第3話 誰かと食う飯
子供のころ、父さんの働く病院が俺の遊び場だった。
学校の“お友達”のテリトリーには行けなくて、父さんと母さんの目が届く場所だけ安心することができる。
今日は何をしようか、いつもみたいに病院の広場に向かうと見慣れない姿があった。
不安げに、まるで今日初めて外に出たみたいな様子できょろきょろしている。まるで学校にいる自分を見ているみたいだった。だから、その気持ちが手に取るように分かった。
「あそぼう?」
その言葉を言ったのは彼女か俺だったか、今となれば思い出せない。ただその日から少しだけ楽しい日々が始まったのは確かだった。
売店で買ったジュースを半分こしたり、意味もなくベンチの上でジャンケンを繰り返したり。どうでもいい時間が、なぜか全部楽しかった。
でもそんな日々は唐突に終わりを告げる。
「あの子は5階に行ったんだ」
こっちを見ずに、独り言みたいに父さんは言った。
――5階。子供だけじゃ行っちゃいけない場所。泣いている人が出てくる場所。
何日待っても、あの子は来なかった。だから、また一人で遊んだ。病院の広場が無機質で冷たい場所だってことに、初めて気が付いた。
「あの子、退院したよ。・・・これ、ナオトにって」
ある日、突然言われた一言だった。
変な箱を渡しながらつぶやく父さんの目は、クリスマスの朝に「サンタさんがくれたんだぞ」と言うときと同じで、どこか本当のことを隠している顔だった。
†
「なにそれ?」
「なんでもない、ただの箱、鍵がないから開けられないんだ」
「ふぅん変なの」
「変・・・だけど、俺には大切なものなんだ」
積もった埃を払って元の場所――デスクの端っこに置く。
変だと流しつつもユリカの視線がこの箱を追っていたことを俺は見逃さなかった。
――生死を留保させ続けることだけが幼い俺の生存戦略だったように思う。だから、あれ以降詮索することはなかった。時の流れと共に面影さえも薄れていったあの子。本当に名前がユリカだったのか、その名前さえも、いつしか定かではなくなっていた。
「なにぼーっとしてるの、片付けの手止まってるわよ!」
止まる俺に檄が飛ぶ。そうだ、今は掃除の時間なのだ。
曰く「こんな汚いところでわたしが生活するなんて許せない」とのことらしい。
図々しいやつである。
俺の家なのにユリカが、あれやこれやと指示を出すことに内心違和感を覚えながら、不可解な存在に逆らうことが怖くて、ただ手と足を動かした。
「ちょっとナオトくん信じられないんだけど」
「どうした?」
「どうしたって、なんでお皿にカビが生えてるのよ! 洗うわよ」
グイっと俺に向けて差し出すあたり「洗え」とのことらしい。
「はいはい・・・」
汚れた食器がたまったシンクと渋々向き合いながら、乾ききったスポンジに数日・・・あるいは数カ月ぶりに水を染み込ませる。
うへぇと思いながら皿を洗っていると掃除機の音が聞こえてきた。どうやら久しぶりに床が姿を現したらしい。
「約束。床に物を置かないこと、ゴミはすぐゴミ箱に捨てること。いいわね」
「・・・」
窓から夕日が一直線に差し込んでいた。かつてその光の中で、埃だけがやけに煌めいていたことを思い出す。
今日一日、いや、一日すら経たない間に俺の日常は確かに変わり始めた。
「カップ焼きそばって焼いてないわよね」
「まぁ旨いからいいんじゃねぇの」
「それはそうね」
――二分。そろそろだな。
「よし、湯を捨てるぞ」
「ちょっと早くない?」
「まぁ見てろって」
本当は皿に移した方がいいらしいけど、そのまま電子レンジに突っ込んで一分待つ。
「できたぞ」
くんくんと匂いを嗅いで麺を啜るユリカ。瞬間目を見開く。
「美味しすぎる!? ・・・もしかしてカップ焼きそばのプロ?」
「お、少しは見直したか」
「ナオトくんの査定を更新しなきゃいけないわね」
「俺って査定されてたんだ」
「人類平均は50だとして」
「ほう」
「ナオトくんは7」
「低すぎないか?」
「喜びなさい。今ので8になったわ」
「誤差じゃねぇーか」
貴重な食料を分け与えたのになぜか罵倒されてしまった。
でも、久しぶりに誰かと食う飯はちょっとだけ旨かった。
「さ、ご飯食べたし寝るわよ」
押入れにこしらえたユリカスペースに入り込むユリカ。侵犯された俺の押入れに別れを告げながら、数時間ぶりのニートタイムを迎え入れた。これでいいのか?
――読みかけの本を消化しようとするが、同じ空間に誰かいると思うと、目が滑って集中できない。しかし眠ろうにも、朝に寝て昼過ぎに起きる生活リズムは俺を寝かせてくれない。ただ思考を堂々巡りさせる。
現実をベースラインにして考えるなら・・・
記憶喪失の女の子が混乱の果てに俺の部屋に迷い込んだ・・・
実はこの部屋の元住民だったりして、何らかの侵入方法を知っていた。無くはない線だ。
しかし、あの面影、俺への執着、不可思議な出現。
導き出されるのは妄想じみた仮説。
――あの子の、幽霊・・・。
馬鹿じゃねーの。でもそんな現実離れした妄想が現実に思えてしょうがない。
いいや、あるいは俺は・・・そう思いたいのかもしれない。
結局、眠りにつけたのは朝陽が顔を出した五時くらいで、その二時間後にはユリカが俺を叩き起こすのだった。




