第二十四話 七つの石
湊は、苔の上で目を開けた。
谷の底は、もう明るかった。両側の斜面は、教会の塔を二つ重ねたほど高い。斜面には黒い樅がびっしりと生え、そのあいだを、幅が大股で三歩ほどの沢が北から南へ流れている。灰月は沈み、空には白月だけが薄く残っていた。
息を吸うと、左の胸の中で、折れた骨がいっせいにこすれた。
灰月の夜には遠くにあった痛みが、全部、戻ってきていた。左の胸は動かない。右の胸だけで吸う息は、いつもの四分の一しか入らない。左の足首は、苔の上に置いているだけで、焼けた鉄をはめられたように熱かった。
「起きた?」
リシェルが、沢のそばにしゃがんでいた。教団の馬二頭に、沢の水を飲ませている。白い外套の聖騎士たちが乗ってきた、栗毛と葦毛の馬だ。鞍には、白月の紋の焼き印があった。
「……どのくらい、寝てた」
「朝からずっと。もう、昼に近いわ」
ノアは、沢の少し上流で、水に手を入れていた。顔を洗っているのではない。水の中の石を、一つずつ裏返している。
リシェルが、湊のそばに戻ってきて、座った。
「これからのことを、話しておきたいの」
「……ああ」
「大聖堂へ行くって、決めたわね。わたしも行く。でも、今のあなたは、馬から下りるのにも、わたしの肩がいる」
リシェルは、湊の左の胸を見た。
「峠の上には、まだ聖騎士がいる。ヴァルターも、工房から出てくる。馬で南へ戻れば、あの人たちと同じ道を通ることになる。……あなたの体が、それに耐えられるとは思えない」
湊は、黙っていた。リシェルの言うとおりだった。
ブラムウェルの灰月の夜からこの十日あまりで、左の肋骨は、何度も同じところを折られてきた。工房の回廊の格子で、鉄巨人の手の甲で、コールの槍で。そのたびに、苦蓬の軟膏を塗った。軟膏は痛みを遠くしてくれたが、骨をつなげてはくれなかった。
「どこかで、休まないといけない」
湊は言った。
「でも、休める場所がない。グリムホルトには、賞金稼ぎも教団も来る。この谷の北は、ガルヴァンの国境だ。……ゲームでは、ガルヴァンには、第四部まで入れなかった」
「第四部?」
「……あとで、話す」
リシェルが、少しだけ眉を上げた。それから、沢の上流を見た。
「ノアが、何か見つけたみたい」
ノアが、沢の中から湊たちのほうへ駆けてきた。裸足の足が、水を蹴って白い飛沫を上げた。
「ミナト」
ノアは、湊の前にしゃがんで、握っていた右手を開いた。
手のひらの上に、つるりとした丸い石が一つ載っていた。ノアの拳ほどの大きさで、灰色の地に、白い筋が帯のように一本巻いている。名前のない川の岸で、ノアが投石の弾にしていたのと同じ種類の石だった。
「これが、どうした」
「積んで、あった」
ノアは、上流の岸を指さした。
湊は、リシェルの肩を借りて、体を起こした。ノアの指の先、沢の岸の平たい岩の上に、丸い石が積んであるのが見えた。下に大きい石を三つ、その上に二つ、さらに一つ、いちばん上に一つ。七つの石が、小さな塔のように積まれていた。
湊は、その積み方を知っていた。
国境の森の、名前のない川の岸。ハンノキの茂みの裏の野営地で、ノアの足跡のそばに、同じように積まれた七つの石があった。
「お前が積んだのか」
「ちがう」
ノアは、首を横に振った。
「わたしじゃ、ない。……でも、わたしの、積みかた。おばあが、教えてくれた積みかた」
ノアの声が、少しふるえていた。
「七つ積むのは、灰角だけ。いちばん上の石の、白い筋の向きが、行く方を教えてる。……おばあは、そう言ってた。前の家にいたとき、みんなで、そうやって、森の中に道を作ってた」
湊は、いちばん上の石を見た。白い筋は、沢の上流、北を向いていた。
「この石は、新しいか」
ノアは、石の山に鼻を近づけた。灰角は、もともと人間より鼻が利く。湊のように《嗅覚》のスキルがなくても、ノアは森の中で匂いを嗅ぎ分けて生きてきた。
「……苔が、ついてない。手の匂いが、ちょっと、残ってる」
ノアは、湊を振り返った。灰色の目が、大きく開いていた。
「灰角の、手の匂い。……わたしでも、ミナトでもない灰角」
湊は、息を止めた。
谷を吹き下ろす風に、鼻を向ける。湿った樅の匂い。沢の苔の匂い。雪解けの水の匂い。そのずっと奥に、かすかに、知っている匂いがあった。
雨の前の、乾いた石。焚き火のあとの、冷えた灰。
自分の匂いと、ノアの匂いと、同じだった。けれど、そのどちらでもなかった。
「灰角なんか、もう、どこにもいない」
ノアは、国境の森で初めて会ったとき、そう言った。
ノアが一人で生きてきた森の、その外に、まだ灰角がいる。
*
三人は、七つの石の示す方へ、沢をさかのぼった。
湊は、葦毛の馬の鞍にしがみついていた。右手で鞍の前の出っぱりをつかみ、左腕は胸に吊ったまま。馬が一歩進むたびに、折れた骨が胸の中で鳴った。リシェルが栗毛の馬の手綱を引いて先を歩き、葦毛の手綱は栗毛の鞍に結んである。ノアは、その前を裸足で歩いていた。
谷は、北へ行くほど細くなった。
沢の両側の斜面がせまり、樅の枝が頭の上で重なって、昼でも夕方のように暗い。沢沿いの道は、馬がやっと一頭通れる幅しかない。道というより、獣の通り道だった。
七つの石は、半刻ほど歩くごとに、どこかに積んであった。岸の岩の上。倒れた木の根元。沢の真ん中の、水から頭を出した大岩の上。
ノアは、石の山を見つけるたびに、いちばん上の石の白い筋を確かめた。白い筋は、いつも北を向いていた。
二つ目の分かれ道で、筋が右を向いた。
右の谷は、左よりもさらに細く、沢の水も少なかった。ノアは迷わずに右へ入った。
「ノア」
湊は、鞍の上から呼んだ。
「なに」
「おばあさんは、石を積んで、何を教えてたんだ」
ノアは、歩きながら答えた。
「水のある場所。それから、みんなが、いる場所。……前の家が、燃える前は、ほかの森にも、灰角が、いたんだって。おばあの、ちいさいころ。石の道を、たどっていくと、ほかの灰角の家に、着いたんだって」
「今は」
「……わかんない。おかあさんは、もう、どこにも、いないって言ってた。石の道は、ぜんぶ、こわされたって」
ノアは、それきり黙った。
日が暮れる前に、三人は、沢のそばの大きな岩の陰で止まった。
岩は、二階建ての家ほどの高さがあり、沢に向かって少しせり出していた。その下の地面は乾いていて、三人と馬二頭が入れるほどの広さがあった。リシェルは、火を焚かなかった。峠の上の聖騎士たちが、谷の煙を探しているかもしれない。
湊は、岩の下の乾いた土の上に寝かされた。
体が、冷えていた。灰月の夜に一度下がった熱が、また上がってきている。顔と背中が熱いのに、体の芯が凍えている。湊は、歯を食いしばって、ふるえをこらえた。
ノアが、母の上着の前を開けて、湊の右の脇にもぐりこんできた。リシェルは、馬の鞍の下から外した厚い毛布を湊の胸にかけ、反対側に座った。
「……悪い」
「謝らないで。借りは、作らない主義なの」
「それ、ちがう意味で使ってるだろう」
「知ってるわ」
リシェルは、少しだけ笑った。それから、真顔に戻った。
「ミナト。あなたの傷、治るのが遅すぎると思うの」
「……遅い?」
「騎士の家では、怪我をした兵を何人も見てきたわ。肋骨が折れても、たいていは三週間もすれば、くっつきはじめる。苦蓬の軟膏を塗れば、もっと早いはずよ。……でも、あなたは、ブラムウェルで折れた骨が、二十日たっても、まだ少しもつながっていない」
湊は、黙った。
言われてみれば、そうだった。左腕の牙の跡も、膿を出してから何日たっても、黒い腫れが引ききらない。右の掌の火傷も、何度も裂けたとはいえ、まだ赤い線のままだ。
ゲームの苦蓬の軟膏は、〈体力を少し回復し、出血を止める〉いちばん安い回復薬だった。灰角族が使うと効き目が落ちる、という説明は、どこにもなかった。灰角族を選ぶプレイヤーが少なすぎて、誰も確かめなかったのかもしれない。
「人間の薬が、灰角には、合わないのかもしれない」
湊は言った。
「なら、灰角の薬がいるわね」
リシェルは、谷の北の暗がりを見た。
「七つの石の先に、それがあればいいけど」
*
夜半、馬が鳴いた。
湊は、その声で目を覚ました。栗毛が前脚で地面を掻き、葦毛が首を振りあげて、つないだ手綱を引いている。
湊は、鼻で息を吸った。
沢の水の匂い。濡れた樅の匂い。その中に、獣の匂いがあった。乾いた血と、湿った毛皮と、松脂のような脂の匂い。狼ではない。もっと重く、もっと低いところから来る匂いだ。
二つ。
一つは、沢の向こう岸の岩の上。もう一つは、湊たちのいる大岩の、上だった。
湊は、その獣を知っていた。匂いではなく、ゲームの説明でだ。画面の中では匂いなどしなかったが、その獣の説明は、湊が自分でwikiに書いた。
〈岩猫。北の山の岩場に棲む、大型犬ほどの山猫。必ず二頭一組で狩る。一頭が正面で姿を見せて獲物の気を引き、そのあいだに、もう一頭が上かうしろから跳びかかる。正面の一頭は囮なので、見てはいけない〉
「リシェル」
湊は、ささやいた。リシェルは、もう起きていた。右の剣を抜き、岩の陰から沢のほうを見ている。
「向こう岸に、何かいる。目が二つ、光ってる」
「そいつは、囮だ。見るな」
湊は、ひゅうひゅうと鳴る息のあいだから言った。
「本命は、上だ。この岩の上に、もう一頭いる。……正面のやつが鳴いたら、上のやつが跳ぶ。跳ぶ先は、馬か、俺たちのどっちかだ」
リシェルは、沢から目を離して、頭の上の岩の縁を見上げた。暗くて、何も見えない。それでも、リシェルは右の剣を、岩の縁に向けて構えなおした。
「どこに来るか、わかる?」
「匂いが動いたら、言う」
ノアが、湊の脇から抜けだして、腰の袋から石を取りだした。
沢の向こう岸で、正面の岩猫が鳴いた。
赤ん坊の泣き声に似た、高く長い声だった。栗毛が、またいなないた。リシェルは、その声のほうを見なかった。
頭の上で、脂の匂いが動いた。
岩の縁から、匂いが、少しだけ左へずれた。左には、つないだ馬がいる。
「左だ! 馬に跳ぶ!」
湊が言った瞬間、黒い影が、岩の縁から落ちてきた。
大型犬ほどの、ずんぐりとした体。短い尾。耳の先に、筆のような毛が立っている。岩猫は、前脚の爪を開いて、栗毛の首へ跳びかかった。
リシェルは、湊の声と同時に動いていた。馬と岩のあいだに体を入れ、落ちてくる岩猫の脇腹へ、右の剣を横に払った。
刃が、毛皮を裂いた。岩猫は、空中で体をひねり、栗毛の首ではなく、地面に落ちた。四本の脚で着地し、すぐにリシェルへ向き直る。背中の毛が逆立ち、低いうなり声が、湊の腹にまで響いた。
岩猫が、リシェルの脚へ跳んだ。
リシェルは跳びのいた。爪が、リシェルの革の長靴をかすめて、乾いた音を立てた。
そのとき、ノアの石が飛んだ。
ノアは、紐を回さず、腕だけで投げた。石は、岩猫の鼻面にまともに当たった。岩猫が、悲鳴のような声を上げて、頭を振った。
その一瞬に、リシェルの左の剣が、岩猫の前脚のつけ根を突いた。
岩猫は、三本の脚で跳ねて、沢のほうへ逃げた。向こう岸の囮の一頭も、それを追って、闇の中へ消えた。脂の匂いが、谷の上へ遠ざかっていった。
リシェルは、肩で息をしながら、剣を下ろした。
「……逃げたわね」
「ああ。岩猫は、一度しくじった獲物は、追わない。……wikiどおりだ」
湊は言った。言ってから、気づいた。
この谷に来てから、ゲームの知識が、久しぶりにそのまま当たった。
リシェルが、栗毛の首をなでて落ち着かせた。それから、湊のそばに戻ってきて、また座った。
「あなたが寝てても、鼻は起きてるのね」
「……鼻しか、起きてない」
ノアが、湊の脇に戻ってきた。投げた手を、もう一方の手で握っていた。
「ミナト。あれも、ゲームに、いたの?」
「いた。……北の山の、地図にだけ出てくる獣だ。俺たちは、ゲームの地図の、北の端に来てるんだと思う」
湊は、谷の北の闇を見た。
ゲームの地図の北の端。その先は、ガルヴァンの国境だ。ゲームでは、第四部まで、見えない壁があった。
七つの石の道は、その壁の向こうへ続いているのかもしれなかった。
*
転移二十六日目の朝、谷に霧が出た。
霧は沢の上を這うように流れ、十歩先の樅の幹が白くかすんで見えた。三人は、霧の中を、七つの石をたどって進んだ。
昼前、谷が急に開けた。
両側の斜面が左右に退き、学校の運動場ほどの広さの、平らな草地になった。草地の真ん中を沢が流れ、正面の奥は、切り立った灰色の崖でふさがれている。崖の高さは、樅の木を三本重ねたほどだ。霧で、崖の上のほうはよく見えない。
草地の入口の岩の上に、また七つの石が積んであった。
いちばん上の石の白い筋は、まっすぐ崖を向いていた。
湊は、葦毛の鞍の上で、鼻を上げた。
霧は、匂いを運ぶ。水の粒に匂いが乗って、ゆっくりと流れてくる。崖のほうから来る霧の中に、灰角の匂いがあった。一人や二人ではない。何人もの、灰角の匂い。それに、煮た草の匂いと、燃えた木の灰の匂いが混じっていた。
そして、もっと近くに、三つ。
「止まれ」
湊は、声を落として言った。
リシェルが、栗毛の手綱を引いて止まった。ノアが、腰の袋から石を一つ取りだした。
「三人いる。……灰角だ」
湊は、匂いの来る方を、一つずつ確かめた。
「右の斜面、樅の根元に一人。十五歩。左の大岩の上に一人。二十歩。正面、沢の向こうの草の中に一人。十歩。右と左のやつから、弦の蝋の匂いがする。弓だ」
リシェルの右手が、腰のうしろの剣の柄にかかった。
その瞬間、霧の中で、弦が鳴った。
矢は、リシェルの足もとに突き立った。栗毛の前脚の、指一本ぶん手前だった。栗毛がいなないて、首を振りあげた。リシェルは手綱を引いて、馬を押さえた。
「人間を連れた灰角」
正面の草の中から、声がした。女の声だった。低く、よく通る声だ。
「剣から手を離せ。次は、足もとには撃たない」
霧の中から、一人が立ちあがった。
灰角の女だった。三十を少し越えたくらいに見える。灰色の肌に、灰色の髪を、うなじで一本に編んでいる。額の角は、湊やノアのものより長く、指の第一関節から第二関節ほどまである。毛皮の胴着を着て、手には柄の短い槍を持っていた。左の頬から首にかけて、古い火傷の痕が広がっていた。
「……リシェル。手を、離せ」
湊は言った。
リシェルは、湊を見た。それから、ゆっくりと、剣の柄から手を離した。
「その人間は、何だ」
灰角の女が言った。目は、リシェルから離さなかった。
「仲間だ」
湊は答えた。
「灰角の仲間に、人間はいない」
「……ここに、いる」
女の目が、初めて湊を見た。
女は、鼻で一度、短く息を吸った。眉が寄った。もう一度、吸った。
「……おまえ、何だ」
女の声が、低くなった。
「灰角の匂いがする。でも、狼の匂いが混じってる。人の匂いも混じってる。……それも、一人じゃない。何人もの、人の匂いがする」
湊は、答えに詰まった。
《継承》で、湊は狼から鼻を、人から技を受けついできた。灰角は、もともと人間より鼻が利く。この女の鼻には、湊の体にしみこんだ、継承した相手の匂いがわかるのかもしれなかった。
「答えろ」
女が、槍の穂先を湊に向けた。
左の大岩の上で、弦を引きしぼる音がした。蝋の匂いが、急に濃くなった。狙いは、湊ではなかった。湊の前に立つ、リシェルだった。
「リシェル、伏せろ!」
湊が叫ぶのと、弦が鳴るのが、同時だった。
リシェルは、伏せなかった。かわりに、腰のうしろの右の剣を抜きざまに振った。矢が、剣の腹に当たって弾かれ、沢の水に落ちた。
正面の女が、槍を構えて踏みこんできた。
リシェルは、左の剣も抜いた。女の槍の突きを、右の剣で外へ流す。女はすぐに槍を引き、今度は低く、リシェルの脚を払いにきた。リシェルは跳んでかわし、着地と同時に、左の剣の柄頭で槍の柄を叩いた。
右の斜面から、二本目の矢が来た。
湊は、蝋の匂いの動きで、それを先に知った。
「右から来る! 頭の高さだ!」
リシェルが、首をすくめた。矢は、リシェルの髪をかすめて、うしろの樅の幹に刺さった。
右の斜面の匂いが、急に近づいてきた。二本目を外した射手が、弓を捨てて、斜面を駆けおりてくる。匂いの先にいるのは、リシェルではなかった。葦毛の鞍の上の、湊だった。
霧の中から、若い灰角の男が飛びだしてきた。右手に、刃渡りが手のひらほどの骨の柄の小刀を逆手に握っている。男は、葦毛の脇腹の横から、湊の吊った左腕の側へ跳びあがった。
湊は、鞍の上で体をよじることもできなかった。右手を鞍から離し、腰ひもの右に差した《欠けた月》を、黒パンの布ごと握って引き抜いた。布は、灰月の夜にほどいたあと、またリシェルが巻きなおしてくれていた。
湊は、刃を振らなかった。小刀が振りおろされてくる線の上に、布に包まれたままの刃を、置いた。
小刀の刃が、布の上から《欠けた月》に当たった。布が裂け、小刀の刃が、根元からすっぱりと落ちた。
男は、柄だけになった小刀を見て、目を見開いた。
その瞬間、葦毛が棹立ちになった。
湊の体が、鞍から浮いた。右手は刃を握っていて、鞍をつかめない。湊は、背中から草の上に落ちた。
胸の中で、折れた骨がいっせいに鳴った。湿った音がした。息が、まるごと消えた。目の前が白くなり、それから黒くなった。
「ミナト!」
リシェルの声が、遠くで聞こえた。
湊は、草の上で、右だけの胸で細い息を吸った。刃は、まだ指の中にあった。若い男は、柄を握ったまま、湊から三歩のところで立ちすくんでいた。
そのとき、ノアが前に出た。
ノアは、投石の紐を回さなかった。石を握ったまま、リシェルと灰角の女のあいだに、両手を広げて立った。
「やめて!」
女の槍が、ノアの胸の前で止まった。
穂先は、ノアの母の上着の、胸の布に触れるか触れないかのところにあった。
「どけ、子ども」
「どかない」
ノアの声は、ふるえていた。それでも、ノアは両手を下ろさなかった。
「このひとは、わたしを、水から、ひきあげてくれた。動けなくなったミナトを、背負って、はこんでくれた。……殺さないで」
女は、ノアを見下ろした。
ノアの角を見た。灰色の目を見た。もつれた灰色の髪を見た。それから、ノアの着ている、裾の長い灰色がかった茶色の上着を、長いあいだ見ていた。
「その上着は、誰のだ」
「おかあさんの」
「母親は、どこにいる」
ノアは、一度、唇をかんだ。
「……大聖堂。白いひとたちに、つれていかれた」
霧の中が、しんと静まった。左の岩の上の弦の音も、右の斜面の蝋の匂いも、動かなかった。
女の槍の穂先が、少しだけ下がった。
「子ども。おまえ、どこの石の道の子だ」
ノアは、答えなかった。かわりに、目を閉じて、何かを思い出すように、ゆっくりと言った。
「灰角の胸の丸は、からっぽで生まれてくる。だから灰角は、そこに名前をしまっておく」
女の目が、大きく開いた。
「人間が言うみたいに、ひとの名前を盗むんじゃない。……いつか、丸がぜんぶ満ちたひとが来る。そのひとは、灰月の下で、えらぶ」
ノアは、目を開けた。
「おばあが、教えてくれた。……おばあは、もう、いない」
女は、しばらく何も言わなかった。それから、槍を立てて、穂先を空に向けた。
「下ろせ」
女は、うしろを振り向かずに言った。左の大岩の上で、弦をゆるめる音がした。蝋の匂いが、薄くなった。
「その言葉を、そのとおりに言える子どもは、もう、ほとんどいない」
女は、ノアの前にしゃがんだ。ノアと目の高さを合わせた。
「わたしは、イルダ。この谷の見張りの頭だ。……よく、ここまで来た」
ノアは、何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。母の上着の裾を、両手で握りしめていた。
イルダは立ちあがり、今度は湊を見た。
「おまえのことは、わからない。灰角なのに、狼と人の匂いがする。そんな灰角は、見たことがない」
「……俺にも、うまく説明できない」
湊は、草の上に寝たまま言った。正直な答えだった。
「その人間のことも、わからない。灰角の谷に人間を入れたことは、一度もない」
リシェルは、黙って剣を鞘に戻した。右の剣も、左の剣も。それから、両手を体の前に出して、手のひらを開いて見せた。
「わたしは、リシェル・アーデンフォード。剣は、あなたに預けるわ。それで、この人を休ませてもらえるなら」
イルダの眉が、わずかに動いた。
「アーデンフォード」
「知ってるの?」
「……長老が、その名前を、知っている」
イルダは、それ以上は言わなかった。リシェルの双剣を、鞘ごと受けとって、自分の背中に回した。
「おまえは、長老が決めるまで、谷の口の見張り小屋にいろ。……灰角二人は、中へ入れる。そっちの男は、もう死にかけている顔だ」
イルダが顎で示すと、小刀を落とされた若い男が、湊の体の下に腕を差しこんだ。男は、湊の角を一度見てから、黙って湊を抱えあげ、葦毛の鞍の上に乗せた。湊は、鞍の前の出っぱりに右手でしがみついた。
湊は、鞍の上から言い返そうとした。けれど、言葉より先に、目の前が白くかすんだ。熱が、また上がってきていた。
「リシェルを、ひとりに、するのは……」
「ミナト」
リシェルが、葦毛の鞍のそばに来て、湊の右手を握った。
「わたしは、だいじょうぶ。見張り小屋なら、霧も雨も、しのげるわ。……あなたは、治ることだけ考えて」
リシェルは、湊の手のひらに、指で字を書いた。ブラムウェルの井戸の底で作った、二人だけの合図だった。
〈まってる〉
湊は、その手を一度だけ握りかえした。
イルダが、口笛を短く二度吹いた。左の大岩の上から、弓を背に回した灰角が下りてきた。湊を抱えあげた男と同じくらいの年の、若い男だった。二人とも、湊やノアと同じくらいの、短い角をしている。二人は、湊を見て、それからリシェルを見て、顔を見合わせた。
一人が、リシェルを谷の口のほうへ連れていった。リシェルは、一度だけ振り返った。
もう一人が、葦毛の手綱を取った。
イルダが先に立ち、正面の崖へ向かって歩きだした。
崖の前まで来ると、霧の中に、黒い裂け目が見えた。崖の岩が、縦に割れている。割れ目の幅は、馬一頭がやっと通れるほどで、外から見ると、ただの影にしか見えなかった。
裂け目の中は、暗く、冷たかった。馬の蹄の音が、岩の壁に響いた。湊は、鞍にしがみついたまま、鼻で息をした。
煮た草の匂いが、濃くなった。燃えた木の灰の匂い。乾いた石の匂い。それから、たくさんの、灰角の匂い。
裂け目を抜けると、光があった。
崖に囲まれた、すり鉢のような窪地だった。広さは、ブラムウェルの噴水広場を三つ合わせたほど。窪地の斜面には、岩をくりぬいた穴がいくつも並び、その入口に、獣の皮の垂れ幕が下がっている。窪地の底には小さな畑があり、真ん中の焚き火から、細い煙が一本、崖の上の霧へ吸いこまれていた。
焚き火のまわりに、灰角がいた。
洗った毛皮を干している女。薪を割っている男。石の臼で何かを挽いている老人。駆けまわっていた子どもが三人、湊たちを見て、足を止めた。
どの額にも、角があった。
ノアが、葦毛の鞍の横で、立ちすくんでいた。
湊は、鞍の上からノアの頭に右手を置いた。ノアは、湊を見上げた。灰色の目に、涙がたまっていた。
「……いた」
ノアは、小さな声で言った。
「灰角が、いた。……みんな、いなくなったんじゃ、なかった」
焚き火のそばの、いちばん大きな岩の穴から、杖をついた老人が出てきた。白くなった髪を長く垂らし、額の角は、湊が見たどの灰角よりも長く、うしろへゆるく反っていた。
老人は、湊を見た。
それから、湊の額の角を、長いあいだ見ていた。鉄巨人が、工房の入口の間で、そうしたように。
「……イルダ。その男を、わしの穴へ運べ」
老人の声は、乾いた枝が折れるような、細い声だった。
「灰苔の膏と、夜露草の煎じ汁を用意しろ。……人間の薬を、ずいぶん長く使ってきた体だ。灰角の骨が、泣いておる」
湊の目の前が、ゆっくりと暗くなっていった。
最後に見えたのは、焚き火の煙の向こうで、こちらを見ている灰角の子どもたちの、灰色の目だった。




