第二十七話 灰角の戦い方
転移三十日目の朝、オーウェンは、湊の胸の革の帯をほどいた。
樹皮をはがし、灰苔の膏をぬぐう。乾いた指が、左の脇腹の骨を一本ずつ、上から順にたどっていった。五本目まで来たところで、オーウェンの指が止まった。
「つながりはじめた」
オーウェンは、それだけ言った。
湊は、息を吸ってみた。左の胸が持ちあがる。骨のきしむ音は、もうしなかった。かわりに、胸の奥が重かった。折れたところに、何かが詰まって固まりかけている。そんな重さだった。
「杖をついて、歩くのはいい。重いものは持つな。体をひねるな。……吊った腕は、まだ下ろすな」
オーウェンは新しい膏を塗り、帯を巻きなおした。それから、寝床の脇に、毛皮の胴着を一枚放った。
「着ておけ。背中が裸では、外はまだ冷える」
山羊の毛皮を、袖のない形に縫いあわせたものだった。湊の背中には、聖水の火傷の痕がまだ残っている。毛の生えた側を内に向けて着ると、痕に触れても痛くなかった。吊った左腕は、胴着の前の合わせ目から出しておいた。
ノアが、穴の入口で待っていた。
「ミナト。リシェルのところ、いく?」
「ああ。行く」
湊は、杖をついて立った。
*
外へ出ると、焚き火のまわりで朝の粥を食べていた灰角たちが、いっせいに湊を見た。
それから、目をそらした。
子どもを抱いた女が、子どもの顔を自分の胸に押しつけた。昨日の焚き火のことがある。目を見られたら盗まれる。そう思っているのだ。湊は、誰の顔も見ないようにして、窪地の底を横切った。ノアが、湊の左に寄りそって歩いた。
裂け目の入口は、窪地の南の崖にある。
幅は、馬一頭がやっと通れるほど。両側の岩の壁が上へ行くほど寄りかかり、頭の上で閉じている。中は、細く長い岩の筒だ。湊が四日前の夜に《咆哮》を出し、狼の群れの声で岩猫を追い払った場所だった。
朝の風が、筒の中を里のほうへ吹いていた。谷の霧も一緒に流れこんでくる。湊は、霧の中を、杖の音を響かせながら歩いた。
風の中に、匂いがあった。
革の胸当て。ランタンの油。それから、張りつめた汗。
裂け目の外の口の手前で、岩の天井が切れて、空が見えた。その先の口の脇に、小さな焚き火の跡があった。若い見張りのロアンが、弓を膝に置いて座っている。ロアンは湊を見て、少しだけ顎を引いた。それが、挨拶のようだった。
リシェルは、口の外の草の上にいた。
右手に、まっすぐな木の枝を一本握っている。長さは、リシェルの短い剣と同じくらい。リシェルは、足をほとんど動かさずに、肘から先だけで枝を振っていた。右上から斜めに。返して、横に。突いて、引く。枝の先が空気を切る音が、霧の中で短く鳴った。
湊が近づくと、リシェルは枝を止めた。
振り返らなかった。
「杖の音で、わかったわ」
リシェルは言った。
「岩の筒の中で、ずっと響いてたもの。ロアンなんて、あなたたちが裂け目に入ったときから、もう振り向いていたわ。……ここの人たちは、耳も鼻も、わたしよりずっといいのね」
それから、リシェルは振り返った。
灰色がかった青い目が、湊の顔を見て、吊った左腕を見て、右手の杖を見て、もう一度、湊の顔に戻った。
「立ってるわね」
「立ってる」
「ひとりで?」
湊は、自分の左にいるノアを見た。
「ひとりじゃない」
リシェルは、ノアを見た。ノアは、得意そうに胸を張った。リシェルは、少しだけ口のはしを上げた。それから、湊の前まで歩いてきて、右手の枝で、湊の杖を軽く叩いた。
「この杖、刃の跡があるわね」
「昨日、ちょっとな」
「ちょっと、ね」
リシェルは、枝を下ろした。
「ノアから聞いたわ。焚き火の前で、全部話したって。継承のことも。目を合わせて殺すと、その人の覚えていることが流れこむことも」
「ああ」
「……そう」
リシェルは、しばらく黙っていた。霧が、二人のあいだを流れていった。
「あなたらしいわ。隠しておけば、楽に傷を治せたのに。どうして、いつもいちばん面倒なほうを選ぶのかしら」
「隠したまま治してもらうのは、ちがうと思ったんだ」
「知ってる。だから、あなたらしいって言ったの」
リシェルは、裂け目のほうを見た。岩の筒の奥に、里がある。リシェルは、まだ一度も中に入っていない。
「四十人で決めるんでしょう。わたしのことも、あなたのことも」
「オーウェンは、そう言ってた」
「なら、わたしは待つわ。待つのは得意じゃないけど、剣を預けたのは、わたしだもの」
リシェルは、湊の右手を取った。杖を握ったままの手だった。リシェルは、その手の甲に、指で文字を書いた。
〈ばか〉
湊は、手のひらを返して書きかえそうとした。けれど、右手は杖でふさがっていた。吊った左手では、届かない。
リシェルは、湊の手を離して、小さく笑った。
「書きかえせないでしょう。早く、その腕を治しなさい」
*
その日の昼すぎ、イルダがオーウェンの穴に来た。
「骨がつながったら来いと言ったが、待つのはやめた」
イルダは、穴の入口に立ったまま言った。槍は持っていなかった。かわりに、腰に細い革の帯を一本さげていた。
「鼻は、骨がなくても鍛えられる。来い。座っているだけでいい」
湊は、かまどの向こうのオーウェンを見た。オーウェンは目を閉じたまま、「座るだけならな」と言った。
イルダが湊を連れていったのは、窪地の北の端だった。
崖の下が、浅くへこんでいる。広さは、学校の教室ほど。三方を灰色の岩の壁に囲まれ、開いているのは南の一方だけだ。昼のあいだ、裂け目から流れこんだ霧は、窪地を横切って北へ流れ、この崖のへこみにたまる。だから、ここは昼じゅう霧が濃い。三歩先のイルダの姿が、もう灰色にぼやけていた。
「里の者は、ここを『霧だまり』と呼ぶ。子どもは、ここで鼻を覚える」
イルダは、へこみの真ん中の平たい岩に湊を座らせた。それから、腰の革の帯をほどいて、湊の目の上に巻いた。
目の前が、真っ暗になった。
「これから、わたしは、おまえのまわりを歩く。ときどき、小石を投げる。石がどこから来るか、当てろ。当てたら、そっちを指させ。外したら、石が当たる」
「当たったら、痛いのか」
「痛くなければ、覚えない」
イルダの足音が、遠ざかった。
いや、足音はしなかった。草を踏む音も、土をこする音もしない。イルダの匂いだけが、湊の右から、うしろへ回っていった。毛皮の胴着。槍の柄の古い脂。それから、灰角の匂い。雨の前の乾いた石と、冷えた灰。
湊は、鼻で息を吸った。
霧の空気は、濡れて重かった。匂いが、いつもより遠くまで届かない。湊は、それに気づいて、少しあせった。ブラムウェルの下水道でも、匂いが多すぎて鼻が役に立たなかったことがある。ここでは、逆だ。匂いが、足りない。
イルダの匂いが、止まった。
湊は、首を右へ向けかけた。
こつん、と、左のこめかみに小石が当たった。
「左だ」
イルダの声が、左から聞こえた。いつのまにか、そこにいたのだ。
二つ目は、うしろから来た。三つ目は、右から。四つ目も、右から来た。どれも、当たってから、どこから来たかがわかった。
五つ目の前に、湊は考えた。
右、うしろ、右、右。イルダは、同じ側から続けて投げることが多い。なら、次も右か。それとも、そろそろ左に変えるか。ゲームで、ボスの行動の順番を覚えるときと同じだ。何回か見れば、癖が出る――
こつん、と、額のど真ん中に石が当たった。
正面からだった。
「今、おまえは、考えたな」
イルダの声が、正面からした。
「さっきまで、どこから投げたか。それを数えて、次を決めた。……セスと立ち合ったとき、おまえは、そうしなかった。セスの汗が動いたのを嗅いで、そのとおりに手を動かした。だから、勝てた」
湊は、黙っていた。
イルダの言うとおりだった。
湊は、三千時間、ゲームをやってきた。敵の動きを覚え、順番を覚え、wikiに書いた。次に何が来るかを知っていることが、湊の強さだった。この世界に来てからも、それで何度も生き延びてきた。
けれど、目の前のイルダは、ゲームの敵ではない。順番などない。
「知っていることは、昨日のことだ」
イルダは言った。
「鼻は、今のことしか嗅がない。灰角が人間より強いところは、そこしかない。人間は、目で見て、考えて、それから動く。灰角は、嗅いで、すぐ動く。……考えるのは、あとでいい」
湊は、深く息を吸った。左の胸が、息と一緒に持ちあがった。
ゲームのことを、思い出した。
『アルカディア・レクイエム』にも、霧の出る場所があった。北の山の谷のいくつかは、霧がかかっていて、そこでは敵にも味方にも、攻撃が当たりにくくなった。湊はwikiに書いた。〈霧のマップには、灰角族では行かないこと。命中が下がるうえ、灰角族はもともと回避も低い。行くだけ損〉。
ゲームでは、霧は、灰角族の敵だった。
ここでは、灰角の子どもが、霧の中で鼻を覚える。
「霧は、人間の目をふさぐ」
イルダの声が、今度は左のうしろからした。
「だが、灰角の鼻はふさがない。濡れた空気は、匂いを遠くへは運ばん。そのかわり、近くの匂いを濃くする。五歩より内側なら、晴れた日より、霧の日のほうがよく嗅げる。……遠くを嗅ごうとするな。おまえの鼻は、遠くまで届きすぎるのだ。だから、近くのものを取りこぼす」
湊は、遠くを嗅ぐのをやめた。
裂け目のほうの焚き火の煙。山羊の匂い。黒い麦の粥。そういうものを、頭の外へ押しやった。残ったのは、五歩の内側だけだった。
岩の冷たさ。濡れた土。自分の膏の匂い。
それから、イルダ。
イルダの匂いは、湊の左のうしろ、四歩ほどのところにあった。止まっている。いや、ほんの少しだけ、動いていた。体の匂いはそのままで、右の手のあたりだけが、濃くなっていく。手のひらに汗が集まっているのだ。石を握りなおしている。
投げる前に、指に力が入る。
湊は、右手を、左のうしろへ伸ばした。
手のひらに、小石がぶつかった。湊は、それを握った。
霧だまりが、静かになった。
湊は、目の上の革の帯を、右手でずらした。灰色の霧の中に、イルダが立っていた。湊の左のうしろ、四歩のところだった。
イルダは、何も言わなかった。少しだけ、目を細めただけだった。
「もう一度だ」
そう言って、イルダは、また霧の中に消えた。
その日、湊は、日が傾くまで小石を受けた。額には、こぶが三つできた。けれど、最後の十投のうち、七つは、当たる前にそっちを指させた。二つは、手でつかんだ。
*
その夜、オーウェンは、湊の胸の帯をほどかずに、上から骨をたどった。
それから、吊った左腕の布をほどいた。
「明日の朝、これを外してよい」
「七日って、言ってなかったか」
「言った。だが、灰苔が、思ったより早く効いた。おまえの骨は、人間の薬を長く使っていた分、灰角の薬に飢えておったのだろう」
オーウェンは、湊の左の腕を、肘のところで支えて、ゆっくりと伸ばした。
「肩より上には、上げるな。重いものは持つな。それから、イルダに言っておけ。この腕で、受けるなとな」
かまどの向こうで、ノアが、平たい石を膝にのせていた。オーウェンが沢で探してきた、ノアの胸の丸だった。ノアは、尖った小石の先で、石の表を何度もなぞっていた。まだ、何も刻んではいない。なぞっているだけだった。
「何を刻むか、決めたのか」
湊が訊くと、ノアは、石を胸に抱えた。
「……ないしょ」
そう言って、母の上着にくるまった。
*
転移三十一日目の朝、湊は、左腕の吊り布を外した。
十日以上、胸に吊っていた腕だった。下ろすと、腕は、自分のものではないように重かった。肩のつけ根が、きしんだ。
湊は、左の手を開いて、閉じた。
親指と人差し指と中指は、ちゃんと曲がった。薬指は、第二関節まで。小指は、やっぱり動かなかった。黒狼の牙の跡は、四つとも白く盛りあがった痕になっていた。
握る力は、子どもほどもなかった。それでも、腕は、ついている。
霧だまりに行くと、イルダが待っていた。今日は、槍を持っていた。ただし、穂先には、革の袋がかぶせてあった。
イルダは、湊の下ろした左腕を見て、うなずいた。
「長は、何と言った」
「肩より上に上げるな。それから、この腕で受けるな、って」
「受けるな、か」
イルダは、槍の柄を、両手で握りなおした。
「それなら、ちょうどいい。灰角は、もともと、受けない」
イルダは、湊から五歩離れたところに立った。
霧だまりの真ん中だった。足もとは、湿った土の上に平たい岩が散らばっている。滑りやすい。湊の背中には、北の崖の岩の壁が、十歩ほど先にある。イルダは、湊の正面、南の開いた側に立っていた。風は、イルダのうしろから湊のほうへ、霧と一緒にゆっくり流れていた。
湊は、右手の杖を、体の前に立てた。
「人間は、灰角より力が強い」
イルダは言った。
「剣を受ければ、剣ごと押しつぶされる。だから、灰角は受けない。相手の刃が来る前に、そこにいない。……おまえは、腰をひねれん。走れん。なら、杖を足にしろ。杖を地面に突いて、それを軸にして、右の足だけで半歩、ずれろ」
言い終わるより先に、イルダが来た。
革の袋をかぶせた槍の先が、湊の胸の真ん中へ、まっすぐ突いてきた。
湊は、イルダの匂いを嗅いだ。風上だから、よく届いた。突く前に、イルダの汗の匂いは、うしろの左足から前の右足へ移っていた。前へ出る匂いだった。
湊は、杖の先を、自分の右へ一歩ぶん突いた。杖に体の重さを預けて、右足だけで、杖のほうへ半歩ずれた。
槍の先が、湊の左の胸の前を、手のひら一つぶん離れて通りすぎた。
腰は、ひねっていなかった。胸の骨も、鳴らなかった。
「それでいい」
イルダは槍を引いた。
「もう一度」
二度目は、横から来た。槍の柄が、湊の左の脇腹へ払われた。湊は、匂いを嗅ぐ前に、目で槍を見てしまった。見てから杖を突いたぶん、遅れた。柄の先が、毛皮の胴着の脇をかすめた。骨には届かなかったが、イルダは槍を止めて、首を横に振った。
「今のは、目だ」
三度目から、湊は、目を半分閉じた。
霧の中で、イルダの匂いだけを追った。槍が来る前に、イルダの体のどこかの匂いが濃くなる。足か、手か、肩か。濃くなったほうへ、重さが移る。重さが移ったほうから、槍が来る。それを嗅いだら、杖を突いて、半歩ずれる。
突き。ずれる。払い。ずれる。突き。ずれる。
五回に一回は、遅れた。そのたびに、革の袋の先が、湊の肩や腕をこつりと叩いた。けれど、日が真上に来るころには、十回のうち八回まで、湊は槍の通る線から外れていられるようになった。
イルダは、槍を地面に立てた。
「次は、ひとりではない相手と、やってもらう」
イルダは、霧の外へ向かって言った。
「セス。そこにいるのは、わかっている」
霧の中から、短い角の若い男が出てきた。
セスだった。いつから、そこにいたのか。湊の鼻には、届いていなかった。セスは、霧だまりの奥、北の崖の壁ぞいに、風下からまわりこんでいたのだ。
セスの手には、木を削った小刀があった。刃の形だけを似せた、平たい木の板だ。
「イルダが、来いと言った」
セスは、湊を見ずに言った。
「おれは、人の中から勝手に持っていくやつに、何かを教えるつもりはない。……ただ、こいつが、灰角の戦い方を覚えられるかどうかは、見てやる」
イルダは、二人のあいだに立って、決まりを言った。
「セスが、この男の左の脇腹に、木の刃を当てたら、セスの勝ちだ。この男が、杖の先か手で、セスの胸に触れたら、この男の勝ちだ。霧だまりの外には出るな。……それと、セス。左の胸は、軽く当てろ。長の手間を増やすな」
セスは、答えなかった。
イルダは、霧だまりの南の口まで下がった。
セスは、霧の中に下がっていった。三歩で、姿がぼやけた。五歩で、見えなくなった。
湊は、霧だまりの真ん中の平たい岩の横に、南の口のほうを向いて立っていた。右手に杖。左腕は、下ろしたまま。うしろ、北へ十歩ほどで、崖の岩の壁。東と西にも、それぞれ七、八歩で岩の壁がある。南の口のほうから、霧と風が、ゆっくり流れこんでくる。
湊は、鼻で息を吸った。
セスの匂いが、なかった。
南の風上なら、届くはずだ。東か西の壁ぞいでも、霧が渦を巻いて、少しは届く。どこからも届かないということは――
湊は、頭の中で手順を唱えた。
――セスは、風下にいる。北だ。俺のうしろの、崖の壁とのあいだ。俺には、あいつの匂いが届かない。あいつは、俺がこの岩の横に立っていたのを、霧に消える前に見ている。近くまで来て、最後に鼻でたしかめてから、刃を出す。
――あいつが嗅ぎあてるのは、狩る人間の汗の匂いだ。昨日、あいつ自身がそう言った。その汗は、この胴着にしみついている。だから、胴着を脱いで杖にかけ、ここに立てておく。
――胴着を脱いだ俺からは、灰角の匂いしかしない。胸の帯の膏も、灰角の匂いだ。この霧だまりは、毎日、里の子どもたちが鼻を覚える場所だ。岩にも土にも、灰角の匂いがしみついている。ここでは、灰角の匂いは、どこにでもある。
――あいつは、左から来る。昨日もそうだった。吊っていなくても、こっちの腕は弱い。俺は、杖なしで、左の前へ二歩だけ動いてしゃがむ。《忍び足》で、音を立てずに。左の足首にはきついが、二歩なら、もつ。あいつが胴着を突いたら、そのとき、あいつは俺のすぐ横にいる。
――左の手で、触る。受けるんじゃない。触るだけだ。杖の先でなくても、触れれば同じことだ。
ノアのやり方だった。国境の森の白樺の空き地で、ノアは、幹という幹に自分の汗のしみた服の切れ端を擦りつけて、犬と湊の鼻を迷わせた。湊は、あのとき、ノアがどこにいるのか、まったくわからなかった。
湊は、右手で、毛皮の胴着の前の紐をほどいた。
左の肩を抜くのが、いちばんつらかった。腕は、肩より上には上げられない。湊は、体をひねらないように、胴着のほうを下へずらして、左腕を抜いた。それから、胴着を杖の握りにかけた。杖の先を、平たい岩の脇の土に、深く突き刺した。
杖は、湊の胸ほどの高さで、毛皮をかけて立った。霧の中なら、背を丸めて立つ人の影に見えるかもしれない。
湊は、裸の上半身で、膝を曲げた。
音を立てずに。
足の運びが変わった。踵を下ろさず、足の外側の縁から土に触れる。小指のつけ根から親指のつけ根へ、重さを転がす。湊は、右の足から先に、左の斜め前へ、一歩出た。
二歩目は、左の足だった。
左の足首が、重さを拒んだ。焼けた鉄をはめられたような痛みではなかった。灰苔の膏のおかげで、痛みは鈍い。けれど、足首はぐらついた。湊は、奥歯を噛んで、ゆっくり重さを移した。濡れた岩の上で、足の裏がわずかに滑りかけた。湊は、膝をさらに曲げて、体を低くした。
止まった。
杖から、左の斜め前へ二歩。湊は、霧の中で、しゃがんだまま息を細くした。うしろの杖は、もう灰色の影にしか見えなかった。
霧が、動いた。
北から、来た。
匂いではなかった。セスは、風下にいる。匂いは、最後まで届かなかった。湊の耳に届いたのは、湿った土を足の外側の縁でこする、ほとんど聞こえない音だった。
セスも、灰角の歩き方を知っているのだ。
その音が、杖のほうへ寄っていった。杖の左。湊が立っていたら、左の脇腹があったところへ。湊がしゃがんでいるのは、そこから一歩半ほど南だった。
音が、止まった。
セスが、鼻で息を吸う音がした。胴着の匂いを、たしかめている。
次の音は、踏みこむ足の音だった。
木の刃が、毛皮の胴着を突いた。どすっ、と、鈍い音がした。杖が、少しだけ傾いた。
肉の手応えでは、なかったはずだ。
セスの足が、止まった。湊は、セスの息が一瞬つまるのを聞いた。セスは今、杖の左に立ち、湊の北に一歩半のところにいる。湊は風上にいる。セスの鼻に、湊の匂いが届く。胴着の汗の匂いのない、ただの灰角の匂いが、すぐそばから。
セスが、湊のほうへ体を回した。
湊は、しゃがんだまま、右の足だけで、半歩、セスのほうへ出た。腰はひねらなかった。体ごと、まっすぐ寄った。
回ってきたセスの胸が、湊の左の手の、すぐ前に来た。
湊は、左の手を、前へ出した。肩より上には、上げなかった。肘を曲げたまま、胸の高さまで。薬指は半分しか曲がらず、小指は動かなかった。それでも、手のひらは、まっすぐ開いた。
湊の左の手のひらが、セスの胸に、触れた。
セスの体が、こわばった。
手のひらの下で、セスの胸の丸が、二つ、かちりと鳴った。セスの丸と、セスの妹の丸だった。湊は、すぐに手を引いた。
セスの灰色の目が、湊を見た。それから、うしろの杖にかかった毛皮の胴着を見た。木の刃は、胴着の脇腹のあたりに、まだ押しつけられたままだった。
「……おまえ」
セスの声が、低くなった。
「ずるいやり方だ」
「そうだな」
湊は、しゃがんだまま言った。左の足首が、じんじんと鳴っていた。
「でも、これは、灰角の子に教わったやり方だ。ノアは、国境の森で、ひとりで、ずっとこうやって生きてた。狩る人間の犬から、逃げるために」
セスは、黙った。
霧だまりの南の口から、イルダが歩いてきた。イルダは、杖にかかった胴着と、胴着に当たったままの木の刃と、しゃがんだ湊を見た。
「この男の勝ちだ」
イルダは言った。
「セス。おまえは、風下から来た。灰角の戦い方だ。正しい。……だが、この男は、匂いが来ないことで、おまえが風下にいると知った。それから、おまえが嗅ぎあてる匂いだけを置いて、そこを離れた。それも、灰角の戦い方だ」
イルダは、セスを見た。
「灰角は、ずるく生きてきた。力がないからだ。だから、今も生きている」
セスは、木の刃を胴着から離した。
それから、自分の胸の丸の隣の、もう一つの石を握った。
「……妹は、ずるくなれなかった」
セスは言った。湊にではなく、霧に向かって言うような声だった。
「家が焼かれた夜、妹は、隠れていればよかったんだ。でも、母さんが呼ぶ声がしたから、出ていった。……母さんの声じゃなかった。狩る人間が、母さんの名前を呼んだんだ。先に捕まった父さんから、聞きだした名前を」
湊は、何も言えなかった。
ヴィックの記憶が、頭の奥でかすかに動いた。その記憶の中で、ノアの母は、ヴィックに「名前なんか、つけてないよ」と笑って言った。
名前を知られれば、その名前で呼ばれる。呼ばれれば、隠れていた者が出てきてしまう。灰角が名前を口に出さない理由の一つを、湊は、このとき初めてわかった気がした。
セスは、湊に背を向けた。
霧の中に消える前に、一度だけ、振り返った。
「次は、おれが風上から行く。……匂いを置いても、むだにしてやる」
それだけ言って、セスは、霧だまりを出ていった。
イルダは、杖から胴着を外して、湊に放った。湊は、右手で受けとめた。
「次がある、と言ったな。あいつは」
イルダは、セスの去ったほうを見ていた。
「あいつが、自分から『次』と言ったのは、この里に来てから初めてだ」
*
その日の夕方、湊は、オーウェンの穴の前の岩に座っていた。
胴着を着なおし、杖を膝に立てかけていた。下ろした左腕は、膝の上にのせていた。額のこぶは、まだ三つとも残っていた。
湊は、口の中で言った。
「ステータス」
視界の左上に、文字が浮かんだ。〈ミナト 灰角族 Lv.19〉。能力値も、スキルの並びも、変わっていなかった。誰も殺していないのだから、当たり前だった。
けれど、湊の中では、何かが少し変わっていた。
ゲームの知識は、昨日のことだ。それは、なくならない。湊が三千時間かけて覚えたことは、これからも湊を助けるだろう。けれど、今、目の前にいる相手が何をするかは、鼻で嗅ぐしかない。
この里の灰角たちは、何百年も、そうやって生きてきたのだ。
湊は、帯に挟んだ空っぽの石に、指で触れた。つるりとして、冷たかった。
そのとき、日が崖の向こうに沈んだ。
日が沈むと、裂け目から吹きこむ風が変わる。昼は、谷を上ってくる霧の、湿った重い風だ。夜は、窪地の焚き火が温めた空気が崖の上へ抜け、そのかわりに、外の冷たく乾いた空気が裂け目から吸いこまれる。霧に消されない、谷の遠くの匂いまで運んでくる風だ。
湊は、その風を、鼻で吸った。
外の口の、リシェルの匂い。焚き火の煙。ロアン。栗毛と葦毛の、二頭の馬。草地の濡れた草。
その奥に、知らない匂いがあった。
濡れた、古い毛皮。それに、腐った肉と、掘りかえした土。どれも、湊が嗅いだことのない混ざり方をしていた。岩猫の匂いではない。狼でもない。そして、とても、重い匂いだった。体の大きなものの匂いは、重く、低く漂う。
風に乗ってきたのは、ほんの一息ぶんだけだった。すぐに、焚き火の煙にまぎれて消えた。
湊は、wikiを頭の中でめくった。北の山の谷の魔物。岩猫。山の狼。岩蜥蜴。どれも、この匂いには合わなかった。
湊のwikiには、載っていないものだった。
湊は、杖をついて立ちあがった。焚き火の向こうに、見張りの交代から戻ってきたイルダがいた。湊は、イルダのところまで歩いた。
「イルダ。今、裂け目の風に、知らない匂いが混じってた。濡れた古い毛皮と、腐った肉と、掘った土の匂いだ。でかいやつだと思う」
イルダの顔から、表情が消えた。
イルダは、湊の顔を見た。それから、裂け目のほうを向いて、自分でも鼻で息を吸った。イルダの鼻には、届かなかったようだった。それでも、イルダは、槍の柄を握りなおした。
「どのくらい、遠い」
「わからない。一息ぶんだけだった。……外の口よりは、ずっと遠い。谷の、もっと奥だ」
イルダは、しばらく黙っていた。
「谷の奥のものが、下りてきているのかもしれん」
イルダは言った。
「この季節に下りてくることは、ないはずだ。……長に知らせる。おまえは、穴に戻れ」
イルダは、オーウェンの穴へ向かって、足早に歩いていった。
湊は、その場に立ったまま、裂け目のほうを見た。
岩の筒の向こうに、外の口がある。外の口の外には、リシェルがいる。双剣はイルダが預かったまま、木の枝を一本だけ持って。
風は、もう、焚き火の煙の匂いしか運んでこなかった。




