第8話 いつかやらなきゃいけないこと
「今日はわたしに付き合ってもらうわよ」
「付き合うって何に」
「わたしの記憶探し」
何当たり前のこと聞いてるのって顔で答えるユリカ。
「つまり?」
「ナオトくんの社会復帰」
「えぇーじゃパチプロになりたい・・・」
「無理に決まってるでしょ! 普通に負けてるし、もしかしたら記憶戻るかもって思って一昨日は付き合ってあげたけど記憶戻る気配全然ないし」
「仮に俺が仕事でも始めたとして本当に記憶戻るのか?」
「正直なところ分からない。でも、そこだけは怖いくらい確かなの」
「怖いくらい?」
「うん。何も思い出せないのに、ナオトくんを放っておいちゃいけないってことだけは、最初から知ってたみたいに分かるの」
「本当かねぇ・・・」
「と! に! か! く! やってみなきゃ分からないわ。それに働く気が全くないわけじゃないんでしょ?」
置きっぱなしにしていた求人誌を指さすユリカ。
――確かに働かなくてはならないとは思っている。シビアな現代社会は働かずに生きていくことを許さない。尽きかけの通帳が頭をよぎりげんなりとする。
「・・・まだ二日だけどナオトくんと過ごしてみて分かったことがあるわ」
「分かったこと?」
「ナオトくんはまだ詰んでない。外にだって出れるし、少しなら会話だってできる」
少しなら。
「でも人怖いよ?」
「それは分かってるわ。なら人とあんまり話さない仕事をすればいいんじゃないの」
――そんなことはとっくに気付いてる。小説家、アフィリエイト、イラストレーター、転売屋・・・思いついたのは全部試してみた。でも無理だと気付いたから今の俺があるんだ。
「簡単に言うんじゃねぇーよ・・・」
働くなんて無理無理と不貞腐れて布団に寝転ぼうとした時だった。
「あーもう寝ちゃダメ!」
そう言いながら、ユリカはふと自分の手を見た。
「・・・あれ?」
「なんだよ」
「ううん。なんでも」
その姿には触れようとすれば空を切るような不思議な透明感があった。
「なんだろう・・・戻される? ような感じがしたの」
「・・・どこに?」
「・・・分からない。でも、ここじゃないところ」
曖昧な言葉に反して、なぜかそれは絶対的な理のように思えた。
「だから、社会復帰・・・してみない?」
“だから”・・・
そこに繋がる論理は曖昧で、けれども不思議と筋が通ってしまっているような気がした。
「・・・しなきゃここにいられなくなるような気がする」
――なら、そのまま帰れば良い。
冷淡に見放す言葉が口をつきかけた。
見るとユリカは怒るでも、笑うでも、泣くでもない顔をしている。
けれども無表情ではない。それは祈りの顔だった。
その表情の遙か後方には過去が見える。記憶の底に沈んでいたはずの光景が、ゆっくり浮かび上がってくる。
――病室に小さい頃の俺がいる。
そこで俺は見惚れていた。窓の外には夕日に燃える街がある。その炎で淡く照らされるその子の顔は、まるで空から落ちてきたみたいに綺麗で、再び空に還るような儚さがあった。
「来てくれたんだ。ナオトくん」
そう言いながら微笑む顔の中には、まるで世界の秘密があるようで、だから、その顔を見るたびに、もっと笑った顔を見てみたいと思った。
顔を上げると、儚く笑う表情に変わった顔があった。ほんの少しだけ、もうちょっとその顔を見たいと・・・そう、思ってしまった。
「・・・すればいいんだな。社会復帰ってやつを」
そう言いながら、つまむように求人誌を持ち上げる。つまんだ側と反対側にページが、がさがさと落ちる。
「あら、やっぱり働かなくちゃダメって、ナオトくんも思ってるんじゃないの」
「・・・貯金無くなりそうだからな」
それは、どうしようもない真実であり、嘘でもあった。
求人誌が偶然見せた文字を見て呟くユリカ。
「ふーん。確かにこれならナオトくんでもできそうじゃない」
「これなら・・・できそうだな」
熟考も何もなく、ただ偶然が遊ぶままに選ばれた仕事は飴工場のライン作業だった。
ライン作業――昔テレビで見た、話をすることなく淡々と単一の作業を繰り返す人の姿。実際これならやれなさそうなこともない。
怖いと思い続けてきた。怖いからできなかった。でも今は追い風がある。
ユリカがいて、一昨日はパチンコ、昨日は競馬にも勝った。
そういうどうでもいい偶然まで、今だけは追い風だと思うことにした。
どうせいつか働かなくちゃいけないんだ。
それが今だと、決めつけて無理やり風に乗る。
こういうのは勢いが大事だとどこかで聞いた気がする。だから勢いよく携帯電話を取りだした。即座にこれまで五千回以上は練習した台詞を頭の中で復唱し始める。
“こんにちは、アルバイトの申し込みをしたいのですが”
“こんにちは、アルバイトの申し込みをしたいのですが”
“こんにちは・・・
黒い液晶はどこまでも深く見える。ボタンをタップして電話番号を入力するたびに指が沈んでいきそうな気がした。・・・あとはコールボタンを押すだけだ。
「押さないの? 電話かけるんでしょ」
「あぁ押すから・・・ちょっと心の準備をだな」
「えい」
!? あぁ! ユリカはこちらを見てにやりとしている。
すぐさま切るか悩んでいると。ものの1コールで応答があった。冗談じゃない。
「こんにちは、アルバイトの申し込みをしたいのですが」
練習していた言葉だけが、かろうじて口から出た。
試練の開幕だった――否定的な言葉を口にするのが怖くて、ただ「はい」と「お願いします」を繰り返していると、なんと今日の・・・それも二時間後に面接が決まってしまった。
どうやら工場は人手不足らしい。断られることを期待したけど、躊躇いに反して舞台が整いすぎるくらい整っていた。
「ライン作業なら・・・俺でもできそう、できる」
自分に言い聞かせながら仕方なく準備をする。
「ちょっと地味だけど良いじゃない! 面接頑張ってね!」
ユリカの無責任な応援にいやいや背中を押されながら、押入れからスーツを取り出す。大学の入学式以来だ。
「ちょっと、しわしわじゃない。貸して!」
スーツをひったくるユリカ。
「アイロンはどこ?」
「あるわけないだろ」
「ニートに期待したわたしが悪かったわ」
と台所に向かい鍋に湯を沸かし始める。
「・・・何してんの」
「なべ底ってアイロンの代わりになるのよ。ナオトくんの門出だからね。ピシっとしないと」
「まだ働けるって決まったわけじゃないぞ」
「でも・・・大事な一歩でしょ」
――大事な一歩。日常が急転直下過ぎる。こいつが現れたのがほんの三日前。不可解な成り行きとはいえ、同居が始まったりして、そして今、アルバイトの面接まで漕ぎつけている。
超常的な何かが俺の背中を押している。そんな気がしてならない。
「さぁ行きましょう!」
ユリカは手を差し伸べる。
その声に押されて鞄に昔書くだけ書いた履歴書を乱雑に突っ込んだ。
家を出る直前、不意に目に入った鏡に、髭を剃って、パリッとしたスーツに包まれる俺がいた。
見た目だけは社会人だった。
気持ちは・・・後からついてくるだろう。




