第二十三話 二度目の灰月
コールの体は、岩の上で、もう冷えはじめていた。
湊は、リシェルの肩を借りて、大扉のほうへ戻ろうとした。三歩目で、ひざが抜けた。左の胸はまったく動かない。右の胸だけで吸う息は、細い管から吸っているように頼りなかった。
「ここで、休んで」
リシェルは、湊を大扉のわきの岩に座らせた。それから、コールの胸の上に落ちていた《欠けた月》を、入口の間から拾ってきた黒パンの布で三重に巻いた。むきだしの刃は、ノアには冷たすぎて持てない。リシェルは、巻いた刃を湊の腰ひもの右に差した。
三本目の松の根元で、ブルーノが立ちあがった。
ブルーノは、岩の上の斧を拾わなかった。まっすぐコールのところへ歩いてきて、湊には目もくれずに、コールの体の下に両腕を差しこんだ。荷馬車の馬ほどもある肩に、コールの体が軽々と乗った。
弩の男が、そのうしろに立った。
「頭は、下へ連れていく」
弩の男は、湊に向かって言った。
「白い外套の連中に、頭を焼かれたくねえ。あいつらは、灰角を匿った者も、灰角に殺された者も、まとめて清めるからな」
「峠道は、一本だ。……白い外套と、すれちがうぞ」
湊は、細い息のあいだから言った。
「わかってる。訊かれたら、見たことを言う。灰角は扉の中だ、ってな。嘘をついたら、こっちが焼かれる」
弩の男は、少し黙った。それから、腰に下げていた革の袋を外して、湊の足もとに放った。袋の口から、腐った卵のような黄色い匂いがした。コールの硫黄の玉だった。
「頭の手順の、残りだ。四つ入ってる。……俺たちには、もういらねえ」
「……なんで、俺に渡す」
「頭が、いい手順だって言った相手だからだ」
弩の男は、そう言ってから、少しだけ付けくわえた。
「ロルフだ。名前くらい、覚えとけ。……お前は、顔を見て殺す奴なんだろう」
ロルフは、ブルーノのあとについて、二本目と三本目の松のあいだの氷の坂を下りていった。ブルーノの大きな背中の上で、コールの腕がゆれていた。
湊は、その背中が見えなくなるまで見ていた。
ノアが、湊の隣にしゃがんで、硫黄の袋を拾った。鼻の前に持っていって、すぐに顔をしかめた。
「くさい」
「ああ。……でも、使える」
湊は、袋を受けとって、腰ひもの左に結んだ。
*
昼すぎ、白い外套が崖の上に着いた。
湊は、入口の間の柱にもたれて、扉のすき間の外を見ていた。鉄巨人の右手は、また扉のすき間の前に置かれている。その指の隙間から、崖の上の広場がよく見えた。
氷の坂を、白い外套が一人ずつ上ってきた。馬は、坂の下に残してきたらしい。人ひとりの幅しかない氷の坂は、馬には上れない。上りきった者から順に、広場に横へ並んでいく。数えると、十人いた。九人は兜をかぶった聖騎士で、白い外套の下に鎖の鎧を着ている。
十人目は、兜をかぶっていなかった。
白い外套の下に、黒い詰襟の僧衣。後ろへなでつけた、灰色の多い金髪。痩せた頬。審問官のヴァルター・クロイツだった。ブラムウェルの灰月の夜、湊が井戸の縁で組み伏せ、刺さずに剣だけを切った男だ。
腰には、新しい剣が下がっていた。
ヴァルターは、広場の真ん中で足を止めた。コールが倒れていた岩の上に、黒くなった血が残っている。ヴァルターはしばらくそれを見下ろしてから、大扉のほうへ歩いてきた。巨人の指の手前、五歩のところで止まった。
光の匂いが、扉のすき間から流れこんできた。乾いた花のような、甘く冷たい匂いだ。湊の角のつけ根が、焼けた針を刺されたように痛んだ。
「ダリックを、殺したそうだな」
ヴァルターは、こちらを見ずに言った。井戸の縁でも、この男は最初、こちらを見なかった。
「坂の下で、ダリックの手下とすれちがった。灰角は扉の中だと、正直に言った。……ああいう男は、正直だ。金のためにしか、嘘をつかん」
「……何をしに、来た」
湊は、柱にもたれたまま言った。
「審問官は、灰角を捕らえに来る。ほかに何がある」
ヴァルターは、巨人を見上げた。大皿ほどのガラスの目が、ヴァルターを見下ろしている。巨人の胸の奥の熾火が、少しだけ明るくなった。
「工房の、鉄の番人か。……アーデンフォードの記録にあった。角のある鍛冶師が作り、角のある者を守る、とな。爺さんは、作り話だと書き添えていたが」
扉の脇で、リシェルが息をのむ音がした。アーデンフォードの家の記録の原本は、教会に取り上げられている。ヴァルターはそれを読んでいる。リシェルが礼拝堂で言ったとおりだった。
「灰月まで、あと二日だ」
ヴァルターは言った。
「二日待てば、お前は、その傷のままでも少しは動けるようになる。俺は、それを知っている。……井戸の縁で、言ったな。次は、待たんと」
「……なら、どうする」
「待つのではない。囲むのだ」
ヴァルターは、それだけ言った。
そのとき、湊のうしろから、小さな足音が近づいてきた。ノアだった。ノアは、母の上着の裾を握って、巨人の指の隙間の前に立った。
「ノア。下がれ」
ノアは、下がらなかった。
「……白いひと」
ノアの声は、かすれていた。
「去年の秋に、格子の馬車で運ばれた、灰色の髪のひと。……そのひと、どこにいるの」
ヴァルターが、初めてこちらを見た。色のない、冷たい目だった。その目が、ノアの角と、ノアの体には大きすぎる大人の上着を、ゆっくりと見た。
「名前を言わなかった女か」
「……うん」
「大聖堂にいる。俺が知っているのは、そこまでだ」
ヴァルターは、それ以上は言わなかった。ノアに背を向けて、聖騎士たちのところへ戻っていった。
ノアの手は、母の上着の裾を、指が白くなるほど握りしめていた。湊は、右手をノアの肩に置いた。ノアは、振りはらわなかった。
夕方、聖騎士のうち五人が、氷の坂を下りていった。
「……五人、帰ったの?」
リシェルが言った。
「帰ったんじゃない」
湊は、頭の中で、この山のまわりの道をたどった。峠を下りて、谷を回り、グリムホルトの町へ戻る。町の上の坑の口から旧坑に入り、ドワーフのグンナルの坑道を抜ける。その先には、湊たちが開けて入ってきた、工房の鉄の壁がある。鉄の壁から炉の間、歯車の回廊を通れば、この入口の間に出る。
「俺たちが来た道を、逆に来るんだ。うしろからな。……囲むってのは、そういうことだ」
リシェルが出した逃げ道を、ヴァルターは塞ぎにきたのだった。
「どのくらいで、来るの」
「谷を回るのに、一日。坑道を抜けるのに、半日。……早くて、あさっての夜だ」
あさっての夜は、灰月の夜だった。
*
転移二十三日目の朝、聖騎士の一人が、巨人に手を出した。
その聖騎士は、銀の瓶を持って、扉のすき間の前に置かれた巨人の右手に近づいた。瓶の中身は、白月の聖水だ。灰角の肌に落ちれば、煮えた油のように焼ける。聖騎士は、巨人の指のつけ根に、聖水を浴びせた。
聖水は、巨人の黒い鉄の肌の上を、ただの水のように流れ落ちた。煙も上がらず、焼ける音もしなかった。
巨人のガラスの目が、聖騎士を見た。
次の瞬間、巨人の右手が床から浮いた。手の甲が、外へ向かって横に払われた。聖騎士は胸を打たれ、広場の岩の上を三回転がって、松の根元で止まった。鎖の鎧の胸が、へこんでいた。うめき声が、湊のところまで届いた。生きてはいる。
巨人の手は、すぐに扉のすき間の前に戻った。
ほかの聖騎士たちが、いっせいに剣を抜いた。ヴァルターの左手が、上がった。
「やめろ」
聖騎士たちが、止まった。
「あれは、光で焼けるものではない。剣で斬れるものでもない。……鉄の人形と、力くらべをしに来たのではない」
ヴァルターは、倒れた聖騎士を運ばせると、松の根元の焚き火のそばに座った。コールが座っていたのと、同じ場所だった。
ノアが、巨人の指に手を当てた。
「……ありがとう」
巨人は、何も言わなかった。胸の熾火が、一度だけ明るくなった。
その日の夕方、湊は、扉のすき間から吹きこむ風の中に、ヴァルターの汗の匂いを探した。
見つからなかった。
焚き火のそばには、聖騎士が三人いた。巨人に払われたけが人を入れると、四人になる。昼すぎまで焚き火のそばにあったヴァルターの匂いは、氷の坂のほうへ下りていって、そのまま谷の底へ消えていた。
「ヴァルターが、いない」
湊は、リシェルに言った。
「先に行った五人を、追いかけたんだ。……あいつは、うしろから来る。自分でな」
ブラムウェルの灰月の夜も、ヴァルターは聖騎士に任せず、井戸の縁で一人で待っていた。今度も、自分の手で来る。湊には、それがわかった。
その夜、湊は、柱にもたれたまま、リシェルとノアに手順を話した。いつものように、一つずつ唱えた。
一つ。うしろから来る者たちは、炉の間を通る。炉の間には、『鉄の番犬』が一頭残っている。番犬には目がない。かわりに、熱を感じて獲物を探す。坑道を来る者は、松明かランプを持っている。火は、いちばん大きな熱だ。番犬は、火を持つ者に向かっていく。
二つ。『歯車の回廊』は、拍がそろわない。左右の壁に埋まった大きな歯車の歯が、通路の上を横切って下りてくる組が三つある。歯と歯の隙間が通路に来たときだけ、身をかがめて抜けられる。その時を、ノアは格子の下の水の音で読める。ほかの者には読めない。
三つ。だから、回廊の出口で迎える。来る者は、いちばん手前の三つ目の歯の下で、一人ずつしか抜けてこられない。
四つ。灰月の夜なら、俺は動ける。
「そのあとは?」
リシェルが聞いた。
「回廊で止めたら、表から出る」
「表には、四人いるわ。それに、巨人の手が、扉の前にある」
「巨人は、前に、扉を開けてくれた」
「前は、前よ」
「……そのときは、これを使う」
湊は、腰ひもの左に結んだ硫黄の袋に、右手を置いた。
リシェルは、しばらく湊の顔を見ていた。それから、短く息を吐いた。
「あなたの手順は、いつも、最後のところが雑なのね」
「……知ってる」
ノアが、巨人の指のあいだから顔を出した。
「水の音なら、わかる。あの子の歯車は、ずっと、聞いてたから」
*
転移二十四日目の日が沈んだ。
扉のすき間の向こう、東の山の上に、左の欠けた月が昇った。灰月だ。
湊の体の中で、何かがゆるんだ。
首筋が、内側からほどけていくような感じがした。胸の痛みが、厚い布の向こうへ遠ざかった。骨が治ったわけではない。左の胸は、まだ動かない。それでも、右の胸だけで吸う息が、昼よりずっと深く入った。
湊は、口の中で小さく言った。
「ステータス」
視界の左上に、文字が並んだ。
〈ミナト 灰角族 Lv.19〉
能力値は、魔力のほかはどれも一つずつ増えていた。筋力と耐久は6、敏捷は5、精神は6、感知は7。どの数字の横にも、薄い灰色で、もとの数字が小さく並んでいる。最下段の〈器:―〉の上に、〈状態:灰月〉の一行が増えていた。
湊は、文字を消して、鉄の棒をつかずに立った。左の足首に重さをかけても、きしまなかった。
腰ひもの右から《欠けた月》を抜き、黒パンの布をほどいた。扉のすき間から差しこむ灰月の光を吸って、刃が薄く光った。刃の奥で、冷たいものが震えていた。
夜がふけたころ、入口の間の東の奥、回廊の口のずっと向こうで、鉄の鳴る音がした。
がしゃん、と重い音。それに、人の叫び声が重なった。
湊は、鼻で息を吸った。何の匂いもしなかった。谷からの風は、扉のすき間から入って、入口の間を抜け、回廊の奥へ吹いていく。こちらが風上だ。うしろから来る者の匂いは、湊の鼻には届かない。
頼れるのは、耳だけだった。
「番犬だ」
湊は言った。鉄の体がぶつかる音と、人の叫び声。炉の間で、それ以外の音がするとは思えなかった。
「火を持ってるやつに、かみついたんだ」
叫び声は、すぐにやんだ。鉄の音も、やんだ。かわりに、たくさんの足音が、こちらへ近づいてきた。
三人は、回廊の口へ移った。
『歯車の回廊』は、天井の高い、まっすぐな通路だ。床は鉄の格子で、その下を水がうなりながら流れている。天井近くの岩の裂け目から、灰月の光が帯になって差しこんでいた。左右の壁に半分ずつ埋まった巨大な歯車が、水に回されて、きしみながら動いている。歯は湊の背丈より大きい。その歯が、通路の上を横切って下りてきて、また上がっていく組が、三つある。
湊は、入口の間の側の口に立った。いちばん手前の、三つ目の歯車から、四歩ほど手前だ。右の肩を壁につけた。リシェルは、通路の反対側の壁ぎわに、双剣を抜いて立った。ノアは、湊のうしろで格子に耳をつけて、水の音を聞いていた。
回廊の奥、一つ目の歯車の向こうに、松明の火が見えた。
火は三つ。その光の中に、白い外套が五つあった。番犬に一人やられて、五人。先頭の聖騎士は、剣ではなく、柄の短い手槍を持っていた。狭い通路で使うためだろう。いちばんうしろに、兜のない男がいた。
ヴァルターだった。
聖騎士たちは、一つ目の歯車の下で、止まっては走り、止まっては走って、近づいてきた。歯が下りてくるたびに、誰かが格子に這いつくばった。二つ目の歯車も、同じように抜けてきた。拍がそろわないので、時間がかかっている。
先頭の手槍の聖騎士が、三つ目の歯車の向こうで止まった。
「……つぎ、すぐ、くる」
ノアが、湊のうしろでささやいた。
「長い。いまのは、長いすきま」
歯が上がっていき、通路に隙間ができた。手槍の聖騎士が、身をかがめて、その下へ飛びこんできた。
聖騎士は、歯の下を抜けると、立ちあがりながら、湊の胸へ手槍を突きだした。
湊には、その穂先が来る線が見えた。
見えた、というのとは、少しちがった。この槍が、どこまで届くのか。突きが、どの一瞬で深くなるのか。それが、言葉ではなく、体の感じとしてわかった。コールが、いちばん長く磨いてきたもの。《見切り》だった。
穂先は、湊の胸の手前、手のひら一つ分で止まる。湊は、それを知っていた。だから、下がらなかった。半歩だけ右へ体をずらし、届ききった槍の柄が伸びきる一瞬を待った。
突きが深くなった。
湊は、伸びきった柄の、穂先の手前に、灰月の光を吸った刃を振りおろした。手応えはなかった。手槍の柄が、まっすぐに断たれた。
聖騎士は、穂先のなくなった柄を握ったまま、うしろへよろめいた。そのうしろで、三つ目の歯が、通路へ下りてきていた。
「くる!」
ノアが叫んだ。
リシェルが、壁ぎわから跳びだした。聖騎士の帯をつかんで、こちら側へ引き倒した。下りてきた歯が、聖騎士の足のすぐうしろの格子を打ち、火花が散った。リシェルは、倒れた聖騎士の兜を、剣の柄頭で二度打った。聖騎士は動かなくなった。
歯は、またゆっくりと上がっていった。
そのとき、湊の角のつけ根が、焼けた針を刺されたように痛んだ。匂いはしない。それでも、光が近づくと、角は痛む。
湊は、顔を上げた。三つ目の歯車の向こう、通路の真ん中に、ヴァルターが立っていた。聖騎士たちを、いつのまにか追いこしてきていた。剣を右手に提げたまま、左手を前に出している。その手のひらの先で、白い光が、槍の形にまとまっていった。
光の槍だ。ゲームでは三本続けて撃ってくる、ヴァルターの技だった。
歯が上がりきり、隙間が通路に来た。光の槍が、その隙間をまっすぐに抜けてきた。
井戸の縁では、撃つ直前に濃くなる光の匂いで、撃つ瞬間を読んだ。今夜は、鼻が使えない。湊は、ヴァルターの手のひらの光が、いちばん明るくなる一瞬を目で待った。
湊は、よけなかった。うしろには、ノアがいる。
湊は、灰月の光を吸った刃を、光の槍の来る線に置いた。
光が、刃に当たって二つに裂けた。裂けた光は湊の左右を抜けて、うしろの壁に当たり、鉄を赤く焼いた。焼けた端が、湊の右の頬をかすめた。煮えた油の熱さが走った。けれど、灰月の夜の痛みは、厚い布の向こうにあった。
「……同じ手は、二度は通じんか」
ヴァルターが言った。灰月の夜、井戸の縁でも、湊はこうして光の槍を裂いた。
ヴァルターのうしろで、三人の聖騎士が、二つ目の歯の下から抜けてこようとしていた。
湊は、息を吸った。
左の胸は動かない。それでも、灰月の夜の右の胸には、深い息が入った。湊は、その息を全部、まっすぐな鉄の通路の奥へ向けて吐きだした。
《咆哮》だった。
灰月の夜の声は、かすれなかった。狼の声は、鉄の壁と、鉄の格子と、鉄の歯車に当たって、何十にも重なって返ってきた。回廊ぜんたいが、一つの筒になった。ブラムウェルの井戸の縦穴で出したときと同じように、それは一頭の声ではなく、群れの声になった。
聖騎士たちが、松明を取りおとして、耳を押さえた。一人が、二つ目の歯車の下の格子に、ひざをついた。ヴァルターの左手の先で、作りかけていた二本目の光がほどけた。
「戻るぞ」
湊は言った。
三人は、回廊の口から入口の間へ走った。灰月の夜の左の足首は、走ってもきしまなかった。
*
入口の間の真ん中、丸い鉄の網の手前まで来たところで、うしろから足音がした。
一人だけの足音だった。
湊は振り返った。回廊の口に、ヴァルターが立っていた。三つ目の歯の下を、一人で抜けてきたのだ。ノアのように水の音を読んだのではない。さっき手槍の聖騎士が抜けたのを見て、拍の長さを覚えたのだろう。井戸の縁でも、この男は、一度見た手順を二度目には読んでいた。
聖騎士たちは、まだ追いついてこない。
ヴァルターと湊のあいだは、二十歩ほど。湊のうしろ、四十歩先に大扉があり、その前に鉄巨人が座っている。巨人の右手は、扉のすき間の前に置かれたままだった。
「娘」
ヴァルターは、湊ではなく、ノアを見て言った。
「母のことが知りたければ、大聖堂へ来い。……灰角は、いずれ、みなあそこへ来る」
ノアが、湊の吊り布の端をつかんだ。
ヴァルターの左手が、上がった。湊の角のつけ根が、焼けるように痛んだ。光が、手のひらの先で槍の形になる。狙いは、湊の胸だった。
湊は、刃を光の来る線に置こうとした。
それより先に、黒い鉄の壁が、湊の前に下りてきた。
鉄巨人の、左の手のひらだった。巨人が、座ったまま腕を伸ばして、湊とヴァルターのあいだに手を置いたのだ。光の槍が、その手のひらに当たって砕けた。白い光が、火花のように散った。
巨人が、立ちあがった。
人の背丈の四倍の体が、天井の暗がりまで伸びた。胸の熾火が、炎になった。大皿ほどのガラスの目が、赤く燃えて、ヴァルターを見下ろした。
「……そうか」
ヴァルターは、巨人を見上げたまま言った。
「お前も、灰角の側か」
巨人の右手が、扉のすき間の前から離れた。その手が、大扉の内側に当てられ、ゆっくりと外へ押した。鉄の扉が、重い音を立てて開いていった。外の灰月の光が、入口の間の床に、白い四角になって流れこんだ。
谷から吹きあげる夜の風が、扉から入口の間へ吹きこんできた。
湊の頭の中で、手順が一つ、組みあがった。
一つ。風は、外から中へ吹いている。
二つ。硫黄の煙は、風に乗る。
三つ。扉の外で割れば、煙は、この部屋の奥へ流れる。
「行け!」
湊が言うと、リシェルがノアの手を引いて、扉の外へ走った。湊も、そのあとを追った。扉の外の岩に右足をついたところで、湊は振りかえり、腰ひもの左の袋から硫黄の玉を二つ取りだして、扉の内側の床へ投げた。
玉は床に当たって割れ、黄色い煙を噴きだした。
煙は、風に押されて、入口の間の奥へ、ヴァルターのほうへ転がっていった。風上に立つ湊のほうへは、少しも流れてこなかった。煙の向こうで、ヴァルターが咳きこむ声がした。
巨人は、扉の内側に立っていた。
巨人は、外へは出てこなかった。両手を大扉の内側に当てて、今度は、扉を閉めはじめた。
湊は、閉じていくすき間から、巨人のガラスの目を見た。目は、湊の角を見ていた。
〈鉄の巨人は主を待つ。主の名を、まだ知らぬまま〉
ゲームで、戦いの前に一度だけ出る一行だった。
「……いつか、名前を持ってくる」
湊は言った。言ってから、なぜそう言ったのか、自分でもわからなかった。
大扉が、閉まった。山の奥で鐘を鳴らしたような、重い音がした。
広場の焚き火のそばで、聖騎士が三人、立ちあがっていた。もう一人は、巨人に胸を払われた男で、松の根元に寝たまま起きてこない。三人は、閉まった大扉と、その前に立つ灰角二人と人間の娘を見て、剣を抜いた。剣の刃に、白い光がまとわりついた。
「ミナト、右の二人はわたし」
リシェルが、双剣を構えて言った。
「左の一人は、俺だ」
左の聖騎士が、湊に向かって走ってきた。光を纏った剣を、上から振りおろしてくる。
灰月の夜でないとき、湊の刃は、この光の膜の上で滑った。国境の森で、隊長と戦ったときがそうだった。
今夜は、灰月の夜だった。
湊は、振りおろされる剣の線に、灰月の光を吸った刃を下から振りあげた。光の膜が裂け、剣が鍔の上で断たれた。断たれた剣の先が、くるくると回って岩の上に落ちた。
聖騎士が、鍔だけになった剣を見た。その一瞬に、ノアの石が、聖騎士の兜のこめかみに当たった。聖騎士は、横に倒れた。
右では、リシェルが一人目の剣を右の剣で流し、柄頭で兜を打って倒していた。二人目は、仲間が二人とも倒れたのを見て、うしろへ下がった。
「坂へ!」
湊は言った。
三人は、二本目と三本目の松のあいだの、氷の坂へ走った。坂は、人ひとりの幅で、表面が灰月の光にぬれたように光っていた。リシェルが先に、座ったまま滑りおりた。ノアがそれに続き、湊が最後に、右手で松の根をつかみながら滑りおりた。
坂の下の平らなところに、聖騎士たちの馬が、松の幹につながれていた。見張りはいなかった。崖の上に残った四人は、全員が広場にいたのだ。
リシェルは、二頭の手綱を解いた。残りの馬は、手綱を剣で断ち、尻を叩いて、谷の暗がりへ散らした。
「乗れる?」
「……右手だけなら」
リシェルは、ノアを抱えあげて自分の馬の鞍の前に乗せ、自分もその後ろに乗った。湊は、もう一頭の鞍の前の出っぱりを右手でつかみ、灰月の夜の脚で、なんとか鞍にはいあがった。リシェルは、湊の馬の手綱を、自分の鞍に結んだ。
上の広場で、聖騎士の声がした。坂を下りてくる足音は、なかった。馬がいなければ、追いつけない。
二頭の馬は、灰月の光の中を、北の谷へ下っていった。
*
夜明け前、二頭の馬は、谷の底の小さな沢のそばで止まった。
うしろから追ってくる匂いは、なかった。峠の上の光の匂いは、谷を下りるにつれて薄くなり、今はもう、湊の鼻にも届かない。
リシェルが、ノアを鞍から下ろし、湊を馬から引きおろした。湊は、沢のそばの苔の上に、背中から寝ころんだ。灰月は、西の山の肩に傾いていたが、まだ沈んではいなかった。胸の痛みは、まだ厚い布の向こうにあった。
ノアが、湊の隣に座った。
しばらく、誰も何も言わなかった。沢の水の音と、馬が草を食む音だけがしていた。
「……ノア」
湊は、灰月を見たまま言った。
「話しておくことがある。森で、ちゃんと話せるようになったら話すって、言ったことだ」
ノアが、湊の顔を見た。
「俺は、目を見て、とどめを刺すと、そいつの覚えてることが、少しだけ見える。……人の覚えてることを、盗むんだ。コールのときも、そうだった。お母さんの馬車は、そうやって見た」
ノアは、黙って聞いていた。
「森で、お前に刃を振りあげた男がいたろう。あいつを殺したときにも、見えた。……あの日の、お前のお母さんだ」
湊は、息を一つ吸った。
「白いやつらに、子どもの名前を言えって言われて、お母さんは、笑ってた。笑って、『名前なんか、つけてないよ』って言ったんだ」
ノアの目が、大きく開いた。
「……うそ」
「ああ。嘘だ。お前には、ちゃんと名前がある」
湊は、ノアのほうへ顔を向けた。
「お母さんは、名前を言わなかっただけじゃない。最初から、ないことにしたんだ。そうすれば、誰もお前を呼びだせない。……お前の名前を、隠すための嘘だった」
ノアは、長いあいだ、何も言わなかった。
それから、母の上着の胸のあたりを、両手でぎゅっと押さえた。そこには、何も描かれていない。けれど、ノアが押さえているのは、根の壁の絵の、自分の空っぽの丸のあたりだと、湊には思えた。
「……おかあさん、うそ、ついたんだ」
ノアの声が、初めて、ふるえた。
「わたしの名前、まもってくれたんだ」
ノアは、泣いた。声をあげずに、母の上着に顔をうずめて、肩をふるわせて泣いた。リシェルが、うしろからノアの背中に手を置いた。湊は、右手でノアの頭に触れた。
灰月の光が、少しずつ薄くなっていった。
ノアが、顔を上げた。目は赤かったが、もう泣いてはいなかった。
「大聖堂に、行く」
ノアは言った。
「おかあさんに、言う。ノアって、呼んでって。……わたし、自分で、言えたよって」
湊は、すぐには答えなかった。大聖堂は、聖王国の真ん中にある。教団の本拠地だ。ゲームでは、ヴァルターが待っていた場所でもある。今の湊の体で、行ける場所ではなかった。
それでも、湊は言った。
「ああ。行こう」
「わたしも行くわ」
リシェルが言った。
「借りは、作らない主義なの。……それに、ここから先は、自分で書くって言ったでしょう」
東の空が、白くなりはじめた。
灰月が、西の山の向こうへ沈んだ。
その瞬間、厚い布が、はがされた。
折れた骨の痛みが、全部、胸の中に戻ってきた。左の足首が、焼けた鉄をはめられたように熱くなった。息が、また四分の一しか入らなくなった。湊は、苔の上で体を丸め、声をこらえた。
痛かった。ゲームのときより、ずっと痛かった。
それでも、湊は、ここにいた。
グンナルの唄の続きは、まだ聞いていない。マルタへのつけも、まだ払っていない。鉄の巨人は、扉の内側で、名前を待っている。大聖堂には、ノアの母がいる。
「……ノア」
湊は、痛みのあいだから言った。
「なに」
「呼んだだけだ」
ノアは、少しだけ笑った。
「うん」
夜明けの光が、谷の底の沢に差しこんだ。転移二十五日目の朝だった。




