第25話 落ちた夢の先で
翌朝、いつものように河川敷に向かうとバスは来なかった。
次の日も、そのまた次の日も迎えは来なかった。
無職男は、また無職男に戻ったのだった。
「お礼言えてないな」
おじさんに、一緒に働いた人たちに、何も言えていない。
――子供の頃、通学路のどこかの家からカレーの匂いがした日があった。
嬉しくなって、もう一度嗅ぎたくて少し引き返した。でも、その時にはもう消えていた。
そんな、遠い頃が頭に浮かんだ。
――伽藍洞の部屋の中に新年が訪れた。寒さから身を守るように布団を体に巻き付ける。ミノムシみたいだ。
貯金は早くも目減りはじめている。仕事を見付けなければならない。分かっていても身体は動かなかった。
しょうがないから神様に祈ってみることにした。渋々布団を出て近くの神社を目指す。曇り空のお正月だった。
ほつれかけたコートを強く体に巻いてふらふら歩いていると、走っている子供が目に入った。
新年で嬉しくなっているのだろうか。俺も子供の頃は正月に浮き立つ街の雰囲気を敏感に受信して、嬉しくなっていたなぁなんて思っていると、子供がつまずいた。
「危ないよ」
考えるよりも先に身体が動いた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
良かった。まだおじさんとは言われないようだ。
子供を離すと遠くで親らしき人が頭を下げている。小さくうなずき返してから再び神社を目指した。
†
神社に着くと、そこは人であふれていた。出店から出る煙は絶え間なく空へと上がり続ける。神社を彩る提灯は血みたいに鮮やかな赤に見えた。――あまりにも人が多い。こんなんじゃ、とてもお参りできやしない。
――気が付くと周囲を人に囲まれていた。
両親に手を引かれる子供
大学生っぽいグループ
仲睦まじ気なカップル
人。人。人。あははははは。うふふふふふ。きゃきゃきゃ。と笑い声。
突如として激烈な不安が襲い掛かってきた。周囲に人がいるから、俺は孤独だ。人と関わらなければ――生きていけない。社会復帰は遂になしえない。
頭に靄がかかって身体が動かなくなる。瞳だけがギョロギョロと動くのが分かった。
俺は死ぬしかないのか?
「逃げよう」
俺を取り囲む死の雰囲気から逃げなければならない。そう思ってからか、はたまた思う前からか俺は走り出していた。
家だ。
俺の家だ。
防空壕だ。
不安の爆撃から身を守るんだ。
滑り込むように家に入って布団をかぶる。暗い視界の中で鼓動がやけに大きく聞こえた。その音は不思議と俺を安心させて気が付くと眠りの中に落ちていた。
†
――いつの間にかソファに座っていた。目の前には大きな窓があって、小さな町と海が見える。後ろにはエレベーターの扉があってその隣にはテレビカードの販売機がある。左右を見渡せば白い廊下が左右に伸びていて、その両脇には等間隔に扉が並んでいる。
病院だ。かつて長い時間を過ごしたあの病院だ。
窓に映る俺の姿はなぜか子供に戻っていて、だからこれが夢だと分かった。もう古い記憶のはずなのに完璧に再現された光景だった。なのにそこには誰も居なかった。
なぜ今になってこんな夢を?
エレベーターの方を見ると、そこには3と書かれている。
――3階。一般病棟。つまり、“あの子”が入院している階だ。
考えるまでもなく足が動いていた。誰も居ないこの病院でも、あの子はいるはずだと何故か無邪気に信じることができた。
迷いなく足を進める。
――この扉。
何を言おう?
何を話そう?
何して遊ぼう?
自然と胸を高めながら扉を開いた。
「・・・いない」
清潔な白いベッドと、小さなテレビ。風になびくカーテンがあるだけだった。
期待が高まっていた分、落下した衝撃の痛さに喉の奥がキュッとしまった。
――『あの子は5階に行ったんだ』
不意に父さんの言葉が頭をよぎった。そうだあの子は5階に居るんだった。
――5階。子供だけじゃ行ってはいけない場所。
「誰も居なさそうだし大丈夫か」
エレベーターに乗って、ついに押すことができなかった5のボタンを押した。
上昇する感覚がやけに強く感じる。しかし、その感覚もやがて無くなり、扉は開き始めた。――またあの子に会える。開く扉が遅く感じる。開ききると、そこには――何もなかった。
ただ暗い廊下だけが伸びている。少し背中が冷たくなって、同時にこれは夢だということを思い出す。
「知らない光景は再現されないわけね」
子どもの俺と大人の俺が同時に居た。
引き返そう。そうすることによって夢から覚めるとなぜか、分かる。
――いや、何か見える。廊下の奥に一つだけ扉がある。あそこに行かなければならない。突如として湧いた強迫めいた観念に突き動かされて、そこを目指した。
カツカツと足音だけがやけに響き、その音が無人を強調している。長いような短いような距離を歩くと扉の前に着いた。
この先には何があるのか。
怖さで高まった鼓動を、好奇心がギュッとつかんで落ち着かせる。その間隙を突いて一気に扉を開いた。
――闇。
黒よりも黒い闇があった。背筋が粟立って、目を閉じる。閉じた暗闇の中で不安が襲い掛かってきた。難しい説明を必要としない、根源的な闇への恐怖だった。
不安だったから、不安だからこそ、あの日ついにできなかった願い事をすることができた。
胸に手を当てて呟く。神話に祈るように念じる。
「ユリカに会えますように」
不安の中で真っ先に浮かんだ顔はユリカだった。
ユリカに助けて欲しかった。俺を闇の中から救い上げて欲しかった。
思えば・・・願いを口にすることはこれが初めてだった。
夢の中だから、この願いは叶うかもしれない。極小の期待を込めて目を開く。
――願いは空へと届いたとでもいうのだろうか? さっきまでは見えなかった何かが、闇の奥に見えた。
淡く光る何かがある。いや誰かが居た。
「あっ」
あの子だ。金色の髪をした、少し不思議な雰囲気な・・・。
「ユリカちゃん!」
子どもの俺が叫ぶ。あの頃、数え切れない程口にした名前。口の動かし方は、身体が覚えていた。
「・・・」
しかし声は届かない。何度呼んでも振り返らない。もどかしさで涙が出そうになる。
いつの間にか、あの子の隣にユリカが居た。
「ユリカ!?」
今度は大人の俺が叫ぶ。やはり声は届かない。
――観客だ。いつだって俺は観客で、登場人物になることはなかった。
場面は変わり、だだっ広い映画館の座席に座る俺がいる。
画面の中では二人が向き合っていた。
「あれは・・・」
あの子の手の中に黒い箱が見える。二人の手と手が近づくとユリカの手に箱が渡った。
この光景は何を意味している? 足りない頭を回してみる。
その時、二人の首がこちらに向かって動いた。
『鍵を取りに来て。わたしに会いに来て』
その刹那、目の前に光が現れた。
「――あぁ・・・あの時と同じ白だ」
その光は俺を現実世界に返した。時計をみると、その針は6時を指している。朝か夜か分からない。
布団に転がったまま、夢の光景を思う。夢の中で俺は確かにユリカに会った。会ってしまったから俺を掴んで離さない感情が生まれた。
――ユリカに会いたい。
そして、目覚める瞬間に聞いた言葉がまだ頭の中で反響している。
どちらが言ったのかは分からない。けれども、湧きたつ気持ちは手に取るように分かった。
会いたいじゃない。会いに行くんだ。




