第18話 俺の中のパラダイムシフト
――無音が聞こえた。
ただがらんとした家。
家具なんかの物は全部片づけられて空間そのものがあるだけだった。
「あぁ・・・」
空っぽが目の前にある。
「ない」
思い出も、想起されるべき感情も、すべて無かった。固まった時間を砕くように、ただ闇雲に歩き回る。
――リビング。和室。台所。寝室。書斎。子供部屋。
部屋を覗き込んでは何もない現実を突きつけられた。
――違う。“何も”じゃない。父さんと母さんだ。
今日の遥か前から、頭の中では二人がとっくにいなくなったことを理解しながら、それでもなお夢を見ていた。
――考えなければ、父さんと母さんが生きている夢を見続けることができた。
しかし、足音だけがやけに響く家の冷たさは俺を夢の中から現実へと引き戻す。
おかえりの声が聞こえなかった時点で、夢は夢でしかないことを、氷の刃みたいに突きつけられていたんだ。喪失感で目が眩む。沈みそうになった感情を引き上げたのは、やはりユリカだった。
「あったかい家だね。ナオトくん」
「え?」
ユリカの感想は俺のそれとは全く逆のものだった。
「なぜだか分からないけど、けれども分かるの。きっと愛されていたんだって・・・分かる。それにね、見てナオトくん」
ユリカが指さす方に目をやる。
――この家の疵痕だった。
家の中でふざけて蹴ったボールで落ちた時計が付けた跡だと思い出す。
――「大丈夫怪我してない?」叱るよりも先に抱きしめる母さんの顔が浮かんだ。
こっちにもある。台所の壁だ。父さんの誕生日に用意したケーキのろうそくが付けた焦げ跡がある。
リビングの床を見る。この疵は父さんとペットボトルロケットを作った時に付けたものだ。
何もないと思い込んだ。それでも目を凝らせば無数の思い出があった。目を開ければやっぱり何もなくて、だから理解した。
――理解して刻み込んだ。
――父さんと母さんはもう、いないんだ。
ユリカがいればわずかなプライドが涙をせき止めるはずだった。けれども・・・恥も外聞もなく涙があふれて止まらなかった。初めて流す涙だった。
†
「買ってきたぞ」
予想通り降り出した雨の中、ユリカを連れ出すわけにもいかず一人で駅前のコンビニまでとんぼ返りした。――フルーツサンドにおやつのプリン。甘いものばっかりだ。
「ありがとうナオトくん」
「暗くなる前に食べちまおう」
電気も通ってない家に夜が迫っていた。スマホのライトだけじゃ少し頼りない。
少し早い晩飯を食べながら話すでもなくユリカとぽつりぽつりと言葉を交わした。
「ナオトくんのお父さんとお母さんって・・・」
「明日話すよ。必ず」
「そう・・・」
話題を変えたくて無理やりな言葉を繋ぐ。
「美味いか?」
「美味しいよ」
フルーツサンドを頬張るユリカを横目に思う。
例の箱に関係なくユリカの記憶を戻すかもしれない方法を。
――それは話すことだった。
ユリカの言葉や身振りの一つ一つがあの子とのリンクを示している。それを全部洗いざらい話してしまえば戻るかもしれない。欺瞞めいた確信があった。
でも、記憶が戻るとどうなる?
卑怯な躊躇いがあった。せっかく見つかったかもしれないザイルパートナーを手放したくなかった。
「ナオトくんって友達は・・・」
「嫌味か? 愚問だ」
「難しい言葉分かんないや」
いたずらっぽく笑うユリカ。
「・・・ユリカが友達じゃ・・・ダメか?」
「なにそれ」
今度は少し寂し気に微笑んだ。愚問を投げたのは俺の方だったのかもしれない。
「・・・昔、一人だけ友達がいた」
自然と、意識するでもなく出た言葉だった。強まった雨が窓を叩く。
はっきりと話すこともできず、ただ言わないこともできず中途半端に言葉を続ける。本当は黙りたかった。
「父さんが働いてる病院に入院してる女の子がいて・・・その子とよく遊んでた。多分、仲良しだったと思う」
嫉妬とも憧憬ともつかない顔をするユリカ。その心の根を読むことはできない。
「そうなんだ」
それっきり俺たちは黙って晩飯を食べた。
†
夜は暗い。電気のありがたみを痛感しながら眠るでもなく、わずかな柔らかさを求めて和室に転がった。雨音を聞きながら、隣のユリカに声をかける。
「寒くないか?」
「大丈夫だよ。ありがと」
最近気づいたことだが、まるで一定の温度の中に居るみたいにユリカは温度に無頓着だ。そんなズレが俺とユリカを隔てているようで焦燥を喚起した。
――俺とユリカは別の理の中で生きているんじゃないか。
そう感じるたび胸の奥がざわついた。
「ねぇナオトくん。さっき言ってた女の子ってどんな子だった?」
いくらでも答える言葉を持っていた。けれども吐き出せる答えはなかった。
――ユリカは俺の記憶に自分の記憶の在り処を見ようとしている。罪悪感で目を開きながら眠るふりをした。
†
昨日の雨が嘘みたいに空は晴れていた。窓から差し込む陽の光に顔をしかめながら固まった身体を右へ左へとひねる。ユリカはまだ眠っていた。起こさないように静かに足を運ばせ昨日見た疵痕に向かう。何をするでもなく痕跡を指でなぞった。
「おはようナオトくん」
「あっおはよう」
朝陽に照らされる金髪がやけに眩しく感じた。昨日とは打って変わった気持ちでユリカに問いかける。
「・・・今日、付いてきてほしい場所があるんだ」
「分かった。いいよナオトくん」
それだけ言うとユリカは窓辺に座り込んだ。空を見るユリカは寂し気で星に祈る少女を見ているようだった。
最後に家の中を見て回る。目の奥に焼き付く家の一つ一つが、それまでの世界を作りかえていくような気がした。「さようなら」とセンチメンタルに呟いてみる。
「行こうか。ユリカ」
「うん」
玄関の扉を開けると、光が降り注いだ。
――「行ってらっしゃい」
一陣の風が、前髪をかき上げる。
ただの風切りか、それとも祈りか、その答えが分かる前に風は後ろへと遠ざかって行った。




