第19話 波間に見る等式
わずか二両しかないローカル線を降りると、潮の匂いをはらんだ風が頬を通り過ぎた。習慣が身体に染みついていたのか、昔そうしたように駅舎を出て海辺を目指す。
「で、行きたいところって?」
分かっているのに敢えて問うようにユリカが促した。
「ちょっと海でも見に行こうか」
「海? ナオトくん、海に行きたかったの?」
「まぁそんなところかな、いい町だろ?」
やけに広い用水路からも海の匂いが漂ってくる。横目に見える船着き場では漁船が穏やかに揺れていた。
少年時代以来、久しぶりに訪れたこの町には、父さんの実家がある。
波間の煌めきに父さんと並んで歩く小さい俺が映った。
ちょっとごめんとユリカに断ってからスマホを手に取る。
『――もしもし、突然お電話してすいません。俺です。ナオトです。―――えぇ急で申し訳ございません。ありがとうございます。』
我がことながら段取りの悪さを痛感しつつスマホをポケットに戻す。
「誰と電話?」
「俺の叔母さん、家の鍵、返さなくちゃだし」
今日の目的の一つは家の鍵を叔母さんに返すという極めて現実に根差した目的だった。直接じゃなくても返す方法はいくらかあったけれど、なんとなく直接渡すべきだと感じていた。
約束の時間まではまだ少しある。俺たちはそのまま海を目指した。
「わぁ・・・青いね」
駅から二十分ほど歩くと海についた。対岸に山が見える、狭い海だった。
子どもの頃には長く感じられた道のりも、今となっては短い。
海辺の神社には、祭りでもないのに露店が並んでいた。
「腹減らないか? ニートの俺が奢って進ぜよう」
「あら、無理しちゃって。遠慮しないわよ?」
煙に混じる香ばしい匂いに空腹を刺激されたのは、ユリカも同じらしい。
「ナオトくん! これ食べたい!」
――ベビーカステラ。いいだろう。
「ナオトくん! これ食べたい!」
――イカ焼き。いいだろう。
「ナオトくん! これ食べたい!」
――焼きそば。いいだろう。
「ナオトくん! 持ちきれない!」
「アホか」
器用にイカ焼きを指に挟みながらベビーカステラの袋を指につまんで嬉しそうにニマニマしている。
防波堤の上に座って戦利品を並べると小さな祭囃子が出来上がった。自分の分のお好み焼きを頬張りながら海を見つめる。
ひたすら凪いだ海だった。
「ナオトくんも食べる?」
「ありがとう」
このベビーカステラの甘さのような日々が続くことを、ひそかに祈ってみる。
だが、尻の下で押しつぶされた薄い財布が、そんな願いは許されないと静かにたしなめてきた。
貯金はいよいよ尽きようとしている。
波の光や海に見る昔の思い出、そして今、ユリカと作っているこの記憶は俺の背中を押すはずだった。
俺が働くこととユリカが隣に居ることは両立するのだろうか?
――『社会復帰の時間よ!』
現れて早々宣言したユリカの姿が頭をよぎる。その目的が達成された時、ユリカはどうなる?
いや、ユリカの行動原理の根底にあるのは記憶の回復だ。そう自分に言い聞かせる。
記憶が戻らなければ、その本当の目的を思い出さないかぎり、ユリカは俺の隣に居続けるだろう。
自分勝手な納得を潮の匂いと一緒に飲み込んでユリカの方を見た。
「楽しいな」
「楽しいね」
満腹感でボーっとしながら、時計を見ると叔母との約束の時間が近づいていた。
「うぅ食べ過ぎた」
「後先考えずに買うからだ」
「だって美味しそうだったんだもん」
分かる。
「そろそろ叔母さんのところへ行ってくる。悪いけど、ここで待っててもらっていいか?」
なんとなくユリカと行くのが気恥ずかしくて、後ろ髪を引かれながらも、一人残していくことにした。
「分かった。どれくらいかかる?」
「そんなかからないよ。あ、そこの神社面白いものが見れるから見てみるといい」
「本当? それは楽しみねぇ」
「多分期待よりは面白いと思うぞ。それじゃ」
「うん。ありがとう」
ユリカに手を振り返してから、叔母の家に向かった。
†
そこは、昔何度も訪れた祖父母の家でもあった。
海からほど近い場所にあるその家には、祖父母が亡くなってから叔母が一人で住んでいる。
意外なほど鮮明に残っていた記憶に導かれ、懐かしい道を歩く。照りつける日差しが、夏の近づいていることをひそかに告げていた。
懐かしい道のりは自然と子供の頃を思い出させた。
それは幼稚園に入った直後の幼い記憶だった。
当時の俺は、ぐちゃぐちゃと形の定まらない、今の語彙で言えば後悔に近い感情を抱えていた。
幼稚園に入り、初めて同じ年くらいの子供たちに囲まれた俺は誰にも話しかけることができなかったのだ。
周囲の子供たちは、まるで遺伝子にプログラミングされていたみたいに早くも仲間を作り、“みんな”で遊んでいる。
――その“みんな”の中に入りたかった。けれども身体が石みたいになって動くことも、話しかけることさえもできなかった。
あえて言語化するならば、俺はどこか自分をどこか気持ち悪い人間だと思っている。なぜかは分からない。当時――幼い頃から漠然と抱いている感情だった。
自分の気持ち悪さを見抜かれるかもしれない。
被害妄想だと言えばそれまでだけれど、その懸念は俺を内向させた。小さい自分はその感覚を「怖がられるかもしれない」と呼んだ。
本当に気持ち悪い可能性はさておいて、その被害妄想によって、人間関係の作り方を学びそびれた俺は、いつしか孤独を運命だと結論付けていた。
俺を気持ち悪がらないと思うことができたのは、両親と、そして――あの子だけだ。今はそこにユリカを加えることができる。
なぜユリカには妄想じみた懸念を抱かないのだろうか?
――答えは簡単だ。あの子の面影があるからだ。
面影だけじゃない、なんとなくユリカから感じる雰囲気や身振りの一つ一つが記憶の中のあの子と重なっている。
それを無意識に感じ取ったからこそ、初めてユリカを見たときにも身構えることがなかったのだ。
懸念を抱かないことこそが俺の中でユリカとあの子を等号で結んでいる・・・と懐かしい道のりに昔を見ながら結論付けた。
Q.E.D――証明完了である。
ユリカにあの子のことを話せば記憶は戻るかもしれない。戻らなくても何らかの手がかりにはなるだろうと確信しながら、それをできないでいるのが現在進行形の俺だった。
ノスタルジーから現実へ引き戻され、どこかばつの悪さを覚えているうちに、叔母の家へたどり着いた。




