第二十二話 人の記憶
夜が明けると、扉のすき間から入る光は、また白くなった。
転移二十日目の朝だった。
湊は、南の壁ぞいの柱にもたれたまま、右手を床について、体を起こそうとした。
ひじを伸ばすところまでは、できた。腰を浮かせようとしたところで、左の胸の中で、折れた骨がいっせいにずれた。息が止まった。目の前が白くなり、湊はそのまま、右の肩から床に崩れた。
「ミナト」
ノアが、巨人の指のあいだから跳ねおきて、駆けよってきた。
「……だいじょうぶだ」
湊は、床に頬をつけたまま言った。だいじょうぶではなかった。息は、ゆうべと同じで、いつもの四分の一しか入らない。
リシェルが、扉のそばの柱から戻ってきた。夜のあいだ、ほとんど眠らずに外を見張っていたらしい。目の下が、うっすらと黒かった。
「立つのは、まだ無理よ」
「……わかってる」
「わかってるなら、やらないで」
リシェルは湊の体を起こして、柱にもたれさせた。それから、マルタの荷をほどいて、中身を床に並べた。
黒パンが、二つと半分。苦蓬の軟膏の壺は、底が見えはじめている。水の革袋は、半分ほど残っていた。
「パンは、三人で分けたら、あと三日。水は、今日の分しかないわ」
「水なら、ある」
湊は、部屋の真ん中を目で示した。
入口の間の床の真ん中には、荷馬車二台ほどの丸い鉄の網がはまっている。その下で、ぬれた木の水車が、ゆっくり回っていた。水車を回しているのは、ドワーフの坑道から流れこんできた山の水だ。グリムホルトの町の下半分を沈めた、古い坑道の水だった。
「あれは、教団が清めた水じゃない。……光の匂いが、しない」
リシェルは、空になったほうの革袋の口に、帯の端から裂いた細い布を結んだ。網の目から袋を下ろして、水車の受ける流れにひたす。引きあげると、袋はずっしりと重くなっていた。
湊は、袋の口に鼻を寄せた。石と鉄と、冷たい土の匂いがした。乾いた花のような、光の匂いは、どこにもなかった。
一口飲むと、熱い喉の奥に、冷たい水がしみていった。
リシェルは、湊の前に座りなおした。
「ミナト。話があるの」
「……ああ」
「ここから出る道は、扉だけじゃないわ」
リシェルは、入口の間の東の奥を見た。『歯車の回廊』へ続く口が、暗く開いている。
「来た道を、戻ればいい。回廊を抜けて、『炉の間』を通って、グンナルさんの坑道へ出るの。コールたちは五人とも、この扉の外にいる。町の上の坑の口は、今は誰も見張っていないはずよ」
湊は、頭の中で、来た道をたどった。
歯車の回廊は、水が歯車を回しているせいで、隙間が通路の上に来る時がそろわない。来たときは、ノアが格子の下の水の音を聞いて、通る時を読んだ。炉の間には、まだ胸の炭を熾した『鉄の番犬』が一頭、残っている。番犬には目がない。かわりに、熱を感じて獲物を探す。そして、湊の体は、まだ熱を持っている。
「番犬が、一頭いる」
「知ってるわ。あなたの熱が下がるまで待つ。それから、あなたを背負って行く」
「回廊の歯の下は、背負ったままじゃ、くぐれない」
「なら、引きずるわ」
リシェルは、少しも笑わずに言った。
湊は、黙った。リシェルが本気だということは、わかっていた。そして、その道が、たしかに逃げ道だということも、わかっていた。
「……熱が下がるまで、考えさせてくれ」
「考えるのは、いいわ。でも、外に出て、あの男と戦うなんて言わないで」
湊は、答えなかった。
その日、湊は二度、立とうとした。
一度目は、昼すぎだった。柱に右の肩を押しつけて、背中で柱を這いあがるようにした。ひざが伸びきる前に、左の足首が重さを拒んだ。湊はまた、床に座りこんだ。
二度目は、夕方だった。今度は、ノアが湊の右の脇の下に肩を入れた。国境の森の沢で、湊を支えたときと同じやり方だった。リシェルは反対側から、吊った左腕にさわらないように、湊の腰を抱えた。
湊は、立った。
立っていられたのは、ほんの短いあいだだった。胸の中で骨がこすれ、息が細くなり、目の前に黒いまだらが広がった。湊は、二人に支えられたまま、ゆっくりと腰を下ろした。
「立てた」
ノアが言った。
「……少しだけな」
「少しでも、立てた」
ノアは、湊の顔をのぞきこんで、もう一度言った。
巨人の胸の熾火が、ゆっくりと明るくなった。
*
転移二十一日目の朝、湊の熱は、少しだけ下がっていた。
巨人の熾火のそばで、二晩眠ったせいかもしれない。顔と背中の、燃えるような熱さが引いて、体の芯の寒さも薄れていた。
湊は、自分の足の裏を見た。巨人の熱い太ももをかけあがったときの火傷が、赤くふくれたまま、ところどころ破れている。このままでは、立っても、一歩ごとに焼けた鍋を踏むことになる。
「……治癒」
湊は、頭の中ではっきりと思った。右の手のひらを、左の足の裏にかざす。
ろうそくの火ほどの、灰色の光が出た。光は、破れた皮の縁を、ゆっくりと寄せていった。息を三つするあいだで、光は消えた。目の前が暗くなり、湊は柱に頭をあずけた。
「使わないでって、言ったわよね」
リシェルの声が、すぐそばでした。
「……肋骨じゃない。足の裏だ。小さい傷なら、閉じられる」
湊は、目を閉じたまま答えた。足の裏の一番ひどいところは、薄い皮で閉じていた。右の足の裏にも同じことをすると、また目の前が暗くなった。それでも、気は失わなかった。
昼前に、リシェルが一本の鉄の棒を持ってきた。
おとといの戦いで、巨人の振りおろしに折れまがった、北の壁ぞいの床板のそばに落ちていたものだ。親指と人差し指の輪ほどの太さで、長さは湊の脇の下に届く。片方の端が、平たくつぶれていた。
「白樺の杖のかわりよ」
リシェルは、平たいほうの端に、マルタの荷の空いた麻袋を巻きつけた。脇の下に当てても、痛くないようにするためだった。
湊は、その棒を右の脇に挟んで、立った。
右足と、鉄の棒。左の足首には、ほとんど重さをかけない。国境の森で、白樺の杖を使っていたときと同じ歩き方だ。違うのは、胸だった。一歩ごとに、折れた骨が胸の中で鳴った。
湊は、柱から柱へ、南の壁ぞいを歩いた。四本目の柱で止まって、息をした。それから、引き返した。
ノアは、湊のうしろについて、同じ柱で止まり、同じ柱で引き返した。
昼すぎから、谷から吹きあげる風が強くなった。
扉のすき間から、外の匂いが流れこんでくる。松の匂い、雪の匂い、焚き火の煙。丁子の油の匂いは、昨日と同じ松のあたりにとどまっている。
夕方、その風の中に、ちがう匂いが混じった。
乾いた花のような、甘く冷たい匂い。
湊の角のつけ根が、焼けた針を刺されたように痛んだ。
光の匂いだった。谷のずっと下から、風に乗って上がってくる。光の匂いの下に、たくさんの馬の汗と、磨いた鉄の匂いがあった。
「……来てる」
湊は言った。
「白い外套よね」
リシェルが、剣の柄に手をかけた。
「ああ。まだ、谷の下だ。でも、一人や二人じゃない」
日が沈むころ、扉の外から、コールの声がした。
「灰角。匂いで、もうわかってるだろう」
湊は、鉄の棒をついて立ち、扉のすき間に近づいた。鉄巨人の右手が、すき間の前に壁のように置かれている。その指の隙間から、外の焚き火の明かりが見えた。
コールは、焚き火のそばに座っていた。顔の下半分を覆う布は、首まで下ろしている。
「昼に、こいつを下まで見に行かせた」
コールは、隣の弩の男をあごで示した。
「峠の下の、川の渡しに、白い外套が十騎ほどいる。今夜は川の向こうで野営だろう。明日の昼すぎには、この崖の上だ」
「……なんで、教える」
湊は、ひゅうひゅうと鳴る息のあいだから聞いた。
「言ったろう。あいつらに先を越されるのは、気に食わねえ」
コールは、焚き火に枝を一本くべた。
「白い外套が来たら、お前は生きて大聖堂へ行くか、ここで焼かれるかだ。どっちにしても、俺の手順じゃねえ」
湊は、指の隙間から、コールの顔を見た。
聞いておきたいことが、一つあった。
「おまえと、ヴィックで……灰角の森を、三つ、つぶしたと、言ったな」
「言った」
「最後の森で、女が一人、捕まった。……その女は、どこへ行った」
うしろで、ノアが息をのむ音がした。
コールは、すぐには答えなかった。焚き火が、ぱちんと鳴った。
「灰色の髪の、角の短い女だ。何をされても、ガキの名前を言わなかった。……覚えてるよ」
コールは、ゆっくりと言った。
「だが、売った先の話はしねえ。賞金稼ぎは、客の話はしない。それも、俺の手順だ。俺に勝っても、言わねえ。死んでもな」
コールは、それきり口を閉じた。
湊は、扉のすき間から離れた。
振り返ると、ノアが、巨人の指のそばに立っていた。母の上着の裾を、両手で握りしめている。
「……あのひと、おかあさんを、知ってる」
ノアの声は、ふるえていなかった。ふるえないように、こらえている声だった。
「ああ」
湊は、それだけ言った。
*
夜がふけて、ノアは巨人の指のあいだで眠った。
湊は、柱にもたれて、扉のすき間の外の暗がりを見ていた。焚き火は小さくなり、外の話し声もとだえている。
そのとき、扉のすき間に、足音が一つ近づいてきた。
湊は、鼻で浅く息を吸った。弦にぬる蝋と、金具の油の匂い。弩の男だった。
リシェルが、音を立てずに剣を抜いて、扉の脇に立った。
足音は、巨人の手の指の隙間の、手前で止まった。
「灰角。起きてるか」
低い、かすれた声だった。
「……起きてる」
「旧坑で、お前は俺を殺さなかった」
弩の男は、扉の外の暗がりに立ったまま言った。顔は見えない。
「喉に刃を当てられたのは、覚えてる。気がついたら、生きてた。……崖の上で、お前の背中を外したのは、わざとだ。これで、貸し借りはなしだ」
「……そうか」
「明日、頭とやるなら、俺は撃たねえ。ブルーノにも、手は出させねえ。頭が、そう決めた。一対一だってな」
弩の男は、少し黙った。
「頭は、強えぞ。弟より、ずっとな」
足音が、焚き火のほうへ戻っていった。
リシェルが、剣を鞘に戻した。それから、湊の前に座った。
「行くのね」
湊は、うなずいた。うなずくだけで、肩が痛んだ。
「……逃げ道があるのは、わかってる」
湊は言った。
「回廊を戻れば、グンナルのところへ出られる。でも、コールは、追ってくる。グンナルの坑にも、マルタの家にも、来る。白い外套も来る。……どっちも、俺が、ここで終わらせないかぎり、ついてくる」
「それだけ?」
リシェルは、湊の目を見て聞いた。
湊は、すぐには答えられなかった。
それだけではなかった。リシェルには、わかっているのだと思った。
「……ヴィックを殺したとき、ヴィックの覚えてることが、少しだけ、流れこんできた」
湊は、ノアの寝ているほうを見てから、声を落とした。
「隊長のときも、そうだった。目を見て、とどめを刺すと、そいつが、いちばん強く覚えてることが、見える。……俺の《継承》は、そういうものらしい」
リシェルの顔から、表情が消えた。
「だから、あの男の目を見て、殺すのね。ノアのお母さんの行き先を、知るために」
「ああ」
「それは、盗むってことよね」
「……ああ」
湊は、正直に言った。
「灰角は、人の名前を盗むって、言われてる。俺がやろうとしてるのは、もっとひどい。人の、覚えてることを盗むんだ」
リシェルは、長いあいだ黙っていた。
「森では、選べなかった」
湊は、続けた。
「ヴィックは、ノアに刃を振りあげてた。斬らなきゃ、ノアが死んでた。……今度は、ちがう。逃げ道がある。斬らなくても、俺は、たぶん生きられる。だから、選ぶんだ。自分で」
リシェルは、湊の右手の指先を取った。
「わたしは、どこにいればいいの」
「扉の前に、いてくれ。ブルーノが動いたら、止めてくれ。……それと、俺が負けたら、ノアを連れて、回廊を戻ってくれ」
「負けたらなんて、言わないで」
「言っておかないと、おまえは、来るだろう」
リシェルは、答えなかった。かわりに、湊の指を一度だけ強く握って、離した。
転移二十二日目の夜明けが来た。
扉のすき間の光が、黒から灰色に、灰色から白に変わった。
湊は、鉄の棒をついて立った。腰ひもの右に差した《欠けた月》の布を、ほどく。黒パンを包んでいた布が、床に落ちた。むきだしの刃を、右手に握る。指の骨まで冷えた。
鉄の棒は、扉の内側の柱に立てかけた。戦うには、右手が一本しかない。
ノアが、巨人の指のそばから湊を見ていた。
「ミナト」
「なんだ」
「……かえってきて」
ノアは、それだけ言った。
「ああ」
湊は、巨人を見上げた。
「通してくれ」
ガラスの目が、湊の角を見た。それから、扉のすき間の前に置かれていた右手が、ゆっくりと持ちあがった。
湊は、自分の足で、扉の外へ出た。
崖の上の岩の広場に、夜明けの冷たい風が吹いていた。
大扉を背にして立つと、広場の右手は切り立った崖で、下は深い谷だ。左手のふちに、古い松が三本並ぶ。峠道は、二本目と三本目の松のあいだから北の谷へ下っている。
コールは、二本目の松の前に立っていた。手には、湊の背丈ほどの柄の、短い槍。湊から、十歩ほど先だ。
ブルーノと弩の男は、三本目の松の根元に座っていた。坑夫二人の姿は、どこにもない。夜のうちに、峠を下りたのだろう。
リシェルが、扉のすき間の外に立った。ノアは、巨人の手の甲の上に乗って、投石の紐を握っていた。
湊は、まっすぐコールのほうへは歩かなかった。
右へ、崖のふちのほうへ、六歩歩いた。鉄の棒はもうない。一歩ごとに左の足首がきしみ、胸の中で骨が鳴った。崖のふちまで、あと三歩というところで止まり、コールのほうへ向きなおった。
背中に、谷がある。谷から吹きあげる風が、湊の背中を押している。
コールが、湊を見て、それから湊のうしろの谷を見た。
「……風上を取ったか」
コールは、腰の袋にかけていた左手を、離した。
硫黄の玉を投げれば、煙は風に乗って、投げたコールのほうへ流れていく。湊は、そのためにここに立ったのだった。
「うしろは、崖だぞ」
「知ってる」
「一歩でも下がったら、落ちる」
「だから、下がらない」
コールは、顔の下半分の布を、首まで下ろした。白いものの混じった髭の下で、口の端が、わずかに上がった。
「いい手順だ」
湊は、頭の中で、自分の手順を唱えた。
一つ。崖を背にする。風は、俺の背中から吹く。硫黄は使えない。
二つ。コールは、左を突く。刃の届かない、吊った左腕の側を、浅く速く突いて、すぐに引く。柄は、刃の前に出さない。旧坑でも、そうだった。
三つ。だから、引かせない。突かせて、左の腕と胸のあいだで、柄をはさむ。
四つ。はさんだら、右の刃で、柄を切る。
三つ目の手順は、折れた肋骨の上で槍を受けることだった。それが、どれくらい痛いのか、湊には考えたくなかった。
風上に立てば、硫黄は使えない。そのかわり、コールの匂いも、湊の鼻には届かない。風は、湊の背中から前へ吹いている。湊は、自分の鼻を、自分で捨てたのだった。
ここから先は、目で見るしかなかった。
コールが、歩きだした。
急がない足取りだった。槍の穂先を、湊の胸の高さに向けたまま、まっすぐ近づいてくる。十歩が、八歩になり、六歩になった。
四歩のところで、コールは止まった。
槍の届く距離だった。湊の《欠けた月》は、前腕ほどの長さしかない。ここからでは、どれだけ腕を伸ばしても、コールには届かない。
湊の左手に大扉、正面に松。右手は、崖のふちに沿って、広場の北の端まで岩が続いている。うしろは、谷だ。
コールの槍が、動いた。
一度目の突きは、湊の左の肩を狙っていた。胸に吊った左腕の、すぐ上だ。
湊は、穂先が来る線を見た。体を右へひねる。穂先が、吊り布の端をかすめて、布が裂けた。
湊は、ひねった勢いで右手の刃を振った。穂先の手前の柄を、払うつもりだった。
刃は、空を切った。
コールは、もう槍を引いていた。突くのと、引くのが、一つの動きになっている。柄は、一度も刃の前に出てこなかった。旧坑のときと、同じだった。
二度目の突きは、低かった。湊の左の腿だ。
湊は、うしろへ下がれなかった。かかとのうしろは、崖のふちだ。湊は、左の腿を外へ開いて、穂先をよけようとした。
よけきれなかった。
穂先が、左の腿の外側を浅く裂いた。灰月の夜にヴァルターの剣で斬られた、同じあたりだった。熱い線が走り、麻の布に血がにじんだ。
「下がれねえってのは、そういうことだ」
コールは、もう四歩の距離に戻っていた。
湊は、息を整えようとした。四分の一しか入らなかった。
三度目の突きが来た。また、左の肩だった。
湊は、今度はよけなかった。左の腕を、胸から少し浮かせた。穂先が腕と胸のあいだに入ってくるところで、はさむつもりだった。
遅かった。
湊が腕を締めるより先に、コールは槍を引いていた。穂先が、吊った左の前腕の外側をこすって抜けた。狼の牙の跡の上に、新しい熱い線ができた。
コールが、目を細めた。
「腕で、はさむ気か」
湊は、答えなかった。
「その腕じゃ、間に合わねえよ」
コールは、湊の左手のほうへ、二歩回りこんだ。大扉の側だ。湊も、崖のふちに沿って、体を左へ回した。
左の足首に、重さがかかった。
足首が、重さを拒んだ。ひざが、勝手に折れた。湊は、崖のふちの岩の上に、左のひざをついた。
「ミナト!」
扉のほうで、リシェルが叫んだ。
コールが、踏みこんできた。
今度の突きは、浅くなかった。槍の柄の尻まで両手で握り、肩から体ごと乗せて、湊の左の胸を突いてくる。吊った腕の下の、折れた肋骨の上。心臓のある側だ。
とどめの突きだった。
湊は、その突きを待っていた。
浅く突いて引く槍は、はさめない。けれど、とどめを刺す突きは、深い。深く突く者は、すぐには引けない。
湊は、ひざをついたまま、体を左へ回した。胸を、穂先に向けるのではなく、穂先の横へ逃がした。
穂先が、湊の左の脇腹をかすめた。肌が裂ける熱さが走った。槍の柄が、吊った左腕と、折れた肋骨のあいだに、深く入ってきた。
湊は、左の腕を締めた。
折れた骨が、胸の中で、いっせいにずれた。
湿った音が、体の内側から聞こえた。息が、まるごと消えた。目の前が、白から黒へ変わった。湊は、左の腕を締めたまま、離さなかった。腕にはもう、握る力などない。吊り布ごと、体の重さを全部かけて、柄を胸に押しつけていた。
コールが、槍を引いた。
槍は、動かなかった。
湊は、黒い視界の中で、右手の刃を振った。
柄の、コールの手の側。そこへ、肩から先の重さを全部乗せた。
手応えは、ほとんどなかった。樫の柄が、濡れた紙のように、斜めに断たれた。
コールは、断たれた柄を、すぐに捨てた。
捨てたのと同じ動きで、腰のうしろから短い刃物を抜いた。手のひらほどの刃の、坑夫が使う小刀だった。コールは、ひざをついた湊の首へ、上からそれを振りおろしてきた。
湊は、左の脇にはさんだ穂先を落とした。
それから、右の足で、岩を蹴った。
《疾駆》が、足を勝手に押しだした。半歩だけ、体が前へ出る。湊は、立ちあがりながら、頭を下げて、コールの胸の中へ飛びこんだ。
双角が、コールの胸の真ん中に当たった。
小刀が、湊の左の耳の上をかすめて、空を切った。コールの体が、うしろへ倒れた。湊も、そのまま重なって倒れた。小刀が、コールの手から離れて、岩の上を転がっていった。
二人は、崖のふちから五歩ほど内側の、岩の上に倒れていた。
湊は、コールの胸の上にいた。右手の刃を、コールの喉に当てていた。
息は、ほとんど入らなかった。胸の中が、焼けた石を詰めこまれたように重い。それでも、刃は動かさなかった。
コールの目が、湊を見上げていた。
灰色がかった、茶色の目だった。
ヴィックと、同じ色だった。
「……やれ」
コールが言った。声は、怒鳴りもせず、急ぎもしなかった。
湊は、すぐには刺さなかった。
刺さなくても、いいのだ、と思った。
このまま刃を引いて、立ちあがって、扉の中へ戻ればいい。巨人が、また手で壁を作る。回廊を戻れば、グンナルの坑へ出られる。逃げ道は、ある。
ヴァルターのときは、刺さなかった。あのときは、刺さないことを選んだ。
今は、刺すことを選ぼうとしている。
この男の目を見たまま殺せば、この男の覚えていることが、湊の中へ流れこんでくる。ノアの母が、どこへ送られたのか。それを、この男は、死んでも言わないと言った。
だから、湊は、言わせずに盗むのだ。
「目を、そらすなよ」
コールが言った。
「俺も、そらさねえ。……言ったろう。顔を見て殺すってな」
「……ああ」
湊は、コールの目を見た。
そらさなかった。
そして、刃を、喉に沈めた。
*
角のつけ根が、ちり、と痒くなった。
痒みは、すぐには止まらなかった。そして、匂いが来た。
風上に立っていた湊の鼻には、コールの匂いは届かないはずだった。それなのに、匂いがした。石炭の煙と、湿った岩と、ランプの油の匂い。それは、外の匂いではなかった。湊の中から、わいてくる匂いだった。
目の前が、ふっと暗くなった。灯りを吹き消したように、岩も、空も、コールの顔も、何も見えなくなった。
その暗闇の奥に、小さな灯りがともった。これは、コールが覚えていることだ、と湊にはわかった。
暗い坑道の中に、小さな男の子がいた。
男の子は、自分の体ほどもあるランプを、両手で抱えていた。顔は、石炭の粉で真っ黒だった。
「兄ちゃん、こっち。こっちのほうが、風がくる」
男の子は、そう言って、坑道の奥を指さした。湊の、いや、コールの手が、男の子の頭をなでた。小さな頭だった。
ヴィックだ、と湊は思った。
男の子の顔が、ランプの灯りごと、ふっと消えた。
また、目の前が真っ暗になった。
その暗闇の中へ、別の匂いが流れこんできた。これも、コールの覚えていることだった。さっきより、ずっとあとのことだ。
焼けた木と、赤い葉の匂い。秋の森だった。
煙を上げる、根の下の家。その前の道に、格子のはまった白い馬車が止まっていた。格子の中に、女が一人、座っていた。
灰色の髪。短い、親指の先ほどの角が二本。頬に、殴られた痕があった。
女は、馬車のまわりにいる誰のほうも見ていなかった。焼けている森の奥を、じっと見ていた。口は、固く閉じていた。
白い外套の男が、コールの手のひらに、銀貨の袋を落とした。
「ご苦労だった。この女は、大聖堂へ送る。名前を吐かせるのは、向こうの仕事だ」
馬車が、南へ動きだした。女は、最後まで、森から目を離さなかった。
馬車が森の道の先へ見えなくなると、目の前が、もう一度真っ暗になった。
暗闇が晴れると、湊は、崖の上の岩の広場に戻っていた。
コールの目は、もう湊を見ていなかった。灰色がかった茶色のまま、夜明けの空を映していた。
胸の奥が、熱くなった。ここしばらく感じていなかった、レベルが上がるときの熱だった。熱は三度、胸の奥で波のように広がって、消えた。
湊は、右手を刃から離そうとした。
指が、刃の形に固まって、離れなかった。
岩を踏む音がした。
三本目の松の根元で、ブルーノが立ちあがっていた。顔が赤黒くなり、両手で斧を握っている。
「てめえ……!」
ブルーノが、一歩踏みだした。
その腕を、弩の男がつかんだ。
「やめろ」
「離せ。頭が、殺されたんだぞ」
「頭が、自分で決めたことだ」
弩の男は、ブルーノの腕を離さなかった。
「一対一だと、頭は言った。……頭の手順を、俺たちが汚すのか」
ブルーノの肩が、大きく上下した。斧の刃先が、ふるえていた。それから、ブルーノは、斧を岩の上に落とした。ひざをついて、両手で顔を覆った。大きな背中が、ふるえていた。
リシェルが、走ってきた。
リシェルは、湊の右の手首をつかみ、刃にからみついた指を、一本ずつはがした。崖の上で、気を失った湊の指をはがしたときと同じだった。最後の指がはがれると、《欠けた月》が、コールの胸の上に落ちた。
「息、して」
リシェルが、湊の顔を両手ではさんだ。
湊は、息をしようとした。左の胸は、もうまったく動かなかった。右だけで、細い息を吸った。
「……生きてる」
「見ればわかるわ」
リシェルの声は、ふるえていた。
ノアが、巨人の手の甲から跳びおりて、駆けてきた。
ノアは、湊の前で止まった。それから、岩の上に横たわるコールを見た。長いあいだ、見ていた。
「……ミナト」
ノアは、湊の顔を見た。
「おかあさん、見えた?」
湊は、うなずいた。
「生きてた。……そのときは、生きてた」
ノアの目が、大きく開いた。
「格子の馬車に、乗せられてた。南へ、運ばれていった。大聖堂だ。……最後まで、何も言わなかった。森のほうを、ずっと見てた」
ノアは、何も言わなかった。母の上着の裾を、両手で握りしめた。それから、湊の右の肩に、額を押しつけた。
湊は、右手でノアの頭に触れた。小さな頭だった。
さっき、記憶の中でなでた頭と、同じくらいの大きさだった。
湊は、その手を、すぐには離せなかった。
湊は、口の中で小さく言った。
「ステータス」
視界の左上に、文字が並んだ。
〈ミナト 灰角族 Lv.19〉
レベルは、三つ上がっていた。能力値は、感知が一つ増えて6になっただけだった。灰角族の成長は、相変わらず遅かった。
スキルの欄の、いちばん下に、新しい一行が増えていた。
《見切り》1
槍の穂先が来る線。とどめの突きが、深くなる一瞬。コールが、いちばん長く磨いてきたものだった。相手の得物の長さと、届く距離が、言葉ではなく体の感じとして、湊の中にあった。
湊は、文字を消した。
そのとき、谷から吹きあげる風の匂いが変わった。
湊は、顔を上げた。
乾いた花の匂いが、昨日よりずっと濃くなっていた。角のつけ根が、焼けた針で刺されたように痛んだ。馬の汗。磨いた鉄。たくさんの人の息。白い外套の連中は、もう川を渡って、峠道を上りはじめている。
その匂いの中に、一つだけ、湊の知っている匂いがあった。
ブラムウェルの灰月の夜、井戸の縁で剣を打ちあったときに、一度だけ嗅いだ匂い。白い外套の下の、黒い詰襟の僧衣にしみた、乾いた汗の匂いだった。
「……ヴァルターだ」
湊が言うと、リシェルの手が、湊の肩の上で固くなった。
次の灰月の夜まで、あと二日だった。




