第17話 地元
匂いがした。湿った土と澄んだ空気が混じった地元の匂いだった。嗅覚で冴えた目に映るユリカはなぜだか少し、寂しい感じがした。それでもユリカはふっと鼻を鳴らして駅のホームを駆けだした。
「ここがナオトくんの故郷なのね!」
「こら、ホームで走っちゃいけません」
「ちぇー」
重い空気をはねのける様にやけに明るく振舞っているように見えた。
しかし、それでもなお曇り空の地元だった。駅前にできたタピオカ屋には、地元にしては珍しく人が並んでいる。東京ではとうに過ぎたムーブメントが今更、流行を見せる様子が少し空しく映った。
言葉を選ばずに言うなら結構田舎。それが俺の地元だった。
タピオカ屋以外はシャッターが並ぶ駅前に一休みできそうな場所はなくて、否が応でも実家に足を進めるほかなかった。
駅前を抜けると、周囲がさらに閑散とした。何にも遮られない景色の奥に山が見える。この山に囲まれた町で俺は生まれ、そして育った。
公園に隣接する幼稚園の中で、小さな子供たちが黄色い声をあげながら遊びまわっている。
――その中に俺がいた。一緒になりたくて、でもついに声をかけられなかった俺が。
狭い町の狭いコミュニティと、東京よりもずっと高い空の空虚さが、俺の孤独を作ったのかもしれなかった。
しかし孤独であっても孤独感は無かった。命綱があるからクライマーは無茶な登攀に自信を見ることができる。
崖の途中で命綱がないことに気付いたら?
さっきまでの勢いはどうなる?
教えてくれ。簡単だろ?
「こっちだ、ユリカ。もうすぐ着く」
河川敷の道を迷うはずなく進む。道の中に、買ってもらったお菓子を握りながら母さんと歩く俺がいる。河川敷の原っぱに、父さんと自転車の練習をしながら何度も転ぶ俺がいる。一歩進むごとに、頭の中の実家の姿が俺を飲み込むみたいに巨きくなっていった。
しかしそれは、あっけなく目の前に現れた。紛れもなく父さんと母さんと、そして俺が生きた家だった。
引き返すでも、進むでもなく、とっくに忘れた頃に探し物を見つけた時のような、空の感動を胸にしてただ呆然と立ち尽くした。
「これがナオトくんの家?」
ユリカの声がやけに響いて、一時停止した風景がまた動き始める。
「あ、あぁ正確には元・俺の家だな」
「そっか、もう売られちゃうんだもんね。なんかごめん」
書類の上では、もうとっくに俺の家ではなくても、それでも確かに俺の家だった。
収入の多くを医学の発展に捧げていた父さんの遺志を汲んで、家の売却で得られる金は父さんと母さんが勤めていた病院に寄付されることになっている。そのことに異論を唱える権利はない。だからせめて、この家が残す最後の残滓を俺は回収しに来たのだった。
ポストを覗くと叔母さんの手筈通りに鍵がある。それを手に取り扉の前に立つと、また立ち止まった。
遠くで学校のチャイムが響いている。
――休憩時間が終わったみたいだ。
音が頭の中で反響して鳴りやまず、リフレインの中で音が変質していく。・・・海馬の奥に閉じ込めて、鍵をかけていた音だ。
――等間隔で静かに響くそれは、心電図の音だった。
初めて見る鮮明な光景だ。死の匂いから守るみたいに青いローブに包まれた俺がいる。
今はまだ、同じ世界に居る父さんと母さんがメカニカルなゆりかごの中で二人仲良く心電図の輪唱を奏でている。やがて、母さんの歌が終わると、つられるみたいに父さんも歌い終わった。
覗き見た俺の顔には、何も、無かった。
記憶の澱から引きずり上げるがごとく、誰に言うでもなく、そっとユリカが口を開いた。
「向き合える過去があるって羨ましいな」
優しい羨望だった。ユリカと違って今、俺の目の前には対峙すべき過去がある。躊躇う余地そのものが贅沢に思えた。
「おまえの過去も見つかると良いな」
「見つけてみせてよ。ナオトくん。・・・行こ?」
その行先も分からないまま、ユリカの顔を見る。
痺れを切らした過去がユリカの顔をあの子のように見せているのだろうか?
同じく過去たるその面影の機嫌を取るみたいに、鍵をドアノブに挿し込んだ。
音もなく扉は開いた。玄関の奥、居間に足を向ける。無菌室の前室みたいなこの空間を抜ければいよいよ過去と向き合うことになる。
口角を無理にあげて強がってから、きっと新しい生存戦略が必要になるであろう世界に向けて踏み出した。




