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灰角のリスタート  作者: ヤッサン
第四章 灰の里

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第二十五話 灰の里

 湊は、煮た草の匂いで目を覚ました。

 岩の穴の中だった。広さは、六畳の部屋を二つつなげたほど。天井は低く、立てば角がこすれそうな高さだ。壁も床も灰色の岩で、床の真ん中に、石で囲んだ小さなかまどがある。かまどの上には黒い土の鍋がかかり、湯気が立っていた。天井から垂れた何本もの紐に、乾かした草の束が逆さに吊るしてある。入口には獣の皮の垂れ幕が下がり、その縁から、昼すぎの白い光が細く差しこんでいた。

 湊は、毛皮を何枚も重ねた寝床に、仰向けに寝かされていた。

 息を吸うと、左の胸の中で骨がこすれた。葦毛から落ちたときの、湿った音を思い出す。右の胸だけで吸う息は、やはり四分の一しか入らなかった。

「……起きた」

 右の脇で、小さな声がした。ノアが、寝床のそばに膝を抱えて座っていた。母の上着の裾が、岩の床に広がっている。

「ノア。……ここは」

「長老の、穴。ミナト、ねてた。少しだけ」

 ノアは、かまどのほうを振り向いた。

 かまどの向こうに、杖をついた老人が座っていた。白い長い髪。額から、うしろへゆるく反った長い角。裂け目を抜けたところで湊を見つめていた、あの老人だった。その隣には、見張りの頭のイルダが、壁に背をつけて立っていた。

「目が覚めたか」

 老人の声は、乾いた枝が折れるような、細い声だった。

「わしは、オーウェン。この里で、いちばん古い角だ。……おまえの名は」

「ミナト」

「ミナト」

 オーウェンは、その名前を一度、口の中でくりかえした。それから、杖を床について立ちあがり、湊のそばまで来て、膝をついた。

 オーウェンは、湊の顔ではなく、また額の角を見た。長いあいだ、見ていた。湊は、その目から逃げられなかった。

「……何か、ついてるか」

「いや」

 オーウェンは、それだけ言った。かわりに、湊の左の胸に、乾いた手のひらを当てた。指の先で、骨を一本ずつたどっていく。指が三本目にかかったところで、湊の喉から勝手に声が出た。

「ずれておる」

 オーウェンは言った。

「折れた骨が、折れたまま、あちこちを向いておる。このまま薬を塗っても、曲がってつながるだけだ。……一度、正しいところへ戻す」

「戻すって」

「押して、はめる。肩と同じだ」

 湊は、崖の上でリシェルに左肩をはめられたときのことを思い出した。肩の奥で、ごとん、と骨が入った音。あれを、胸の骨で、何本も。

「イルダ。肩を押さえろ。子どもは、右の手を握っていてやれ」

 イルダが、黙って寝床の頭のほうへ回り、湊の両肩を岩の床に押しつけた。ノアが、湊の右手を両手で握った。小さな手は、冷たかった。

「息を吐け。吐ききったところで、やる」

 湊は、細い息を吐いた。吐ききった。

 オーウェンの両の手のひらが、左の胸を、横から内へ、ぐっと押した。

 胸の中で、骨が動いた。こすれるのではなく、骨の端と端が、固いものの上を滑って、どこかへ落ちこむ感じがした。こきり、と小さな音がした。目の前が白くなった。

「一本」

 オーウェンの声が、遠くで聞こえた。手のひらが、指一本ぶん下へずれた。

「次だ。吐け」

 それが、五回つづいた。

 五回目が終わったとき、湊は、自分が叫んでいたのかどうかもわからなかった。喉がひりついていた。ノアの手が、湊の指をつぶれるほど握っていた。イルダの手が肩から離れると、湊の体は、毛皮の上に沈みこんだ。

 オーウェンは、かまどの脇の木の鉢を取った。

 鉢の中には、灰色がかった緑の、どろりとしたものが入っていた。崖の岩に生える苔を、石ですりつぶして練ったものだ、とオーウェンは言った。

「灰苔(はいごけ)の膏(こう)だ。崖の北の、日の当たらぬ岩にしか生えん」

 オーウェンは、指で膏をすくい、湊の左の胸に厚く塗りひろげた。

 湊は、身構えた。苦蓬(にがよもぎ)の軟膏は、塗った瞬間に焼けるように熱く、そのあとで痺れて痛みが遠のいた。

 灰苔の膏は、熱くなかった。

 冷たかった。雨が降りだす前の、乾いた石に手を当てたような冷たさだった。その冷たさが、肌の上にとどまらず、胸の奥へ、折れた骨のほうへ、ゆっくりと沈んでいく。痛みは消えなかった。けれど、骨のまわりで暴れていた熱が、少しずつ静かになっていくのがわかった。

 匂いも、知っている匂いだった。湊自身の匂いと、ノアの匂いと、同じ匂いがした。

「人間の薬はな」

 オーウェンは、膏を塗る手を止めずに言った。

「傷の口を、ふさぐことはできる。痛みを遠くすることもできる。だが、灰角の骨には届かん。灰角の体は、人間とはつくりがちがう。……おまえは、人間の薬で、二十日以上もしのいできたのだろう。よく、死ななかったものだ」

 オーウェンは、膏の上に薄い樹皮を何枚も当て、その上から、なめした革の帯で胸をきつく巻いた。それから、黒い土の鍋から、湯気の立つものを木の椀にすくった。

 椀の中の汁は、夜の空のような濃い青だった。

「夜露草(よつゆそう)の煎じ汁だ。夜にだけ花の開く草を、根ごと煮た。熱を下げる。骨をつなぐ力を、体の中から出させる。……飲め」

 ノアが、湊の頭のうしろに手を入れて、少しだけ起こしてくれた。湊は、椀に口をつけた。

 苦かった。そのあとで、かすかに甘かった。飲みこむと、腹の底がゆっくりと温まり、その温かさが、手足の先へ広がっていった。体が、急に重くなった。

「今夜は、汗をかく。たくさんかく。熱が抜けるまで、動くな」

 オーウェンは、椀を受けとって言った。

「三日たてば、骨は、つながりはじめる。七日たてば、左の腕も、吊らずにすむだろう」

 三日。

 湊は、天井の草の束を見上げた。ブラムウェルで折れた骨が、二十日たっても、少しもつながらなかったのだ。それが、三日。

「……ありがとう」

「礼は、骨がつながってから言え」

 オーウェンは、杖をついて立ちあがった。

 *

 イルダが穴を出ていったあと、湊はオーウェンに訊いた。

「イルダが、言ってた。アーデンフォードの名前を、あんたが知ってるって」

 かまどのそばに戻ったオーウェンは、すぐには答えなかった。炭を一つ、火の中へ押しこんだ。

「あの娘は、アーデンフォードの家の者か」

「孫だ。……祖父が、街より古い井戸を探してた。二十年前に」

 オーウェンの手が、止まった。

「二十年前」

「ブラムウェルに、灰角が一人いたって聞いた。その灰角も、祖父と一緒に井戸を探してたって。……灰月の夜に、審問官が待っていて、その灰角は帰ってこなかった」

 オーウェンは、かまどの火を見ていた。炭のはぜる音だけが、穴の中に響いた。

「その名前は、ある灰角から聞いた」

 オーウェンは、やっと言った。

「二十年前にな。……続きは、おまえが自分の足で立てるようになってからだ。今のおまえに話しても、熱で半分も覚えておらん」

 湊は、それ以上は訊かなかった。訊いても、この老人は言わないだろうと思った。それに、オーウェンの言うとおりだった。夜露草の温かさで、まぶたがもう重かった。

「リシェルは」

「谷の口の、見張り小屋だ。ロアンがついておる。……おまえに小刀を向けた男ではない。左の岩の上で、弓を持っていたほうだ」

「あいつを、里に入れてやってくれないか」

「わしひとりでは、決められん」

 オーウェンは、首を横に振った。

「この里には、四十人ほどの灰角がいる。みな、人間に家を焼かれ、家族を連れていかれて、ここまで逃げてきた者だ。……あの娘を入れるかどうかは、その四十人が決める」

 垂れ幕が揺れて、ノアが戻ってきた。

 ノアは、木の椀を二つ、両手で大事そうに持っていた。黒い麦の粥に、山羊の乳がかけてある。一つを湊の寝床のそばに置き、もう一つを自分の膝の上に置いた。

「女のひとが、くれた。……毛皮を、ほしてたひと」

 ノアの髪は、洗われていた。もつれていた灰色の髪が、櫛でとかされて、肩の上でまっすぐになっている。

「子どもたちが、いろいろ、きいてきた。どこの石の道の子か、とか。胸の丸に、なにを入れたか、とか」

「なんて答えたんだ」

「まだ、なにも、入れてないって。……そしたら、みんな、だまった」

 ノアは、粥を一口食べてから、湊の顔を見ずに言った。

「それと、おとなのひとたちが、話してた。ミナトのこと。……狼のにおいがする灰角は、おかしいって。人のにおいがするのも、おかしいって」

 湊は、黙って天井を見た。

 霧の草地で、イルダは鼻で湊の匂いを嗅いで、「何人もの、人の匂い」と言った。灰角の鼻は、人間よりずっと利く。この里の灰角は、みんな、湊の体にしみこんだ匂いを嗅いでいるのだ。

 湊が狼を殺して、狼の鼻を受けついだこと。人を殺して、人の技と、人の覚えていることまで受けついだこと。それを知ったら、ここの灰角たちは、どんな顔をするだろう。

「ノア」

「なに」

「俺のことを訊かれても、継承のことは、まだ言わないでくれ。……俺が、自分で言う。言えるようになったら」

 ノアは、少しのあいだ湊を見ていた。それから、うなずいた。

「わかった」

 夜露草の温かさが、頭の中まで広がってきた。湊は、粥に手をつけないまま、眠りに落ちた。

 *

 湊は、汗の冷たさで目を覚ました。

 体じゅうが、水をかぶったように濡れていた。下に敷いた毛皮まで湿っている。オーウェンの言ったとおりだった。顔と背中を焼いていた熱が、汗と一緒に抜けていた。体の芯の寒さも、ない。頭が、何日ぶりかで澄んでいた。

 穴の中は暗かった。かまどの火は熾火になり、赤い光が天井の草の束をぼんやりと照らしている。ノアは、湊の右の脇で、母の上着にくるまって眠っていた。オーウェンは、かまどの向こうで、杖を抱えて座ったまま目を閉じている。

 垂れ幕の縁から、夜の風が吹きこんでいた。

 湊は、鼻で息を吸った。

 風は、裂け目のほうから吹いてくる。窪地の底の焚き火が温めた空気は、夜になると崖の上へ抜けていく。そのかわりに、崖の外の冷たい空気が、裂け目を通って窪地の中へ吸いこまれる。昼に霧が流れこんでいたのと、同じ道だった。

 その風に、匂いが混じっていた。

 乾いた血と、湿った毛皮と、松脂のような脂の匂い。

 湊は、寝床の上で目を見開いた。

 二つ。片方の匂いには、新しい血の匂いと、膿みかけた傷の匂いが混じっている。ゆうべ、リシェルが前脚のつけ根を突いた、あの岩猫だった。

 岩猫の匂いのすぐそばに、馬の汗の匂いがあった。おびえた馬の、鼻を刺すような汗の匂い。リシェルの栗毛だ。それから、革の胸当てと、張りつめた汗の匂い。

 リシェルの匂いだった。

 湊は、wikiの一行を思い出した。〈岩猫は、一度しくじった獲物は追わない〉。ゆうべ、湊は自分でそう言った。

 ゲームの魔物は、逃げても、次に会うときには傷が治っていた。手負いの獣は、ゲームにはいなかった。前脚を突かれた岩猫は、もう、ふつうの狩りができない。腹をすかせた手負いの獣は、一度しくじった獲物のところへでも、戻ってくる。

「オーウェン」

 湊は、声を絞りだした。オーウェンの目が、すぐに開いた。眠ってはいなかったのだ。

「岩猫が、谷の口にいる。ゆうべ、追い払ったやつだ。二頭。……見張り小屋の、すぐそばだ」

 オーウェンは、鼻で風を嗅いだ。眉が寄った。

「わしの鼻では、そこまでは届かん。……おまえの鼻は、何なのだ」

「あとで話す。今は、イルダを」

 ノアが、もう起きていた。湊が言いおわる前に、垂れ幕をはねのけて、穴の外へ駆けだしていった。

 湊は、右の肘を寝床について、体を起こした。

 左の胸が、きしんだ。革の帯の下で、はめたばかりの骨が鳴った。それでも、昼に起きたときより、ずっとましだった。夜露草のせいか、灰苔の膏のせいか、痛みの芯が、少しだけ鈍くなっている。

「どこへ行く」

 オーウェンが言った。

「裂け目の、口まで」

「その体でか」

「歩くのは、裂け目の口までだ。戦わない。……匂いで、場所を言うだけだ。それなら、できる」

 オーウェンは、湊の顔をじっと見た。それから、寝床の脇に置いてあったものを、杖の先で湊のほうへ押した。

 《欠けた月》だった。裂けた黒パンの布が、刃に半分だけ巻きついている。

「持っていけ。おまえが、気を失っても離さなかったものだ」

 *

 ノアが連れてきたイルダは、もう槍を持っていた。背中には、リシェルの双剣を鞘ごと負っている。

 イルダは、湊の顔を見て、何か言いかけた。けれど、何も言わずに、裂け目のほうへ走りだした。

 湊は、ノアの肩を借りて、そのあとを追った。

 窪地の底を横切るのに、ふだんなら百歩もかからないだろう。湊の足では、その何倍もかかった。左の足首が地面に触れるたびに、目の前が白くなる。右足で跳ぶように進み、左の胸をかばって、背中を丸めた。焚き火のそばを通ると、岩の穴の垂れ幕がいくつか開いて、灰色の顔がのぞいた。

 裂け目の中は、真っ暗だった。

 幅は、馬一頭がやっと通れるほど。両側の岩の壁は、上へ行くほど互いに寄りかかり、頭の上で閉じている。岩の天井は、崖の外の出口の手前、十歩ほどのところで切れていて、そこから先だけ、白月の光が細く落ちていた。

 湊は、右の肩を岩の壁につけて、出口へ歩いた。ノアが、湊の左に寄りそった。

 出口まで来ると、霧の草地が見えた。

 霧は、もう晴れていた。白月の光で、草地の草が銀色に光っている。真ん中を流れる沢が、黒い線のように見えた。草地のずっと奥、谷の入口のあたりに、小さな四角い影がある。見張り小屋だ。

 その見張り小屋から、こちらへ、三つの影が駆けてきていた。

 先頭は、栗毛の手綱を引いた若い男だった。ロアンだ。そのうしろに、リシェル。右手に松明を持ち、何度もうしろを振り返りながら走っている。剣は、持っていない。双剣は、イルダの背中にあるのだ。

 そして、リシェルのうしろの草の中を、低い影が二つ、追ってきていた。

 一つは、沢の右岸の草の中。三本の脚で、跳ねるように走っている。もう一つは、左の斜面のふちの岩を伝い、草地より高いところを、音もなく駆けていた。

 イルダが、草地の真ん中で、リシェルたちを迎えた。

「ロアン! 馬を、裂け目の中へ入れろ!」

 イルダの声が、草地に響いた。ロアンが、湊とノアの横を抜けて、栗毛を裂け目の中へ引きこんだ。馬の汗の匂いが、湊の鼻をなでて、奥へ遠ざかった。

 リシェルが、裂け目の口まで走ってきた。肩で息をしていた。湊の顔を見て、目を見開いた。

「ミナト? なんで、ここに」

「鼻が、起きてた」

「あなた、また……」

 リシェルは、言いかけてやめた。今は、言いあっている場合ではなかった。

 イルダが、槍を構えたまま、うしろ向きに裂け目の口まで下がってきた。そして、背中から鞘ごと剣を一本外し、リシェルのほうへ放った。

「受けとれ。今夜だけだ」

 リシェルは、松明を左手に持ちかえ、右手で剣を受けとめた。鞘を払うと、白月の光が刃の上を走った。

 湊は、裂け目の口の内側、右の岩の壁に肩をつけて立った。ノアが、湊のうしろ、二歩奥にいる。リシェルは、裂け目の口のすぐ外に、松明と剣を持って立った。イルダは、その左、沢へ下る草の上に、槍を構えている。

 正面、十歩先の草の中で、三本脚の岩猫が止まった。

 湊は、ゆうべ嗅いだ匂いを思い出しながら、鼻で息を吸った。

 正面の一頭からは、膿みかけた傷の匂い。前脚をかばって、腰を低くしている。こちらを見て、赤ん坊の泣き声のような声を、高く長く上げた。

 あれは、囮だ。

 もう一頭の匂いを探した。左の斜面の岩から、匂いが消えていた。消えたのではない。動いたのだ。風は、外から裂け目の中へ吹きこんでいる。その風に乗って、脂の匂いが、上から落ちてきた。

 湊は、顔を上げた。

 裂け目の口の真上。崖の岩が、棚のように一段張りだしたところ。二階の屋根ほどの高さに、もう一頭がいた。

「リシェル。囮を見るな」

 湊は言った。

「本命は、上だ。口の真上の、岩の棚にいる」

 リシェルが、松明を上へ向けた。火の光の中で、二つの目が、緑色に光った。

 岩猫は、跳ばなかった。棚の上で、低く身を伏せたまま、こちらを見下ろしている。

 湊は考えた。

 岩猫は、群れのいちばん弱い獲物を選ぶ。ゆうべは馬を狙った。今夜、馬は裂け目の奥へ逃げた。ここにいるのは、松明と剣を持ったリシェル。槍を持ったイルダ。ノア。そして、血と膿と熱の匂いをさせて、壁にもたれている湊だ。

 いちばん弱い獲物は、湊だった。

「……俺だ」

 湊は、ささやいた。

「あいつは、俺に跳ぶ」

 湊は、頭の中で手順を唱えた。

 ――跳ぶ線は、棚から、裂け目の口の内側へ、斜めに落ちる線だ。避けられない。左腕は使えない。走れない。なら、落ちてくる線に、刃を置く。刃を上に向けて、頭の上に置く。岩猫は、宙で体をひねる。刃は、深くは入らない。それでいい。ひるんだところを、リシェルが斬る。

 湊は、右手の《欠けた月》から、裂けた布を口でくわえて引きはがした。むきだしの刃が、指の骨まで冷やした。

 正面の三本脚の岩猫が、また鳴いた。

 その声が終わらないうちに、頭の上で、脂の匂いがはじけた。

 黒い影が、岩の棚から落ちてきた。

 前脚の爪を開いている。狙いは、やはり湊だった。湊は、右の腕を上げ、刃を頭の上に、横に寝かせて置いた。

 岩猫の胸が、刃の上に落ちてきた。

 刃が、毛皮に入った。濡れた紙を裂くような、手応えのない感触。岩猫は、宙で体を大きくひねった。刃の上から、自分の体を逃がそうとしたのだ。胸ではなく、脇腹の毛皮が、刃に沿って裂けた。

 ひねった勢いで、岩猫の後脚の爪が、湊の右の肩をかすめた。

 焼けるような痛みが、肩から二の腕へ走った。湊は、右の肩を岩の壁に打ちつけた。左の胸の中で、骨がきしんだ。革の帯の下で、はめたばかりの骨が、ずれそうになって、こらえた。

 岩猫は、湊の足もと、裂け目の口の内側に落ちた。

 そこへ、リシェルの松明が来た。

 リシェルは、松明の火を、岩猫の顔へまっすぐ突きだした。岩猫が、悲鳴を上げてのけぞった。そのあいだに、リシェルは剣を、肘から先だけで、短く振った。裂け目の口は狭い。大きく振れば、刃が岩に当たる。リシェルは、刃先だけを、岩猫の耳のうしろへ滑らせた。

 岩猫が、跳んだ。

 裂け目の外へではなかった。上へ跳んだのだ。岩の壁に爪を立て、二度、三度と壁を蹴って、裂け目の口の上の棚へ戻っていく。血の匂いが、上へ遠ざかった。

 同じとき、外の草の上で、イルダの槍が鳴った。

 三本脚の岩猫が、イルダの脚へ跳びこんでいた。囮が、自分から跳んだのだ。イルダは半歩うしろへ下がり、槍の柄で岩猫の頭を横から打った。岩猫は草の上を転がり、三本の脚で起きあがって、沢のほうへ跳ねて逃げた。

「下がったか」

 イルダが、槍を構えなおしながら言った。

「……下がってない」

 湊は、壁にもたれたまま答えた。

 二つの匂いは、遠ざからなかった。一つは、口の上の棚。もう一つは、沢の向こう岸の岩の陰。どちらも、そこで止まっている。二頭とも、血を流している。それでも、去らない。

 腹がすいているのだ。前脚を突かれた一頭は、もう、山の岩場で獣を追えない。ここで獲物をとらなければ、二頭とも冬を越せない。

 だから、去らない。誰かが死ぬまで、何度でも来る。

 湊は、右の肩を見た。爪の跡が三本、斜めに走って、血がにじんでいた。浅い。けれど、次はこれではすまないだろう。

 湊は、wikiの岩猫の説明を、最後の一行まで思い出した。

 〈岩猫は、狼の群れを嫌う。北の山に狼の群れが入ると、岩猫はその谷を捨てる〉

 湊が、発売から四年目に書き足した一行だった。北の山の地図で、狼の群れの縄張りを通ると、岩猫が一頭も出てこなくなる。それに気づいて、書いた。

 湊は、うしろを振り返った。

 裂け目の奥は、真っ暗だった。両側の壁が頭の上で閉じた、細く長い岩の筒。

 ブラムウェルの枯れ井戸と、同じだった。あの夜、湊は井戸の縦穴に向かって《咆哮》を出した。湊の掠れた声は、石の筒の中で何度も跳ね返って、地の底から駆けあがってくる狼の群れの声になった。

 湊は、頭の中で手順を唱えた。

 ――裂け目の、天井が閉じているところまで、五歩下がる。口のほうを向いて、吠える。声は、岩の筒の中で跳ね返って、群れの声になって、口から外へ出る。岩猫は、崖の中から狼の群れが出てくると思う。狼の群れのいる谷を、岩猫は捨てる。

 息は、四分の一しか入らない。それでも、《咆哮》は出せる。息が半分しかなくても、出せた。

「リシェル。イルダ。耳を、ふさげ」

 湊は言った。

「何をする気」

 リシェルが、振り向いた。

「狼を呼ぶ」

 湊は、ノアの肩に右手をかけて、裂け目の奥へ五歩、下がった。頭の上が、岩の天井で閉じた。白月の光が届かなくなった。

 湊は、裂け目の口のほうを向いた。四角く切りとられた、銀色の草地が見えた。

 息を吸った。右の胸だけで、吸えるだけ吸った。左の胸の革の帯が、きしんだ。

 湊は、吠えた。

 掠れた声だった。喉の奥がやすりでこすられたように痛んだ。けれど、その声は、裂け目の岩の壁に当たって、跳ね返った。跳ね返った声が、また反対の壁に当たって、跳ね返った。一つの掠れた声が、二つになり、四つになり、十になった。

 岩の筒の中で、声は、群れになった。

 何十頭もの狼が、崖の奥から駆けだしてくる声。それが、裂け目の口から、夜の草地へあふれだしていった。

 口の上の棚で、脂の匂いがはじけた。

 岩猫が、棚から崖の上へ駆けあがっていく。爪が岩を掻く音が、上へ上へと遠ざかる。沢の向こう岸の一頭も、岩の陰から跳びだして、谷の入口のほうへ、三本の脚で跳ねていった。

 二つの匂いが、風の届かないところまで、遠ざかっていった。

 湊の声が、切れた。

 湊は、咳きこんだ。咳のたびに、左の胸の中で骨がこすれた。口の中に、鉄の味がした。膝が折れて、岩の壁に背中を押しつけたまま、ずるずると座りこんだ。

「ミナト!」

 ノアが、湊の右の脇に体を入れて支えた。

 *

 裂け目の奥から、灯りが来た。

 松明を持った灰角たちだった。五人、六人、もっといる。湊の声は、裂け目の口から外へだけでなく、奥の窪地のほうへも、あふれだしていたのだ。

 先頭の男は、薪割りの斧を握っていた。そのうしろに、毛皮を干していた女。駆けまわっていた子どもの一人が、大人の脚のあいだから顔を出している。

 みんな、湊を見ていた。

 狼の声がした場所に、狼はいなかった。いたのは、岩の壁にもたれて座りこんだ、灰角の男が一人だけだった。

「……今の声は、なんだ」

 斧の男が言った。声がふるえていた。

「狼の群れが、崖の中に入ってきたのかと思った。子どもらが、泣きだした」

 湊は、答えなかった。咳がとまらなかった。

 イルダが、裂け目の口から入ってきた。槍を立てて、湊の前に立った。そして、男たちのほうを向いて、言った。

「岩猫を追い払った。この男が」

「どうやって」

「吠えた」

 イルダは、湊を見下ろした。その目は、霧の草地で湊の匂いを嗅いだときと、同じ目だった。

「灰角の喉から、狼の声が出た。……わたしは、この耳で聞いた」

 松明の灯りの中で、灰角たちが顔を見合わせた。毛皮の女が、子どもの肩を引きよせて、自分のうしろに隠した。誰かが、小さな声で言った。

「狼の匂いがするって、言ってたろう」

 その声に、誰も答えなかった。

 リシェルが、裂け目の口から入ってきた。剣を鞘に納め、それをイルダの前に差しだした。

「返すわ。今夜だけって、言ったでしょう」

 イルダは、少しのあいだリシェルの顔を見ていた。それから、黙って剣を受けとった。

 リシェルは、湊の前にしゃがんだ。右の肩の爪の跡を見て、唇をかんだ。それから、湊の右手を取って、手のひらに指で字を書いた。

 〈ばか〉

 ブラムウェルで、一度だけ書かれた字だった。湊は、リシェルの手のひらに、書きかえした。

 〈しってる〉

 リシェルは、泣きそうな顔で、少しだけ笑った。

 灰角たちのうしろから、杖の音がした。

 オーウェンだった。灰角たちが、道をあけた。オーウェンは、湊の前まで来て、湊の胸の革の帯に手を当てた。指で、骨を一本ずつたどる。湊は、息を止めた。

「……ずれては、おらん」

 オーウェンは、ため息のように言った。

「灰苔が、骨を抱いておった。運のいいやつだ。……だが、二度目はない。次に骨をずらしたら、わしはもう、はめてやらん」

「わかった」

「わかっておらん顔だ」

 オーウェンは、立ちあがった。それから、松明を持った灰角たちのほうを向いた。

「この男は、わしの穴で治す。それは、わしが決めた」

 細い声だった。けれど、裂け目の中の誰も、言い返さなかった。

「この男が何なのかは、この男が自分の口で話す。……そうだな、ミナト」

 湊は、オーウェンを見上げた。オーウェンの目は、また湊の角を見ていた。

「……ああ。話す」

 湊は言った。

「立てるように、なったら」

 オーウェンは、うなずいた。それから、リシェルのほうを見た。

「人間の娘。今夜は、谷の口の小屋へは戻るな。岩猫がまた来るかもしれん。この裂け目の、外の口で夜を明かせ。ロアンをつける」

 リシェルは、オーウェンを見つめかえした。

「中には、入れてもらえないのね」

「入れるかどうかは、わしひとりでは決められん。……だが、外の口なら、この男の匂いが届く。この男の鼻は、おまえの匂いがすれば、眠れるのだろう」

 リシェルは、何か言いかけて、口を閉じた。耳のふちが、松明の灯りの中で赤くなった。

 *

 転移二十七日目の朝、湊は、オーウェンの穴で目を覚ました。

 垂れ幕の縁から、白い光が差していた。かまどの鍋から、夜露草を煮る匂いがしている。ノアは、湊の右の脇で、まだ眠っていた。

 湊は、息を吸った。

 右の胸がふくらんだ。そして、左の胸が、ほんの少しだけ、動いた。

 湊は、息を止めた。

 もう一度、吸った。やはり、左の胸が動いた。指一本ぶんにも満たない、かすかな動きだった。それでも、鉄巨人の手の甲に払われてから八日、一度も動かなかった左の胸が、息と一緒に、持ちあがった。

 吸える息が、四分の一から、ほんの少しだけ増えていた。

 熱は、もうなかった。体の芯の寒さもない。右の肩の爪の跡には、いつのまにか、灰苔の膏が薄く塗ってあった。

 湊は、試しに口の中で言った。

「ステータス」

 視界の左上に、文字が浮かんだ。〈ミナト 灰角族 Lv.19〉。能力値の数字も、スキルの並びも、何も変わっていない。誰も殺していないのだから、当然だった。最下段には、いつものように〈器:―〉。

 湊は、その一行を、しばらく見ていた。

 この里の灰角たちは、胸の丸に名前をしまう。ノアの丸は、まだ空っぽだ。そして湊の器は、この世界の物差しでは、測ることさえできない。

 ゆうべ、松明の灯りの中で、灰角たちは湊を見ていた。人間が灰角を見るときと、同じ目だった。

 ここは、灰角の里だった。ノアが、ずっと探していた場所だった。

 けれど、湊にとっては、まだ、そうではなかった。

「起きたか」

 かまどの向こうで、オーウェンが言った。木の椀に、青い汁をすくっている。

「飲め。今日は、一日、寝ておれ。……谷の口のほうは、静かだ。おまえの鼻なら、わかるだろう」

 湊は、鼻で息を吸った。

 裂け目のほうから吹いてくる朝の風に、革の胸当ての匂いが混じっていた。それに、温めた山羊の乳の匂いがした。誰かが、外の口まで朝飯を運んだのだ。

 湊は、目を閉じて、青い汁を飲んだ。

 苦くて、そのあとで、かすかに甘かった。

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