを払おうとはしなかった。
扉の外で、火のはぜる音がした。
松の匂いの煙だった。コールたちが、広場の松のあたりで焚き火をしているのだ。丁子の油の匂いと、焼いた干し肉の匂いが、扉のすき間から流れこんできた。
「灰角」
外から、コールの声がした。大きな声ではなかった。けれど、扉の中までよくとどいた。
「起きてるか」
湊は、答えなかった。リシェルが、湊のほうを振り返った。
「起きてなくても、いい。言っとく」
コールの声は、怒鳴りもせず、急ぎもしなかった。
「お前が、ヴィックを殺した。それはいい。賞金稼ぎは、殺し、殺される商売だ。弟も、それはわかってた」
焚き火が、ぱちんと鳴った。
「だがな。寝ている奴を、穴の中で殺すのは、俺の手順じゃねえ。……坑道の外でやると言った。お前の顔を見て殺すとも言った」
しばらく、声が途切れた。
「だから、待ってやる。お前が、自分の足で、その扉から出てくるまでな。白い外套の連中が来る前に、出てこいよ。あいつらに先を越されるのは、気に食わねえ」
足音が、焚き火のほうへ遠ざかった。
リシェルが、低い声で言った。
「……白い外套。教団が、こっちへ来てるっていうこと?」
「わからない」
湊は、扉のすき間の、橙色の光を見た。
森で、聖騎士が三人死んだ。二人は湊が、一人はリシェルが斬った。教団が、それに気づかないはずがなかった。ヴァルターの「次は、待たん」という声が、耳の奥でよみがえった。
湊は、口の中で小さく言った。
「ステータス」
視界の左上に、見なれた文字が並んだ。〈ミナト 灰角族 Lv.16〉。数字は、何も変わっていなかった。最下段には、相変わらず〈器:―〉の一行がある。
傷の深さは、どこにも出ていなかった。ゲームのように、体力の棒もない。数字は変わらなくても、体は、立つこともできなかった。
自分の足で、立てるようになるまで。それが、何日かかるのかはわからない。
次の灰月の夜まで、あと五日だった。




