第29話 願い
夜の病院は昼間よりもさらに高く大きく見えた。
「こっちだよ。ナオトくん。抜け道あるから」
ユリカに連れられて正門ではなく裏門を目指す。
――その抜け道のことはよく知っていた。俺とあの子が何度も通り抜けてみては戻った場所だからだ。
「正面から入ろう。ユリカ」
「え? 大丈夫なの」
「任せてくれないか」
ユリカを待たせて単身正面から病院に入る。入る間際に振り返ってユリカの姿を確かめた。
「多分一人の方がスムーズだよな・・・」
不安を紛らわせるように呟いて、夜間受付に向かった。
数年ぶりに足を踏み入れる病院でも、夜間受付の場所は身体が覚えていた。
面会受付の時間はとうに過ぎている。それを理解してなおカウンターの上にある呼び鈴を押した。
やがて、眠そうな顔をした警備員さんが姿を現した。
「もう受付時間は終わりですが・・・」
予想通りの言葉だ。
この手を使うのは卑怯だと思いながら父さんの名前を出した。
「昔、ここにいた鷹無医師の息子です。父が残したものについて、どうしても確認したいことがあります」
無論、父さんの子供であること以外は嘘だ。警備員さんはどこかに内線をかけている。もしかしたら応援でも呼ばれているのかもしれない。
緊張に身体を固めながら一秒ごとに時間を待つ。
膨張する時間と点滅する受付の電光が久しぶりに病院を訪れたことを知らせていた。
そんな時間の中でパタパタと駆ける音が聞こえた。
姿を見せたのはどこか見覚えのある看護師さんだった。
「ナオトくん、お葬式以来ね・・・って覚えてないか」
「すみません、あの時のことは・・・」
父さんと母さんのお葬式。・・・断片化された記憶が少しずつあるだけ。
「いいの、気にしないで。ナオトくんのお母さんと父さんにはお世話になったし・・・今回は特別。本当は絶対ダメだからね・・・三十分だけ。他の部屋には入らない。約束できる?」
言い聞かせるように問いかけられる。
「大丈夫です。用事を済ませたらすぐに出ます」
逸らしたい気持ちを抑え込んでまっすぐ目を見る。
「いつか来ると思ってた・・・。きっとあの患者さんに・・・」
「あの患者さん? ・・・はい、そうですその人に会いに・・・」
どこか意味深な言葉を取り込んで自分の理由に変換する。
「分かった。しっかり挨拶するのよ」
「もちろんです」
誰にするのか分からない挨拶を約束すると、仮の入館証が手渡された。綱渡りみたいなやり取りがどうやら功をなしたらしい。
看護師さんと警備員さんが持ち場に戻ったのを確認してユリカの場所へ急ぐ。
「ほら、入れるぞ」
「やるじゃない。どうやったの?」
「母さんと仲良かった看護師さんに借りた」
「そう、なんだ」
どこか遠く、優し気につぶやいたユリカを連れて入館ゲートを通る。
「ここからどこに行くんだ?」
その答えは彼方から、それでもはっきりと聞こえた。
「・・・5階よ。そこに箱の鍵がある」
――不思議と驚きはなかった。
まるでこれから俺たちがそこに向かうことがとっくに決まっていたかのように感じた。
「分かった。行こう」
自然と、ユリカに向かって手が伸びた。
「うん。ナオトくん」
それは、多分叶わないだろうと思いながら、それでも世界につなぎとめるようにユリカの手の平を掴んだ。
†
夜の病院は人の気配が薄くて、音がやけに響く。コツコツと響く足音の一つ一つが引き返せと言っているように聞こえる。
――いいや、俺は帰らない。俺はユリカの願いを完成させる。
「・・・5階、だったな」
エレベーターのボタンを押す。扉が開くまでの時間がやけに長く感じたけれど、やがてその扉は確かに開いた。
上昇する感覚が俺を下へと押さえつける。階層の表記がカウントダウンのように見える。そんな時間の中でふとユリカが口を開いた。
「時間切れなの」
「・・・」
「だから、箱を開ければもう、おしまい」
――じゃ開けなければ良い。
・・・いいや。違う。
「箱は開ける。それでもユリカは残る。おしまいじゃない。おしまいにはしない」
ユリカの手をより強く握る。ユリカと過ごした時間は、どれも神様がくれた例外事項のようで、だからもう一つくらい例外もあり得るんじゃないか。願いを口に出せば、それは叶うんじゃないかと期待した。
チン、と乾いた音が鳴る。焦らすようにゆっくりと扉が開く。
――空気が違った。
重いとか、冷たいとか、そういう単純な言葉じゃ足りない。時が凍っていた。
その重圧に立ちすくんでいるとユリカが促した。
「・・・こっちよ、ナオトくん」
小さくつぶやいたユリカの足に迷いはない。
「あぁ」
短く返す。
廊下の先に、ナースステーションの灯りが消えそうなくらいぼんやりと見えた。
「こっち」
その背中を追う。数歩進んだところで、足が止まりかけた。
――怖い。ただ怖いと思った。
「ナオトくん」
振り返らずに、ユリカが言う。
「大丈夫。・・・今のわたしはここにいる」
――それだけで、足が動いた。個室の前でユリカが止まる。名札がかかっている。でも、見なくても分かった。ここだ。
ドアノブに手をかけ、一瞬だけ躊躇って、そして開けた。
「・・・あぁ」
瞬間、目が開いて声が漏れた。
――ベッドの上に、少女がいる。
細い身体。
規則正しく上下する胸。
いくつもの管。
眠っている。
ただ、それだけの姿。
心の中の“なんとなく”が全部つながる。
――ユリカがあの子で、あの子がユリカだ。
気づけば、手の中に箱があった。――鍵穴。
そして、彼女の手。
わずかに握られた、その指の中に。
「・・・ある」
かすれた声が出る。予定調和みたいにその手に鍵が握られていた。
「ナオトくん」
隣に立つユリカが、静かに言う。
「開けられるよ」
優しい声だった。ただ、事実を告げる声。手を伸ばせばいい。鍵を取って、箱を開ければいい。それだけだ。
箱の中に俺を社会に戻す何かが・・・
ユリカに社会復帰の時間だと叫ばせた何かが・・・
目前に居る彼女の伝えたい言葉が・・・ある。
きっと、全部分かる。箱を開ければ分かる。
手が、止まった。もし、ここで全部分かったら。
俺は、どうなる?
納得して、終わるのか? ――今度は救われた気になって、また止まるのか?
逃げ続けてきた時間。
何もしてこなかった時間。
考えないことで、やり過ごしてきた時間。それを。
また、繰り返すのか?
ここまできて、別種の恐怖が俺の中で産声を上げ始める。
「怖がらなくていいよ。ナオトくん」
――声が聞こえた。あるいは聞こえた気がした。眠る彼女を見つめる。
「分かった」
彼女の手から鍵を取る。時間の流れを感じさせないほど、鍵は、すんなりと鍵穴に入り・・・そして――箱は開いた。
――箱の中には、ただ紙切れが一枚入っているだけだった。刹那、それは手紙だと悟る。目の前の少女が届けた手紙だと。
ただ読む。
そして、・・・分かった。
これを伝えたくて、たったこれだけのことを伝えたくて、ユリカが俺の前に現れたのだと分かった。
このことを、知らなかったから。
彼女の期待を、祈りを、たったこれだけの言葉がなかったから動けなかったのだと、今、理解した。
応えたい。応えなければいけない。そう、思った。
規則正しい機械音だけが響く。
ユリカが、ふっと息を吐いた。それから、ただ笑った。
「きっと、また会いに来て欲しかったんだよ」
鍵を見つめながらユリカが言う。目の前の少女と自身との隔たりを必要とするかのように、どこか他人事だった。
「・・・帰るか」
「うん」
箱をしまって、鍵を少女の手の中に戻した。
――ユリカはまだ、ここにいる。今はまだ、ここにいる。だから一緒に帰る。それだけだ。
来た時よりも、足取りは軽かった。
まだ何も解決していない。
まだ何も終わっていない。
それでも、確かに、何かが変わった気がした。エレベーターの扉が閉まる。
5階の表示が、ゆっくりと遠ざかっていく。その瞬間、ふと気づいた。
隣に立つユリカの輪郭が、少しだけ――薄くなっていることに。




