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灰角のリスタート  作者: ヤッサン
第四章 灰の里

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第二十八話 受ける手

 転移三十一日目の夜、オーウェンの穴の垂れ幕は、遅くまで何度も揺れた。

 イルダが来て、出ていき、また来た。そのたびに、かまどの火のそばで、オーウェンとイルダの低い声が続いた。湊は寝床に横になったまま、その声を聞いていた。言葉までは聞きとれない。けれど、「谷の奥」という言葉だけは、二度、耳に入った。

 夜更けに、イルダは三度目に出ていった。オーウェンは、かまどの前に座ったまま、長いあいだ目を閉じていた。

「寝たふりが下手じゃのう、おまえさんは」

「ああ」

 湊は、右の肘をついて体を起こした。

「……で、じいさん。あの匂い、何なんだよ」

 オーウェンは、すぐには答えなかった。杖の先で、かまどの熾火を寄せた。

「谷の奥にはのう、灰角が近づかんものがおる。冬のあいだは穴で眠っとる。春が深うなるまでは、下りてこん。……そのはずじゃった」

「見たこと、あるのか」

「ある。一度きりじゃ。……二度は、見とうない」

 オーウェンは、それ以上は言わなかった。

「明日、イルダがセスを連れて谷を上る。何が下りてきたか、見てくるんじゃ。おまえさんは寝とれ。杖つきに上れる谷ではないわい」

 湊は、言いかえせなかった。そのとおりだった。杖なしでは立てない男に、谷は上れない。

 *

 転移三十二日目の朝、霧だまりには、いつもより早くイルダが来ていた。

 腰に水の革袋と、干した肉の包みをさげている。谷を上る支度だ。槍の穂先には、昨日と同じ革の袋がかぶせてあった。

「昼に発つ。その前に、一つだけ」

 イルダは、湊の下ろした左腕を見た。

「昨日、その手でセスに触れたな。受けずに、触れた」

「ああ」

「今日は、槍でやる」

 イルダは、湊から五歩離れて立った。霧だまりの真ん中だ。湊のうしろ、北へ十歩ほどで崖の岩の壁がある。イルダは南の開いた側に立ち、風はイルダのうしろから湊のほうへ、霧と一緒にゆっくり流れていた。湊が風下だから、イルダの匂いはよく届く。

「わたしが突く。おまえは杖でずれる。ここまでは昨日と同じ。……ずれたら、横を抜ける柄に、左の手のひらを当てて押せ。止めるな。曲げろ」

「いや、じいさんに言われてるんだって。この腕で受けるなって」

「受けろとは言っていない。流せ」

 イルダは、槍の柄を軽く持ちあげた。

「まっすぐ来るものは、正面からは重い。横からなら、指一本で曲がる。……灰角の手は、それで足りる」

 湊は、頭の中で手順を唱えた。

 ――匂いで、いつ来るかを知る。《見切り》で、どこまで来るかを知る。杖を突いて半歩ずれる。槍の柄が横を通るとき、左の手のひらを当てて、押す。

 《見切り》は、コール・ダリックから継いだスキルだ。相手の得物がどこまで届くかが、言葉ではなく、体の感じとしてわかる。

 一度目は、押しすぎた。

 イルダの汗の匂いが、うしろの足から前の足へ移った。湊は杖を右へ突き、半歩ずれた。槍の柄が、左の胸の前を通りすぎる。湊はそこへ左の手のひらを叩きつけた。

 柄は、少しも曲がらなかった。かわりに、湊の肘から肩のつけ根まで、鈍い痛みが走った。手のひらが柄にこすられて、熱くなった。

「力くらべをするな」

 イルダは槍を引いた。

「勝てん。次」

 二度目は、遅れた。手のひらが届いたときには、柄はもう通りすぎていた。三度目は、杖を突くのが早すぎて、イルダに槍の向きを変えられた。革の袋の先が、湊の右の肩をこつりと叩いた。

 四度目の前に、湊は目を半分閉じた。

 イルダの匂いを嗅ぐ。汗が、前の足に移る。来る。

 《見切り》が、体の中で告げた。この突きは、湊が立っているところの、手のひら一つぶん奥まで届く。湊は杖を右へ突き、右足だけで半歩ずれた。

 槍の柄が、左の胸の前を滑ってくる。

 湊は、左の手のひらを、柄の横にそっと当てた。叩くのではない。濡れた岩に手を添えるように、当てただけだった。それから、柄が前へ進む向きに合わせて、手のひらを左へ流した。

 柄が、湊の手のひらの上を滑った。槍の先が、わずかに左へそれた。槍を突きだしたイルダの体が、半歩ぶん、前へつんのめった。

 イルダは、すぐに足を戻した。

「それだ」

 イルダは、槍を地面に立てた。

「獣も同じだ。宙にいるあいだは、地面を蹴れん。曲げられる。……押すのは腕ではない。体を杖でずらしておけ。腕は、最後に添えるだけだ」

 日が高くなるまでに、湊は十回のうち五回、柄を流せるようになった。手のひらは赤くこすれ、左の肩は重かったが、肩より上には一度も上げなかった。胸の骨も、鳴らなかった。

 イルダが槍の穂先から革の袋を外したとき、霧だまりの南の口に、セスが立っていた。

 背中に弓を負い、腰に黒い石の小刀をさげていた。セスは湊を見て、それから湊の赤くなった左の手のひらを見た。

「……風上から行くって話、忘れてねえからな」

 セスは言った。

「帰ってきたら、やる。逃げんじゃねえぞ」

 イルダとセスは、裂け目のほうへ歩いていった。二人の匂いは、すぐに霧に溶けた。

 *

 オーウェンの穴に戻ると、寝床の上に、細長いものが置いてあった。

 長さは、湊の前腕ほど。岩樺の樹皮を二枚、内側を合わせて細い筒にし、その上から山羊の革を巻いて、革の紐で縫いとめてある。口のところには、革の輪が一つついていた。腰ひもに通すための輪だ。筒の内側をのぞくと、山羊の毛皮が、毛を内に向けて貼ってあった。

「《欠けた月》の鞘(さや)じゃ」

 オーウェンが、かまどの向こうから言った。

 湊は、寝床の脇に置いてあった《欠けた月》を、右手で取った。六日前の夜に岩猫と戦ってから、ずっとむきだしのまま、寝床の脇に置いてあった短剣だ。握ると、指の骨まで冷たさが染みる。

 刃を、鞘の口に差しこんだ。毛皮の中を、刃がするりと滑って、奥で止まった。

 湊は、鞘ごと腰ひもの右に通した。

 腿に、冷たさが来なかった。いや、来てはいる。けれど、布で三重に巻いていたころよりずっと遠い。冬の朝に、窓の向こうの雪を見ているくらいの冷たさだった。

「樹皮が冷たさを止めて、毛皮が刃を守る。山の猟師が、凍った斧を運ぶときのやり方じゃよ」

「……これ、誰が作ったんだ?」

「ミラの母親じゃ」

 湊は、鞘を見下ろした。

 ミラは、里でいちばん小さな女の子だ。四日前、岩場から落ちて右のふくらはぎを深く裂いた。湊が《治癒》で傷の真ん中を閉じた。そのとき、ミラの母は、湊の手の灰色の光を見て、「白い外套の連中のものだ」と言い、娘を奪うように連れていった。

「あの人、俺のこと怖がってるだろ」

「怖がっとる。今もな」

 オーウェンは、鍋の中の煎じ汁をかきまわした。

「わしが頼んだ。あの女は、文句ひとつ言わずに縫いおった。縫い目を見てみい。あの女のは、里でいちばん細かい。……怖いのと、借りがあるのとは、別の話じゃよ」

 湊は、縫い目を指でなぞった。革の紐の目が、まっすぐに、きっちりと並んでいた。

 垂れ幕がめくれて、ノアが飛びこんできた。

「ミナト、見て見て」

 ノアは、右手を突きだした。新しい投石の紐だった。山羊の毛を撚(よ)った細い紐で、先に石をのせる革の受けがついている。腰には、小さな革の袋がさがっていた。中で、石がかちかちと鳴った。

「ミラの、おにいちゃんが、くれたの。前のは、すりきれてたから。……これ、すごく、まわしやすい」

 ノアは、紐を一度、空でまわしてみせた。風を切る音が、前より軽かった。

「夕方、夜露草、とりにいくの。みんなで」

「夜露草って、あの苦いやつか」

 オーウェンが、鍋から顔を上げた。

「おまえさんが、日に三杯も飲むからじゃ。蓄えが底をついたわい」

 夜露草は、湊が毎晩飲まされている煎じ汁の草だ。夜の空のような濃い青で、苦くて、あとでかすかに甘い。夜にだけ花が開くので、日が沈みかけて青い花がほころびはじめたころに摘むのが、いちばん見つけやすいのだという。生えているのは、裂け目の外の、霧の草地を流れる沢のほとりだ。

「イルダは谷だろ。誰が見張るんだよ」

「ロアンが、岩の上で弓を持っとる。外の口には、人間の娘もおる」

 オーウェンは、それだけ言った。湊は、鞘に手を置いた。

「俺も行く。口までなら、いいだろ」

 オーウェンは、湊の顔を長いあいだ見た。

「……まあ、おまえさんの鼻は、要るかもしれんのう」

 オーウェンは、杖で床を一度ついた。

「口から先へは、出るでないぞ。それと、今夜、焚き火で四十人に訊く。人間の娘のことをな。イルダが戻ってからじゃ」

 *

 日が西の崖にかかるころ、湊は、裂け目の外の口の手前にいた。

 岩の筒の天井が切れて、空が見えはじめるところだ。そこから外の口までは、十歩ほど。湊は、筒の壁ぞいの岩に腰をおろし、杖を膝に立てかけていた。

 外の口の向こうに、霧の草地が広がっている。

 草地は、学校の運動場ほどの広さだ。湊の正面、南へ向かって、ゆるく下っている。真ん中を、幅が大股で一歩ほどの沢が流れている。草地の左、東の側は樅の斜面で、黒い樅が斜面の上までびっしり並ぶ。右、西の側には、家ほどもある大岩がいくつか転がっている。いちばん手前の大岩の上に、ロアンが弓を膝に置いて座っていた。

 外の口のすぐ外には、栗毛と葦毛の二頭の馬がつないである。その脇に、リシェルが立っていた。

 右手に、木の枝。左の手には、錆びた籠手(こて)をはめていた。リシェルの祖父の籠手だ。沈黙の井戸の回廊で、祖父の骨から外して持ちだしたものだった。剣を預けてから、リシェルは毎日これをはめて、型をくりかえしているのだという。

 夜露草を摘む一団は、沢のほとりにいた。外の口から、南へ三十歩ほど。

 ミラの母が、腰をかがめて草をかき分けている。そのまわりに、子どもが四人。ミラと、ミラの兄の男の子と、もう一人の女の子と、ノアだ。ミラは、右のふくらはぎに白い痕が残っていて、まだ少し足を引きずっていた。

 ミラの母は、子どもたちを、リシェルからいちばん遠い岸に集めていた。リシェルは、外の口から一歩も動かなかった。

 沢のほとりの草のあいだで、青いものが、ぽつりぽつりと開きはじめていた。夜露草の花だ。

「あった! ここ、いっぱい!」

 ノアの声がした。子どもたちが、そっちへ寄っていった。

 日が、崖の向こうに沈んだ。

 風が、変わった。

 昼のあいだ、谷から上ってきて裂け目を里のほうへ流れていた霧の風が、止まった。かわりに、草地の冷たい空気が、湊の背中のほうへ、岩の筒の奥へ、吸いこまれはじめた。窪地の焚き火が温めた空気が崖の上へ抜け、そのぶん、外の空気が裂け目から吸いこまれるのだ。

 草地の匂いが、湊の顔に向かって流れてきた。

 馬の汗。濡れた草。子どもたちの匂い。ミラの母の、なめした毛皮の匂い。夜露草の、苦くて青い匂い。リシェルの胸当てと、籠手の錆。

 その奥に、別の匂いがあった。

 乾いた血と、湿った毛皮。松脂のような、脂の匂い。

 湊の背中が、冷たくなった。

 この匂いを、湊は知っていた。岩猫だ。しかも、二頭。片方からは、膿みかけた傷の匂いがする。六日前の夜に、湊とリシェルが斬った、あの二頭だった。

 そして、二頭の毛皮には、もう一つの匂いがこびりついていた。

 濡れた、古い毛皮。腐った肉。掘りかえした土。

 昨日の日暮れに、一息だけ嗅いだ、あの重い匂いだった。

 湊は、wikiを頭の中でめくった。〈岩猫は、狼の群れを嫌う。北の山に狼の群れが入ると、岩猫はその谷を捨てる〉。六日前の夜、湊は、この岩の筒の中で《咆哮》を出した。狼の群れの声を聞いて、二頭は谷を捨てたはずだった。

 捨てた谷に、戻ってきている。

 谷の奥の、もっと怖いものに、追われて。

 匂いは、草地の左、東の樅の斜面から流れてきていた。子どもたちのいる沢のほとりより、上のほうだ。

 湊は、杖をつかんで立ちあがった。

「岩猫だ!」

 声が、岩の筒に響いて、外へ飛びだした。

「左の斜面、二頭だ! 子どもを下げろ、口まで戻せ!」

 ミラの母が、顔を上げた。

 そのとき、沢の下手で、赤ん坊の泣き声がした。

 高く、長い声だった。子どもたちが、いっせいにそっちを向いた。沢のほとりの、子どもたちから二十歩ほど南の草の中に、ずんぐりした獣が姿を見せていた。大型犬ほどの山猫で、右の前脚を地面につけずに、三本の脚で立っている。膿の匂いの主だ。

 岩猫は、必ず二頭一組で狩る。一頭が正面で姿を見せて獲物の気を引き、そのあいだに、もう一頭が上かうしろから跳びかかる。湊がwikiに書いたことだ。正面の一頭は囮だから、見てはいけない。

 もう一頭の匂いは、左の上にあった。

 湊は、目で探した。沢のほとりの東の岸のすぐ上、樅の根元から、岩が庇のように張りだしている。高さは、大人の背丈ほど。その岩の上に、黒い影が伏せていた。耳の先に、筆のような毛。真下には、沢のほとりの子どもたちがいる。

「前のは囮だ、見るな! 上! 左の岩の上だ!」

 ミラの母が、子どもたちの腕をつかんだ。「みんな、こっち! 口まで走るんだよ!」と叫んで、外の口のほうへ引っぱった。男の子と女の子が走りだした。ノアは投石の紐を手に、二人のうしろについた。

 ミラが、遅れた。

 足を引きずって走りだしたミラは、濡れた岸の石に足をとられて、前へ倒れた。「ミラ!」と、母親の声が裏返った。

 岩の上の影が、身を縮めた。

 岩猫は、群れのいちばん弱い獲物を選ぶ。四日前に傷を閉じたばかりの、足を引きずる、いちばん小さな女の子だ。

 ロアンの弓が鳴った。矢は、岩の上の岩猫の前足の脇に当たって、火花を散らしてはねた。岩猫は、身じろぎもしなかった。

 湊は、頭の中で手順を唱えた。

 ――岩の筒の中から、外へ向かって吠える。反響で、狼の群れの声になる。岩猫は、狼の群れを嫌う。六日前の夜も、それで谷を捨てた。

 湊は、二歩うしろへ下がり、岩の天井の下に入った。草地のほうへ顔を向け、息を吸った。左の胸が、重く持ちあがった。

 吠えた。

 掠れた声が、岩の筒の中で何十にも重なった。狼の群れの声が、外の口からあふれだし、霧の草地に響きわたった。

 つないであった二頭の馬が、いなないて棹立ちになった。

 沢の下手の、三本脚の岩猫が、腹を草につけて身を伏せた。耳が、うしろへ倒れた。けれど、逃げなかった。

 岩の上の一頭も、耳を倒した。その頭が、一度だけ、うしろを振り返った。樅の斜面の上の、谷の奥のほうを。

 それから、また前を向いた。

 湊は、わかった。

 前には、狼の群れの声がする。けれど、うしろには、もっと怖いものがいる。二頭は、逃げる場所がないのだ。逃げる場所のない、飢えた獣は、狼の声では止まらない。

 そして、《咆哮》は、子どもたちも止めてしまった。

 倒れたミラが、両手で耳をふさいで、体を丸めていた。狼の群れの声だと思ったのだ。外の口へ走っていた男の子と女の子も、立ちすくんでいた。

 岩の上の岩猫が、跳んだ。

 湊のいるところからは、三十歩以上ある。杖をついた湊の足では、どうやっても間に合わない。

 リシェルは、湊が「岩猫だ」と叫んだときには、もう走りだしていた。

 外の口から沢のほとりまで、草の上をまっすぐに。リシェルは、跳んでくる岩猫と、倒れたミラのあいだに、体ごと飛びこんだ。

 かわす時間は、なかった。リシェルは、かわさなかった。

 左の腕を、前に突きだした。籠手をはめた腕だった。

 岩猫の口が、籠手に食いついた。

 鉄のきしむ、いやな音がした。岩猫の重さが、そのままリシェルにのしかかった。リシェルは、ミラに背中をかぶせるようにして、うしろへ倒れた。岩猫の前足の爪が、籠手の上の、むきだしの前腕を引き裂いた。もう一方の前足は、胸当ての革の上を滑った。

 リシェルは、右手の木の枝を、岩猫の顔に叩きつけた。

 枝が、半分に折れた。

 岩猫は、籠手を離さなかった。

 灰角は、受けない。相手の刃が来る前に、そこにいない。イルダは、そう言った。力がないからだ。

 リシェルは、人間だった。人間は、受ける。自分の腕で、受けとめる。うしろにいる子どもの代わりに。

「ノア!」

 湊は、叫んだ。

「目だ! 上のやつの目を狙え!」

 ノアは、もう紐をまわしていた。新しい紐が、空を切って低く鳴った。石が、草地の上を飛んだ。

 石は、岩猫の左の目のすぐ上に当たった。岩猫が、籠手を離して頭を振った。

 けれど、そのとき、湊の鼻に、別の匂いが近づいてきた。

 膿の匂いだ。

 三本脚の岩猫が、身を起こしていた。三本の脚で草を蹴り、沢のほとりを北へ駆けてくる。狙っているのは、外の口へ走っていく男の子と女の子と、二人のうしろのノアだった。

 湊は、杖をついて、外の口へ出た。

 外の口は、馬一頭がやっと通れる幅だ。両側は、灰色の岩の壁。湊は、口の真ん中に立った。背中には岩の筒、右と左には岩の壁。草地の側だけが、開いている。

 男の子と女の子が、湊の脇をすり抜けて、筒の中へ駆けこんだ。ノアが、口の手前で振り返り、また紐をまわしはじめた。

「ノア、おまえも中だ! 早く!」

 ノアが、湊の脇をすり抜けた。

 三本脚の岩猫は、口の手前、五歩のところで止まった。

 湊と、目が合った。黄色い目が、湊を見ていた。痩せていた。あばらが、毛皮の上から数えられそうだった。

 ここは、狭い。岩猫は、横へ回れない。上へ跳ぶ岩の棚も、この口のすぐ上にはあるが、三本脚では駆けあがれないだろう。来るなら、正面からだ。

 湊は、手順を唱えた。

 ――まっすぐ来る。前脚が一本ないから、跳ぶと、体が右へ傾く。杖を右へ突いて、右足だけで半歩ずれる。通りすぎる胴に、左の手のひらを添えて、左の岩の壁へ流す。押すのは腕じゃない。体のほうを杖でずらしておく。腕は、最後に添えるだけだ。

 岩猫の匂いが、うしろ脚のほうへ集まった。

 来る。

 岩猫が、跳んだ。

 湊は、杖の先を、右へ突いた。杖に重さを預けて、右足だけで半歩ずれた。腰は、ひねらなかった。

 岩猫の体が、湊の左の胸の前を、宙で通りすぎていく。《見切り》が告げたとおり、牙は、湊がさっきまで立っていたところの、手のひら一つぶん奥を噛んだ。

 湊は、左の手のひらを、通りすぎる岩猫の脇腹に添えた。

 毛皮の下で、あばらが動くのがわかった。湊は、岩猫が跳ぶ向きに逆らわず、手のひらを左へ流した。

 岩猫の体が、宙で左へそれた。

 そのまま、肩から、口の左の岩の壁にぶつかった。

 鈍い音がした。岩猫は、湊のうしろの筒の入口に落ちて、転がった。湊の左の肩のつけ根に、重い痛みが来た。けれど、腕は肩より上には上がっていない。胸の骨も、鳴らなかった。

 岩猫が、跳ね起きた。

 筒の中には、子どもたちがいる。

 湊は、杖を左の脇にはさみ、背中を口の右の岩の壁に預けた。右手で、腰の鞘から《欠けた月》を抜いた。毛皮の中を、刃が滑って出てきた。指は、凍えていなかった。

 岩猫が、低く、湊の足もとへ跳びこんできた。

 湊は、刃を振りあげなかった。自分の足の前、岩猫の鼻先が来る線に、刃を寝かせて置いた。

 岩猫の鼻面が、刃に触れた。

 濡れた紙を裂くように、鼻の上の皮が、横に割れた。

 岩猫が、赤ん坊のような悲鳴をあげて、跳びのいた。三本の脚で、口の外へ転がり出る。それから、一度も振り返らずに、草地を斜めに駆け、樅の斜面へ消えていった。

 殺さなかった。

 湊は、刃を鞘に戻した。殺すつもりで振っていれば、届いていた。けれど、湊はそうしなかった。理由を考えるのは、あとでいい。

 湊は、杖をついて、口の外へ出た。オーウェンには、口から先へは出るなと言われていた。

 沢のほとりでは、リシェルが、まだ岩猫の下にいた。

 ノアの石に目の上を打たれた岩猫は、いったん籠手を離したが、すぐにまたリシェルにのしかかっていた。今度は、リシェルの喉を狙っていた。リシェルは、籠手の腕を岩猫の顎の下に押しこみ、右手で首の毛皮をつかんで、牙を自分の顔から離していた。リシェルの背中の下で、ミラが、泣き声もあげられずに固まっていた。

 ロアンは、大岩の上で弓を引いたまま、撃てずにいた。岩猫とリシェルが、絡みあっている。

 湊は、一歩ずつ、近づいた。三十歩が、遠かった。

 そのとき、湊の横を、誰かが駆けぬけた。

 なめした毛皮の匂いがした。

 ミラの母だった。子どもたちを筒の中へ押しこんで、ひとりで引き返してきたのだ。右手に、毛皮を剥ぐときに使う、短い骨の柄の小刀を握っていた。

 ミラの母は、走りながら声をあげなかった。岩猫のうしろに回りこみ、膝をついて、小刀を岩猫の左の耳のうしろに突き立てた。六日前の夜、リシェルが斬った傷の、すぐ上だった。

 岩猫が、体をのけぞらせた。

 リシェルが、その腹を、両足で蹴りあげた。岩猫の体が、リシェルの上から外れて、草の上に転がった。

 ロアンの弓が鳴った。

 矢は、岩猫の胸の脇に深く刺さった。岩猫は、一度だけ脚で草を掻き、それきり動かなくなった。

 霧の草地が、静かになった。

 湊は、杖をついたまま、立ちつくしていた。

 *

 リシェルは、草の上に仰向けになったまま、荒い息をしていた。

 籠手には、岩猫の牙の跡が、深い穴になって四つ並んでいた。錆びた鉄が、ゆがんでへこんでいる。籠手の上の前腕には、爪の跡が三本、斜めに走って、血が草に落ちていた。

 ミラの母が、ミラを抱きあげた。ミラは、母の胸に顔を押しつけて、そこで初めて声をあげて泣いた。

 湊は、リシェルのそばまで来て、杖をつきながら、ゆっくり腰をおろした。体をひねらないように、右の膝から。

「生きてるか」

「見ればわかるでしょう」

 リシェルは、空を見たまま言った。声が、少しふるえていた。

「……籠手がなかったら、腕ごと持っていかれてたわね。ぞっとしないわ」

「なんで受けたんだよ。かわせなかったのか」

「考えてなかったわ。あの子が転んだのが見えて、体が先に出たの。……騎士の家の娘だもの。そう躾けられてるのよ」

 リシェルは、左の腕を持ちあげて、ゆがんだ籠手を見た。

「お祖父さまの籠手、また傷が増えたわ。……怒られるかしら」

 湊は、リシェルの前腕に、右の手のひらをかざした。

「治癒」

 灰色の光が、手のひらから出た。ろうそくの火ほどの、小さな光だ。光は、爪の跡のいちばん深い一本の縁を、ゆっくり寄せていった。目の前が、ふっと暗くなった。湊は、左の手を草について、体が傾くのをこらえた。

「使わないでって、言ったわよね」

「一本だけだって」

 深い一本が、薄い皮で閉じた。残りの二本は浅く、血はもう止まりかけていた。

 湊は、顔を上げた。

 ミラの母が、ミラを抱いたまま、湊の手を見ていた。灰色の光が消えるところを、見ていた。

 ミラの母は、ミラを連れて離れなかった。ミラが、母の肩から顔を上げて、言った。

「……あのひかり、あったかいんだよ。いたくないの」

 ミラの母は、何も言わなかった。ただ、娘の頭をなでた。

 湊は、草の上に倒れた岩猫を見た。痩せた体だった。そのそばへ、杖をついて寄り、鼻で息を吸った。

 乾いた血と、松脂のような脂。その下に、あの重い匂いが、毛皮の奥までしみついていた。濡れた古い毛皮と、腐った肉と、掘りかえした土。

 この二頭は、ずっと、あの匂いのそばにいたのだ。

 谷の奥から、沢を下ってくる足音がした。

 二人ぶん。走っている。イルダとセスだった。《咆哮》の声は、谷の上まで届いていたのだ。

 イルダは、草地の真ん中で足を止めた。倒れた岩猫と、血のついたリシェルの腕と、ゆがんだ籠手と、娘を抱いたミラの母を、順番に見た。

 ミラの母が、短く、何が起きたかを話した。

 セスは、何も言わなかった。リシェルの左腕の籠手を、長いあいだ見ていた。牙の跡の四つの穴を、見ていた。

「上で、何があった」

 湊が訊くと、イルダは、斜面の上の暗くなった谷を振り返った。

「沢の上の、樅の林。鹿が三頭、土の下だ。食いかけのまま、土を山にかぶせてあった」

 イルダの声は、低かった。

「そばの幹に、爪の跡。わたしが槍を上げても、届かん」

 湊は、wikiを頭の中でめくった。北の山の谷の魔物。どのページにも、そんな獣はいなかった。

「長に知らせる」

 イルダは言った。

「焚き火は、予定どおりだ」

 *

 その夜、窪地の真ん中の焚き火のまわりに、四十人が集まった。

 人間の娘を、里に入れるかどうか。オーウェンは、焚き火の前の岩に座って、それだけを訊いた。

 誰も、すぐには口を開かなかった。焚き火のはぜる音だけがした。子どもを膝にのせた母親たちが、顔を見あわせた。

 最初に立ったのは、ミラの母だった。

 ミラは、母の足もとにしがみついていた。ミラの母は、焚き火の向こうの四十人を見まわした。

「あたしはね、人間が嫌いだよ」

 ミラの母は言った。

「大っ嫌いだ。今だってね。家を焼かれた晩のことは、一日だって忘れたことないよ」

 誰も、何も言わなかった。

「でもね、あの娘は、ミラの前に立ったんだ。剣も持たないでさ。自分の腕なんか噛ませて、ミラに覆いかぶさって」

 ミラの母の声が、少しだけふるえた。

「家を焼かれた晩、人間は誰ひとり、あたしらの前に立たなかった。……あの娘は、立った。それだけ。それだけだよ」

 ミラの母は、座った。

 薪割りの斧の男が、黙ってうなずいた。石の臼を挽く老人が、胸の丸を握ったまま、片手を上げた。ひとり、またひとりと、手が上がった。

 セスは、手を上げなかった。

 オーウェンが、セスを見た。

「セス」

 セスは、焚き火を見ていた。

「おれは嫌だね。人間なんか、入れたくねえ」

 セスは言った。それから、少し黙った。

「……けど、あの籠手の穴は見た。四つともな。だから、反対はしねえよ。賛成もしねえけどな」

 オーウェンは、杖で地面を一度ついた。

「決まりじゃな」

 イルダが、自分の穴へ歩いていった。戻ってきたとき、両手に、二本の短い剣を持っていた。リシェルの双剣だった。

 イルダは、そのまま裂け目のほうへ歩いていった。湊は、杖をついて、そのあとを追った。

 裂け目の外の口で、リシェルは、腕に布を巻いて座っていた。イルダは、リシェルの前に立ち、双剣を差しだした。

「返す」

 リシェルは、立ちあがって、剣を受けとった。腰のうしろに、交差させて差した。

「……ありがとう。手入れまで、してくれてたのね」

「礼は、ミラの母親に言え」

 イルダは、裂け目の奥へ顎をしゃくった。

「来い。長が、待っている」

 リシェルは、岩の筒の中へ、一歩、足を踏みいれた。

 人間が、灰の里の裂け目をくぐるのは、初めてのことだった。

 *

 オーウェンの穴のかまどのそばで、リシェルは、垂れ幕の内側を、ゆっくり見まわした。

 天井から逆さに吊られた草の束。黒い土の鍋。毛皮を重ねた寝床。

「ふうん。ここで、ずっと寝てたのね。……草の匂いばっかり」

「ああ」

 かまどの向こうで、オーウェンが目を閉じていた。眠っているのか、いないのか、わからなかった。

 垂れ幕がめくれて、ミラの母が入ってきた。手に、木の椀を一つ持っていた。中に、夜の空のような青い煎じ汁が入っていた。

 ミラの母は、湊の前に椀を置いた。

「今日摘んだ分。熱いうちに飲みな」

 それから、湊の顔を見ずに言った。

「……あんたのことは、まだ怖いよ。怖いからね」

「……ああ。知ってる」

「鞘。きつくないかい」

 湊は、腰の鞘に手を置いた。

「ぴったりだ。ぜんぜん冷たくない。……ありがとう」

 ミラの母は、うなずきもせずに、垂れ幕の外へ出ていった。

 湊は、椀の煎じ汁を飲んだ。苦かった。それから、かすかに甘かった。

 リシェルが、湊の右の手を取った。手の甲に、指で書いた。

 〈ばか〉

「口から先へは出るなって、言われてたんでしょう。ノアが言ってたわ」

 湊は、左の手を持ちあげた。肩より上には、上げなかった。親指と人差し指と中指は、曲がる。湊は、リシェルの右の手のひらを上に向けさせ、左の人差し指で、ゆっくり書いた。

 〈おまえも〉

 リシェルは、手のひらを見下ろした。それから、小さく笑った。

「書きかえせるように、なったのね」

 かまどの向こうで、オーウェンが、目を閉じたまま、低く鼻を鳴らした。笑ったのかもしれなかった。

 穴の外で、夜の風が、裂け目から窪地へ吸いこまれていた。

 湊は、その風を、鼻で吸った。

 焚き火の煙。山羊。草地の夜露草。それだけだった。重い匂いは、今夜は来なかった。

 けれど、それは谷の奥にいる。鹿を三頭、土に埋めて。

 湊のwikiのどこにも、載っていないものが。

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