第9話 社会まで約二百メートル(≒無限)
俺の未来のバイト先は家の近くにあった。歩いて30分。自転車なら10分くらいだ。
近くの公園で時間を調整する。春の陽気が嫌な湿度を孕んでいた。
「東京にも工場ってあるものなのね」
「あぁ・・・」
これから始まる面接が頭の中を支配して、気の利いた返事の一つもできやしない。
痛いくらいの鼓動は、いつしか震えに変わっていた。
「ねぇ、ちょっと大丈夫?」
「・・・大丈夫じゃないかもしれない」
正直言って面接に行ける気がしない。今が脱ニート千載一遇の機会だと分かっていても身体が付いてくる気配がない。
――想像以上だった。社会に踏み出す一歩の怖さってやつは。
「・・・でも行かなきゃ。どうせ、いつかやらなきゃいけないことだ」
「頑張ってね・・・?」
とりあえず、面接が始まれば勢いで乗り切れる・・・そんな極小の期待を込めて、ふらふらと工場に向かった。
面接15分前。甘い匂いが鼻の奥に張り付く。
俺は飴工場の門の前で立ち尽くしていた。ユリカといる間はわずかに紛れていた不安が一気に襲い掛かってくる。
全身が震える。
口の中が乾いて唾を飲み込めない。
胃の奥がきゅっと痛んで吐き気がする。
ガタガタ震えて頭が真っ白になって俺は・・・門とは逆方向に走り出した。
走っていると色んな街の風景がやけにクリアに見えた。
コンビニ、オフィスビル。
音はなくても労働の匂いが息をひそめて、でも確かにそこに存在している。
道路の街灯、虫がたかる自販機。無人のそれらも誰かの労働によって夜になれば煌々と街を照らす。
――この社会は誰かの仕事でできている。
その一端に俺はいない
――社会の中に俺は存在できない。
鬱っぽくなって、膝に手をつく。
四万キロメートルにも思えた道のりはたったの二百メートルくらいで、でもたったそれだけの距離で息切れした。
酸欠気味でふらふらしてぼーっと歩いていると、ユリカが目の前に居た。
自然とこの足はこいつの前に向かっていたらしい。
「ごめん。やっぱり無理だ」
単純極まりない敗北宣言に詰みかけの現実が見える。働くどころか面接にさえ行けない。
何も言えなくなってうつむいていると、さらりとした髪が俺の腕に触れた。
スーツの裾のしわを伸ばすユリカ。早まった鼓動がこいつに気付かれるんじゃないかと思った。
「ごめんね、ナオトくん。わたしのせいで無理させちゃったみたい」
顔を見るとユリカは・・・慈悲深い、まるで女神みたいな表情をしている。初めてユリカの顔をじっと見つめる。
――やっぱり、あの子にそっくりだった。
確かめたい。好奇心が鼓動を落ち着かせた。
もしユリカがあの子の幽霊だとして、俺を助けたいと思っているならそれに答えないのは不義理ってやつだろう。
仮定に仮定を重ねて無理やり動機を作り出す。
自分ひとりじゃ動けない。でも、あの子の・・・人生でたった一人の友達の願いとなれば、この奇怪で奇妙な不条理に身を任せてみるのも悪くない。
ふーっと息を吸って、恐怖を飲み込む。
怖いものは怖い、でも呑み込んでしまえば俺のものだ。どう頑張っても恐怖は消えない。それを内面化して飼いならして、一歩踏み出してやろう。
「待ってろよ面接」
概念にそれ自体に、半分意地で、もう半分はやけくその宣戦布告をして、俺は再び歩き出した。
†
結論から言おう。面接の結果は大敗北だった。
いや結果さえ出ていない。俺は面接を投げ出してユリカと帰路についていた。カッコなんて飴玉一つ分もつけられなかった。
「鷹無ナオトと申します。本日は貴重なお時間をいただきありがとうございます。どうぞ、よろしくお願いいたします」
頭の中で無限にシミュレーションした言葉を吐き出す。
「はい、よろしくね」
書類とかが散らばった事務所の片隅にあるパイプ椅子が俺の舞台だった。
「履歴書見せてくれる?」
「はい」
視界に映る大学中退の文字がやけに大きく見えた。
「じゃ鷹無さんの口から経歴教えてくれるかな」
一瞬、頭がフリーズするが何とか答える。
「――大学を中退してからは今まで三年間資格勉強をしていました」
これもシミュレーションしていた言葉。
「資格勉強か。その間他のバイトとかはしていたのかな」
「・・・していませんでした。これが初めての仕事になります」
「要するに大学中退後三年間無職と」
・・・おっしゃる通りです。
「あぁ気にしなくてもいいよ。同じような人いっぱいいるから」
「あ、ありがとうございます」
「でも、どうして働こうと思ったのかな、教えてくれる?」
この回答はシミュレーションしていない。
どうして働く?
家から近い・・・お金・・・それまでと言えばそれまでだ。
でもこの答えでいいのか? もっと気の利いた模範解答があるんじゃないか?
どうする?
どうする?
どうする?
――働けばユリカの記憶が戻るかもしれないからです。
――それが友達の幽霊の願いだからです。
沈黙の時間が肌を突き刺す。面接官の視線が心臓を穿つ。
ぐるりと回した目の中に、事務所の窓を通りかかった作業着姿の人がいた。その人と俺への間には絶対に越えられない膜のようなものがある気がした。
仮に上手く答えられたとして、その先にあるのは労働だ、働けばきっといろんな人と話すことになる。
なんとなく想像はついている。その上で目をそらしていた。ライン作業だってチームプレイだ。後流の人と状況を共有しなきゃいけないし、ライン作業中にトラブルがあったらもちろん報告必須。
Q.今の俺にできるか?
A.できない。
さっきこしらえた付け焼刃の自信が、一気にしぼんで眩暈がした。
――やっぱり俺はまだ、社会に出られない。
「・・・すいません。やっぱり大丈夫です。貴重な時間をお取りして申し訳ございませんでした」
「大丈夫って・・・落ち着いてもうちょっとゆっくり考えてもいいから・・・」
逃げるように荷物をまとめる。
おおよそ不審者にしか見えないであろう自分の姿を想像すると吐き気がした。
逃げてしまった罪悪感と、悟ってしまったどうにもならない現状だけが頭の中を支配する。当然ユリカへ伝える言葉は何も思いつかない。
ふらふらと公園に戻ると数十分前とユリカは変わらない様子で待っていた。その姿をみると急に申し訳なさがこみ上げた。
「ごはん食べて帰ろっか」
それだけ言うと、ユリカは何も聞かず、何も言わず俺の手を引いて歩き出した。
帰り道に食べた有名らしいうどんはあんまり美味しくなかった。
――沈黙。
家に帰ってからも、会話する気になれず、布団にくるまり思考を堂々巡りさせる。
ユリカが来る前・・・一人きりで引きこもっていた時は、いざとなれば何とかなるだろうと楽観視していた。けど、突きつけられた現実は無慈悲に俺を押しつぶして、頭の片隅の貯金残高が、まるで余命宣告みたいにさらにのしかかってきた。
自分でも知らないうちに、俺はもうとっくに詰んでいたのかもしれない。
「・・・ごめん、ユリカ。おまえの記憶は戻せない」
布団が話す。俺だ。
「いいよ・・・ナオトくん。社会復帰のこと、甘く考えていたみたい・・・だから、ごめんね。少し休んで、そしたら、もっとちゃんと準備して頑張ろ?」
「うん・・・」
――頑張る。
曖昧で、具体性のない言葉。何を頑張れば良いのか、今の俺には分からない。
憂鬱で頭に靄がかかるときは眠るに限る。
ニートライフで身に着けた対処療法を試そうにも変に頭が冴えて眠れない。
ぼんやりと布団の繭に包まれていると、暗い穴の淵に立っている俺がいた。
底さえ知れない闇が光に見えて俺はそこへと飛び込んだ。




