第二十六話 胸の丸
転移二十七日目、湊は一日じゅう寝ていた。
オーウェンの言いつけだった。朝に一杯、昼に一杯、日が暮れてから一杯、夜露草の煎じ汁を飲まされた。飲むたびに体が重くなり、湊は昼のあいだも何度か眠った。
目が覚めるたびに、湊は息を吸ってたしかめた。
日が暮れるころには、動かなかった左の胸が、息と一緒に少し動くようになってきた。
ブラムウェルで折れた骨は、二十日たっても少しもつながらなかった。それが、一日でこれだけ変わる。湊は、天井から吊るされた草の束を見上げて、ゲームのことを思い出した。
『アルカディア・レクイエム』にも、夜露草はあった。北の山の岩場で拾える、青い花の草だ。アイテムの説明は〈夜に咲く毒草。口にすると深く眠る〉。道具屋に売っても銅貨二枚にしかならない。湊はwikiに〈拾う価値なし。荷物の枠の無駄〉と書いた。
その草が、今、湊の骨をつないでいる。
ゲームには、灰角族のための薬など、一つもなかった。灰角族の主人公を選んだプレイヤーは、人間と同じ回復薬を飲んでいた。だから誰も気づかなかったのだ。銅貨二枚の毒草が、灰角の体にだけは薬になることに。
夕方、オーウェンが胸の革の帯をほどいて、灰苔の膏を塗りなおした。冷たい膏が、骨のほうへ沈んでいく。オーウェンは、指で骨を一本ずつたどって、うなずいた。
「よし。明日は、起きてよい。座るだけだ。立つのは、あさってだ」
「あさって、立てるのか」
「立てる。おまえの骨は、若い。……わしの骨なら、ひと月かかる」
オーウェンは、そう言って、少しだけ笑った。この老人が笑うのを、湊は初めて見た。
*
その夜、ノアが、穴に戻ってくるなり言った。
「ミナト。わたし、丸に、名前を入れたい」
ノアは、湊の寝床のそばに座りこんだ。頬が赤い。昼のあいだ、ずっと里の子どもたちと一緒にいたのだ。
「子どもたちが、見せてくれた。みんな、首から、石を下げてる。こういうの」
ノアは、指で小さな丸を作った。
かまどの向こうから、オーウェンが言った。
「見せてやろう」
オーウェンは、毛皮の胴着の襟もとに手を入れて、紐を引きだした。紐の先に、平たい丸い石がぶら下がっていた。大きさは、鶏の卵を平たくつぶしたくらい。川の水にみがかれて、つるりとしている。真ん中を、白い筋が一本、帯のように巻いていた。
湊は、帯に挟んだ二つの石を思い出した。林の谷間と白樺の空き地で拾った、ノアの投石の石。あれと、同じ石だった。
石の表には、細い線が刻んであった。縦の線が二本と、そのあいだに小さな点が一つ。
「これが、わしの丸だ」
オーウェンは言った。
「灰角は、名前を口に出さん。名前を知っているのは、家族と、ほんとうに心をゆるした者だけだ。そのかわり、名前のしるしを、この石に刻んで、胸に下げておく。……これを、胸の丸と呼ぶ」
「オーウェンって名前は、口に出してたじゃないか」
「わしは、この里の長だ。長は、名前を呼ばれる役目だ。……だが、このしるしの意味は、もう誰も知らん。わしの母と、妻のほかにはな」
ノアが、自分の胸に手を当てた。
ノアの母が、根の壁の裏の土に描いた絵を、湊は思い出した。角のある六人の、胸の丸。丸の中の、縦の線や波の線。あれは、この石のことだったのだ。そして、列の端のノアの丸だけが、空っぽだった。
「子どもは、空っぽの丸で生まれてくる」
オーウェンは言った。
「十二になると、灰月の夜に、自分で石に名前のしるしを刻む。親がつけた名前でも、自分で選んだ名前でもいい。自分の名前を、自分の丸に入れる。……それで、大人の一人になる」
「わたし、十二」
ノアが、すぐに言った。
オーウェンは、ノアの顔を見た。
「次の灰月の夜は、九日後だ。そのとき、この里の子が一人、丸に名前を入れる。……おまえも、入れたいなら、入れればいい。石は、わしが探しておいてやる」
ノアは、口を開けたまま、オーウェンを見ていた。それから、湊を見た。灰色の目が、かまどの火を映して光っていた。
湊は、ノアに笑ってみせた。うまく笑えたかどうかは、わからなかった。
オーウェンは、もう一つ、胴着の内側から、小さな革の袋を出した。袋の口をゆるめると、中で石どうしが、かちり、と鳴った。
袋の中には、胸の丸が、いくつも入っていた。十か、それ以上。どれにも、名前のしるしが刻んである。
「これは、わしが預かっている丸だ」
オーウェンは、袋の口をまた閉じた。
「灰角が死ぬと、その者の丸は、いちばん近くにいた者が預かる。名前を、一緒に連れていくのだ。……この里の者は、みな、誰かの丸を預かっておる。焼かれた家の者の丸。連れていかれた者の丸。拾えなかった丸のほうが、ずっと多いがな」
湊は、黙っていた。
湊の中にも、死んだ者がいた。小柄な男、ヴィック。聖騎士の隊長。コール・ダリック。湊は、その者たちの技と、その者たちの覚えていることを、自分の中に持っている。
けれど、それは、預かったのではない。
湊が、自分の手で殺して、奪ったのだ。
*
転移二十八日目の朝、湊は、初めて寝床の上に起きあがった。
座るだけで、左の胸がきしんだ。けれど、骨がこすれる音はしなかった。オーウェンが、岩樺の枝を削った杖を、寝床の脇に立てかけてくれた。湊の脇の下に届く長さで、手で握るところに、すべり止めの革が巻いてある。
「座るだけだ。忘れるな」
オーウェンはそう言って、昼前に、薬の苔を採りに崖の北へ出ていった。
ノアは、子どもたちに呼ばれて外へ行った。
湊は、杖をつかって、穴の入口まで這った。垂れ幕を片手でめくると、窪地が見えた。
すり鉢の底に、焚き火がある。そのまわりに、小さな畑。斜面には岩の穴が並び、入口の垂れ幕が、昼の風に揺れていた。広さは、ブラムウェルの噴水広場を三つ合わせたほど。毛皮を干す女。石の臼を挽く老人。薪を割る男。山羊が三頭、斜面の草を食んでいる。
裂け目のほうから吹いてくる風に、革の胸当ての匂いが混じっていた。リシェルは、まだ外の口にいる。それに、乾いた木を打ちあわせる匂い……いや、音だ。木の枝で、剣の型をくりかえしているのだろう。双剣は、まだイルダが預かったままだ。
湊は、入口の岩に背中をあずけて、座っていた。
子どもたちの声がした。
斜面の上のほう、山羊のいる岩場で、ノアと、里の子どもが三人、遊んでいた。男の子が一人と、女の子が二人。岩から岩へ、跳びうつっている。ノアがいちばん身軽だった。国境の森で、根の壁の上から湊に石を投げていた子だ。岩の上なら、誰にも負けないだろう。
いちばん小さな女の子が、ノアのまねをして、跳んだ。
足りなかった。
女の子の足は、向こうの岩のふちにかかって、すべった。小さな体が、岩と岩のあいだへ落ちた。大人の背丈ほどの高さだった。悲鳴が、窪地に響いた。
湊の体が、勝手に動いた。
杖をつかんで、立った。左の足首が地面に触れて、目の前が白くなった。オーウェンの声が頭の中で鳴った。立つのは、あさってだ。
湊は、右足と杖だけで、斜面を上った。三十歩ほど。左の胸を動かさないように、背中を丸めて、息を止めて上った。
岩のあいだに、女の子が倒れていた。
右のふくらはぎが、裂けていた。落ちるとき、尖った岩のふちで切ったのだ。膝の下から足首の上まで、手のひら一つ半ほどの長さで、肉が開いている。血が、どくどくと岩の上にあふれていた。
ノアが、もう岩から跳びおりて、女の子の脚を両手で押さえていた。けれど、ノアの小さな手のあいだから、血は止まらずにあふれてくる。ほかの二人の子どもは、岩の上で立ちすくんでいた。
湊は、杖を捨てて、女の子のそばに膝をついた。左の胸の中で、骨がきしんだ。
湊は、頭の中で手順を唱えた。
――血の出口は、膝の下から足首の上まで、まっすぐ一本。いちばん深いのは、真ん中だ。全部は閉じられない。魔力が足りない。なら、いちばん深い真ん中だけを閉じる。残りは、ノアに押さえさせる。気を失うな。閉じきるまでは。
「ノア。両端を押さえろ。真ん中から、手をどけろ」
ノアが、すぐに手をずらした。
湊は、右の手のひらを、傷の真ん中にかざした。
「治癒」
灰色の光が、手のひらから出た。
ろうそくの火ほどの、小さな光だった。光は、傷の真ん中の、いちばん深いところへ落ちた。開いた肉の縁が、ゆっくりと寄っていく。血の出口が、細くなる。
目の前が、暗くなりはじめた。湊は、奥歯を噛んだ。魔力が2しかない体は、一度でこうなる。わかっていた。
「……もう、一度」
湊は、もう一度、頭の中で思った。治癒。
光が、また出た。さっきより、もっと小さかった。それでも、傷の真ん中は閉じた。痕の残る、薄い皮で。両端からはまだ血がにじんでいたが、あふれてはいなかった。ノアの手で押さえておけば、止まるだろう。
湊の手が、膝の上に落ちた。体が、横に傾いた。ノアが、片方の手で湊の肩を支えた。
女の子は、泣きやんでいた。濡れた目で、湊の手のひらを見ていた。
そのとき、うしろで、誰かが息をのんだ。
湊は、首だけで振り向いた。
斜面の下に、毛皮を干していた女が立っていた。裂け目で岩猫を追い払った夜、子どもを自分のうしろに隠した、あの女だった。女の顔は、真っ白だった。
「ミラから、離れて」
女の声が、ふるえていた。
「その光。……その手の光は、白い外套の連中のものだ」
女のうしろに、ほかの灰角たちも集まってきていた。薪割りの男。臼を挽いていた老人。そして、短い角の若い男。霧の草地で、湊に骨の柄の小刀を振りおろした男だった。
「わたしは、見た」
女は言った。
「わたしの家が焼かれた夜、白い外套の連中は、仲間の傷を、手の光でふさいでいた。ふさいでは、また、わたしたちを追ってきた。……灰角の手から、あの光が出るわけがない」
女は、斜面を駆けあがってきた。ノアの手から女の子を奪うように抱きあげ、湊から三歩、離れた。女の子の脚を見て、閉じた傷の痕を見て、それから、もう一度、湊を見た。
助けてもらった、という顔ではなかった。
得体の知れないものに、娘の体を触られた、という顔だった。
「……ミラは、助かる」
湊は言った。声が、かすれていた。
「端は、まだ血が出てる。きつく、布で巻いてやってくれ」
女は答えなかった。女の子を抱いたまま、斜面を下りていった。灰角たちが、道をあけた。誰も、湊に手を貸そうとはしなかった。
短い角の若い男が、湊をじっと見ていた。湊の鼻に、男の汗の匂いが届いた。怒っている汗の匂いだった。
杖の音がした。
崖の北から、オーウェンが戻ってきていた。背中の籠に、灰色の苔がいっぱいに入っている。オーウェンは、斜面の下から、湊と、散っていく灰角たちと、岩の上の血を見た。
「座るだけだと、言ったはずだ」
それだけ言った。それから、灰角たちのほうを向いた。
「明日、この男は立つ。……そのとき、この男が、自分の口で話す。みな、焚き火に集まれ」
*
その夜、湊は、なかなか眠れなかった。
骨のせいではなかった。斜面を上ったのに、骨はずれていなかった。オーウェンは、胸の帯の上から骨をたどって、「ばかめ」と言っただけだった。
湊は、薄暗い天井を見ながら、明日、何を話すかを考えていた。
《継承》のこと。殺した相手のスキルを、自分のものにすること。目を合わせて殺せば、その者の覚えていることまで流れこんでくること。
おとといの夜、松明の灯りの中で、灰角たちは湊を見ていた。今日、あの女は、娘を湊から引きはなした。
本当のことを言えば、もっとひどくなるだろう。
湊の横で、ノアが寝返りを打った。ノアは眠っていなかった。
「ミナト」
「なんだ」
「さっき、リシェルのところに、いった。外の口。パンと、乳を、もっていった」
ノアは、母の上着の中から、湊のほうを見た。
「リシェルが、ミナトに、伝えてって。……立つときは、ひとりで立たないで、って」
湊は、少しのあいだ黙っていた。裂け目のほうから吹いてくる夜の風に、革の胸当ての匂いが、かすかに混じっていた。
「あいつ、ほかに何か言ってたか」
「ばか、って。それも、伝えてって」
湊は、息だけで笑った。笑うと、左の胸がきしんだ。
「ノア。明日、俺は、継承のことを話す。全部だ」
「……うん」
「おまえも、ここの皆に、何か言われるかもしれない。俺と一緒にいるから」
ノアは、しばらく黙っていた。それから、言った。
「ミナトは、おかあさんのことを、おしえてくれた。おかあさんが、うそをついて、わたしの名前を守ったこと。……ミナトが、あのひとを殺して、あのひとの覚えてることを、見たから。わたしは、知れた」
ノアは、湊の右手を、両手で握った。
「だから、いい」
*
転移二十九日目の昼、湊は、立った。
左腕は、まだ胸に吊ったままだ。湊は、右手で杖を握って、寝床から立ちあがった。そして、左の足を、穴の岩の床におろした。
目の前が、白くならなかった。痛みは、ある。けれど、焼けた鉄をはめられたような痛みではなかった。灰苔の膏は、足首にも塗ってあったのだ。
息を吸った。左の胸が、息と一緒に持ちあがった。こんなに深く吸えたのは、工房の崖の上で倒れてから初めてだった。湊は、ノアを左に寄りそわせて、オーウェンの穴の垂れ幕をくぐった。
焚き火のまわりに、灰角たちが集まっていた。
四十人ほど。大人も、子どもも、年寄りもいる。みんな、首から胸の丸を下げていた。何人かは、二つ、三つと下げていた。預かった丸だ。
焚き火までは、四十歩ほど。湊は、杖をついて歩いた。灰角たちが、黙って湊を見ていた。
二十歩ほど来たところで、一人の男が、湊の前に立った。
短い角の、若い男だった。霧の草地で、湊に小刀を振りおろした男だ。その小刀の刃は、湊が《欠けた月》で根元から落とした。今、男の右手には、新しい小刀があった。黒い石を打ち欠いた刃に、骨の柄。刃の長さは、男の手のひらほど。
「セス」
焚き火のほうから、イルダの声がした。イルダは、焚き火の向こうで、槍を立てて座っていた。立ちあがろうとはしなかった。
「長の前だぞ」
「わかってる」
セスと呼ばれた男は、湊から目を離さなかった。
「話を聞く前に、たしかめたいことがある。……おまえの体から、狩る人間の汗の匂いがする。白い外套の、乾いた花みたいな匂いはしない。でも、灰角を狩る人間の、あの汗の匂いが、しみついてる」
セスの鼻が、ひくりと動いた。
「おれの家族を連れていったのも、そういう汗の匂いの男たちだった。……おまえ、何者だ」
「今から、話す。そのために来た」
「話す前に、答えろ」
セスが、一歩踏みこんだ。
湊は、まわりを見た。
足場は、焚き火のまわりの、踏みかためられた土。平らで、すべらない。湊の右には、黒い麦の畑の畝。左には、ノア。うしろは、オーウェンの穴までの斜面。セスは、正面、二歩半の距離にいる。灰角たちは、湊とセスを囲むように、十歩ほど離れて輪になっていた。
湊は、自分の体のことを考えた。
左腕は、使えない。左の胸は、もう一度ずらせば終わりだ。オーウェンは、二度とはめないと言った。走れない。跳べない。腰をひねることもできない。
なら、動かすのは、右の腕と、首から上だけだ。
「ノア。三歩、下がれ」
湊が言うと、ノアは、黙って下がった。
セスが、来た。
右手の黒い石の小刀を、右上から斜めに、湊の顔へ振りおろした。
湊は、刃が来る線を見た。そして、体の中で、何かがうなずいた。
《見切り》だった。コール・ダリックが、いちばん長く磨いてきたもの。相手の得物の長さと、腕の長さと、踏みこんだ足の位置。それが、言葉ではなく、体の感じとしてわかる。セスの刃は、湊の鼻の先、指一本ぶん手前を通る。踏みこみが、半歩足りない。
湊は、動かなかった。
黒い刃が、湊の鼻の先を、指一本ぶん手前で、通りすぎた。風が、湊の前髪をなでた。
輪の中の誰かが、息をのんだ。
セスの顔が、赤くなった。今度は、深く踏みこんできた。小刀を腰に引き、湊の腹へ、まっすぐ突いてきた。
この突きは、届く。
湊は、右手の杖を、短く振った。腕の力ではなく、手首だけで。リシェルが地の底で教えてくれた、肘から先だけの振り方だった。それに、二人目の聖騎士から継いだ《剣術》が、杖の先の運びを決めた。杖の先が、横から、セスの右の手首を打った。
乾いた音がした。
小刀の切っ先が、湊の腹から外へそれた。セスは、手首を押さえて、うしろへ跳んだ。小刀は、まだ握っていた。
二歩の距離で、セスは、腰を落とした。
湊は、鼻で息を吸った。
セスの汗の匂いが、動いた。体の右から、左の足のほうへ。重さを、左の足に移している。次は、右へ回りこむつもりだ。湊の、左へ。吊った左腕の側。刃の届かない側。
コールと同じ手だった。ヴィックの話をよく聞いていた、あの男と。灰角を狩る者は、誰でも、相手の弱いほうを突く。
セスが、湊の左へ回りこんだ。低い姿勢から、吊った左腕の下、左の脇腹へ、小刀を突きあげてきた。
湊は、体をひねらなかった。ひねれば、骨がずれる。
かわりに、右手の杖を、自分の体の前を横切らせて、左の脇腹の前に立てた。杖の先を、地面に突いた。一本の柱のように。
黒い石の刃が、岩樺の杖に、横から食いこんだ。
石の刃は、木を断てない。刃は杖の中ほどに刺さって、止まった。セスの腕が、伸びきった。
湊は、杖を握った右手を、手前へ、ひねった。
杖に刺さった小刀が、セスの手の中で、ねじれた。セスの指が、柄から外れた。小刀は、杖に刺さったまま、セスの手を離れた。
湊は、杖を持ちあげた。杖の先が、セスの喉もとで止まった。黒い小刀は、まだ杖の中ほどに刺さっていた。
焚き火のまわりが、静まりかえった。
湊は、肩で息をしていた。右の胸だけで。左の胸は、一度も動かさなかった。帯の下の骨は、ずれていない。
セスは、喉もとの杖の先を見て、それから、湊の顔を見た。
「……殺さないのか」
「殺さない」
湊は言った。
「殺したら、どうなるかを、今から話しに来たんだ」
湊は、杖を下ろした。杖に刺さった黒い小刀を抜いて、柄のほうを、セスに差しだした。
セスは、しばらく動かなかった。それから、ひったくるように小刀を取って、輪の中へ下がった。
焚き火の向こうで、イルダが、低く言った。
「左の胸を、一度も動かさなかったな」
誰に言ったのでもない声だった。イルダは、湊の杖の、刃が食いこんだ跡を見ていた。
*
湊は、焚き火のそばまで歩いた。オーウェンが、焚き火の向こうの平たい岩に座っていた。湊も、杖を立てて、近くの岩に腰を下ろした。ノアが、湊の左に座った。
四十人の目が、湊を見ていた。
湊は、話した。
「灰角は、名前を盗む。……人間は、そう言う。それは、嘘だ。この里の皆は、胸の丸に名前をしまっているだけだ。盗んでなんかいない」
湊は、息を吸った。
「でも、俺は、盗む」
焚き火の薪が、はぜた。
「俺は、殺した相手の力を、自分のものにする。狼を殺して、狼の鼻を手に入れた。だから、俺の鼻は、ここの誰よりも利く。狼の頭を殺して、狼の声を手に入れた。だから、三日前の夜、裂け目で狼の群れの声が出せた」
湊は、セスのほうを見た。
「灰角を狩る男も、殺した。国境の森で、一つの家の灰角を、みんな狩った男だ。その男の、音を立てない歩き方を、俺は持ってる。賞金稼ぎの頭も、殺した。その男の、刃の届く距離を見る目を、俺は持ってる。さっき、セスの刃が鼻の先で止まるのがわかったのは、そのせいだ」
湊は、毛皮の女のほうを見た。女は、娘を膝に抱いていた。娘の右のふくらはぎに、布が巻いてあった。
「白い外套の聖騎士も、殺した。光を纏った剣を持ってた、隊の頭だ。だから、俺の手からは、あの光が出る。昨日、ミラの脚を閉じた光だ」
誰かが、立ちあがりかけて、座りなおした。
「それだけじゃない」
湊は、つづけた。ここで止めれば、嘘になる。
「相手の目を見ながら殺すと、その者の覚えていることが、俺の中に流れこんでくる。その者の母親の声。その者の弟の顔。……その者が、生きているあいだに見たものを、俺は、見る」
焚き火のまわりで、灰角たちが、身を引いた。
湊には、それが見えた。子どもを抱いた母親が、子どもの耳をふさいだ。年寄りが、胸の丸を握りしめた。何人かが、自分の目を手でおおった。目を見られたら、盗まれる。そう思ったのだろう。
「なんで、そんな力がある」
薪割りの男が言った。
「わからない」
湊は、正直に答えた。
「俺がどこから来たのかは、自分でも、まだうまく言えない。この力が何なのかも、わからない。……ただ、それを隠したまま、ここで傷を治してもらうのは、ちがうと思った」
しばらく、誰も、何も言わなかった。
最初に口を開いたのは、毛皮の女だった。
「人間が言うとおりじゃないか」
女の声は、もうふるえていなかった。冷たかった。
「灰角は、名前を盗む。人の覚えていることを盗む。……わたしたちは、ずっと、それは人間の嘘だと言ってきた。わたしの母も、その母も。家を焼かれるたびに、そう言ってきた」
女は、湊を見すえた。
「なのに、おまえは、人間の言うとおりのことをしてる」
湊は、何も言いかえせなかった。
女の言うとおりだった。
「おれは、預かってる」
セスが言った。セスは、自分の胸の丸の隣に下げた、もう一つの石を握っていた。
「妹の丸だ。妹は、家が焼かれた夜に、死んだ。おれは、妹の丸を拾って、ここまで逃げてきた。妹の名前を、連れてきたんだ。……おまえのは、ちがう。おまえは、殺した相手の中から、勝手に持っていく」
セスは、立ちあがった。
「そんなやつを、長の穴に寝かせておくのか」
灰角たちの目が、オーウェンへ向いた。
オーウェンは、すぐには答えなかった。焚き火の火を、じっと見ていた。
そのとき、湊の左で、ノアが立ちあがった。
ノアは、母の上着の裾を両手で握りしめていた。四十人の大人の前で、ノアの体は、ひどく小さかった。
「ミナトは、わたしに、おかあさんのことを、おしえてくれた」
ノアの声は、ふるえていた。それでも、焚き火のまわりの全員に聞こえた。
「わたしの家族を狩った男がいた。ミナトは、その男を殺した。わたしを、守るために。……そのとき、ミナトは、その男の覚えてることを、見た。おかあさんが、その男に、『名前なんか、つけてないよ』って、わらって言ったのを、見た」
ノアは、涙をこらえて、つづけた。
「おかあさんは、うそをついて、わたしの名前を、守ったの。わたしは、それを、ミナトに、おしえてもらった。ミナトが見なかったら、わたしは、ずっと、知らなかった」
ノアは、毛皮の女を見て、セスを見た。
「それって、盗んだの?」
誰も、答えなかった。
ノアは、湊の右の手を取った。そして、座りなおした。手は、離さなかった。
オーウェンが、杖をついて、立ちあがった。
「今日は、ここまでだ」
細い声が、焚き火のまわりに響いた。
「この男は、自分の口で話した。約束どおりにな。……あとは、みなが、自分の頭で考えることだ。この男をどうするかは、わしひとりでは決めん。リシェルという人間の娘のこともだ。四十人で決める」
オーウェンは、湊を見た。
「それまでは、わしの穴で治す。それは、変わらん」
灰角たちは、ゆっくりと、焚き火のまわりから散っていった。毛皮の女は、娘を抱いて、一度も振り返らずに自分の穴へ戻った。セスは、最後まで湊を見ていた。それから、背を向けた。
イルダだけが、焚き火の向こうに残っていた。
イルダは、立ちあがって、湊のほうへ歩いてきた。そして、湊の前で足を止め、岩樺の杖の、黒い刃が食いこんだ跡を指でなぞった。
「おまえの鼻が、セスの次の手を読んだのは、わかった。汗の匂いだろう」
「ああ」
「灰角は、みな鼻が利く。だが、鼻で嗅いだものを、そのまま手に伝えられる者は、少ない。……おまえの鼻は、狼のものかもしれん。だが、あの杖の立て方は、灰角の戦い方に近い」
イルダは、それだけ言って、背を向けた。
「骨がつながったら、わたしのところへ来い。左の腕が使えるようになったらな」
*
その夜、オーウェンの穴で、湊は、かまどの熾火を見ていた。
ノアは、湊の右の脇で眠っていた。昼に、あれだけの大人の前で話したのだ。穴に戻るなり、母の上着にくるまって、すぐに寝息を立てはじめた。
オーウェンが、かまどの向こうから、何かを放った。
湊は、右手でそれを受けとめた。
平たい、丸い石だった。鶏の卵を平たくつぶしたくらいの大きさ。白い筋が、一本、帯のように巻いている。表には、何も刻まれていなかった。
「ノアの石を探しに、沢へ下りた。……一つ、余分に拾った」
オーウェンは言った。
「灰角の丸は、空っぽで生まれてくる。そこに、自分の名前を入れる。死んだ者の丸を、預かることもある」
オーウェンは、湊の手の中の石を見た。
「おまえの中には、もう、何人も入っておる。狼も、人も。……それを、盗んだと呼ぶか、預かったと呼ぶかは、わしが決めることではない。おまえが、決めることだ」
湊は、石を見つめた。
つるりとした、空っぽの石だった。
「あんたは、俺の角に、何を見たんだ」
湊は訊いた。
オーウェンは、すぐには答えなかった。熾火に、炭を一つ、押しこんだ。
「二十年前に、おまえと同じ目をした灰角がいた」
オーウェンは、言った。
「その話は、おまえが、杖なしで立てるようになってからだ」
オーウェンは、目を閉じた。それきり、何も言わなかった。
湊は、手の中の石を握った。冷たかった。《欠けた月》ほどではない。雨の前の、乾いた石の冷たさだった。灰苔の膏と、同じ冷たさだった。
湊は、口の中で言った。
「ステータス」
視界の左上に、文字が浮かんだ。〈ミナト 灰角族 Lv.19〉。能力値も、スキルの並びも、何も変わっていない。最下段に、〈器:―〉。
測ることのできない器。
湊の中に、もう入っているもの。狼の鼻。狼の声。年寄りの狼の足。大鼠の長の、毒に耐える体。ヴィックの歩き方。聖騎士の剣の運び。隊長の、光る手。コールの目。
それから、ヴィックが覚えていた、ノアの母の笑い声。隊長が覚えていた、母の声。コールが覚えていた、弟の顔。
湊は、それを、盗んだのだろうか。
答えは、まだ出なかった。
湊は、空っぽの石を、帯のあいだに挟んだ。ノアの投石の石が二つ挟まっている、その隣に。
左の胸が、息と一緒に、持ちあがった。
明日は、三十日目だった。オーウェンの言った「三日」が、来る。




